第一部 ロマノフ家の大貴族フルシチョフ P4-151(tw)
P2 1.1 復活する旧ロマノフ王朝の貴族集団 P3-6ロマノフ家、それは本書の表紙に飾った“双頭の鷲”を一家の紋章として、三百年の栄華を誇る帝政ロシアの王朝であった。ロシア二月革命によって最後の皇帝ニコライ二世が退位したのち、十月革命によって皇帝一族は処刑され、ロマノフ家が断絶、ここに三百年王朝は完全に滅亡した。
しかし一九九一年末にソ連が崩壊したあと、揺れ動く新生ロシアに台頭してきたのは、ドイツなどヨーロッパ全土の極右主義に呼応するするかのように、帝政ロシア時代の王制を復活しようと画策する、大きな集団の動きであった。忘れられていた一族が、長いあいだに大きな力を蓄え、生き残っていたのだ。
ロマノフ家が旗印にかかげる“双頭の鷲”は、一方の頭が右を向き、一方の頭が左を向いていた。この空の王者はロシア全土を飛翔して、右でも左でも睥睨する---すなわち帝政でも共産主義でも、すなわち西側でも東側でも---わが王朝にありと言うがごとき容貌を備えていた。
何という高慢不遜な双頭の鷲だろう。ところが彼らこそが、別名「モスクワ・マフィア」と呼ばれる金融グループの正体だったのである。
その主人公となるのは、かつてロシアを支配した華麗なロマノフ王朝の生き残りファミリーだったであった。王朝がロシアに復活するとは、誰も考えていないし、ロシア人の大半もそれを望んでいない。しかし彼らロマノフ王朝の生き残りについて、その一族がどのように生き続けてきたかをくわしく記した書物はほとんどない。
したがって全世界に散った王朝ファミリーの実力が現在どれほど強大であるかを知ることは、現代人にとってほとんど不可能に近い。
そして目の前に、次のような事実がある。
多くの人にとってアメリカのヤイター通商代表は、忘れられない名前だろう。一九八〇年代の経済問題を動かしたこの男は、全世界の貿易を支配すると言われるシカゴ商業取引所(通称メルク)の会頭という経歴を持ち、その交流関係から政界にのしあがったてきたが、八五年からヤイターに代わってその後任ポスト
P4 についた人物の名前は、ロシア人を連想させるプロドスキーであった…。
それだけではない。ブッシュ政権の商務長官デニス・クロスキー……日米摩擦の感情論者はアメリカの議員ダン・ロステンコウスキー……南米の鉱山王ボリス・セルギエフスキー……このようにロシア以外の土地で大きな支配力を持った“ミスター・ロシアスキー”は、枚挙にいとまがないほど全世界に数えられる。彼らが、ソ連崩壊後に、先祖の郷里ロシアにぞくぞくと帰りはじめたのである。
本書では、このように見えないロシア系移民集団を地球の全土に探り当て、その脅威を認識するところから、ロシアだけでなく地球の近未来を探るという新しい試みに挑戦してみたい。ロシアは今もって世界最大の資源国である。
数字で示すと、一九九一年に崩壊したソ連の年間の原油生産量は約四十五億バレル、天然ガスの埋蔵量は約四十兆立方メートル、いずれも世界一であった。石炭生産量は中国とアメリカに次ぐ世界第三位の五億トン、これらの大部分が、ロシアに存在する。
ダイヤモンドの推定埋蔵量は、日本列島の目と鼻の先、極東ロシアのサハ共和国(旧ヤクート自治共和国)だけで一億二千万カラットと言われ、この地方だけで世界第二位である。いったい、どれだけの地下資源がロシアに眠っているのか、誰にも分からない。
ロシアは百五十年前のアメリカを想像させる状況になってきた。この大陸を支配する者が地球を制することを、アメリカとヨーロッパの財閥が見抜いているからだ。
その昔、大英帝国のイギリス人がアメリカの成金を「泥棒貴族」と呼んで馬鹿にしているうちに、南北戦争の大混乱のあと、戦場の血しぶきと大油田と金鉱のなかから、ロックフェラー財閥やモルガン財閥が飛び出してくると、あっというまにアメリカ人が地球の金融と工業をすっかり呑み込んでしまったのだ。あの当時と、現在は、まるで時代が違う。
いや、どこが違うのだろうか。現在の地球を見て、「人類は進歩した」と断言できる人間は、悲しいことながらどこにもいない。一九九二年十一月三日に、アメリカで大統領選挙がおこなわれ、若き四十代のビル・クリントンが大勝利を収めた。
その月の終わり、三十日にハリウッドのプロデューサーとして活躍する
P5ハリー・トマソン夫妻が、クリントン夫妻を西部に招いて、豪華なパーティーで歓待した。ディアオンヌ・ワーウィックがメドレーで歌を披露し、次期大統領を招待客が次々と祝福したその宴席に、映画スターのロバート・ワグナーと“007ボンド・ガール”のジル・セント⁼ジョンの姿が見え、そのふたりがとりわけ多くの人の目を惹きつけた。
このロバート・ワグナーとジル・セント=ジョンこそ、ほかならぬ帝政時代の「ロマノフ一族」の取り巻きであった。クリントンは、彼らに祝福されたのである。
このようなロマノフ家のエピソードは、一瞬耳を疑う話だが、ロバート・ワグナーは鉄鋼業者の息子として生まれ、女優のナタリー・ウッドと結婚した。『ウェスト・サイド物語』に主演した彼女は、本書が追跡しようとしているロシア移民の娘ナターシャ・グルディアンだったことに気づく。
ジル・セント=ジョンもまた、これは芸名で、本名をオッペンハイムといい、世界最大の財閥ファミリーの一員として、次々と大実業家や億万長者と結婚を重ね、キッシンジャー国務長官のパーティー同伴者として浮名を流したことでゴシップ界に広く知られてきた。
一九七三年当時、その女優とキッシンジャーの両人が出席したパーティーで主賓となったのは、ほかならぬソ連のブレジネフ書記長とニクソン大統領で、この時代から、米ソの新しい雪どけ“デタント”が出発した。
『ライフルマン』の俳優チャック・コナーズが、えいっとばかりに、ソ連の指導者ブレジネフの巨体を空中高く持ちあげて満場をわかせたのは、このパーティーでの出来事だった。ここにもロシアの影が見える。
それから二十年後の現在も、ジル・セント=ジョンことオッペンハイムという女性が、アメリカとロシアの両首脳の背後で立ち回ってきたのだろうか。
ベトナム反戦運動のなかから誕生したはずのクリントン大統領だが、その旧友デレク・シェアラーが、わが国に国連のPKO派兵を強化するよう圧力をかけてきた。二億五千万のアメリカ人を養わなければならない政治家クリントンには、いくつもの顔があった。
一方では人口が一億五千万人に減り、身軽になって出発した新生ロシアだが、一九九二年にエリツィン大統領の来日が延期される事件が起こった。日本の
P6 政治家は、アメリカとロシアの動きに右往左往するばかりだ。
ヨーロッパに目を転ずると、東ヨーロッパからの難民流入が、危険なネオナチズムを刺激しはじめた。その震源地の新生統一ドイツが、他方では新生ロシアの経済を握っていることも、火を見るより明らかだ。
ロシアの巨額の借金(債務)が、このドイツ銀行の帳簿に記載されてきたからである。目をこらしてよく見ると、地球という惑星の生物がどこへ進んでゆこうとしているのか、その誰もが知りたい謎に対して、ひとつの暗示がここにある。
人類の命運を分ける大きな鍵を握っているのが、不可解なロシア人---とてつもなく巨大な財宝をかかえたロシア人である…
これから、体験したことのない推理の道を、モスクワからペテルブルク、ウクライナからシベリアまで踏破してみよう。ロシア大陸の内部に、世界最大の資源が眠り、これまで目にしたこともないロマノフ家の黄金が燦然と輝き、不思議な魔力で心をつかむ妖しい光を投げかけているのを、はっきりと認めることができる。
実は、エリツィン大統領の後見人として、全世界のビジネス・リーダーに触手をのばす旧ロマノフ王朝の大財閥集団が、ソ連崩壊とともに、大挙してモスクワに姿を現しはじめたのである。
“寒い国”に何かが起こりはじめたのである。ペレストロイカの流れは、ロマノフ帝政期か、ロシア革命前のケレンスキー内閣の混乱期に似ているという。ある人は、一九六○年代に雪解けをもたらしたフルシチョフ時代に戻っているとも言う。
本書では、ロシアに復活する大財閥の正体を解き明かすため、まず最初に、読者に意外な世界を見ていただくことにする。それが「第一部」のソ連時代のクレムリン歴代指導者の正体である。
彼らが貴族と持っていた関係を知らなければ、「第二部」で明かすロマノフ家の支配力が分からないからである。そして「第三部」で、現代へと大きく踏み込んでゆきたい。ロシアの深い真相を見きわめるため、まず、問題の人物に光を当ててみよう。
P8 1.2 "ロマノフ家の使者"フルシチョフ P8-11
ブレジネフによって失脚されたフルシチョフはとは、何ものであったのか。
ベルリンの壁を東ドイツに築かせた男、ニキタ・フルシチョフ。そのフルシチョフの驚愕すべき史実とは、次のようなものであった。
キューバ危機でドラマを演出した男、ニキタ・フルシチョフ。
ペプシ・コーラを宣伝した男、ニキタ・フルシチョフ。
一九九一年、『父フルシチョフ 解任と死』が息子セルゲイ・フルシチョフによって、また『フルシチョフ 封印されていた証言』が本人の回想をもとに緻密に編集され、わが国でも邦訳が相次いで出版された(いずれも福島正光訳、草思社)。
フルシチョフ台頭期の一九五八年には、『フルシチョフ』(ヴィクトル・アレクサンドロフ著、杉山市平訳、平凡社)などがあり、無数の関連書が出版された。これらの書物には、どこにもロマノフ家の存在が記されていない。
しかし一九六三年にパリで発行された一冊の書物には、“フルシチョフとロマノフ王朝の関係”が正確に記されていたのである。
そして翌六四年十月に開かれたソ連共産党中央委員会幹部会議において、フルシチョフは突然解任され、ブレジネフに取って代られた。その書物とは、筆者が入手した限り全巻で五十冊を超える大部のシリーズものであり、ロシア貴族の系譜が記されていた。
タイプで打ったあとガリ版刷りというきわめて珍しい書物だが、表紙には、ロシア貴族連合系譜協会会長ニコライ・イコニコフ編『ロシア貴族』(La Noblesse de Russie)とフランス語で表記されている。
その四十一冊目に、フルシチョフの信じがたい系譜が記されていたのである。しかもその内容は、本を手に取るまで予想しなかったことだが、ロシア人が人間を番号で分類し、世界一緻密な記録法を使って親子関係を示すなど、どこの国の貴族の系譜書よりもわかりやすものであった。
P10 “労働者フルシチョフ”が“ロシア貴族”であったという事実をにわかに信ずることは、当初の筆者がそうであったように、ほとんどの人にとっても想像できないこことだろう。ところがこれは隠されていたために知られなかったことだけの、動かしがたい事実であることがしだいに判明してきた。
KGBなど共産党幹部は、クレムリンの金庫にこの系譜書をそろえ、人間を料理するときの手引き書きとして使ったあと、金庫には厳重に封印をほどこしてきたに違いない。この事実がモスクワ市内に漏れ出せば、大変な騒動になったはずだ。いわく言いがたいその事実を認めるところから、ソ連の歴史を新しく書き直し、現代ロシアの行方を占ってみよう。
フルシチョフが何者であったかを突き止めれば、一九九〇年代にロシア大財閥の復活がどのように進行しているかを、具体的に知ることができるのである。というのは、共産主義(マルクス主義)とソ連の主な歴代指導者は、図1に示されるように、マルクス⇒レーニン⇒スターリン⇒フルシチョフ⇒ブレジネフ⇒ゴルバチョフ⇒(エリツィン)へと、世代を交代してきた。
このうち、レーニン⇒フルシチョフ⇒ゴルバチョフの三人、つまりひとりおきに登場した指導者が、西側への窓を開いてソ連の共産主義社会に新風を吹きこんだ。レーニンは新経済政策“ネップ”を打ち出し、フルシチョフは“アメリカ訪問”をおこない、ゴルバチョフは“改革・開放のペレストロイカ・グラスノスチ”を進めたのである。
私たちは、ゴルバチョフ時代については目の前のことなので何が起こったかをよく知っているが、レーニンとフルシチョフの時代については、もはや歴史的遺物のような感じを受けてしまう。
しかも最も興味深いのは、あの太った体を揺すりぶりながら六時間でも演説をし続けるかと思えば、訪米してニクソン副大統領を皮肉たっぷりにやっつけ、ケネディー大統領とホットラインを結んだ「フルシチ」ことニキタ・フルシチョフである。
