(P94-)
P94 「うまいピザに飢えてるんだ。よし、金を出そう。うまいピザの店を出すためなら、リスクをおかす価値があるからな」有名な宝石泥棒と一緒にビジネスをするのはスリル満点だ、という理由で出資した会社もある。
ニックはそろそろ頭を下げることにはうんざりしていた。そこで、最後の十万円は、「マフィアの親戚を連れてくるぞ」と脅して巻き上げた。次は場所探しだ。東京の南西部の港区に、六本木(tw)という古い住宅地があった。北は乃木神社、米軍ハーディ兵舎から、南はソ連大使館、アメリカンクラブにいたる、全長およそ一キロの道路をはさんで広がる地域だ。
道路沿いには、そば屋、喫茶店、花屋など、店頭にガラスを張りめぐらした低層の店舗がずらっと軒を連ねている。その裏手に隠れるように、瓦葺のダークブラウンの洋館が、幾重にもわたって建っている。そこに住んでいるのは、おもに外国人ビジネスマンや外交官とその家族だ。建物は高い物でもせいぜい三階建てどまり。
やがてこの地域が、国際的な夜遊びのメッカへと塗り変えられる。しかし当時はまだ、その気配さえもうかがえなかった。六本木交差点は、今でこそ世界屈指の繁華街だが、当時は派出所と、小さな書店が一軒と、広い空き地が二か所あるばかり。夜ともなれば、裏道には人っ子一人見あたらず。「幽霊が出る」と住人が噂するほど閑散としていた。
六本木の活動は、もっぱらハーディ兵舎の周辺に集中していた。ハーディー兵舎は、屋根の平らな灰色の建物群で、周囲をぐるりと塀で囲まれている。かつては日本お帝国陸軍歩兵部隊の本部が置かれていたが、当時は米軍第一機甲部隊と、軍の機関紙『パシフィック・スターズ・アンド・ストライプス』の本部として使われていた(関連)。
(略、周辺の様子)
P95 ハーディ兵舎の西の裏手にある下り坂を、ほんの少し歩いたところには、赤坂の悪名高きナイトクラブ<ラテンクオーター>や、米軍高官の社交場である<山王ホテル>が建っている。路地裏に一歩足を踏み入れれば、人目につかないような高い塀で囲まれたゲイシャハウスも点在している。
P96 塀の向こう側では、シルクの着物姿の若い女性たちが、東京の日本人エリートたちを相手に、三味線を弾いたり酌をしたりと、客のサーヴィスに余念がない。
とはいえ、手ごろな値段でおいしい西洋料理を食べさせてくれるレストランは、この界隈にはどこにもない。あるのはせいぜい、<ハンバーガー・イン>。アメリカンクラブ近くの街角に建つ。アルミの椅子と人工大理石のテーブルを配した安食堂だ。
レストランをオープンするとしたら、国際人がひしめいている六本木が、なんといっても最適だろう。ザペッティはここに店を出すことに決めた。
(略、店の準備の様子)
(P100-)
P100 あれよあれよという間に、<ニコラス>は極東の梁山泊にのしあがった。国の内外を問わず、有名人が続々とやってくる。街なかではとてもお目にかかれないし、まして隣のテーブルに居合せることができることなどまずあり得ない、超有名人ばかりである。
たとえば、来日したハリウッドの映画スターたちが次から次へとやってきた。彼らは、本物のアメリカンピザを食べさせてくれる店が、東京中を探しても<ニコラス>しかないことを、たちまち思い知らされるからだ。
(略、映画スターをはじめ有名人が訪れた)
常連のなかに、明仁皇太子がいたことは、特筆に値する。やがて日本の天皇となったこの人物は、国民に大人気のフィアンセを伴って、よくピザを食べにやってきた。フィアンセは、産業界の裕福な家庭に育った、正田美智子という魅力的な民間人である。
(略、明仁皇太子の開かれた人柄)
P101 やんごとなき人々が訪れるという評判は、当然のことながら<ニコラス>人気をますます不動のものにした。"なりそこないの宝石泥棒"は、今では出世頭。店の外に駐車する車は増えるばかりで、交通渋滞を引き起こすほどになっている。
常連客のなかに、もう一人、超大物がいた。レスリングの世界チャンピョンであり、国民的ヒーローであり、当時のもっとも顕著な文化的財産ともいうべき人物、力道山である。すでに述べたように、彼のレスリング・ショー『三菱ファイトメン・アワー』は、国中で異常なほどの人気だった。
この番組だけで、日本のテレビブームに火がついたほどだ。なにしろ、P102テレビの売り上げが、一九五四年には一万二千台だったものが、五九年には一気に四百十四万八千台へと、けた外れに急上昇している。
(略、力道山の人気、そしてビジネスマンとしての顔)
そのためか、力道山はじつにバラエティに富む知人を連れて、<ニコラス>にやってきた。日本プロレス協会理事をつとめる政界の大物から、石原慎太郎といった著名な新進気鋭の作家にいたるまで、その分野はじつに幅広い。
(略、力道山の破天荒な私生活)
こういう現場に居合せ、ただで飲み食いする常連のなかに、もう一人、見逃せない人物がいた。東京の悪名高き暴力団の親分、町井久之である。身長一八五センチ、体重九一キロ。容貌だけでもかなり凄みがあるのに、かならずボディガードを伴ってやってくる。
"ボディガード"といっても体重はほんの五〇キロ足らず、韓国武道テコンドーの達人だとはいえ、体格が雇い主の半分というボディーガードは、この街でもごく珍しい。親分を店内に入れる前に、彼はあらかじめ独自の方法でくまなく店内の安全確認をする。
その厳密さは、皇太子の警備にまさるとも劣らない。店の外では、武装した十数人の子分たちが見張りにつく。町井は、戦後の暴力団組織<東声会>(TSK)を率いている。千五百人のメンバーは、主に韓国人のごろつきだ。
彼らのライバルに、生粋の日本人から成る<住吉会>という暴力団があった。住吉会の前身は、戦前のバクトで、起源は明治時代にさかのぼる。その住吉会と東声会は、西銀座の縄張りをめぐって血戦を交え、東声会が勝利したばかりだった。
にわか景気にわきたつ西銀座界隈には、バーやキャバレー、パチンコ店などがびっしりと軒を連ねている。東声会は、その用心棒代や借金の取り立て業、および、韓国人のスリ・グループに"ソウギョウ権を貸し付ける"権利を、手中におさめたことになる。力道山の試合の興行も、数多く手がけていた。
