2020年6月23日火曜日

偏愛メモ  客観と主観あるいは理性と感情

『生命の塵』

(まえがき)


(P424-)

P424 道徳律の内容には関係なく、私たちの道徳意識の起源を考えてみることもまた必要である。私たちが何を善とし、何を悪とするか、その基準は一定ではないかもしれない。しかし"良いこと"つまり推奨すべきことと、"悪いこと"つまり避けるべきこととの間に、明確な区別が存在するという点では、私たちは皆、意見が一致するはずである。

重要な問題は、善と悪の区別は人間が"発明した"のか、それとも"発見した"のかということである。その他の抽象概念、たとえば数学的真理、論理法則、美の概念などについても同様な議論が起きてくる。すでに考察したように、数学的真理に対するプラトンの考えは、数学者ロジャー・ペンローズとアラン・コンスが支持しているが、神経生物学者ジャン・ピエール・シャンジューは拒絶した。

美しさもまた確かに、見る人の目に左右される。P425しかし、抽象的な美の概念や人間の美に対する憧れの念についてはどうか?(関連tw

多くの社会で、倫理的な教えは組織化された宗教団体によって体系化され、布教され、それが一つの概念的な教義体系に組み込まれていることも少なくない。宗教というのは、部分的には非合理的な側面を持つこともあり、それが社会生物学者と唯物論的な神経生物学者たちの攻撃の的にもなる。

それでも宗教はますます物質的で享楽的に向かう現在の世界で生き延び、繁栄を誇ってる。ウィルソンも書いているように、
「宗教にずっとつきまとっているパラドックスは、その実体の多くが明白にまちがっていると論証できるのに、依然としてどの社会でも一つの推進力であり続けていることである。人間は知ることよりも信じることを求めているのだ(tw,tw,tw)」(『社会生物学』エドワード・O. ウィルソン )
シャンジューもこの幻滅感に満ちた嘆きを繰り返している。
「教義というものはその性格からしてその内容、物理的および歴史的な蓋然性が証明できないものであるのに、しぶとく存続し、普及することさえある」
この二人の生物学者をはじめとする多くの科学者たちは、このパラドックスと対決し、「宗教的現象」とそれが生み出した多くの神話を、社会の発展に伴う進化の付随物であると合理化する。つまり、そのような教義を信じた人々の集団は、ある信念で団結していない集団や、より弱い信念で団結している集団よりも、たまたまその集団としての生存の可能性が高くなったために、生き延びてきたのだと考える。

こうして生き延びる教義は必ずしも真実である必要はなく、他の教義よりも強力でありさえすればよいのである。根本主義の人気が高まっているのは、これを証明するよい例である。

しかし、私たちは次のことを自問しなければならない。自分の本性の中に、合理的な説明を求める知的渇望と隣り合わせで、宗教的真理を求める深い感情的な必要性を感じてはいないか?説明することに強い興味を持っている科学者でさえ、何らかの価値体系がなければ身動きがとれないのである。

たいていの人は、フランスの生物学者ジャック・モノのがいわゆる「知識の倫理」と呼ぶ、「客観性の前提」に基づいた、知的な完全性と事実の尊重とを重んじる行動規範に同意している。ビジネスの世界での会計上のごまかしや不正行為が比較的寛大に受け止められるのに比べ、科学的な欺瞞には厳しい非難の声がわき起こることは、社会が科学者に特に高い期待を寄せていることの現れである。

そうは言っても、科学者自身がみずからに課した行動規範を、自分で合理的に正当化するのは困難なことであろう。モノも明言しているように、「客観性の原則を真の知識の条件と定めることは、倫理的な判断であり、知識から到達できる判断ではない」(『偶然と必然』ジャック・モノー)

このような選択は根拠がないものなのか、カントのいう真実を尊重すべしという教えを反映したものなのか?この問題は少なくとも議論の対象にはなりうる。

倫理は、科学者にとってさらに根本的な問題を提起する。定義により、倫理体系とは、いろいろな道徳的価値をもつ行為の中から選択できる可能性があることを示唆するものである。この前提条件は、脳の厳密な一元論的唯物論とは両立する余地がないものである。

なぜなら一元論的唯物論は、自由意志の欠如、すなわち道徳的責任の欠如を暗示するからである。私は27章で、この問題に直面したある神経科学者と哲学者たちの不安について述べた。社会生物学者も同じ苦境に立たされているのである。

『精神の起源について』の中で、ラムズデンとウィルソンは次のように自分たちの信念を述べているーーー「精神的な事象は脳の中の生理的事象と同一のものである」そしてまた、「私たちの行動は実はすべて運命づけられているのである」

