第一部 フィレンツェで考える P14-142
(P14)「(略)見たい、知りたい、わかりたいという欲望の爆発が、後世の人々によってルネサンスと名づけられることになる、精神運動の本質でした(tw)」
「でも、見たい知りたいわかりたいという欲望は爆発しただけではなく、造形美術を中心にした各分野における「作品(オペラ)」に結晶しています」
「創造するという行為が、理解の「本道」であるからですよ。ダンテも言っています。考えているだけでは不充分で、それを口であろうとペンであろうと画筆であろうとノミであろうと、表現してはじめて「シェンツァ」になる、と。
イタリア語の「シェンツァ(Scienza)」は英語にすると「サイエンス(Science)」ですが、この場合は「科学」とか「学問」よりもこれらの言語の語源であるラテン語のシエンティア(Scientia)が意味した、「知識」ないし「理解」と考えるほうが適切でしょう。(略)」
(P18)
「ルネサンスを、詩人のダンテや画家のジョットーからはじめる傾向は、ルネサンスという歴史上の精神運動の芸術面での成果のみに照明が当てられてきた傾向の延長でしょう。しかし、彼らや彼らにつづいた芸術家たちは、いうならば大輪の花です。
大輪の花を咲かせるには、まず肥沃な土壌が必要だし、充分な水も陽光も欠くわけにはいきません。ルネサンスという、芸術面に最も華麗な成果をあげた歴史上の精神運動の土と光を整えたのが、芸術とは一見無関係に見える宗教家の聖フランチェスコと政治家のフリードリッヒ二世であったと、私は考えています。
(略、宗教には経典を持つユダヤ教、キリスト教、イスラム教、経典を持たないギリシャ人やローマ人の宗教がある。経典のある宗教は聖職者か存在、信者に経典を説く人が必要だから)
ローマ帝国も確実に衰退期に入っていた紀元四世紀のはじめ、ときのローマ皇帝コンスタンティヌスはキリスト教をローマ帝国の国教と定めます。
(略、キリスト教以外の宗教、特にローマの宗教は禁止されていない)しかし、その世紀の末になると、皇帝テオドシウスによって、宗教はキリスト教一つと決められます。(略、一神教なので他宗教を禁止するのは論理的に正しい。聖職者階級が独立度を強め力を持つようになる)
(P20-)
P20(略、聖職者たちの権威と権力維持のために用いた武器は、罰則と脅し(地獄))「とはいっても、それによって一千年もの長い歳月、人々は、従順なキリスト者でありつづけたのですか」
「いいえ、組織の増強は、抽象的なことばかり説いていては成功しません。P21十五世紀前半に生きたイタリア人であるロレンツォ・ヴァッラによって偽作と喝破される『コンスタンティヌスの寄進状』なるものがあるのです。
それはキリスト教を国教にしたコンスタンティヌス大帝が、ローマの西半分、つまり後代のヨーロッパの地をローマ法王に寄進したとされるもので、これが中世の間ずっと信じられ、土地の正統な所有権はすべてキリスト教にあるという、教会側の主張の拠りどころになってきたのです。
それゆえに、生産基地であると同時に住む場であるもある土地は、所有主といえども教会から借りているにすぎなく、所有権の存続を認めるか否かも、キリスト教会に決定権がるのだ、と。
この主張の拠りどころになってきた『コンスタンティヌスの寄進状』なる史料を、そこに使われている言語を分析することによって、コンスタンティヌス大帝が生きた四世紀に書かれたものではなく、十一世紀になって偽造されたものであることを実証したのだ、十五世紀前半に生きたロレンツォ・ヴァッラという名の古典学者でした。
ということは、十二世紀から十三世紀にかけての聖フランチェスコの時代でもなお、『コンスタンティヌスの寄進状』は真物と信じられていたことになる。つまり、現世でのこの種の束縛も、中世の人々を、キリスト教会という"羊飼い"の後に従う従順な"羊"にしつづけた理由の一つであったと思います。
なにしろ、疑いをいだくのは、P22良きキリスト教徒としては邪道と考えられていた時代ですよ。既成の概念に疑いをもったことが『寄進状』の偽作断定につながったロレンツォ・ヴァッラは、まさにルネサンス人の列に加えるにふさわしい。そして、既成の考え方に疑いをいだき、それを明言する勇気をもった最初の人が、アッシジのフランチェスコであったのでした(tw、tw)」
(略、聖フランチェスコの来歴)
P23 聖フランチェスコがキリスト教会にもたらした革命は、中世前期という長い歳月に固まった既成概念を取り払って虚心に聖書に接すれば、イエスの教えは愛と優しさに満ちたものであった人々に思い出させたことです。ソロモンの栄華よりも野に咲く一本の百合をP24愛したのがイエス・キリストなのだから、聖フランチェスコの解釈のほうが正しいとさえ言える。
しかもフランチェスコは、この考えを、当時では俗語と呼ばれていたイタリア語で説いたのです。(略)キリストの教えを、信者の一人一人が自分の頭で考え自分の心で感ずることにあったのです。こうして、アッシジの修道士は、聖職者による宗教の独占体制をつき崩すことになったのでした」
「しかし、聖フランチェスコが第一に重んじたのは貧しさで、それが彼の創設になるフランチェスコ修道会のモットーになりますが、ソロモンほどではないにしても、贅沢三昧にふけり飽和状態と言ってもよい高位聖職者の集まっていたローマ法王庁には、絶縁状をたたきつけてはいません。しかも、ローマ法王からは、修道会の認可さえいとも簡単に受けている。
これでは、後のルターと比べても、キリスト教会に革命をもたらしたとは言えないではないですか」
P25 「フランチェスコは、イタリア語ではクレロ(clero)と呼ぶ聖職者階級の、存在自体は否定していません。つまり、経典解釈の必要は認めていたということです。ただし、解釈ならば自分のそれは、これまでの聖職者たちとはちがうとしたにすぎない。
そして、フランチェスコがはじめた新しい解釈の存在意義を理解し認めたのが、ときのローマ法王イノセント三世であったのですね。この人物を知ればなおのこと、当時の聖職者の中での聖フランチェスコが、いかに異分子であったかが納得いくでしょう」
「イノセント三世といえば、ローマ教会の権威と権力を最高にした法王であったと、高校の歴史教科書にも書かれていたことを思い出します」
「この人は、ローマ近郊の封建領主の家に生まれています。あの当時のこの種の有力家系では、長男は跡継ぎ、次男は聖職者、三男はどこかの領主に雇われての軍事か他家への婿入りと配分することで一家の安泰をはかっていたのです。(略)
若き日のイノセント三世は、パリ大学で神学を学び、ボローニャ大学では法学を習得します。パリ大学もボローニャ大学も、当時のヨーロP26ッパでは一、二を争う最高学府でした。もともとからの優れた資質に加えてこの完璧な修学では、封建領主の子弟たちの集団の観があったローマ法王庁でも抜きんでていたのでしょう。三十八歳の若さで、法王に選出されたのでした。
イノセント三世と名乗って法王になったこの人が最大の目標にしたのが、ローマを本拠にするカトリック教会の権威と権力の増強です。拠って立つ証拠は、例によって『コンスタンティヌスの寄進状』。ただし、ローマ法王は軍事力をもっていません。
それに代わる"武器"が、「政務禁止」と「破門」でした。(略、政務禁止と破門が武器となる理由)
ドイツの王で神聖ローマ帝国の皇帝でもあったハインリッヒ四世が三日三晩降りしきる雪の中に立ちつくして、法王に破門解除を乞うた『カノッサの屈辱』は、聖フランチェスコの時代よりは百年前の事件でしかなかったのですよ。
この武器を駆使することで、法王イノセント三世は、イギリス、ドイツ、フランス、イタリアの王侯たちに、王国の正統な所有権はローマ教会にあり、彼らはその統治を託された立場であるにすぎない、ということを次々と認めさせていきます。
法王は太陽であり、皇帝といえども月にすぎない、と公言した人でもありました。教科書にある「カトリック教会極盛期のローマ法王」の説明は、右のような事情によるのです。
ルネサンス人の一人でもある政治思想家マキアヴェッリの言ですが、指導者は獅子と狐の双方の才能をもたねばならないというのが正しければ、イノセント三世が卓越したリーダーであったのは確かです。衆に優れた人物は、衆に優れた他者をP28見出す眼識の持主でもある。
キリスト教会の旧体制を代表していた法王イノセント三世なのに、フランチェスコ修道会がカトリック教会の新体制になると感じとり、法王の祝福という、キリスト教の信者にとっては実に価値のある贈物を与えてスタートを祝ったのでした。
貴族的な性格で華麗な暮らしぶりを好んだイノセントが、フランチェスコが説く清貧の思想に共鳴したからではないと思う。ローマ教会という"太陽"であらねばならない巨大な組織に、新しき血を導入することが、組織の活性化に利すると判断したからでしょう。豪華な法衣に身をつつんだイノセントは五十一歳、貧しい修道衣をつけただけのフランチェスコは二十七歳であった年のことでした。
このイノセント三世は、もう一人の異分子を、その地位を認めることでスタートに力を貸しているのだから面白い。神聖ローマ帝国皇帝のフリードリッヒ二世ですが、この人物については後で述べるとしても、この皇の帝こそが「法王は太陽、皇帝は月」と公言するローマ教会に敢然と反旗をひるがえす人になるのだから、イノセントの眼識も客観性をもっていたということですね」
「フランチェスコ修道会の活動に認可を与えたイノセント三世の判断は、その後の修道会の隆盛を見れば、正しかったことがわかりますね」
「イエス・キリストによれば、神の地上での代理人が法王です。その法王が認めたのP29だから、若いフランチェスコも、そして彼とは同年輩の若者たちから成っていたフランチェスコ派の修道士たちも嬉しかったろうし、なによりも信者たちが安心したでしょう。異端と断定され、政務禁止や破門に処される恐れが消えたのですから。
(略、フランチェスコによる階級組織の平等化、第三階級の創設→職業選択の自由、他宗派への寛容)
P32 とはいえ彼も、キリスト教の神のみが正しい道への導き手であると信じて疑わなかった点では、正真正銘の一神教徒です。このような確信をもつ宗教者にとって、異教徒への布教は神に対しての義務になる。それに、当時は十字軍の時代。
皇帝や王や君侯が先頭に立って聖地奪回に向かったときのみを教えて、第一次から第七次までの七回が十字軍の遠征であったように思われていますが、諸王侯が帰国した後でも局地戦争がつづいていたのが、パレスティーナの地の現実でした。
ということは、第一次十字軍の一〇九六年から第七次十字軍の一二七〇年までの百七十年余り、キリスト教とイスラム教徒は剣を突き合わせていたことになる。三十代の後半に入っていたフランチェスコは、戦場であったパレスティーナに出向くと決めます。
まずはイスラム教徒をキリスト教に改宗させるため。同時に、改宗させることで戦争状態を終結させ、平和を打ち立てるという目的をもって。
P33 この人はやはり、理想主義の人だったのですね。頭巾のついた茶色の修道衣に荒縄を腰で結び素足に皮のサンダルといういつもの姿で、従うのは数人の同じ服装の修道士たち。もちろん、武具どころか短剣さえもたない無防備な装い。これで、イスラム側の天幕に行き、キリストの教えを説き平和を訴えたのでした。(略、戦争のさなか丸腰で大丈夫かという話)
しかし、当時のアラブ人は、自分たちのほうが西欧人よりも文明度が高いと信じていたし、実際そうでした。(略、布教失敗、狂人と見なされ、キリスト教側陣営に送り返された)
(略、西欧では、フランチェスコの教えに共鳴する人々は増加の一途、とくに当時の新興階級であった、商人と手工業者の間に人気)
P34 当時は十字軍の時代でした。戦争があれば、人と物が動きます。物を生産するのは手工業者で、生産された物を動かすのは商人。そして、人と物の運送を担当したのが、船をもっていたイタリアの海洋都市国家。アマルフィ、ピサ、ジェノヴァ、ヴェネツィアの海洋都市国家が、"十字軍特需"の最大の享受者になっていきます。
加えて、「十分の一税」という天引税によってキリスト教徒からのお金が自動的に入ってくるために、自然に大金が集まるシステムになっていたローマ法王庁。フィレンツェの興隆は、法王庁に入ってくるカネの運用を請負ったことからことからはじまったのでした。
商人という言葉で一くくりできないこれらの新興階級が、フランチェスコ宗派の中核になっていくのです。この種の人々が信徒の中核であったにもかかわらず、フランチェスコの偉いところは、貧しさを尊ぶ精神から絶対に離脱しなかったことでした。この頑固さは結果として、芸術の分野でのルネサンスに道を開くことになるのです。
フランチェスコの考えでは、神と出会う場である教会は、豪華に飾り立ててはいけP35なかった。(略、モザイクからフレスコ画へ)聖フランチェスコがいなかったならば、フレスコ画法の再興は成らなかったとさえ言える。宗教上の理由という需要があったからで、現代でも見られるフレスコ画の傑作は、フランチェスコ宗派の教会に断じて多い。
これがジョットーを生み、ルネサンス絵画への道を切り開くことになったのでした。ルネサンスは、聖フランチェスコを除いて語れないのですよ」
「なるほど、ルネサンスにおける聖フランチェスコの位置については納得できました。しかし、皇帝であったことから政治の世界の住人であるフリードリッヒ二世までも、P36なぜルネサンス人の一人なのですか。この人は神聖ローマ帝国という中世そのものとするしかない国家の長なのだから、新体制の人ではなくて旧体制に属する人ではないのですか」
(略、フリードリッヒ二世の来歴)
(略、フリードリッヒ二世と聖フランチェスコの共通点)
(P40-)
P40 聖フランチェスコは、イタリア語とフランス語のバイリンガルであったと言われていますが、フリードリッヒ二世はバイリンガルどころではない。ギリシャ語、ラテン語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、アラビア語を、完璧に読み書き話せたということです。
アラビア語習得の必要は、シチリア王でもあった彼の臣民の一部がアラブ系であったからというより、科学を学ぶ必要からでした。広い分野にわたっていたフリードリッヒの関心の中でも、とくに強かったのが数学と幾何学と天文学であり、それらを学ぶには、当時ではアラビア語で書かれた書物を読むか、アラブ人から教えを受けるしかなかったのです。
しかし、これではキリスト教世界では異分子にになるしかない。異分子でも、異教徒との通商で成り立っているヴェネツィアの共和国の商人ならば不都合もなかったでしょうが、フリードリッヒは、キリスト教を守り立てる責務を誰よりも課されている神聖ローマ帝国の皇帝です。
自らの心の声に忠実に生きるということならば、聖フランチェスコのほうが容易ではなかったかと思う。法王イノセント三世が認めて以後のフランチェスコ修道会には、異端と断罪され破門される危険はなかったのですから。
反対にフリードリッヒは、その生涯を破門につきまとわれることになる。法王は太陽、皇P41帝は月とする考え方に、服従を拒否したという一事ゆえに」
「フリードリッヒ二世の生きた時代からは八百年が過ぎようとしている現代でもなお、ヨーロッパでは、宗教に対する人間の態度を三つに分ける考え方が生きています。イタリア語でいえば、
「アテオ」(ateo)---無神論者、無信仰者、神の存在を信じない人を指す。
「クレデンテ」(credente)---信仰者、とくに「プラティカンテ」と断われば、掟を忠実に守り、日曜日には必ず教会でもミサに参列する人のことを言う。
「ライコ」(laico)---神の存在の否定までははしないが、宗教が関与する分野と関与すべきでない分野の区分けを、明確にする考え方を採る人のこと。
修道士である聖フランチェスコが「クレデンテ」であり「プラティカンテ」であったのは当然ですが、フリードリッヒ二世とて「アテオ」であったのではない。ただしあの時代には、「ライコ」であっても「アテオ」と見なされたのです。
著作が法王庁から禁書にされる政治思想家のマキアヴェッリも「ライコ」、地動説の撤回を強いられた科学者ガリレオも「ライコ」。ルネサンスとは、これらの「ライコ」たちが起こした精神運動であったと言ってもよい。
しかし、フリードリッヒ二世の不運は、このP42ルネサンスのはじめに生きたがゆえに、法王は太陽、皇帝は月と言ってはばからなかった時代のキリスト教会を相手にしなければならなかったことですね」
「彼以外の皇帝や王たちは、月や星と見なされても抵抗はしなかったのですか」
「反抗は常にあった。でもそれは、皇帝や王が統治する国では政務に就く高位聖職者の任命権は、法王にあるのか皇帝や王にあるのかをめぐっての抗争で、人事権は権力の第一だから重要事であることは確かでも、単なる権力争いの印象は免れなかった。
ところが、フリードリッヒがローマ教会に突きつけたのは、より根元的な政治と宗教の分離であり、これはもう、十五世紀のマキアヴェッリの、そして十八世紀になって起こった啓蒙主義の、前ぶれとしてもよい「ライコ」思想による中世体制への挑戦でした」
(略、フリードリッヒ二世が、実際やったこと。第一に法律の整備、第二は官僚機構の組織、第三は税制の整備、第四は通貨の整備、第五は学問芸術の改革(法王庁の支配下にあるボローニャ大学に対抗して、ナポリ大学を新設、ナポリ大学で教える法律は、キリスト教徒は無関係なキケロ時代のローマの法律、ナポリ大学の公式名は、フリードリッヒをイタリア語読みした「フェデリーコ二世大学」。ナポリに近いサレルノにあったヨーロッパ唯一の医学校をより開けた学府に改め、民族も宗教も関係なく学べるようにした。アラブ人やユダヤ人はもちろんのこと、女学生もいた。))
P46 シチリアもパレルモも、フリードリッヒにとっては生まれ育った地であり自分の宮廷を置いていた都市ですが、そのパレルモの宮廷内に彼は研究所を設立する。そこに集められた文献は、ギリシャ語ラテン語にかぎらずアラビア語でも書かれたもの、集められた哲学者、科学者、文学者たちの民族別も、イタリア、ドイツ、スペイン、フランス、アラブ、ユダヤにおよんでいたというのだから、これも古代では有名な研究機関であった、エジプトのアレクサンドリアの「図書館」の模倣ではないかと思ってしまいます。
フリードリッヒは、当時の教会が交流を禁じていたイスラム教徒であるエジプトやチュニジアのスルタンに手紙を送り、優秀な学者の招聘の仲介まで依頼している。この皇帝直属の研究所でなされた業績は、当時はヨーロッパの知的用語で国際語でもあったラテン語で書かれた論文で発表されたのですが、名実ともに"研究所長"であったフリードリッヒ自身も、いくつかの著作を発表しています。
その中でも最も有名なのが、彼が愛好した鷹狩りについての考察書(→参照、冒頭部分、『皇帝フリードリッヒ二世の生涯(上)』より)で、これは趣味人の域を完全に超えた科学書であり、近代鳥類学のはじまりとされている。
それにまた、研究員には学者だけでなく文人も少なくなかった。この文人たちによP47って、古代のラテン語の俗語的変形にすぎなかった、イタリア語の改良がはじまるのです。粗悪な言語であったがために知的な人は使用を避けるという庶民の俗語の域に留まっていたイタリア語が、言語としての完成度を高めていく端緒は、フリードリッヒの宮廷からはじまったのでした。
言語としての完成度が劣れば、完成度では高いラテン語に頼りつづけるしかない。当時のラテン語は、キリスト教会の聖職者の専売特許と言ってよかった。この状態がつづくかぎり、知的な分野であればあるほどローマ教会の影響から脱することが困難になる。
高尚な思想であろうと繊細な感情であろうと表現可能なイタリア語をつくりあげようとしたフリードリッヒの想いは、百年もしないうちに、詩人ダンテによって花開くことになるのです。はじめに言語ありき、とは聖書にもありますが、まったく言語とは、理性、感性、悟性を明確にしそれを表現するには最上の"道具"ということですね、フリードリッヒは、言語もまた、神のものではなく人間のものであるべきと確信していたのです」
「しかし、十八世紀の啓蒙君主を先取りした観さえあるフリードリッヒ二世であったのに、なぜ、同時代では他のどこよりも活気のあった北部と中部のイタリアの小都市群からは、激しくしかも執拗に反抗されたのですか」
P48 「啓蒙君主とは改革というはっきりした目標をもっている人のことですから、自分は何をやりたいかを明確に知っているリーダーということでもあります。やりたいことを実現するには、万人がその必要性を自覚し納得するのを待っていたのでは実現できない。実現には強権の行使は避けがたく、それゆえ専制的なリーダーになるのは、啓蒙君主の宿命でもあるのです。