町井親分その人は、とても礼儀正しいという定評があった。ウェイターたちに、いつも一万円のチップをはずむほどだ。これは彼らの一か月分の給料に相当した。しかし、子分たちは違う。よその暴力団の組員が、彼らに敬意を払うことなく西銀座を徘徊しようものなら、文字どおり命がおびやかされる。
渋谷を縄張りにする別の組の親分が、耳から顎にかけてざっくり切り裂かれたこともある。東声会のチンピラとすれ違ったときに、頭を下げなかったという、ただそれだけの理由で。東声会は、東京の組織犯罪のシンボル的存在だった。
(略、東声会は、刀ではなく拳銃を使う日本では、新しいタイプの暴力団)
3.1 アングラ帝国 P107-120
一九四七年にケーディスが存在を指摘した「アングラ経済」は、あいかわらずすくすくと成長をとげている。その担い手の多くが、<ニコラス>に出入りしていた。なかでも特筆すべきは、児玉誉士夫という人物だ(関連→『阿片王 満州の夜と霧』P211)。
ずんぐりした体に、髪はハリネズミのように剛毛、表情はユーモアのかけらもうかがえない。日本プロレスリング協会(IPWA)の会長とあって、町井や力道山にエスコートされて店に現れることも多い。強力な権力をもつ大金持ちの極右で、ヤミのフィクサーとしても知られている。アメリカ人がアングラ帝国に足を踏み入れる際の、いわば窓口的存在である。
ある歴史家によれば、児玉は、巨大産業およびヤミ社会からの「裏金」を、政界へと流す達人だ。天皇に政権が奉還された明治維新のあとに、華々しくデビューしたごりごりの右翼の一人でもある。日本の軍事的、産業的発展のために、アジア開拓をめざす右翼の秘密結社<黒龍会>を、熱心に支援している。
(P108-)
P108 宿敵のあいだで「小型ナポレオン」の異名をとる児玉が頭角を現したのは、一九三○年代のこと。政府の司令によって、中国における資材の現地調達を請け負ったのがきっかけだ。彼はまず、東京のヤクザのなかから適当な人材を抜擢して軍隊を結成し、中国の田舎で金品を略奪させている。
戦後の証言によると、村に進軍したらすぐに村長を射殺させるのが、彼の手口だった。村人はたちまち従順になり、何でも彼らに提供したという。鉄鋼や武器その他の軍需品を、日本の陸、海軍に提供した功績を認められ、児玉は戦時中の東条内閣に重用されている。
中国ではアヘンの売買も手がけ、個人的にもかなり利益をあげた。終戦までには、宝石や、金、銀、プラチナ、ラジウムなどをごっそりとため込み、日本にひそかに持ち帰っている。上海で調達した飛行機が、積み荷の重さに耐えかねて、車輪が滑走路で壊れたほどだ。
しかし、東京に戻るやいなや、戦地での蛮行容疑で連合軍に逮捕され、A級戦犯として巣鴨刑務所で三年の刑に服すことになる。
ところが、東条ほか六名が絞首刑にされた一九四八年、東条内閣のもとで商工大臣をつとめ、戦時下経済の立役者でもあった岸信介が、どういうわけか釈放されたように、児玉誉士夫もあっさり釈放されてしまった。
占領軍当局に言わせれば、「証拠不十分」ということらしいが、児玉が秘蔵の宝物の一部を放出して自由を獲得した、というもっぱらの噂である。さらに、戦時下の日本政府の内部情報を、GHQの要請に応じて暴露したことも、効果てきめんだったようだ。
このときにアメリカ人たちは、この男は将来かなり使いモノになる、と踏んだに違いない。
P109 事実、児玉はたちまち、GHQのGⅡに雇われている。児玉自身は、"白人の手先"になる無念さを、非公式の場で漏らしていたが、GⅡの高官側にしてみれば、日本にはびこりつつある左翼勢力を抑えるのに、児玉のかつてのスパイネットワークや、元軍人の朋友や、ヤミ社会の人脈は、まことに有効だったに違いない。
児玉は、国内の共産党グループに潜入をはかる一方で、悪名高き<ラテンクオーター>を取りしきるテッド・ルーインの、共同経営者におさまるゆとりを見せている。また、莫大な財産を駆使して、戦後の政界のドンたちと、密接な関係を結ぶことも忘れていない。
保守派の<自由党>を発足させるために、資金を用立てたのもその一つ。その<自由党>が、一九五五年に<民主党>と合併し、アメリカを後ろ盾とする<自由民主党>が誕生するときにも、児玉は金を積んでいる。以後三十八年間、日本を牛耳ることになるこの財閥主体の政党に、児玉が大きな発言権をもったのは、こうした経緯があったからだ。
一九五八年、自民党に雇われた児玉は、自民党や反共グループ内部の同胞に、CIAからの裏金を握らせたりしながら、ビジネス関係をしっかりと維持している。インドネシアのスカルノ大統領にも接近した。国民に人気のあるこのナショナリストのリーダーが、コミュニストに転向する気配があるかどうかを探るのも、諜報部員としての使命の一環だ。
児玉がこの職務を遂行する一方で、彼の関連会社である<東日貿易>は、ジャカルタに進出してヴェンチャー・ビジネスを手がけるべく、あれこれ算段をめぐらせていた。たとえば、女好きで知られる大統領が来日した際に、P110女性コンパニオンをあてがった。
カルノとビジネス契約を結ぶために、日本企業が伝統的に使ってきた手法を、そのまま採用したわけだ。あんのじょう、東日貿易の努力は報われ、現地で十分な設備と建築契約を提供されている。GHの諜報部で仕事をしているときに、児玉はもう一人のつわものとめぐり合った。前述の町井である。
町井は、ソウル出身の韓国人工場主と日本人妻とのあいだに生まれている。戦後のヤミ市で、若いゴロツキの集団を率いていたころから、彼の名は轟いていた。朝鮮語で「オスの猛牛」の意の「ファンソ」というニックネームをもつこの若者は、バーで殴り合いの喧嘩をくり返し、自分よりはるかに体格のいいアメリカ人GIを、いともたやすく打ち負かした。
空手の黒帯もつアメリカの海軍大佐を、一発のパンチでしとめたとか、逮捕されたときに怒って手錠を引きちぎった、という武勇談まで伝わっている。
朝鮮半島が内戦へと突き進むころ、東京の北朝鮮シンパとのナワ張り争いを勝ち抜いた町井は、自分が率いるグループを、遠回しに「自衛のための武装集団」と呼んではばからなかった。
