2019年10月16日水曜日

偏愛メモ 『「愛」と「性」の文化史』

第一部 色と人情の江戸---「性欲」以前 P8-83

第一章 春画のスピリチュアリティ---「現世離脱欲」の表現 P8-29

(P8-)

1.1 「笑い」としての交合---春画の"スピリチュアリティ" P8-11
P8 春画といえば性的な好奇心を呼び覚ますもの、あるいは性欲を刺激するもの。多くの現代人はそう答えるであろうが、それは必ずしも正しくない。そもそも、「性」や「性欲」という用語自体、江戸時代には現在のような意味では存在していない。また、江戸時代の春画の用途は、近代人が考えるような性的な欲求に供するためだけではなかった。

延広真治氏は、「合戦に勝つためだとか、虫が喰わないためだとか、防火のためのお呪いにとかで具足櫃に入れる。女性の場合は長持ちに入れると衣装がたまるとか信じられていました」(座談会「春本文化」)と春画の用途の多様性について述べ、

浅野秀剛氏も春画の使い道を「一言で言うのは難しい」としつつ、「まじない・習俗的なもの、性教育的なもの、エロティック・アート、ポルノグラフィー、性的な笑いや遊びを楽しむものなど、さまざまな要素が早い時期から既にあったものと考えられる」(「春画史概説」)と指摘されている。つまり、春画にはなんらかの呪術的な要素があった、という見解である。

これにあわせて重要なのは、「春画」という単語自体、江戸時代には存在しておらず、当時P9は「笑い絵」と呼ばれていたことである(ヘンリー・スミス"Overcoming the Modern History of Shunga")。では、「笑い」とはいったい何でだろう。なぜ、女性と男性のむつみあい(以下、交合)を描いた絵が、「笑い」と結びつくのであろうか。

ここで、「笑い」そのものの意味についてもあらためて考えてみる必要があるだろう。

「笑い」とは滑稽なこと、おかしなことを見たり聞いたりしたときに人間が起こす反応であるが、春画の主題はいわゆる"お笑い"ではなく、あくまで交合である。確かに、笑いを誘う滑稽な場面を描く春画もあるが、それは春画に必ず含まれる要素ではない。

にもかかわらず春画の総称として「笑い絵」という表現があったということは、滑稽とは別の意味で、交合と笑いが結びつく原因があったのではと考えてみる必要がある。

柳田国男は「笑いの本願」(昭和一○(一九三五)年)で、
「神がこの世の中の何物よりもはるかに怖ろしく、如何なる場合にもこれを敵としては、寸時も安穏に在り得ないことを信じてから、人は甘んじて神の笑いを受け、次にはわざわざ笑はれるような行為をして、且つはご機嫌を取結び、且つは自分たちの笑はれても一言なき者共なることを承認しようとした」
と、神の怒りを鎮め、祝福を受けるために、人間は宗教儀礼として、神に笑われる行為をしたと論じている。

その具体的事例として、笑いを招く芸能の狂言や田楽があり、アメノウズメがアマテラスオオミカミを天岩屋戸から呼び出すために、「神懸り為て、胸乳を掻き出で裳緒を番登に忍し垂れき」と、下半身をあらわにして踊りを踊った際、神々が笑ったという『古事記』の例をあげている。

折口信夫も「笑う民族文学」(『日本文学の発生 序説』昭和ニニ(一九四七)年)、「上世日本の文学」(『日本文学啓蒙』昭和二五(一九五○)年)において、日本文学には「えろちつく」な笑いの要素があり、日本の芸能にも「人を笑わせ、神を喜ばすわざ」があるとともに、『日本人の笑い』(宇井無愁)でも、

「日本の神々が笑いを好みたもうたことは、天岩戸神話にもあきらか」で、この神話には「日本の芸能の本質的な三つの要素」である神がかり的陶酔、笑い、エロティシズムの三要素がすべて含まれているという。

