2022年7月13日水曜日

偏愛メモ 『鮎川義介と経済的国際主義』第1章 経済的国際主義 P10-29

第一章 経済的国際主義 一九三七年以前の鮎川とアメリカの産業への関心 P10-29


はじめに

P10 鮎川義介は、一八八〇年一一月六日、長州藩士鮎川弥八の長男として現在の山口市に生まれた。彼の母親仲子は、明治の元老井上馨の姪であった。姉スミは、後に三菱合資総理事となった木村久寿弥太の妻である。

弥八の残りの五人の娘たち(義介の妹たち)も財界人や経営者として活躍した人々と結婚していた。弥八の二女キヨは、関西の財閥藤田組の創業者藤田伝三郎の甥であった久原房之助と結婚していた(一九四一年離婚)。(略、妹たちの嫁ぎ先が記される)

また、弥八の二男(義介の弟)政輔は、藤田伝三郎の息子小太郎の養子であった。最後に、義介の妻の美代は、高島屋の創業一族飯田家の飯田藤二郎(高島屋会長)の娘であった。(略)

 参考→藤田組・日産・日立コンツェルンの沿革図『日本近現代史入門』P298(url

1.1 日産コンツェルンの形成と外国資本 P11-14
鮎川は、外国資本と提携しながら満州の経済開発を推進する考えを、自身の国際経済活動を通じてもつようになっていた。このような、欧米資本と満州の経済活動を共同で行う考えは、日露戦争直後に日本が満州における経済権益を取得したときから存在していた。

日露戦争終結時、鮎川の親戚で明治の元老であった井上馨は、このような考えの持ち主であった。当時の桂太郎首相は、日露戦争の結果満州で日本が取得した南満州鉄道の経営を日米共同で行おうとする米国の鉄道王E・H・ハリマンの提案に応じたのであり、井上も桂首相の判断を支持したのであった。

(略、小村寿太郎の反対で桂・ハリマン仮合意はご破算)

鮎川は、一九〇七年二月、一年の米国研修を終えて帰国、八幡製鉄所の近くに戸畑鋳物株式会社を設立した。鮎川は、当時の米国で鋳物に関する当時世界最先端の技法を二つの会社で学んだ。(略)

P12 一九一八年、中国での日米中の三カ国の資本による鉄鋼生産の合弁会社の立ち上げを、鮎川の義弟であった久原房之助が進めようとした。久原は、第一次世界大戦で巨万の富を手中に収めた久原財閥という、久原鉱業や日立製作所などを傘下に収めたコンツェルンの総帥であった(tw)。

(略、久原と鮎川の事業失敗による関係悪化などが記される)

しかし、その一〇年後の一九二八年三月、鮎川は自身が経営する戸畑鋳物株式会社と、久原が総帥であった久原財閥を合併させることになる。この合併に伴い日産財閥が誕生するのである。この経緯について、以下確認しておこう。大正天皇が崩御したのは、一九二六年一二月二五日、クリスマスの日であった。この日の夜、政友会田中儀一は鮎川を訪問し、久原鉱業が次期株主総会で支払いに必要な配当金の確保を嘆願してきたのであった。

田中は久原鉱業の経営難打開のため、三井財閥の大番頭団琢磨、三井銀行の池田成彬、第一銀行頭取佐々木勇之助に緊急金融支援を懇願したが、いずれからも断られた。田中義一は、長年久原から多額の政治資金を受け取っていた。田中は、鮎川に、久原鉱業倒産の場合、自身が首相になる可能性は断たれ、政友会の将来そのものが危ぶまれると説いたのであった。政友会の結成と発展には、伊藤博文が中心的役割を果たしていたが、伊藤の盟友であった井上馨も重要な役割を果たしていた。

(略、鮎川の閨閥を通じて久原鉱業支援を進めた)

久原は田中義一のもとで政治的野心を現わそうとする野心があり、特に田中内閣発足時に外相になることを希望していた。鮎川はこうした久原の政治的野心を支えており、例えば久原の、朝鮮半島、満州、シベリアを領域とする中立的緩衝国家を建設する構想に賛同していた。(略)

久原が一九三七年に政友会総裁に就任すると、鮎川と彼の親戚たちは、「借金王」久原が個人破綻しないよう、資金的救済措置を一九三八年に実行していた。こうした支援で久原は経済的・政治的生命を保ち、一九四〇年政党を清算し大政翼賛会発足を実現させることに成功した。

(略、持ち株会社日本産業は厳しい経済環境(昭和恐慌、世界大恐慌)にいた)