そんな"名声"を聞きつけた占領軍GⅡの諜報部は、早速彼を反共ファイター、およびストライキ破りの実働部隊として起用。すると町井は、今度は街頭で左翼信奉者たちを相手に、派手な喧嘩を公然とくりひろげるようになる。ときには、拳銃を持ったCIAのメンバーを従えて闘った。
信じられないかもしれないが、朝鮮戦争が勃発する直前の一九五○年六月、ジョン・フォスター・ダレスの一派が率いる韓国非武装地帯への視察旅行に、P111町井は児玉とともに同行している。町井が抜擢されたのは、日本海を股に掛けて活躍している、という理由からだ(関連、tw、tw)。
確かに彼は、GⅡの関係者であり、若いころの大半をソウルで過ごした関係で、韓国の暗黒街にも詳しかった。
一九五〇年代のは半ばには、町井の履歴書がますますにぎやかになってくる。傷害致死二件、ほかにも、恐喝、刀剣不法所持など、さまざまな不法行為をしでかしたものだ。ところが町井は、けっして刑務所に放り込まれない。
アメリカのお偉方にコネがあるからで、いつも保釈か、無罪放免か、保護観察処分で済んでしまう。ヤクザの上層部を追跡しつづけたことで知られる東京の検察官が、こんな愚痴をこぼした。
「町井を捕まえようとしても、そのたびに手を引かずにはいられない。しょっ引くと、かならず上から圧力がかかって、釈放せざるをえなくなる」年長の児玉は、その町井を傘下におさめ、東声会の"顧問"格となって、町井の帰化を援助した。児玉と町井は、力を合わせて大規模な事業をいろいろ手がけているが、その一つがプロレス興行だった。力道山を「日本蘇生のシンボルであり、保守、右翼の宣伝マン」ととらえた児玉は、このプロレスラーに湯水のように金をつぎ込んだ(関連)。
東京における試合のセッティングや、営業許可の申請、警備体制の確保などは、もっぱら東声会(TSK)の連中にまかせ、児玉自身は、夕刊紙『東京スポーツ』を買収して、みずから経営者におさまり、プロレスの"バイブル"へと仕立て上げた。
P112 力道山の記事をでかでかと載せ、芽生えつつある日本人の愛国心をかきたてるような、感情むき出しの内容をたっぷりと盛り込んだ。言うまでもなく、共産主義を打破するためには、愛国心が欠かせないからだ。
(略、プロレス、自民党、日本テレビなど)
P158 しかし、頭角を現しつつある"経済大国日本"の興味深い一面が、さらにはっきり見てとれるのは、隣街の赤坂だ。ここには、ニュー・ラテンクオーターを中心に、高級クラブが雨後のタケノコのように群生しはじめていた。
日本企業の重役たちは、外国人クライアントを"骨抜きにする"ために、赤坂へ連れていく。国の平和維持に貢献したRAA(特殊慰安施設協会)は、すでに名誉ある解散をして存在しないが、ここはその現代版として、国のグローバルな経済張ってのために貢献していた。
赤坂の人気スポットの一つに、パゴダのような形をした世界最大のキャバレー<ミカド>があった。ラスヴェガスふうのけばけばしいショーが呼び物で、裸に近い衣装に大きな羽根飾りをつけた若い女性たちが、ちっぽけなケーブルカーに乗って、客の頭上を往来する。
千人のホステスは、いずれ劣らぬ美女揃い。どの娘もブラの中に番号付きのポケベルをしのばせていた。あるアメリカの貿易商は、商品の買い付けのために東京へくると、取引先の日本人によくミカドへ連れていかれたという。
「セックスの巨大宝庫みたいだよ。あちこちに目を奪われて、目が痛くなる。832番のホステスとダンスをしているときに、ポケベルが鳴るとするだろう?するとその娘は別の客のところへ行ってしまう。でも平気さ。次の娘のほうがもっとよかったりするもんね。日本での商取引きに、まったく新しい側面が加わった感じだな。あのキャバレーのおかげで、どれだけ契約が成立した知れない」
(略、防衛費より大きい接待費)
P159接待費は、日本のいわゆる「鉄壁の三角形」---ビジネス界、政界、官界---を、しっかりと癒着させる接着剤だといわれている。当然のことながらそこでは、単なる享楽やゲームや男同士の約束を超えた何者かが進行することになる。赤坂の<コパカバナ>の常連なら、誰でもうなずくに違いない。
コパカバナは、東京でもっとも排他的で値段の高いクラブである。海外からのVIPを連れていくのに、これほど格好の場所はない。洋風の「料亭」を作ろうという発想が成功した例だ。リョウテイというのは、古典的な高級レストランの総称で、普通はシルクの着物をまとったゲイシャが、伝統的な方法で日本の政治家や財界のボスを接待する。日本の政治の本当の"震源地"はここだと言われている。
コパカバナは、ニュー・ラテンクオーターにほど近い、赤坂の裏通りに面している。バイリンガルの若いエリート美女軍団が、念入りに容姿をみがきあげ、ジヴァンシーの衣装にエナメルシューズといった格好で出迎える。
酒は注いでくれるし、おいしいスナックを手ずから食べさせてくれる。そればかりではない。赤いヴェルヴェットのブースに、テーブルには薄暗い照明だけが灯された、
P160かなり親密な雰囲気のなかで、お世辞や愛撫を雨あられのようにふり注いでくれる。小さなステージでは、海外の有名ミュージシャンが、甘い歌声でムードを盛り上げる。
コパカバナのオーナーの元妻は、元ダンスホールのダンサーで、終戦直後に「チェリーママ」として鳴らしたこともある。「やり手ママ」だともっぱらの評判で、自分の店のホステスたちが完璧なサーヴィスをしているかどうか、控え目ながらタカのような鋭い目でチェックする。
後年、監視カメラが開発されたときには、それを要所要所にに設置したらしい。
金落ちや有名人を出迎えるためのアーチ状の重厚な玄関前には、毎晩、ぴかぴかの黒いリムジンが滞るように入ってくる。三井物産という大手商社のアメリカ支店長をつとめていた、一般市民時代のリチャード・ニクソンは、商談 のため東京を訪れると、かならずここへ連れてこられたという。ファイサル国王も、インドネシアのスカルノ大統領もやってきた。
このクラブが諜報活動の温床となったのは、当然の帰結だったといえよう。
有名な例がある。コパカバナでホステスをしていた通称「デヴィ」(本名は根本七保子)のケースだ。一九六六年の『週刊現代』によると、彼女は<東日貿易>の"秘書"に仕立てられて、スカルノに接近したという(tw,tw)。
