2023年2月23日木曜日

偏愛メモ ガー・アルペロビッツ著『原爆投下決断の内幕(下)』

上巻序章P17より
上巻→原爆使用の決定についてこれまでわかったこと(そして、謎のままになっていること)を包み隠さず集めてお伝えする。
下巻→大半のアメリカ人が今なお信じていることが、なぜ違っているのかを微細に検討する。

下巻

2 神話

P8その晩、我々が夕食のために集まった士官室は水を打ったように静かだった。原爆を落とさなくても敵が降伏し和平を求めてくるであろうことは、皆わかっていた。広島を無用に破壊することを思い、あたりには悲壮な雰囲気が漂っていた。ついに、仕官の一人が沈黙を破った。彼はひとこと言った。「なぜだ?」

戦争が終わり、故郷に帰ってこの話をすると、人々はまったく信じられないと言いたげに私のほうを見た。誰も彼も、広島長崎への原爆投下は終結させるために不可欠であったというマスコミや政府の発表をすっかり信じこんでいるようだった。  ---元海軍従軍牧師、ウィラード・H・リーヴス『広島回想』
序論
こんなにも多くの人々が、こんなにも重要な事実を、半世紀が過ぎようとする今なお、気づかないとは、どういうことだろうか?

むろんある意味では、すべてが手にとるように明白であった。原爆が投下され、戦争は終わった。八月十四日、合衆国大統領は表明した。「私は本日午後、日本国政府から次のような知らせを受けとった…

私はこの回答は日本の無条件降伏を明記するポツダム宣言が全面的に受理されたものであると考える。回答にはいかなる条件も加えられていなかった」

議論の余地などないではないか?

そしてなにより、若者たちが故郷に帰ってきた。何百万という若い男女が胸を躍らせた。原爆が彼らの命を救ったのだ、と。

「…私たちは安堵と喜びのあまり泣いた…これで大人になるまで生き延びられるのだと」ポール・ファシルはのちにこう書いた。別の者は、また次のように言った。

「その知らせを聞いたとき、私は泣かなかった。ただ喜びに酔いしれていた…もし日本上陸に参加していたら…それがわが身の運の尽きだったろうと今でも確信している」

さらにおそらく五〇〇〇万人のアメリカ人も---軍務に服した人々の父や母や妻や子や兄弟姉妹たちも---愛する人が生命の危機から救われたということを<知って>いたであろう。

これに叔母や叔父、従兄弟や祖父母や友人たちも加えれば、事実上アメリカ社会に属するすべての人は、

P10親しい誰かがこの驚異的な新兵器のおかげで命を救われたと、あるいは救われたのかもしれないと思ったにちがいない。

ある文化のなかで、一見してかくも自明な見解が、かくも強力に伝播されたことは、歴史的に見ても非常にめずらしい。そしてもちろん、これらのアメリカ人の子孫たちは、この出来事の記憶と<知識>を次世代に伝え、現代に至っているのである。

原爆の使用が必要だったとする考えがかなりの長きにわたって受け継がれつづけたとしても、それはきわめて自然ななりゆきであろう---これは、アメリカ国民にこの結論を納得させるために繰り広げられてきた努力とはまったく別物なのである。

しかしその一方で、もしアメリカ人の大多数が広島での出来事について教え込まれてきたことが、単なる偶然の産物にすぎないとしたら、それは驚くべきことではないだろうか。

第一部 ヘンリー・L・スティムソン P12-127


 …この熟慮のうえの計画的な破壊は、我々の選択肢のなかでは最も嫌悪感の少ないものだった…。
                    一九四七年、前陸軍長官、ヘンリー・L・スティムソン

2.35 ソ連への直接アプローチ
P12
…原爆とは…古い概念に当てはめるにはあまりにも革命的で危険な自然の力を、人類の手によって新たに支配しようとする第一歩のように思えるのです

     一九四五年九月十一日、ヘンリー・l・スティムソン陸軍長官よりハリー・s・トルーマン大統領へ
一九四五年八月に行われた世論調査では、驚くべきことに八五パーセントものアメリカ人が原爆の使用を是認している。その新兵器がいかに破壊的なものであるにせよ日本は当然の報いを得たのだと、多くのアメリカ国民は確信していた。

例を挙げれば、アメリカの新聞の社説は、ほとんど口をそろえて原爆投下に称賛をおくった。ある調査によれば、原爆の使用に異議を唱えていたのは調査された五九五紙の社説のうちわずかに一・七パーセントだった。

「ニューヨーク・タイムズ」紙は簡潔にこうまとめている。
「我らが敵のもつ冷酷さと背信行為が、我々がもたらしうる最大の攻撃を招いたのだ」
また「アトランタ・コンスティテューション」紙の社説は次のようなものだった。
仮に原爆がパールハーバーの裏切りや、日本の死の行進[原文のまま]の身の毛のよだつような残虐行為や、

