2020年6月10日水曜日

偏愛メモ 『言葉・狂気・エロス』

P52 三つの<読み>の可能性
(略)
P53信号・記号の解読
(略)
たとえばアメリカの記号論者T・A・シービオクに『シャーロック・ホームズの記号論』(岩波書店)という本がある。この書の原題には、ホームズがワトソンに向かってよく言う「君はぼくのやり方を知っているよね」という台詞がそのままとられており、「パースとホームズの比較研究」という副題がつけられている。

シービオクはホームズのその「やり方」、つまり彼独特の推理法を分析して、そこにパースが演繹とも帰納とも区別して<還元(アブダクション)>と呼んだ発想法が駆使されていることを明らかにしてみせる。

<演繹>とは普遍的名だから個別的命題を導き出すもので、たとえば「すべての人は死ぬ。

P54 ソクラテスは人である。故にソクラテスは死ぬ」といった推論である。これに対し、<帰納>とは、逆に個別的命題から普遍的命題にいたるもので、三段論法の形で言えば、「牛、羊、山羊などは反芻する。牛、羊、山羊などは角をもつ。故にすべての角をもつ動物は反芻する」といったような推論をさす。

しかしパースは<アブダクション>(アリストテレスの<還元>の訳)を前二者と区別して次のように言っている。
「帰納法は決して何ら新しいアイデアを生みはしない。科学のすべてのアイデアはこのアブダクションの仕方によって生まれるのである。アブダクションとは諸事実を研究し、それらの事実を証明すべき理由を工夫して作り出すことである」(『プラグマティズムとプラグマティシズム』)
これは『薔薇の名前で「雪の上の足跡(相互参照)が馬という概念の記号」として読み解かれるやり方でもあり、さらにはこの小説自体を暗号とみなして、長老ホルヘではない真犯人を探すべく、映画の撮影終了直後にウィリアム役のショーンコネリーとアドソ役のクリスチャン・スレイターの二人を活躍させる、前述のマッキアヴェッリの小説『「バラの名前」後日譚』(而立書房)の発想である。

P55エーコの微笑
(略)
(P188)

(P200-)

P200 3.日常生活の歓び
P・J・ジューヴのの『夢とエロスの構造』
本書の筆を擱く前に、私たちはもう一度日常の現実に戻らねばならない。文化と自然を二項対立的に分けて「自然に帰れ」と唱える一方向性がおかしいのと同じように、文化を実体的に二分して「深層の流動的文化に還れ」と言うのであった。

これまた片道切符で、P201いずれ終点に到達するや停滞し閉塞してしまうからである。往復切符でもいけない。私が本書で問い続けてきたものとは、人間の生の円環切符の可能性であった。そしてその円環は、JRの山手線と違って、二度と同じ駅には停まらない絶えざる差異化の運動である。

そうした意味で、夢と狂気、愛と生と死の不条理におののく人びとは無論のこと、一九八九年以来の東欧における政治の激動やパナマ政変、あるいは円と株の暴落といった現実にしか関心のない人びとにも、ぜひ一読をすすめたい本がある。

二十世紀の証人として生きたフランスの詩人、ピエール・ジャン・ジューヴの芸術(文学・絵画・音楽)論『夢とエロスの構造』(国文社)は、それほどに現代性に富み、かつ根源的な人間への問いを含んでいる。

精神分析学と現代文学の関わりというと、誰もがフロイトとシュルレアリスムを考える。何故か日本では、ジューヴが読まれなかった。一つには彼がカトリックの詩人のレッテルのもとに敬遠されたこと、もう一つには、二元論・教条主義・合理主義・実証主義に逆らった彼の異端性が、西欧の「正統派」の紹介のみに汲々とした我が国のアカデミズムの鹿鳴館的体質にあわなかったからであろう。

「エロスのドラマの幕」を最初にあけたネルヴァル、ボードレール、マラルメ、ランボーを継承するジューヴは、ヒットラーが首相の座についた一九三三年に詩集『血の汗』を上梓し、「無意識、霊性、破局」と題される序文を書いている。

彼はそこで「文明の最悪の破局」を迎えようとしているヨーロッパに警告を発し、そのおよそ二十年後の一九五四年には「大衆の狂気」とも呼べる「世界の狂気が黙示録的終末なのか、それとも世界が尺度の変化に適応しようとしているのか」と自問する(「感嘆する心について」)。