2018年5月30日水曜日

偏愛メモ『誰が第二次世界大戦を起こしたのか--フーバー大統領『裏切られた自由』を読み解く』(随時更新)

1938年(開戦前年)の分析 P54-62

P62 ロイドジョージの訪問に続いたのがハリファックス卿である。ベルリンの国際スポーツ博覧会への出席に併せて、彼もベルヒテスガーデンまで足を延ばしてヒトラーと会談している(1937年11月19日)。ハリファックス卿は、ベルサイユ条約によるオーストラリア、チェコスロバキアおよびダンツィヒに関わる線引きの変更については反対しない、と伝えた。ただし、それを平和的な手段で行うことが条件であった。ハリファックス卿の考えはイギリス政府の考えを示すものであることは、彼が翌38年2月に外務大臣(チェンバレン内閣)に登用されたことからも明らかだった。ヒトラーは、ハリファックス卿の訪問をことのほか喜んだ。

チェンバレンの世紀の愚策、ポーランドの独立保障 1939.03.31 P89-P94

P89 フーバーは『裏切られた自由』19章(第1部第4編)でヒトラーのポーランド侵攻を深く考察している。ヒトラー・ハリファックス会談(1936年11月19日)で、ハリファックス卿は、ベルサイユ条約におけるオーストリア、チェコスロバキアおよびダンツィヒに関わる線引きの変更については反対しない、ただしそれを平和的手段でおこなうことと書いた(二章62頁)。ヒトラーは、明らかに、ベルサイユ体制の歪みの矯正をハリファックス卿の言葉に沿って進めていた。フーバーも書いてるように、オーストリア、チェコスロバキアに関わる国境の線引き変更まで、一人の戦死者も出していない。(中略)

当時のヨーロッパ諸国の指導者にとって、ヒトラーの次なる狙いはダンツィヒとポーランド回廊問題の解決になることはわかりきっていた。したがって、チェコ解体がどれほどチェンバレン首相の気分を害したとしても、ヒトラーとポーランドの二国間交渉を注意深く見守るのが英国の外交であろうと思われていた。しかし1939年3月31日、チェンバレン首相は次のような唐突な発言をした(第19章)。

P90 <私はいま議会に次のように報告しなくてはなりません。ポーランドの独立を脅かす行動があり、ポーランド政府が抵抗せざるを得ないと決めた時に、我がイギリス政府には、ポーランド政府を全面的に支援する義務があります。ポーランド政府にはそのように伝えてあります。フランス政府も同様の立場であることを付言しておきます。同政府は、私がこの場でこのようには発言することを承認しています。>

これは英国のポーランド独立保障宣言だった。この発言にはだれもが驚いた。フーバーもその一人だった。先にフーバーがチェンバレン首相との会談(1938年3月22日)の備忘録を残していたことを書いた。その中で、ヒトラーは東に向かい、スターリンとの衝突になるというフーバーの考えにチェンバレンが同意していたことが記されていた。ところが、右記のチェンバレン首相の議会発言はその考えを180度変えたものだった。

チェンバレンの演説の愚かさは、常識があるものにはすぐにわかった。演説を聞いていた議員の一人J・G・ブースビーは、「我が国最悪の狂気の沙汰だ」と憤った。ロイド・ジョージは、あまりの馬鹿らしさに笑い出すほどで、「もし我が軍の将軍たちがこれを承認していたとすれば、彼らはすべて気が違っている」とまで述べた。要するにチェンバレンの議会演説は、イギリスが戦争するしかないかの判断をポーランドに預けてしまったことを意味したのである。

P91 イギリスに続いてフランスも同様の独立保障を行った。これによってポーランドは強気になった。フーバーの驚きも尋常ではなかった。その思いは次のように表現されている(「編者序文)。

<ヒトラーが東進したければさせるというのがこれまでの考え方だったはずではないか。現実的に英仏両国がヒトラーのポーランド侵攻を止められるはずがない。これではロシアに向かうスチーム・ローラー(ドイツ軍)の前に、潰してくださいと自ら身を投げるようなものではないか。>

この視点はフーバーの歴史観(歴史修正主義)の核である。戦後の釈明史観の歴史書は、この世紀の愚策を意図的に書かない。そして同時代人の誰もが歓喜したミュンヘン協定をチェンバレンの愚策(過度の対ドイツ宥和政策)として描く。チェンバレンのポーランド独立保障宣言という世紀の愚策以前に愚策があったことにしたいからである。そうすれば「真の意味での愚策」から目を逸らすことができるからである。

フーバーは、なぜチェンバレンがこれほどの方針転換をしたのか理解できなかった。(略)

P92 実際にルーズベルトかがケネディ駐英大使を通じてチェンバレンに圧力をかけたことが確かめられた。それは戦いが始まった後(一九三九年九月一日以降)のことである。ケネディ大使は、一九四〇年十月には大使を辞め帰国した。ケネディはフーバーの住むニューヨークのアストリア・タワーをよく訪れ、意見交換する仲になった。フーバーはケネディ前大使に当時のことを聞いている(第19章)。
ジョセフ・P・ケネディは私に、「(本省から)チェンバレンの肩を押せ」と指示があったことを明らかにしてくれた。>
フーバーはケネディの大使の言葉を、ジェイムズ・フォレスタルの日記を使って補強している(同前)。(略)