東日貿易は、児玉誉士夫が指揮をとる日本の商社で、インドネシアへのさらなる進出をめざしていた。彼女はみごとに使命を果たした。最終的には大統領の第三夫人に収まって、スカルノの末っ子を産んだほどだ。偶然かどうかは知らないが、東日貿易はその後、スカルノが六七年に失脚するまで、ジャカルタで荒稼ぎしている。
とはいえ、スパイ活動の大半を生み出したのは、芽生えたばかりの軍用機、民間機産業だった。
P161 コパカバナは、日本の大手商社が、グラマンやロッキード、マクドネル・ダグラス、ノースロップなど、大手航空機会社の重役たちを、何の疑いもなく連れていける場所とみなされていた。数十億ドル単位の契約が、こともなげに成立る場所だった。
そのために、後年、驚くべき事実が判明している。日本の商社に雇われたエージェント、すなわち、航空機買い付けの仲買人が、米国航空機会社の重役のガールフレンドとなったホステスに、こっそり金を握らせ、彼女たちの目の前で展開されるビジネス交渉に、しっかりと耳を傾けさせていたのだ。
エージェントはは女性たちを募集し、契約にこぎつけるためのありとあらゆる情報を手に入れるよう、訓練をほどこした。彼らが特に重視したのは、燃費やメンテナンスなどの情報と、ライヴァルの省庁や防衛庁人事に関する情報だ。
「グラマン社の航空機は特定燃費に問題がある、というのは本当か?」「大蔵大臣はXに肩入れしているのか、それともYの方か?」「MITI(通産省)は非公式にはどんな立場をとっているのか?」「日本の防衛庁の誰それは、XXプランに賛成しているか?△△戦略を支持しているか?」
実際、航空機についてかなりの知識を身につけ、腕利きの産業スパイになったホステスもいる。もちろん、クラブを訪れたアメリカ人たちは、疑いのかけらさえ抱いていなかった。一九七○年代の半ばに、<航空機販売合戦、夜の舞台裏>などと題した、コパカバナに関するスキャンダラスな雑誌記事が、駅の売店をにぎわせるまでは---
契約成立のための作戦や決断に、頭脳の結果は欠かせない。しかし、もう一つ重要な要素が必要だった。賄賂である。
P162 そのいい例が、ロッキード社とグラマン社のあいだで展開された、一九五七年の熾烈な販売合戦だ。当時、日本の防衛庁は、ジェット戦闘機の購入を検討しはじめていた。防衛庁は最初、グラマン社のF11(F11FF)の購入を決めた。
ところがどういうわけか、突然その決定をくつがえし、ロッキード社のF104スターファイターに変更してしまった。(略)ロッキード社の代表から日本政府の高官に、百五十万ドル近い極秘の献金がなされていたことが、後に発覚したのだ。
献金の仕掛人は、児玉誉士夫以外にありえない。彼自身も、ロッキード社から手数料として七十五万ドルを受け取っている。『ニューヨーク・タイムズ』によれば、この贈収賄はCIAも承知のうえで、CIAはグラマン社やその他の航空機産業に、この情報をけっして洩らさなかったという。
なにしろロッキード社は、CIAのためにU2偵察機を製造した会社であり、児玉誉士夫は、前にも述べたとおり、CIAに雇われたことのある人物だ。この事件はのちに国会で取りあげられたが、児玉の説得力がものをいったらしく、結局は全容が明らかにされていない。
糾弾にあたった社会党議員は、<パテク・フィリップ>の時計がびっしり詰まったブリーフ・ケースを提供されても、頑として受け取らず、児玉の仲間が刃物をちらつかせても動じなかった。やむなく児玉は、脅迫という手段に訴えた。
社会党議員が愛人と密会している一連の写真を送りつけたのだ。これはみごとに功を奏した。児玉の手際があまりにもあざやかだったので、ロッキード社は数年後にも彼の手を借りている。ただし、二度目はいささか違う結果を招いたが。
オリンピック後の新時代に、ビジネス界がますます勢力を拡大する一方、組織犯罪も増加の一途をたどっていた。オリンピックの年の厳重な取締りは、次世代の問題児たちを街から一掃し、組みバッジをつけたヤクザの数も半減させている。
しかし、取り締まりの最大の“産物”は、政府当局とヤミ社会との結びつきを一層強化させたことだろう。「アイ・ライク・アイク」軍のおかげで、両者はすでに親密な関係にあった。
ヤクザたちは、オリンピックの間に外国人観光客が日本に対して悪いイメージを抱かないよう、すすんで警察に協力し、東京の街の浄化と犯罪防止につとめた。
たとえば銀座の町井は、定職を持たず“人相の悪い”部下たちに、オリンピック開催前夜の二ヵ月間、東京を離れ、海辺で精神と肉体の鍛錬をするよう命じている。効果は絶大だった。
オリンピックのあいだじゅう、東京にはヤクザらしき風貌の人物は一人も見あたらなかった。日本流「ヤクザ哲学」が、また一つ示されたことになる。その後、生き残ったヤクザたちは、力を結集し、タクシー会社、トラック運送業、建設会社、
P164芸能プロダクションなど、合法的なビジネスの参加に精力を傾けていく。経営者がヤクザだとバレないように、看板会社を設けながら。
(日本のタレント事務所の九〇パーセントは、暴力団が経営していた。実際、六〇年代でもっとも収入の多かった歌手が、神戸に本拠地を多く山口組のボスを「兄貴」と呼んでいたくらいだ。
赤坂-六本木界隈の高級ホステスクラブは、大半が暴力団の資金援助に支えられていた。噂によれば、コパカバナも例外ではないらしい)
東声会の町井会長は、部下を再編成して、<東亜友愛事業組合>の名のもとに、“消費者信用組合”を開設。さらに銀座に、十九のクラブをやレストランを所有する<東亜相互企業>を設立。
クラブ<シルクロード>もその一つで、ここでホステスをはべらせて飲めば、ドリンク一杯だけで、日本のサラリーマンの一ヵ月分の給料が吹き飛んでしまう。町井は、ザペッティの勧めで、レストラン事業に手を広げている。
町井は最初、「俺は湯の沸かしかたも知らない」と乗り気でなかったという。<ニコラス>のオーナーはこう説得した。
「あんたんとこのチンピラを、千五百人ほど銀座に放ってみな。そいつらがちゃあんと客を集めてくるさ。ヤクザにノーと言えるやつがいるかい?」