P14 一九三一年九月、満州における関東軍の謀略で始まった満州事変を経て、日本経済が他の先進国に比べいち早く恐慌から脱出した後、事態が好転した。日産財閥の飛躍の出発点は、犬養内閣が浜口内閣以来の政策であった金本位制復帰を覆して、日本を金本位制から離脱させたときであった。金本位制離脱の前日、鮎川は犬養内閣の蔵相高橋是清を訪ね、金の価格は、金の生産量と正比例の関係にあるとする持論を展開する報告書を提示した。すると、高橋はその場で部下をよび、鮎川の政策提言を実施するよう指示したのであった。

日本が金本位制を離脱した後、金の価格は上昇し、当時日本帝国内で金の生産量が一位であった鮎川率いる日本鉱業(久原鉱業の後身)は、自社株の半分を市場に売却し、巨万の富を入れた。満州事変後の日本の株式市場は活況を呈していたが、そのようななか、日産の株は、日本鉱業株と同様に人気が出て、株価は上昇した。日産財閥は日産グループの株価にプレミアムがつく形で市場へ売り、その利益で、鮎川が久原財閥を引き受けた直後に日本を襲い始めた経済恐慌で経営破綻に直面した企業を次々と買収していったのであった。

こうして日産財閥は、短期間でその規模が三井財閥と三菱財閥という日本の二大財閥に匹敵する規模を誇るようになった。しかも、これら旧財閥と比べて、重化学工業関係の基盤が強かった。このなかで特に飛躍したのが、日産自動車であった。同社は好況とそれを反映した株式市場に支えられて、大規模な投資を行うことができ、創業三年で黒字化したのであった。このような日産財閥の産業面での特徴に目をつけたのが、当時満州における工業化を日本経済界と連携しながら行うよう見直しを検討していた日本の軍部であった。

1.2 GM・フォードとの提携交渉 P15-29
P15(略)鮎川は、戸畑鋳物時代、日本の軍部から補助金を受けて自動車を製造していた日本企業三社に部品を納入していた。また、それからまもなく米国の大手自動車会社二社のゼネラル・モーターズ株式会社(GM)とフォードにも部品を納入し始めていた。この二社は、一九二五年に日本市場に進出していた。
(略)
一九三六年、保護主義的な産業振興政策の一環として、商工省が自動車製造事業法を制定するまで、日本の自動車市場は、ほとんど米国自動車会社、なかでもフォードとGMに支配されていた。(略)

P16 鮎川は、自動車産業へ参入するにあたり、米国の技術、設備そして人材に依存していた。なかでも、ウィリアム・ゴーラムというキリスト教科学主義者で発明家の人物と鮎川の関係は、重要であった。(略)

一九二〇年代後半、鮎川とゴーラムは、安価な小型車の開発を始めた。一九三三年冬、鮎川は、ゴーラムを渡米させ、自動車開発に必要な機械類の購入と優秀な技術者の採用を行わせた。(略)ゴーラムは、大恐慌の最悪期の最中であった米国で、ハリー・マーシャルというフォード社の技術者、高い溶接技術を専門としていたジョージ・マザーウェルといった自動車関係の優秀な技術者の採用に成功した。

マザーウェルは、この後ドイツへわたり、ドイツの自動車会社オペルの溶接技術を高めた。日産自動車では、一九三〇年代の終わりごろまで一〇名以上の米国人技術者が働いていた。そして日産自動車が買い付けた機械類の八割ほどが、米国で購入した中古の製品であった。

鮎川の戸畑鋳物は、トラックを主としに製造していたダット自動車製造の大株主で、同社の経営支配権を持っており、戸畑鋳物自動車部がこの経営に対処していた。鮎川は一九三一年以来、ゴーラムと日本人の技術者に、小型車の開発をダット自動車製造の工場で手掛けさせていた。

そして一九三三年に、戸畑鋳物が保有していたダット自動車製造株を石川島自動車製作所へすべて売却したあとも、戸畑鋳物は、試作中のダット自動車製造の小型車ダットサンの製造権とダットサンを製造する大阪工場の所有権を維持していた。

同年三月、この工場でダットサンの第一号車が生産された。P17この段階で戸畑鋳物自動車部は自動車製造株式会社に改組され、翌年同社が日産自動車に改名された。

一九三五年四月、日産の横浜工場でダットサンが生産された。同工場は、日本フォード社の工場に隣接していた。ダットサンの売れ行きは好調で、米国車と比べて小型のダットサンの売れ行きは、一九三八年に政府がトラック製造に原材料を優先的に配分する政策を実施していいなければ、さらに伸びていたであろう。

