2018年5月30日水曜日

偏愛メモ『誰が第二次世界大戦を起こしたのか--フーバー大統領『裏切られた自由』を読み解く』(随時更新)

・1938年(開戦前年)の分析 P54-62
P55 一九三八年においては、ヒトラーのユダヤ人迫害は特に目立っていなかった。ユダヤ人を嫌う政策を進めていたことは間違いないが、ホロコーストは始まっていない。ユダヤ人迫害は一九三八年十一月九日の「水晶の夜事件(相参,相参,相参)」がよく知られている(tw)。

この事件から次第に迫害は悪化していったが、ホロコーストとして現代人が知っている虐殺があるとの情報がアメリカに伝わったのは、開戦後の一九四一から四ニ年頃のことである。そのときでさえも戦争に付きものの、一般的な虐殺事件として理解されていた。

一九三九年九月にポーランドへのドイツ進攻を受けて英仏がドイツに宣戦布告した。これについては後述するが、ナチスドイツのユダヤ人迫害と英仏両国の対独参戦との直接の関連はない。一九三八年のヒトラーやナチスドイツは、現代人のイメージする姿とは違う。

現代人は後に起きた事件を知っている。そのことが歴史解釈のプリズムを曇らせている。可能な限り同時代人の目で当時の事件を解釈するためには、プリズムの曇りの存在に気づき、それを意識的に拭わなくてはならない。

一九三八年時点でのヒトラーの評価は、ドイツの歴史家ヨアヒム・フェストの次の言葉に示されている。現代人からは想像もできないほどの高評価である。
もし一九三八年末にヒトラーが暗殺されたり、あるいは事故死でもしていれば、彼をドイツ史上最高の政治家のひとりとみなすことに躊躇する者はほとんどいないであろう。

"If Hitler had succumbed to an assassination or an accident at the end of 1938,” he wrote, “few would hesitate to call him one of the greatest of German statesmen, the consummator of Germany’s history."
http://www.ihr.org/other/economyhitler2011.html
福井義高氏(歴史家ヨアヒム・フェストを引用)「1938年に死んでいたら、ビスマルク以来の大政治家として死ねた(tw,tw)」
【討論】ヒトラーとは何だったのか?-ナショナリズムの本質を考える[2017.02.04](相互参照)

 →『赤い盾』2.5 カリガリ博士とマブゼ博士P348-(参照)

(略)

(P56-)

(P62)

P62 ロイドジョージの訪問に続いたのがハリファックス卿である。ベルリンの国際スポーツ博覧会への出席に併せて、彼もベルヒテスガーデンまで足を延ばしてヒトラーと会談している(1937年11月19日)。ハリファックス卿は、ベルサイユ条約によるオーストラリア、チェコスロバキアおよびダンツィヒに関わる線引きの変更については反対しない、と伝えた。ただし、それを平和的な手段で行うことが条件であった。ハリファックス卿の考えはイギリス政府の考えを示すものであることは、彼が翌38年2月に外務大臣(チェンバレン内閣)に登用されたことからも明らかだった。ヒトラーは、ハリファックス卿の訪問をことのほか喜んだ。

・チェンバレンの世紀の愚策、ポーランドの独立保障 1939.03.31 P89-P94

P89 フーバーは『裏切られた自由』19章(第1部第4編)でヒトラーのポーランド侵攻を深く考察している。ヒトラー・ハリファックス会談(1937年11月19日)で、ハリファックス卿は、ベルサイユ条約におけるオーストリア、チェコスロバキアおよびダンツィヒに関わる線引きの変更については反対しない、ただしそれを平和的手段でおこなうことと書いた(二章62頁)。ヒトラーは、明らかに、ベルサイユ体制の歪みの矯正をハリファックス卿の言葉に沿って進めていた。フーバーも書いてるように、オーストリア、チェコスロバキアに関わる国境の線引き変更まで、一人の戦死者も出していない。(中略)