同書には、「神々の笑い」という章とともに「セックスと笑い」と題された章があり、奈良の飛鳥坐す神社の祭礼のように、男女の交合を演じつつ笑いを誘う「交接芸能」が、様々な事例とともに紹介されている。

同書は、ギリシャ古喜劇のサテュロス劇にも、笑いを伴うエロスが表現されており、その背後には、「万物の生成を太陽神と地母神の性行為のみのりと考え、性器を生命力と豊穣の根源とみる農耕民族に共通の信仰」がこめられているとも説く。

川村邦光氏も、性行為と笑いの結びつきが豊穣の祈りとしての意味をもったと指摘している(『ヒミコの系譜と祭祀---日本シャーマニズムの古代』)。

東西の芸能の源に、人間の生命と大地の実りを祈る共通の心性が働いているとすれば、神々へその祈りを聞き届けてもらうよう、「笑い」をもって奉仕するという、笑いとエロスとの融合も同じようにみられたということであろう。

春画の多くが、男女の営みの源としてイザナミとイザナギの国産みの交わりに言及している事実は、春画が色事の宗教的なルーツとの連続性を自覚していることの端的な反映であると思われる。春画の表現の背後に、もし、笑いとエロスとの宗教的融合という発想があるとしたら、春画が「笑い絵」と呼ばれ、合戦の勝利を祈るまじないや、衣装がたまると信じられて、具足櫃や女性の長持ちに入れられたことの理由も読み解ける。

合戦の勝利や物質的な繁栄への祈りは、超人間的な力の発言に期待するものであり、アメノウズメの笑いをともなうエロスが、神の力の発現を促すという発想と類似している。社会人類学者のジェームズ・フレイザーのいう「類感呪術」のように、古代には、生命の豊かさをもたらす交合は、直接、豊穣をもたらす宗教的パワーと信じられたが、それが、豊作という形以外にも、戦闘の勝利や物質的繁栄という、広い意味での現世利益の源として信じられるようになったのではないか。

交合も「笑い」も、ともに神の力によって幸いを得る宗教的パワーを持つものと信じられ、現代風にいえば「スピリチュアル」なパワー、霊的なパワーを期待されていたのである。

1.2 「イコン」としての春画の表現と特徴---地女(一般女性)の活躍 P11-14
1.3 春画に遊女が少ない理由---遊女における「床」の価値 P14-18
1.4 "エロチック"な地女/"非エロチック"な遊女 P18-21
1.5 「性欲」以前---「現世離脱欲」としての交合 P21-24
1.6 春画から「ポルノグラフィー」へ---「笑い」の喪失と裸体のエロス化、「娼婦」の登場 P24-25
1.7 春画はポルノグラフィーか? P26-29


(略)

第二部 「貞操」と「夫婦愛」の近代---オンリーユー・フォーエヴァーの倫理 P86-178

第二章 "夫婦愛小説家"としての谷崎潤一郎--「色情」から「恋愛」へ P118-146

2.1 "夫婦愛小説家"としての谷崎潤一郎---恋愛結婚の先駆としての『痴人の愛』P118-122
2.2 「貞操」を守る夫 P122-124
2.3 「学問」と教育の理想化---女学生をまねるナオミ P124-125
2.4 理想の女性像の過渡期---芸者から教育ある女性へ P125-127
2.5 女性の造反---男性の理想への反逆 P127-130
2.6 娼婦との相異---谷崎と近世文学 P130-133
2.7 「聖なる婬婦」の理想 P133-136
(P132-)

P133 谷崎は江戸的な「色事」の世界を否定すると同時に、「恋愛及び色情」で、「性欲の解放」のP134必要性を説いている。ここには、おそらく谷崎が自覚していない、「色事」的感性の復活がある。女性のエロティックな魅力を宗教的な感銘として描く谷崎の筆致には、多分にスピリチュアルな要素が含まれているからである。(略、『痴人の愛』の引用)

『痴人の愛』のナオミの肉体の魅力は、譲治のなかに、「聖なる境」をみせてくれるような神聖な感動をよびおこす。(略)ナオミの身体の各部分をあげつらいながら、(略、引用)P135と、ナオミの魅力は明確に「宗教的な感激」と結びつけられている。