フルシチョフは、独裁者スターリンが死んだあと、そのソ連の偶像であったスターリンを痛烈に批判して、
P11世界じゅうを飛び回った。政商アーマンド・ハマーと肉牛の取引きをするかと思えば、エジプトのナセル首相にアスワンハイ・ダムの建設で強力な援助の手を差しのべた。
ところがフルシチョフには、そうした行動を取るだけの理由があり、その理由が、最後の章で読者を『ロマノフ家の黄金』の洞窟へ導いてくれるはずである。
フルシチョフの家系図は、のちに71ページと75ページ(74/76/78)に証拠を示すので、できればその系図にたどりつくまで多少の辛抱をしていただきたい(どうしても見たい方は、今ご覧になっても結構だが、それは映画を途中から観るような結果になると思われる)。
フルシチョフの説明をする前に、本書では、ロシア・ソ連通の人であればよく知っている歴史を少し語らなければならないからである。そのような歴史は、どうしても教科書的な記述になりやすい。
ここで敢えてその歴史に触れるのは、これから全編を通じてその教科書的に記述された歴史がひっくり返ってゆくからである。ものごとの経過として、この部分だけは、飛び越えることができない。
しかしそのところどころに、フルシチョフの太った体が現れる。それが、共産党第一書記の仮面をかぶった“ロマノフ家の使者”であったと想像して、読者の豊かな空想力をもって脳裏に描きながら、読み進めていただきたい。
まずその歴史の第一歩は、しかしながらほとんどの読者があまりご存知ない、重要人物からはじめよう。その男は、図1にカガノヴィッチという名で示されている。彼は、独裁者スターリンの義兄として、スターリン以上に粛清の責任を問われるべき人物であった。
1.3 子孫が出版したおそろしい書物 P11-18
時期で言えばチェルノブイリ原子炉が爆発した事故の翌年にあたるが、グラスノスチが激しく展開しはじめた一九八七年、アメリカで一冊のおそろしい書物『クレムリンの狼』(“The Wolf of the Kremlin”---by Stuart Kahan. William Morrow & Co.---未邦訳)が出版された。
大量の人間を殺した独裁者
P12図1/ 14/ 16系図1/ 18/
1.4 「クレムリンの狼」カガノヴィッチ P19-27
P20/ 22/ 24/
P26 一九一九年から二〇年にかけて、ロシア人同士の殺し合いのなかで命を絶った人間の数は、信じがたいことだが、九百万人に達するという。それは戦争そのもの以上に、ロシアの寒さと、飢餓と疾病による被害が大きい犠牲であった。が、その原因が内戦にあったことは、現代ソマリアなど第三世界の飢餓と同じである(tw)。
P27 しかしこの白軍と赤軍の内戦が、やがて第二次世界大戦でヒットラーのロシア侵攻"バルバロッサ作戦"の導火線となることを、一体誰が予測しただろう。実に、この敗退してベルギーに亡命した白軍のウランゲリ将軍の子供たちが、ドイツの上流社会と深く姻戚関係をとり結び、ひそかにナチスの資金源として動きはじめたのである。
この物語は、のちに詳細な系図を示して、敗退したはずのロマノフ家の反撃が、クレムリン内部の"トロイの木馬"として火を噴く歴史を明らかにしよう。ヒットラーひとりがドイツを動かしたかのような歴史観は誤りである(tw、関連)。
そうした遠いヨーロッパの事情を知る由もなく、若きカガノヴィッチとフルシチョフは、「ラーザリが必要とする時には、その傍に必ず二キタがいる」と言われるまでに深い仲となり、世界大戦による混乱という外敵を利して、共産党内でとんとん拍子の出世の道を歩んでいった。
ここに暗い秘密結社として形成されていったのが、ペレストロイカの一九九一年まで生き延びたカガノヴィッチ・サークルである。そのサークルに、ロマノフ家の手が伸びていたとすれば…
1.5 ドイツとロシアを結ぶ強靭なロープ P27-33
カガノヴィッチ・サークルには、もうひとりの重要人物がが登場してくる。
大戦が終わった一九一八年、白軍と一戦交える前のラーザリ・カガノヴィッチは、すでに全ロシア中央執行委員会のメンバーに選ばれていた。そのとき委員会で議長をつとめていたのが、後年のスターリンの外相、歴史に悪名をとどめるモロトフであった(tw)。
モロトフの妻ポリーナ・カルポフスカヤ(別名パウリナ・ジュムチュズキナまたはジェルムチュジナ・セミョーノヴナ)はユダヤ人女性で、イスラエル初の女性首相となるゴルダ・メイアの親友となる運命にあった。
ゴールディー・マボヴィッチとしてウクライナのキエフに生を受けたゴルダ・メイアは、ウクライナの支配者カガノヴィッチと無縁であるはずもなく、やがて中東のパレスチナに労働運動をもちこむと、
P28 イスラエル建国直後にモスクワ大使として赴任(帰郷)した。
そのメイア大使のまわりには、過去から続く強力なサークルの取り巻きがあったからである。
サークルの重要人物モロトフは、後年にはナチスのリッベントロップ外相と密約を結び、バルト三国の併合とポーランド侵略という大罪を犯した人物である。なぜこのサークルの動きには、絶えずドイツとユダヤ人の影がつきまとうのか。
そして今日の一九九〇年代にある統一ドイツが、新生ロシアの最大の債権国であるのは、どのような歴史によっているのか。あるひとつの答え、それは人脈である。それが本書で追跡している、一本により合わされた太いロープである。
この強靭なロープは、いまだに切れることなく、読者の目の前にある。
まだ若きカガノヴィッチ・サークルが動き出した頃、レーニンはすでに五十歳を超え、苦悩に満ちた革命後の混乱をしずめるのに躍起となっていた。のちにソ連と呼ばれるようになる新生国家は、周囲を見わたせば一面敵であふれており、一次大戦に破れたドイツを見つけると、ひそかに単独で講和条約を調印して世界を驚かせるのが精一杯であった。
世界最大級の油田地帯バクーを抱えるアゼルバイジャンでは、ボリシェヴィキの指令によって大虐殺が一九二〇年に起こったばかりでなく、続いてポーランドがその混乱に乗じてロシアに侵入してくると、ウクライナのキエフを占領する一大危機が発生した。
さらに翌ニ一年には、ロシア革命政府にとって最大の危機、クロンシュタットの反乱が内部から起こって、断崖絶壁に追いつめられたレーニンは、再び虐殺を指令しなければならない状況に追いつめられた。共産主義の熱烈な信奉者として、革命を成功させるのに大きな役割を果たしたバルト艦隊の基地クロンシュタットの水兵が立ちあがると、
それまで共産党幹部の命令で殺人をくり返す秘密警察と対決する行動に出てきたのだ。しかし彼ら真の愛国者たちは、レーニンの命令によって徹底的な懲罰と見せしめの生贄とされ、最後のひとりさえ生き残ることなく、全員が殺されたのであった。
血で血を染めた大地の上で、翌ニ二年十二月三十日に「ソヴィエト連邦が設立された」と宣言されるまで、
P29革命後の五年間には一刻も休まる時がなかった。これとよく似た状況を、一九九〇年代の世界はどこかで見ていないだろうか。
それこそ、新生ロシアである。
ボリシェヴィキによって穀物を強制的に徴収された農民は、新しい国家を信じる気になれず、労働する意欲さえ湧いてこなかった。一体どこに、レーニンは偉大であったとするこれまでのソ連国内での歴史観が育ったのかと疑わざるを得ないほど、ボリシェヴィキはロシア全土で憎しみを買っていた。
この五年間は、全土が国家として体を成していなかった。そこに、強引ではあったが、ソ連邦が共産党によって成立させられたのである。
農民と手を組むクロンシュタット水兵の反乱を見た共産党幹部は、レーニンをはじめとして、自分たちの誤りに気づいていた。
このように農民の怒りを買ったままでは、ウクライナの穀倉地帯が壊滅するという現実を目の前にして、クロンシュタットの反乱中に開かれた党大会で、政策の一大転換が打ち出された。一方の手で水兵を殺しながら、しかしもう一方の手でその水兵たちが要求していた農業制度の改善などを決議したのである。
これが歴史に名高い新経済政策"ネップ"(Novaya Ekonomicheskaya Politika---NEP)(相参1,相参2)であった(tw,tw)。
共産党の大いなる後退、それは今日のペレストロイカ・グラスノスチと同じように、ロシアに自由を与え、さまざまな文化を放任し、農民は穀物の徴発から逃れて自由販売を許される。このように説明された。
レーニンは、この"ネップ"を打ち出したとき、もはや自分たちに反対する分派の存在を禁止しなかったという。ところが実は、このネップ伝説に、大きな落とし穴がもうけられていた。
ラーザリ・カガノヴィッチが内部にあってよく知っていたように、この新政策を打ち出した時のレーニンは、すでに反対派を完全に消滅させることに成功したあとだったのである。カガノヴィッチの同志だった者は、大量に粛清されていたのだ。
生き残った者、それはどのような集団であったろう。
P30図2
P32 首都モスクワに人が戻りはじめ、東ヨーロッパの商業中心地として活気を甦らせてきた。その頃ラーザリは再びニジニ・ノヴゴロドを訪れた。
この都市は、十六世紀ロシア最大の商業センターとして栄え、後年、一九三二年には『どん底』の文豪マクシム・ゴーリキーの生誕地としてゴーリキー市と改称されて、ボルガ川に面した工業都市として急速に発展しようとしていた。
ラーザリが今やかなり権力を与えられた幹部としてこのロシアの大工業センターに赴いたのは、そこで彼の兄ミハイルとユーリーが現地を支配し、妹ローザもいたからである。
ローザの話し相手は、ナジェージタだけであった。後年、ソ連の首相となるブルガーニンの妻である。
そしてこのナジェージタが、ちょうどこの町にやって来たラーザリに、友人のマリア・マルコーワを紹介した。マリアの父母は商人だったが、ユダヤ人ではなく、ロマノフ皇帝を支持するロシア人だった。しかしラーザリ・カガノヴィッチとマリア・マルコーワは結婚することになった。
こうしてひとつずつ輪でつながれ、長い鎖ができてゆくように、サークルが形づくられていった。このサークルのパーティーに姿を現わしたのが、今度はユダヤ人でもロシア人でもない男、アルメニア人のアナスタス・ミコヤンであった。
のちにソ連の外国貿易を一手に引き受け、やがてアメリカの実業家アーマンド・ハマーにとって大きな窓口となるこの謎於アルメニア人には、その出身地にまとわりつく巨大な利権の影が絶えず寄り添っていた。
その利権とは、同郷人アルメニアの実業家グルベンキアンの発見によって、世界最大の油田となり、東西のすべての人間が目を注ぐバクーであった。バクーを中心に活動したアナスタス・ミコヤンには、十歳年下の弟アルチョムがいた。
この名は、正確に記さなければならない。アルチョム・ミコヤンである。アルチョム・ミコヤン(Mikoian)とミハイル・グレヴィッチ(Gurevichi)が設計したソ連の戦闘機こそ、この両設計者の名前を組み合わせたミグ(MIGU)だからである。
カガノヴィッチ・サークルは、このときミコヤンと出会うことによって、自然にもうひとりの男を組み込んでしまったのである。その鎖の輪がつながれた日は、バクーでの虐殺事件の時期一九一九年に遡るが、P33ミコヤンがバクーでその事件の中心人物であった時、その傍らには、べリヤという若い男が付き添っていた。
そしてこの二人は、絶えず行動を共にしながら出世階段をのぼってきた。ベリヤ---その名を耳にするだけでロシア全土がふるえあがるようになった秘密警察の長官---彼にはミコヤンによって共産党の中枢に入ることができ、ミコヤンによってカガノヴィッチ・サークルに引き合わされたのである。
以上に述べてきたサークルの仲間を、まとめて振り返ってみれば分る。モロトフが外相になり、ラーザリ・カガノヴィッチが副首相と石油大臣になり、兄ミハイルが航空大臣になったばかりか、スターリンとフルシチョフとブレジネフは最高指導者となった。
さらにブルガーニンが首相となり、アナスタス・ミコヤンが副首相と外国貿易大臣となり、弟アルチョムがミグ戦闘機を設計し、ベリヤが秘密警察の長官となってしまった。このサークルがやがて歴史に残すようになるこれらのおそるべき大量の肩書は、しかし不思議な友情と家族関係から成り立つものだったことになる。
