2020年6月11日木曜日

偏愛メモ 『東京が壊滅する日』

第一章 日本人の体内でおそるべきことが進行している!
第二章 なぜ、本当の事実が、次々と闇に葬り去られるのか?
第三章 自然界の地形がどのように被害をもたらすか
第四章 世界的なウラン産業の誕生

  P136 放射線・放射能の危険性は、どのようにして明らかになったか?
(略)

この悪魔たちの誕生物語は童話と同じように、それはそれは遠い昔の話であった……パリ市民がバスティーユの監獄を襲って、フランス革命が勃発していた頃、ちょうどその一七八九年夏のことだったが、ドイツ人の化学者マルティン・クラプロートが、ピッチブレンドという鉱石から抽出した酸化物を"奇妙な反金属"と呼び、一七八九年九月ニ四日にベルリン科学アカデミーに論文を提出した。

P137 彼は、この新元素の名前を、当時発見されたばかりの天王星ウラナス(Uranus)にちなんで、ウラン(Uran)と名付けた。このピッチブレンドが、今日、「瀝青ウラン鉱」として知られるウランの主要な鉱石であった。

それから半世紀後の一八四一年には、フランス人の化学者ウジェーヌ・ペリゴが、四塩化ウラン(UCl4)を金属カリウムによって還元し、この反応によって、化合物でない、金属のウランを初めてつくることに成功し、やがて一八七○年には、このウランという金属が、地球上に存在する最も重い元素であることが分かった。

ではこの古い時代に、人類が何のためにウランを調べたり、利用したのだろうか?それは勿論、今日の「核兵器」や「原子力」ではなかった。

その鉱物の利用価値は、ウランの酸化物と塩化物が生み出す鮮やかな色の効果にあった。つまり緑色の蛍光を発する黄色のガラスや、陶磁器の釉薬として、オレンジ色、黄色から、赤や、緑などを生み出す染めつけ材料の一種として使われたのである。

そして、ウランを使ったそのようなガラスや陶磁器の色つけ技術は、長いあいだ、現在のチェコの西武地方であるボヘミアの独占的な秘術として伝承されるようになった。それがハプスブルク帝国のもとで育った有名なボヘミアン・グラスであった。

さらに一八三九年にフランスで写真術が生まれると、のちにウランの化合物が、写真の着色剤として使用されるようになった。P138こうしてウランは、一九世紀の一八○○年代から採掘されることになったのである。

だが、そのためヨーロッパでは、鉱夫が4割から5割というすさまじい割合で癌のために死亡しはじめたのである。それに気づいた"近代医学の父"ルイ・パストゥールがウランの危険性について警告を与えた。こうして、ウラン鉱物の危険性が初めて知られるようになったのは、実に、今から一世紀以上も前だったのである。

しかし、その原因が「放射能」のためであるということは、パストゥールも、いかなる科学者もまだ知らなかった。

さて一方、(略、ロックフェラーの石油の話)

P139 こうして一九世紀末、まだ未知だった「ウランの原子力」と、「石油」というふたつのエネルギー源が、同時に、世界中を疾走する運命にあった。現在から見れば競合するエネルギー源の「石油」と「原子力」だが、のちにアメリカとヨーロッパで"同じ人物"がこの両者を組み合わせ、一九七〇年代にはじまったオイルショックを逆手にとって、巨大な金融資本を投下し、最大の問題である「放射能安全論」を強力に推進することになったのである。

X線の発見と知られざるエジソンの素顔
そうした一九世紀末のことだったが、一ハ九五年一二月二八日に、ドイツの物理学者ヴィルヘルム・レントゲンが、実験装置から目に見えない光が放射されていることに気づいた。そして、それが多くの物体を透過する能力を持った光(放射線)であることを発見し、"未知なるものX"の意をこめて「X線」と名づけた。

そしてX線を使って、人体の骨を撮影できることを明らかにしたのが、翌年の一八九六年一月二三日であった。

この驚くべき発見を伝え聞いたのが、アメリカのトマス・エジソンであった。(略、エジソンの発明と人格の話)

P141 モルガン財閥がエジソンを育て、GEを生み出す
それでも彼には、全米最大の「金融と鉄道の財閥」であるジョン・ピアポント・モルガンという人物が、この発明王エジソンの製品を事業化する後盾としてついた。当時の最大の産業は、ロックフェラーが支配した石油と共に、華やかな鉄道と、その鉄のレールを敷設するための鉄鋼であった。金融王モルガンが支配していた。

やがて電信から電話、発電所まで支配したモルガン商会が、白熱電球を発明した発明王のために「エジソン電灯」という会社を設立しており、その後、この会社を基盤にして一八九○年には"エジソン電気何でも会社"(エジソン・ゼネラル・エレクトリック社)が設立された。

さらに二年後には、これを別の競合会社と合併させて、一八九二年に「ゼネラル・エレクトリック社(GE)」が設立されたのである。のちに、全世界に"原子力の帝国"を築き、同時に核兵器を握る"原水爆の総本山"となる巨大企業の誕生であった。

このエジソンが一八九六年に、レントゲン博士のX線の発見に触発されて、X線画像を見ることができるX線透視装置を発明し、その実験台に助手のクラレンス・ダリーを使った。