このダットサンの売上増加の背後には、商工省と陸軍省が小型車に行おうとしていた規制を止めさせた鮎川と、石川島自動車社長渋沢正雄(渋沢栄一の息子)ら三人の経営者の努力があった。

当時商工省は、小型車の基準をダットサンのような五○○CC排気筒の小型エンジンを保有しているものではなく、一〇〇〇CC以上の排気筒で、しかもダットサンより大きな幅と長さであるという内容に改定することを検討していた。

こうした商工省と陸軍省の動きについて鮎川に警鐘を鳴らしたのが部下の吉崎良造であった。吉崎は、もし小型車の定義が政府により変更となった場合、ダットサンは小型車の条件を満たさなくなり、ダットサンに替わって英国オースティン社の小型車が日本市場へ大規模に進出することになると、指摘したのであった。

小型車の基準が現状のままとなったことで、オースティン社の小型車は日本進出の機会を奪われ、このことを日産に抗議したのであった。

鮎川は、国内小型車市場で日産が主導権を維持する一方、米国大手二社が支配する大衆車製造への進出を目論んだ。その手法として彼が選択したのがこの二社のいずれかとの提携であり、それが一番早道であると判断していた。

日本陸軍が米国資本の自動車会社に敵対心を示すようになったのは、一九三四年になってからのことであるが、その二年前、鮎川とゴーラムは、日本フォード社との提携を試みた。

鮎川はほかの米国大手二社との提携にはこの時点では関心がなかった。日産は、日本フォード社の株式の少なくとも五〇パーセントを取得しようとしたが、フォード社は日産との提携そのものに関心を示めさなかった。

また、仮に提携交渉を開始したとしても、日産が日本フォード株式取得で許される割合は四九パーセントまでであった。

こうして、鮎川は日産とGMの提携に関心を抱くようになった。GMは、米国内で二〇社以上が合併して創立された企業で、P18海外でも進出先の地元の自動車産業と合弁会社を設立したり、GM現地法人と地元自動車産業とを合併させたりすることに、フォード車と比べて積極的であった。

鮎川がGMの日本現地法人と話しあいを行い始めた時期、GMは、陸軍省が補助金で支援していた三つの日本の自動車会社(東京瓦斯電気、石川島、ダット)と提携していくことができないか商工省に相談していたところであった。

このことを知った鮎川は、日本GMの責任者(managing director)であったR・A・メイに日産との提携を進言した。鮎川はメイに、陸軍省は該当三社とGMの提携に反対するであろうと述べたのであった。

一九三四年四月ニ六日、日産と日本GMが提携することで合意し、ゆくゆくは、日産が日本GMの経営支配権を持つこととなった。商工省で鮎川が進めた提携話に好意的であったのは、次官の吉野信次と工務局長竹内可吉であった。しかし、前述の三社に軍用トラックを製造させ始めていた陸軍省は反対であった。

陸軍省は、一九三三年二月満州で展開した熱河作戦において、兵員移動や運搬手段のほとんどを鉄道ではなく軍用トラックに依存する事態を初めて経験した。

この作戦で陸軍省は、国産トラックを十分に調達できず、フォード製のトラックを大量に使用せざるをえなかった。ここで判明したことは、米国製トラックのほうが軽くて、速くて、壊れにくいという性能のよさであった。

この経験によって陸軍省は、国産トラックがこのフォードやGM並の性能になるよう産業政策を推進するべきであると考え、一九三四年一月に入ってから、これを実現できないか商工省に相談していたのである。

陸軍省内では、陸軍のトラック性能の短期間での向上を、フォードとGMのトラックを大量に買い付けることで実現できると論じる者がいたが、これは少数意見であった。

同省内の多数派の見解は、動員課の伊藤久雄大尉が一九三五年九月に作成した報告書に反映されていた。米国製自動車が日本の大衆車の九割を支配している状況下で、日本の自動車産業を育成していくためには、政府が自動車製造を許可制にするべきであると論じたのであった。

伊藤大尉は、日産とGMの合併は、日本自動車産業界の死滅をもたらすと論じ、両者の提携話に横槍を入れるよう進言した。陸軍省はそのように動いた。

P19伊藤大尉は、日産が小型車市場で躍進中であったことは承知していたが、保護主義政策を実施したほうが、日本の安全保障と経済に貢献すると考えていた。

経済については、国産車の発展と、日本の貿易収支が赤字のなかで、貴重な外貨の支払いを抑制できる点で貢献すると考えており、また安全保障の面での貢献は、陸軍が中国における戦争を戦う上で大量に必要としていた軍用トラックを大量生産できる日本の自動車産業育成を、保護主義政策で効果的に実現できると考えていた。