古代ギリシャの都市国家アテネでも、ペリクレスが三十余年の長きにわたって君臨していた時代にかぎれば、同時代人の歴史家ツキディデスから次のように評されている。外観は民主政体だったが、内実はただ一人が統治した国家であった、と。
文芸復興という面ではこのアテネと比較されることの多いフィレンツェ共和国でも、ペリクレスがアテネで実現したように政情の安定に成功したのは、メディチ家の当主コシモが政局を手中にした時期からです。生涯を一市民として過ごしたにかかわらず、このコシモの台頭から孫のロレンツォの死までの時代を、メディチの時代とさえ言う。
そして、歴史上ではメディチ家の僭主時代と呼ばれるこの時期のフィレンツェは、政治から文化に至るまで、メディチ家が主導権を行使していた時代であったのです。しかし、一介の商人から成りあがったメディチと、神聖ローマ帝国の皇系に生まれたフリードリッヒでは比較はできません。出生のちがいだけでなく、十三世紀前半と十五P49世紀前半という、彼らが生きた時代を比べるだけでも二百年の差がある。
また、法王庁が強大であった時代と、それが下り坂に入った時代というちがいも無視できません。フリードリッヒ二世のいだいたローマ帝国型国家の再興という野望を単なる時代錯誤と断ずるのは、後世から歴史を振り返る者が犯しがちな誤りと言えましょう。
忘れてはならないことは、ロレンツォ・ヴァッラによる『コンスタンティヌスの寄進状』がローマ教会が秘かにつくらせた偽造史料であることを実証したのは、十五世紀の前半になってからだということです。つまりそれまでは、この『寄進状』を盾にした法王による「政務禁止」や「破門」の処置が、人々を縛っていたのでした。これほども強大な法王庁に対抗するには強大な世俗国家を確立するしかないと、フリードリッヒは考えたのでしょう。
ただしここで、フリードリッヒは致命的な誤りを犯す。南伊では経済活動までも統制下に置くことで経済の振興に成功していた彼は、北伊でも中伊でも、それを実施しようとしたのです。しかし、ミラノを中心にする北伊とフィレンツェを中心にする中伊では、経済人は国家の助力なしの自力による活動が実績をあげており、それゆえに自信をもっていた。彼らが、皇帝の統制経済策に反撥したのも当然です。
古代のローP50マ人ならば、このような場合はそれらの都市を自由都市に認定し、内政にかぎったとしても都市国家内の自治を許したでしょう。広大な領国の統治は、中央政権だけでは不可能であり、成ったとしても生命は短い。中央集権と地方分権の巧妙な併立が成ってこそ、広大な領域でも機能できる。
古代のローマ人のこの知恵に、フリードリッヒは気づかなかったのか。それとも、この知恵を発揮できた時代のローマ人ならば無縁でいられた、一大宗教勢力であるローマ法王庁を、自分は敵にしなければならないという想いが、他の分野では柔軟だった彼でさえも硬化させたのか。
いずれにせよ、北・中伊の商人層の反撥に、これまでのフリードリッヒの「ライコ」的言動への不満と怒りをもてあましていた法王庁が乗ったことで、問題はより複雑化してしまったのでした」
「高校の教科書にもある、グェルフィとギベリンの抗争ですね」
「そう。グェルフィは法王側を指し、ギベリンは皇帝側を意味していましたから。ただし、イタリアで起こったグェルフィとギベリンの抗争は、ヨーロッパの他の国でもあった、聖職者の叙任権をめぐる法王と国王の抗争とは同じではなく、イタリアのみの歴史現象です。法王側についたもののイタリアの商人たちは、「法王は太陽で皇帝は月」などと信じてはいなかったからです。
むしろ、思想的には、法王よりもP51フリードリッヒに近かった。なぜなら彼らこそが、俗界への宗教の介入を否とした聖フランチェスコの興した新宗派の、信徒たちの中核をなしていた人々であったからです。つまり北・中伊の経済人たちは、フリードリッヒの思想の核であった政教分離に反撥したのではない。
フリードリッヒが強行しようとした、国家による規制に反撥したのです。反対に法王側とは、経済上の利害ならば一致していた。ローマの法王庁には、十分の一税という名の宗教税に加えて、各地に散在する広大な領地からの収入や信徒からの寄進などで莫大な額のカネが集まるようになっていました。
だがそれを、目的は信徒のために使うということであったにせよ運用する能力は、聖職者の集団である法王庁にはない。その運用を請け負っていたのが、フィレンツェやミラノの金融業者であり、贅沢好みの高位聖職者階級の必要とするものを購入していたのも、北・中伊の商人たちであったのです。
グェルフィとギベリンの抗争は、思想のちがいから生まれた抗争ではない。現実的な利害の衝突からはじまった、争いにすぎません。事実、フィレンツェがグェルフィならば、ピサやアレッツォはギベリン側に立った。隣国同士であるだけに、常日頃から仲が悪かったからです。
この抗争の外にありつづけることで中立を維持していたのはヴェネツィア共和国ですが、ヴェネツィアの商人たちの取引相手は法王庁ではなく、オP52リエントの異教徒たちであったからでした。とはいえ、このように直接の利害関係が交わる世界に争いの種をまいてしまったのは、祖父のバルバロッサが手をつけたこととはいえ、それを継承するのに疑いを持たなかったフリードリッヒの現実感覚を疑うしかありません。
他の分野では鋭い現実感覚を発揮した彼でさえも、神聖ローマ帝国皇帝の権威を過信していたのかと思ってしまう。このフリードリッヒに比べれば、「第三階級」を設立することで経済活動を宗教の束縛から解放した聖フランチェスコの現実感覚の冴えは、商人の息子に生まれたことで経済人というものを熟知していたがゆえであったのか、と」
「聖フランチェスコで思い出しましたが、この宗教者も皇帝フリードリッヒ二世も、聖地に出向いて平和を訴えたことでは同じですね」
(略、)
(P62-)
P63 「いよいよこれから、ルネサンスでも大輪の花が咲く時代に入っていくわけですが、このルネサンスという精神運動はなぜイタリアで起こったのでしょう」
「旧体制の本拠としてもよいローマの法王庁が、すぐ身近に存在していたというのが第一の理由。遠く離れていれば欠点は眼につきにくいが、近くにいればいやでも目に入ってしまいます。法王庁などはスイスに移ってしまえと書いたマキアヴェッリとか、眼の黒いうちに見たい三つの事柄の一つは政治に口出ししない聖職者の群れ、と書いたグイッチャルディーニのような人物は、同時代のフランスやドイツやイギリスには生まれなかった。
なにしろ、交易国であったヴェネツィアやジェノヴァを除く他のイタリアの都市国家は、フィレンツェをはじめとしてローマ法王庁の財務を請け負うことで経済発展の基礎をつくったのです。ヨーロッパ中の信徒から法王庁に集まる膨大な量のカネの運用役を務めていたのがイタリアの金融業者であったからで、人間関係でも金銭が介在してくると、人間の本性が露呈しないではすみません。
イタリアの経P64済人は金もうけに精を出しながらも、聖職者階級の実態もしっかり見ていたということですね。第二の理由は、住民の自治をモットーにした「コムーネ」と呼ばれる住民共同体が、イタリアで生まれていたという事実。この「コムーネ」がフランス革命の時代になってフランスに移植されると、「コミューン」になるのです。
十四世紀にはまだ乱立気味であった数多くの「コムーネ」も、十五世紀にはミラノ公国にヴェネツィア、ジェノヴァ、フィレンツェの各共和国、それに法王庁にナポリ王国という強国の下に統合されていく。もはや自治体の意味の強かった「コムーネ」ではなく、それぞれの国情に合った統治組織をもつ「都市国家」になっていったのです。
それぞれの国情というのは、ミラノ公国は公爵が、ナポリ王国は王が、法王庁国家はローマ法王が統治し、ジェノヴァ共和国は四つの有力家系が二派に分かれての交互の統治システム、フィレンツェ共和国はメディチ家主導の僭主政でまとまり、ヴェネツィア共和国だけが、寡頭政と呼ばれる少数指導制の共和政体を維持しつづけているという状態にあった。
ただし、都市国家の名に値するのは、地図を見るだけでも、ヴェネツィアとフィレンツェであることは確かです。この二共和国だけが、「コムーネ」の自主独立のP65精神をより強く継承し、それを長期にわたって維持したからです。そしてルネサンスも、まずはじめにフィレンツェ、次いでヴェネツィアで花開くことになる」
「なぜイタリアにおいてだけ都市国家は生れ、しかも繁栄したのですか」
「それにはまず、都市国家とは何であったのかを、大筋にしろ明確にしておく必要がありますね。古代ギリシャのポリスを思い起こすだけでも、都市国家とは「はじめに都市ありき」で、都市からはじまってその周辺を統合していった国体を意味します。
そして、コムーネも都市国家も生れない以前の中世は、土地を資産とする経済構造下にあり、その土地を所有する封建領主が主導権をふるっていた時代でした。これに対し、土地は持っていないが頭脳は持っている人々が集まって作ったのが都市国家です。都市とはイコール頭脳集団、と言ってよいくらい。
精神面でも、この両者のちがいは明らかでした。それまでの「ノーヴィレ」(貴族)は血筋の問題であったのが、ダンテが言うように、「血がノーヴィレを決めるのではなく、精神の高貴さが決める」に変わってくる。所有する土地の広さと何代も昔にまでたどれる血統に代わって、才能の豊かさと気力の強さが、人間の評価の基準になっていったのです。
P66 ルネサンスが、中世の秋であるのか近代の春になるのかの議論は、私にはまったく興味ありません。時代の区分とは、ある時点で線を引いて、ここまでは中世でこれより後は近代、と断定できるものではないのです。
とはいえ、十三世紀が境になったことは事実でしょう。聖フランチェスコもフリードリッヒ二世も、十三世紀の前半に生きた人です。また、この時期イタリアの人口は、増加に向けて急カーブを切る。しかも、ペストの大流行で激減しても、短期間で回復している。福祉によって弱者でも生存が容易になった、現代とはちがうのです。
あの時代の人口増の原因は、食べていけるようになったから、に尽きる。"十字軍特需"による経済力向上は、海運や交易や金融や手工業にかぎらず、その他の業種にも及んだということでしょう。
しかもこの中心になったのが、頭脳集団でもあった都市に住む市民たち。彼ら一人一人の生産性は非常に高く、十五世紀というルネサンス盛期ともなると、封建領主や修道院の所有地で働く人の四十倍になっていたとする学者もいます。事実、領有する土地の広さならば中程度の国家とするしかないフィレンツェやヴェネツィアの経済力のほうが、フランスやイギリスやトルコを完全に凌駕していたのですから。
通商は、異分子との交流なしには成り立たない。交流すれば、純粋培養時にはなかP66った刺激を受ける。この種の刺激を受けたのが生産性では群を抜いていた頭脳集団なのだから、彼らが経済上の成功者にならないほうがおかしい。
ただし、経済大国になりつつあったイタリアの諸都市が偉かったのは、学問の分野への投資も忘れなかったことですね。この分野でも先鞭をつけたのはフリードリッヒ二世ですが、すでに存在した世界最古ののボローニャ大学に次いで、フリードリッヒによって単なる医術から医学を極める学府に生まれ変わったサレルノの医学校。フリードリッヒが新設したナポリ大学、そしてヴェネツィアが力を入れることで最高水準の学府になる北イタリアのパドヴァ大学と、「ウニヴェルシタス」(Universitas)と呼ばれる最高学府の創設は、十三世紀の前半に集中しています。
さらにこれらと同時期に活発な活動をはじめるパリ、オックスフォード、ケンブリッジも加えれば、現代でもつづいているヨーロッパの主要大学は、十三世紀にはすでに「ユニヴァーシティ」になっていたことになる。しかも興味深いのは、これらイタリアの諸大学とパリ大学には、十四世紀に入るやいち早くアラブを学ぶ学科が置かれたことでした。
紀元一二七〇年には最後の十字軍が敗北し、一二九一年には、十字軍の最後の兵士までもパレスティーナから撃退されて姿を消します。要するに十字軍という、西方による東方への軍事運動は西方側の完敗で終わったわけですが、敗北したヨーロッパは、
P68 もうオリエントのこともイスラム教もアラブ人も忘れたいと思ったのではなく、反対に、もっとよく知りたいと考えたのだからスゴイ。(略)
十字軍の遠征に、兵士としてでも海運や通商の業者としてでも参加していた男たちは、オリエントならば肌で知っていると言えたでしょう。しかし、肌で知っているだけでは、彼個人の知恵にはなっても他者もふくめての共有財産にはならない。
科学的に探究しその結果を言語を通した公のものにしてはじめて、実地に経験したことのない人でも共有が可能な知恵になるのです。また、冷徹に科学的に探究する精神は、偏見をくつがえすには最上の武器でもある。探求の虫と言ってもよかったレオナルド・ダ・ヴィンチを引くまでもなく、あくなき探求心こそがルネサンス精神の基本なのです。
いずれも頭脳集団であった中世の大学と都市は、目的は違っても手段では、意外と同類だったと思う。ローマ法王庁や封建諸侯たちのような、異分子導入によるカルチャーショックを嫌って純粋培養をつづけた組織が危機に陥ったのが、中世末期であり、ルネサンスという精神運動を生む端緒になったのです。
ルネサンスとは、それ以前の中世と比べてもそれ以後の近代と比べても、量より質の時代であったのが特P69色。それゆえに、あの時代に最も適した国家の形体が、頭脳集団としてよい都市国家であったのですね。時代の流れに適したものでないと、いかにそのもの自体がよく出来ていても成功は望めないのです」
「ルネサンスがイタリアで起こった理由は、これら以外にもあるのでしょうか」
「古代のローマ帝国の本国はイタリアであり首都がローマであったという事情から、他の国の人よりもローマ帝国を身近に感じられたという理由も無視できません。現代のヨーロッパを代表する都市のロンドン、パリ、ケルン、ウィーンは、今ではローマと肩を並べるか、それ以上の規模の大都市に発展している。
だが、そこにある美術館のローマ関係の展示物の質と量となると、大英博物館ですらローマの一美術館に及ばない。これらの大都市は、ローマ時代は三十八も存在した属州の首都や軍団基地であったにすぎないのに、一方のローマは、「世界の首都」とさえ呼ばれた帝国の首都であったからです。
ローマ帝国が健在であった時代のパリっ子がローマを訪れて感じたであろう想いは、テキサスのカウボーイがニューヨークを訪れマンハッタンに立ったときの想いと、同じようなものであったにちがいありません。
一千年つづいた中世は、そのローマもイタリアも、長年の風雨による損害に加え、P70格好の建材の採掘場にされてしまったことで崩れ落ち埋没した。しかし、もともとからして断然他を圧倒する質と量を誇っていたがゆえに、放置されていた歳月が長く、また建材に使える者ならばすべて剥ぎ取られていたにかかわらず、遺ったものの質と量はやはり他を圧していたのです。
そしてそれらが、排斥されるべき異教徒の遺物だからと無視されていた長い中世も終わり、異教徒の遺物であろうと学ぶ価値があれば学ぶべきと考えるようになったルネサンス時代に入るや、再び照明が当たるようになったのでした」
「ルネサンスの特色の一つは、古代の復興と言われていますよね」
「復興は復興ですが、単なる古代の復元でも模倣でもない。フィレンツェ第一の教会である「花の聖母寺」(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)の円蓋をどう建造するかのヒントを建築家のブルネレスキに与えたのは、友人だった彫刻家のドナテッロとともに見てまわった、パンテオンをはじめとするローマ時代の建造物であったとは、当時からすでに有名な話でした。
しかし、この二つを比較した図を見ればわかるように、ローマ時代とルネサンス時代のドームは同じでない。パンテオンではドームの頂上部は開いていてそこから外の蒼空が眺められるのに対し、ヨーロッパの教会の円蓋建築の最初になる花の聖母寺では、頂上部は大理石の頂塔で閉じられ、しかもその上には金色に塗られた銅製の円球が載るとP72いう構造になっていた。
(略、ドームの構造について)
しかし、このように改造したことでブルネレスキは、ローマ建築の特色である秩序と調和を再興しながらもキリスト教の要請にも応えた、ルネサンス様式の建築を創造できたのです。(略、絵画の分野においても、事情は同じ)
P74 彫刻の分野とて、事情はまったく同じだった。はじめのうちは考古学的興味でも芸術品愛好の趣味でもなく、屋敷の建設工事中に偶然に発見された品々を洗って自邸内に置いていたのが人々の眼につくようになり、メディチ家のような新興成金がそれらを購入するのに金を惜しまないことが知れ渡るようになると、庶民までがテヴェレの河床をあさったり古代の競技場跡や街道の附近を掘り起こすようになったのでしょう。
なにしろ、中世の間中いまわしい邪教の遺物として排斥してきた品々が、大金に化ける時代になったのです。こうなると、屋敷の主も訪れる人に自慢して見せるようになり、メディチ家ほどのコレクターともなると、フィレンツェの聖マルコ寺院の回廊に陳列して、若き芸術家たちに自由に見学させる。
一時代前ならばキリスト教徒が見るのにはふさわしくない汚れた品々だからと排斥の先頭に立っていたローマ法王庁でさえも空気が変わり、購入したにしろ取り上げたにしろ集まる一方の古代の裸体彫刻の間を、僧衣の群れが行き交う光景が普通になってくる。
そしてこれらは、美術館の形P45にはなっていなくても、見たいと欲する人には誰に対しても解放されていたのでした。固定概念に眼を曇らせてさえいなければ、地中から姿を現わした古代のギリシャやローマの彫像のすばらしさは、それを見た人ならば即座に理解したにちがいない。
ルネサンス人による人間の肉体の再発見が、人間の裸体美の再発見になったのは、中世時代の着衣姿の彫像を見慣れた後だからこそ、それはカルチャーショックとしてもよいほどの衝撃であったにちがいありません。中世人の見ていた裸体像は、十字架上で苦悶する痩せたキリストだけであったのだから」
「(略)なにしろ、ローマ帝国崩壊からルネサンスまでは一千年間。これほどもの長い歳月、人間が盲でありつづけたということが納得いきません」
「人間とは、見たくないと思っているうちに実際に見えなくなり、考えたくないと思いつづけていると実際に考えなくなるものなのです。(略)」
ユリウス・カエサルの言葉に、次の一文があります。「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない」この一句を、人間性の真実を突いてこれにまさる言辞はなし、と言って自作の中で紹介したのは、マキアヴェッリでした。
ユリウス・カエサルは古代のローマ人、マキアヴェッリは、それより一千五百年後のルネサンス時代のフィレンツェ人。カエサルの言を"再興"した中世人は、一人も存在しません。つまり、中世の一千年間、カエサルのような考え方は、誰の注意も引かなかったということでしょう。
この一例が示すように、ルネサンス人は、人間の肉体の美を再発見しただけでなく、人間の言語も再発見したのです。ではそれは、どのような経路をたどって可能になったのか。
P77キリスト教徒の読むものとしては不適当という理由によって、古代のギリシャ人やローマ人の著作は、筆写はされても修道院の図書室の片隅に眠る歳月がつづいていたのです。これらの著作が、人文学者たちによって探し出されて陽の目を見るように変わる。キケロの著作を見つけ出したペトラルカは、その一人にすぎません。
これらを読んだ人々は、使われている平易な語彙と明晰で簡潔で論理的な文章構成に眼を見張る。同じラテン語なのに、聖職者の口から出る複雑でもったいぶった中世風のラテン語と、今新たに発見された古代のラテン語では、同じことの表現のしかた一つでも差異があるのを知ったのです。
言語には、他者への伝達の手段としてだけではなく、言語を使って表現していく過程で自然に生まれる、自分自身の思考を明快にするという働きもある。明晰で論理的に話し書けるようになれば、頭脳のほうも明晰で論理的になるのです。
つまり、思考と表現は、同一線上にあってしかも相互に働きかける関係にあるということ。また、流れこのように変われば、自分の眼で見、自分の頭で考え、自分の言葉で話し書く魅力に目覚めるのも当然の帰結です。神を通して見、神の意に沿って考え、聖書の言葉で話し書いていた中世を思い起こせば、ルネサンスとは「人間の発見」であったとすP78るブルクハルトの考察は正しい。