ところがダリーはかわいそうに、この実験のために、両手、両足に何度もX線を浴びた結果、皮膚癌に冒され、両手も両足も手術で切断されてしまった。ついには癌が原因で死亡してしまったのである。このときエジソンは、初めてX線の危険性に気づいて、一切のX線の研究をやめることになった。

ヨーロッパでキュリー夫人をロスチャイルド家が育てる

 →『赤い盾』3.9 キュリー夫人のパトロン(相互参照

P146 夜光塗料が女工を被爆させ、ICRPの母体を生み出す
ここまでの歴史を見てくると、パストゥールが警告したウラン鉱山の採掘労働者の相次ぐ癌による死亡、エジソンの助手ダリーの悲惨な死に方、あるいはキュリー夫人一家の相次ぐ白血病を考えれば、放射能の危険性は、人類にとって、早くから気づいていたはずのことであった。---それを決定的にしたのが、昔の目覚まし時計であった。(略)

ところがこの緑色の蛍光には、キュリー夫人が発見したラジウムが使われていたのだ。ラジウムが放射性物質であるため、十九世紀のウラン塗料と同じように、時計の夜光塗料として大量に使われたからである。

そして、ラジウムは放射能が半分に減るまでの期間(半減期)が1600年という長期間にわたり、そのあいだアルファ線とガンマ線を出す。アルファ線は、猛毒物プルトニウムが出す放射線と同じで、きわめて強力なエネルギーを持っている。

一方、ガンマ線は、フクシマ原発事故で放出されたセシウムが出す放射線と同じである。時計に蛍光塗料を塗布する女工たちは、その危険性を知らされないまま、時計の文字盤や針ににこれを筆で塗るときに、筆先をとがらせるために舌の先でなめて作業を続けることになった。

たとえばイリノイ州のオタワ市にあった当時の夜光塗料の工場では、ドキュメンタリー映画『ラジウム・シティー』P148(一九八七年公開)に描かれた通り、そこに働いていたのは、女工といっても、多くはまだ高校生の少女たちであった。

ラジウムはカルシウム系列の元素なので、ストロンチウムと同じように骨に蓄積するのだ。その結果、ラジウムの放射能で、恐ろしいことが起こった。キュリー夫人と同じ運命をたどって、数千人もの女工が被爆したのである。

(略、彼女たちの症状が記される)

こうして、科学者や医学者のあいだでは、にわかに放射線の危険性が世界的に広く知られるようになっていった。P149しかしまだ、一般の市民たちは、女工のことなど、自分と関係ないと思って、ほとんどその問題に関心を示さなかった。

それはちょうど、フクシマ原発の危険な事故現場で毎日数千人が働きながら、大量に被爆している労働者の健康について、日本人のほとんどが関心を示さない現在と、同じである。人間は、遠い他人の不幸に対して、さほど思いやりがない生き物なのである。


さて二〇世紀の初めに、こうして少なくとも科学者や医学者のあいだでは、放射線被曝が社会問題になっている時代に、一九ニ七年からアメリカの遺伝学者ハーマン・マラーがショウジョウバエを用いて放射線(X線)による研究をおこない、生物の突然変異を発見した。

これは、放射能によって、子孫から子孫へと何世代にもおよぶ"遺伝的な危険性"がある、という事実を知らせる重大な出来事であった。かくして翌一九二八年には、放射線医学の専門家を中心として、X線とラジウムへの"過剰被曝"の危険性に対して勧告するための「国際X線およびラジウム防護委員会(IXRPC---International X'ray and Radium Protection Committee)が設立されたのである。

そしてこの時、スウェーデン国立放射線防護研究所の初代所長ロルフ・マキシミリアン・シーベルト(シーヴェルト)がこのIXROC委員会の委員に就任した。彼は放射線測定器の開発者であった。P150この名前は、やはり誰もが知っているだろう。

たとえば現在の日本の国内法では、「一般人の年間被曝量限度は1ミリシーベルトである」という具合に、被バク量の単位として使われているのだが、彼の名前がシーベルトである。

一九三四年にキュリー夫人が放射線被バクによる白血病で死去した年に、この「国際X線およびラジウム防護委員会」が初めて許容線量の値を発表した。つまり人間が浴びてもよい放射線の量はどれくらいか、という目安を定めたのである。

さてこの委員会から、現在多くの人が聞かされている怪しげな放射能の"安全"基準というものが誕生することになったので、この時代から現在のICRP(国際放射線防護委員会)が誕生した流れを、現代に至るまで、一度まとめておこう。

歴史年表

P151 実は、いま示した歴史年表に、ネバダ州の核実験で壮絶な被害者を生み出した「原水爆開発の歴史」がからんでいたのである……なぜなら、いまの年表で一九五〇年にICRPがスタートしたとあるが、この年は、もうすでに広島・長崎に原爆が投下された5年後、ネバダで大気中の核実験がスタートする前年のことである。

ICRPは、実は「国際X線およびラジウム防護委員会」(IXRPC)をそのまま引き継いだのではなく、後述するAEC、つまり原爆実験を実施した原子力エネルギー委員会の傘下の医学部門であるNCRP(アメリカ放射線防護委員会)の人脈を受け継いだ組織であった