伊藤は、自動車産業の育成は、自動車が必要とする多くの重工業の製品開発と発展にもつながり、また、有事の際、自動車工場は簡単に飛行機製造の工場に転用できることを第一次世界大戦は教訓として残している、と論じたのであった。

陸軍省内で自動車産業を保護主義により育成していくことが議論されていたころ、満州では、同和自動車工業が、満洲国と関東軍により一九三四年一月に設立された。

同社は、当時南満洲鉄道会社のなかで、GMが組み立て工場を設立しようとしていた動きを封じ込めるために設立されたといっても過言ではない。陸軍省は、このようなGM工場誘致は、日本の安全保障の利益を損なうと判断していた。

同和自動車工業は、当初、前述の陸軍省から補助金を受けていた自動車会社三社の自動車を組み立てる予定であったが、それは実現しなかった。後述するように、鮎川が一九三七年以降フォードとの提携交渉を進めるなかで、同和がフォード製の自動車を組み立てる構想が進められた。

しかし結局、同和自動車工業は、一九四二年、鮎川率いる満洲重工業傘下の満洲自動車により買収され、終戦まで、日産自動車の組み立て工場として機能するに留まった。

伊藤大尉は、商工省の内部にあって、陸軍省内で自身が代表するような見解に同調する人物に注目した。一九三四年四月に同省工務局長に就任した岸信介であった。岸の部下で産業課長小金義照は、陸軍士官学校で伊藤の同期であった。

岸は、この件について陸軍省と話しあうなかで、日本の企業と外資系の合弁について、吉野次官と同様、日本と米国の自動車産業との間には大きな技術面での開きがあると認識しており、両者は、日本の自動車産業が急速に米国自動車産業に追いつくために、米国自動車技術を日本の自動車産業へ導入する必要性を痛感していた。

P20しかしながら、岸は、その一方で、日本の重化学工業で当時国際競争力があったのは造船と機関車製造のみで、日本の重化学工業のさらなる発展のためには、自動車や化学肥料といった産業に規制を施する必要性があることも強く認識していた。

岸と小金は、一九三四年六月以降、陸軍省と連携しながら、日本の自動車産業を規制していく政策について、商工省と陸軍省との間で合意形成を行いはじめた。

六月二三日、陸軍省は日本の自動車産業育成にかんする政策提言書をまとめ、これについて何回か商工省と話し合った。この話し合いを受けて、商工省は、七月一八日政策提言書を陸軍省に提出した。

両省の提言は次の点で一致していた。
①自動車産業育成のための税制面での優遇措置、
②自動車産業への参入を政府による認可制度のもとに置く、
③自動車産業育成に必要な外国製の機械類に対する輸入関税を引き下げる、
④輸入自動車部品に対して関税率の引き上げる、
⑤大衆車とそれが必要とする主要部品を大量生産する自動車生産の新工場を建設し、
⑥既存の自動車会社は、この新工場向けの部品の供給とそれを行うために必要な投資を行う。
陸軍省は、満洲で創立した同和自動車のような新たな自動車会社を日本に設立することに前向きであったが、商工省はこの点については触れなかった。両省は、供給過剰となるような事態は回避するべきであるとはっきり認識していた。

両省は、自動車産業のあり方について、このあと、資源庁、海軍省、鉄道省、大蔵省、内務省、外務省とともに会議を行った。これを経て、一〇月九日、これら省庁を横断した政策ができた。

これは、自動車産業とそれを支える重要な自動車部品について、政府の許可制度のもとに置くことを唱え、認可された自動車会社に対する税制面での優遇、補助金の支給、低金利融資を行うことを論じていた。

このような政策案が政府内でまとめられるなか、自動車産業の代表者たちは、この政策についての見解を求められた。伊藤大尉の回想によると、自動車産業の代表者たちは、補助金意外にはほとんど関心を示さなかったようである。

こうした政府内の動きは、当然日産と日本GMの提携交渉にも影響を与えた。一九三四年秋、商工省は、この提携交渉において、日産がただちに日本GMの過半数支配を得ることを要求したのであった。

日本GMは、商工省の要求に応じ、日産へ日本GMの株式の五一パーセント売却を許した。このことと他の条件にかんする修正加筆を行い、両者は合意に達した。しかし、日産がこの株式取得に必要な八〇〇万円相当のドルを送金しようとした際、外国為替管理法がこれを許さなかったのである。

外為法は、日本の貿易収支の悪化に対処するため、外貨の支払いに厳しい制限を加えていたのであった。このため、しびれを切らしたニューヨークのGM海外交渉部は、一九三五年一月二日、この提携交渉を打ち切ると日産に通告した。