P13飢えて汚物にまみれ呆然自失の状態で日本軍の捕虜収容所から出てきたアメリカ人捕虜たちの証言がなかったならば、我々も原爆の影響を受けた日本の人々を気の毒に思ったかもしれない。
マイケル・ヤヴェンディッティの考察によれば、当初のラジオ報道は、
「広島の軍事的価値を強調したり、日本がポツダム宣言により十分な警告を与えられていたと述べたり、聴取者に日本の残虐行為を思いおこさせたり、あるいは日本はハーグ条約に調印していないのでその戦争法における権利を行使できないと主張することなどによって、原爆の使用を絶対的かつ明確に正当化していた」
そのような見解は主流的な思潮のみにとどまらなかった。「アメリカの左翼」のあいだの原爆投下に対する反応を調査したポール・ボーラーは次のように述べている。
「『ネイション』、『ニュー・リパブリック』、および『PM』が、広島と長崎の原爆投下を支持したと言えば、それは控えめに過ぎるだろう。これら三つの刊行物はこぞって最初から原爆投下は必要で望ましいものだと決めてかかっていた」
八月九日、リベラルそのものの新聞「PM」の編集局長ジョン・P・ルイスはこう書いている。
「どうせ原爆を投下するなら、東京にも数個落とせばいい。あそこならば皇室一家に対し打率を上げる見込みも出てくるし、戦後の民主主義のために走者一掃することもできようというものだ」
多くの肯定的な意見のなかにはまた、人種差別的要素が歴然と見て取れる。ジョンダ・ワーの著作『人種偏見』には、
第二次大戦中、日本人は合衆国民とはるかに異なった民族であり、人間以下であるというイメージをアメリカ人がどのように作り上げ、受け入れていったか
が記されている。たとえば空軍が日本の各都市に低空焼夷弾爆撃を加えはじめたのと同じ月、合衆国海兵隊月報「レザーネック」に、つり目で出っ歯※の虫の漫画が掲載された。タイトルは「ラウシアス・ジャパニカス[シラミ目ニホンジン]」。※「ティファニーで朝食を」に登場する日本人字幕解説版(tw)

P14漫画の解説にはこう書かれていた。
このシラミの最初の大発生は正式には一九四一年十二月七日に…海兵隊に報告され…海兵隊はこれを駆除するという膨大な任務を負わされた。…しかし完璧な解決策が生み出される前にまず、この発生源である東京周辺の繁殖地を壊滅させなければならない。
事実、かなりのアメリカ大衆は、日本民族撲滅を支持するという極端な考えを表明していた。一九四四年十二月のギャラップ世論調査では回答者の一三パーセントが日本人を一人残らず根絶することに賛同していたのである。

トルーマン大統領に対する私的で、多少限られた感のある影響の中身がどのようなものであったにせよ、ヘンリー・L・スティムソン陸軍長官は、世間一般に原発の製造および使用と結びつけられているアメリカの高官の中でもはるかに傑出した存在である。

そればかりでなく、スティムソンこそがその決定を世に伝えるスポークスマンであった。

原爆投下に対する世論の反応を考えれば、原子爆弾製造に公式に責任を担う男が、当初は、その使用に伴う非難についてほとんど心配していなかったことも、驚くにあたらない。当初スティムソンは別の---原爆がらみではあるがまったく違った種類の---問題で頭がいっぱいだったのである。

一九四五年の晩夏から初秋にかけて、ヘンリー・L・スティムソンが頭を悩ませていた政治的あるいは道義的問題となったのは何だったのか。

われわれはそのすべてを知っているわけではない。しかし、スティムソンの日記を見れば、彼がいくつかの問題について考えを変えはじめていることは明らかである。

アディロンダックにあるスティムソンの別荘を原爆投下直後の数週間に二度ほど訪れていたジョン・J・マクロイ陸軍次官補はのちに、このときのスティムソンとの会話は、勝利についての、あるいは軍拡競争の危険についての「長く苦しい考察」を伴うものだったと回想している。

陸軍長官スティムソンは何にもまして、ジェームズ・F・バーンズ国務長官のこの新兵器に対する姿勢について懸念していた。

広島への原爆投下の直後、バーンズにあったときのことをマクロイは次のようにスティムソンに報告していた。国務長官は「

16/ 18/ 20/ 22/ 24/ 26
2.36 かすかなる批判の気配 P29-45
P28/ 30/ 32/ 34/ 36/ 38/ 40
P42
P43二ーバーの返事は次のようなものだった。
「我々が申し上げたかったのは、もしも我が国がこの破壊的兵器についての事実を公表していたなら、もしあらかじめ非住居地域で日本に対する公開実験を行い、降伏しない場合にはこれを使用すると威嚇していたなら、我が国の倫理的立場は、より強固なものになっていただろうということです」

(二ーバーはさらに、こう付け加えている。「…全般的に見て我が国は正しいことをした、
P44 つまり今回の場合暴政を打ち負かしたとはいえ、罪を否認する傾向があまりにも広く受け入れられすぎているように、わたしには思えるのです。