しかも、言語が人間のものになれば、人間だからこそ感ずる微妙な感情の表現にも出場の機会が訪れる。そして、思考も感性も言語も聖職者の独占を脱したからには、それをなるべく多くの同胞に行き渡らせたいと願うのも当然です。こうして、ラテン語圏の方言の一つであったイタリア語は、民族の言語に成長していったのです。
現代イタリア語の基本は、十四世紀から十六世紀にかけてフィレンツェで書かれた数々の著作によって成ったとされている。ダンテからマキアヴェッリに至るフィレンツェの文人たちによって、イタリア語は言語として完成したのです。その証拠に、彼らの作品には、日本で言う現代語訳のたぐいが存在しない。小学生でも、古風な言いまわしを解説する「注」の助けは借りたにしろ、原文で読まされているのです。
フィレンツェの映画館のスクリーンの上の壁には、詩人でもあったメディチ家の当主ロレンツォが作った詩の一節が原文で刻まれている。明日はどうなるか分からないのだから今を楽しもう、という意味の有名な詩の一句です。楽しむ"今"というのが映画であるのが笑わせますが、イタリアでは古文が存在しないという事情は理解してゐただけるでしょう。
一方、日本では、『平家物語』や『太平記』や『徒然草』や『花伝書』を、現代語訳なしに原文で読める人はどれくらいいるだろうか。それなのに同時期のイタリアでは、言語が、聖職者の独占物ではなく俗界の人々のものになっていたからこそ、後代まで理解可能な国語を形成できたのだと思います。そして、この傾向の確立と拡大に力あったのが、発明されたばかりの活版印刷の技術であったのでした。
ダンテ、ボッカッチョ、マキアヴェッリに、レオナルドやミケランジェロやラファエッロの名を知る人は多いでしょうが、アルド・マヌッツィオを知っている人は少ないと思う。だが、この出版人は、ルネサンス文化の創造と普及に偉大な功績をあげた人なのです。
この人物に関しては『イタリア遺聞』中の「ある出版人の話」と題した項で記述済みなのでここでは要約に留めますが、現代的に言えば、グーテンベルグの発明の企業化に成功した人、と言えるでしょう。
グーテンベルグが活版印刷の技術を発明したのは一四五五年であるとされるのが正しければ、アルド・マヌッツィオはその六年前に、南イタリアのナポリ近郊に生まれました。成長するにつれて抱き始めた夢は人文学者(ウマニスタ)になることであったようで、まずはローマに出てラテン語を学びます。
次いで、北イタリアのフェラーラに居を移す。当時のイタリアで最も有名だったギリシャ語の学者が、フェラーラの領主エステ家でP80家庭教師を務めていたからです。三十を過ぎる頃には彼も、小領主でも教養人一家として知られていたピコ家の家庭教師になる。
当時では知識人ないし有識者の別名でもあった人文学者(umanista)の二大就職先が、法王や君侯や共和国政府の秘書官か、でなければ有力者たちの子弟の教育係であったからです。とはいえ、家庭教師であっても主君の秘書役まで兼ねる場合も多く、今で言う家庭教師という言葉には収まりきれない存在ではあったのですが。
ミランドラの領主ピコ家とは、メディチ家が主宰して有名になるアカデミア・プラトニカ(英語読みならばプラトン・アカデミー)の一員のピコ・デラ・ミランドラ(→『機械の神話』P100)を生んだ家門ですが、蔵書の質と量でも相当なものであったらしい。
アルドの仕事には、ピコ家の蔵書の整理や収集もあった。この仕事に従事していた十年の間に、出版業への認識とそれを起業するに際してのノウハウを、三十代のアルドは会得していったのでしょう。
出版業をはじめると決心したアルドは、仕事の場はヴェネツィアと決める。一四九〇年、四十一歳の歳でした。なぜ彼はヴェネツィアを選んで、フィレンツェやミラノやローマを選ばなかったのか。まず、第一に、ヴェネツィアにはすでに出版業の"一里塚"が築かれていたというこP81と。
グーテンベルグの発明から二十年後、ヴェネツィアの二人の版型職人によって、イタリアでは最初の印刷本になる、キケロの『書簡集』が出版されていたのです。これを百部印刷するのに四ヶ月かかったが、それでも従来の筆写に比べれば格段に能率的。そして、最初の試みが成されれば次はより容易になる。再版のときには、要した期間は同じでも、部数は六百に増えていたのです。
利点の第二は、ヴェネツィアでは言論の自由が保証されていたことでした。当時の言論の自由とは、キリスト教会による干渉や弾圧から自由でいられるということ。
自国の経済がオリエントの異教徒との交易で成り立っていたこの海の都は、他の地方では威力があった法王による「聖務禁止」や「破門」に対してもびくともしなかった。
なにしろ、「まずはヴェネツィア人、次いでキリスト教徒」と高言していたのがヴェネツィアの市民で、ローマ法王もこのヴェネツィアに対しては、「他のどこでも自分は法王だが、ヴェネツィアではちがう」と嘆くしかなかったのです。
同じ時代にスペインやフランスやドイツで猛威をふるった異端裁判や魔女裁判も、ヴェネツィア共和国では一例も起こっていない。
ローマ法王庁にプロテストしたとたんに禁書に指定されたルターの著作も、政教分離を説いたがために禁書あつかいになったマキアヴェッリの著作も、ヴェネツィアでならば手に入れることができるとは、当時のフランスかP82らの旅人の手紙にあるとおりです。
言論の自由のないところには、出版の自由もない。しかも、言論の自由が保証されるにしても当時のそれは、有力な個人によって保護されるケースが多かった。
『コンスタンティヌスの寄進状』が法王庁が秘かに作らせた偽物であると実証したロレンツォ・ヴァッラは、それに怒った一聖職者にによって異端裁判に引き出されそうになりますが、その彼を守ったのは、ヴァッラの君主であったナポリ王でした。しかし、いかに有力者でも個人による保護では恒久性は保証されない。
言論の自由にこのような限界があった時代、国家として教会の干渉を拒否しつづけたのがヴェネツィア共和国であったのです。ルネサンスも終りになる十六世紀後半には、宗教改革に対抗して起った反動宗教改革の大波がイタリアをも襲う。ローマの法王庁も反動宗教改革派に牛耳られ、その中でもとくに戦闘的であったイエズス会による異端者狩りが猛威をふるうように変わる。
このような時代にも幸いにして脱獄に成功できた人に、秘かに助けの手を差しのべた人々は一様に忠告する。ヴェネツィアに逃げなさい、と。言論の自由とは、ただ単に言論を職業としている者に対してのみ意味をもつものではない。他のあらゆる自由の「母」でもあるのです。
アルドがヴェネツィアを選んだ理由は、この他にも、乱世の時代なのにヴェネツィアだけは国内が安定し繁栄していたので、優秀な職人を集めるのに好都合であったかP83らだ、とか、一四五三年のビザンツ帝国の滅亡を機にヴェネツィアにはギリシアの学者が多く亡命し、この人々の持参した写本を参考にできたからとか利点は数多くあげることはできます。
しかし、これらのどれにも増して重要な利点は、言論の自由の保証であったと思う。この一事が、アルド・マヌッツィオを先頭にしてはじまったヴェネツィアの出版業が、短期間のうちにヨーロッパ一の規模になった要因でした。
錨にいるかのマークを印刷したアルド社出版の最初の書物は、一四九四年に刊行された『ギリシア詩集』です。ラテン語の対訳がついているのは、ラテン語ならば学生もふくめた知的エリートに理解でき、しかも当時のヨーロッパでは国際語であったからで、アルド社は販路をヨーロッパ全域と考えていたことがわかります。
そして、記念碑的な大事業と当時から評判だった、アリストテレスの全集の出版が完了したのは一四九八年。古代のギリシア文学作品以外にも、アルド社の出版物には、古代ローマの作品からダンテ、ペトラルカ、ボッカッチョ等のイタリア文学、さらにエラスムスP84の『ラテン格言集』と、当時の現代文学まで網羅されてくる。
一四九五年から九七年にかけて、全ヨーロッパでは一千八百二十一点の書物が刊行されましたが、そのうちの四百四十七点までがヴェネツィアで出版されている。第二位のパリでも百八十一点です。ヴェネツィアは、印刷技術の発明国であるドイツをはるか後方に引き離した、一大出版王国になったのでした。
しかし、出版人アルドの成功の要因はこれだけではない。その第一は、今でもイタリックと呼ばれている書体を発明したこと。ゴシック書体と比べれば一目瞭然ですが、装飾性には劣っても格段に読みやすい。しかもイタリックを使うと、一ページにより多くの文字を印刷できるのです。
第二の成功因は、アルドによる”文庫”の発明でした。紙を八回折るところからP85「八つ折」と通称されたこの版型は、後の「タスカービレ」(ポケットに入る本)のはじまりになります。ルネサンス時代の服装ではポケットではなくて、ブラウスとその上に着るチョッキタイプの胴着の間に、はさみこんでいたのですが。
いずれにしろこの文庫判は、大ヒットでした。近くにあるパドヴァ大学の学生にかぎらず、一般の人の間にも広く普及していく。安価であっただけでなく持ち運びが容易であったからで、これによって大判の筆写本の時代は終りを告げます。
高価で数の少ない筆写本の時代が終ったということは、知識が聖職者の独占であった時代の終焉も意味した。判断をくだすに必要不可欠な諸々の知識は、教会や修道院の手から離れ、市中に普及していったことになる。人間の再発見でもあるルネサンスは、出版業に言及することなしには語れないのですよ。一五一五年、アルド・マヌッツィオは六十六歳で死にます。教会に運ばれる遺体の周囲を飾ったのは、他の人々のような花ではなく、彼が出版した数多くの書物でした」
[ 「お話を聴いていると、中世と一線を画すルルネサンスと呼ばれる一大精神運動は、イタリアのどこで起こっても不思議ではなかったように思えますが、実際はフィレンツェからはじまっている。なぜですか」
(P86-)
P86 「まずあげねばならないのは、フィレンツェ人の気質でしょう。(略、個人主義的傾向が強い、工房の造り、誰でも自由に出入りできた)P87優れた芸術家であればあるほど貪欲でもあるのが特質。自らの作品に益することならば、悪魔の忠告でも聴き容れる人種でもあるのです。批判者が立ち去った後でならばこっそりと、画筆やノミをとって修正したかもしれません。
また、当時の工房が、美を追求することならば何でも引き受けるというシステムであったのも、フィレンツェ人の気質に合っていたのだと思う。絵画や彫刻にかぎらず、祭りに使われる旗から御婦人方の衣装や宝飾品、机上の置物から大建造物と、図面を引いたりデザインを考えたり金銀や銅を溶解したりと、あらゆる種類の仕事が工房では行われていたのです。(略、専門化されていない)
だがこれで、レオナルドもミケランジェロも育ったのでした。そして、強烈な批判精神強烈な好奇心と表裏の関係にある。見習の期間というのに絵だけとか彫刻だけとかをやらされていたのでは、フィレンツェっ子は満足しなかったにちがいない。
そして、何でもやれねばならなかった工房という学校で学んだ後に独立し、それ以後は得意な分野P88で才能の花を咲かせるのが、フィレンツェの芸術家の生涯のコースだった。と言っても独立後でも、絵画、彫刻、都市計画、解剖、機械器具等々に手を広げたレオナルドや、絵画と彫刻と建築の傑作でイタリア中を埋めた観のあるミケランジェロのように、専門別に分けることが不可能な人が出てくる。
分類不可能ということで、「万能の人」(uomo universale)と呼ぶしかなかった天才たちです。画家は絵だけに、建築家は建築だけに専念していたヴェネツィア人とは、大きなちがいですね」
「しかし、レオナルドやミケランジェロ水準の大天才は別として、その次にくる創作者ならば、ヴェネツィア方式のほうが効率的ではなかったのですか」
「それは、ヴェネツィアでは、効率性を重視したから専門化したのではなく、ヴェネツィア派の絵画の台頭が、フィレンツェ派の成功の後を追ってなされたという事情によると思います。専門化とは、相当な成果があがった後ではじめて効果を発揮できるシステムだから。
反対にスタート期には、分化されていない渾然一体のほうが新しいことの創造には適している。新しい考えとは必ず、既成のわくからはみ出たところから生まれるものだからです。批判精神の強いフィレンツェ人だけに、既成のわくを取り払ってしまうことへの抵抗感も、他のどの地方のイタリア人よりも薄かったのでしょう。
P89 ルネサンスがなぜフィレンツェで生まれたのか、の質問への答えの第二は、フィレンツェ経済の繁栄にあったとするしかありません。今日の食を心配しているようでは、人間は学問芸術に関心をもつ余裕はない。要するにフィレンツェは金持ちになったのであって、それに比例して学芸面での"内需"も増えたのです。
創作者も俳優や音楽家と同じで、拍手喝采を浴びることで育つ。それに内需の増大は、金銭面でも向上とともに社会での地位の向上も恵んでくれる。経済的にも名声でも"稼げる職業"になれば、親も進んで息子を工房に弟子入りさせるようになる。
つまり、優秀な素質の持主が、より多く集まるようになったということです。ギリシャのアテネでも、経済の興隆が文化の興隆に先行した。イタリアのフィレンツェも、同じ経路をたどったのです」
「メディチ家ですか」
「いえ、メディチ家の繁栄は十五世紀になってから。それなのにフィレンツェのルネサンスは、明らかに十四世紀からはじまっている。メディチ家台頭のずっと以前から、フィレンツェの経済力は強大化していたのです。
フィレンツェ経済の二大支柱は何かと問われれば、金融業と織物業と答えるしかあP90りませんが、経済も学芸同様に明快な分類は不可能なのが、フィレンツェ経済の特色なのです。
まずバルディ、次いでペルッツィというフィレンツェの二有力家系が手を広げていた分野は、金融業、手工業、通商と広く、これではもはや財閥とするしかない。クライアントもヨーロッパ全土におよび、イギリス、フランス、ナポリの各王家に法王庁が最大顧客であったのです。
バルディ家の融資がなければイギリス王もフランス王も戦争ができなかったくらいで、融資への担保は王領の関税。これでも破産は免れなかったのだから、王様への融資はハイリスク・ハイリターンであったのでしょう。
しかし、当時のエコノミック・アニマルこそが聖フランチェスコの支持者であり、ルネサンス絵画のファースト・ランナーであるジョットーに、活躍の機会を与えることになる。フィレンツェのサンタ・クローチェ教会内にあるバルディ家の礼拝堂は、聖フランチェスコの生涯を描いたジョットーの傑作で埋まっています。もしかしたら、フィレンツェが経済大国であった時代は十四世紀で、十五世紀になると政治の成熟を迎える、としてよいかもしれません」
「ならば、メディチ家は、経済興隆期の経済人ではなくて、政治成熟期の経済人なのでしょうか」
「自然発生的な経済の興隆も、政治的な配慮による調整がなされないと長命は望めなP91いとわかったということでは、政治感覚に優れた経済人であったと言えますね。これまでのようにイタリア内の列強が争っている時代ではないと、勢力均衡政策の実現に努めたのは、メディチ家の当主のコシモでした。
とはいえ、精神運動とは、それがルネサンスであれ何であれ、世の中が激しく動いている時代に生まれるものです。政治の成熟とは、これとは反対に、世の中が落ちつくことを目的にしそれを実現することにある。だからこそ、芽も育ち花も咲く。
フィレンツェを例をとれば、激動の時期は十三世紀後半から十四世紀前半、それが落ちつきはじめるのが十四世紀後半からで、十五世紀半ばからの半世紀は確実に、政治の成熟による社会の安定を満喫した時期、としてよいかと思います。ローマは一日にして成らず、ですが、ルネサンスも、一日にしてならずなんですよ」
「となると、一三〇〇年前後はまだ激動の時期だったのですね。この時期に生きたルネサンス人として、あなたは、ヴェネツィア人のマルコ・ポーロを除けば、チマブエ、アーノルフォ・ディ・カンビオ、ダンテ、ジョットー、ペトラルカ、ボッカッチョと、いずれもフィレンツェ人の名をあげています。画家のチマブエは、ジョットーの才能の発見者であったということだけでも、ここにあげられる理由はわかる。
ダンテ、ペトラルカ、ボッカッチョは、イタリア文学史のみならず西欧文学史に名を連ねる文人P92だから、これもわかる。しかし、アーノルフォ・ディ・カンビオという彫刻家兼建築家だけは、この人がなぜルネサンス人に列せられるのかわかりません。あの時代の教会建築には欠かせなかった、石工職人の一人ではなかったのですか」
「中世時代の建築とは、イコール教会建築としてもよいくらい。人々の実際生活に必要な"インフラ"は、さしたる修復もせずにローマ人が遺したものを使っていたのです。それで教会建築ですが、この目的は神の家をつくることにある。つくる当人は、それによって神に奉仕するわけだから、自らの名を記したりしては不遜ということになる。
中世時代の職人も芸術家も名を知られていないのは、創作行為自体が信仰であったからです。
しかし、良いことばかりという感じの信仰も、神への奉仕ゆえに無記名、無記名ゆえに責任も制作当事者には帰さない、という一面をもつ。経済力に自信をつけてきたフィレンツェ人が、全力を投入して制作した以上はその結果の責任は自分がもつ、と考えるようになるのも当然ではないでしょうか。
とくに建築の分野が、神と人間の出会いの場をつくることに加えて、人間と人間の出会いの場もつくる方向に広がってきた時代です。アーノルフォ・ディ・カンビオは、この二つの時代の狭間に生きた人なP93のですよ。それゆえに、彼の名が遺っている場合もあれば、遺っていないものもある。そしてこの人は単なる建築家ではなかった。
ルネサンスの彫刻家建築家の列伝を書いたジョルジョ・ヴァザーリも言うように、「後につづく人々に完成に向かって進む道を指し示した」人でもあるのです。それは彼が、フィレンツェの人々に、彼らが住まう箱を与えたからで、言い換えれば、都市計画者でもあったのですね。
歳としてのフィレンツェの生みの親は、他でもないユリウス・カエサル。それ以前にスッラが配下の兵士たちを入植させたのですが定着できず、しかも紀元前六三年のカティリーナの乱に参加してほとんどが死んでしまったので、その四年後に執政官に就任したカエサルが、入植者への土地貸与の法律を整備するなどして都市化したのです。
というわけで、、フィレンツェの誕生は紀元前五九年。測量の結果適地となった地域の中央で神々の助力を願う犠牲式が行われたのが、ローマ時代では春の盛りに祝われた「花の祝典」(ludi florales)の祭日。これが、フィレンツェ(firenze)の古名であるフロレンティア(Florentia)の由来です。
フィレンツェを花の都と呼ぶのにも、歴史的な理由があるんですね。
社会資本の整備では他民族の追随を許さなかったローマ人のつくった都市だけに、P95フィレンツェも完璧なローマスタイルの都市として建設される。アルノ河に沿った四角形で、四つの門からの道が中央部で交叉し、街道による市外との連絡から上下水道、アルノ河の対岸と結ぶ橋、公衆浴場、中央広場であるフォールム、半円形劇場に円形競技場と、ローマ人が都市に必要と考えたインフラのすべてが整っていた。
二千年後の現代でもなお、ローマ時代の都市の形は完全に読みとれます。かつてのフォールムは、今では共和国広場と名を変えてはいても。
しかし、アーノルフォ・ディ・カンビオが眼にしていたフィレンツェは、カエサルや、その後でフィレンツェをさらに美しく変え、しかも拡大したハドリアヌス帝の時代からは一千年以上が過ぎていたフィレンツェです。崩れ落ちたローマ時代の都市の上に、有力者たちが各々勝手に建てた塔が乱立する、中世そのものと言った感じの都市だった。
それを、フィレンツェの「カーポ・マエストロ」(強いて訳せば工人頭)の地位にあったアーノルフォが、都市としての秩序を回復していくのです。フォールムは、市場に活用することで空間を保存し、ローマ時代の四角形の一角には「花の聖母寺」(Santa Maria del Fiore)を建てると決め、その反対側の一角には、そのすぐ外側にあった半円形劇場の遺跡をおおう形で、パラッツォ・ヴェッキオと呼ばれることになる政庁舎を建てる。
おそらく、橋脚も崩れ果てていたにちがいないローマ時代のP97橋の近くには、中世の間は木製の橋がかかっていたにせよ、それをローマ時代のもののように石造りにすることを考えただけでなく、さらに上流にもう一本の橋を渡す。ポンテ・ヴェッキオとポンテ・デラ・グラツィアです。
ローマ時代のフィレンツェからは少し外になる地にサンタ・クローチェ教会を建てた彼のことだから、より拡大されたフィレンツェの将来の姿さえも見透かしていたにちがいありません。教会であろうと政庁舎や広場や橋のような俗界のインフラであろうと、地域の活性化ということならば同じ働きをするのです。