1.6 レーニン死後の暗躍 P33-36
ネップの経済政策が打ち出されて間もなく、レーニンは発作を起こし、倒れてしまった。ソ連邦のつくり方と民族問題についてスターリンとことごとく意見が対立し、スターリンを共産党の書記長の座から解任した直後、一九二三年の出来事だった。
こうして誰もが知るジノヴィエフ、カーメネフ、スターリンの三頭政治に入ったとみるまもなく、粛清に次ぐ粛清で内部抗争にうち勝って、スターリンの独裁がいよいよスタートしてゆこうとしていた。それはレーニンの葬儀からはじまった。
葬儀の日カガノヴィッチは、ソ連の建国者レーニンが一体どこで死んだかということさえ知らなかった。実際、誰もが興奮状態にありながら、赤の広場に集まった群衆とその中に立つカガノヴィッチにとって、ただ分かったことといえば、レーニンの棺を乗せた列車がモスクワに入ってきたことだけだった。
そしてこの時から、レーニンが真の英雄にまつりあげられたことは間違いなかった。ボリシェヴィキの宣伝は、
P34ロシアの国外に対しては、美辞麗句をもって共産主義の理想を伝えた。誰もが平等に生きられるという彼らの理想が実現するなら、決してその言葉は誤ったものではなかったはずである。
しかし実際に成立したソ連は、貧困と飢餓と殺し合いのほかには何もないと言えるほど混乱し、ボリシェヴィキの権力についての実態も、外国で多くの人が想像するものとはかけ離れたものであった。
ところがレーニンの死が突然、国のなかでも外でも"ソ連の幻想"を定着させてしまい、それまでロマノフ家のピョートル大帝に因んでペトログラードと呼ばれていた大都市がレニングラードと改名されて、すべての栄光がレーニンに帰せられるようになった。
ボリシェヴィキの名が正式に共産党に改められた。まさにその時、モスクワにカガノヴィッチ・サークルが大集結していた。
ミコヤンとブルガーニンだけでなく、ラーザリ・カガノヴィッチの側近として台頭したニキタ・フルシチョフの姿もそこにあった。ラーザリ自身は、中央委員会を率いるモロトフの直属の部下でもあった。しかもこのサークルは、レーニンの葬儀で党を代表して名高い弔辞を読みあげたスターリンを擁していたのである。
以来ラーザリは、しばしばスターリンと会うようになり、一方モロトフは、スターリンの娘スヴェトラーナにあやかって、自分の娘にもスヴェトラーナと名づけるほど深い関係を結んでいった。
葬儀の翌年、スターリンはカガノヴィッチを呼びつけ、彼の郷里ウクライナの党本部が苦境にあることを伝えた。そしておそるべき粛清による再建を命じた。カガノヴィッチはフルシチョフだけを連れて直ちにウクライナに戻ると、ウクライナ共産党「書記長」の肩書をもって、愛国者を次から次へと闇に葬りはじめた。
有能で力のある者ほど自分にとって危険人物とみなして、大粛清を断行したのである。抵抗する者があった時には、それを共産党の敵対する者ではなく"反ユダヤ主義者"であるという烙印を押して処分して言ったというから、逆にカガノヴィッチの行動によってウクライナにどれほど反ユダヤ主義の温床が生まれたかを想像できる。
この経過は、彼の親族、勿論ユダヤ人である前述のスチュアート・カハンが記していることである。
P35 ウクライナで残忍な大量処分がおこなわれていた頃、モスクワではスターリンの粛清が実行に移され、トロツキーを指導者と仰ぐ左翼合同を壊滅させる戦いがくり広げられた。カガノヴィッチと同じくウクライナに生まれたユダヤ人トロツキーと、その義弟カーメネフたちは、党から完全に排除され、やがて順次スターリンの指一本の動きでこの世から消されていった。
代って中央委員会の席に坐っていたのは、歴戦のクレムリン幹部の目から見ればさして重要人物でないはずのカガノヴィッチという若僧であり、中央委員会そのものが重要な役割を果たさなくなりはじめた。
モスクワのどこか一室で、わずかな人数が集まって密議したことが、すべての政策を動かしはじめたのだ。
最後まで抵抗を試みたレーニンの未亡人クルプスカヤに対しては、カガノヴィッチが彼女についてのさまざまな悪しき噂をつくりあげ、モスクワじゅうに流布した。彼女がそれに激怒しながら苦言を呈すると、共産党幹部の面前で恥をかかせられる日がやって来たのである。
「君がいつまでも文句を言うなら、われわれはいつでもほかにレーニンの未亡人をつくれるんだ」
という強迫の言葉を聞かされたのである。スターリンを前にしてこう言いのけた男、それがラーザリ・カガノヴィッチであった。スターリンとカガノヴィッチにとって、死んだレーニンとその未亡人などはもはや何の意味もないものであり、ただ"革命の父レーニン"の名前だけを十分に利用すればよかったのだ。
実際、すでに秘密警察を握ったラーザリは、クルプスカヤの毎日の行動をすべて調べあげてあり、別の女をレーニンの未亡人に仕立てあげることなど造作もないことであった。この頃、ソ連の秘密警察はすでに、ウクライナのリーダーを暗殺し、エストニアの要人を血祭りにあげるなど、十分すぎるほどの実行力を蓄えていた。
かつて秘密警察は「チェカ」と呼ばれていたが、その創設者に因んで名づけられたモスクワのジェルジンスキー街二番地にある恐怖の建物には、四階にラーザリ専用の事務所があった。そして下を見おろすと、ルビヤンカ刑務所があった。
この秘密警察もまた、一朝一夕に巨大化したのではなく、ソ連の国家そのものと同じように苦難の道をたどって成長してきた。
P36というのは、レーニンは帝政ロシア時代の恐怖の秘密警察「オフラナ」を解体したが、自らはこう言い放って恥じなかった。
「一番大切なことは、至る所に秘密組織を作ることである。秘密組織なくして大衆行動を云々することは、駄弁にすぎないのである」
この指令によって、ジェルジンスキーがボリシェビキの秘密組織「チェカ」を設立したころ、トロツキーは自らそれと別の軍事諜報組織「第四局GRU]を設立し、ここに、両者の陰湿な戦いが夜のモスクワにくり広げられることになった。
トロツキーはスターリンに粛清されたが、それで粛清された側が正しかったという歴史的評価を与えるのは禁物である。スターリンとジェルジンスキーがこの殺し合いに勝って、生き残ったにすぎない。
1.7 大粛清の時代 P36-40
しかもこの両者に戦いを挑む第三の組織があった。それは「ザ・トラスト」と呼ばれる反革命組織で、イギリスの海外諜報機関MI6のエージェントをロシアに送り込みながら、白軍の生き残りが帝国復活に賭けるすさまじい活動であった。
これを近代化して描いたのが、後年の映画『007---ロシアより愛をこめて』であったと言ってよい。その反革命活動の重要な役割をになったのは、かつての帝政ロシアの第五軍を率いた人物で、その名をエフゲニー・ミラー将軍といった。
ロシア関係書や諜報関係の文書には、そこまでしか記述されていない。しかし恐怖のジェルジンスキーを相手に執念を燃やして命を賭けるには、それだけの深い理由があるはずだった。
ロシア貴族の系譜書を調べてみたところ、ミラー将軍の義理の伯父が、帝政時代の「国立銀行の頭取」スティーグリッツ男爵であった。系図2に示されるように、ロシア革命によってペテルブルクの全財産を奪われた一族が、復讐の秘密活動をソ連国内で始動していたのでえある。
このペテルブルクのトップ・マーチャントがどれほど巨大なファミリーであったか、
P38その謎については、のちに詳細な人脈を示して説明しなければならない。この閨閥こそが、現代に新生ロシアの経済を引っ張っているからだ。
ロシア革命直後の一九一七年十二月二十日、レーニンの提案によって発足したCHEKA(反革命・怠業撲滅非常委員会)は、一九ニニ年にGPU(国家保安局)と改組され、翌二三年にOGPU(合同国家保安局)と改称されて、その本部にカガノヴィッチが詰めていた。
これが私たちの時代に、つい先年の一九九一年まで「KGB本部」と呼ばれていた建物である。その内部と周囲では、「自分のサークル以外の者は、すべて自分を殺す組織だ」と考えなければ生き残れない相互の探り合いが続いた。
このラーザリ事務所から直通電話が、ウクライナで幹部の要職を与えられたフルシチョフに通じていた。
大粛清の時代を迎えていた。スターリンの独裁が確立した一九二九年頃から三○年代の前半にかけて、ソ連に住む人間は、自分が生き残るためにスパイになる必要を感じはじめていた。それほど誰もが監視され、密告が密告を呼んでいった。
こうして粛清された人間についての数字は、どの資料を信じてよいか分からないほど多くあり、多い数字はソ連の七十数年全期間を通じて二千万人から四千万人という数を挙げているが、筆者自身は、この数字が物理的に大きすぎて信じられない思いが強い。
戦争状態でないときに、それほど大量の人間をどのように処刑したのか、死体の処理はどうなされたのか、その粛清に要する費用の経済的な可能性は本当にあり得たのか、といった疑問が湧き出してくる。しかし国民が総密告者という状況が現出したのなら、あり得ないことではなかったろう。
カガノヴィッチの行動を詳しく観察してゆくと、悪夢の時代が私たちの前に浮かびあがってくる。
彼はコサックの村を次々と選んで、大きな村ごとそっくりシベリアへ移送するという粛清を実行したのである。コサック村が特に大きな悲劇に見舞われたのは、理由のあることだった。映画『屋根のの上のバイオリン弾き』をご覧になった方は、この問題の歴史的関係を想像することができるだろう。
ロシアに住むユダヤ人の村に、ある日コサックの兵士がやってきて、突然「出てゆけ」という言葉を聞かされた---それが若き日のカガノヴィッチ一家の体験であった。
P39今や彼は、そのような悲劇のユダヤ人ではなかった。
逆に、悲劇を見て楽しみたかったのだ。『クレムリンの狼』の著者である彼の一族カハンは、「彼の行動には、復讐という動機があった」と書いている。かつてユダヤ人を弾圧したコサックに対して、ユダヤ人のカガノヴィッチが復習したのだ、と。
その心情は、きわめて分かりやすく、あり得ないことではなかっただろうと思われる。しかしカガノヴィッチの行動をよく見れば、スターリンの周囲にいたトロツキーなどユダヤ人の粛清に全精力を注いだのも、同じラーザリ・カガノヴィッチだったことを考えると、その戦いの構造はただ"ユダヤ対コサック"という単純なものではなかったはずだ。
トロツキーのことを、「彼はシオニストのスパイだ」と告発したのが、やはりカガノヴィッチであったからだ。尋常な物語ではない。この謎については、もう少し追跡してから読者に答えを出していただこう。
重大な結果は、ソ連の総人口の八割を占める農民がこの犠牲の主人公となり、苛酷な税の徴収によって、飢餓のためわずかな期間に二百万以上のウクライナ人が死に追いやられたという事実である。初めこの指揮をとったのはモロトフだったが、代ってカガノヴィッチがウクライナに派遣されてから、農民に対する仕打ちは一層残酷なものになった。
こうした粛清がウクライナばかりでなく、コーカサス地方にも大きく広がり、ピークに達した一九三二年、スターリンの第二の妻ナジェージタ・アリルーエワが謎の死を遂げた。明らかに毒殺と思われる周囲の状況だったが、自殺として処理され、翌年、スターリンは第三の妻を迎えた。
ラーザリ・カガノヴィッチの妹ローザである。
その三三年におこったウクライナの大飢饉では、死者五百万人以上を数え、同じ時期にカザフでは"人口の四分の一"が餓死の運命をたどった。これは、翌年に播くための種籾まで、クレムリンに差し向けた部下が農家から収奪したたためひき起された悲劇であった。
P40 今日でも西側の文書では、ローザ・カガノヴィッチは公式にはスターリンの"秘密の妻"だったという扱いを受けているが、それが秘密であったとするクレムリン通はひとりもいない。彼女は正式な妻だったのである。
スターリンとカガノヴィッチは、晴れて義兄弟の仲となった。ラーザリは、かつてレーニンを真似てあご髭をはやしていたが、これを剃り落とすと、新しい主人スターリンを真似て今度は鼻の下に髭をたくわえた男である。今やその主人への忠誠心は、家族として迎えられる関係によって報われたのだ。
1.8 モスクワの地下秘密都市 P40-42