私が罪の告白として、その報告書に署名することに決めたのは、特に、キリスト教徒としての立場から、歴史上では正しいとされるすべての人々にも、倫理的あいまいさがある(相互参照)と認めることが大事だと考えたからです…」一九四六年三月十二日、ラインホルド・二ーバーからジェームズ・B・コナントへの手紙。連邦議会図書館二ーバー資料、ボックス3)
(略)
2.37「単なる事実の詳説」 P46-62
P46/ 48/ 50/ 52/ 54/ 56/ 58/ 60/ 62
2.38「正確な記述」 P63-86
P62
P64 一九四七年に「ハーパーズ」誌に掲載された記事が絶大な権威を得たのは、そこに署名されていたのがスティムソンの名のみだったという簡潔な理由に由来する。マクジョージ・バンディが原作者であること、さらには他の人々、特にコナントのかかわりは、世間一般には知られない運命にあった。

スティムソンのような人格と名声を得た人間に真偽をただすことを思うと、一九四七年の時点では多くのライターが躊躇した。今日にいたるもそれは変わっていない。

さらにまた、スティムソンはむろん共和党所属だ。トルーマンが自らの党から非難されるとは考えにくく、当初は降伏の原則に変更を加えることを促していた共和党の指導者も、同じ党の世に名だたる老齢の政治家を攻撃するはずもなかった。

「アーミー・ネイビー・ジャーナル」の発行者ジョン・オロクリンに宛てた書簡で、ハーバート・フーバー元大統領は「原爆が使用され、女、子供が無差別に殺戮されたことに、心の底から嫌悪を覚える」と明言している。

しかし、オフレコの声明では原爆投下の決定を批判しつづけながらも、公の席ではほとんど何も言わなかった。

(随時更新)

P66/ 68/ 70/ 72/ 74
P76 しかしながら、「ハーパーズ」の記事によってもたらされた根強い事実の混乱の最たるものは、もう一つの選択肢を選んだ場合、合衆国だけでも「一00万人の犠牲者」を出すことが見込まれたから原爆が使用されたのだという考え方だ。これは今でも広く一般に浸透している。この推定値は一度ならず二度も、記事中に示されている。

スティムソンはもし原爆が使用されなかったら「短く見積もっても一九四六年の後半まで本格的な戦闘が続いていただろう。このような作戦により、米軍だけでも一〇〇万人以上の犠牲者がであろうとの報告を受けている」。

この「一〇〇万人以上」という主張は、この神話の欠くことのできない源泉となっており、過去五〇年間にわたり、ほとんど疑問視されることなく繰り返されてきた。今日の研究により、この見積もりにはこの時期に書かれた文書によるしっかりとした根拠が一つもないことが示されている。

また現在入手可能な証拠から見て、当時スティムソンがこの論文で明るみに出した「一〇〇万人」の見積もりとは大幅に異なった数値を個人的に知らされていたことは明らかである。

P77一九八〇年代中頃には二人の研究者が、この犠牲者「一〇〇万人以上」という見積もりを特に対象としたきわめて精密な調査を行っている。

例えば、ルーファス・E・マイルズ・ジュニアによる一九八五年の研究は、「二個の原爆によって未然に防ぐことができたアメリカ側の死亡者数は、二万人以下であったことはほぼ間違いない。おそらくはこれよりもかなり少なかっただろうし、場合によってはゼロであったかもしれない」という結論だった。

ほぼ同時期にバートン・バーンスティンがより細かく示したところでは、十一月の九州上陸による死者は、仮に、これが実際行われ、しかも最後まで中断されることなく続いたとして、最大で約二万人となっている。発見されているあらゆる作戦計画書のなかで最大の見積もりは、一九四五年の上陸作戦と一九四六年の侵攻作戦が行われたと仮定した場合、死者四万人から四万六〇〇〇人というものだった。

それだけではない、七月九日、統合参謀本部の計画者が、マーシャルの六月十八日の重要な結論とこれらの数値を再確認しているのである。計画者らは、

(随時更新)

P78/ 80/ 82/ 84/
1.39「われわれは記録に従った」 P87-108
P86/ 88
P90グルーは「ハーパーズ」の記事のことで「かなり怒っていた」いた、とグルーの親しい友人は日記に記している。一九四七年二月十二日、グルーはスティムソンに手紙を書き、「ハーパーズ」の論文では天皇の問題についても一九四五年にそれに関して二人で話し合った多くのことについても、実質的な論議がまったくされていないという事実を追求した。
歴史的に重要な問題は何かといえば、もし一九四五年五月、我が国のB-29が東京を恐ろしいまでに荒らしつくした直後に、日本国民が望むなら降伏は現在の皇室の排除を意味しないと、大統領が明確な公式声明を出していたら、日本降伏は早められたか否かということではないでしょうか。

・・・これは私自身や他の者たちが、当時も今も感じていることですが、もし皇室に関してそのような明確な声明が一九四五年五月に出されていたら、{日本}政府内の降伏を望む分子が、それを適切な論拠とし、さらに早朝の潔い決断に至るため必要な推進力としていた利用していた可能性もじゅうぶんあるのです。
言わんとしているところは明確だった。グルーはそれを疑いの余地のない言葉で明快に述べていた。
もしも降伏が一九四五年五月に実現していたとしたら、あるいはそれが六月か七月になったとしても、ソ連の参戦と原爆投下の前だったなら、世界にとって得るところはもっと多かったでしょう。