そのNCRPの第一委員会が外部被爆・被曝を担当し、第二委員会が内部被曝を担当して、初代委員長にオークリッジ国立研究所の世界的な保健物理学者カール・モーガンが就任していた。

外部被爆とは、原水爆の「爆弾」による閃光(ガンマ線や中性子線)を浴びた場合である。P152一字違いの外部被曝とは、爆弾の閃光ではなく、セシウムやヨウ素などの放射性物質から出る放射線やX線を空気中で直接浴びた場合である。

つまり、どちらも体の外からの被バクである。---しかし食べ物と、飲料水と、空気を通して、放射性物質が体の中に入るのが、これとは違う「内部」被曝である。

アトミック・ソルジャーは、外部被爆・外部被曝、内部被曝のすべてを受けたのに対して、核実験場から遠く離れたセント・ジョージの住民たちが大量の癌患者・癌死者を出したのが、この内部被曝であった。そしてフクシマ事故から4年をすぎた現在の大半の日本人が受けているのが、内部被曝である。

内部被曝を論ずることになれば、原水爆によって放出される"死の灰(放射性物質)"がきわめて危険であることが知られてしまい、原水爆開発の原子力推進政策が進められなくなる。そのため、翌一九五一年(ネバダでの大気中の核実験がスタートした年)に、ICRPでは、最も危険な内部被曝を議論・研究するための第二委員会を廃止する決定を下してしまったのだ。

どうして、このようにとんでもない結果になったのだろう?それを知るには、ICRPと、その分身IAEAが生まれた経過を知らなければならない。

第五章 原爆で巨大な富を独占した地下人脈

P154 原子爆弾のアイデアが誕生した
歴史の時計に夜光塗料を塗って、再び時計の針を逆回りにして、くわしく追ってみよう。一九三八年一二月、ドイツ人の化学者オットー・ハーンフリッツ・シュトラスマンが、ウランに中性子という粒子を照射した時、ウランよりも原子量が半分くらい小さな原子バリウムが生まれたことを確認し、その原因が「ウラン原子が割れた核分裂」であることを発見した。

この世界的な大発見は、大西洋を渡ってアメリカのプリンストン大学教授ニールス・ボーアに伝えられ、そこからエンリコ・フェルミに伝えられた。フェルミはイタリアの物理学者で、この一九三八年にノーベル物理学賞を受賞した。

だが、ノーベル賞授賞式に参列するためスウェーデンのストックホルムを訪れると、そのままユダヤ人のラウラ夫人と共に、ファシスト独裁者ムッソリーニの迫害から逃れるためアメリカに亡命していたのである。

このハーンとシュトラスマンが発見した「原子の核分裂」という現象の発見は、全世界の物理学者にとって、きわめて重大なことを意味した。なぜなら一九〇五年に、ドイツ生まれの、当時スイス国籍だったアルベルト・アインシュタインという人物が、E=mc2という式を発表していたからである。(略、式の意味解説)

P156 ここに、原子爆弾という兵器のアイデアが誕生したのである。翌一九三九年の三月には、コロンビア大学の工学部長からアメリカ政府に、「これまでにない破壊力を持つ原子爆弾という兵器をつくってみてはどうか」と、進言がなされた。

一九三九年一〇月一一日には、すでにユダヤ人弾圧が続くヨーロッパを逃れてアメリカに来ていたユダヤ人アインシュタインが八月二日に署名した書簡が、フランクリン・ルーズヴェルト大統領に出され、「ナチス・ドイツが原子爆弾を製造している可能性がある」ということを警告した。

アインシュタインの書簡の要旨(tw)は、次のようであった。
---エンリコ・フェルミとレオ・シラードの研究によれば、ウランの連鎖反応によって新しいエネルギーを生み出すことができ、これによって、とてつもなく大きな威力を持った新型の爆弾を製造することが可能である。

アメリカにはそれに必要な大量のウランはないが、ウランの重要な産地は、カナダと、チェコスロバキアと、ベルギー領コンゴ(アフリカ)にある。そのためには、ウランの確保と、資金の確保が必要である。ドイツでは、国務次官の息子ワイツゼッカーがこの研究に関与している---
P157 よく読めば、不思議な手紙である。兵器の製造を勧告する科学者が、最初からこのように、ウランの確保と、資金の確保が必要である、まるで実業家のような言葉を記していた。それが、アインシュタイン書簡の特徴である。アインシュタインにこの手紙を書かせたのは、書簡に登場するレオ・シラード本人であり、彼は、HGウェルズのSF小説から原爆の着想を得たと言われている。

実際には、シラードが書いた手紙にアインシュタインが署名しただけである。すでにシラードは、核分裂を連鎖反応によって連続的におこなわせることが可能であることを、この三月に実験によって確認して、ウラン爆弾の誕生について見通しがついていた。

しかしシラードに手紙を書かせたのは誰だったのだろうか?(相参1相参2

第二次世界大戦が勃発して、原爆製造計画が始動した!

その手紙が大統領に手渡される前の月のことだったが、一九三九年九月一日、ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が勃発し、二日後にイギリスとフランスがドイツに宣戦布告したのだ!!