スターリンもまた、カガノヴィッチを求めた。モスクワでの粛清に必要な裁判を組織するため、共産党の"統制委員会"でカガノヴィッチは議長の席を与えられることになった。彼はそれに応えて、数々の有名な粛清裁判に臨むと、有無を言わせぬ尋問をおこない、実質的に裁判長をつとめた。
その恐怖裁判が、この義兄弟の好きな言葉、"統制"であった。そしてこの時代、モスクワの地底深くに、今日大きなミステリーとして注目される巨大な地下鉄網の建設がはじまった…
園建設指導者がラーザリであり、実行担当者として任命されたのがニキタであった。後年ニキタ・フルシチョフは、その回想のなかでカガノヴィッチを避難し、彼のスターリン主義はいかにひどいものであったことか、と力説している。
しかしそう言うフルシチョフ自身が、出世するまでに手がけてきた活動のすべては、カガノヴィッチと一心同体であった。これは、あらゆる史実の記録が明らかにしている。つまりそこに、本書に登場する人物全員が、その出生の秘密からはじまる壮大な嘘の物語を語り続けてきたのではないか、という疑問が生まれる。
(いま読者が読み進めているのは、この壮大な嘘を暴く前の、第一話であることを思い起こしていただきたい。労働者であったはずのニキタ・フルシチョフが、ロシア貴族の一員だったと冒頭で述べたが、ではカガノヴィッチは何者で、モロトフは何者であったのか。サークルのメンバーひとりづつの正体を調べる必要がある)P41 地下鉄工事の監督官には、やはりサークルの一員ブルガーニンが選ばれた。過去をふり返れば、スターリンの妻となったローザ・カガノヴィッチが、この工事監督の妻と唯一無二の親友だったわけである。
そのサークルの三人を幹部とする工事現場が、地底深くにどれほど過酷な労働を強制したかは、想像するに難くない。粛清の裁判官カガノヴィッチが地下鉄工事の総指揮をとっていたのだから、ひとことでも不満を口にする者には、シベリア(ロシア文字)の六文字があるだけだった。
一九三五年、当時世界一を誇るモスクワの豪華な地下鉄が開通した。スターリンはこれを祝って"カガノヴィッチの地下鉄"と命名し、続いて彼が生まれ育ったカバニー村は、カガノヴィッチ村と改名されることになった。
それほどソ連の工業力を世界に証明する国家的事業の成功が、モスクワ地下鉄網であった。大々的な祝賀パレードによって、建設者カガノヴィッチの名はソ連全土に響きわたった。
ソ連崩壊後の一九九二年、歴史家のウラジミール・ゴーニクが調査結果を発表したとき世界が驚いたのは、この一般用の地下鉄のさらに下には地下都市が建設され、クレムリン---KGB本部---国防省をつないで深層に地下鉄が走り、三万人の要人が生活できるようになっていたことだ。
それも、世界一の豪華な地下都市であるという。この建設時期はまだ確証されていないが、"カガノヴィッチの地下鉄"のあとに建設された"フルシチョフの地下鉄と秘密都市"だと言われている。
しかし、スターリンの甥ブドゥ・スワニーゼが書いた『叔父スターリン』によれば、ロマノフ王朝の時代からクレムリン宮殿の地下には秘密のトンネルがあり、第二次大戦中には、スターリンがそれを地下の執務室に改造して使っていたという記述があるので、すでにその時代から構想がはじまっていたと考えられる。
一九三五年の最初の地下鉄の開通式で、祝賀列車に乗ったカガノヴィッチ・ファミリーと並んで、フルシチョフが坐っていたことを高齢のモスクワ市民は覚えているだろう。
このようにして、モスクワに豪華な地下鉄が完成した。そしてカガノヴィッチは、祝賀式典でこう演説した。
P42 「西側諸国では、交通機関というものが、特権階級のためにある。ところがわれわれは、モスクワ市民のためにこの豪華な地下鉄を完成したのだ」
果たして、地下鉄の下に用意された三万人の秘密都市とは、誰のためのものであったか。勿論、モスクワ市民の避難所ではなかっただろう。
カガノヴィッチが、西側のロールス・ロイスやキャデラックなど華やかな自動車産業に対する敵意をむき出しにして発言したこの一九三五年、すでにドイツではニ年前からアドルフ・ヒットラーという男が首相に就任していた。
この新しい独裁者は、三四年に総統の地位につくと、翌年九月十五日にユダヤ人とアーリア人の結婚を禁止する"ニュールンベルク諸法"を発布した。地下鉄開通からわずか四ヵ月後のことである。ユダヤ人の市民権が剥奪されるところまで、ファシズムの危機が迫っていた。
ユダヤ人カガノヴィッチが中軸となって動くモスクワのサークルは、今度は、ドイツに台頭しつつあるこの新しい勢力との戦いに突入していった。
1.9 モロトフ・リッベントロップの密約 P42-48
第一次世界大戦後、新生国家ソ連での動きが活発なら、ドイツにおける新興勢力の活動はそれ以上に大きく、ファシズムの嵐が大海原を覆って、波浪のように西ヨーロッパ全土に広がりつつあった。この波がいつソ連に襲いかかるかと、クレムリンと秘密警察は鋭い目でヨーロッパの観察を続けていた。
ジェルジンスキー街二番地の一画に設けられたルビヤンカ刑務所は、一度そこに入った者は二度と再び出てくることのない場所として知られていたが、ドイツでもまた、三六年、三七年と進むにつれてユダヤ人と移民に対する迫害が日を追って苛酷になり、十一月九日に遂に大悲劇が起こった。
ドイツ全土で裕福な階層のユダヤ人が狙いうちにされ、彼らの商店という商店が叩きこわされてガラスの破片が街路に散乱した---P43水晶の夜(相互参照)---の虐殺と強制収容所への大量連行であった。その数は、一夜にして三万人を数えた。
これに対するクレムリン首脳すなわちカガノヴィッチ・サークルは、ただ一人アルメニア人のミコヤンを除いて、全員がユダヤ人の家系に入っていた。改めてその名を記しておこう。
スターリン---妻ローザ・カガノヴィッチがユダヤ人
ラーザリ・カガノヴィッチ---------本人がユダヤ人
フルシチョフ---後年の娘むこアジュベイがユダヤ人
ブルガーニン-----------妻ナジェージタがユダヤ人
モロトフ-----------------妻パウリーナがユダヤ人
ベリヤ-----------------------母テクルがユダヤ人
ところが彼らは逆に、ユダヤ系だと見られることを極度に嫌った。レーニンが"ユダヤ人の曽祖父"について話すのを一切避けたように、このサークルは政策上、そのことをタブーとした。これは彼らに限ったことではなく、歴代の弾圧者は常に自分の身許を隠し、またできるだけ、直接の下手人は地元の出身者から選ばなければならない、という鉄則を守るようにしてきた。
日本人がアジアを侵略した時、その傀儡政権として清朝第十二代皇帝の愛新覚羅溥儀(映画の『ラスト・エンペラー』)を擁立し、満州国の執政を表面的には中国人に任せながら大々的に支配したように、ウクライナの粛清にはウクライナ人のフルシチョフが活用され、グルジアとの折衝にはグルジア人のスターリンが出かけてゆき、バクーをめぐるアルメニアとの戦いではアルメニア人のミコヤンが活躍した。
こうした民族自決の原則を守るかぎり、現地ではクレムリンの政策に対して「民族的な差別である」という非難の声をあげられなくなるからだ。
特にロシアの生命線である穀倉地帯ウクライナでは、反ユダヤ感情が根強く生き続けていたため、カガノヴィッチは二枚の舌を使い分けた。クレムリン内で批判を受けると、「お前は反ユダヤ主義だ」という言葉で自分の反対派の言動をおさえつけ、血筋を悪用してきたが、一方、モスクワの代表者として地方に出かけてゆく時には、
P44ユダヤ人であることが禁句であった。「コサックの村を選んで弾圧したのがユダヤ人だった」という噂は、公正さをもって任ずる共産党の中央委員会にとって、ひどく迷惑な話になるからだ。
ここに、後年の全世界を揺るがす第二次世界大戦の源流があった。それは私たちの時代、ゴルバチョフ・エリツィンの闘いがピークに達した一九九一年九月六日(保守派クーデター失敗直後)、ソ連によるバルト三国の独立承認の日まで続いた悲劇であり、この傷はこれからも容易に癒されないであろう。
ユダヤ系を主体とするカガノヴィッチ・サークルの代表者、ソ連外相モロトフと、反ユダヤ主義をもって世界支配を公言するヒットラー総統の代表者、ドイツ外相リッベントロップが調印した独ソ不可侵条約は、そこに秘密の議定書が添えられるものであった。
両者はその紙の裏で、何を取引きしようとしたのだろうか。この秘密の議定書によって、バルト三国がソ連の持ち物になり、ポーランドが東西に分割されて、ナチスの侵略から第二次大戦を招いたのである。
実にこの取引の目的地は、フルシチョフの郷里ウクライナにあった。
"水晶の夜"から一ヵ月後、スターリンはウクライナの大がかりな粛清をカガノヴィッチに指示した。"ボリシェヴィキの首かせ"を解いて自由になろうとする空気が、ウクライナに次第に高まってきたからである。
ところがカガノヴィッチは巧みに言葉をあやつって、下手人の役をフルシチョフに譲った。ウクライナ人を殺すのは、ロシア人であってもユダヤ人であってもならない。同志フルシチョフはそのどちらでもないウクライナ人だ、と。
秘密警察を引き連れてウクライナに乗りこんだフルシチョフは、まず現地の議長の頭を射ちぬいて血祭りにあげると、幹部全員を逮捕し、処刑にとりかかった。ウクライナは独立を目ざして急速に動いていたのである。
この粛清に失敗すれば、ソ連は食糧を失って、土台から崩れることが明白な事態だった。
フルシチョフの冷酷な指令は次々に実行に移され、彼自身の精神もそれに応じて昂じてくるというなかで、P45人間はひとりずつ物言わぬ躯と変わり果てていった。実際その数は、あまりに多すぎたため、誰も正確には答えられないほどであった。
大きな仕事を終えてモスクワに帰ったフルシチョフは、自分としては充分に手を打ってきたつもりでも、まだウクライナに反乱が起らないとは保証できないことを、サークルのメンバーに強く訴えた。この時代のウクライナは、第一次大戦後のリガ条約で、西部の地方がポーランド領となってしまい、そこにはソ連の支配力が及ばなくなっていた。
つまりそこにウクライナ民族としての反乱の火種が残っている限り、クレムリンは枕を高くして眠ることができなかった。
フルシチョフの意見は、スターリンにとって聞くに値した。問題は、その火種をどのような手段によって消せるか、という点にあった。
「ポーランドを分割して、西側をドイツが取り、東側のウクライナ地域をわれわれが取る。そうすれば、ドイツにとっても決して悪くない取引きだし、自然にわれわれの望みが叶えられる」
この意見は、そのとき副外相の地位にあったウラジミール・ポチョムキンとフルシチョフがが議論した結果、積極的な軍事行動に出る作戦として導かれたものであった。スターリン時代の副外相がポチョムキンという名前であるのは、意外である。
エイゼンシテイン監督が映画の世界を一変させた歴史的名作『戦艦ポチョムキン』で描いた通り、かつての帝政ロシアのシンボルがポチョムキンであった。
女帝エカテリーナ二世の愛人グリゴリー・ポチョムキンと、スターリンの副首相ポチョムキンを結びつける系譜は現在まで見つからないが、ヨーロッパの支配階級に嫌われたソ連共産党が、ロマノフ家の貴族を外交官に立てて折衝しなければならなかったことは明白である。
事実のこの副外相ポチョムキンは、スターリンに引き立てられてギリシャ、イタリア、フランスの各国大使を足掛け九年にわたってつとめてきたヨーロッパの眼であり、多くの要人と接しながら、ナチス・ドイツに進行している事態を誰よりもよく知っていた。
そして彼は、「ヒットラーの外相リッベントロップは、ポーランド分割の取引に応じるだろう」というのだ。
P46 この左右からの攻撃を受ければ、ポーランドに勝ち目があるはずはなかった。さらに、北海からドーバー海峡まで抜ける重要な貿易海路としてバルト海域を支配するため、この取引の中にエストニア・ラトビア・リトアニアのバルト三国を含めるよう悪智恵を働かせたのが、クレムリンの悪党たちであった。
ウクライナとポーランドがこの時期に悲劇を招いたのも、次のような、不思議な人間の因縁によるものであった。
第一次大戦後の一九一八年、ポーランドはウクライナの西部を手に入れ、一八世紀以来念願の独立国家として出発した。それは言うまでもなく、ロシアで革命直後の混乱期にあたっていた。