・・・一九四五年の五月に日本国民がその維持を率直に望むなら日本は皇室を維持できるのだという明確な声明を、大統領が勧められたとおりに発表していたら、そもそも原爆はまったく使わP91れることがなかったかもしれない。私だけでなく、他の多くの者も、ずっとそう思いつづけることでしょう。
P91こうしたグルーの手紙は、五年後一九五二年に刊行された回顧録に収録された。当時発表されなかった部分も、一九五九年に閲覧が可能となり、なぜグルーがわざわざスティムソンに手紙を書いたのかが明るみに出た。今もなお、この外交官のどこか堅苦しい言葉から、スティムソンのしたことへの静かなる不満、さらには憤りがひしひしと伝わってくる。
アメリカ国民にとって貴下はほとんど類稀なる存在でであり、それゆえ貴下の声明はいかなるものでも決定的な響きを持ち、歴史はその言葉どおりに形作られていくのです。歴史とは必然的に、現在の注釈のモザイクによって築かれるものです。貴下も同じ考えだと思いますが、私はこう信じています。完全な絵を描きだすには、すべての断片がなければいけない。歴史的に重要な意味をもつ貴下の「ハーパーズ・マガジン」の論には補稿を付けるべきです。
グルーの静かなる挑戦には、なんらかの反応があってしかるべきだった。しかし、スティムソンはこの元同僚からの通信を四ヶ月以上もそのままにしておいた。一九四七年六月十九日、ようやくスティムソンは、彼が評するところの「日本降伏に関する君の大変興味深い手紙」に返事を書いた。スティムソンが説明した問題の本質とは次のようなものだった。
あの「ハーパーズ」の記事は、君が立派にもあれほど早期に推し進めんとしていた方針が実際よりもっと早くに打ち出され、ポツダムの最後通牒よりもより明確な言葉で表現されていたらどういうことになっていたかなどということについて議論をするにふさわしい場であるとは思えなかった。私自身の見解は、君もよく知ってのとおり、なにからなにまでぴったり君と一致するものだった。

P92唯一の些細な例外と言えば、一九四五年五月、天皇について公式にはっきりした声明を出すにはまだ機が熟していないのではないかと思えたことだ。今にして思えば、あの時期問題だったのは、我が国の沖縄上陸作戦で日本軍相手に相当てこずりつつあったため、我々のなかに、いかなる正式な譲歩でも見せようものなら、弱気の証拠と受け取られかねないと恐れるものが出始めたことだった。
彼の見解が「なにからなにまでぴったり君と一致する・・・」と認めたスティムソンの言葉は、意味深長である。グルーほど親しい同僚であれば、二人とも明らかな真実とわかっていることに気づかぬはずはなかった。しかしながら、スティムソンが「唯一の些細な例外」として思い出した「タイミング」については、スティムソンの日記や少なくとも二つの首脳会議の議事録をはじめ、多くの文書と(特にスティムソン自身の当時の意見と)矛盾している。

これまで見てきたように、降伏条件の明確化に最初に遅れが生じたのは、沖縄戦のせいではなく、明確化するための声明と、七月の中頃まで実験が行われなかった原爆との兼ね合いを図っていたからである。スティムソンの一九四五年五月二十九日の日記には次のように記されている。
私のところへ、国務長官代行のジョー・グルー、海軍のジム・フォレスタルと参謀総長のマーシャルと、それぞれの側近が集まっていた。・・・なんとも落ちつかない会議だった。というのも、全体の状況を決定することになる本題、つまりS-1のことを聞かせてはならない連中が出席していたからだ。

・・・私は彼(グルー)に、日本政府に無条件降伏の定義の変更を知らせることにはやぶさかではない、できればそういった言葉を使わずに彼らを実質上の無条件降伏へと導けないかと思っていると話した。そのうえで、タイミングがよくない、今はそうするときではないと思うと、私はグルーに言った。
P93確かに、遅れが出たもう一つの理由としては沖縄戦が絡んでいる(少なくとも、何人かの補佐官の思考のうえではそうだった)。しかしながら、沖縄上陸作戦についてのスティムソンの主張は控えめに言っても誤解を招くものだ。なにせ、その問題は五月にはまだ生じてもいなかった。沖縄上陸作戦の終結が宣言されたのは、六月二十二日なのである。仮にこれが問題になっていたとしたら、なぜこの時期にその説明が行われていないのだろう?