そして、一四○○年代に入れば、フィレンツェの活性化の主役はルチェライ、ピッティ、メディチ、ストロッツィのような有力市民が競って建てる、斬新で美しい大邸宅に代わる。しかし、フィレンツェを、他のどのルネサンス時代の建物のと比べても美しく活気にあふれ、しかも秩序をもった都市にした最初の人は、職工の親方にすぎなかったアーノルフォ・ディ・カンビオなのですよ。
この同じ時期に、力強く歩みはじめた自国フィレンツェを誇り高く叙述した『年代記』を、自らも市政に深く関与したジョヴァンニ・ヴィラーニが書きはじめます。そしてダンテも、『神曲』(La divina commedia)を書きはじめる。
一三○○年を境にした時期は、混乱と動揺に満ちていたかもしれない。だがそれゆえになお、新しい時代の息吹きはあらゆる分野に現れはじめていたのですね。
P98 古代ローマの年代記作家たちが彼らの日常語で書いたのを踏襲して、自分も自分たちの日常語であるイタリア語で書くと明言したジョヴァンニ・ヴィラーニ。同じく、聖職者の使うラテン語を嫌ってイタリア語で書くほうを選んだダンテ。彼らの気概は、この人々の面がまえに現れていたのではないかとさえ思ってしまいます。
ヴィラーニの客観的で冷徹な叙述は、当時の知識人の文章力を示して見事です。しかし、ダンテの『神曲』になると、言語による表現の可能性の深さを示して比類ない。地獄篇中の一エピソードですが、そこでダンテは、淫蕩の罪で地獄に堕とされているパオロとフランチェスカに出会う。
恋をしてはならない仲であった二人なのに、二人P99だけで部屋にいたあるとき、パオロがアーサー王の物語を読み、フランチェスカはそれに耳を傾けることになってしまうのです。アーサー王の妃のジネーブラと円卓の騎士の一人だったランスロットの恋の物語は、それを読み聴く二人に自分たちの胸の底に隠れていた恋情を気づかせてしまう。
二人は、ふるえながら唇を交わす。ここまでダンテに物語ったパオロは、最後に言います。「あの日わたしたちは、そのつづきをもう読まなかった」。ただの一行なのに、その後の二人の不幸を想わせて胸にしみいる一行ではありませんか。
俗語と軽蔑されていたイタリア語も、ここまでの高さに達していたのです。後代のイタリアの国語が、七百年昔のこの時代のフィレンツェ人によって成ったとされるも当然と思えるくらいに」
「上昇一方であったこのフィレンツェも、一三四八年のペストの大流行で手ひどい打撃を受けますね」
「人口が三分の二に減ったと言われているから、それこそ地獄であったでしょう。ジョヴァンニ・ヴィラーニも、そのときに死んでいます」
「イタリアの他の都市ではどうだったのですか」
P100 「大同小異というところでしょう。ただし疫病は、人口が集中する大都市ほど被害が大きくなる。当時のイタリアで最も人口が多かったのは、ローマでもなくナポリでもなく、フィレンツェとヴェネツィアでした。
(略、ペスト菌の潜伏期間とされている四十日を過ぎた後でないと、ヴェネツィア内に入港させなかった。検疫と訳される「Quarantine」は、「四十日間」を意味するヴェネツィア方言「Quarntin」からきている。『デカメロン』は、絶望のあまりに刹那的になって享楽しか考えなくなった男三人と女七人のグループが、田舎のヴィラに避難した十人の十日間の物語。)
P101 ボッカッチョの筆致は、ペストの猛威の描写でもリアリズムに徹していますが、ペストを避けて田園のヴィラに逃げている人々の間で交わされる物語を書くときになっても、彼の筆致は変わっていない。中でも聖職者の嘘と偽りを暴露する物語では、人間の本質に向けられるボッカッチョの洞察力の鋭さと深さは、現実から逃避した人のものではまったくありません。
P102 (略、一三四八年の春にはじまったペストの流行は、一年後おさまる)
「わずか一年の間に人口が三分の二に減ったほどの惨状を体験させられたフィレンツェ人は、これが神が下した罰にちがいないと反省し、離れはじめていたキリスト教的な価値観に再びもどったのでしょうか」
「それが意外と後もどりしていないんですね。短期間に未曽有の惨事に見舞われたためにその後始末に没頭せざるをえなくなり、神罰などと嘆いている余裕はなかったのかもしれません。また、ペストは聖職者も俗界の人間も区別なく死に追いやったのです。
それに黒死病の大流行は、大惨事ではあっても人災ではなかった。当時では天災としてよく、反省も、防疫体制の確立のような具体策に向かい、自分たちの生き方の反省まではする必要がなかったのです。もしもこのときのペスト大流行がヨーロッパのP103別の国で起こっていたとしたら、現世肯定のルネサンス的な流れに対する、キリスト教側の反撃は成功していたかもしれません。
しかしイタリアには、それも、古代のローマの栄光を受け継ぐのは今のローマではなくフィレンツェだと確信していた十四世紀半ばのフィレンツェ人には、神罰主義が忍び込むスキはなかったように思います。
そして、人口の激減とは、やむをえずにしろ人々の関心を効率性に向けざるをえなくする。それ以前は都市に流れこんでくる人の量を頼りに上昇していたフィレンツェ経済も、ペスト以後は、質を重視し個々の生産性の向上を期すやり方に変わってくる。ヴェネツィアでもまったく同じです。
一三四八年から四九年にかけてのペストの大流行は、経済大国になりつつあったイタリアの都市国家に、経済構造の再構築を強いたのではないかと思うくらいです。とは言っても、ヴェネツィア共和国ならばゆっくりと、しかし着実に進行していく社会改革も、病苦に耐えかねて寝台の上で始終身体の向きを変える病人のようだと、ダンテに言われたフィレンツェではちがう。
再構築も、「七転八倒という感じで進みます。一三七八年には、「チョンビの乱」の名で有名な、富の格差の拡大に不満を爆発させた職工たちの暴力ストライキまで起こる。はじめは資本家対労働者、次いでは資本家対資本家の感じで進んだフィレンツェ共和国に、ライヴァルのヴェネツィアのような国内の融和が成り立つのは、実にペスト大流行から百P104年が過ぎようとする一四三四年になってからなのです。
それでも、有力家系間での追放されたり追放したりがくり返されていた時代にも、ルネサンス精神は進みつづけていたのだから、激動の時代と新しい価値観の創造とは、共生可能ということかもしれません。
一三○○年代後半から一四○○年前半にかけて活躍する建築家ないし彫刻家はブルネレスキ、ギベルティ、ドナテッロですが、この時代はペトラルカからはじまった古典研究が頂点に達する時期でもあるのです。
まず、ダンテ、ペトラルカ、ボッカッチョと並び称された一人のペトラルカですが、三人の中では唯一の桂冠詩人の栄光に輝いたこの人は抒情詩人。だが、彼の真髄は、詩作よりも古典研究にあります。古代ローマ屈指の文筆家キケロの著作を、修道院の図書室から見つけだしたのは彼。これが、ルネサンス人による古代復興の一里塚になる。
このペトラルカの後につづいたのが、レオナルド・ブルーニ、ポッジョ・ブラッチョリーニをはじめとするフィレンツェの人文主義者たちでした。面白いのは、これら古典研究者のほとんどが、フィレンツェ共和国の政庁に勤めていた官僚であったことです。
学問の世界の住人ではなく、実務の世界の住人であったということ。フィレンツェにおけるこの伝統は後々まで残り、マキアヴェッリも、その友人で長大な『イタリア史』を書くグイッチャルディーニも、官僚出身の歴史家であり思想家でした。これは、文筆作品を遺した人のほとんどが公職経験者であったローマとまったく同じです。
知識が、観念の世界である聖職者階級の独占物であった中世が、完全に過去のものになったということですね」
「内部分裂が絶えなかったフィレンツェにようやく国内統一が成る一四三四年とは、メディチ家のコシモによって僭主制が確立したとしですね。僭主制とは実質上の専制君主制だから、自由が保証されてこそ可能な学芸の分野の活動には、阻害要因にはならなかったのですか」
「政治の安定は、反対派を吸収することで国内統一を期す古代のローマやルネサンス時代のヴェネツィア方式か、二派に分かれて主導権を争った結果、勝った側が敗者を排除して国内を統一するという古代のアテネやフィレンツェ方式かのいずれかしかありません。
二大政党が選挙の結果入れ変わる方式は、二十世紀に入ってから達成されたもので、しかも現代でもなお、数ヵ国でしか機能していない。
アテネの政治の安定に成功しただけでなく、それによる文化の最盛期をもたらしたP106のはペリクレスですが、このペリクレス下のアテネについての歴史家ツキディデスは書いている。外観は民主政だが、実際はただ一人の統治であった、と。
形式上は共和政でも実際は僭主政を布いたメディチ家に対して、グイッチャルディーニは次のように書く。メディチは専制君主だった。しかし、好ましい専制君主だった、と。英明な一人にリードされると、なぜか自由と秩序という二律背反も、手を結びあえるものなんですね。
このメディチ家による僭主政が機能していた六十年の間に、つまり十五世紀後半に、フィレンツェのルネサンスは最盛期を迎えるのです。まったく、その間に活躍した芸術家たちの名をいちいち記すのも、嫌になってくるくらいに輩出する。
口絵の表(→参照)を見ていただければわかるように、一世紀に一人生れれば満足という天才が、丘に立てば一望できる程度の狭い市内で競い合っていたのです。次から次へと夜空に打ち上げられる豪華な花火の競演が、六十年間つづいたようなもの。
金融業や織物業ではヨーロッパ屈指のパワーを獲得していたフィレンツェ共和国も、メディチによる政治の成熟を経て、政治大国になり文化大国になっていく。こうなればもう大丈夫。才能があると自負している人材は、招かれなくてもフィレンツェを目指す。創作欲に燃えている人ならば、優れた他者からの刺激を受け彼らと競い合うことが、何にもまして自らの創P107作行為に益することを知っているからです」
「そのようなフィレンツェにした人が、メディチ家の当主コシモというわけですね」
「ちょっと待ってください。人間とは、ゼロからまったくの新しいものを創り出すことは、なかなかできない存在でもあるのですよ。ただし、既存のものの中でも無用なものは捨て必要なものはさらに活かすという再構築ならば、できる人材は少なくない。コシモは、フィレンツェ共和国を再構築した人なのです。
この人の生涯と業績は、この人の孫になるロレンツォの生涯と業績同様に、その全分野に光を当てるとなれば一冊の書物になってしまう。だからここでは、要所のノミに照明を当てるに留めます。
一三八九年にフィレンツェに生まれたコシモは、一からメディチ財閥を興した人ではない。ただし、画家のジョットーの故郷でもあるムジェッロの田舎から百年ほど前にフィレンツェに出てきて商いをはじめたのが起源という、メディチ家の経済規模を大幅に拡大したということならば創業者としてもよい人物です。
経済大国になっていたフィレンツェにはすでに、全ヨーロッパに知られた有力な商人たちが目白押しの状態であったのですが、メディチ家は筆頭格でも、それは後発組の筆頭にすぎなかった。P108事実、大資本家の利益を守ることで団結している有力商人グループに対して、メディチ家は台頭途上ですでに、民衆派に属す資本家と見られていました。
とはいえ、民衆派の中核であった労働者階級に同情していたから、ではまったくない。この経済人は、時代を読む才能でも卓越していたのです。
青少年時代を、良い意味でも悪い意味でもフィレンツェ共和国の激動の時代に過ごしたこの人は、高名な家庭教師による教育を受けたわけでもなく、当時の有名な大学で学んだわけでもなかった。それでも自家のの仕事の関係で、ヨーロッパの各地を広く旅している。
商いという、現実を直視しなければ失敗するしかないという性質をもつ仕事。商談しながらの旅という、現実の認識には絶好の機会に恵まれたこと。そして、衆に秀でた彼自身の才能。この三つがコシモを、時代を読める経済人に育てのでしょう。
P109 経済の本質は利潤の追求にあるのだから、興隆は自発的であり競合的でなければ達成されません。しかしそれが行きすぎると、われとわが身の破滅になる危険を内包する。その行きすぎを是正するのが、政治です。政治とは、行きすぎを是正することで経済の繁栄を長つづきさせる人智、と言い換えてもよい。
それには、政治の成熟による政局の安定が必須条件になる。これをイタリア内で唯一実現していたヴェネツィア共和国に、コシモは、有力商人グループとの抗争によって祖国から追放されていた時期に滞在しているのです。
一四三四年、四十五歳のコシモは、追放先から帰還する。祖国に帰れたということは、彼を追放した勢力が後退したということ。これを機に、メディチによる僭主政がはじまる。しかしコシモは、このような場合ではしばしば見られる復讐行為には訴えなかった。彼に反対する派の主要人物の幾人かは国外追放に処しますが、旧体制派は草の根に至るまで壊滅しつくすということはやっていない。
この彼のやり方は、それまでのフィレンツを思えば特筆に値する。なにしろダンテは追放、ペトラルカは追放者の息子、というのがそれまでのフィレンツェ共和国の常態であったのですから。
そして、フィレンツェの国政の担当者の人選も、広く各階層に開放する。属す階級別ではなく、能力主義による登用策をとった。しかも、彼自身が高額所得者であったP110にかかわらず、おそらくヨーロッパでもはじめての、累進課税制度まで考え出すのです。
公正な税制こそが善政の根幹であることを認識してくれる歴史研究者が少ない現状では、この面の研究が進んでいないためにくわしいことはわかっていないのですが、それでも収入に課されるこの直接税の税率は、四パーセントから三三・五パーセントの間に段階別であったようです。
もちろん、累進課税制度を考え実行に移した彼の頭の中には、これによって有力経済人グループに打撃を与える意図はあったでしょう。だが、同時に、国民の八割が中産階級というヴェネツィア共和国が頭の中にあったにちがいない。当時ではヴェネツィアくらい、国内の抗争の回避に成功していた国はなかったのです。なぜそれがヴェネツィアでは容易で、フィレンツェでは難事であったのか。
フィレンツェ人の商売相手は、メディチ銀行の支店網がどこを網羅していたかを見れば一目瞭然のように、陸伝いに行ける北ヨーロッパになる。陸伝いに行けるのですから、健脚の持主で到着地での商談も巧みな人がより多く稼げるのも当然。職工たちが待遇改善を求めてストを起こせば、ストに訴えることなど考えもしない職工たちの住む地域に工場を移すことも簡単。
このフィレンツェでは、資本家と労働者の利害は一致しP111ていなかったし、また、資本家同士の利害も一致していなかった。
一方、ヴェネツィア人の「足」は船です。とくに、帆船が主力であったジェノヴァとちがって、ヴェネツィアの船は帆と櫂の双方を使うガレー船。櫂は当時のモーターで、風のないときや港への出入りに役立った。不確定要素である風のみに頼ることを嫌った、確実好きのヴェネツィアらしい選択です。
しかし、櫂の働きを重視するということは、最下級船員である漕ぎ手を重視するということでもある。しかも海上で嵐にでも遭おうものなら、船長の適切な判断力とともに、漕ぎ手に至るまでの全員の協力が充分でないと沈没してしまう。このヴェネツィア人に、運命共同体意識がしみ通っていたのも当然でしょう。
また、政府もこの意識の確立に努めます。自前の船をもつ資力のない者でも海外貿易に参加できるようにと、「足」の主力であるガレー船はすべて国有。船長から漕ぎ手に至るまでの船員全員も、給料以外に一定の荷を積む権利が認められており、それを到着地で売りさばいて得た利益はその人のものと決まっていた。
さらに、コレガンツァと呼ばれていた一種の株式制度まであったので、直接には交易に参加しない人でも、春に出港した船が秋になって無事に帰港するのは他人事ではなかったのです。そのうえヴェネツィア共和国は、運命共同体の網を、自国内だけではなく、自国の経済の繁栄に影響あると見れば他国にも広げる。
船の修理所や情報を得る場でもある在外公館や商人に商談の場を提供する商館を置く代わりに、経済援助を惜しまないだけでなく、その地の男たちを船乗りに雇うことで生活も保障する。ヴェネツィア船の漕ぎ手といえば、アドリア海の東岸に連なる旧ユーゴスラビアの人々で占められていたのです。
ヴェネツィアの主港でさえ、この人々の労に報いるつもりが、「リヴァ・デリ・スキアヴォーニ」(スラブ人の船着き場)と呼ばれていた。
このヴェネツィア共和国の政治をにぎっていたのは、フィレンツェではコシモが敵対した有力商人たちであったのです。しかし、漕ぎ手さえも運命共同体の一員と認識していた、大資本家たちではあったのでした。
フィレンツェ人の気質でもある個人主義は、学問や芸術では不可欠の要素です。だが、社会の安定は、個人主義の放任では成し遂げられない。コシモは、ヴェネツィア的な要素を導入することで、フィレンツェのよい面は残し悪い面は是正しようと努めたのではないでしょうか。
ただしフィレンツェでは、ヴェネツィアでは必要なかった専制をやることは必要だったのですが。とはいえこのやり方で、孫の代までの六十年つづいたのだから、成功というしかありませんね。なぜ成功したかというと、コシモは、累進課税に熱心であっただけでなく、税を払う人々の経済力の向上にも熱心であP113ったからです。
コシモのとった経済振興策の一つは、農業の振興、都市と農村の経済力の格差の縮小が目的ですが、都市と農村の健全な共存が最大の目的。その証拠にこの人は、中世時代には顧みられなかったインフラの整備に努めます。その一つが、アルノ河の航行。古代ローマ以来再び、アルノ河は荷を積んだ船が行き来できるようになったのでした。
経営者としての才能も十分だったコシモによって、メディチ家の財力は増加の一方。だが同時に、フィレンツェ共和国全体の経済力も増強されていったのですよ。メディチ家の男たちは、フィレンツェあってのメディチと思い、フィレンツェの人々は、メディチあってのフィレンツェと思うようになったのだから、コシモの狙いは的を射たとするしかありません。
しかもコシモは、国内だけでなく国外に対しても、平和確立こそが最重要事であることを知っていた。一四五三年のコンスタンティノープルの陥落、つまり東ローマ帝国の滅亡とトルコ帝国の台頭という西欧世界にとっての大打撃を、イタリアの平和確立に活用する。
当時のイタリア半島の五大勢力であったミラノ公国、ヴェネツィア共和国、フィレンツェ共和国、ロマ法王庁、ナポリ王国の間で、これまでのような争いはやめて講和を結ぼうと提唱したのです。「ローディの和」の名で実現するこれは、勢力均衡政策のはしりと言ってよい。
しかもコシモの外交は、トルコにまで及ぶのです。フィレンツェは、オリエントにはたいした権益をもっていなかった。守らねばならない権益が微少ならば、権益の大きいヴェネツィアよりは身軽に動けるということにもなる。この立場を利用したコシモは、西方(オチデント)と東方(オリエント)の橋渡しに活躍するのです。
自国の商人の権益拡大というよりも、西方諸国に恩を売るのが本音であったのですが、それでもこの結果、メディチ家とトルコのスルタンはすこぶる良好な関係になり、しかもそれは長くつづく。一四七八年、コシモが死んで十四年も過ぎた後ですが、失敗に終わったとはいえ「バッツィ家の陰謀」の名で有名な反メディチのクーデターが起きます。
的にされたのは、コシモの孫のロレンツォとジュリアーノの兄弟。ロレンツォは凶刃を逃れますが、ジュリアーノは殺される。この陰謀に加わった一人がトルコに逃げてきたのを捕らえ、何の交換条件もつけずにフィレンツェに送還したのが、トルコのスルタンのマホメッド二世でした」
「経済、政治、外交と、 メディチ家のコシモの能力と広さと深さはわかりましたが、この人は学芸助成の面でも大きな業績をあげた人ですね」
P115 「答えは完全にイエス。現在のウフィッツィ美術館の建物がとりまく広場の周囲には、フィレンツェが生んだ天才たちの立像が並んでいますが、美術館の入り口には、コシモとその孫のロレンツォの、メディチ家の男二人の立像が右と左に分かれて立っている。
美術館の中ににある芸術品も、外の広場に立ち並ぶ天才たちも、その多くはこの二人の支援があっての結果だから、この待遇も当然と思いますね。
それでコシモですが、この人は同時代人に言わせると、衆に秀でた学識の持主でもなく、深く芸術を理解した人でもなかったという。ただし、こう書いたその人はつづけて、広い視野の持主ではあった、と書いています。
学問芸術の助成者には、自分自身の感覚や好みや視点に執着しない、このような人のほうが向いているののです。そのうえコシモには、メディチ財閥の資力があった。買ってくれるということくらい、学芸の当事者にとって励みになることはない。しかも彼が、"内需"の先導者を引き受けたのは、文化がもたらす影響も熟知していたからです。