案の定、煙がたちこめた油まみれの小さな韓国風焼き肉屋は、いつも超満員。数年後には、ソウル直送の食材をフルに使った韓国高級料亭が、二軒誕生することになる。
一九六六年、町井は児玉を共同経営者として、まばゆいほど贅を凝らしたレストラン<キャラバン・サライ>を、六本木にオープンした。
P165ペルシャ風建築という触れ込みで、家具調度はムーア式、床にはぴかぴかに磨かれたイタリア製大理石が敷きつめられ、頭上には巨大なアラビア風テントがそびえている。
壁に所狭しと飾られているのは、百万ドルを優に超える古代ペルシャの宝石や壁掛け、装飾品類だ。タキシード姿の韓国人ヤクザたちが、うやうやしく客を出迎え、トルコ帽に黒いタイトドレス姿の白人ウェイトレスが、いそいそと接客にあたる。
メニューに並んでいるのは、ドイツで六年間修業を積んだ日本人シェフによるフランス料理。当時の日本人の大半にとって、ドイツ風は限りなくフランス風に近かった。
さらにカイロ出身のベリーダンサーが目を楽しませ、日本のカルテットがスペインの歌で耳を楽しませる。「国際的レストラン」という言葉に、新たな意味がつけ加わった。
レストランを含むビルとともに全体の会長をつとめる児玉誉士夫は、マスコミのインタビューのなかで、この施設の目的は「外国人を感服させる」ことであり、「"売春やバーのホステスの国"という戦後日本のイメージを払拭する」ことだ、と豪語している。
「外国人は日本を、女遊びの天国だと思いこんでいる」と児玉。「これが我慢ならんのです。だからわたしはこの事業に協力しようと思った。世界ナンバーワンのレストランを建てて、日本人が外国人より優れていることを証明してやろうじゃないか、と」
そんな大演説をかましながら、児玉は同時に別の分野でも、日本の優秀さを証明しようとしていた。企業相手の恐喝という、秘められた分野で。彼は東京に生息する二千人の「総会屋」を傘下に入れようとしていた。
ソウカイヤという発想は日本で生まれた。企業の“保安”を専門とするゆすり屋のことで、
P166株主総会で企業に公開質問できるように、まず株の一部を取得し、報酬を出す人間のために、総会でさまざまな便宜をはかる。
(略)第六章 障子の裏で P240-290
(略)P244
P245 日本では売春が禁じられている。しかしそれを禁じる法律は、有名無実なのが現状だ。赤坂署は、マリアとその仲間たちに関する分厚いファイルを作成している。
しかし、路上で客をとらないかぎり、警察は見て見ぬふりを決め込んでいた。
<コパカバナ>へ行く途中、<ダニーズ・イン>に立ち寄る自民党の政治家が、あまりにも多かったからである。
マリアはしっかり稼いで、ニューヨークにタウンハウスを買い、不動産会社を設立して、引退後に備えていた。ところが、一九七八年十一月、「シャンティ赤坂」の一室で、客とのトラブルの末に絞殺された。犯人は、ヤミ社会の末端に籍を置く男だった。
当時の国際商取引のなかで、腐敗の激しい業界といえば、おそらく航空機業界が一番だろう。しかも、腐敗の度合いは年ひどくなる一方だった。
アメリカの大手航空機製造会社も、それを販売する貿易会社も、さらには日本人の役人も、その役人たちにそそのかされた産業界のリーダーたちも、みんながみんな賄賂にどっぷりとつかっていた。
ひとたび契約が成立すれば、けた外れの金が転がり込んでくる。
折しも、日米間の貿易不均衡がますます激しくなり、閉鎖的な日本市場への不満の声が高まりつつあった。ところがそのわりには、アメリカの民間および軍事用航空機産業においては、
P246 不満の声はほとんどあがっていない。これは特筆に値する。
実際アメリカは、日本の軍用機関係のマーケットを、事実上独占していたといっていい。そもそも日本の自衛隊は、米軍を模して結成されている。自衛隊員は、米軍によく似た組織で育成され、訓練のためにアメリカへ送られる。となれば、アメリカ製の航空機を買うのは、しごく当然の成り行きだった。
アメリカ人に有利なシステムは、他にもいろいろ設けられた。米国国防省は、日本がどんな型のロケットを購入すべきか、どれを辞退すべきかを細かく指定している。
しかも、その値段まで、予告なしに独断で決めた。そればかりか、アメリカ製品を使用している最中に、日本人が技術的なアイデアを思いついた場合には、フロー・バック・テクノロジー法にしたがって、アメリカ側に無料で教えることも義務づけた。
この取り決めも、「日本は航空機を独自に開発してはならない」というアメリカ側からの一方的な押しつけも、日米安保条約にしたがって日本を軍事的に“守る”ことへの代償とされた。
アメリカが日本を核攻撃から守れるとは、誰も本気で信じていなかったのだが。
<コパカバナ>はあいかわらず、<グラマン>、<ロッキード>、<マクドネル・ダグラス>、<ノースロップ>などのアメリカ人重役たちのたまり場だった。
同じく常連のザペッティは、数年通っているうちに、一部のホステスと特別な関係を築いていた。彼が航空機産業の最新情報にくわしくなったのは、そのせいだ。
ホステスたちは、閉店後に金持ちのパトロンとデートするときには、彼のレストランをよく利用した。ニックがその代償として「サーヴィス料」を割り増しし、彼女たちの懐に入れたからだ。
P247なかには、臨時収入のお礼にと、ただで彼と寝てくれるホステスも少なくなかった。コパカバナで交わされる最新ゴシップが、ニックの耳に入るのは、こうした寝物語のときだ。
日本では一般にこう信じられている---女は、一見バカそうに見えて、じつは賢いのが一番。コパカバナの女たちは、まさにこのタイプだ。とくに、貿易会社から産業スパイとして送り込まれたホステスに、これがあてはまる。
彼女たちは客に、あるときは心にもないお世辞を浴びせかけ、こうした場所につきものの“大人のサーヴィス”を施したかと思うと、次の瞬間には、「タービン・サージ」だの、「フライト・アワーに応じた整備時間」だの、「F104に必要な三軸安定装置--ピッチ軸、ロール軸、ディレクション軸」だのと、専門用語を駆使した議論を展開し、またたく間に彼らを虜にしてしまう。