当時のヨーロッパ諸国の指導者にとって、ヒトラーの次なる狙いはダンツィヒとポーランド回廊問題の解決になることはわかりきっていた。したがって、チェコ解体がどれほどチェンバレン首相の気分を害したとしても、ヒトラーとポーランドの二国間交渉を注意深く見守るのが英国の外交であろうと思われていた。しかし1939年3月31日、チェンバレン首相は次のような唐突な発言をした(第19章)。

P90 <私はいま議会に次のように報告しなくてはなりません。ポーランドの独立を脅かす行動があり、ポーランド政府が抵抗せざるを得ないと決めた時に、我がイギリス政府には、ポーランド政府を全面的に支援する義務があります。ポーランド政府にはそのように伝えてあります。フランス政府も同様の立場であることを付言しておきます。同政府は、私がこの場でこのようには発言することを承認しています。>

これは英国のポーランド独立保障宣言だった。この発言にはだれもが驚いた。フーバーもその一人だった。先にフーバーがチェンバレン首相との会談(1938年3月22日)の備忘録を残していたことを書いた。その中で、ヒトラーは東に向かい、スターリンとの衝突になるというフーバーの考えにチェンバレンが同意していたことが記されていた。ところが、右記のチェンバレン首相の議会発言はその考えを180度変えたものだった。

チェンバレンの演説の愚かさは、常識があるものにはすぐにわかった。演説を聞いていた議員の一人J・G・ブースビーは、「我が国最悪の狂気の沙汰だ」と憤った。ロイド・ジョージは、あまりの馬鹿らしさに笑い出すほどで、「もし我が軍の将軍たちがこれを承認していたとすれば、彼らはすべて気が違っている」とまで述べた。要するにチェンバレンの議会演説は、イギリスが戦争するしかないかの判断をポーランドに預けてしまったことを意味したのである。

P91 イギリスに続いてフランスも同様の独立保障を行った。これによってポーランドは強気になった。フーバーの驚きも尋常ではなかった。その思いは次のように表現されている(「編者序文)。

<ヒトラーが東進したければさせるというのがこれまでの考え方だったはずではないか。現実的に英仏両国がヒトラーのポーランド侵攻を止められるはずがない。これではロシアに向かうスチーム・ローラー(ドイツ軍)の前に、潰してくださいと自ら身を投げるようなものではないか。>

この視点はフーバーの歴史観(歴史修正主義)の核である。戦後の釈明史観の歴史書は、この世紀の愚策を意図的に書かない。そして同時代人の誰もが歓喜したミュンヘン協定をチェンバレンの愚策(過度の対ドイツ宥和政策)として描く。チェンバレンのポーランド独立保障宣言という世紀の愚策以前に愚策があったことにしたいからである。そうすれば「真の意味での愚策」から目を逸らすことができるからである。

フーバーは、なぜチェンバレンがこれほどの方針転換をしたのか理解できなかった。(略)

P92 実際にルーズベルトかがケネディ駐英大使を通じてチェンバレンに圧力をかけたことが確かめられた。それは戦いが始まった後(一九三九年九月一日以降)のことである。ケネディ大使は、一九四〇年十月には大使を辞め帰国した。ケネディはフーバーの住むニューヨークのアストリア・タワーをよく訪れ、意見交換する仲になった。フーバーはケネディ前大使に当時のことを聞いている(第19章)。
ジョセフ・P・ケネディは私に、「(本省から)チェンバレンの肩を押せ」と指示があったことを明らかにしてくれた。>
フーバーはケネディの大使の言葉を、ジェイムズ・フォレスタルの日記を使って補強している(同前)。(略)