このような言い誤りは大目に見るとしても、特に、彼がこの直前に「ハーパーズ」の記事で発表していた内容を考えると、スティムソンのグルーに宛てた手紙は驚くべき自白だと言えよう。スティムソンは、論文から中心的な事実、すなわち当時陸軍長官として、グルーと同じく原爆を使うことよりも、それ以外で戦争を終結させる見込みが大きい手段のほうを個人的に支持していたという事実を排除したのだ、と認めているのに等しいからである。

確かに、七〇〇〇語にも及ぶ記事のなかで、スティムソンは一度だけ、自分の立場について触れている。しかしながら、全体的な論旨から考えれば、スティムソンはこれが論争の対象となり得ることすら示すつもりがなかったのである。スティムソンは代わりに、天皇の問題は来るべき回顧録のなかでじっくり論じるとグルーに約束した。

「大統領によってはっきりと承認されるまで、わたしと君が二人で支持していた方策の行く手にはあまりにも多くの困難が立ちはだかっていたが、そういった逆流については」回顧録執筆にあたって「若きバンディ君」とともに「かなりの詳細を明らかに」するつもりだ、とグルーに書いている。

P94 ある意味で、グルー宛てのこの手紙で最も啓示的なのは、スティムソンがなぜ真相を書かなかったのかという理由をかなり率直に説明している部分がある。
これは困難でかなり厄介な作業なのだ。なにせ、君も知ってのとおり、気は高ぶっていたし、向こう側には、もう少しものが分かっていてもよさそうなもんだと思われるような、ご立派な連中がいたからな。
右に引用した文にさりげなく挿入された言葉、「もう少しものがわかっていても・・・」というくだりは、ともすれば見過ごされてしまいそうである。しかしながらヘンリー・L・スティムソンの社会的評価と、原爆使用の擁護にあたって世論の機先を制した手並みの鮮やかさを思うと、この政治家がぽろりと漏らした本音に、思わず首を傾けたくもなる。

グルーに「なにからなにまで」賛成だったと言ったあとで、降伏条件を修正することで戦争を終わらせようと強調した二人をはばんだ者たちを「もうすこしものがわかっていてもよさそうなもんだ」と評するスティムソンの言葉は、まるで句読点のように、歴史の流れを区切っているかにみえる。

「ハーパーズ」の記事に衝撃を受けた事情通の穏健派外交官はグルーだけではなかった。スティムソンを良く知り、フーバー政権の国務長官時代に彼のすぐ下で働いていたウィリアム・R・キャッスルもこの記事に目を疑った一人である。この時期のキャッスルの日記には、公開を意図したものでなかっただけに、長々と引用するに足る興味深い記述が、二か所ほど見られる。
一九四七年一月二十六日、・・・スティムソンが日本への原爆使用は日本の降伏を引き出すために必要だったということを示す長い記事を書いたが、スティムソンの他の多くの記事同様、そこでは慎重な省略により真実が隠されている。たとえば、スティムソンは、この決定がなされる前に、日本が和平を求めていることをソ連からすでに聞いていたという事実を隠している。

少なくともその事実に触れていない。この記事はむしろ、本来功績のない部分で功績を認められようとし、さらに日本に原爆を落とす必要はなかったのだという非難に対して自己弁護しようとするなりふり構わぬ必死の試みのようにも思える・・・個人的には、歴史がその源で汚染されるのを見るのは好きではないが、これこそはその源なのである。

これまでにも原爆の使用が正当化できると思ったことはないが、状況について知れば知るほど、それが間違ったことなのだという確信がさらに強まってゆく。

一九四七年二月九日、私たち(ユージン・ドゥーマンとキャッスル)はスティムソンの原爆の記事とその中の様々な誤りについて話した・・・二つの印象的な事柄において、スティムソンが意図的に事実を曲げているのは明らかである。その二つとは、ポツダム宣言は自分が書いたかのように読者に思い込ませようとしている点と、日本が弱体化しつつあるということを示す兆候はなかったと述べている点である。

スティムソンは日本が和平を求め、その経済が破綻していたのを知っていた。また降伏はあと何日という時間の問題だと主張する海軍の報告もきいていたに違いない。
上巻にも記したとおり、キャッスルはまた、「スティムソンとマーシャルは日本の都市で原爆を試す機会が得られるまで、戦争を長びかせたかったのだろうか」と疑問を抱いていた。
この行為について考えれば考えるほど、それが残酷だというだけでなく、弁護の余地のないことのように思えてくる。私はジーン(ユージン・ドゥーマン)に、(ハーバード・)フーバーが切に彼と話したがっており、もしそのことが急を要するなら南から戻ってくると言っていたと伝えた。
P96他の高官や事情に精通していた内部のものがスティムソンの記事にどのような感想を持ったかは分っていない。戦略爆撃調査の準備に関わった者たちは、当時何を思い何と言っていたのだろう?入手可能な文書からはごくわずかなことしか分からないが、調査の指導的メンバーの一人であったポール・ニッツの意見の概要は知ることができる。

しばしば冷徹な筋金入りの武人と評されるニッツではあるが、彼の回顧録にはこう書かれている。「仮に広島と長崎への攻撃がなかったとしても、日本政府内の空気がどのようなものであったかを考えれば、アメリカ軍が日本本土へ侵攻しなければならなくなるような事態はまず起こりえなかったであろう」