ただし、GM側は将来交渉再開の余地を残すことも伝えてきたので、鮎川は、日本で商業用の自動車産業を育成するもっとも経済的で速い手法として、GMとの合併によることが最良であると力説したのであった。

この時点で、鮎川は、商工省と陸軍省が鮎川のこのような外資との提携構想に横槍を入れるとは想定していなかった。

伊藤大尉の戦後の回想によれば、鮎川は、自動車産業育成にあたり、国内での供給過剰を解消する狙いから自動車産業を政府の許認可制度のもとに置くことには賛成であった。

しかし、鮎川は、外資系排除には反対であり、他方で、政府からの助成金を必要とは考えなかったのである。

日本の自動車産業育成政策をめぐって、一九三五年には、外資との提携による手法を主張する政策決定者たちと、これに反対する外資排除の政策決定者たちとの間で激しい対立が生じた。

この対立の発端は、日本フォード社による新工場建設用地の横浜市からの買い取り計画であった。日本フォード社は、横浜市で、組み立て工場ではなく、日本での車を部品から作る用意があった。

日本フォード社長ベンジャミン・コップは、日本国内におけるフォード車に対する旺盛な需要は今後さらに強まると見ていた。これに対して、二月に、陸軍次官柳川平助は、横浜市長を呼び出し、用地売却の中止を求めた。

横浜市による日本フォードへの用地売却の拒否に直面したコップ社長は、日本国内で強まっていた外資系自動車会社会社排除の動きが保護主義政策に明確に転じる前に、フォード社の最新の工場を稼働させたいと考えていた。

P22そこで、四月、彼は、浅野財閥の有力者浅野良三と浅野財閥保有の横浜の用地買い取りについて交渉を始めた。商工省は当初、両者の交渉を静観していたが、陸軍省の伊藤大尉は、岸と小金に用地売却の中止を求めた。

五月二〇日、商工省は、浅野財閥と日本フォード社との間で用地買収にかんする合意文書が交わされることに反対を表明した。しかし、コップと浅野は交渉を継続し、七月二五日、両者は合意文書を交わした。一〇月、フォード本社が工場着工への承認を日本フォードへに与えた。

当時岸信介局長の部下であった宮田応義は、戦後この時期を振り返り、政府内、特に陸軍が、新工場建設に断固反対する措置をとり、外資系自動車会社排除の動きを強めたと述べている。

ただし、陸軍省と商工省の関係者の間では、外資排除の度合いに温度差が存在していた。前者は日系を外資より優遇することを論じていたのに対して、後者は、日系・外資の合弁と日系を平等に扱うべきであるという傾向であった。

両省間で行われた議論は七月一二日政策提案に集約された。これは、他の省庁からの反応を得て、八月九日、自動車工業法要綱(自動車製造事業法にかんする要綱)として閣議で承認された。

このタイミングは、コップと浅野との間で土地売却の合意が成立した直後であった。自動車工業法要綱は、外資系を必ずしも排除する内容ではなかった。というのも既存の日本国内の自動車会社は、日系であれ外資であれ、現行の生産量を上限に生産活動を行えたからであった。

問題は、もしも生産量をさらに拡大したい場合、それができるのは、日本政府による許可を得ている会社に限られていたことである。そして、この許認可審査の対象となれる会社は、少なくとも日本国籍の者または日系企業が経営権の過半数を支配する会社としていた。

このように外資系の自動車生産量拡大の余地は残したが、外資参入の場合は、日本企業との合弁方式のみによりそれが可能となっていた。しかもその場合、その合弁会社の経営支配権の過半数は日本勢でなければならないとしたのであった。

自動車工業法案は、日本国内の自動車産業を産業政策と国防政策に立脚した新たな規制の対象に入れることし、商工省と陸軍省は、税制面での優遇措置といった、日本国内の自動車産業の育成にかんする方法について今後協議することとしたのであった。

P23要綱が閣議決定されたことは、要綱の意図が外資系自動車会社の日本市場における拡大を抑え込むという保護主義的な政策であったという特徴に加えて、この要綱が、一九三六年五月に制定された自動車製造事業法に発展したという点で、重要な節目であった。

この要綱では、一九三四年に制定された石油業法と同様、保護主義的な政策を正当化する論旨として、国防を法制定の理由に挙げていた。

自動車製造事業法の制定過程で、外務省通商局長来栖三郎は、この法案が日米通商航海条約に違反すると論じていた。しかし、商工省の小金に賛同していた同局通商課長松嶋鹿夫は、法案制定にあたり国防を理由にすべきアイデアを小金に与えていた。