P93 今度はウィリアム・ブリット駐仏大使が、ルーズベルトの意を受けて、ポーランドに対独強硬策を取らせた。そうすることで、ダンツィヒ・ポーランド回廊問題を、ヒトラーとの外交交渉によって解決する道を閉ざしたのである(twtw)。ブリット駐仏大使の工作については、後にポーランドに侵攻したドイツが、これを裏付けるポーランド政府の文書を押収し、公開した。しかし、FDR政権はこれを偽書だとして否定した。この点についてハミルトン・フィッシュ下院議員は次のように書いている(『ルーズベルトの開戦責任』)。
(略)
フーバーは、チェンバレンに「世紀の愚策(ポーランド独立保障宣言)」をとらせたのはルーズベルトだとして次のように結論付けている(第19章)。
ルーズベルト氏はポーランドに対しても、ダンツィヒ問題ではドイツとの交渉を拒否し強硬姿勢をとるよう圧力をかけた。ポーランドの頑なな姿勢は、ルーズベルト政権の意向の反映であった。
 →『赤い盾』P363(チェンバレンとは、1939.09.01 ドイツポーランド侵攻)
 →『ウェルカムトゥパールハーバー』(小説)参照

・バーゲニング・パワーを得たスターリンと外交的袋小路に入ったチェンバレン P95-P103
(P94-)

(P96-)

P96 <ヨーロッパのパワー・バランスはヒトラーの側に傾いていた。ドイツの拡張と英仏の黙認の結果だった。しかし、英仏の独立保障でパワーシフトが起きた。ヒトラーがポーランドに対する要求を貫徹すれば、英仏との、つまり西部戦線での戦いになる。スターリンは、ヒトラーのロシア嫌いをわかっているだけに、そうなればスターリンは英仏側について参戦する可能性がある。ヒトラーは、二正面での戦いを避けるためには、スターリンとの間で何らかの協定を結び、東部戦線での戦いを回避する必要が出てきた。>

<ソビエトが、自らの目的を遂行するために、これほど有利な立場に立ったことは歴史上なかった。ピョートル大帝の治世以来、広大な土地を抱えながらも、バルト海方面への拡大を望んできた。第一次世界大戦の結果、バルト海への出口は、わずかに、レニングラード{訳注:現サンクトペテルブルク}を残すのみとなった。フィンランド湾の港は夏季しか使えなかった。西欧諸国とドイツとの紛争は、バルト海方面の領土回復の絶好のチャンスだった。

さらに言えば、ドイツが西欧の民主国と戦うことになれば、反コミンテルンの協定は崩壊し、ドイツおよび日本からの(ソビエト)攻撃の可能性は低下すると見られた。>

<ロシアにとって日本からの攻撃はきわめて現実的なシナリオだった。ロシアのウラジオストクに築いた軍事基地、特に航空部隊は日本にとって脅威であった。日本の家屋は紙と木で出来ているだけに空爆には神経質であった。日本は中国への侵攻に伴いシベリアに一〇〇〇マイルに及ぶ前線を築いていて、両国の衝突は頻繁に起きていた。シベリア侵攻は日本にとって魅力ある選択肢であったが、そうすればアメリカが、中国、ロシアの側に立って参戦する可能性を見ていた。

アメリカはただでさえ中国に同情的であった。簡単に言ってしまえば、右の侵略的諸国家の中で、共産主義者だけが有利な立場を得たのである。彼らは民主主義国家側にも、ヒトラーの側にも立てるポジションを得た。戦うか戦わないかも選択できた。彼らは共産主義イデオロギーの拡散にきわめて有利な立場となった。したがってヨーロッパのパワー・バランスは一気にスターリン有利に傾いた。>
これほど正確な分析はなかろう。チェンバレンのポーランド独立保障宣言はイギリス議会における短い発言であったが、実際は、ヨーロッパ各国に働く複雑な外交ベクトルを一気に変えてしまう爆弾宣言だったのである。