経済大国になっても政治大国になっても、それだけではリーダーにはなれない。それだけでは、リードされる側を納得させることはできないからです。コシモは、フィレンツェを、文化大国にもしようと考え、しかもそれを実現するのですね。
(P116-)
P116 コシモは、フィレンツェの郊外のカレッジにあったメディチ家所有の別邸を提供し、古典学者のマルシリオ・フィチーノを学長にして「アカデミア・プラトニカ」(プラトン・アカデミー)を創設します。とはいえ、単に学問の研究所を創設したのではない。
プラトン学院と訳してよいと思われるこの名称が示すように、古代のアテネにプラトンが創設した「アカデミア」の再興なのです。紀元前四世紀も終わる頃にアテネ郊外の森の中に創設されたのがプラトン学院ですが、ギリシャがローマの覇権下に入った後も最高学府でありつづけ、ここで学んだ人の中で有名人をあげれば、ローマ人のキケロ、ギリシャ人のプルタルコス、ユダヤ人のフィロンと、人種差別をしなかったローマ帝国そのままに、研究者も多国籍集団だった。
しかし、このプラトン学院も、紀元後六世紀には、キリスト教徒には害をもたらすという理由で、東ローマ帝国の皇帝によって廃校にされてしまう。それを一千年後に再興したのがコシモです。この、大学というよりは大学を終えた人々の研究機関という感じのフィレンツェの「アカデミア・プラ十二か」には、フィレンツェにかぎらずイタリア中から人が集まったのももちろんですが、これが導火線になって、ローマにもナポリにも「アカデミア」が生まれたことが裳っとスゴイ。古代はこうして、イタリア・ルネサンスの中に復興したのです。
P117 コシモ・デ・メディチの芸術面での支援の徹底さは、それをいちいち書いていては何ページにもなるので、彼の言った言葉で代えましょう。「わたしは、この都市の気分を知っている。われわれメディチが追い出されるまでに、五十年ととは要しないだろう。だが、モノは残る」
あれから五百年以上も過ぎた今のフィレンツェを埋めている観光客の群れを眺めるたびに、私は右の一句を思い出すのです。世界各地から訪れたこの人々が鑑賞するフィレンツェの都市とそこにある芸術品も、その半ば以上はメディチ家が注文して作らせたり収集した「モノ」と、メディチ家に刺激された他のフィレンツェ人の注文か収集した「モノ」、であるのですから。
プラトン学院の学長格であった古典学者のマルシリオ・フィチーノには年金を支給し生活を保証していたのは知られていますが、芸術家にも、この種の配慮を忘れなかったのがコシモでした。
彫刻家のドナテッロは、コシモがとくに愛した芸術家であり、当時でもすでに有名で仕事には不足しなかった人ですが、無理解な注文主とはしばしば衝突する人でもあった。このドナテッロにコシモは、遺言の中で、生活の心配をしないで創作に専念できるようにと、フィレンツェ郊外のカファジョーロの地に、豊かな収入が保証されるP118農園を贈る一項を入れたのです。
(略、農園を喜んで受け取ったはいいが、処暑の問題が発生して、安心して創作活動ができなくなって、農園を返すことになったという逸話。結局、年金を支払うことで解決する)
フィレンツェを代表する彫刻家であったドナテッロは一四六六年に死にますが、コシモの墓の隣に葬ってほしいと記した遺言を残す。これもピエロは守ります。今でP119も、メディチ家の墓所のある聖ロレンツォ教会のコシモの墓の隣りには、ドナテッロの墓がある。
しかし、この感動的なエピソードも、彼らの独創ではないんですね。ローマ帝国の初代皇帝であったアウグストゥスの親友にマエケナスという人がいたのですが、この人は詩人のヴェルギリウスやホラティウスのパトロンであったことでも有名な人です。
山荘を贈ることで詩作に専念できるようにしてくれたマエケナスに恩を感じていたホラティウスは、死の前に、マエケナスの墓の近くに葬ってくれという遺言を残すのです。これ以降、学芸の助成を「マエケナス」と言うようになったのですが、これがフランス語になると、「メセナ」になる。ドナテッロもピエロもこの話を知っていて、一方は遺言し、一方はそれを果たした。
古代は、まるで血管の中を流れる血液のように、ルネサンス人の中に生きていたということでしょうか。
メディチ家のコシモが死んだのは、ドナテッロの死より二年前の一四六四年、七十五歳の生涯でした。君主の肩書と豪奢な生活はないが実質上の君主、とローマ法王から評されたように一市民で通したコシモだけに、葬式も、外国からの弔問者など一人もいない一市民のものだった。
しかし、フィレンツェの議会はコシモに、「祖国の父」の称号を贈ります。彼に贈られた「Pater patriae」とは、ユリウス・カエサル以P120後のローマの皇帝たちが、ローマの元老院から贈られた称号なんですね。中世・ルネサンスを通じてこの称号を贈られた人は、コシモ一人しかいないのです。
病弱だったために、メディチ家を、つまりはフィレンツェ共和国を率いた時期は五年にすぎなかったピエロの後を、二十歳の若さで継ぐことになったロレンツォですが、この男に関しては、私はすでに『わが友マキアヴェッリ』の中で相当にくわしくとりあげている。
第一部の第二章、「メディチ家のロレンツォ」と第三章の「バッツィ家の陰謀」、そして第四章の「花の都フィレンツェ」です。それは、一四六九年生れのマキアヴェッリの青少年時代が、ロレンツォが、フィレンツェだけでなくイタリアの、いやヨーロッパの"スター"であった時期と重なるからです。
それでここでは簡単にふれるに留めますが、この人は祖父のコシモとちがって、「イル・マニーフィコ」(偉大な人、ないしは華麗な人)の称号が示すように、何をしても派手で華やかだった。祖父同様の平和路線の継承者であで勢力均衡政策を推進した第一級の政治家ですが、コシモならば裏方にまわったのに、ロレンツォとなると首脳会談でことを決するほうを好むという具合。
それでも、マキアヴェッリが『フィレンツェ史』の中で書いた次の箇所が、「ロレンツォ・イル・マニーフィコ」の功績の第一です。
P121---フィレンツェ人は、ロレンツォ・デ・メディチが死ぬ一四九二年までは、最大の幸福の許で過ごした。ロレンツォは、彼自身の思慮と彼自身の権威によって、イタリア内の戦いを芽のうちにつみとることに成功したからである。彼の全関心は、彼自らと彼の国フィレンツェを偉大にすることに向けられた。---
(略、ロレンツォの性格を反映してか、プラトン・アカデミーも様変わりして、観念論が主流になる。天文学が占星術になり、化学が錬金術になる)
P122 「あなたは、ルネサンスをあつかった作品のどれにおいても、ロレンツォ時代のプラトン・アカデミーには、無関心と思えるほど冷淡ですね」
「私の関心が、ロレンツォ時代のフィレンツェに住んでいながらプラトン・アカデミーには出入りしなかった人々のほうにあったからでしょう。その代表格はレオナルド・ダ・ヴィンチ。レオナルドは、見ることのできないものを論ずるのは意味がないと言って、一度は招きに応じてもその後は足を向けなかった。
マキアヴェッリのほうはまだ少年期を脱する時期であったから、カレッジの別邸で開かれるシンポジウムには招かれるはずはありません。だが、もしも十年早く生まれていて招かれていたとしても、レオナルドと同じ感想をもったのではないかと思う。
マキアヴェッリの生涯の関心事は、一つの原理では解釈しようのない、人間性の種々相にあったのですから。
それに私は、哲学とはギリシャ哲学につきるのであって、それ以降の哲学は、キリスト教と哲学の一体化という、所詮は無為に終わるしかない労力のくり返しではなかったか、と思っています。無用の労のくり返しと言うのでは過激すぎるから、ギリシャ哲学の打ち上げた命題に、時代ごとの答えを与えようとした労力、と言い換えてもよい。
なぜなら、宗教とは信じることであり、哲学は疑うことことです。唯一の原理の探究も、哲学では、原理の樹立と破壊をくり返し行うことによって成されるものであって、いったん打ち立てた原理を神聖不可侵ななものとして堅持しつづけることで成るものではない。
哲学とはギリシャ哲学につきると言ったのは、ギリシャ時代は多神教の世界だったので、神聖にして不可侵としなければ成り立たない、一神教の規則を受けないですんだからなんですよ。また、私がプラトン・アカデミーに冷淡なもう一つの理由は、一時は華やかでヨーロッパ中の学界にまで影響を与えた彼らの思想なのに、ロレンツォの死の二年後には実にもろくも崩れた事実を重視するからです。
一四九二年にロレンツォが死ぬ。プラトン・アカデミーにとっては、後ろ盾を失ったことになる。しかもその二年後には、メディチ銀行が倒産します。マキアヴェッリの著作を引用すれば、次のようになる。
---商売では、ロレンツォはまことに不運であったと言わねばならない。その原因は、彼が実際上の仕事をまかせていた各地の史社長たちのだらしなさにあった。支社長たちは、私営企業の人としてよりも公営企業の人のように振舞った。おかげで、西欧各地に投資されていたメディチ家の資産の多くは失われた---どうやら偉大なるロレンツォは、祖父コシモとはちがって、経営者としては偉大ではなかったようです。
しかし、メディチ銀行の破産は、フィレンツェ人にとっては単なる一銀行の破産ではすまなかったのですね。メディチ家あってのフィレンツェと信じきって、六十年を過ごしてきたのです。メディチ財閥の中心事業であったメディチ銀行が破産したということは、フィレンツェの将来への不安を呼び起こさずにはすまなかった。フィレンツェ人が、暗い気分になったのも当然です。
ところがこれと同じ年、この気分に追い討ちをかけるように、修道士サヴォナローラの説教が火を噴く。それまでのフィレンツェ人の現世的な生活ぶりを非難し、悔い改めねば神罰が下ると説教したのです。しかもその年、フランス王の大軍がイタリアになだれこんできた。もちろんサヴォナローラは、これこそフィレンツェに下された神罰だと絶叫する。
これに、フィレンツェの市井の人々だけでなく、プラトン・アカデミーの知識人まP125でが屈したのですね。すべての中心は人間であるという実にルネサンス的な思想を高らかにかかげていたピコ・デラ・ミランドラでさえも、サヴォナローラ派に転向した。
学院の常連でもあり、またロレンツォ時代のフィレンツェを最も美しく表現したといわれていた画家のボッティチェッリ(相互参照)も、悔い改めた結果、歓喜から悲哀へと、画風を百八十度変えてしまう。「アカデミア・プラトニカ」は、瓦解したのです。
観念論は、別の観念論に向かってこられると、意外に弱いものなのですよ。そして、十五世紀末というこの時期を最後にして、フィレンツェのルネサンスは事実上終焉する。
芸術家たちも、それまでは国外で仕事をしても完成すればフィレンツェに帰っていたのが、国外での仕事の量がずっと多くなり、またそれが完成しても故国には帰らないようになります。それまでは人材が集まってきていたフィレンツェが、人材が外に出ていくように変わったのですね。
最後に、自身文人としてもなかなかの才能があった。メディチ家のロレンツォの詩を紹介して、ルネサンスのフィレンツェ篇も「The end.」、イタリア語ならば「Fine」にしたいと思います。
(P126-)
(略、ロレンツォの詩、四十三年に満たなかった一生の間に彼が書き遺した詩や短編小説は、意外に多く...)
P129フィレンツェの人ニコロ・マキアヴェッリの代表作は、世界の名著シリーズには欠かすことのできない、また現代に至るまで多くの読者をもちつづける『君主論』ですが、これは、当時では画期的であった政治と宗教の完全な分離を、リーダーはいかにあるべきかという具体論を通じて提唱した作品です。
メディチ家のロレンツォの政治は政教分離で一貫しており、マキアヴェッリは『フィレンツェ史』ではこのロレンツォを賞讃して書いている。『君主論』でも誰よりも多く言及され、それどころかモデルにされたとしても不思議ではなかった。ところが、『君主論』中でロレンツォに言及した箇所は、一ヵ所もないのです。
ましてや、時代に適したリーダーとしてのモデルには、まったくなっていない。変わりつつあるイタリアに適したリーダー像とされたのは、多くの面でロレンツォとは反対のチェーザレ・ボルジアのほうだった。なぜでしょうか(tw,tw)。
当時のヨーロッパでは明らかに先進国であったイタリアのヴェネツィア、ミラノ、フィレンツェ、ローマ、ナポリの間でならば、コシモやロレンツォが推進した勢力均P130衡政策は有効だったのです。つまり、すでに持っている国同士の間でならば機能できた。
しかし、この価値観は、開発途上国、と言って悪ければ、いまだ持つには至っていない国とでも言い換えますが、そのような国に対しては通用しない。なぜなら、勢力均衡政策とは、現状維持政策だからです。ところが、現状維持では不満足などこかの国が、現状維持主義の国の全人口にも匹敵する大軍を率いて攻め込んできたらどうなるか。
十五世紀末にフランス王の軍に攻めこまれたイタリアの諸国は、この問題を突きつけられたのです。これに答えを出そうと努めたのが、マキアヴェッリの『君主論』。時代は変わったのです。リーダー像も、変わらざるをえなかった。
フランスに派遣されたフィレンツェ共和国の外交使節団を前にして、フランス王ルイ十二世は言います。「イタリア人は戦争を知らない」
これに、使節団の末席に連なるにすぎなかった、三十歳のマキアヴェッリが言い返します。「フランス人は政治を知りません」
しかし、以下に敢然と言い返しても、軍事大国であると同時に政治大国でもあった国家は、後にも先にもローマ帝国しか存在しなかったのが人間世界の現実。この現実を直視せざるをえなかったマキアヴェッリにとっては、政治の巧者ではあっても軍事は重要視していなかったロレンツォは、イタリアの現在を論ずる『君主論』には、とりあげる価値のない過去の人であったのでしょう。
だからこそ、フィレンツェの過去を叙述した『フィレンツェ史』では、このロレンツォを高く評価したのです。そしてそれは当然だし、またロレンツォとマキアヴェッリの二人は、本質的には似た者同士ではなかったか。二人とも、他のどこでもなく、フィレンツェにしか生まれえない人間であるという点で」
「フィレンツェにしか生まれえない人間というならば、レオナルド・ダ・ヴィンチこそが典型ではないのですか。われわれ後代の人間がルネサンス時代に想いを馳せるとき、まず頭に浮かんでくるのがレオナルドです。いや、ルネサンス・イコール・レオナルド、という感じさえする。ルネサンス・フィレンツェ篇の最後はやはり、レオナルドで締めていただきたい気分ですね」
「おっしゃる意味はよくわかります。イタリア・ルネサンスは数多の天才を輩出しましたが、天才の上を行く巨人となれば、レオナルドとミケランジェロをあげるしかない。創作した作品の量ならばミケランジェロ、思索をめぐらせた分野の多彩さならばP132レオナルド、と言えるでしょうか。
イギリスの哲学者バートランド・ラッセルの著書の一つに、『Wisdom of The West』(西方の智恵)があるのですが、その中に次のような一文があります。
---哲学(フィロゾフィー)は、科学(サイエンス)と同じく、誰かがごく一般的な疑問をいだいたときにはじまる。この種の好奇心を、最初に民族的な規模でもったのがギリシャ人だった。現代のわれわれが知っている哲学と科学は、古代のギリシャ人の創造である。ギリシャ文明とはこの知的な運動の爆発であり、これほども華々しいイヴェントは歴史上に存在しない。(略)
それ以前にもそれ以後にも、このギリシャと比肩しうる知の爆発は起こらなかった。二世紀という短い期間に、ギリシャ人は芸術、文学、科学、哲学の各分野にわたって、すさまじい量の傑作を創り出したのである。そしてこれらが、その後の西方文明の基礎と体系を形づくることになった。---
P133 バートランド・ラッセルの言葉を紹介したのは、知の爆発ということならば、アテネが代表したギリシャの後はフィレンツェを先頭にしたイタリアであった、と言いたかったことのありますが、それに加えて、ラッセルのこの一文はレオナルドを語る場合にも使える、と思ったからです。
レオナルドくらい、「なぜ」で生き通した人もいなかった。(略)レオナルドは万能の人と言われていますが、これも、何でもできた人、とか、器用な人、とすることはできない。それよりも、「なぜ」の解明に、ある場合は絵画が適しており、別の場合は解剖が最適の手段であったから、結果として多方面に手を広げてしまった、のではないでしょうか。
もちろん、手をつけたものの出来具合は余人の及ぶところではなかったから、その意味ならば「何でもできた人」ではあったわけですが。
彼においては、芸術も科学も技術の観察すらも彼自身のうちに一体化していたと言われるのも、「なぜ」からすべてが発していたからではないか。マルチ思考の人ではなく、思考のはじまりは「なぜ」の一つなのに、思考の過程がマルチになったのではないか。
P134 並の才能の持ち主でも、創造は「なぜ」の解明への欲求からはじまります。しかし、この人々の場合は、創作の過程で、また完成してはじめてなぜの解明は成就するということがわかってくる。ところがレオナルドとなると、完成しない前にわかってしまう」
「それが、レオナルドに未完成の作品が多い理由ですか」「理由の一つではあるでしょう。しかし、もう一つの理由は、彼にしてなお、できない、とわかったときであったと思う。「最後の晩餐」の壁画は、中央に坐すキリストの顔が、最後の最後になるまで描かれなかったという。「三王礼拝」は、下書きの段階で放棄された。完成とは、あるところまではやったがそれ以上のことはあきらめてから、できることでもあるんですよ」
「レオナルドは、あきらめなかったのですか」「レオナルドだって、あきらめたのです。ただしそれは、作品が完成するとか未完成で残るというのとは、無関係であったというだけ。レオナルドという人は、本源的に謙虚な人だったのですね」
「謙虚は、創造者には必要不可欠でしょうか」
P135 「必要不可欠ですね。誰にも負けないという傲慢不遜も、不可欠な条件ですが」
「謙虚と傲慢不遜では、矛盾するのではないですか」
「普通の人ならばハレーションを起こして、精神の不安定化になりやすい。しかし創作者は、このどちらか一方に片寄るのではなく双方ともを駆使することで、作品を作りあげていくのです。レオナルドも、若いミケランジェロが敵愾心を燃やしたほどに傲慢不遜でしたよ」
「レオナルドはなぜ、ああも多数のスケッチや想いを書き残したのでしょうか」
「あなたもどうやら、"なぜ病"にかかったようですね。しかし、「なぜ」で生涯を貫き通したレオナルドに迫るには、なぜかなぜと問いつづけ、その一つ一つに自分で回答を想定してみる方法しかないのかもしれません。私個人の想定では、彼は、観察し思索し、それによって感得した想いを書いたり描くことによって、さらに思索を深めるという作業をつづけた人ではないかと思う。
ペンであろうが画筆であろうが、それらを使っての表現とは、他者に対してだけではなく、自分自身に向かって語ることでもあるのです。文章や絵画にすることによって、考えもより明快になるのだから。表現には、伝達の手段としての役割だけでなく、頭の中にある考えをはっきりさせるという役割もあるのですよ」
P136 「しかし、このようなレオナルドでは、注文する側も大変だったでしょうね」「絵を描いてさえいればレオナルドは、当時では最高の画料を稼げる人であったのです。二十三歳の年齢差では比較はむずかしいにせよ、ミケランジェロの二倍はもらっていたのではないかと思う。
それなのに彼は、注文主もスポンサーも現れそうもない飛行機や解剖に熱中する。絵画で稼いだお金を教会附属の一種の信託銀行に預けて、それをお金にならない研究の資金源にしていたのです。パトロンを求めて移動する途中でしばしばフィレンツェに立ち寄っているのは、自分を育てた故国を訪れる愉しみもあったでしょうが、お金を引き出すためでもあった。
このレオナルドと、パトロンかまたはパトロン的な関係にあったのは次の人々です。まず、「イル・マニーフィコ」と讃えられたメディチ家のロレンツォ。結論を先に言えば、このルネサンス精神の体現者は、もう一人の体現者のパトロンにもならず、パトロン的なことすらもやらなかった。
ロレンツォとレオナルドの間には、三歳の年齢差しかない。それにこれは余談ですが、現代でさえもフィレンツェ男の名で最も多いのが、ロレンツォとレオナルドです。この二人の間の一見冷淡な関係は、ロレンツォにはレオナルドが理解できなかったゆえなのか、それとも、好みがP137はっきりしていたロレンツォの世界と、レオナルドの棲む世界はふれ合わなかったのか。