一九三三年一二月に米国政府内では、対日経済制裁は、同条約を破棄しない限り、同条約に違反すると結論づけていたが、日本は、一九三四年石油業法と自動車製造事業法という同条約に違反する法律を可決していった。

こうした状況に直面していた日本フォード社であったが、日本政府が一九三五年八月九日に自動車工業法要綱を発表すると、これが法律になる前に新工場の完成を目指すべく、同年一〇月、新工場建設に着手することにした。

フォードのライバル会社GMは、こうした事態を手をこまねいて見ていたわけではなかった。同年夏、GM本社は、鮎川と日産との提携を模索する代表団を日本へ送り込んだ。

鮎川は、米国ニューヨークのGM海外事業部へ外貨を送金しない方法による日産自動車と日本GMとの提携を提案した。

すなわち、日産と日本GMとの株式の交換であった。この交渉をGM側で担当したのが、B・H・フィリップスと日本GMの責任者メイ、そして二人のGM社員であった。彼らは東京で、商工省の事務次官吉野信次、岸信介および小金と九月、一〇月に会談した。また、鮎川と側近の岸本勘太郎も、これらGM幹部と会談を行った。

九月二一日、岸は鮎川に日産自動車と日本GMの統合について、四つの要請を記したメモを渡し、これを日本GMの総責任者メイに見せるよう伝えた。内容は以下の通りである。
第一、この統合により、GMは日本の自動車工業育成という国策に忠実に従うこと。
第二に、この統合により、日産と日本GMは、国内の自動車流通にかんする規制に従うこと。
第三に、統合会社の運営について、それにかんする両社の合意文書には、統合会社の自動車製造部門を、日産の役員会の管轄下に置き、一方、生産された自動車の流通にかんする流通部門を、日本GMの役員の管轄下に置くことを明記する。
最後に、統合に基づく合弁会社は、自動車とその生産に必要な部品の大量生産を、できるだけ早く政府の規制の下で、開始する。
吉野信次事務次官は、日産と日本GMの合弁会社設立に深い理解を示していた。彼の回想談では、鮎川とGMのフィリップスが秘密裏に交渉を行うため、吉野は、自宅を交渉の場として提供したに過ぎず、その場には居合わせてはいないと述べている。

しかし、当時この交渉に居合わせた岸本が、会談中筆記したと思われるメモによると、吉野は、交渉の場に居合わせていた。しかも、吉野は、両者の統合のメリットを強調したのであった。

吉野は、陸軍省が、日本の自動車会社による自動車産業育成に固執していることを暗に批判した。たしかにダットサンの生産を日産が成功させたことは、日本の自動車産業を日本企業のみで育成できる可能性を示しているのかもしれない、と吉野は陸軍省の自動車政策関係者にも同感を表明した。

しかし、吉野はこのことを、鮎川-フィリップス会談時に述べたさい、GMと日産による合弁会社設立のほうが、日本の自動車産業をより短期間で、より早く成長させることのできる、より望ましい手法であると、強調したのであった。

この点吉野は、鮎川の考えに共感していた。しかも吉野は、鮎川と同様、フォードとGMは、日本経済の発展に大きく貢献しており、日本の自動車工業が国際競争力をつけたからといってこれら米国二社を追い出すつもりはないと論じた。

吉野は、鮎川とフィリップスに、商工省が極端な国産主義を戒めており、国際協調を維持する重要性を理解している、と自身の見解を披露していた。

フィリップスは、こうした吉野の見解を聞いた上で、日産と日本GMの合弁会社は、ほかの日系自動車会社と同等に扱われるのかと吉野に質問したところ、商工省事務次官は、その通りであると断言したのであった。

一〇月二〇日、日産とGMは、両社の合併にかんする基本文書に合意した。これにもとづき両社は、合弁会社設立の詳細について合意形成を開始した。鮎川は、合弁会社設立にかんする合意文書作成を一一月二〇日までに実現させようとしていた。

P25しかしながら、交渉は再び暗礁に乗り上げる。一九三六年一月二四日の覚書によると、組織形態、生産方法、輸入対象となる自動車部品などで双方に見解の相違が生じたのであった。

さらに、もっとも深刻な問題は、収益についてであった。GM側は、日本の国策と統制経済政策が、合弁会社の収益を犠牲にしてまで自動車生産の拡充を迫ることを警戒した。

これに対して日産側は、平時でない状況下では、利益の最大化を生産拡充に従属させることはやむをえないと主張したのであった。

一九三五年一二月、日産自動車の幹部であった浅原篤次郎は、鮎川の命令で、ニューヨーク市のGM海外事業部を訪問し、暗礁に乗り上げた両社の交渉についてのGM側の最終見解を尋ねに行った。