フーバーの分析にあるように、ロシアも第一次世界大戦期には膨大な領土を失っていた。旧領土の回復というドイツと同様の強い潜在的欲望があった。バルト三国もポーランド東部も旧ロシア領だった。このような欲望を持つスターリンに甘い声をかけたのは英仏であったが、両国のソビエトとの交渉が決裂するや否や、スターリンと独ソ不可侵条約を結んだのがヒトラーだった。(略)

  参照→『赤い盾』2.6 ロスチャイルド家の反撃 P368-415
  参照→『重光・東郷とその時代』

(P98)

モロトフが要求した領土は、形式的には第一次世界大戦期にロシアがドイツに譲渡した土地だった(ブレスト・リトフスク条約:一九一八年三月)(tw)。しかしロシアの視点からは、あくまでベルサイユ条約で失った土地なのである。(略)

ヒトラーはスターリンに対して秘かに誘いの親書を送り、提携を促した。ヒトラーの親書は八月二十日にスターリンの手元に届いていた。独ソ両国はこの前日(十九日)、リッベントロップ外相とソビエトのモロトフ外相の間で経済協力協定を結んでいた。ソビエトは英仏とドイツ包囲網を形成する交渉をしながら、他方でドイツとの経済的協力協定交渉を進めていたのである。ヨーロッパ外交の真骨頂である。(略)

P99 犬猿の仲であった独ソ両国の唯一の共通点。それが第一次世界大戦期に失った領土回復を希求する強い思いであった。その思いだけが両国に偽りの契りを結ばせた。英仏両国はベルサイユ体制の破綻を意味するロシアの領土回復要求を認めるわけにはいかない。ロシアとの交渉決裂は自然の成り行きだった。決裂と同時にヒトラーとスターリンが握手した。チェンバレンのポーランド独立保障宣言がヨーロッパ外交にもたらした当然の帰結だった。(略)

釈明史観の史書では、独ソ不可侵条約締結後、直ちにポーランド侵攻(九月一日)が始まったと書く。しかし実際はより複雑な交渉が続いていた。ドイツは不可侵条約締結後も、ポーランドとダンツィヒ・ポーランド回廊問題を外交交渉で決着させる努力を続けていたのである。フーバーは次のように書いている(A章)。

(P100-)


・カイロ・テヘラン会談(一)第一回カイロ会議 P167-171

P170 朝鮮について、フーバー大統領は第3部「ケーススタディ」の中で詳細に分析している。その冒頭で次のように書いている(第3部第3編「序」)。
私(フーバー)が初めてこの国(朝鮮)を訪れたのは一九〇九年のことである。日本の資本家に依頼され、技術者として助言するためであった。当時の朝鮮の状況には心が痛んだ。人々は栄養不足だった。身に着けるものも少なく、家屋も家具も粗末だった。衛生状態も悪く、汚穢が国全体を覆っていた。悪路ばかりで、通信手段もほとんどなく、教育施設もなかった。山にほとんど木がなかった。盗賊が跋扈し、秩序はなかった。

日本の支配による三五年間で、朝鮮の生活は革命的に改善した(revolutionized)。日本はまず最も重要な、秩序を持ち込んだ。港湾施設、鉄道、通信施設、公共施設そして民家も改良された。衛生状況もよくなり、農業もよりよい耕作方法が導入された。北部朝鮮には大型の肥料工場が建設され、その結果、人々の食糧事情はそれなりのレベルに到達した。日本は、禿山に植林した。教育を一般に広げ、国民の技能を上げた。汚れた衣服はしだいに明るい色の清潔なものに替わっていった。

朝鮮人は、日本人に比較すれば、管理能力や経営の能力は劣っていた。このことが理由か、あるいはもっと別な理由があったのか確かでないが、経済や政治の上級ポストは日本人が占めた。一九四八年、ようやく自治政府ができた。しかし朝鮮人はその準備がほとんどできていなかった。
P171 現在の日韓関係はきわめて剣呑である。事実に基づかない、いわゆる「朝鮮人慰安婦強制連行」という韓国の主張は、両国の関係をけっして明るいものにはしない。日本政府がどれほど韓国に宥和的な外交を展開しても、日本国民は拒否反応を示す。韓国が、事実でないことを主張し、それを海外でのプロパガンダ工作に使うことを許さない。