レーニンがウクライナの西部を手放したのは、ウクライナの領地をめぐってポーランドと帝政ロシア軍(白軍)が争うように仕向け、その漁夫の利を狙ってボリシェヴィキの勢力を拡張する巧みな計画だったが、時のポーランドで最大の力を持っていたのが、ピウスツキー(ピルツスキー)将軍という独裁者だった。
レーニンは若くして、ピウスツキー将軍を知っていたのである。ピウスツキーもレーニンが何者かを知っていた。レーニンがまだ本名ウラジミール・ウリヤノフを名乗って少年の頃。兄アレクサンドルが、ロマノフ家の皇帝アレクサンドル二世を爆殺(相互参照)した犯人の一味として捕らえられ、処刑される悲劇を目撃しなければならなかったからだ。
その裁判で検察側の証人として立たされたのが、レーニンの兄に家を貸し、活動家の印刷所として使わせたプロニスラフ・ピウスツキーというポーランド人だった。彼は否認を続けたが、その弟ヨーゼフが暗殺の作業を間接的に手伝っていたことが暴露された。
ヨーゼフ・ピウスツキーはシベリアへ送られる身となった。レーニンの兄は処刑され、その経過の一切を少年ウリヤノフは目に焼きつけた。
ロシア革命が成ったとき、しかしその少年はレーニンと名乗っていた。そして隣国へ目を投げやると、独立の歓喜に沸くポーランドを支配して立っていた将軍は、まぎれもなくあのシベリアへ送られたヨーゼフ・ピウスツキーであった。
P47 忘れもしないあの裁判で、兄と共に有罪となった男が、新生国家を率いていた。レーニンは、喜んでウクライナの西部をポーランドに与えた。
レーニンが革命ロシアの初代国家元首であるなら、ピウスツキーはポーランドの初代国家元首であり、一九一九年には著名なピアニストのパデレフスキーが、首相と外相の要職に任じられるようになった。ワルシャワ音楽院の院長として、祖国ポーランドの生んだ大作曲家ショパンの名演奏を続け、カーネギー・ホールに招かれたパデレフスキーである
(彼はナチスのポーランド侵略のためアメリカで死去し、その遺骨が祖国に戻ったのは現代、ソ連崩壊後の一九九二年六月のことであった)。それほど深い間柄にあったレーニンとピウスツキーによるソ連・ポーランド外交だったが、レーニンは一九ニ四年にこの世を去り、独裁者ピウスツキーも三五年に死んでしまった。
スターリンがウクライナの大粛清に乗り出した三七年の行動は、まさしくピウスツキー亡きあとの力の空白に乗じた作戦であった。
そしてピウスツキー死去の時、葬儀委員長をつとめたのが、将軍の右腕ベルンハルト・モンドであり、彼はユダヤ人であった。時のポーランドには大きなユダヤ人問題が存在していたことを、一九四○年二発刊された『ポーランド全事典---All about Poland』(J.H.Retinger編---Minerva Publishing Co.ロンドン)が明らかにしている。
発刊はナチス侵略後だが、内容は侵略直前までを主体とした記録となっている。同署では、"ユダヤ人問題"に一章を割き、当時全世界のなかでユダヤ人の人口比率が最も高かったポーランドの実情を、次のように記していた。
---ポーランドの総人口は三五〇〇万人だが、このうち一割の三五〇万人がユダヤ人である。P48 このようなユダヤ人ファミリーのひとりが、第二次大戦の開戦後にアメリカにやってきたレオ・メラメッドであり、彼は一九六○年代末から激動の一九九○年代の現代まで、シカゴ商業取引所メルクの支配者として、全世界の貿易を動かしてきた。
ユダヤ人の数はアメリカで四四〇万人に達しているが、アメリカの総人口は一億三〇〇〇万人だから、わが国における集中度ははるかに高い。この大部分が、ロシアから来たユダヤ人である。彼らは貿易と工業・工芸の分野に集中しているため、都会におけるユダヤ人の比率は三割から五割にも達し、ポーランドの商工業の大部分をユダヤ人が支配している。
一九一八年の独立時代から、ポーランドの貴族はこれらの新興ブルジョワジーに取って代わられ、ユダヤ人の政治的な力もかなり大きくなっている---
日米経済摩擦の主役クレイトン・ヤイターの黒幕として知られ、一九九二年にはロイター通信と組んで「地球取引所(Globex System)という壮大な商業取引に一歩を踏み出した。メラメッドは一九三二年にポーランドに生まれたが、ちょうどその一九三二年と三四年に、ポーランドは二度にわたってソ連と不可侵条約を結んでいた。
また、ポーランドは三四年にドイツとも不可侵条約を結んだが(参照)、同書では正確にその内容が記録され、そのあとにヒットラーの公式の宣言文が引用されていた。その日付が重要である。ヒットラーは次のように語っていた。
---われわれはポーランドとの不可侵条約五周年を祝ったばかりである。この条約の価値を考えるとき、平和的な真の友人同士のあいだでは、今日でもその意見に何ら変化はないのである。一九三九年一月---この七ヵ月後に、ヒットラーとスターリンのあいだで交わされたポーランド分割の秘密議定書を知る時、おそるべき人間の底意に驚くばかりである。その議定書を生み出したモロトフ・リッベントロップ密約の主人公たちを紹介しよう。
1.10 外相モロトフの家系 P48-52
恐怖のサークルの生みの親となったソ連の外相ヴィアチェスラフ・モロトフについて、これまで記述を控えてきた。カガノヴィッチをボリシェヴィキの幹部に仕立て上げたこの男は何者であったろう。
モロトフは、レーニン、スターリン、トロツキーと同じように、ロシア革命のためにつくられた仮名であり、生まれたときの本名はスクリアビンであった。彼の叔父にあたるのが有名な作曲家アレクサンドル・スクリアビンで、P49実にモロトフはまぎれもなく帝政ロシアの貴族階級に属する人間であった。
ロシア革命後は、誰もが出生を隠してテロルの時代七十二年間を生き延びなければならなかったため、クレムリン幹部の父母などの系譜を明らかにする資料は一冊もない。無数の書物から断片を抜き出して、ようやくつきとめたのが系図3「謎の貴族外相モロトフ=スクリアビン一族」である。
一部はまだ名前不詳となっているが、この系譜に、信じ難いポーランド侵略の史実が隠されていた。
外相モロトフ(★③)の叔父が作曲家のスクリアビン(★①)で、一方、ポーランドの首相が前述のように大ピアニストのパデレフスキーであった。この音楽の世界は無関係であろうか。作曲家スクリアビンの母は、アントン・ルービンシュタインお気に入りのピアニストだったが、息子を産んで間もなく死んでしまった。
そのため彼は伯母の手で育てられながら、次第に音楽の才能をのばしていった。そのスクリアビンが一流の作曲家となった頃、妻子を捨てて再婚したのが、当時モスクワのピアノ教授として頂点にあったパウル・シュレーゼルの姪タチアナ(★②)だった(系図の人物位置を示す★番号は、原則として左上から順に①、②、③・・・・と示す。以下同じ)。
シュレーゼルはロシア読みだが、ドイツの上流階級シュレーツァー家(Schlözer)である。この一族は、モロトフ家の下に示した系図のように、ロシア貴族のグリエフ家と結婚し、ペテルブルクの外交官を生み出すなど、古くからロシアと深く関わり、自ら帝政ロシアの貴族となっていた。
モロトフから見れば叔母の伯父にあたるこのシュレーゼルがピアノを学んだのは、ポーランドのワルシャワ音楽院だったが、そこに同じ鍵盤を叩いていたひとりの格別すぐれた学生仲間がいた。ほかでもない、その名をイグナツ・ヤン・パデレフスキーと言った。
彼もまたローゼン男爵家の令嬢
1.11 リッベントロップの金と地位 P52-57
P50系図3/ 52/ 54/ 56
1.12 フルシチョフは"労働者出身"か? P57-61
P58系図4/ 60
1.13 イギリス諜報機関とロマノフ家の血脈 P61-68
P62/ 64系図5/ 66/ 68
1.14 フルシチョフの正体 P69-73
P70/ 72
1.15 五百年前のフルシチョフ家 P73-81
P74系図7.1/ 76系図7.2/ 78系図7.3/ 80
1.16 カチンの森の虐殺事件 P81-88
P82図3「カチンの森」の虐殺1940年/ 84/ 86
1.17バクー油田をめぐる不思議な物語 P88-91
P88 ここまで、フルシチョフ、モロトフ、ミコヤン、べリアたちを擁するカガノヴィッチ・サークルの一時代を見てきたが、彼らが頂点におし立てたのは独裁者スターリンであった。またスターリンが選んだ忠実な部下は彼らであった。ところがそのサークルに、やがて四分五裂してゆこうとする運命が待ち受けていた。彼らが求めていたもの、それが平等な共産主義社会どころか、それぞれの欲望と野望にすぎなかったからである。
一方でドイツのファシズムは、ソ連の第二次世界大戦の死者二千万人に対して、ドイツ銀行が今日ロシア復興のためどれほど巨額の資金を提供しても償うことのできない罪を犯すことになった。その目的もまた、外相リッベントロップが美術品など財宝のコレクションに熱中したように、欲望と野望のなれの果てであった。
その欲望を満たすものの中心にあったのが、今世紀初頭のユーラシア大陸では、バクー油田のもたらす富と、ウクライナの与えてくれる穀物であり、いずれの財宝も、ロシアより南に広がる地帯に眠っていた。そこから重要人物が次々と生まれたのは当然である。
このような南部で、黒海とカスピ海にはさまれる狭い地域に、グルジア(現在ジョージア)とアルメニアとアゼルバイジャンが肩を寄せ合って境を接し、バクー油田はそのカスピ海に面する地帯にあった(地図)。そこは、現在のの領土としてはアゼルバイジャンに入る(tw、ナゴルノ・カラバフ:国家のようで国家でない地域 - GNV)。
ところが産出された石油は、東西に走るカフカス山脈と小カフカス山脈のあいだの回廊を通って、グルジアの首都トビリシから黒海のバトゥーミまで運ばれ、そこから南下して地中海へ抜ける航路を通過しなければ、ヨーロッパやアジアに運び出せなかった。ウクライナの穀物もまた、黒海から積み出された。バクーの南にはトルコとペルシャ(現在のイラン)の壁があったからだ。
今日では、この回廊にパイプラインが走っている。そのためアゼルバイジャン紛争では、しばしばこの一P90帯のパイプラインが爆破される事件が発生してきた。"グルジアの四つ葉のクローバー"と呼ばれたのが、ロシア革命後の世界を動かしたスターリン、オルジョニキーゼ、エヌキーゼ、アリルーエフの四人である。
一方、アルメニアから登場した要人には、ソ連の外国貿易を一手に引き受けたアナスタス・ミコヤンと、その弟で戦闘機ミグの設計者アルチョムのほかに、もうひとりの伝説的な人物、"五%の男"と呼ばれるグルベンキアン(後述)がいた。彼はバクー油田から台頭して、メソポタミアでは権益のうち五%を個人で取ってしまい、残りを世界各国の大石油会社に分配させたという、途方もない実業家であった。
ここで忘れてならないのは、かつてグルジアには王室が存在し、その王女の末裔が一九九〇年代の現在、"ロマノフ王朝の皇位継承者"として、隙あらば皇帝の座につこうと狙っていることである。血統で言うなら、それが本書の主人公になる。彼らは一九二一年にボリシェヴィキと戦火を交え、スペインに逃れて今日まで生き延びてきた。
女子がロマノフ家に嫁いでロマノフ王朝の再興をはかるなら、男子は自らの血統書を掲げながら、グルジア王室を復活させようと、新生グルジアの国家元首シュワルナゼに接近しはじめた。そのグルジア王室が、ロシア革命前後の時代には、地元のバクー油田に対して大きな勢力を誇っていたのである。(略)
その石油をめぐる闘いの軌跡をたどってゆくと、ここまでに描いた歴史の背景が明らかになる。現在の新生ロシアで最大の外貨獲得手段は、今もって石油と天然ガスだが、ソ連を構成していた十数ヶ国の共和国がそれぞれ独立した国家に大分裂した結果、ロシアの石油産業に深刻な問題が起こってきた。
最大の埋蔵量があると見られていたテンギス油田がロシアのものでなくなり、カザフ(カザフスタン)のP91財宝となってしまったのだ。ソ連時代にカザフの核実験場セミパラチンスクで無数の原水爆実験をおこない、放射能で地元の人間を苦しめてきた報いであろう。