GMは、日本における日産との合弁会社設立が、GMがドイツでたどった運命と同じ結果になることを懸念し、交渉を断念することを日産から派遣された二人に伝えた。

GMは、ドイツでオペル社との合弁会社の工場が、ドイツ政府により国有化されてしまったことを根拠に、日産との合弁会社もそのような結果になると判断した。ただ、GMは、将来の交渉再開の可能性には含みを残し、浅原と久保田を厚遇した。

GMは、彼らが視察を希望していたGM北米工場のすべての見学を許し、また欧州におけるGMの工場も気前よく見せたのだった。

日産は、GMとの交渉が物別れに終わったことで、副案を実行し始めた。日本政府の庇護のもと、外資系に頼らない形で自動車生産を最先端のものに育てていく姿勢に転じていった。

一九三六年五月ニ九日、自動車製造事業法が制定された。日産と株式会社豊田自動織機製作所自動車部(一九三七年以降同部はトヨタ自動車工業株式会社となる)のみが政府の許可のもと生産を拡充できることとなった。

日産と豊田は、自動車製造事業法により認可された会社となることで、政府から両社の資本金の半分を得て、五年間課税と輸入関税が免除された。この法律により、フォードとGMは、日本市場から締め出されることとなった。

この法律は、政府が特定の企業に金融や税制面で、国防を理由に優遇措置を講じることを可能にしたものであった。戦前の商工省と戦後の通産省の研究を行ったチャーマーズ・ジョンソンは、自動車製造事業法は、この時期の政府による他の産業政策と比べて、

P26企業が私有財産権と経営権を維持しながら、政府の産業政策に同調していったという点で、戦後の産業政策の原点であると論じている。

日本フォード社の新工場建設の動きは、陸軍により徹底的な干渉を受けた。鮎川がGMとの交渉の際、憲兵により干渉を受けたのと同様に、日本フォード社は、憲兵と特高から嫌がらせを受けた。

また、自動車製造事業法制定の直前、商工省は日本フォード社による新工場の建設着手を行政手続面で中断させた。

自動車製造事業法が制定されたとはいえ、最先端の、国際競争力のある自動車会社に発展していくために、米国自動車工業界の技術が必要不可欠であることに変わりはなかった。

鮎川率いる日産は、米国の大手ガラス製造会社リビー・オーウェン社の社長ジョン・ビガーズの斡旋で、倒産した米国大手自動車会社グラハム・ページ社の技術と設備を大量に買い付けることに成功した。以下、その経緯について説明簡単に確認しておこう。

ビガーズは、一九三六年に来日したが、その目的は、彼の会社の生産方式を利用していた住友財閥系の日本板硝子が何故リビー社より高い生産性を達成しているのかについて、調査することであった。

滞在中、偶然二・二六事件が起きたため、日本で足止めとなったが、滞在が延びたおかげで、ビガーズは、住友家を介して大蔵大臣石渡荘太郎と会談する機会ができた。

会談中、石渡は、自動車生産のための設備用機械の購入を斡旋できるような米国自動車会社はないか尋ねた。リビー・オーウェンス社の大株主に自動車会社グラハム・ページ社のジョセフ・グラハムがいたので、ビガーズは、グラハム・ページ社なら紹介できると答えた。

当時、グラハムの会社は倒産寸前で、会社の資産を急いで売却する必要に迫られていた。

この情報を入手した鮎川は、さっそく海外出張中の浅原(欧州)にグラハム・ページ社へ急行するよう指示した。同社の工場へ到着した浅原と久保田は、ただちに日産の横浜工場を近代化する上で不可欠な工場設備や機械を射一挙に買い付けた。

こうした購入に加えて、グラハム・ページ社の子会社が保有していた、鋳物工場の建設に必要な機材も輸入した。グラハムは、浅原と久保田に、日産がグラハム・ページ社の生産設備で、キャップ・オーバーのトラックの生産において、GMとフォードとの競争に勝つことで、グラハムの無念をはらして欲しいと述べた。

P27こうして日本に持ち帰られたグラハム・ページ社の生産設備は、同社の技術者の指導のもと、日産の横浜工場の生産設備に生まれ変わった。

この工場では、グラハム・ページ社の技術者による技術指導を受けながら、鋳物工場も完成を見た。一九三七年五月、この新工場は、最初の日産八〇型トラックと日産九〇型バスを生産した。

鮎川は、日産が自動車製造事業法の許可会社になることを確実にすべく、後に日産グループの重役となる衆議院議員の朝倉毎人に、商工大臣小川郷太郎に働きかけるよう要請を行った。