エロス的魅惑に対する宗教的感銘の表明は、色事にみられたスピリチュアルな価値を思い起こされるものであり、明治の恋愛論が、人間の性や肉体的欲求を「鳥獣の欲」「皮相な毛並」(坪内逍遥『当世書生気質』)としておとしめたことへの明らかなアンチ・テーゼとなっている。

江戸的な「色事」のスピリチュアルな側面に、実質的に共鳴している谷崎が、なぜ近世文学には嫌悪感を示すのか。それはすでに述べたように、遊女たちのエロチシズムが、女性が主体的に発揮しているものではなく、職業上、強いられている性格が強いからであろう。
西洋には聖なる婬婦」、もしくは「みだらなる貞婦」と云うタイプの女が有り得るけれども、日本にはこれが有り得ない。日本の女はみだらになると同時に処女の健康さと端麗さを失ひ、血色も姿態も衰へて、醜業婦と選ぶ所のない下品な婬婦になつてしまふ。(「恋愛及び色情」)
と谷崎は嘆いてみせる。この発言を、『婦人公論 』という女性読者対象の媒体に記した谷崎の大胆さ(!)はさておき、
次に芸者の制度だが、それが非衛生的で、不経済で、時世に適しないのはいまさら僕がいふまでもなく誰でも知ってゐる(「カフエー対お茶屋・女給対芸者」昭和四(一九二九)年)
と主張する谷崎は、いわゆる"玄人"の立場でない女性が、主体的にP136エロチシズムを発揮する姿を、理想像として模索した。

「売春婦にも等しい」とされながら、なおも「聖なる」印象を譲治に与え続けるナオミは、谷崎が理想とした「聖なる婬婦(相互参照)」そのものなのであろう。日本には「聖なる婬婦」がいないと嘆いてみせた谷崎は、ナオミの姿を通して、日本には稀有と彼がみなすところの、エロチックな妻や娘像を描こうとしたのだろう(tw)。

芸者や遊女でない女性の主体的な性の魅力を賛美する谷崎の女性観は、男性中心的な妻と恋人の分離を否定する意味で、フェミニズム的意義をもつ。

 →『セックス、アート、アメリカンカルチャー』P25-(マドンナ

ただし、谷崎作品の描く男女関係が、「金銭関係を基盤とする一種の契約関係」(金子明雄「金のかかる女たちと金をかける男たち---谷崎潤一郎と女性」)であり、ナオミが経済的に自立していないことを考慮すると、彼女の行為は実質的に、自らの性を商品化しているとも考えられる。

ここには、大正期の(そして現在でも解消されていない)経済的弱者としての女性像の限界がある。とはいえ、自らのライフ・スタイルを主体的に選択している点は、ナオミと花柳界の女性たちとの大きな相違点と言えるだろう。

谷崎が模索した理想の女性像は、単なる個人的な好みをこえ、主体的に性の快楽を追求する権利を女性に認めるという歴史的意義をもっている。それは、プラトニック・ラヴという規範のもとにヒロインたちに不当な抑圧を与えていた明治の多くの文学作品に対する強烈な異議申し立てであり、、「処女」や「貞操」という、女性にのみ課されたセクシュアリティの呪縛を解こうとする試みである。

花柳界に象徴される性の商品化とは別な場所で、谷崎はエロチシズムの解放の可能性をみいだそうとした。遊女ではない女性、いわゆる素人の女性のセクシュアリティを肯定することにより、男女交際によって「堕落」という汚名を着せられた『蒲団』(明治四〇(一九〇七)年)の芳子ら、明治文学のヒロインたちを救済する道を、谷崎は示したともいえよう。

2.8 夫婦間のエロチシズムの追求---夫婦愛の理想化 P137-142
2.9 日本文学における「恋愛」の不在?---「性欲」と「恋愛」の時代の谷崎 P143-146

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