一九七九年に発見されたテンギス油田には、アルジェリアの全埋蔵量と同じほどの莫大な石油が眠っているといわれるが、ソ連が崩壊すると早速ここに、アメリカから抜けめのないロックフェラー財閥のシェブロン(旧スタンダード石油カリフォルニア)が入り込み、一九九二年、テンギスシェヴロイルというまことにそれらしい名前の開発会社が設立された。資本金は50対50にするという契約が交わされたのである。
ところが利益の分け前は、カザフ80対ロックフェラー20というのだから、これまで欧米の財閥に痛めつけられてきたカザフの喜びは大変なものであった。核実験ではロシアのモルモットにされたカザフだが、カスピ海の周囲に広がる大金脈としての石油を握ったのは、エリツイン大統領ではなく、カザフのナザルバエフ大統領だった。
mazushi いわゆるスラブ系の"ロシア人"ではない冷静なナザルバエフの知る人脈は、キリスト教徒のアルメニアではなく、イスラム教徒のアゼルバイジャンに通じやすい。それがトルコからエジプトまで達する新世界貿易を生み出すことが必至と見られている。
1.18 奇怪な石油貿易人脈 P91-93
P91 ただしその世界には、前世紀末の一八九〇年にアルメニア人の"五%の男"、カルースト・グルベンキアン(参照1、参照2)が「メソポタミアに石油あり」という報告をトルコのスルタンに出して以来、現地で奇怪な世界貿易人脈が形成されてきたことに注意を払っておかなければならない。テンギスが開発されるはるか以前、一世紀ほど前から石油を産出していたバクーが、このシンジケートに取りこまれて今日に至っている。
奇怪というのは、あらゆる人種が石油と結婚したからである。この国際結婚についてはいまだに正確な記述がなされていないので、誰しも、白人と黄色人種は、宗教も違えば肌の色も違う、言葉も違えば食べ物も違う、完全な別世界に生きる生物という先入観を抱きやすい。しかしそこに石油があると、人間は豹変し、あらP92ゆる点で寛大になる。
ここに、悪夢を見るような系図8(1、2)「バクー油田とスエズ運河の支配者」がある。この家系を調査するのに、三年の歳月を要したという図である。スターリンの娘がアメリカへ亡命して書いた『スペトラーナ回想録』(江川卓訳、新潮社)には、次のような一節がある。
わたしが幼年時代を過ごした明るく楽しい家は、以前は、バトゥームの石油事業家ズバロフ二世の持ち家だった。彼と、その父の老ズバロフは、ブラヴィーハに領地をもつマインドルフの親戚筋にあたっていた・・・この文章をスヴェトラーナが書いたのは一九六三年、フルシチョフ全盛時代とされているが、わがサークルのミコヤンはバクーに別荘を持ち、実に優雅に暮らしていたようだ。ソ連時代に別荘といえば、それはロシア語で"ダーチャ"と呼ばれるもので、共産党官僚の特権を示す最大のシンボルであった。ソ連の関係書はやたらに出てくるこのダーチャは、高官に対して共産主義国家が与えてきたというので二度驚かされるが、ソ連崩壊後の自由主義のなかでもまだこの特権が一年間も容認され、一九九二年十二月二十九日、エリツイン大統領がようやくダーチャの所有を禁止する命令書に署名することになった。
ズバロフ父子はバトゥームとバクーに製油工場を持っていた。わたしの父やミコヤンは、一九〇〇年代に、ほかでもないこの工場でストライキを組織し、サークル活動をおこなったおかげで、この名前を昔から知っていた。・・・ミコヤンの別荘では、いまでもすべての様子が、亡命したかつての持主が残していったままに保たれている
『スベトラーナ回想録』は、アメリカで出版されたため、名前については実際の言語と異なる表記になっている。ここに登場する地名のバトゥームがグルジアの石油積出港バトゥーミ、人名のズバロフがロシア貴族シューヴァロフ(Shuvarov)、またマインドルフがドイツ貴族マイエンドルフ(Meyendorff)である。P93系図8(1、2)に描いたのが、バクー油田を支配したそのふたつのロシア大領主である。
シューヴァロフ(★③)とマイエンドルフ(★②)は、系図のように結婚し合ったロマノフ・ファミリーであり、本書の表紙に黄金の輝きをもって飾られているロマノフ家の紋章"双頭の鷲"にふさわしい存在だ。図中、この紋章をもって二家族の位置を示してあるが、そのロマノフ貴族の背後に、一体誰が閨閥をつくっていたかを説明しよう。
(P92-)
1.19"五%の男"グルベンキアン P93-101
スヴェトラーナが書いている"父スターリンがストライキを組織した工場"というのは、正確にはロスチャイルド工場であった。ダイナマイト一族のノーベル兄弟が権益を確保したバクー油田は、一八八三年からロスチャイルド財閥の手で石油の販売が開始され、バクーと黒海のバトゥーミまで鉄道が敷設される大事業に踏み出していった。
系図8(1、2)に、ロシア貴族と並んでロスチャイルド家が登場するのは当然である。当時アルフォンス・ロスチャイルド(二枚目の見開き図の★⑱)は、世界最大のユダヤ財閥の中心人物であり、パリ・ロスチャイルド銀行の総帥として、バクー油田に資金を投入していた。ユダヤ人に対するポグロムに激しく怒ってロシア皇帝(★⑤)と決別したはずのアルフォンスだが、事業は別の問題と考え、バクーの利権はすべて一族が握って、ロシアを手離すことはなかった。
しかもこの系図には"五%の男"アルメニアの伝説的な人物グルベンキアンが登場する(★⑲)。リシア革命後、バクー油田はボリシェヴィキによって占領され、それまでの資本家は追放されてしまったが、そのまsま喧嘩状態では石油が死んでしまい、ボリシェヴィキにとっても資本家にとっても益にならないと説いたのが、このカールストン・グルベンキアンであった。最後にはグルベンキアンの仲介で、「ロイヤル・ダッチ・シェル石油」が共産主義国から石油を購入しはじめ、新しい国際貿易が成功する日を迎えることになった。
P98 このシェル石油は、シェル輸送貿易という海運会社から誕生したものだが、これを設立したユダヤ人マーカス・サミュエル(1、2、3)もまた、系図8(1、2)に描かれている(★⑳)。まるで尻とりのようなバクー物語を続けよう。
マーカス・サミュエルの船は、貝ガラの印をシンボル・マークとして黒海からボスポラス海峡を抜け、地中海に乗り出していった。そこから先の航路では、ひとつが西に向かってイタリアで石油を陸揚げし、ヨーロッパ全土に販売網を広げることに成功した。もうひとつの航路は、南下してエジプトに向かい、スエズ運河を抜けてインド洋から東方、わが日本まで達する大航海となった。
そこで石油産業にとって生命線となったのが、エジプトのスエズ運河である。一八六九年にスエズ運河を開通させたのは誰だったろう。言うまでもなく、フランスの偉人フェルディナン・レセップスだが、系図8(1、2)には、彼の姿は間違いなくある(★①)。
フランス人レセップスの近親者に、このバクー物語の中で読者は一体誰を想像できるだろう。その近親者というのがほかならぬ、バクーからバトゥーミまでの鉄道輸送を監督する、現地グルジア王室でなければならなかったのである。系図8(1、2)に見る通り、レセップスの孫娘とグルジア王室(★⑦)は、義兄弟という関係にあった。
しかしスエズ運河は、偉人レセップスが実際に汗を流し、穴掘りをして完成したわけではなかった。彼はフランスの偉人であったが、エジプト人にとっても偉人であったのだろうか。この大運河を完成させるため、炎天下の過酷な労働で使役され、膨大な死者を数えなければならなかったのはエジプト人である。
したがって、これはエジプト君主の絶対的な命令があって初めて、国家的事業として進めることができた作業であり、ピラミッドの建設とほとんど同じ性格のものであった。スエズ運河をつくった時のエジプト君主は、歴史上に名を残すサイド・パシャであり、彼はレセップスにスエズ運河の開掘権を与えただけでなく、自らスエズ運河会社の株三分の一を握って巨財を成したのである。(略)
P99 サイド・パシャの二世代あとで君主となったテウフィーク・パシャ(★⑨)の時代になると、工事のため大量の死者を出して完成したスエズ運河の支配権を、今度はイギリスのライオネル・ロスチャイルド(★⑰)が提供する資金によって、イングランド銀行が買い取ってしまった。
そのためエジプト人の怒りが爆発し、たて続けに反英暴動が起こりはじめた。ところがイギリスは、それで撤退するどころか、逆に現地の総領事クローマー卿の指令によって軍隊を出動させると、エジプト人をまるで犬のように殺しながら、これをよい機会にと、完全な軍事支配を確立してしまったのである。
それでも彼らは、この紛争に乗じて、スエズ運河から紅海を抜け、インド洋に至るまでの沿岸地域をすべて植民地に変えなければ、安心して石油P100を運べなかった。イギリスはその作戦を実行に移していった。その最大の目標が、紅海のアデン湾からインド洋に抜けるときの寄港地、"アフリカの角"と彼らが呼んだソマリアであった。
現代にあって全世界を動揺させてきたスーダン~エチオピア~ソマリアの内戦と飢餓、その種を播いたのが、このクローマー卿こと、本名イヴリン・ベアリングであった(★⑭)。すでにたびたび述べたように、ベアリングはガリ国連事務総長の祖父ブトロス・ガリをまずエジプト外相の座につけ、そのガリの手でソマリアをイギリスの保護領として統治させたのである。保護領とは、よく言ったものだ。
その後は、イギリスとイタリアが争いながらソマリアを分割してしまい、ここが独立したのはアフリカ全土に独立の嵐が吹き荒れた時代、ようやく一九六○年のことであった。しかし大量の兵器をアメリカ・ソ連から送り込まれたソマリアが、その後どうなったかを、九二年十二月九日に世界は見た。
世界の警察と自称する米軍がまず人道主義の看板を掲げて入ってゆき、九三年が明けると、一月三日にはガリ首相の孫ガリ国連事務総長本人がソマリアの土を踏む、歴史的な瞬間を迎えた。しかし現地の住民から激しい訪問反対デモの歓迎を受け、ガリの顔はひきつった。ソマリア人は、ガリの名前を決して忘れなかったのである。
もしその時、国連監視団という名の軍隊が住民に銃口を向けなければ、ガリは祖父と同じ運命をたどるどころか、ソマリアの土を踏むことさえ不可能であったろう。ここで、ガリの名が再び出たところで、エジプト王室の家系をよく見ていただきたい。さきほどの系図8(1、2)に、コプトのキリスト教徒、ガリ一族(★⑪)が直接結婚しているのを見ることができるはずだ。
一九七六年十二月十三日の"ニューヨーク・タイムズ"には、ガリ家のスキャンダルについて次のような内容の興味深い記事が見られる。
亡きエジプトのファルーク王の妹が、夫のリアド・ガリによって射殺され、頭を撃たれた彼女の死体を、息子のラフィク・ガリが発見した。彼女はガリと結婚したため王室一族の肩書を失い、アメリカのロサンゼルスに住んでいたが、六五年から別居していた夫のガリは経済的に追い詰められていた。贅沢なP101暮らしをしてきたガリ夫人の宝石類は、九月にロサンゼルス破産裁判所にもちこまれ、五十万ドルを期待したが、十八万ドルしか値がつかなかった。なお兄のファルーク王は、五二年のクーデターで国を追われ、一三年間の亡命生活のうちに死亡したこれがバクー油田のひとつの物語である。エジプト君主のテウフィーク・パシャの時代に首相として君臨した男も、歴史の記録にしばしば偉人として登場する。スエズ運河の開通に誰よりも尽力したヌバル・パシャである(★⑯)。エジプトの工業大臣から首相の座にのぼりつめたこの男は、クヴォルク・エッサヤンの大伯父である。
勿論、クヴォルク・エッサヤンと書いてもご存じの方は誰もおられないだろうが、天は時として不思議なめぐり合わせを好むものとみえ、クヴォルクの妻は、"五%の男"アルメニアの石油王カルースト・グルベンキアン(★⑲)の娘リタであった。
(P100-)
1.20 革命家の欲望と夢 P101-106
尻とりは、どうやら物語の最初に戻ったようである。"双頭の鷲"ロマノフ王朝が支配したバクー油田について知ろうとする時、なぜ物語が海路を通って暑いエジプトまで達したかと言えば、ひとつの巨大油田の利権が、このような国際的閨閥によって形成されているからであった。過去と現代の悪夢は、このように創作されてきたのである。