こう述べる一方で、彼らは躊躇せずに、自由意志というものは人間の精神の本質的な特質であるとも言っている。ところがしかし、この二種類の言明が矛盾しないものだという説明はどこにも見つからない。幸いにも、この説明がどうしても必要なほど事態は切迫していない。

私たちの人間の精神についての知識はまだわずかで、「精神とは単にニューロンの活動の発散でしかなく、したがって、精神がニューロンの活動に影響を及ぼす力を有するということはない」ときっぱり断言できる段階には到達していないのである。

・『人間にとって科学とはなにか』(P152)
(湯川秀樹)私は最後は主観が勝つのじゃないかと思う。心理的なものの方が強いのじゃないかと思う。そこに一種の「絶対」が出てくる。自分が思い込んでしまったら万事解決、おしまいじゃないか。社会なんかないと思うたらしまいや。あると思うから困るわけでしょう。

・『人間の建設』(科学的知性の限界 P34-44
P39 (岡潔) 心が納得するためには、情が承知しなければなりませんね。
P41 (岡潔) 知性には感情を説得する力がない

・『近代科学の誕生(上)』(P20)
あらゆる精神活動の中でもっともやりにくいこと、まだ柔軟性を失っていないと考えられる若い頭脳にとってすら極めて困難なこと、それは、従来と同じ一連のデータを用いながら、しかもそれらに別の枠組みを当てはめて相互の関係を新しい体系に組みかえることであると言えよう。

・『ホロン革命P248
まったく同じ実験データでも、いろいろに解釈できることがままあるのだ。---この事実こそ、科学の歴史が文学批評の歴史とおなじくらい多くの悪意に満ちた議論で埋めつくされている理由である。

かくしてわれわれは、実験によって科学的な理論を検証するという相対的に客観的な方法から、美学的価値という相対的に主観的な判断基準まで、一連の連続的な変化を再び手にすることになる。(略)

P249 ボティチェリの聖母マリア像とポアンカレの数学理論とをくらべてみても、創造者の動機や熱意に関して、何の類似性もない。にもかかわらず、無意識の暗中模索のなかで「新たな発見をもたらす適切な組み合わせ」に向けて自分を手引きにするものは「数学的な美、数の調和、形、幾何学的なエレガンス、などの感覚」であり、

P250「これはすべての数学者が知っている真の美的感覚である」と書いたのは、ほかならぬポアンカレであった。存命中のイギリス最高の物理学者、ポール・ディラックなどはさらに極端で、次のような言葉を残している。
「式が実験と一致することより、式に美しさがあることの方が重要だ」
ショッキングな発言であったが、かれはノーベル賞をもらった。そして、これとは逆に、画家、彫刻家、建築家はつねに科学的な、あるいは準科学的な理論に手引きを受け、ときにはそれに悩まされてもきた。ギリシャ人の黄金分割、透視図の幾何学、デューラーとダ・ヴィンチの「完全調和の究極的法則」、セザンヌの「自然のあらゆる形態は球と円筒と円錐に帰すことができる」という教義、等々である。(略)

・『ファンタジーランド(上)』P4
その中でも問題になるのは、客観よりも主観を極端なまでに重視し、意見や感覚を事実並に真実であるかのように考え、行動する人々だ。アメリカの歴史は、知的自由という啓蒙主義的概念を初めて具体化する実験の歴史でもあった。

誰にでも、好きなことを信じる自由がある。だが、P5その考え方が手に負えなくなるほど力を持ってしまった。わが国が奉じる超個人主義は最初から、壮大な夢、あるいは壮大な幻想と結びついていた。アメリカ人はみな、自分たちにふさわしいユートピアを建設するべく神に選ばれた人間であり、それぞれが想像力と意志とで自由に自分を作り変えられるという幻想である。

つまり、啓蒙主義の刺激的な部分が、合理的で経験的な部分を打ち負かしてしまったのだ。

こうしてアメリカ人は、数世紀の間少しずつ、そしてこの50年の間に急速に、あらゆるタイプの魔術的思考、何でもありの相対主義、非現実的な信念に身を委ねていった。私たちを慰め、わくわくさせ、恐怖させる大小さまざまな幻想である。

・『戦争と平和(一~四)合本版』P2202
彼は六十年にわたる体験から、噂というものにどの程度の比重をおくべきかを心得ていたし、人間が何かを強く望んでいると、その望みを裏づけるかのように、あらゆる情報を整理しがちで、その場合それに矛盾するような情報は好んで見落としたがるものだということを、承知していたのである。

だからクトゥーゾフは、それを強く望めば望むほど、軽々しくそれを信じることをいよいよ自分に許さなかった(tw,tw,tw)。

・【平成30年 年末特別対談】伊藤貫氏に聞く[桜H30/12/30](参照)