彼女たちの話を聞いていると、ザペッティはときどき、航空機のセールスマンと話をしているような錯覚をおこす。何を言っているのか、半分はちんぷんかんぷんだ。
ホステスの一人を抱え込んで、航空機コンサルタントでもはじめようか---冗談半分でそう思ったこともある。どのバイヤーが最高値をつけるかを、事前にホステスに探らせて、飛行機をがんがん売りさばくのだ。
しかし、やっぱりやめた。あのややこしい専門用語を全部マスターすることを思うと、気が遠くなる。
しかし、そんな“航空機販売ゲーム”を、世間が思っているよりはるかに巧みにやりおおせたアメリカ人が、何人かいた。
コパカバナの常連、ハリー・カーンもその一人。『ニューズ・ウィーク』の元海外特派員で、戦後の対日アメリカ評議会(ACJ)のロビイストをつとめていた人物である。
P248 ワシントンに本拠地を置くカーンは、岸信介元首相と親交をあたためていた。彼のために英語の家庭教師もつとめている。ACJ時代には、岸の復活を助けたことがある。岸の実弟の佐藤栄作は、一九六四年から七二年にかけて日本の首相をつとめた人物だ。自民党の佐藤派閥は、その後の首相の大半をを輩出している。
カーンは<グラマン>に、コンサルタントとして高給で雇われた。グラマンの目当ては、彼の自民党トップとのコネクションだ。カーンは同時に、<日商岩井>とも極秘の契約を結んでいた。
カーンはこの立場を利用して、グラマンのE2C早期警戒機を、日商岩井を通じて日本政府に斡旋している。彼の懐には、賄賂がたっぷりと転がり込んだ。グラマンから日商岩井に支払われた手数料の、なんと四〇パーセントだ。
一部は、松野頼三元防衛庁長官をはじめとする日本の政府高官に、“謝礼”として渡されたとされるが、本人たちは関与を否定している。カーンは結局、グラマンを首になった。グラマンの重役に感づかれ、証券取引委員会に通報されたからだ。
とはいえ、日本のマスコミは仰天し、彼を<青い目のフィクサー>や<白い黒幕>と呼んで、雑誌に特集を組んでいる。東京の権力中枢にもぐり込むために、日本企業がアメリカ人を雇った例は、きわめてめずらしいからだ。
こうした一連の出来事は、日本人におなじみの人生訓にあてはまる。タテマエとホンネ---
P249大ざっぱに言えば、「ひとまず世間体を考えてものを言い、それから陰で好きなことをしろ」というような意味だ。
もちろん、どこの国民であろうと、人間の性格には往々にして二個性がある。しかし、日本人ほど行動が矛盾に満ち、それを隠そうともしない国民はほかにない。表向きの「和」を何より大切にする国だからだ。
プロ野球の世界でも、スター選手は毎年、低めのサラリーに文句もいわずにサインする。マスコミの前では、「チームのため」だの「自己犠牲」だのときれい事を並べておきながら、陰では膨大な裏金を受け取っている。
言葉と行動の矛盾という意味では、<ニコラ>の向かい側に建った、ド派手なビルのケースほど顕著な例はない。ザペッティの昔のギャング仲間、銀座の町井が、ここに本部を設けることになった。
かたぎの世界で最高権力にのしあがるという、暗黒街の誰もが夢に見る偉業を、かつての“ストリート・ファイター”町井が、あれよあれよという間になし遂げつつあった。ザペッティはそのスピード出世ぶりを、六本木のねぐらから、畏敬の念で見守った。
“娯楽産業の大立て者”町井は、一九七三年七月、六本木交差点から徒歩一分足らずの街角に、<TSK・CCC>と呼ばれる超高級会員制クラブハウスを設立し、自らの権勢を、世間に知らしめた(tw、参照、跡地)。
「TSK」は、町井がオリンピック後に設立した会社「東亜相互企業」の頭文字。みずから率先している暴力団の旧称を、イニシャルの形で慎重に取り入れていたともみられる。
P250 「CCC」は、Celebrities Choice Club(名士たちが選んだクラブ)の意味だ。
磨き抜かれたイタリア製大理石をふんだんに配した六階建ての殿堂は、「東京一エレガントな建物」と世に謳われた。「戦後日本の復興を物語る究極のシンボル」との誉れも高かった。
ロサンジェルスのセンチュリー・シティを彷彿とさせる西新宿の耐震性高層オフィスビルやホテル群を、はるかにしのぐインパクトである。
延べ一万坪を誇る館内には、あらゆる娯楽施設がそろっている。キャバレー、ディスコ、和、洋、中華から韓国料理にいたる各種高級レストラン、本格的なロココ調や、スペイン風、ドイツ風、ローマ調のモチーフを寄せ集めた宴会場、結婚式場、深々とした革製の肘掛け椅子のあるプライヴェート・ラウンジ、畳を敷きつめた麻雀室、フィンランド直輸入のサウナ風呂…。
ロビーや各所のくつろぎコーナーには、ヨーロッパや中東からわざわざ取り寄せた、高級家具が配されている。豪華なカーペットを敷きつめた廊下のアルコーヴには、ショーケースに収まって、李朝時代の壺や磁器、陶器、書など、値段のつけようのない骨董品が目白押し、正面玄関の巨大なシャンデリアが、ピカソの大作をあざやかに照らし出している。
今や五十代の町井みずからが、デザインを隅々までチェックした。東洋の重厚さと西洋のけばけばしさが、不釣り合いにミックスされたそのデザインは、日本でそこかしこに見られる現象を、まさしく象徴していた。某人気週刊誌が、世評をこう要約している。
アジアでもっとも豪華で、もっともみごとに設備の整った施設である。わが世の春を謳歌するとは、まさにこのことだろうP251英語の定期刊行物『Tokyo Weekender』も、でかでかと報じたものだ。
これほどエキサイティングな施設は、他に類を見ないオープニング・セレモニーには、著名人や政治家など、東京の各界名士がずらりと勢ぞろい。社会の“双曲線”を、期せずして世間に披露した。
東京弁護士会の会長が冒頭にあいさつし、数々の逮捕歴はあっても小指の先がないホストを、「礼儀をわきまえた敏腕実業家」と絶賛している。続く名士たちのスピーチも、似たような賛辞のオンパレードだ。
出席者のなかには、<三越>や<西武百貨店>といった有名デパートの社長、<東急電鉄>社長、<読売新聞>解説部長(後の社長)の顔もある。つぃでながら、いずれもTSK・CCCの運営委員に名を連ねている面々だ。