スティムソンのグルーへの遅ればせの返事と、彼が二月四日にレイモンド・スウィングに書き送った返信を除いては、「ハーパーズ」の記事に対して送られてきた批判の手紙に、この元陸軍長官が返事を書いたという記録は残っていない(実際、スティムソン資料のなかには、批判的な手紙はごく少数しかなく、スティムソン論文に対し、あるいは原爆投下の決定に対して一般市民から寄せられた抗議の手紙はわずか四通である)。

しかしながら、この件全体についてのスティムソン自身の気持ちをわずかながら知る方法がある。「ハーパーズ」の論文は本来、スティムソンとバンディが回顧録のために行っていた作業から見れば妨げであった。

原爆投下の決定は明らかにここでも扱わねばならず、この扱いをどうするかという疑問は、一度と言わず(現在分かっている範囲では)少なくとも二度もちあがっている。最初は「ハーパーズ」の論文を引き受ける前、二度目はそれが発表されてからである。

P97 回顧録の題材として何を含めようかという決断に二人が実際に取りかかったとき、おそらくはグルーの言葉で、降伏条件の修正を求めた自分自身の奮闘を思い出し、恥ずかしくなったのだろう。スティムソンは論文で示した見解を変える決意をした。スティムソンの回顧録の最終原稿には、奇妙な告白が含まれていた。

バンディはスティムソンの許可のもと、(二人の共同作業から生まれたどこか堅苦しい三人称の言い回しで)次のように書いた。
一九四五年当時、スティムソンは、天皇の問題に関してのみ、今と相反する見解を抱いていた。つまりこの問題に関して、彼はのちにこう信じるようになったのである。歴史的に見れば、合衆国が天皇の地位について明示することが遅れたために、戦争を長びかせたことになるのかもしれない、と。
この言葉が「ハーパーズ」の記事が得たようなマスコミの反響を呼ぶことはなかったが、スティムソンはここで、彼やグルー、その他の人々が説いたとおり、早期に降伏の定義が変更されさえいれば、この戦争は原爆がなくてもおそらくは終わってゐただろうと認めているのである。しかし、述べられていることは、これだけにとどまらなかった。

スティムソンの見解では、条件の変更が遅れた主な原因は、原爆の実験を待ちたいと望んでいたからだということだった。すなわちスティムソンは基本的に、この新兵器自体が「戦争を長びかせる」ものであり、したがって命を救うというよりはかえって多くの犠牲者を生むものだったかもしれないと認めているのである。

マーティン・シャーウィンは、本当に言わんとしていることが何なのかを最初に読みとった研究者の一人だった。

スティムソンは依然として原爆は多くの命を救ったと主張し続けているものの、その事実に反し、

P98「他の提案を排除する決断も含めた原爆使用の決定が、戦争終結を遅らせたということは、かなり具体的な証拠により示されている」

とシャーウィンは述べた。

「ここで問題となる点は、もしトルーマンがグルーの(そしておそらくはスティムソンの)勧めを受け入れていたら、アメリカ兵や日本のあらゆる国民のより多くが、生き延びる機会を与えられたのではないかということである」

この回顧録を読み、ジョセフ・グルーは即座に、スティムソンはもう原爆の使用は戦争終結のために必要だったと紋切り型に主張し続ける気にはなれないのだと察した。「歴史的に見れば、合衆国が・・・戦争を長びかせたことになるのかもしれない」というスティムソンの告白は、見るべき人が見れば、いささか場違いにも思えるほどである。

グルーは元同僚のユージン・ドゥーマンに書いた手紙のなかで、一九四七年の「ハーパーズ」の記事と回顧録のこの一文との違いを指摘し、次のように書いている。
この告白に基づいて、今すぐとは言わないまでも、いつの日か、君もよくご存じの、私の一九四五年五月二十八日の大統領との会談記録と、一九四七年二月十二日付のスティムソンへの手紙、一九四七年六月十九日付の彼の返信が公開されることになるだろう。
  グルーは彼の手元にある文書資料の重要性を十分認識し、それがいずれ明るみに出ることを望んでいたのは明らかだが、冷戦時代の幕開けの風潮を表すかのように、彼もまた、この時期アメリカ国民の前に突きつけることがためらわれる情報を、伏せておこうと決めたのである。

回顧録(『平時も戦時も現役だった』というタイトルで、一九四八年出版された)に関しては、特に、「ソ連問題」についてのスティムソンの対応に関することや、手元にある不都合を生じかねない情報について彼がどのような行動をとる傾向にあるかなど、他にいくつか重要な側面がある。

原爆を外交上の武器にしようとしたバーンズの姿勢を批判することにスティムソンはあまり乗り気ではなかったが、その件で一九四六年七月九日、彼はバンディにこう言った。
「九月の自分の発言については伏せておく。九月の覚書ですら依然として極秘扱いだ。ジム・バーンズの問題を今ここで解明するのは得策とは思えない。その問題をどういう形で解決すべきだとか、ソ連をどう扱うべきだとか、あるいはソ連はどう出るだろうか、なんてことをこの私が予測するのは、いささか不適当じゃないかと思う」
(略)
P100/ 102/ 104/ 106
2.40 単に簡潔さのための省略 P109-
P108/ 110/ 112/ 114/ 116/ 118/ 120/ 122/ 124/ 126/ 128