翌月一〇月一一日に「八月二日付のアインシュタイン書簡」を受け取ったルーズヴェルト大統領が、翌日の一二日にウラン爆弾の製造にかかるよう命令を発し、その作戦頭脳としての

P158“ウラン諮問委員会(Advisory Committee on Uranium)”が設立され、超極秘計画がスタートした。この“超極秘”というのは、ルーズヴェルトが急死したあと大統領に就任した副大統領トルーマンでさえ、ルーズヴェルトが死ぬまで、まったくこの作戦を知らされなかった、という意味である。

しかしそれより驚くべきことに、前線の最高司令官をつとめた太平洋戦争のマッカーサー将軍も、ミニッツ海軍提督も、ノルマンディー上陸作戦を指揮したアイゼンハワー将軍も、最後の最後まで、いよいよ原爆が使用される時期を迎えるまで、この作戦計画を知らなかった。

では、それを知っていたのは、誰であったか。

開戦から八ヵ月後の一九四〇年四月には、イギリス空軍が原子爆弾の可能性を調査する委員会を設立して検討したところ、“とてつもない爆発力を持つ爆弾”の製造が可能である、との結論を得た。

これがアメリカ政府に伝えられ、アメリカが原爆に本腰を入れるようになった。そこでイギリス政府はただちに、この特殊爆弾の製造研究の開始を命じたが、同時に敵国ナチス・ドイツもそれを製造できるだろう、いやむしろすでに製造に着手しているおそれがある、との危機感を抱いた。

というのは、先に述べたように、開戦前年にウランの核分裂を発見したハーンとシュトラスマンがドイツ人だったからである。くわえてドイツは、ウランの核分裂の連鎖反応を突き止めたらしく、チェコスロバキアにあるウラン鉱山をナチスがすでに制圧していたのだ。

P159そこでイギリスは、数百人の研究員をつぎこむかたわら、原爆製造に必要な重水がヨーロッパでただ一ヵ所、北欧ノルウェーのノルクス・ヒドロ社で製造されていたため、ナチスに先手を打って、その重水をすべて買い占め、フランスへ持ち運ぼうとした。この重水は、放射性物質の重水素に酸素が結合した重い水であった。

(略、なぜ重水が必要であったか?の説明)

P160 ところが、開戦翌年の一九四〇年六月一〇日に「重水を持つノルウェー」がドイツに降伏してしまい、六月一四日には、ドイツ軍がパリに無血入城していたのだ。こうしてノルウェーとフランスが次々とナチスに占領される危機の中で、イギリス軍部はかろうじてイギリスのケンブリッジ研究所へ重水を運びこむことに成功した(相互参照)。

しかしそれだけでは安心できないので、一九四三年二月には、ノルウェーの工場にゲリラ部隊が潜入して、ドイツ兵が警護する重水工場の重要な部分を破壊して、ドイツが原爆を製造できないようにした

一方アメリカには、この新型爆弾の製造に適した大量のウランを確保する見通しがなかったが、ヨーロッパでは、それを確保できそうだった。アインシュタイン書簡に書かれていたように、アフリカのコンゴ(現ザイール)に豊富な鉱山があり、鉱山会社のウニオン・ミニエール社が支配し、そこをベルギーが植民地としていた。

すでにこうした事情を察知していたのが、イギリスの海軍大臣チャーチルであった。彼の一族がウニオン・ミニエール社の重役室に入っていたため、チャーチルは早くも手を回してウランを確保しようとした。

ところがナチス・ドイツは、すでに開戦翌年の一九四〇年五月一〇日に、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクのベネルクス三国に、最後通告を発したとみるまに奇襲攻撃をかけて侵攻し、占領していたのである。

したがって連合国側は、コンゴのウランも"ベルギー経由"では入手できなかった。イギリスのチェンバレン首相は、ヒットラーの野望をおさえようとドイツに対して宥和政策をとってきたが、このベネルクス侵攻事件によって辞任に追いこまれ、この五月一〇日に戦争屋チャーチルが首相の座に就いたため、この時から挙国一致内閣が組織され、本物の世界戦争がはじまったのである。

ルーズヴェルト大統領とチャーチル首相の重大な関係が確立されたのがこの時だった。

こうして連合国側とナチス・ドイツ側はそれぞれ、さまざまな知恵を使って、原爆製造計画で秘かに先を争っていた。一九四○年~四一年にかけて、ナチス空軍がイギリスの一六都市を空襲し、首都ロンドンも一〇〇万軒の住宅が大被害を受ける危機となった。

そのため、イギリスお原爆研究所もナチスの空爆の危機にさらされてきた。こうしてイギリスは、大西洋を渡って研究組織をそっくりアメリカに移すことになった。

そして開戦から一年半後の一九四一年二月二三日、アメリカの化学者グレン・シーボーグ博士たちが、カリフォルニア大学バークレー校で、サイクロトンと呼ばれる粒子加速器を使って、ウランに重水素を衝突させる方法により、世界で初めてプルトニウムもまた核分裂を起こすことを証明した。

ここに新たな原爆材料が誕生したのだ!

P162/ 164/ 166/ 168/ 170/ 172
174 トルーマン大統領はオッペンハイマーが興奮する様子を観察しながら、連れの者にこう言った。
「あいつの課を御二度と見たくない。いいか、奴は原爆を作っただけだ。しかしそれを爆発させた人間は、この俺なんだ」
P175しかし、彼らは、原爆を本当に使う必要があったのか?