多くの日本人は、韓国の嘘を知っているはずのアメリカが、彼らの活動をなぜ容認するのか訝しむ。その起源は「カイロ宣言の嘘」にある。アメリカが、ルーズベルト外交は正しいとし、修正主義歴史観を頭から否定する釈明史観に拘泥しつづけるかぎり、日韓の和解はない。その意味で、日韓両国はともに不幸である。釈明史観に基づく歴史観は罪深いのである。

第二次世界大戦への道
1933.01.04 ヒトラー・パーペン秘密会談
 参照→『アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか』(P34tw)
1934.01.26 ドイツ・ポーランド不可侵条約(『ロマノフ家の黄金』P48
1936.11.25 日独防共協定
1936.12.12 西安事件(『重光・東郷とその時代』相互参照)
1937.07.07 盧溝橋事件→支那事変(日中戦争)の始まり(『上海エイレーネー』相参,『血戦長空』相参)
1937.10.05 ルーズベルトの隔離演説(『石油の世紀(上)』P518
1937.11.06 日独伊三国防共協定
1937.11.19 ヒトラー・ハリファックス会談
1938.09.29 ミュンヘン協定
1939.03.31 チェンバレンの世紀の愚策、ポーランドの独立保障宣言
1939.05半ば ノモンハン事件、日ソの戦い勃発
1939.07.26 日米通商航海条約廃棄通告
1939.08.23 独ソ不可侵条約
 →『赤い盾』2.6 ロスチャイルド家の反撃(P369)
 →『重光・東郷とその時代』(P280)
1939.09.01 独、ポーランド侵攻 英仏、対独宣戦布告(相互参照)
 →『赤い盾』P363(チェンバレンとは、1939.09.01 ドイツポーランド侵攻)
 →『ウェルカムトゥパールハーバー』(小説)参照
1939.11   米、中立法改正、武器輸出許可制で可能に
日米関係詳細年表(1940年)(リンク
1940.01.26 日米通商航海条約失効
1940.05.10 独、ベネルクス三国に侵攻
1940.05.半ば 独、フランス侵攻
1940.06.14 独、パリ無血入城 06.22休戦協定
1940.07.22 米内内閣(1940.01.16~)崩壊
 参照→『重光・東郷とその時代』(P298)
 参照→『鮎川義介と経済的国際主義』(P219)
1940.07 米、英国に無制限援助
1940.09.27 日独伊三国同盟
1940.11.06 フランクリン・ルーズベルト、アメリカ大統領に三選。

1941.03.11 米、武器貸与法 英、中、ソなどに支援可能となる
1941.04.13 日ソ中立条約
1941.06.22 独、ソ連侵攻
1941.07.09 米、ルーズベルト、戦争計画作成指令(『第二次大戦に勝者なし(上)』P61)
1941.07.23 日、南部仏印進駐米通達(『鮎川義介と経済的国際主義』P225)
1941.07.26 米、在米日本資産凍結
1941.07.28 日、南部仏印進駐
1941.08.09-12 大西洋会談、チャーチル、ルーズベルト→大西洋憲章
1941.10.03 米、日米首脳会談は行わないとの回答、支那大陸、仏印からの撤兵、三国同盟からの離脱を要求
1941.10.17 東条内閣誕生
1943.12.01 カイロ宣言
1943.11.28-12.01 テヘラン会談
1944.02.04-11 ヤルタ会談


■偏愛メモ 『鮎川義介と経済的国際主義』 ・ディロンリード投資銀行とオライアン訪日団 P204-P221 https://ghoti-ethansblog.blogspot.com/2018/05/blog-post_31.html