ギリシャ大使までが、乾杯の音頭をとるために立ち寄って、ついでに一言二言、熱い賛辞を添えている。
感極まった町井のスピーチは、デイル・カーネギー(アンドリュー・カーネギー1835-1919の縁者)を意識したに違いない。“わが同胞”の役に立ちたい旨を強調し、TSK・CCCを建てたのは、「もうけは二の次」で、ひたすら「現代人の憩いと対話の場」をこの世に実現したい気持ちからだ、と言い切った。
文明が過度に成熟し、人間が人間のために援用して来たテクノロジーから、公害という形の亀裂が多様に生じ始めています。…中略…私どもでは、数年前に、現代人の『憩いと対話の場』として、TSK・CCCの設立を思い立ちました。P252 ニックは会場の隅でビールをすすりながら考えた。“生意気”だからという理由で、殴られた柔道家モーリスが聞いたらいったい何と思うだろう…。
これは各界でご活躍される人々が、政治を超えて、お互いの使命感や価値観を理解し合いながら、現代を生きる“心の対話”を願うものでした…
博愛主義者に転向した元暴力団のオフィスは、彼が“かたぎの世界”でいかに立身出世したかを、さらにはっきり物語っている。
片側の壁には、ロサンジェルス名誉市民の認定書が、その隣には、町井と並んだケネス・ロス元カリフォルニア州下院議員の写真が掛かっている。町井はこのパートナーと共に、テキサスやニューメキシコなど、アメリカの各州で三十四の油田を開発した。
もう一方の壁には、「日韓友好を促進した数々の多大なる功績」に感謝して、韓国の朴正煕大統領から贈られた、記念銘板が飾られている。“功績”とはおそらく、町井が韓国にカジノやキャバレーを建てたことと、韓国の釜山港と日本の下関を結ぶ<関釜フェリー>を開通させたことを指しているのだろう。
ほかにも、世界各国の首脳から寄せられた感謝状が飾られている。なかでも、米国下院議員たちからの手紙は、日韓の関係修復に貢献した町井の役割を、一斉に賞賛してやまない。
町井は、報道陣を前に、汎アジア主義という大層なテーマについて、即興の演説をおこなった。
---自分は「第三国人」であるがために、何十年ものあいだつらい思いをしてきた。日本の社会はいまだに、自由で開放的とはとても言いがたい(「力道山が生きていたら、韓国人であることを公表しただろうか。それは疑問だ」町井はそんなことまで口にした)。P253ロサンジェルスの名誉市民はさらに続ける。
日本人は、朝鮮人や中国人と同じアジアの血が流れていることを、そろそろ誇りに思ってもいいころだ---
---西洋コンプレックス、とくにアメリカに対するコンプレックスを捨てなければならない。音楽や服装で過剰にアメリカを真似るのは、にせのライフスタイルを追求するようなものである。まずアジアを愛すべきだ。自分らしさを見失ってはならない---その後二年間、TSK・CCCは東京一の人気社交場になった。毎晩、政界のリーダー、ビジネス界の重鎮、芸能人、外交官、米軍将校など、各界のVIPを乗せたリムジンが、つぎつぎに玄関前に到着。
六本木の<ニコラ>の向かい側に最近オープンした、アメリカ資本の粋な十階建ての殿堂<プレイボーイ・クラブ>よりも、はるかに多くの客を惹きつけたものだ。
ところが、実はその裏側で、まったく別のことが進行していた。
TSK・CCCのラウンジでは、角刈りにサングラスといういでたちの、見るからに屈強そうな男たちが、やわらかい革の肘掛け椅子をしばしば占領し、トラブルはないかとロビーの方をじっとにらみつけちる。
裏のオフィスでは、年をとった右翼のボスたちが、鉛色のデスクに座って、割り箸の注文といった退屈な仕事をこなしながら、けだるそうに来訪者たちをチェックする。
社長自身は、要塞のようなペントハウスに住んでいる。外部の人間は、厳重にガードされたゲートを通過し、鍵付きの専用エレベーターに乗らなければ、社長に面会することもできない。
ザペッティがあいさつに立ち寄るときも、消火栓のような首をした二人の屈強な男に出迎えられたものだ。口をきりりと結んだその用心棒たちは、まず来訪者が武器を隠していないかどうかボディチェック。それからおもむろにエレベーターの鍵を開け、階上へと案内する。
(以下、ロッキード事件として知られる商談が記述される)
P254/ 256/ 258/ 260/ 262/ 264
謎P266-275
P266なぜワシントン政府は、米国多国籍企業の贈賄にメスを入れ、ロッキード疑獄を暴こうとしたのだろう---それが日本人には不思議でならなかった。<二コラ>にピザを食べにくる客のなかでも、とくに外国人ジャーナリストのあいだでは、この話題でもちきりだった。
一部の連中は、いわゆる「ポスト・ウォーターゲート・モラル」を主な要因と考えた。クリーンな政治がワシントンの流行になりつつあるのだ、と。CIAの裏切り説を主張する連中もいた。いや、そうではない、単なる報復だ、という説もあった。
P267リチャード・ニクソン大統領を失脚に追いやった一九七四年のウォーターゲート事件は、たしかにアメリカの権力構造に大きな変化をもたらした。まず、一部ライターが「南西部金脈グループ」と呼ぶ、ニクソン大統領、ロッキード社、米国防省、CIAを中心とする勢力が、このスキャンダルによって息の根を止められた("南西部"は、ニクソンがカリフォルニア出身であることを意味している)(tw,tw、twilog検索ニクソン)。
これにとって代わったのが、ロックフェラー・グループ、東部多国籍企業、マクドネルダグラス社など、いわゆる「東部エスタブリッシュメント・グループ」だ。
田中、小佐野、児玉の一派は、南西部金脈グループと手を結んでいたことで知られている。日本で失脚に追いやられたのは、そのあたりに原因があるのではないのか…。
児玉自身がこの説を信じていたようだ。一九八四年にこの世を去る直前まで、なぜ自分や仲間だけが告発されたのだろうかと。さかんに首をひねっていたという。---東部エスタブリッシュメントの連中も、自分たちと同じくらい賄賂のやりとりをしているはずだ。
にもかかわらず、彼らはなぜ逮捕されない…?