なぜ広島に・長崎に原爆が投下されたか
アメリカ政府はなぜ日本に原爆を投下しなければならなかったか?

原爆投下に先立つ二ヵ月前、六月一日のアメリカの委員会では、原爆をできる限り速やかに「日本に対して」使用すべきこと、そして爆弾の性質については予告せずに使用すべきこと、が全会一致の勧告として採用されていたのである。

ヨーロッパでなく日本に投下されたのは、原爆があまりに危険であるため、海によって隔離された島だから日本に投下されたのか?日本の国内で広島・長崎に原爆が投下されたのは、そこに重要な軍需基地があったからだ。

しかし広島・長崎には、二種類の人がいたはずだ。強制連行された中国人や朝鮮人ももいた。何も知らない子供たちもいた。膨大な数の罪もない市民が、広島や呉にあった軍港の存在に巻きこまれたのである。

長崎の三菱軍需工場も、巨大であった。広島・長崎のほかには、京都・小倉・新潟が目標地点として挙げられたが、マンハッタン計画の総指揮官グローヴスが一番望んでいたのは「原爆の成果を充分に確かめられる」京都であった。

しかしスティムソン陸軍長官の強い反対で京都が目標からはずされ、二発目の標的となった福岡県小倉は、爆弾投下の日の天候不良のため、長崎が被爆地となった。

176 以上のように語られてきたが、「日本との戦争を早く終わらせるために、広島・長崎に原爆が投下された」という原爆開発→製造→投下までの経過は、真実を伝えているだろうか。

ここまで述べてきた経過を思い返してみよう。最大の驚きは、ドイツがポーランドへ侵攻する半年も前に、つまり第二次世界大戦がはじまる前に、アメリカで“原子爆弾の製造”が勧告され、このプロジェクトがスタートしていたという点である。

また日本が真珠湾攻撃と、ドイツ、イタリアからアメリカへの宣戦布告がなされる前に、全世界へ平和を呼びかけていた中立国アメリカが“ウラン委員会”を設立して原爆の製造に取りかかっていたのだ。

ドイツ、イタリア、日本が全世界に狂気の挑戦をはじめたため、このファシスト三国を倒すために原爆が開発された、というのではない。原爆の開発には、別のの目的がすでに存在していたはずである。

次いでウェスチングハウスが、直ちに当時の保有量の100万倍ものウランを届けられたのはなぜなのか、という謎が湧いてくる。必要だから直ちに調達した、というのは出来すぎた話だ。

この疑問もまた、かなり以前から原爆とウラン原料確保の準備が進められていた事実を示唆している。

第三の疑問として、まだ連鎖反応が成功していないうちにロスアラモスでの“量産計画”がスタートし、工場のスケジュールのプランがぶち上げられている点が目につく。

P177これは、何とか実験を成功させようと考えはじめたばかりの科学者には思いつかない発想である。彼ら科学者にとっては、量産どころではなく、原爆を製造できるかどうかが最大の関心事であったはずだ。

誰かが背後で、このプロジェクトに知恵をつけ、一気に巨大工場への道を拓いたのではないのか。

しかし、では、この原料として使われたウランは、どこの鉱山から持ってきたのか、それがまず問題である。ウランの鉱脈を発見し、作業者が地底から掘り出さなければならない。

異常なスピードでウランを調達した人間は誰なのか。

時の財務長官モルゲンソーの母の一族“グッゲンハイム・トラスト”こそ、ベルギー領コンゴに入りこんでいたロスチャイルド財閥のウラン採掘業者であった。モルゲンソーの妻の姓が、長崎原爆の名につけられたファットマンであった。

オッペンハイマーもロスチャイルド一族であった。

いや、このマンハッタン計画全体を動かした人間がどこかに潜んでいるはずだ。その答えを求めるほうが重要である。世に通っている話では、シーボーグ、フェルミ、シラードらの科学者たちが原爆を開発したという。

しかし彼ら科学者には実験する能力と理論のほかには何もなかったのだ。

彼らを使用した雇い人は、本当にアメリカ「政府」だったのか?

P178 そして最後に、本当にこの原爆を広島と長崎に投下する必要があったのか…頭の上に、いきなり原爆が落ちてくるはずがない。

というのは、ドイツが敗北していなかった一九四四年九月一一日からの第二次ケベック会談において、ルーズヴェルト大統領とチャーチル首相が、「原爆が完成した場合には、日本に対して使用する」という決定を下していたのである。

ノルマンディー上陸作戦からパリ解放の歓喜に湧く時期であったから、確かにドイツの敗北は軍事的に決定的だったからという説明がある。しかしドイツが降伏したのは、この八ヵ月後のことである。

またこの時期、“標的にされた日本”の敗北が軍事的に決定的だったことも、ドイツと同じであるから、これでは「日本が選ばれた理由」として納得できる説明にはならない。

マンハッタン計画でウラン原料を調達する監督官として国際的な役割を果たしたのが、ロスチャイルド一族のイギリス人チャールズ・ハンブローであり、彼は戦時中にアメリカのスパイ組織OSS(後のCIA)を設立した大物でもあった。