朝倉は小川の友人で、小川に産業政策についてさまざまな助言を行ってきた関係であった。

一九三六年八月一九日、日産自動車の重役山本惣二は朝倉を呼び、日産自動車、自動車工業株式会社(ダット自動車製造と石川島自動車製作所との合弁で設立)と自動車会社であった東京瓦斯電気工業による三社合併の仲介を依頼した。

鮎川には、日産が許可会社になることをより確実にするために、政府が、自動車業界が過当競争に陥ることを憂慮していたことに対して、政府にアピールする狙いもあった。

九月一九日、政府は、日産と豊田を許可会社に指名した。鮎川は、引き続き三社による合併について朝倉に裏面工作を行なわせた。一一月三日、小川商工相は、朝倉に三社合併の指示を与えたが、この話は決裂した。翌年、日産を除いた二社は合併し、東京自動車工業株式会社になった。

法律の専門家であった小川商工相は、自動車製造事業法の内容を問題視していた。一九三五年八月九日の自動車工業法案要綱閣議決定時の各自動車会社の生産レベルが遡及的に各社に適用され、許可会社となった日産と豊田以外の自動車会社は、この生産レベルが上限となっていたからである。

フォードやGMは、許可会社にならなかった他の日系自動車会社と同様、日本国内で生産を拡大できな状況となった。

小川商工相は、岸をはじめとする、商工省内の自動車製造事業法制定推進者たちの影響力を取り除く人事を断行した。まず、一九三六年一〇月の人事異動で、小金は、九州へ転勤になった。

吉野事務次官は、小川の意図を察知して、辞任することにし、五年間の事務次官時代に終止符をうった。吉野は、一九三六年五月に設立された国策機関関東北興業総裁に就任した。

P28この組織は、吉野の出身地域であった東北地方の開発を行うこととなっていた。吉野は、彼の経済参謀役であった松井春大が推進した、東北地方におけるアルミニウム、マンガン、アルコールなどの生産活動を、国防と地域経済開発の観点から支持した。

鮎川と同様、吉野は、米国経済における事例を組織運営に取り入れようとしていた。鮎川が米国の自動車会社の生産方式や技術に注目していたのに対して、吉野は、ニューディール政策の申し子であった。

TVA(テネシー川流域開発公社)の手法を手本としていた。同公社は、テネシー川流域の低開発地域の経済発展のため、農村地域の電化を進めるための水力発電所と送電網の設置や拡充を行い、それらを利用することで、肥料工場などの工業化を流域にもたらす総合的な経済開発を進めていた。

吉野は、このような成果を、東北興業による総合経済開発計画jにもとづいて実現しようと考えていた。しかしながら、吉野の構想を内務省は認めなかった。吉野は、東北興業の責任者には、昭和肥料や昭和電工を経営する新興財閥の創業者森矗昶のような人物がふさわしいと唱えるようになった。

森は、同庁の長官には就任しなかったが、昭和電工は、東北興業の計画の一環として、福島県にアルミニウム工場を建設することとなった。

岸は、小川商工相に工務局長の座から追われる形で、満洲国の工業化に携わるべく渡満し、満洲国実業部(翌年産業部に改称)次長に就任した。現地の関東軍と日本の陸軍省は、岸の人事異動を歓迎した。

関東軍の片倉衷は、一年ほど前から岸の渡満を懇請していたが、これが実現した。片倉と秋永月三は、一九三〇年に浜口内閣が金本位制に復帰した際、岸が一九二七年の欧米視察後に商工省へ提出していた米国とドイツの産業合理化運動にかんする報告書に注目していた。

実業部が産業部に改称された一九三七年七月、岸は、満洲国の商業、産業、農業の諸政策を実行する権限を手中に収めた。産業部次長は、日本では事務次官に相当するポストであったが、大臣職であった部長は中国人であったことから、岸は、満洲国総務長官星野直樹に次ぐ権力者となった(なお、もちろん、彼らをしのぐ影の権力者は、関東軍第四課をはじめとする関東軍であった)

P29岸は、渡満する一年前、部下であった椎名悦三郎をはじめとする商工官僚を送り込んでいた。そして岸は現地に到着すると、関東軍の板垣征四郎に、満洲国の工業化にかんするすべての権限を自身に委譲することを要請し、板垣はこれに同意した。

しかし就任してまもなく、岸は満洲の経済開発は財界人に任せるべきであると判断した。彼は自身がこれを推進する能力に限界を感じていた。そこで、岸や石原莞爾が注目するようになったのが、鮎川義介であった。

 →『鮎川義介と経済的国際主義』第2章 満洲重工業の設立と満洲への米国資本導入構想に(進む