しかしこの系図の物語で、まだ語っていない人物が三人いる。スエズ運河にあって最大の軍事的要衡として全世界が知っているのは、アカバである。なぜ全世界が知っているのかと言えば、デヴィッド・リーン監督の名画『アラビアのロレンス』(相参1、相参2)で、ネフドの大砂漠を抜けてロレンスの目ざした港がアカバであり、映画をご覧になった人は、数千のラクダ部隊が「アカバ!」と叫んで突撃したクライマックス・シーンを忘れることはないであろう。
さてこれが通説のように名画であるかどうかを、さきほどの系図に尋ねてみたい。P102ロレンスがアカバ占領の報をもってカイロに向かい、そこで出会ったイギリス軍の司令官アレンビー将軍は、第一次世界大戦中、トルコ軍の討伐を口実にアラブ・パレスチナの主要都市をイギリスの支配下におさめてしまい、その後のアラブ世界を混乱させた大いなる犯罪者のひとりである。
ところがその将軍の役を、映画のなかで立派な将校として熱演した名優ジャック・ホーキンスの息子が、エジプトのファラ王女の娘と結婚したのは、どのような関係があってのことか(★⑬)。
またブトロス・ガリをエジプト首相に仕立て上げたベアリング家が、ロレンスをアラビアに派遣する直前の一九一四年三月十九日、グルベンキアンに五%の利権を供出する国際的契約を結んだのはなぜなのか。
この有名な契約は、バクー油田と共に注目されていたメソポタミアの大油田に対して、やはり系図8(1、2)に描かれたイギリス人ノックス・ダーシー(★⑮)の事業団が五〇%を取ってしまい、残りをシェルとドイツ銀行が均等に分け、さらにこのイギリス連合が自分の取り分から五%をグルベンキアン一個人に供出するという異様な国際契約であった。
結局ドイツは二五%の利権にとどまって怒りを爆発させ、それが第一次世界大戦の最大の原因になった、と言われるイギリスとドイツの不平等協定であった。そのダーシーの息子が、一九〇六年にヴァイオレット・ベアリングと結婚していたのである。彼女はエジプトの支配者クローマー卿の"従弟の孫娘"であった。
ノックス・ダーシーとは、今日BP(ブリティッシュ・ペトロレアム)と呼ばれる石油メジャーの創立者であり、ダーシーが"五%"を与えることによって、アルメニアの伝説が誕生したのであった。
かなり長い物語だったが、要約すれば、ロシアのロマノフ家、グルジア王室、アルメニア人のグルベンキアン、スエズ運河の父レセップス(フランス人)、シェル創業者のマーカス・サミュエル、エジプト王室、エジプト首相ヌバル・パシャ、イギリスの映画俳優ジャック・ホーキンス、ロシア貴族のシューヴァロフとマイエンドルフ、帝政ロシア恐怖のストルイピン首相、コプト教徒のガリ、BP創業者のノックス・ダーシー、以上が配役となり、全員が一族として石油の利権が固く守られてきた。
P103 その全体を動かしたのは、イギリスの二大財閥ベアリング商会とロスチャイルド商会であったが、すでにこの時代には、金融界を支配するロスチャイルド家が動かしがたい帝王として君臨していた。
その世界についての詳細は、『赤い盾--ロスチャイルドの謎』(集英社)に全貌を述べたので、ここではロスチャイルドの名をあげるにとどめておくが、同書に示した八十五枚の系図と、本書『ロマノフ家の黄金』に示す四十一枚の系図が、巻末の人命索引によって無数の線で結ばれることを知っておかれたい。
本書で追跡しているのは、ロスチャイルドのような巨大財閥から金を得て現場を動かした人間たちである。
系図8「バクー油田とスエズ運河」(1、2)、最後の人物ダンスターヴィル将軍から、再びバクーの現地に戻って、スターリンとミコヤンの時代をはじめよう。五%の男グルベンキアンは、油田からあがる収益によって世界一の長者と呼ばれるようになり、アルメニア人の名を全世界に轟かせた。
彼はその大金を美術品のコレクションに投じて、ドガ、マネ、ルーベンス、レンブラント、ヴァン⁼ダイク、フランス・ハルスの名画など、値のつけられないほどの絵画を買い集めていた。
その財宝を、ロシアでもアルメニアでもなく、パリに所蔵していたのだ。ところがある日、そのパリにロシア貴族のユスポフ王子が逃げこんできた。ユスポフは、ロマノフ家の皇后アレクサンドラ・ヒョードロヴナをたぶらかす怪僧ラスプーチンを殺してしまい、官憲に追われながら、パリまで逃げのびてきたのである。
ところがこの王子、ただ手ぶらで逃げてきたのではなく、レンブラントの名画二枚を無傷でかかえていた。それを売って異国の地で生きてゆこうとした亡命貴族である。「パリにはあのグルベンキアンがいる」と知ってのことだった。ユスポフ家に伝わるその絵画を持ち出す時、彼はそのレンブラントのうえに別の風景画を重ねてから、わざと粗雑に包装し、まさか国宝級の名画とは気づかれぬよう名役者よろしく振る舞って、見事国境越えに成功したのだった。
その後、幾多の変遷を経て、このレンブラントの絵画二点は、ワシントンのナショナル・ギャラリーに飾られるようになった。そこには数々のグルベンキアン・コレクションが見られる。言うまでもなく、
P104 レーニンからゴルバチョフまでソ連の歴代首脳の代理人として活動した“謎の政商”アーマンド・ハマーが、これらロマノフ家の財宝取引きの裏にあった。この美術品の流れが、ソ連貿易のミステリーを解く鍵であった。
ロシアのエルミタージュ美術館にあった作品のおよそ半分が、現在では外国にあるのはなぜか。誰がそれを持ち出したのか。そしてこのルートが現在でも生きているなら、"モスクワ・マフィア"と呼ばれる集団が今日このルートを利用して、密貿易に精を出しているのではないのか。その名前が特定できれば、新生ロシアの全体像が分かるはずだ。これまで系図8(1、2)を中心に、バクー油田のまわりに形成されたとてつもなく巨大な世界的シンジケート・ファミリーを見てきたが、この集団に対する怒りが、前世紀から今世紀初頭にかけて、貧しいロシアの人びとのあいだに明確な行動として沸き起こってきた。
一九〇五年一月二十二日、司祭ガポンを先頭にした労働者の群れが、首都ペテルブルクで皇帝への請願書をたずさえ、冬宮に向かって雪を踏みしめながら行進をはじめた。大群衆がめざしていたのは、彼らを苦しめるあのにっくきロマノフ家であった。いよいよロシア革命の狼煙があがったのである。
ところがこの革命の蜂起は、彼ら迎え撃つ軍隊によって二〇〇〇人以上の民衆があえなく射殺されてしまい、首都ペテルブルクの雪が真っ赤に染められる"血の日曜日事件"の悲劇となって幕を閉じた。いや、その悲劇によって、やがて来るべきロシア革命の火がたかだかと燃えあがったのである。
「革命」を合言葉に活動してきた人間たちは、翌年に恐怖の内務大臣ストルイピンが登場してくる姿を見た。しかしレーニンが、トロツキーが、スターリンが、民衆に倒すべき標的を教えることによって、"血の日曜日"から実に十二年の歳月を要しながら、一九一七年のロシア革命をなし遂げたのであった。その標的としたのが、まさしく"五%の男"に象徴される一群のブルジョワジーであった。
そしてレーニンたち革命家自身が手に入れようと望んだものも、バクー油田がもたらす富と財宝であった。後年のナチスのソ連侵攻作戦も、やはり最大の目的地がバクー油田にあった。先ほどの大系図を見れば、ロシア革命は起こるべくして起P105こった民衆蜂起の勝利であろう。
ただし問題は、そのあとのバクーであった。ロシア革命政権が成立した次の年、一九一八年四月、ボリシェヴィキは遠いバクー市に"人民会議"という組織を強制的に創りあげ、モスクワの息のかかった二十六人のメンバーが行政をおこなうよう命じた。このバクーの反乱を組織したのがアナスタス・ミコヤンで、さらにスターリンも後ろから強力な支援を送り、バクーを最大の決戦場としてボリシェヴィキを動かした。ここにこそ革命家の欲望と夢があったからだ。
ところが七月に入ると、アゼルバイジャン民族政府軍が蜂起して、両軍が激しい戦闘に突入していった。そしてまだ即製のボリシェヴィキの軍隊は、あえなく敗退してしまったのである。このとき勝利を手にしたアゼルバイジャン政府が頼みにしたのは、勿論バクーの石油に浅からぬ利害関係を持つイギリスであり、彼らはボリシェヴィキの反撃に備えてただちにイギリスに援軍を出してくれるよう要請した。一方、そのような要請がなくとも出かけてゆきたかったイギリス軍である。
アゼルバイジャン政府に応え、喜んでバクーににかけつけたのが、ダンスターヴィル将軍(★21)であった。彼の率いる連隊がペルシャから侵入すると、たちまちバクー市を占領し、ボリシェヴィキの幹部を全員逮捕してしまったのは、系図8(1、2)に見る通り、一族で示し合わせての軍事占領であった。
ところがそのバクー市に、イギリスにとって最も恐れる新しい強敵トルコ軍が進軍してきた。まだ、第一次世界大戦が続いていたのである。遠いアカバなどの中東では、アラビアにロレンス=アンビー将軍の軍団がトルコ軍を打ち破ったが、ここバクーでは地元の地の利を活かす圧倒的なトルコ軍に対して、はじめからイギリス軍に勝ち目はなく、ダンスターヴィル将軍は撤退するほかなかった。
その時、不思議なことが起こった。ミコヤンとイギリス軍が手を組んで、ボリシェヴィキの幹部を釈放しながら逃げ出してしまった。つまり資本主義者と共産主義者が一緒に逃げたのである。"双頭の鷲"は、頭が2つでも体が一つなのだから、飛び立つときは一緒になる。
P105 続いて、十一月の第一次世界大戦の終結をもって、それ以後、バクーの支配者は次々と交代していった。敗戦国トルコに代わって、再びイギリス。続いてアゼルバイジャンの独立によってイギリス撤退。一九一九年に入ると、しかしモスクワの新政権がバクーの石油を黙って見てはいなかった。一度は敗れたミコヤン、べリア、オルジョニキーゼ、キーロフたちの策動がはじまり、翌年四月にボリシェヴィキの再度の突撃が敢行されたのである。
(P106-)
1.21 赤軍のバクー制圧 P106-111
P106 赤軍の兵士がここでくり広げたバクーの大量虐殺と多くの婦女に対する強姦は、クロンシタットの反乱鎮圧事件とともに、ロシア革命史上でも最もおそろしい記録として残されている。秘密警察のチェカの部隊も登場し、貧しい階級の出であるグルジア人の指揮官オルジョニキーゼの憎悪がブルジョワジーに向かった結末は、凄惨なものであった。
いや、オルジョニキーゼと虐殺との関係は、数々の書物でそのように伝えられてきた。ところが一九ハ八年に"末期のソ連"で発刊された人名録(巻頭の「ロシアの人名表記について」参照)によると、この大虐殺を指揮したオルジョニキーゼは"貧しい階級の出"でなく、"貴族の出"であったという。グラスノスチ(公開政策)の成果がまた新事実を明らかにしたのである。
フルシチョフとモロトフばかりでなく、オルジョニキーゼも貴族であった。秘密警察チェカを創設したフェリックス・ジェルジンスキーも、ポーランドの貴族だったことが思い出させる。当時のロシア革命政府にとってもうひとりの重要人物が、この混乱の時代に登場した。それは即製の兵隊集団をプロの赤軍に育て上げた男、ミハイル・トゥハチェフスキーである。一九ニ一年、チェカの粛清に怒りの声をあげた前述のクロンシタットの水兵が反乱を起こした時、この水兵たちを"水辺のアヒルのように"殺したのが、かつて帝政ロシアの将校で、ロシア貴族の系譜署に一族が記載されているトゥハチェフスキーであった。
P107 一九七五年にこの世を去った作曲家の遺書『ショスタコーヴィッチの証言』(ソロモン・ヴォルコフ編、水野忠夫訳、中央公論社)には、トゥハチェフスキーについてくわしい記述があり、クレムリンの高官として、理解すべき心ある人物として描かれている。しかし彼は、戦場にあっては必要な勝利のためにすべての知力を傾けた男で、ヒットラーさえ赤軍司令官トゥハチェフスキーをおそれてソ連攻撃に出ることができなかったという。三七年六月十一日、トゥハチェフスキーがスパイ容疑のためスターリンによって処刑されて初めて、ヒットラーがソ連侵攻"バルバロッサ作戦"を決断したと言われるほどおそれられていた。
彼は第一次世界大戦ではドゴール(のちのフランス大統領)と共にドイツの捕虜となった経験を持ち、おそらくその時にドゴールと議論するなかで同じ結論に達したのではないかと想像されるが、「ロシア革命政府の軍隊を機械化しなければ戦いには勝てない」という戦略哲学を貫いて、やがて脆弱な赤軍を世界有数のソ連軍に育てあげることに成功したのである(→参照)。