ロレンツォの好みを反映して観念論に傾く一方のプラトン・アカデミーに、同じヴェロッキオ工房の兄弟子にあたるボッティチェッリはしばしば出入りしていたのに、レオナルドは関心も寄せていない。師匠ヴェロッキオ作の「キリスト洗礼」の左端に徒弟時代のレオナルドが描いた天使の一人のたぐいまれな美しさは、同時期のボッティチェッリが描いた聖母マリアや天使たちの優美さをはるかに超えていたのだから。
美の感覚には人一倍優れていたロレンツォの注意を引かなかったはずはない。それなのにロレンツォがやったことは、レオナルドをミラノ公爵に紹介したことでした。後世でいうところの頭脳流出に、一役買うことでしかなかった。
関係者の第二は、浅黒い顔であったことから「イル・モーロ」(ムーア人)と呼ばれていたミラノ公爵ルドヴィーコ・スフォルツァです。このミラノ公は、自身の好みがはっきりしていないという点で学芸の助成者としてはより適していたのか、レオナルドは十六年もミラノに滞在することになる。
ロレンツォの死も、メディチ銀行の倒産も、サヴォナローラに屈した祖国フィレンツェも、そしてその四年後のサヴォナローラの処刑も、すべてミラノで知ったのでした。このミラノに着いた当初のレオナルドが、紹介状とともに公爵に提出P138したのが、有名な自薦状です。
まるでエンジニアの売り込みかと思うような内容が九項目にわたって列記され後にはじめて、絵画も他の誰よりも巧みに描けます、と記してあるもの。フィレンツェにいた頃の彼を有名にしたのが絵画であったのだから、三十代に入った若きレオナルドの覇気を表しているというか、それとも、キザというか。
ミラノ公も馬鹿ではなかったから、まるでつけ足しという感じで記されていた画家の才をおおいに活用するのです。愛妾の肖像画まで描かせたのですからね。ところがこの種の作品だと、レオナルドもさっさと完成するんですが。
しかし、普通ならば忌み嫌う解剖から何からさせてはくれたらしいイル・モーロも、フランス軍の侵入の的になって失脚してしまいます。他にパトロンを求めるしかなくなったレオナルドは、P139マントヴァ公爵夫人のイザベッラ・デステを頼る。ところがこの女人は、学芸の保護者であることを宣伝する人によくある例で、欲しいのはレオナルドの才能ではなく、レオナルドの描く自分の肖像画が欲しかっただけ。
レオナルドは、それには生返事をしてもマントヴァは去るしかなかった。注文は、創作者に、刺激を与える働きをする。しかし、どうにも気の向かない注文に応ずるには、レオナルドは自分に正直でありすぎたのでしょう。
(P138-)
P139 この後で彼自ら出向いた人が、チェーザレ・ボルジアです。この、マキアヴェッリによれば危機のイタリアを救える唯一のリーダーであったチェーザレは、それゆえに現状維持路線に対しては反逆児であったために、当時の多くの人からは危険人物と見られていた。このような男のこところにレオナルドが自ら出向いたということ自体が、後世のレオナルド研究者たちには忌まわしくも不可解なエピソードに映るのです。
しかし、レオナルドの関心の一つが、都市計画やインフラ整備にあったことを忘れるわけにはいかない。チェーザレ・ボルジアは、受け継いだ国を守り立てればよかったロレンツォとはちがって、一から自分の王国を建設しなければならなかった。レオナルドもそれをわかっていたからこそ仕事をしたいと申し出、チェーザレが提供する建設総監督の地位を受けたのです。
もしもチェーザレが長生きしていたならば、レオナルドP140考案による画期的なインフラストラクチャーが世に遺ったかもしれない。だが、マキアヴェッリの『君主論』のモデルは、このわずか一年後には失脚する。五十一歳になっていたレオナルドは、仕事をできる地を他に求めるしかなかったのでした。
その後、フィレンツェ、フランス王下のミラノと、仕事はつづけながらも安住の地を求めて到着と出発を繰り返したレオナルドは、ロレンツォの息子で法王に就任したレオーネ十世に従ってローマに居を移した、法王の弟ジュリアーノ・デ・メディチの招きでローマに向います。
法王レオーネ十世は、ローマに滞在することになったレオナルドに、絵画制作は求めなかった。レオーネ十世の好みにより合ったラファエッロがいたからで、しかもラファエッロは、描きはじめたら完成する画家でもあった。
絵を描けとは求めなかったメディチ法王は、しかしレオナルドに、死体の解剖は禁じたのです。開明的なメディチ家の男でもローマ法王になると、キリスト教会の掟を無視できなかったのかもしれません。そしてまもなく、レオナルドの保護者を任じていたジュリアーノが死んでしまう。
以前に一度会ったことのあるフランス王フランソワ一世の招きに応じたレオナルドが、イタリアを後にフランスに向かったのは、ジュリアーノ・デ・メディチが死んだ直後の一五一六年。レオナルドも、六十四歳になっていました。
(略、アンボワーズでの安らかなで静かな余生は、三年で終わる。一五一九年没六十七歳、聖フロランタン教会に葬られるが、戦乱で教会は破壊され、遺体も行方不明。フランソワ一世の好意が嬉しく、どこにでも持ち歩いていた「モナリザ」を王に遺贈)
ダ・ヴィンチ ミステリアスな生涯 ~La Vita di Leonardo Da Vinci~
1)最期、ヴィンチ村、フィレンツェ編
2)ミラノ編
3)天国の祭典
4)再びフィレンツェ、チェーザレ、ミケランジェロ、ミラノ、ラファエロ、フィレンツェ、フランス
1) 2) 3) 4)
第二部 ローマで考える P144-187
(P148-)P148 「このローマが、フィレンツェに代わってルネサンスの中心になるのはなぜで、それはP149いつ頃からですか」
「あらゆる歴史現象と同様にルネサンスも、いつ中心になりいつ中心をはずれたのかかの明確な線引きはできません。しかし、台風が移動していくのに似た動きならばつかめる。その台風の目が居座った時期は、おそらくは十五世紀の末から十六世紀のはじめの四分の一までの三十年。
この時期のローマには、レオナルド、ミケランジェロ、ラファエッロと、ルネサンスの最高峰といわれる三人ともが滞在し仕事をしていたからです。
「フィレンツェ・ルネサンスの牽引車はフィレンツェの大商人たちでしたが、ローマ・ルネサンスの牽引車は誰だったのですか」
「歴代のローマ法王ですね」
「ローマ法王は神の地上での代理人であり、キリスト教徒を導く羊飼いであるべき存在です。それなのに、聖書を通して見、考え、行動していた中世を脱し、人間の眼で見、人間の心で考え、人間の判断で行動することを打ち上げたルネサンスという精神運動の、なぜ牽引車になりえたのですか」
「キリスト教会くらい、時代の流れに柔軟に対抗してきた組織もないのですよ。これが彼らの真のパワーですが、かつては聖フランチェスコの清貧思想を積極的に容認しP150法王庁も、二百年が過ぎる頃ともなると、華麗なルネサンス絵画や彫刻や建築の創造に積極的に関与するようになったというわけ」
「しかし、イエス・キリストは、ソロモンの栄華よりも野に咲く一本の百合を選んでいます」
「イエスは神の子です。でも、神の子でない人間たちは、野の百合も愛するがソロモンの栄華も好きという、困った生きものでもあるんですね。それに、美しく飾り立てた教会は祈りの場にはふさわしくないとする非難は、一般庶民の感情に無神経でありすぎる。
教会は、生まれたときの洗礼の場であり結婚式の場であり葬式の場であるだけでなく、愛する娘の後を追って教会のなかに入った若者が、祈りを捧げる娘の背に、熱い視線を向ける場でもあるのです。そこを美しく飾り立てて、どこが悪いのでしょう」
「教会を美しく飾っただけではなく、高位になればなるほど聖職者は豪勢な生活を愉しんでいたというのだから、これは聖職者階級の堕落ではないですか」
「まあ、贅沢が賞められた例はないから、良いことではないのは確かでしょう。しかし、庶民とはなぜか、自分たちには手のとどかない贅沢を好む。憧れるとしてもよい。
王室や映画やミュージックの世界のスターたちがスターでありえるのは、この人々とP151は反対の極にいるはずの庶民の支持があるからです。
しかも、法王や枢機卿たちの華麗な法衣の一方には、黒や茶や白の粗末な僧服や修道衣の一群がいる。この両輪で成っているところが、キリスト教会の組織としての強みです。
つまり、華麗と清貧の双方ともを満足させることこそ、その双方を求める人間の本性を熟知していたということ。
ルネサンス法王と総称されている法王たちは、清濁合わせもちそれゆえに宗教者としてはチャランポランであったかもしれないが、キリスト教会という組織の長であることの認識度では、なかなかのしたたかさを示した男たちでもあるんですね。
これを言い換えれば、聖職界の長としてだけはでなく俗界のリーダーであったとしても、立派に通用した男たちだった。このような男たちだからこそ、芸術家たちも丁々発止でやりあえたのにちがいない。おとなしく注文をこなしているだけならば、「アルティジャーノ」(職人)でしかない。「アルティスタ」(芸術家)は、注文を逆手に使って自分の創りたいものを創り出す人のことです。
ルネサンス法王と総称される人々を列記していくと、次のようになります。
(P152-)
P152 (略、ピオ二世(一四五八~六四年)、パオロ二世(一四六四~七一年)、)
シスト四世(一四七一~八四年)---俗名はフランチェスコ・デッラ・ローヴェレ。ジェノヴァ近くのサヴォーナ出身。良くも悪くもバイタリティが旺盛だった法王。甥たちを次々と枢機卿に任命して、「ネポティズム」(閨閥主義)をはじめた人。対トルコの十字軍を編成するも、参加国間の不和で挫折。東ローマ帝国最後の皇帝の姪をロP153シアのイワン三世に嫁がせ、それによってロシアが東ローマ帝国の継承者になることを公認して面目を保つ。
ただし、コンスタンチノープル陥落後のローマ法王たちが十字軍に熱心であったのも、異教徒トルコに対してのキリスト教政界の首長の態度としては当然であり、平和の使者を認ずる現在の法王が、世界各地で発生する民族紛争のことごとに話し合いによる解決を提唱しつづけているのと同じこと。つまり、個々人の考えとは別の、キリスト教会の長の責務であったという事情は考慮しておくべき。
フィレンツェ共和国の事実上の君主であったメディチ家を目の敵にする。ロレンツォとジュリアーノの殺害を謀った「バッツィ家の陰謀」も、フィレンツェ内部の反メディチ勢力のバッツィ家の男たちが表面に立ったが、裏で糸を引いていたのはシスト法王であったことは公然の秘密だった。
ただし、メディチ家は憎んでも、メディチ家が学芸の分野で負った役割はすべてまねする。四代前の法王ニコロ五世の創設したヴァティカン図書館を、修道院所蔵の写本収集に努めることによって格段に充実させたのは、このシスト四世。
メディチ家のコシモが再興した「アカデミア・プラトニカ」をローマに移植し、高給を払って人文学者たちを集め。「アカデミア・ロマーナ」を創ったのもシスト法王。そして、今もなお「システィーナ礼拝堂」と呼ばれている、ルネサンス絵画の殿堂を創らせたのP154も彼。
(略)
P156 アレッサンドロ六世(一四九二~一五〇三年)俗名ロドリゴ・ボルジア。スペイン出身。ルネサンスの主役であったイタリアの都市国家に時代の変動を悟らせることになる外国軍の侵略の、第一陣であるシャルル八世率いるフランス軍を迎えることになってしまったローマ法王。(tw,tw)
おそらくはこの時点でいち早く、コシモとロレンツォのメディチ家の二人の男による現状維持政策でイタリア内の平和だけを考えていればよかった時代が去ったことに気づいたのは、法王アレッサンドロ六世とその息子のチェーザレ・ボルジア、そしてマキアヴェッリの三人ではなかったかと思う。
チェーザレは、イタリア半島の中部を押さえる法王庁領土を軍事強国化することで外国勢にP157対抗可能な盾にすることを考え、父のアレッサンドロ六世はそれを、法王の権力と権威のすべてを投入して助ける。この政治の合理性を理論化したのが、マキアヴェッリの『君主論』。イタリアは激動の時代に入ったのである。
キリスト教界の首長としてのアレッサンドロ六世は、メディチ家を追放した後のフィレンツェに神権政治を樹立しようとした説教僧のサヴォナローラからの批判を浴びる。世俗の堕落に染まった聖職者の代表、と決めつけられたのだ。
しかし、神の教えた忠実な政治の有効性は信じなかった法王ボルジアだが、フィレンツェ人の気質もよく知っていた。正面きっての対決に訴えるよりも、サヴォナローラの自壊を待ったのである。四年後にフィレンツェは、サヴォナローラを処刑した。
このボルジアの父と子が関係をもったルネサンスの芸術家は、父P158のほうはピントゥリッキオ。ピントゥリッキオ描く壁画も美しい一郭は、「ボルジアのアパルタメント」と呼ばれて今も法王宮内健在。子のほうは、ロマーニア公国を創設してイタリアの風雲児になった時期に関係をもった、レオナルド・ダ・ヴィンチ。
この二人以外には、特筆に値する人はいない。ジュリオ二世(一五〇三~一三年)俗名はジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ。サヴォーナ出身。シスト四世の甥。
この法王は羊飼いの杖を剣に持ちかえたような人で、カンブレイ同盟を結成してはローマの意に従わないヴェネツィア共和国を攻めたと思ったら、一転して神聖同盟を結成することで昨日の敵ヴェネツィアと組み、昨日までの味方であったフランスをたたくという、意気軒高な法王政庁政治をした人だった。
神聖同盟のスローガンは「晩族は外へ!」で、フランス王は蛮族にされてしまったわけだが、どちらが蛮族かわかったものではないというのが、同時代のP159有識者の評価。だが、かほども気力が旺盛なひとであっただけに、関係をもった芸術家も大型になったのだった。
誰もが知っている人物をあげるだけでも次のようになる。一五〇八年、三十三歳のミケランジェロ、システィーナ礼拝堂の天井一面に、圧巻と評価するしかない「天地創造」を描きはじめる。同じ年、二十五歳のラファエッロ、今では「ラファエッロの部屋」と呼ばれている一郭のすべての壁面を使って、これまた圧巻と言うしかない壁画の制作に着手する。
強要があるわけでもなく立居振舞が洗練されているわけでもなかったジュリオ二世だが、若い芸術家の才能を見出す能力では見事であったとするしかない。温和な性格のラファエッロとは良好な関係を保持できたようだが、人一倍気が強くて頑固なミケランジェロとは、始終衝突していたようである。
システィーナ礼拝堂に入った法王が高い柵の上で制作中の芸術家に向かって、「完成はいつかね」と問えば、天井からはミケランジェロの、「完成したとき!」という素気ない声が降ってきたというエピソードは有名。
それでも「天地創造」は、ジュリオ二世の生きていた間には完成した。ラファエッロ描く壁画がすべて完成するのは、次の法王のレオーネ十世の時代になってからである。法王ジュリオ二世がミケランジェロに委託した仕事の量の多さからも、この二人はP160気質が似通っていたのにちがいない。二人ともが、独創的な何かを創造するのに、お互いを必要としていたのであった。
レオーネ十世(一五一三~ニ一年)---俗名はジョヴァンニ・デ・メディチ。「偉大なるロレンツォ」の次男。フィレンツェ出身。メディチ家の学問芸術への愛を、ヴァティカンにもちこんだ人。
この法王の治世に、短期間にしろローマにはレオナルド、ミケランジェロ、ラファエッロの三人ともが滞在し、法王宮殿内で創作に従事する。二人の大先輩を心から尊敬していたラファエッロは、壁画の一つの「アテネの学堂」を描くとき、中央に立たせたプラトンとアリストテレスの顔を、前者はレオナルド、後者はミケランジェロに似せて描いたと言われている。
メディチ法王は、これまた父親ゆずりの古代の美術品の収集にも熱心だった。この法王から、遺跡発掘P161の総監督に任命されたラファエッロの指揮下、ローマでははじめての本格的な発掘作業が行われる。げ現在のヴァティカン美術館所蔵の古代美術は、レオーネ十世が音頭をとってはじまった。
そしてそれ以後も歴代の法王たちに受け継がれた、遺跡発掘作業の成果であり、古代のギリシャやローマを異教の世界と断じて忌み嫌っていた中世のキリスト教会も、その本山であるローマの法王庁においてすら完全に過去になったことを示していた。
レオーネ十世は、あらゆる面でメディチ家の男であった。芸術が、政治面でも有効であることを知っていた。フランス王との講和の会議の場に、レオナルドとミケランジェロとラファエッロの三人を同道する。効果はてきめんで、ルネサンス芸術の愛好者を認じていたフランソワ一世はたちまち軟化し、敗者であったはずのレオーネ十世は有利な講和を結ぶことができたのだった。
とはいえ、大軍を擁したフランスの王を軟化させる策はもう一つあって、それは、法王庁所蔵の古代彫刻の傑作ラオコーンの群像。ただし、原作をフランス王に贈るのはもったいないと、模像をつくらせていたのだが、どうやらフランス王の芸術愛好は古代までは及んでいなかったようで、この贈物はレオーネの手許に残った。
現在はウフィッツィ美術館に所蔵されているものがそれ。また、フランソワ一世のイタリア人芸術家崇拝は、前任者のルイ十二世の影響P162かレオナルド一人に向けられたようで、このときの出会いがレオナルドに、フランスで生涯を終わらせるきっかけになった。
人間は、個性が強ければ強いほど、その人の好みがはっきりと出る。華麗と優美を好んだレオーネ十世には、執拗なまでのレオナルドの探究心は疎ましく映ったであろうし、何よりもこの巨匠はいっこうに絵を描いてくれなかった。
また、前任者のジュリオ二世とは完璧に呼応できたミケランジェロの雄大な画風も、レオーネの趣向とは合致するとはいえなかったようで、このレオーネが最も愛したのがラファエッロ。ラファエッロが三十七歳の若さで世を去ったときは哀切のあまり、古代のローマでは神々の殿堂であったパンテオンに葬ることを許す。
今も遺るラファエッロの墓棺には、これまた優雅な文体でレオーネから愛され枢機卿にまでなった文人のピエトロ・ベンボの作になる、次の墓碑銘が刻まれている。
---ラファエッロ、ここに眠る。生きていた頃は、自然が恵んだあらゆることの偉大な母であり、自然さえも彼の前には敗北したと思われたほどだが、彼が死んでみると、自然もまた死んでしまったかのように思われる---この前年には、レオナルドも、遠くフランスの地で世を去っていた。一人生き残り、しかも精力的に創作をつづけていたのはミケランジェロただ一人。
しかし、ルネサンスの花をローマで咲かせるのは、膨大な資力を必要とすることでもあった。とはいえ、メディチ銀行が倒産することでメディチ財閥も解体した状態では、私財を使おうにもそれがない。法王レオーネは、免罪符なるものを売り出すことを考えつく。
金貨を入れてチャリンって音がすると、入れた者の死後の天国の席は予約完了というわけ。このようなことに欺かれるイタリア人はいなかったが、ドイツの素朴な善男善女は騙されたのである。もちろん、天国の席の予約代金はローマに送られ、ミケランジェロ設計の聖ピエトロ大寺院やラファエッロ描く傑作や、レオーネ十世の華麗な生活に化けたのである。
これに憤慨したのがマルティン・ルターで、ルターは、法王に抗議し、プロテスタントたちはローマのカトリック教会からの分離を宣言した。狂信的なところはまったくなかったレオーネ十世だったが、ルターを破門に処すことでプロテスタント運動の失墜を謀るが失敗。
キリスト教世界を二分する宗教改革が、ついに火を噴いたのであった。ラファエッロの死の年である一五二○年は、ローマの法王庁にとっても多難な年であったのだ。この後、在位わずか一年のオランダ出身のアドリアーノ六世をはさんで、法王位は再びイタリア出身者にもどる。
クレメンテ七世(一五二三~三四年)---俗名はジュリオ・デ・メディチ。パッツィの陰謀で命を落としたジュリアーノが残した私生児をロレンツォが引き取り、実子同然に育てた後は聖職界に入れた人物だが、当時のイタリアでさえも庶子の出がハンディにならなかったのが、聖職の世界であったからである。
法王の実子といえども法律上では私生児というのが当時のローマ法王庁であり、ジュリオもフィレンツェの司教に出世する。その後、従兄のジョヴァンニがレオーネ十世として法王になったときに、枢機卿に任命された。ゆえに、フィレンツェ出身の法王。
北の国オランダはユトレヒト出身のアドリアーノ六世が法王位にあった一年間のローマは、年代記作家によれば「火が消えたよう」であったらしいが、クレメンテ七世の登位によって再び活気がもどってくる。レオーネ十世の時代には「ヨーロッパでは最もブリリアントな宮廷」と言われたローマの法王宮も、再び古典学者や芸術家が互いの才能を競い合う場にもどった。