第二部 ハリー・S・トルーマン大統領

2.41 ミズーリから来た男 P130-(tw)
P130 (トルーマンは)ジミー(ジェームズ)・スチュワートがアメリカ映画で演じた人物なのです。
                    ---『トルーマン』の著者、デービッド・マカロー

この調査プロジェクトを始めたときは、トルーマンは一般に言われているように南部の気さくな人柄で、今日の政治に欠けているすがすがしい誠実さを持った人物だと私も考えていた。
綿密な調査を終えた今、トルーマンは個人的にも政治的にも、うさんくさい取引に関わっていた大都市のプロの機関政治家だと私は考えている。
                    ---リチャード・ミラー著『トルーマン---権力への道』

どちらが真実のハリー・トルーマンなのかという問いは意味がない。両方ともハリー・トルーマンの真の姿だったのだ。
                   ---アロンゾ・ハンビー著『あるアメリカ民主党政治家』
一九八四年後半、トルーマン政権の年老いた「補佐役」二人、ジョン・J・マクロイとクラーク・M・クリフォードが、レーガン政権の国連大使ジーン・カークパトリック主催の昼食会で顔を合わせた。

その昼食会は故トルーマン大統領の生誕一〇〇年を祝うものだった。

P131マクロイは一九四五年以後、世界銀行総裁、ドイツ高等弁務官、フォード財団理事長、外交評議会会長という、そうそうたる役職を歴任した。ジョン・ケネス・ガルブレイスとリチャード・ロービアは、マクロイの不動の名声をアメリカ・エスタブリッシュメントの「会長」と評し、その表現がその後マクロイの代名詞となった。

一九四五年当時、クリフォードは大統領海軍補佐官にすぎなかったが、まもなく大統領特別顧問になり、さらに一九四八年の選挙ではトルーマン側の勝利に重要な役割を果たした。

その後クリフォードはワシントンの有力弁護士兼ロビイストとして活躍し、歴代大統領の友人として助言を与えてきた。ケネディーの個人弁護士を務めたばかりではなく、ベトナム戦争最盛期にはリンドン・B・ジョンソンに乞われて国防長官を務めた。

一九九〇年代にBCCI銀行スキャンダルでイメージを汚されるまではクリフォードももっとも高名で有力な長老の一人と目されていた。

昼食会の後、年老いた二人の友人は(当時マクロイは八一歳、クリフォードは七七歳)親しく語りあった。(略)主題は原子爆弾であった。

マクロイの覚書によると、一九四五年の六月中旬には日本は壊滅に近い状態であり、彼は「例の件を十分に考慮した上で」問題の一九四五年六月十八日のホワイトハウス軍事計画会議で次のように発言した。
戦争の政治的解決を図るにふさわしい時期であるという結論に達した…私は努力を始めるよう主張した。

P132 われわれが現在その秘密を手中にしている爆弾の絶大なる威力について日本に警告を発するべきだと私は確信していた。日本が完全降伏と武装解除を受け入れなければ、われわれはその爆弾を使用せざるを得ないという旨の警告である。

降伏に際して、天皇を戦争犯罪者とみなすことにはこだわらず、逆に民主的立憲君主制の指導者として天皇の地位を保障する用意があった。
この論争はクリフォードにとって快いものではなかった。さらにマクロイは成功が見込まれた理由と自信を覚書の中でたっぷりと述べている。
以上が完全降伏を達成し、双方のこれ以上の犠牲者増加を避け得ると私が確信していた方策の概略である。
この政治判断には、天皇の役割と、流血を終わらせるために日本国内の意見を喚起する必要性もあわせて考慮されていた。
経験豊かなグルー大使の話から、このような方策が日本で相当数を占めている信頼のおける中道派に支持されるであろうことを私は確信していた。グルー大使はしばしばそのような勢力について言及していた。
マクロイはスティムソン陸軍長官の個人的見解にも触れている。
原爆を日本に投下することなく和平を達成するこの手段に、スティムソン氏が好意を示すだろうという感触があった。実際スティムソン氏は、六月十八日の会議にこの件を提案して検討して欲しいと私に言った。
現在ある資料によると、マクロイはその後生涯を通じて、しばしば六月十八日の会議、とりわけ彼の提案に対するトルーマンの反応に繰り返し触れている。クリフォードに宛てた覚書はマクロイがインタビューやテレビ、執筆者、友人に対して行なった説明の要点を繰り返したものだ。だが、言わんとすることは誰にもあまり理解されなかったらしい。
トルーマン氏は提案に興味を示し、バーンズ氏と協議するよう私に指示した。この提案を代案として慎重に検討したいと考えているようだった。