のちに世界的なマーチャント・バンク「ハンブローズ銀行」の会長となり、イングランド銀行と南アの巨大な鉱山利権を支配した男である。グローヴスの自伝『原爆はこうしてつくられた』(恒文社)には、ウラン関連の場面でこのイギリス人チャールズ・ハンブローがしばしば登場する。

このミステリーを解くことによって、放射線被バクの危険性が、今日までなぜ歪曲されてきたか、という最後の答えが得られるのである。

なぜなら、原水爆が軍需産業に莫大な利益をもたらすならば、この軍需産業が、放射線被バクを隠蔽する犯人だという結論が、はっきりと見えてくるからだ。

原発によって天文学的な利益を得た巨大財閥
すでに、これまでに記述した歴史のなかに、すべて、そのヒントがある。

じつは、アメリカの全産業は、石油を独占したロックフェラー財閥(スタンダード石油)と、鉄道と鉄鋼を支配したモルガン財閥(モルガン商会)が、一九二九年のウォール街“暗黒の木曜日”の株価大暴落によって起こった大恐慌後に、ほとんどの大企業を支配してしまったのである。

この大恐慌が全世界に広まって、ドイツでは翌一九三〇年に300万人、一九三二年に560万人という大量の失業者を生み出し、失業率が30%に達して、このドイツ民衆の不満と怒りがナチズムを育てる素地となったことは、よく知られている。

一方、恐慌の震源地アメリカでも、同じように企業と銀行の連鎖的な倒産が相次ぎ、大不況が大衆を襲っていた。ところがロックフェラー財閥とモルガン財閥の企業だけは、不況のなかで倒産する企業を次から次へと買い占めて、ますます巨大化していたのである。

モルガン財閥の場合、支配した当時の資産一億ドル前後という超大企業だけを拾いあげても、

180 14の銀行、4つの生命保険会社、7つの鉄道会社、8つの電気・電話・ガスなどの公益事業、12の自動車・鉄鋼などの工業メーカーが数えられた。

たとえばこのなかに世界一の鉄鋼会社USスチール、全米を支配するファースト・ナショナル銀行、巨大鉱山業者フェルプス・ダッジ、アメリカ電信電話(ATT)、国際電信電話(ITT)、ゼネラル・エレクトリック(GE)などの怪物が入っていた。

さらにランクを落として大企業クラスで数えると、都合444社がモルガンの支配下に置かれてしまったのである。

一方、“スタンダード石油銀行”と呼ばれたナショナル・シティー銀行とチェース・ナショナル銀行をはじめとして、ロックフェラー財閥も巨大な独占を成し遂げ、287社を支配してしまった。

これを大恐慌後の全社合計の資産額で示すと、モルガン家が776億ドル、ロックフェラー家が449億ドル、およそ7対4の比率でモルガンの方が倍近い資産になるが、重要なのは、このわずか二家族の支配した資産総額が1225億ドルに達していたことだ。

一九三〇年のアメリカ国家予算(歳入額)が40億ドルの時代に、その30倍を二大財閥が支配したのである。現代に換算するなら、69兆ドル、8000兆円規模になろうか。

史上空前の独占だったこの数字は、「アメリカの大企業上位200社を並べたとき、資産総額の65%をモルガンとロックフェラーで支配した」ということを意味する。実に65%の独占である。

したがって、その二大財閥が、その後も支配力をひろげ、マンハッタン計画当時の二次大戦中のアメリカの「軍需産業のすべて」を握っていた。

P181なかでも原爆の製造に直接係わるデュポン社とゼネラル・エレクトリック(GE)をモルガン家が握り、ウェスティングハウスをロックフェラー家が握っていたとことによって、二大財閥が原爆によって得られる利益は、途方もない金額になろうとしていたのである。

オークリッジ工場でウラン濃縮を担当したのが、モルガン財閥のGEで、ハンフォードのプルトニウム工場をロックフェラー財閥の「スタンダード石油開発」とモルガン財閥の「デュポン」などが担当し、マンハッタン計画・企画本部の議長が「スタンダード石油開発」の副社長イーガー・マーフリーであったのは、そのためであった。

またその配下の委員が「ウェスティングハウス」、「M・W・ケロッグ」、「ユニオン・カーバイド」、「マサチューセッツ工科大学」で構成されていた。

つまり、ウランを調達するウェスティングハウスはロックフェラー財閥の電機メーカーであった。ユニオン・カーバイドの金庫は投資銀行「セントラル・ハノーヴァー・トラスト」に置かれ、この銀行の重役が、ウェスティングハウス社長G・プライスと、モルガン財閥の鉱山業者フェルプス・ダッジ会長ルイス・ケイツであった。

ケロッグ社はモルガン家が鉄道王国を築いた時代に寝台車を開発したプルマン社のなかで、技術開発を受け持った子会社であった。マサチュセッツ工科大学(MIT )は、当時はロックフェラー財閥の「ニュージャージー・スタンダード石油(現エクソンモービル)」およびモルガン財閥~デュポン連合の「ゼネラル・モーターズ(GM)」の資金で支えられていた。

P182マンハッタン計画の黒幕たち【第一線の指揮官】
P184マンハッタン計画の黒幕たち【背後にいた財閥】
P186マンハッタン計画の指令系統
P188 彼ら黒幕にとって、人道上の大きな問題となる“原爆による放射能の肉体的な被害”が判明したあと、絶対に人目にふれないよう、隠さなければならなかったことは確かである。