しかし、二人目のメディチ法王には、政治上の才覚が欠けていた。イタリア以外のヨーロッパが、国際政治の変革期を迎えていることに注意を払わなかったのである。四年前にスペイン王カルロスが、ハプスブルク家の血を引くことから神聖ローマ帝国の皇帝位を継ぎ、ドイツとスペインをともに支配するという強大な権力の持主になっていたことの重要性を悟らなかったのだった。
同盟とは、弱者同士が協力して強者P165に向かう策であり、この政略が有効な時代はある。だが、いかに優れた政策でも、時代に適合しなければ有効ではない。フィレンツェの司教職にあった時代にマキアヴェッリとは意外にも親しくしていた人なのに、マキアヴェッリが説いてやまなかった「時代性」は理解しなかったようである。
神聖ローマ帝国皇帝カルロスに対抗して打ちあげた神聖同盟の結果は、一五ニ七年の「ローマ掠奪」。法王庁国家の首都であるローマは、皇帝配下のドイツ軍傭兵軍に攻略され、強奪と破壊と殺害と焼き打ちの一週間を耐え忍ぶしかなかった。
クレメンテ七世は、枢機卿たちとともに法王宮を離れ、城塞化してあったカステル・サンタンジェロに逃げて難を免れる。法王を守って闘ったスイス人の傭兵は、このとき全員が討死した。
システィーナ礼拝堂は兵士たちの雑魚寝の場に一変し、ラファエッロの壁画のある一郭は馬小屋と化し、法王たちの墓所は盗掘された。このまったく無秩序な占領軍にはさすがにスペイン側も驚き、スペイン軍の高官は皇帝に次のような手紙を送っている。
「全ローマは破壊されました。聖ピエトロ寺院も法王の宮殿も、今や兵士と馬の居場所になってしまいました。われわれの隊長オランジュ公は、兵士たちに秩序をとりもどさせようと努力されましたが、もはや野盗の群れと化した傭兵どもをどうすることもできません。
ドイツ人の傭兵たちはそれこそ、法王庁に何の尊敬もいだかないルーテP166ル教徒とはこのようなもの、と思われるように野蛮に振舞っています。多くの貴重品と芸術品は、破壊され盗まれました。」
ローマを襲ったこの悲劇を伝え聞いたエラスムスは、友人でもあった枢機卿のサドレートに、次のような手紙を送ってきた。
「ローマは、単にキリスト教徒のためだけの都ではありません。貴族的で高貴な精神と芸術の女神ミューズの住む、われわれの母のような存在です。このたびの悲しい知らせを、わたしは深い弔いの心で受けました」
周囲を崖に囲まれていることから防備万全の中伊の小都市オルヴェイトに非難し、ローマを統治者不在にしてしまった法王クレメンテ七世だが、皇帝カルロスとの和解の道は探っていたのである。カルロスのほうにも、法王と和解する必要はあった。キリスト教社会の俗界の最高位者である神聖ローマ帝国皇帝の位を名実ともに確実なものにするには、ローマ法王による戴冠式を欠くわけにはいかなかったのだ。
「ローマ掠奪」の三年後、ボローニャで会談した二者の間で講和は成立した。カルロスは帝冠を頭上にし、クレメンテ七世は、実家のメディチ家がフィレンツェの支配者の地位にもどるに必要な助力を皇帝に約束させる。
その年、メディチ家の復帰を拒否していたフィレンツェは皇帝の軍によって攻略され、フィレンツェは共和国から、皇帝保護下P167の公国に変わった。法王クレメンテ七世は、私生児との噂が高かったアレッサンドロが、カルロスから正式に公爵の位を授けられたのを見とどけて死ぬ。
パオロ三世(一五三四~四九年)---俗名はアレッサンドロ・ファルネーゼ。ローマ出身。王の離婚が原因でヘンリー八世と衝突したあげくにイギリスのキリスト教徒はイギリス国教会を設立してローマから分離したり、反動宗教改革の理論武装の場となるトレント宗教会議を主催したりと、カトリック教界の首長としてもきわめて精力的であったファルネーゼ法王だが、同時にこの人は、ルネサンス最後の法王と言われるようになる。
現代のローマにバロックの都の印象が強いのは、「ローマの掠奪」によって破壊されたルネサンス様式の建造物を改築せざるをえなく、改造するならばいっそのこと新様式でとなり、台頭しつつあったバロック様式になったという事情がある。
このローマで今でもルネサンス様式のままで残っている建造物の代表例は、ヴェネツィア広場の南面を占めている「ヴェネツィア宮」。ヴェネツィア出身の法王たちの私邸であったところからローマ駐在ヴェネツィア大使も公邸として使っていたために、今でもその名で呼ばれている。
それに、シエナ出身の銀行家キージの屋敷だった「キージ宮」。これらにP168加え、主としてミケランジェロの設計になる、法王とその息子のアレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿の邸宅としてつくられた「ファルネーゼ宮」ぐらいしかない。
現在の「ヴェネツィア宮」は美術館、「キージ宮」は首相官邸、「ファルネーゼ宮」はフランス大使館として使われている。イタリアではテレビや新聞も、首相官邸とかフランス大使館とか言わずに「パラッツォ・キージ」「パラッツォ・ファルネーゼ」で通している。
このファルネーゼ法王の治世の十五年は、ルネサンスの巨匠の中では一人残ったミケランジェロにとっては、五十九歳から七十四歳の時期に該当した。年齢ならば老年でも、ミケランジェロは老人ではなかった。そのミケランジェロに、法王は数多くの制作を依託する。ファルネーゼ宮の設計は私的な仕事だったが、これ以外のすべては公共の事業だった。
一五三五年、もともとは前任者のメディチ法王の考えであったのを継承したファルネーゼ法王は、六十歳になっていたミケランジェロに、システィーナ礼拝堂に唯一残った壁面のすべてを使って、「最後の審判」を描くよう依頼する。天上の全面に「天地創造」を描いた当時のミケランジェロは三十代。
それゆえか感性には三年しか要さなかったが、「最後の審判」には六年かかった。巨匠、最後の力をふりしぼったといP170う感じの力作。だがこれで、「システィーナ礼拝堂」のルネサンス絵画の殿堂化も完了したのである。
一五三八年、いまだ「最後の審判」の制作途上というのに、法王はミケランジェロに、廃墟のままで放置されていたカンピドリオの丘の再開発を依頼する。六十三歳のミケランジェロは、ローマの七つの丘の一つとして有名なこの地の改造を、中央にマルクス・アウレリウス帝の騎馬像を配した広場と、その背と左右に立つ三つの建造物、そして残る一面はヴェネツィア広場に降りてくる緩く広い階段の総合体として設計した。
古代の皇帝の騎馬像は、長く聖ラテラノ寺院前の広場に放置されていたのだが、それを活かそうと考えたのだった。ローマ帝国がキリスト教の国家に変わった当時、ローマには皇帝たちの騎馬像が少なくとも二十二体は残っていたと言われているが、一体だけを残して他はすべて破壊されていた。
キリスト教徒たちがローマ皇帝を敵と見ていたからで、一体のみが生き残れたのは、キリスト教を国教に定めたコンスタンティヌス大帝と思われていたからだ。それが、哲人皇帝とも言われたマルクス・アウレリウスとわかった頃は、異教徒の残したものという理由で古代ローマにかぎらずギリシャの芸術品までもが破壊されテヴェレ河に投げ捨てられ、銅像ならば溶解して何か別物に化けてしまった時代も過去になっていた。
ただし、憎悪は失せても無関心の時P171代は長くつづく。マルクス・アウレリウス帝の騎馬像は、その後長く放って置かれたのである。それを、一千三百五十年の後に、ミケランジェロが生き返らせたのだった。現在ではこの像は、狂信的なキリスト教徒から守るのではなくて大気汚染から守るために、同じくミケランジェロ設計になるカンピドリオ広場に接する美術館の中に、ガラス越しに大切に保存されている。
ミケランジェロによって居場所ば与えられて以来四百六十年以上も騎馬像が置かれていた台座の上には、ミケランジェロが見たら怒り狂うにちがいない、出来の悪い模像が乗っている。ただし、台座ならば真物で、依頼主としてのファルネーゼの名は今でも読みとれる。
まったく、法王たちは死んでもミケランジェロは生きているという感じだが、一五六一年というから、法王庁もピオ四世の治世。ローマも、宗教改革によって趨勢を半減してしまったカトリック教会をもう一度強大ににしようと努める。
反動宗教改革の真只中にあった。法王ピオ四世は、ディオクレティアヌス帝の大浴場の遺跡に、キリスト教の教会を建設しようと考える。ディオクレティアヌスとは四世紀初頭のローマ皇帝であった人で、最もシステマティックにキリスト教徒を迫害したローマ皇帝としても知られていた。
伝説では、この大浴場の建設には四万人のキリスト教徒が、強制労働に駆り出されたという。だからその場に、キリスト教の勝利を再確認するための教会を建てるというのが法王の考えだった。もちろん、このような記念的意味をもつ仕事を依頼するにふさわしいのは、神の如き、という形容詞を冠されていたほどに高名になっていたミケランジェロを措いて他にない。八十六歳になっていた巨匠も、法王の依頼を受ける。
「サンタ・マリア・デリ・アンジェリ・デイ・マルティリ」直訳すれば「天使と殉教者の聖母マリア教会」と名づけられたこの教会は、実に変わった構造になっている。普通は教会建築は縦十字形だが、これだけは横十字形。
しかも、教会の正面は平面でなく、古代ではエセドラと呼ばれていた半円形になっている。それはミケランジェロが、ディオクレティアヌス帝の大浴場の中央部分を、完全にそのままの形で残したからだった。おかげで今では、古代ローマの大浴場の空間感覚を追体験したければ、遺跡の規模では完全でも残っているのは壁と床でしかないカラカラ帝の浴場よりも、この教会の中に立つほうがずっと役に立つ。
「最後の審判」のキリスト像を、筋骨隆々たる裸体で描いたミケランジェロである。この人の手にかかると、キリスト教の勝利の記念も、異教徒だった古代の建築家を記念するものに変わってしまうのだ。ミケランジェロはは、この三年後に死んだ。
ミケランジェロ最後の作品であるという理由か、それとも、ルネサンスと古代ローマの融合の象徴としてか、この「天使と殉教者の聖母マリア」教会は、現代のイタリアでは政府主催の国葬の場として使われているのです」
「ルネサンス法王をピオ二世からパオロ三世までとすれば、一四五八年から一五四九年までの九十年間で、この間に九人の法王が入れ代わった。そのいずれもが、神の代理人であらねばならないはずの、それゆえに信徒たちを導く羊飼いを務めるのが任務のローマ法王の像からは、大きくはずれている感じがします。
言い換えれば、あらゆることはやったしそれを出来る能力もあったが、迷える羊を導くことだけはやらなかった法王たち、という感じがしてならないのです」
P174 「あなたが感じられるとおりでしょう。しかし、映画『第三の男』の終わり近くで、オーソン・ウェルズ扮する「第三の男」が言う台詞がある。一字一句は覚えていませんが、大意ならばこんな感じでした。
「ルネサンス時代のイタリアは、ボルジアとかの悪がはびこり激動の世界であったにもかかわらず、偉大なるルネサンス文化を創り出した。清く平穏なスイスは、鳩時計を創っただけではないか」
「悪を弁護しようとしているのではありません。ただ、覇気とか活気とか気力とかは、善悪には関係なく発揮される性質をもつ。それに、野の百合とソロモンの栄華がともに存在するのが、人間世界の現実でもあるのです」
「あなたはフィレンツェの部でも、学芸の興隆は経済力の興隆があってこそだと言われました。だがローマの法王庁は、フィレンツェの経済人たちとはちがって富を産む人でも組織でもない。そのローマでも経済力が興隆したのならば、その要因は何であったのでしょうか」
「キリスト教徒には昔から、収入の十分の一を教会に納めることが義務づけられています。貧しい人への援助がその理由ですが、「十分の一税」という通称が示すように、収入が増えれば税収も増えるというシステム。ローマ帝国滅亡後の「暗黒の中世」も、人口のゆるやかな増加に表れているように、一千年の間には経済力もゆるやかながP175ら向上していた。
これだけでも、自然増収のはずです。また、中世時代の修道院は、神に祈る場だけでもなく古典の写本をする場だけでもなく、暗黒時代の中世では農業経営者でもあった。ローマによる平和(パクス・ロマーナ)が失われて以後、襲ってくる盗賊怖ろしさに農民は逃げ去り荒れ地と化していた農耕地に、再び犂を入れはじめたのは修道士たちです。
イタリアの葡萄畑の所有者台帳をたどっていくと、ほとんどと言ってよいくらいに修道院につき当たる。そして、修道士がはじめたにせよ耕作が可能になれば、農民ももどってきます。農産物も増える。農産物が増えれば、農民も産んだ子を育てていけるようになる。修道院の多くが城塞でもあるかのように堅固な造りになっていたのも、盗賊が襲ってきたときに農民たちが逃げ込める場でもあったからです。
孔子て修道院所有の農耕地の生産性が向上すれば、それら全体の"地主"でもあるローマの法王庁の資力もあがる。また、中世も後期になれば、農業にかぎらず社会全体の経済が活性化していたのだから、収入の十分の一を納めることになっている教会税の税収も増える。ローマ法王庁の資力が、人口増に比例する形で増大していったのも当然でしょう」
「しかし、金ができれば学芸に関心をもつとはかぎりませんよね。学問や学術にまっP176たく無関心な金持ちはたくさんいます」
「まったくそのとおりで、人間とか、その人間で成っている歴史は、数字をあげるだけでは説明不可能な現象が多いのです。生命力ならば、子供でももっている。いや、若いうちのほうが生命力は旺盛でしょう。しかし、それに意志の力が加わってくると、やる気ないし覇気に変わる。
これをラテン語ではヴィルトゥス(virtus)と言い、イタリア語ではヴィルトゥ(virtu)となって、徳、長所、力量、能力、器量などを意味する言葉です。生命力ならば自然が与えたものだが、ヴィルトゥスとなると誰にでも恵まれるとはかぎらない、ということですね。
マキアヴェッリは、この「ヴィルトゥ」は民族間を移動するのだ、と言っています。古代ならばギリシャからローマへ、ルネサンス時代には、フィレンツェからローマへ、というように。なぜ移動するのかの要因の一つが、経済力なのです」
「それ以外の要因は何ですか」
「やはり、知りたい見たいという欲望でしょうね。ユリウス・カエサルの次の言葉を、もう一度思い出してみてください。
---人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ない---P177 人間性の現実を見透かしたカエサルにして言える言葉ですが、「多くの人」の一人であるわれわれでは絶望かというと、まったくそうではない。多くの人でも見たいと欲する現実ならば見えるのだから、要は、見たいと欲するか否か、であるにすぎない。
つまり、見たいと欲しさえすれば、見えてくるということです。しかも、知りたい見たいという欲望は、ルネサンスの根源です。フィレンツェに次いでローマでも、このルネサンス精神に染まったということですね。
そして、いったん染まれば、ルネサンス精神の引火点が古代復興なのだから、この面ではローマは、フィレンツェよりも断じて有利になる。フィレンツェの学者や芸術家たちが、ローマを訪れたりメディチ家の購入した古典を読んだり芸術品を見たりして古代の精神を再発見したのに比べれば、ローマではそれらは身のまわりにあるころがっているからです。
そしてそれらの「古代」は、いままで見たいと欲しなかったから見えなかったが、見たいと欲しさえすれば見えてくる。見えるということは、このような場合では、それらの素晴らしさに目覚めるということなのです。
キリスト教徒を最初に迫害したローマ皇帝だからと忌み嫌っていたネロの宮殿(ドP178ムス・アウレア)跡に遺る壁画も、たとえ部分しか遺っていなくても偏見を捨てて眺めれば、古代にすでに存在した遠近法の重要さが納得できてくる。
それまでは建築材をとりはがしてくる場としてしか考えていなかったコロッセウムも、改めて見れば、その構造の合理性と機能上の配慮には感心するしかない。テヴェレ河に投げ捨てられていたのを拾い上げた神像も、鼻の部分がどれも切りそがれているため道端に捨てたままにしておいた彫刻も、よくよく眺めれば、河泥でできたしみも鼻が欠けているのも気にならなくなり、白く輝いていたかつての大理石傑作を眼前にする想いになってくる。
日本語には、ものごとをはっきり見わける鋭い心の動きを意味する「心眼」という言葉がありますが、ルネサンス精神とは、人間がこの心眼を、再びわがものにしたということなのですよ」
「心眼の会得はわかりましたが、それもフィレンツェとローマではちがいがあるのですか」
「実に簡単に分類してしまえば、フィレンツェ的心眼の象徴的存在はレオナルド・ダ・ヴィンチ、ローマ的心眼の代表はミケランジェロ、と言えるかもしれません。とはいえこの双方の意味とも、言語で表現することは大変にむずかしい。
この二人の遺した「作品」を見てもらうしかありません。ただし、レP179オナルドはどこにいようとレオナルドであれたと思うけれど、ミケランジェロは、ローマにいたからこそミケランジェロに成りえた、とは言えると思いまうね」
「ルネサンス時代のローマがミケランジェロをつくった、ということですか」
「と同時に、ミケランジェロがルネサンス時代のローマをつくった、ということでしょう。二十世紀アメリカの作家のマーク・トウェインがローマを訪れて書いた文の一部ですが、ローマを訪れて心眼を会得した文人芸術家はゲーテを筆頭に数限りなし、と言ってよいくらいに多いのですが、『トム・ソーヤの冒険』の著者ともなると印象記もユーモラスになる。彼はこんなことを書いています。
---今日はすこぶる気分がよい。なぜなら昨日、ミケランジェロはすでに死んだ人であるとしったからだ---まったくローマでは、どこに行ってもミケランジェロの手を感じてしまう。創造を仕事にしている者にとっては、いやあ何でも創ってくれた人だけれどもう死んでしまった人だからこれ以上は創れない、とでも思わなければたまったものではないのですよ。
とは言っても、五百年前にはミケランジェロも、数多の古代の傑作を眼前にして思ったでしょうね。すごいものを創ってくれたけど、彼らはすでに死んでいるからこれ以上は創れない。だが自分は生きているからまだ創れる、とでも。実作者が実作者に捧げる賛辞の最高は、やれやれ死んでくれていてよかった、なのですよ」
(P180-)
P180 「そのローマのルネサンスも、ミケランジェロが舞台を去るのと行動をともにするかのように衰微する。その原因はやはり、宗教改革ですか」
「私が大学生であった当時の日本のルネサンス学界で支配的であった意見は、ルネサンスは宗教改革を伴わなかったから精神運動としては不完全である、というものでした。(略、著者はそれに疑問を持ち探求し確信を持つに至る)
ルネサンスと宗教改革は本質的に別のものであって、それゆえにルネサンスは、宗教改革をと伴わなかったから精神運動としては不完全であるということにはならない、と確信できたのです。このような場合の論拠は一つであっては不充分ですが、ここでは一例だけ引きましょう。
マキアヴェッリとルターです。マキアヴェッリは一四六九年に生まれて一五二七P181年に死ぬ。ルターは一四八三年生れで没年は一五四六年だから、この二人は同時代人と思ってよい。
そしてこの二人は、中世の指導的考え方であったキリスト教によっても人間性はいっこうに改善されず、人間世界にはあいも変わらず悪がはびこっているが、それはなぜなのか、また、この現状を打開する道はどこに求めるべきか、という問題と真剣に取り組んだ点でも同じであったのです。
そこでイタリア人のマキアヴェッリは、次のように考える。
一千年以上もの長きにわたって指導理念でありつづけたキリスト教によっても人間性は改善されなかったのだから、不変であるのが人間性と考えるべきである、ゆえに改善の道も、人間のあるべき姿ではなく、現にある姿を直視したところに切り開かれてこそ効果も期待できる。一方、ドイツ人のルターの考えは、簡単にまとめれば次のようになります。
一千年余りのキリスト教社会が人間性の改善に役立たなかったのは、キリスト(つまり神)と信徒の間に聖職者階級が介在したがために役立てなかったのだ、それゆえに改善の道も、聖職者階級を撤廃し、神と人間が直接に対し合うところに求められるべきであると。
P182 カトリック教会とは、ローマ法王を頂点として枢機卿、大司教、司教、司祭、修道士から成る聖職者階級が、神と信徒の間に介在する組織です。経典(つまり聖書)を信徒に説き教えるのが、聖職者階級の存在理由であり、ルターの提唱したプロテスタンティズムとは、この種のフィルターは不必要としたところに特質があった。