"赤いボナパルト"の異名をとり、赤軍に、戦車、ロケットなど機械化の革命をもたらし、一九三一年にはスターリンのもとで赤軍総司令官の最高位にのぼりつめた。この人物がまたロマノフ王朝の貴族ファミリーだった事実は何を意味しよう。
ロシア革命は、ロシアから貴族を大粛清したのではなかったか。数を調べてみれば分かるが、桁違いの莫大な人数が粛清されたのは、大部分が農民であり、ロシア貴族の多くは家財をもってフランスやドイツなど西ヨーロッパに逃亡してしまったのだ。
革命政府は彼らを殺すどころか、世界大戦、白軍との闘い、クロンシタットの反乱、ウクライナの抵抗、ポーランド戦争、バクーの争奪戦などで一刻も休まる暇がなく、自分の足許のほうがよほど危なかったため、国内にいる貴族を選んで殺す余裕などほとんどなかった。
こうした内戦のなかで、懐に大金を持つ貴族たちは充分な余裕をもって脱出でき、またトゥハチェフスキーのように、革命後に愛国心から革命政府に参加した者もかなりあった。ロマノフ家の最後の皇帝ニコラP108イ二世が退位したのち、レーニンの革命によって一家全員がエカテリンブルク(エカチェリングブルク)で処刑された事件は、単なる象徴的現象でしかなかったのである。
そして革命政府が求めた人材こそ、「階級闘争」どころか、かつてロシアを支配した経験豊かな貴族階級の知識人であった。バクー市の復興に見られたのが、その代表的れ例であった。一九二○年、バクー油田がついに赤軍によって完全に制圧されたとき、そこにあった利権者の姿は一掃されていた。グルベンキアンの僚友としてバクーに権力をもっていたレオン・マンタチェフはパリへ逃れ、精油所を経営していたシューヴァロフの邸宅も、やがてミコヤンのダーチャになる運命にあった。グルジア王室はスペインへ逃れ、誰もいなくなってしまった。
ところで石油はどうなったかのか。
バトゥーミから積み出したところで、西側からの買い手はいなかった。一滴も売れない大油田があるばかりだ。スエズ運河もボリシェヴィキの敵、ロスチャイルド家の私有物である。レーニンが打ち出した新経済政策ネップとは、全世界に頭を下げて「買って下さい」と頼む政策だったが、やがてそれ以上のことが、レーニンが死んだあと、ソ連に起こりはじめた。スターリンが打ち出した工業化のための五カ年計画が、過去に自分たちの手で葬ったはずの国際人脈をすっかり甦らせることになっていったのである。
系図8(1、2)のキラ星★たちが、足音もたてずにバクーに帰ってきたのだ。工業化に必要な鉄を輸入するため、ペテルブルクのエルミタージュ美術館からは至宝が秘かに、しかもつぎつぎと売りに出され、全世界の財閥の手に落ちていった。この時、五%の男グルベンキアンは、すでにボリシェヴィキと接触しはじめていた。そして石油の販売のためボリシェヴィキに手を貸す代償として、彼はエルミタージュの美術品を売りに出すことを堂々と要求した。
その取引が成立したことは、彼の美術品コレクションを一見すればすくに分かることであった。後年、ポルトガルの首都リスボンに設立されたカルースト・グルベンキアン財団が持つ資産は、小さな国家よりはるかに巨大といわれたが、石油八〇憶バレルの"五%"P109は六億ドルである。その当時の貨幣価値から換算して、天文学的な金塊の持主であった。
当時世界最大の美術品コレクターを自認するアメリカの石油財閥アンドリュー・メロンは、エルミタージュの売り物カタログが、まず最初に自分の手許に提示されなかったことに憤慨していた。それほどグルベンキアンの動きは素早かった。
本書で追跡しているのは、現代に復活してきたロシア大財閥の正体である。その財閥グループが、死んだと見られていたロマノフ王朝を中心に活動を開始したのが、ペレストロイカ・グラスノスチの激動期、一九九〇年だったが、九一年にはロマノフ家の皇位継承者ウラジミール大公がロシアに帰郷を果たした。
また、グルジア王室の王位継承者が、九二年に「国王の座に復帰したい」と発言しはじめた。その両人こそ、バクー油田の系図に★⑩と★⑫で示されているロマノフ家とバグラチオン家の代表者であった。本書の副題につけた「ロシア大財閥の復活」とは、そのような意味である。また、この現代史の背後にいるのが、過去--ごく近い過去--におこなわれた東西貿易の支配者たちである。
ここに、貿易をとりまとめたアナスタス・ミコヤンという謎のアルメニア人の姿が浮かびあがってくる。若きカガノヴィッチ・サークルのパーティーに姿を見せて以来、クレムリンの幹部にのし上がった男だ。いずれもアルメニアのグルベンキアンとミコヤンが交わした密談と取引き、これが今ではクレムリンの生命線であった。この一本の線が切れると、バクーは閉鎖されてしまう運命にあった。
一方でスターリンは、理想に燃える愛国的な共産主義者を、自由主義者もろとも次々と粛清することにも余念がなかった。赤軍を育てあげた貴族トゥハチェフスキーさえ殺してしまい、ドイツの侵攻を受けてスターリンの狼狽は頂点に達したが、この赤軍司令官の身に起こったスパイ容疑は、ナチスの流した謀略情報によってトゥハチェフスキーを早まって処刑した事件と見られている。
つまり、粛清の出発点の多くが密告にあったため、時には外国から送り込まれた工作員による陰謀も、内部分裂に大いに効果を奏していた。独裁者スターリンの指の動きの裏に、"スターリンに罠を仕掛けようとするMI6やゲシュタボ"のP110存在を見逃すことはできなかった。
(P114-)
1.22 フランスのカガノビッチ家 P115-118
1.23 スターリン暗殺計画 P119-123
1.24 淋しい二大国家のラパロ条約 P123-130
1.25 ロマノフ家のレーニン P130-137
1.26 ゴーリキーと原爆工場 P137-141
1.27 ロスチャイルドが広げた無数の閨閥 P141-145
1.30 マルクスと巨大財閥 P146-151
P146マルクス自身は、ここに示す広大な系図15のなかを泳ぎながら、身をもってヨーロッパ大財閥を体現していたようである。母方のいとこの息子アントン・フィリップス(★⑥)は、わが国では松下コンツェルン生みの親として銘記されなければならないが、ヨーロッパ最大の電機メーカー「フィリップス」の創業者であった(相互参照)。
オランダのユダヤ人アントン・フィリップスは、ラパロ条約を結んだAEG創業ファミリーのラーテナウ外相(系図10)と協定を結び、バクーのソ連支配者レオニード・クラーシンに取り入ったことで知られている。このフィリップスに資本を投下したのがロスチャイルド家であった(★②)。
日本人に身近な話をすれば、松下電器産業がハリウッドの大手映画会社MCA(ミュージック・コーポレーション・オブ・アメリカ)を買収し、ソニーに続いて日本人がハリウッド乗っ取りに動き出した、と騒がれたこともあったが、ハリウッドを生み出し、今日もその人材を掌握しているロスチャイルド財閥にとって、松下の金の流れは、ごく自然な自分の手のなかの動きにすぎないものであった。
ただ、それを勘違いすると、結局は「買収したが何ひとつ日本人には手の出せないハリウッドであった」という落胆の言葉を吐きながら、惨めな撤退のラベルを貼られてしまう。ハリウッドはハリウッドであり、その本家は、あくまでもカール・マルクスの資本論の奥深くに隠れている。
マルクスの結婚相手は、イェニーことヨハン・ヴェストファーレン(★④)という女性で、こちらはかつてのヴェストファール家から成りあがった新興貴族だが、新興とは「大金を持っているので上流社会に認知された」ということを意味していた。
従来のマルクス伝記でこれらのことがほとんど語られていないのは不思議だが、妻イェニーの腹違いの姉の家系は、母方のおじが大蔵大臣フェルトハイム(★①)であった。このおじさんは、間違っても共産主義者などという危険な思想の持ち主ではなかった。
P147フェルトハイム家をさらにくわしく見れば、ラスプーチンが暗殺される二か月ほど前に、当時ドイツで最大の企業、そして世界最大の化学コンツェルン「IGファルベン」の創業者デュースベルク(★⑦)の娘と結婚していたのである。
IGファルベンとは、ドイツ語で「染料シンジケート」を意味するつまらない社名だが、当時の染料は、繊維工業の化学染色から出発した有機化学の代名詞、つまり最も華やかな近代産業のシンボルであった。
IGファルベンは、デュースベルクの死後ナチスによって掌握され、アウシュヴィッツの収容所を経営したことであまりに有名である。現代ドイツの三大化学会社バイエル、BASF,ヘキストが一社に合併され、IGファルベンと呼ばれたのだから、その資本力はドイツの国家経済そのものであった。
系図15は、ナチスがまだこの世に発生する以前のIGファルベンである。つまりマルクスはユダヤ人であり、当人がナチスに関係するはずはなかった。また彼は一八八三年にこの世を去っていたので、マルクス一族フェルトハイム家と世界最大の化学コンツェルン創業者デュースベルク家の結婚は、ロシア革命前夜の一九一六年、マルクス死後三十数年目の出来事になる(★⑧)。
さらに、マルクス・ファミリーは、このように生前にも大金を動かし、死後も大金を動かす財閥のなかにあり、それもこれ以上はないという巨大財閥の真ん中に生きていたのである。これが『資本論』の由来であった。
ロシア革命後につながり合うマルクス・ファミリーの系譜は、図の一番下に象徴として描いてある。ここでは、ドイツ帝国宰相ホーヘンローヘ(ホーヘンローエ★⑤)家との閨閥がつくられているが、この家系はドイツ王室そのものである。
この系図では省略してあるが、ベルリンのブランデンブルク門に、騎馬像の雄姿を誇る今日の統一ドイツのシンボル、フリードリッヒ大王がこの系図の背後にいると言えば、墓石の下のマルクスは自分の血統書を見て驚くだろうか。
系図というものは、ある人間は子沢山で、ある人間は早婚、といったさまざまなの要素をもった親子関係によって形成されているため、その個人的事情を知らずに、世代ごとに只機械的に分けて線を引いてゆくと、逆に事実関係を誤って読み取る系図ができてしまう。
たとえばスエズ運河の建設者レセップスは、二度の結婚で十七人の子供をもうけている。長男の生まれたのが一八三八年で、末娘の誕生日は一八八五年、実に四七年後、ほぼ半世紀の歳の差にもなる。
これでは、兄妹のあいだで二世代もずれてしまうのである。とりわけ貴族社会では、七十歳の老公爵に二十歳の花嫁という政略結婚さえ珍しくないので、マルクスの資本論の系図では、特にその点に注意を払う必要がある。
カール・マルクスの生年が一八一八年であるのに対して、系図を描くとその二世代あとになるドイツ宰相ホーヘンローヘが翌一九年生まれであるから、実は全く同世代である。本書の系図で、ところどころに一世代を飛ばして長い線が引かれているのは、登場人物を生年によってほぼ同じ世代の位置に移動し、現実に合わせて描くようにつとめたからである。
こうしないと、たとえばロシア革命が何年に起こり、その革命以前にどのような結婚式が挙げられたかという人脈の意味が解読できなくなる。
第一部の主役が描いた十五枚の系図、そのなかのカガノヴィッチ、モロトフ、リッベントロップ、フルシチョフ、メンジス、スターリン、ラーテナウ、チチェーリン、レーニン、トロツキー、ゴーリキー、ヤゴダ、ストルイピン、マルクスなどが、私たちの先入観として多年にわたって胸の奥に秘めてきたソ連・共産主義のイメージとはひどく異なることを静かに教えている。
共産主義を通じてロマノフ家の扉を少し開きはじめたのは皮肉である。いよいよ第二部で、その本家ロマノフ家の正体を明らかにする財宝物語に入りたい。
舞台は一変して、大富豪デミドフ、女帝エカテリーナの愛人たち、美術館を建設した大商人に文豪トルストイ、わが愛するチャイコフスキー、ラフマニノフ、そこにからみ合ってゆく美術家の闘い、ショスタコヴィッチの証言、タガンカ劇場とバラード歌手ヴィソツキー…
この世界を見なければ、現代モスクワ・マフィアの正体を知ることなど到底できないという。
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