加えて、この裏では、大変な事態が進行していた。IBMの創設者トム・ワトソンが、二次大戦の直前、一九三七年夏にモルガン財閥によってアメリカ財界代理人としてヨーロッパに送り出され、ドイツの首都ベルリンを訪れた。

そこで開催された「国際商業会議所」の総会で彼が№1の会頭に選出されたのである。そのあと彼はヒットラーと親しく会談し、さらに当時のドイツ工業界を支配していた「IGファルベン」の社長シュニッツラー男爵と協力しを約束し合った。

ヨーロッパ全土からアウシュヴィッツ強制収容所に送られてくるユダヤ人を管理し、選別する作業を自ら買って出たIGファルベンは、この虐殺収容所に君臨した経営機関のひとつであった。

これら会談者のなかにヒットラーの経済相ヤルマール・シャハトの顔も見られ、彼が「モルガン商会」と一次大戦後のドイツ賠償取引をしたのだ。ワトソンとシャハトの親密さは当時の新聞にくわしく報道された。

ワトソンがヒットラーと会ったこの一九三七年夏は、前年の一九三六年一〇月一九日にナチスがヨーロッパ全土をドイツの軍隊によって支配する「戦争準備四ヶ年計画」を発表し、すでにヨーロッパで大戦が起こることが明らかになっていた時期である。

その投資金額の三分の二をIGファルベンに割り当て、IGファルベンのナチス化がなされた翌年の出来事だ。

P189こうしてナチス最高幹部に資金援助を約束したモルガン財閥の代表者が、IBMのトム・ワトソンで、この功績によって、ワトソンはヒットラーから十字功労章を授けられ、そのちょうど一年後にアメリカの自動車王ヘンリー・フォードがヒットラーから十功労賞を受けた。

彼らアメリカの二大財閥は、アメリカ国民やルーズヴェルト大統領と違って、二次大戦が起こっても、一九四一年枩にハワイの真珠湾攻撃が起こるまで、ヒットラーのナチスを敵とみなしていなかったのだ。

アメリカ工業界は、ドイツ工業界と手を組んでいたのである!なぜか?

一九三一年にドイツの選挙でナチスが第一党に躍進した時、この選挙資金を提供したドイツのクルト・シュレーダー男爵は、自らナチス党員という肩書を持ち、ナチスの「突撃隊」で幹部をつとめていた。

ドイツの工業家を焚きつけて選挙資金を集めた彼は、それをそっくりハインリッヒ・ヒムラー(後年の秘密国家警察ゲシュタポ隊長)に手渡していた。

さらにそのシュレーダーは、アメリカのウォール街にも進出して支店を開設し、「シュレーダー銀行」を設立していたが、この銀行の重役がエイブリー・ロックフェラーで、彼は石油王ジョン・D・ロックフェラー【185頁の左下】の弟ウィリアムの孫であった。

エイブリーはその名も「シュレーダー・ロックフェラー投資商会」を設立して、ナチスと手を組んでいた。

一方、二次大戦中のIBMすなわち「国際事務機器」と称するこの会社は、米軍が高度な機械戦争に突入したので弾道兵器の設計などで巨額の受注があって、

P190 原爆製造に関してもモルガン財閥の「ベル電話」と共にマンハッタン計画に参加し、兵器会社「レミントン・ランド」【185頁の中央左が創業者】と特許を交換し合ったモルガン財閥傘下の軍需産業に豹変していた。

IBMの売上は、戦争の幕が切って落とされた解きに4000万ドル足らずだったのが、幕を閉じた時には1億4000万ドルを超え、350%の伸びという驚異的な数字を記録した。利益と資産も、ほぼ同じ膨張ぶりを示し、「デュポン」さえ圧倒するほどだった。

IBMの社名にある“国際ビジネス”は、この時代に全米の産業がとりこまれた戦争だったのである。

二大財閥にとっては、ナチスによる大戦争がヨーロッパ全域にひろがってゆくと、ヨーロッパに軍需品を送りこむ一九四一年の武器貸与法の成立によって、アメリカ国内での火薬、鉄砲、爆弾、軍艦、軍用機、タンク、ジープなどの軍需品生産額が急増し、ますます好調に伸びていたからである。

ホワイトハウスの二階にある“リンカーンの間”に泊まり込んでいたモルガン=ロックフェラー財閥の代理人ハリー・ホプキンスが、武器貸与調整官としてロンドンに兵器を送り続けた。

ロンドンには、アメリカ大陸を横断するユニオン・パシフィック鉄道の会長アヴェレル・ハリマン【182頁の左下】が海外武器貸与主席行政官として派遣され、この鉄道王はロックフェラーの盟友として大戦を鼓舞し続けた。

アメリカ二大財閥の戦争目的は、ドイツ側の勝利でもイギリス側の勝利でもなかった。兵器産業の莫大な収入が目的だったのである。

P192モルガン、ロックフェラー、デュポンなどの戦争工業は、この二次大戦で果たしてどれほどの収入を得たのか。

アメリカの戦費総額は2450億ドル、今日の12兆5000億ドル(1500兆円)に達した。二次大戦前の50年間にアメリカ政府が使用した国家予算の総額を超えてしまったのである。