『三井』という本を著したジョン・ロバーツという人物がいる。ロッキード事件のエキスパートとして知られる、東京在住のジャーナリストである。彼は児玉の主張を文書にし、アメリカの裁判所に送ってやった。児玉はそのなかで、<ロックフェラー軍団による政治的陰謀>説を主張した。
「児玉がたどり着いた最良の結論がそれでした」ロバーツはそう説明した。「自分は日本政府を説得し、マクドネル・ダグラス社の戦闘機の購入をキャンセルさせて、ロッキード社の航空機を買わせた。
P268これが余りにも成功したために、強力なロックフェラー軍団の怒りを買った---彼はそう分析しています」
特筆すべきは、チャーチ率いる委員会の共和党幹部が、ロックフェラー擁護派であることだ。さらに、ニクソンが失脚したジェラルド・フォード大統領に就任して以来、副大統領の座についたのは、ほかでもないネルソン・ロックフェラーその人だった。
もう一つ特筆すべきは、田中角栄自身もロックフェラー・グループにしてやられたと認識していることだ。一九七四年に日本の外人記者クラブの記者会見で、汚職疑惑についてきびしい質問をぶつけられた田中は、ぷりぷりしながら会見室を飛び出し、聞こえよがしに吐き捨てた。
「あれはロックフェラーがのしわざなんだ?」
いずれにせよ、ロッキード疑獄の真相は、けっきょく暴かれずじまいだった。当時の国務長官ヘンリー・キッシンジャーは、政府の極秘文書が公開されたら海外政策に支障をきたすとして、この事件の全面公開を禁じる裁判所命令を出させた。
ロッキード弁護団も、その後何年にもわたって、「情報をすべて公開すると、友好国日本の政府高官の威信を傷つける可能性がある」主張しつづけている。いまだに謎なのは、ロッキード社が児玉誉士夫と小佐野賢治宛てに発行した、百六十万ドルの無記名小切手の行方である。
小切手は、ロッキード側がキャンセルする前に、すでに現金化されてどこかえ消えていた。児玉は、自分が持っていたが誰かに盗まれた、と説明。これを聞いたロッキード社は、そこまで親切にする必要があるとも思えないが、ふたたび小切手を発行している。児玉は、この二度目の金を手に入れた。
P269いったいなぜ?そんな疑問が起こるのも当然だ。(略、ロッキード事件の顛末が記述される)
P270/ 272
P274
P275日本人ニック
ロッキード疑獄は、六本木暗黒街の権力構造に大きな変化をもたらした(tw)。それにともなって、<二コラ>の常連の顔ぶれにも変化があらわれている。
町井や彼の率いる暴力団が、ぱったりと姿をみせなくなった。常連の様子が気になったニック・ザペッティは、一九七七年のある金曜日の晩、<TSK・CCC>まで歩いて様子を見にいくことにしました。
<TSK・CCC>は、破算申告をしたものの、まだ営業を続けているはずだ。
P276 ニックはそこで信じられない光景を目にした。ほんの四年前にマスコミから「アジア一」と絶賛されたばかりの建物が、まさに死に瀕しているのだ。客はたったの六人しかいない。
六本木は今や、東京のナイトライフとファッションの最先端。新しい日本のはじけんばかりの勢いを代表する、トレンディな人々であふれかえっていた。
一九七三年には、オイルショックの影響で、街の煌々たるネオンが一時的に下火になったとはいえ、日本のけた外れの経済成長はあいかわらずで、六本木の街はゆるぎない自信に満ちていた。
六本木交差点の南西角にある、ピンクと白のコーヒーショップ<アマンド>は、今や世界一有名な待ち合わせ場所だ。店の前の歩道は、待ち合わせの人々であふれかえり、人々の往来をさまたげている。
そのなかにあって、<TSK・CCC>の高級レストランやラウンジは、どこもあわれなほど閑散としている。ウェイターやウェイトレスが、あくびをしながら突っ立っている有様だ。隅々にはクモの巣が張り、経営陣の姿は影も形もない。
ただでさえ虫の息のTSK・CCCに、さらなる追い討ちがかけられることになった。
「コリアゲート」と呼ばれる政治スキャンダルの中心人物が、TSK・CCCのナイトクラブでアメリカ人議員を接待したという疑惑が浮上したからだ。接待したのは、ワシントンに本拠地を置く裕福なロビイスト、パク・トンソン。
疑惑にメスを入れるため、米国議会の調査団が東京に乗り込んできた。
(その直後、社会党の参議院議員が告発したところによれば、TSK・CCCの女性スタッフたちは、KCIAの政治部で訓練を受けた諜報部員であり、意図的かどうかはわからないが、少なくとも自民党代議士一名に、性病を伝染したことがあるという、tw)
P277“銀座の町井”は、ハワード・ヒューズばりの生活に身を投じている。ペントハウスに閉じこもり、外界との接触を拒む毎日だ。噂によれば、殺されるのを恐れているらしい。
アメリカから児玉誉士夫暗殺の準備せよとの指令が東京に入った、という記事が『週刊読売』に載ってからは、なおさら恐れていたようだ。実際、一九七六年三月には、児玉の広大な自宅の誰もいない二階部分に、右翼を自称する錯乱した男が、セスナ機で突っ込んでいる。まるでカミカゼ特攻隊だが、児玉は難を逃れた。
日本の皮肉なジャーナリストたちに言わせれば、「町井も児玉も、やみくもにアメリカ人とねんごろになったから、そのツケが回った」ということらしい。
六本木の暗黒街は、住吉会に乗っ取られつつあった。しかしザペッティは、街の暴力構造の推移よりも、ほかのことで頭が一杯だった。
(略)
P278/ 280/ 282/ 284/ 286/ 288/ 290