マキアヴェッリもその一人であるイタリアのルネサンス人は、聖職者階級の世俗化に盲であったのではない。ただし、地理的にも十字軍運動をより冷徹に見きわめることのできた彼らは、フィルターが介在しない場合の危険性にもよりも鋭敏であったのです。
ほんとうのところは、神は何も言わない。神が何か言ったとは、信者がそう思ったから、にすぎない。宗教のプロである聖職者階級が間に介在していればフィルターを通すかと通さないかを適当に判断するから、信者が神の声を聴いたなどというような事態は起こりえない。
ところが、フィルターなしだとそれがおこりやすい。神と信者が直接に対し合うということは、信者の想いはイコール神の想い、になりやすいからです。
十字軍とはそもそも、人口が増加したヨーロッパに増えた人口を養っていける余地がなく、食べていけなくなった人々が武器を手にどっとパレスティーナにくり出したのが発端ですが、単なる難民では意気が上がらない。このような場合は必ず理論武装P183が求められるもので、宗教はこのようなことにすこぶる適しているときている。
ヨーロッパの難民はそれを、聖地奪回に求めたのです。キリスト教の聖地を異教徒イスラムの手から奪回するのは神が求めていることであり、その神の意に従うのがキリスト教徒のつとめである、と。この十字軍のスローガンは、「神がそれを望んでおられる」であったのでした。
聖職者階級が介在してさえ、このようなことは過去に起こった。それさえも介在しなくなったら、信者の想いはイコール神の想い、はそれこそ放任状態になる。マキアヴェッリは、悪を廃絶した後に生ずるより危険度の高い大悪よりも、許容限度の悪ならば残すことによって大悪を阻止するほうを選んだのです。
これは何も、マキアヴェッリ一人に限った考えではありません。ルネサンス時代の知識人の教会批判は激烈ですが、同時代人の一人であったエラスムスにも見られるように、聖職者階級の批判はしてもその廃絶は唱えていない。
この人々が、ルターよりは穏健であったのではないのです。ルターに比べればこの人々は、人間の善意なるものに全幅の信頼をおくことができなかっただけなのです。マキアヴェッリは、これこそが人間性の真実であるとして、ユリウス・カエサルの次の言葉を引用しています。
---どんなに悪い事例とされていることでも、それがはじめられたそもそものきっかけは立派なものであった---P184 動機が良ければすべて良し、で突き進んだ人々が起こしたのが宗教改革ではなかったか、と私は思っています。とくに、ルターから五百年が過ぎた今の時代になっても、人間性はいっこうに改善されていない現状を見ればなおのこと。
(ちなみにルターについてこんな記述も→『赤い盾』P457-(参照))
以上が私の、ルネサンスと宗教改革の異質論の論拠ですが、ローマのルネサンスが衰微した原因は宗教改革か、というあなたの質問への答えも、同質論ではなく異質論をとった以上、直接の原因ではなかったが遠因ではあった、とならざるをえません。
なぜなら、ルターの聖職者階級廃絶論には同調しなくてもルターの怒りには共鳴したルネサンス人にも多く、マキアヴェッリもその親友のグイッチャルディーニもエラスムスもそうだった。ローマ法王庁の内部でさえも似たような状態で、法王レオーネは一方でルターに破門を宣告しておきながら、このメディチ法王と枢機卿たちの会話にはルターがしばしば登場し、ルターの考えをめぐって自由闊達な議論が交わされているのです。
このような自由こそがルネサンス精神の本質であったのですが、法王庁内部にさえも存在した自由闊達な雰囲気こそがプロテスタントをはびこらせたという、反動宗教改革派の憤慨を巻き起こしたのも事実でした。
P185 反動宗教改革とは、カトリック教会内部に生まれた危機意識の所産です。この考えに同調する人々にとっては、それが聖職者であっても、一五二七年の「ローマの掠奪」は、プロテスタントのドイツ兵によるカトリックの本拠ローマの破壊というよりも、ルネサンス色に染まったローマに下された神罰、ということになる。
そして、ローマに二度と神罰が下されないようにするには、つまりはカトリック教会を危機から救い出すには、自由でなくて締めつけが必要だと考え実行したのです。異端裁判の嵐が吹き荒れる時代になった。異なる考えも認めたのがルネサンスならば、認めることを拒否したのが反動宗教改革。
これもまた、動機が良ければすべて良し、の一例ですね。ルネサンスは、反動宗教改革によって殺された、と私は考えています。そしてこの反動宗教改革の主役はもはや、イタリア人ではなくてスペイン人だった。
マキアヴェッリの著作は禁書になり、ミケランジェロの裸体のキリスト教像には腰布が描き加えられ、ガリレオ・ガリレイは地動説を撤回せざるをえなくなる時代がやってきたのです。
ルネサンスの最盛期とぴたりと重なるのが、レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯ですが、もしもそれが五十年ずれていたらどうなっていたでしょう。
あれほども強くしかも科学的だった彼の探求心ならば、必ずや反動宗教改革下のローマ教会とP186衝突していたにちがいありません。異端裁判の犠牲にされるのを避けて、ヴェネツィアかアムステルダムにでも亡命していたかもしれない。
いったん眼をつけたら絶対に有罪にしてしまう実績から、蛇と言われて怖れられていたのが異端審問官です。彼らの命ずる拷問の残忍さと陰惨は、動機の正しさを確信している人の成す悪(tw,tw)がいかにすさまじいかをわからせてくれます。
この異端裁判は、十六世紀半ばに突如発生したのではない。ヨーロッパの他の地方では行われていたのですが、その猛威がローマにまで及ぶようになったのが、法王庁が反動宗教改革に占領された十六世紀半ばからなのです。この、当時でさえも悪名高かった異端審問官の追及の手が及ばない地はヴェネツィアかアムステルダムの三、と言われたのが十六世紀半ばであったのでした」
「それで、ルネサンスも、ローマからヴェネツィアに移動したというわけですか」
「歴史的にローマの法王庁とは距離を置くことでも知られていたヴェネツィア共和国ですが、ローマが求めた異端審問のための機関設立までは拒否していない。異端審問委員会の設立は認めています。ただし、この委員会は、他の国々のように聖職者のみによって構成されるのではなく、共和国側の人間、つまり俗界の人間も加わるよう定めたのです。
そして、異端審問委員会の会則のほうも、委員の一人が退席でもしようものなら流会になると定めたのです。P187こうなってはヴェネツィアでの異端審問は、聖職界側の誰かが市民の名を挙げて異端裁判にかける理由の説明をはじめるや、委員になっている元老院議員が席を立って退室する。
ヴェネツィアは、反動宗教改革に表立って反対したのではない。ただ単に、"流した"のです。だが、このやり方のおかげでヴェネツィアは、反動宗教改革の吹き荒れるヨーロッパの中で、数少ない避難港でありつづけられたのでした。
ルネサンスも、このヴェネツィアに避難してくる。一世紀前には戦乱を避けて、イタリアの各地から職人たちがヴェネツィアに避難したように」
第三部 キアンティ地方のグレーヴェにて P190-208
(P190-)
P190「ローマからヴェネツィア行きの汽車に乗ったからそのままヴェネツィアへ向かうのかと思っていたら、あなたはわたしを促してフィレンツェで途中下車しました。ところが、フィレンツェをもう一度見てまわるのかと思ったらそうでもない。駅前から乗ったタクシーは街の中心には向かわずに郊外への道をとり、今われわれがいるのは、トスカーナの丘陵地帯の村の広場です。なぜ、このような田舎にわたしを連れてきたのですか」
「ここはフィレンツェから南に三十キロ足らずで着ける村で、村の名はグレーヴェ。キアンティ地方の真中にあり、現代では葡萄の収穫の後に毎年開かれるキアンティ・ワインのお祭りも、この広場で行われます。だが、ここにあなたをお連れしたのは葡萄酒を飲ませるためではない。銅像が一つ、広場の中央に立っているでしょう。あれは誰だと思いますか」
P191 「キアンティ・ワインの振興にでも功績があった人ですか」
「今ではグレーヴェはキアンティ地方の葡萄酒の心臓と言われているけれど、あの人はワインとは関係ありません。あの人の名は、葡萄酒とではなくアメリカ合衆国と深く結びついている。ニューヨークのハドソン河が海に流れこむ直前に、ステーテン島とブルックリンを結ぶ橋がかかっているでしょう。あの橋の名は「ヴェラッツァーノ橋」。つまり、あそこに立っている銅像の人の名は、ジョヴァンニ・ダ・ヴェラッツァーノで、このグレーヴェで生まれた人なのです」
「またなんで、キアンティ生れのイタリア人の名が、ニューヨークの橋の名になっているのですか」
「カナダからフロリダ半島までの北米大陸の東海岸を、船で踏破した人だからですよ。ただしここにあなたをお連れしたのは、あることを考えて欲しかったからです。海を前にした地に生まれた人ならば、船に乗って海に出て行くことも抵抗感なくやれるでしょう。生まれたときから海を眺めていれば、海というものがときには陸地以上に、「絶つ」ものではなく「結ぶ」ものであることが感得できるからです。
ジェノヴァやピサ、ヴェネツィア、アマルフィがイタリアの海洋都市国家の雄になれたのも、これらの都市がいずれも海に面している事情と深く関係している。しかし、フィレンツェP192が海洋国家であったことは一度もない。ましてやそのフィレンツェからは三十キロも奥地に分け入ったグレーヴェに生まれたヴェラッツァーノが、なぜアメリカくんだりまで足をのばしたのか。しかも、二度も。
それどころか二度目の探検行では、原住民との争いに巻きこまれて命まで落としている。葡萄酒とオリーブ油の生産をもっぱらとする豪農の息子に生まれたのだから、それで一生を終えていたのならば地方の名士の安穏な生活は保証され、寝床の上で安らかな死を迎えられたにちがいないのです。
それなのになぜ、海に出て行ったのか。ところが、十五世紀から十六世紀にかけての時代、フィレンツェを中心としたトスカーナ地方出身者で、海に出て行った人は意外にも多いのですよ。
何度でもくり返しますが、あくなき探求心こそが、ルネサンス精神の根源です。これが花開いた分野は、芸術や学問にかぎらない。政治でも経済でも、そして海運の世界でも、まったく同じであったのです。ためにルネサンス精神は、宗教改革よりも大航海時代のほうとより深く結びついている。
その証拠には、宗教改革も反動宗教改革もイタリア人で関係した人はほとんどいないのに、大航海時代には、深く、そして多く関係しています」
「そこ大航海時代ですが、なぜ「大」つきで呼ばれるのですか」
P193 「それは、それ以前の航海が、地球上の海の一部でしか行われていなかったからです。(略)この大航海時代の主人公たちを、その中でも有名な人のみに限定して名をあげるにしても、次のよP194うになります。
まずポルトガル人のバルトロメオ・ディアスが、アフリカ大陸のに西岸伝いに南下して喜望峰をまわり、インド洋に入るまでの航行を果す。一四八七年から八八年にかけて、この探検行は行われました。次いで一四九二年、スペインの女王イザベラの資金援助を得たイタリア人のコロンブスが、同じくアジアを目指しながらも航路は西にとり、大西洋を横断して西インド諸島に到達する。
コロンブスはこの年から一五〇四年までの間ののべ八年間に、四回にわたる探検行を実施しています。この四回の探検行で彼が発見した地を列記すれば、バハマ諸島、キューバの東部と南部、トリニダッド、ヴェネズエラの海岸部、ホンデュラス、ニカラグア、パナマの地峡部にまで至っている。
東アジア、つまり太平洋に抜ける道を、彼が探りつづけたことは明白です。それでもなおコロンブスは、自分が発見したのはアジアのどこかと思っていたようですが。
そして、一四九七年から九九年にかけて、ポルトガル人のヴァスコ・ダ・ガマが、喜望峰をまわってインドのカリカットに達する。アジアへの航路は、アフリカ大陸をまわる道ならば引かれたということです。
P195 一方、コロンブスとスペインで知り合って刺激を受けた、ジェノヴァ生まれのコロンブスとは同じイタリア人でもこちらはフィレンツェ出身のアメリゴ・ヴェスプッチは、一四九九年から一五〇二年にかけての二度にわたる航海で、まるでコロンブスにつづくように、まず南米大陸の北岸一帯、二度目の航海では大西洋を南西に向けて一気に船を進め、南米大陸の東岸部をなでまわすように踏破している。
アマゾン河の存在をヨーロッパ人に知らせたのも、フィレンツェの名門ながら経済的には恵まれず、それゆえメディチ家経営の"商社"のスペイン支店のサラリーマンでもあったこの人でした。
(略、コロンブスはイタリア語のコロンボがラテン語になったもの、アメリゴ・ヴェスプッチはアメリクス・ヴェスプッチ)
P196 この二者の成功に刺激されてか、その後しばらくはスペイン人による中米と南米の海への探検行がくり返されるのですが、それを窮極にまでもって行ったのが、ポルトガル人マゼランによって一五一九年からニニ年にかけて敢行された。
南米大陸をまわって太平洋に抜けた大航海。後にマゼラン海峡と呼ばれることになるこの航路の発見によって、大西洋と太平洋とインド洋はついに結ばれたのでした。太平洋という名自体が、彼の命名です。荒れ狂うマゼラン海峡を通り抜けた船員たちにとっては、眼前に広がる大洋は太平な海に思えたのですね。
そして、もはや未知の海ではなくなった大西洋を横断してきた船の舳先を、西や南ではなく北に向けたのが、キアンティ地方の村にすぎないグレーヴェ生まれのヴェラッツァーノであったのです。
彼の探検行は、一五ニ四年と二八年の二回実施される。この二度の探検行でヴェラッツァーノは北米大陸の東岸部をすべて踏破するのですが、一度目の航海ですでに、ハドソン河が大西洋に流れこむニューヨークに達している。もちろん、ハドソン河もニューヨークも後代の命名ですが。とはいえ、アメリカ人もこの史実は忘れず、四百年後にその地にかけた橋に、発見者である彼の名を冠したのですね」
「なるほど。しかし大航海時代は、ヨーロッパ人による、アジアとアフリカと南北アメリカを植民地化した時代の幕開けと言われています。あくなき探求心から海に出てP197行ったこれらのルネサンス人も、所詮は植民地帝国時代の幕を開けたにすぎないのではないですか」
「マルコ・ポーロをはじめとする陸上の探検行の先達の影響で、ヨーロッパ人が豊かな国と思いこんでいた支那や日本に達するのが目的ではじまったのだから、大航海も利権を求めての探検行であったのはまちがいありません。しかし、経済上の利益であろうと創造面での喜びであろうと、トクになる何かが人間を行動に駆り立てるもの。
また、壁にかける程度の大きさの絵や一人でコツコツとやるしかない古典研究ならばスポンサーなしでもやれますが、探検行はお金がかかる。船も、三隻から五隻は絶対に必要です。船乗りだって、知った地に向かう商船ではないのだから集めることからして容易ではない。
船内備蓄の食料も、補給の予定の立たない地への航海ゆえ常よりも多く用意しなければなりません。このような大事業は、スポンサーなしでは絶対にやれない。しかも、莫大な額の融資ができる人がいなければやれないことなのです。そして、これほどもの大金を融資できるほどの人ならば、見返りの期待なしにはお金を出さないのも人間性の現実。
だから、単なる船乗りではなく、天文学、数学、地理に通じていてその上に航行技術のエキスパートであった大航海時代の主人公たちも、自身では探求心のほうが強くても、スポンサーには利益のほうを強調するしかなかったP198でしょう。
映画の監督が制作会社を、絶対に客が入ると言って説得するのに似て。そして、これらの探検行のスポンサーが誰であったのかが、次の時代の性格を決定したのですね」
「この辺りの事情を、大航海時代の主人公たちを列記することでまとめてみましょう。
バルトロメオ・ディアス---ポルトガル出身---ポルトガル王が出資。
クリストフォロ・コロンブス---イタリア出身(ジェノヴァ)---出資者はスペイン女王。
ヴァスコ・ダ・ガマ---ポルトガル出身---ポルトガル王が出資。
アメリゴ・ヴェスプッチ---イタリア出身(フィレンツェ)---出資者はスペイン王。
フェルディナンド・マゼラン---ポルトガル出身---スペイン王の出資を受ける。
ジョヴァンニ・ダ・ヴェラッツァーノ---イタリア出身(フィレンツェ)---出資者はフランス王。
著名な人にかぎったとしても、大航海時代の主人公は右のようになります」
「ポルトガル出身者とイタリア出身者が三人ずつですが、彼らが敢行した大航海のスP199ポンサーとなると、ポルトガルが二回、スペインが三回、フランスが一回の割合になる。イタリアは、人間は出しながら資金は出してませんね。なぜですか。イタリアの都市国家は、ジェノヴァもヴェネツィアも、新時代の波に乗り損ねたということですか」
「これらの大航海者とそのスポンサーの関係は、融資者が企画し資金も用意した探検行を、適格者と見た誰かに命じて行わせたのではありません。航海者のほうが、スポンサーに企画を売り込んで実現したのです。とはいえ出資はOKしたのだから、スポンサーの側にもそれに賭けるだけの進取性はあったということになる。
アメリゴ・ヴェスプッチも、最初はヴェネツィアに売り込んだのです。だが、詳細に検討した末にしろヴェネツィア共和国政府は断ってきた。それで、スペイン王に売り込んで企画は実現したのでした。コロンブスが自国のジェノヴァに売り込まなかったのは、当時のジェノヴァはすでにスペイン王の支配下に入っていて、売り込み先としては適していなかったにすぎません。
また、ヴェラッツァーノのスポンサーがフランス王のフランソワ一世であったのは、中米と南米への進出に積極的であったスペインに抗して、いまだスペインやポルトガルの勢力が及んでいない地域は北米しかなく、その北米進出に活路を見いだそうとした、フランス王の意図と合致したからでした。
P200 こうなると、イタリアの都市国家は、ヴェネツィアのような海洋都市国家の雄にしてなお新時代の波に乗り損ねたのか、というあなたの疑問が正当性を得てくるのですが、それに対する答えは、半ばは乗り損ねたと言えるかもしれないが、残りの半ばはそうではなかった、とするしかないんですね。
まず、これらの大航海の目的はいずれも、アジアへの商路や新市場の開拓となると、ヴェネツィアやジェノヴァやフィレンツェのイタリアの都市国家は、当時では明らかに先行国であった。彼らの活動区域が、地中海を中心にしていたとしてもです。
一方、ポルトガルもスペインも、そしてフランスも、商路と市場の開拓ならば後進国。先行国には新たな開拓の必要はなくても、後発国にはあります。そして、後発国に残されていたのが、先行国が手をつけていなかった地域になるのも当然の帰結。それが、「ムンドゥス・ノヴス」(Mundus novus)、つまり「新世界」であったのですね。
しかし、スペイン王の支配下に入ったジェノヴァや、メディチ銀行の倒産で経済力の衰退がいちじるしかったフィレンツェは別にしても、海洋民族であり海運国の歴史も長く資金力も豊かであったヴェネツィアが、なぜ新大陸に消極的であったのかという疑問は残ります。
それへの答えは、経済的にうまく行っており、新たな開拓の必要がなかった、というのが第一。アフリカをまわる新航路の開拓は、ポルトガルとスペインに、ヴェネツィアの主要交易物産である香味料の集約地のインドに直行されるというメリットを与えはしたのですが、ヴェネツィアはこれに、実にヴェネツィアらしい合理的な政策で対抗し、しかも成功する。
それが何であったのかの説明は簡単ではなく、『海の都の物語』を読んでもらうしかないのですが、ヴァスコ・ダ・ガマによる喜望峰まわりの"インド直行便"が、ヴェネツィア経済の衰退に結びつかなかったことは事実です。だからこそ、アメリゴ・ヴェスプッチからの出資要請にも、NOで答えたのでしょう。
しかし、ヴェネツィアの「乗り損い」の要因は、もう一つ別にある。それは、ポルトガルやスペインやフランスとヴェネツィアの間にあった、新航路や新市場の開拓に対する考え方のちがいです。
ポルトガルが事実上スペイン支配下に入ったこと、またフランスは結局は新大陸ではイギリスにとって代わられることから、比較の対象はスペインにしぼりますが、スペイン人は海洋民族でもなければ海軍国であったためしもない。
このスペインがただ一度もった艦隊らしい艦隊である「無敵艦隊」も、無敵であったのは闘わなかったときだけで、イギリスとの間に開戦をはじめたとたんに敗北を喫したのがその何よりのP202証拠です。このスペイン人の考える新市場とは、そこに住む人々と交易する場ではなく、そこに住む人々を支配下におくことを意味した。
(P238)