半世紀分を一気に吞みこんだこの総支出の7割近くが、モルガン財閥とロックフェラー財閥の総売り上げだったと見てよい。彼らが両手に握った札束は、この世界戦争のために全地球上で使われた支出総額のうち、実に7分の1を占めるものでもあった。

日本への原爆投下を勧告した人間は誰だったのか?
そこで、日本への原爆投下を勧告した委員会のメンバーを見ると、次の6人であった。

【議長】ヘンリー・スティムソン陸軍長官---彼はマンハッタン計画を担当した大統領補佐官でもあった。モルガン商会と、ロックフェラー財閥のチェース・ナショナル銀行を上客とする弁護士事務所を経営する有数の資産家であった。

【議長代理】ジョージ・ハリソン---「ニューヨーク生命保険」の社長で、同社の幹部重役オーウェン・ヤングはモルガン商会の特権者であり、一九四二四五年までモルガン財閥のゼネラル・エレクトリック(GE)の会長としてオークリッジ原爆工場を経営していた。

P192 【委員】ジェームズ・バーンズ---モルガン財閥の鉱山会社「ニューモント鉱業」の重役であった。同社は「アメリカ金属」系列で、ここがアフリカの鉱山を支配し、重役が初代石油王の孫ローランス・ロックフェラー支配下の「カナダ・インターナショナル・ニッケル」社長であった。この会社が、カナダからウランを調達した。

【委員】ヴァネヴァー・ブッシュ---ロックフェラー家の「スタンダード石油」とモルガン財閥の「ゼネラル・モーターズ」と「デュポン」からの献金よって成り立つ「マサチュセッツ工科大学(MIT)」日本・ドイツ・イタリアが宣戦布告する前に原爆開発を始動させた“ウラン委員会”の議長として、マンハッタン計画の企画本部をロックフェラー=モルガン連合によって組織した人物でもある。

【委員】カール・コンプトン---前項ヴァネヴァー・ブッシュの上司で、「マサチュセッツ工科大学」の総長だった。真珠湾攻撃の一ヶ月前に“ウラン委員会”が科学局に移管された時に委員長をつとめ、ロックフェラー=モルガン連合が原爆をつくるように、一切の契約を担当した。

【委員】ジェームズ・コナント---ハンフォード原爆工場を動かす死の商人、モルガン財閥のデュポン社顧問であり、この時は、モルガン家から莫大な資金燕jyを受け、モルガン商会を管財人とする「ハーヴァード大学」の総長であった。

P193彼はこの当時、ロスアラモスの原爆製造グループを指揮するグローヴス准将に直接の政治的支援を送る重要組織「国家防衛研究委員会」の委員長もつとめていた・

だがコナントは、実はこれよりはるか前、ナチスがこの世に誕生する前、第一次世界大戦中の一九一七年九月二二日に、マスタード・ガスより殺人能力が高く、これを散布すると、一日たっても戦場が無人地帯のままになるというおそるべきものであることを確かめていた。

翌年一九一八年五月に、コナントは極秘の試験場で実戦テストをくり返したが、この半年後に一次大戦が終わったため、米軍はこの毒ガスを使用しなかったが…(tw)

これらの委員のほかに、強い圧力をかけたとされている人物は以下の3人である。

チャ-ルズ・エジソン---モルガン財閥の原爆帝国ゼネラル・エレクトリック(GE)を生み出した発明王トーマス・エジソンの息子で、モルガン家の支援によって、父親が残した海軍研究所を足場にして一九四〇年に海軍長官となっていた。

レスリー・グローヴス--マンハッタン計画のリーダーをつとめた准将で、戦後一九四八年にはレミントン兵器【185頁の中央左が創業者】から誕生したトマス・モルガン支配下の軍需産業スペリー・ランド・グループの副社長となった。

  マンハッタン計画の総指揮者としてグローヴスが任命されたのは、陸軍省の巨大なビルを建設した指揮官としての手腕を買われ、抜擢されたからであった。のちにそれを見て誰もが国防総省をペンタゴン(五角形)と呼ぶようになったビルの建設監督、それがグローヴスであった。

  →レスリー・R・グローブス著『原爆はこうしてつくられた』参照

P194 大戦中の一九四三年一月に完成したその建物自体が巨大な秘密基地であり、工事費が一ヶ月で当時の6億ドルという天文学的な出費の製品であったため、軍事予算に関して多くの秘密を握った男であった。

クロフォード・グリーンウォルト---マンハッタン計画の中心人物となった委員だが、実はモルガン財閥のデュポン家マーガレッタ・デュポンと結婚した兵器財閥の御曹司であった【182頁の右上】。彼は戦後にデュポン社の社長・会長を歴任して、ハンフォード工場などでの原爆製造で莫大な利益を獲得した。

これらの人間の肩書と素性に表れている通り、原爆投下のすべての目的が、財閥が得る巨額の収入にあったことは動かし難い事実である。

  →『億万長者はハリウッドを殺す(上)』マンハッタン・スキャンダル(参照

第六章 産業界のおぞましい人体実験
第七章 国連がソ連を取りこみはじめた
第八章 巨悪の本丸「IAEA」の正体
第九章 日本の原発からどうやって全世界へ原爆材料が流れ出ているのか?