P93 今度はウィリアム・ブリット駐仏大使が、ルーズベルトの意を受けて、ポーランドに対独強硬策を取らせた。そうすることで、ダンツィヒ・ポーランド回廊問題を、ヒトラーとの外交交渉によって解決する道を閉ざしたのである。ブリット駐仏大使の工作については、後にポーランドに侵攻したドイツが、これを裏付けるポーランド政府の文書を押収し、公開した。しかし、FDR政権はこれを偽書だとして否定した。この点についてハミルトン・フィッシュ下院議員は次のように書いている(『ルーズベルトの開戦責任』)。
(略)
フーバーは、チェンバレンに「世紀の愚策(ポーランド独立保障宣言)」をとらせたのはルーズベルトだとして次のように結論付けている(第19章)。
ルーズベルト氏はポーランドに対しても、ダンツィヒ問題ではドイツとの交渉を拒否し強硬姿勢をとるよう圧力をかけた。ポーランドの頑なな姿勢は、ルーズベルト政権の意向の反映であった。
参考『赤い盾』(チェンバレンとは、1939.09.01 ドイツポーランド侵攻)
参考『ウェルカムトゥパールハーバー』(小説)

バーゲニング・パワーを得たスターリンと外交的袋小路に入ったチェンバレン P95-P103


カイロ・テヘラン会談(一)第一回カイロ会議 P167-171

P170 朝鮮について、フーバー大統領は第3部「ケーススタディ」の中で詳細に分析している。その冒頭で次のように書いている(第3部第3編「序」)。
私(フーバー)が初めてこの国(朝鮮)を訪れたのは一九〇九年のことである。日本の資本家に依頼され、技術者として助言するためであった。当時の朝鮮の状況には心が痛んだ。人々は栄養不足だった。身に着けるものも少なく、家屋も家具も粗末だった。衛生状態も悪く、汚穢が国全体を覆っていた。悪路ばかりで、通信手段もほとんどなく、教育施設もなかった。山にほとんど木がなかった。盗賊が跋扈し、秩序はなかった。

日本の支配による三五年間で、朝鮮の生活は革命的に改善した(revolutionized)。日本はまず最も重要な、秩序を持ち込んだ。港湾施設、鉄道、通信施設、公共施設そして民家も改良された。衛生状況もよくなり、農業もよりよい耕作方法が導入された。北部朝鮮には大型の肥料工場が建設され、その結果、人々の食糧事情はそれなりのレベルに到達した。日本は、禿山に植林した。教育を一般に広げ、国民の技能を上げた。汚れた衣服はしだいに明るい色の清潔なものに替わっていった。

朝鮮人は、日本人に比較すれば、管理能力や経営の能力は劣っていた。このことが理由か、あるいはもっと別な理由があったのか確かでないが、経済や政治の上級ポストは日本人が占めた。一九四八年、ようやく自治政府ができた。しかし朝鮮人はその準備がほとんどできていなかった。
P171 現在の日韓関係はきわめて剣呑である。事実に基づかない、いわゆる「朝鮮人慰安婦強制連行」という韓国の主張は、両国の関係をけっして明るいものにはしない。日本政府がどれほど韓国に宥和的な外交を展開しても、日本国民は拒否反応を示す。韓国が、事実でないことを主張し、それを海外でのプロパガンダ工作に使うことを許さない。

多くの日本人は、韓国の嘘を知っているはずのアメリカが、彼らの活動をなぜ容認するのか訝しむ。その起源は「カイロ宣言の嘘」にある。アメリカが、ルーズベルト外交は正しいとし、修正主義歴史観を頭から否定する釈明史観に拘泥しつづけるかぎり、日韓の和解はない。その意味で、日韓両国はともに不幸である。釈明史観に基づく歴史観は罪深いのである。

■偏愛メモ 
1936.11.25 日独防共協定
1936.12.12 西安事件 →国共合作 1937.07.07 盧溝橋事件→支那事変(日中戦争)の始まり
1937.10.05 ローズベルトの隔離演説
1937.11.06 日独伊三国防共協定
1937.11.19 ヒトラー・ハリファックス会談
1938.09.29 ミュンヘン協定
1939.03.31 チェンバレンの世紀の愚策、ポーランドの独立保障宣言
1939.05半ば ノモンハン事件、日ソの戦い勃発
1939.07.26 日米通商航海条約廃棄通告
1939.08.23 独ソ不可侵条約
 →参照『赤い盾』
 →参照『重光・東郷とその時代』
1939.09.01 独、ポーランド侵攻 英仏、対独宣戦布告
1939.11   米、中立法改正、武器輸出許可制で可能に
日米関係詳細年表(1940年)(リンク
1940.01.26 日米通商航海条約失効
1940.05.10 独、ベネルクス三国に侵攻
1940.05.半ば 独、フランス侵攻
1940.06.14 独、パリ無血入城 06.22休戦協定
1940.07.22 米内内閣(1940.01.16~)崩壊
 →参照『重光・東郷とその時代』
 →参照『鮎川義介と経済的国際主義』
1940.07 米、英国に無制限援助
1940.09.27 日独伊三国同盟
1940.11.06 フランクリン・ルーズベルト、アメリカ大統領に三選。

1941.03.11 米、武器貸与法 英、中、ソなどに支援可能となる
1941.04.13 日ソ中立条約
1941.06.22 独、ソ連侵攻
1941.07.26 米、在米日本資産凍結
1941.08.09-12 大西洋会談、チャーチル、ローズヴェルト→大西洋憲章
1941.10.03 米、日米首脳会談は行わないとの回答、支那大陸、仏印からの撤兵、三国同盟からの離脱を要求
1941.10.17 東条内閣誕生
 

■偏愛メモ 『鮎川義介と経済的国際主義』 ・ディロンリード投資銀行とオライアン訪日団 P204-P221 https://ghoti-ethansblog.blogspot.com/2018/05/blog-post_31.html

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