だが、マクロイが会ってみると、バーンズは「提案はわれわれ側の弱点をさらしているととられかねないとして難色を示した」
マクロイはトルーマンに対する尊敬の念、とりわけあらゆる可能性を探る意欲に対する尊敬の念をクリフォードに語っている。けれども、
私はこの案を試してみようとすらしなかったことを後悔してきた。なぜなら天皇の地位保証が全く受けいれられなかったにせよ、われわれは何も失うものはなかったのだ。われわれの希望はただひとつ、原爆計画を実行することだったのだから。
マクロイは繰り返している。
前述の条件で天皇の地位の保証を提案していれば、完全降伏が実現されていただろうと私は確信している。
マクロイは公式の覚書が第三者に回覧されることを予想していたらしく、クリフォードに宛てた私信には覚書にない項目がいくつかある。大統領は第一に、
ジミー・バーンズは反対し、さらにはディーン・アチソン・マクリーシュといった有力かつ高名なリベラルもバーンズと同様の意見を示すだろうということを察知した。

彼はいわゆる強硬派に屈したのだ。
P134第二に、
そして原子爆弾を許可し、堂々とそのいっさいの責任を負った。
マクロイは真実を見抜いていたのだろうか。この重大な争点でトルーマンはバーンズに妥協したのだろうか?

合衆国第三三代大統領の心の動きを知ることはできない。だが、バーンズがトルーマンに強い影響を与えていたことはあきらかであり、現在残っている圧倒的な量の事実が示すように「屈した」というのは適切な表現なのかもしれない。

一方、トルーマンはソ連とのかけひきにおける核カードの使用法について独自の見解があった。また、ソ連軍が八月中旬に侵攻するという確認を得てからは、九州上陸を待たずに戦争が終結することも分かっていたはずだ。いわば大統領の口癖通り「仕事の最終責任は私にある」というわけだ。

またマクロイはトルーマンは決断を下したあと「堂々と」そのいっさいの責任を負った、と述べているが、その一方でトルーマン大統領は一九七二年に死去するまで、頑固なまでに一貫して決断を弁解しつづけたのも事実だ。

その一方で、苦悩、懐疑、地位保全といった奇妙な兆候も見られる---だからこそマクロイが選んだ「堂々と」という言葉には深い意味が込められているといえよう。

この言葉はトルーマンの断固たる姿勢は信念と性格からくるもので、事実はどうあれ原子爆弾の使用を弁護したということを言外に意味している。また、何万人もの非戦闘員の死を招いた決断にまつわる疑惑をもみ消したいと思っていたことも示唆している。

P135ミズーリ州インディペンデンス出身の素朴で実直で誠実な大統領、という多くのアメリカ人が尊敬するおきまりのトルーマン像の裏側に迫らなければ、生身の人間としてのハリー・トルーマンを理解することはできない。

また、原爆投下決定に関する彼の「堂々と」した弁解を理解するためには、トルーマンが広島神話創造に果たした役割を注意深く検討する必要がある。

ハリー・トルーマンについて考えるとき、アメリカ人は自分自身を問い直す必要に迫られる彼らはトルーマンは歴史上二人といない特別な存在であることを望んでいるからだ。

歴史家のアロンゾ・ハンビーが指摘しているように、アメリカはトルーマンを必要としているように見える。「巨大さ、官僚主義、非人格性に個人が埋没してしまった世代にとって、トルーマンは小さな共同体、誠実な関係、基本的な価値といった時代を象徴しているのだ」とハンビーは書いている。

アメリカ人にとってハリー・トルーマンとは、率直であることが評価され、絶対明白な悪に向かって正直な人間が正直に立ち向かっていた、よりよくシンプルな時代の象徴なのだ。

「政府上層部で誠実さと単純さが生きているという考えは大変魅力的だ…」と、別の歴史家ロバート・グリフィスは強調する。特に「過去数十年にわたって大統領をとりまいていた愛国心と虚偽に幻滅した時代には」

トルーマンと親しかったジャーナリストのトリス・コフィンは無遠慮にこう言ったことがある。「ハリー・S・トルーマンは偉大なアメリカン・ドリームなのだ。田舎の少年がほどほどによく働いて、友達をつくり、ひどいトラブルにも巻き込まれず、大人になって大統領になった。そういう単純な話だ」

P136/ 138/ 140/ 142/ 144/ 146/ 148
2.42 公式解釈の背景 P150-
P150/ 152/ 154/ 156/ 158/ 160/ 162
P164 六月二十一日、暫定委員会は当初の立場を修正して、原爆を「二元的な目標、すなわち軍事施設か軍需工場で、周囲を受けやすい住宅等の建物に囲まれているか隣接しているところに使用すること」と勧告した。

暫定委員会が最初に五月三十一日に出した勧告を二度(六月一日と六月二十一日)変更した理由は、議事録には残されていない。 おそらく、「重要な軍需工場」という条件は投下目標を市の中心部から動かさない限り、広島にあてはまらなかったからだろう。

しかし、先に見たように、暫定委員会は実際は意思決定の中枢ではなかったのだ。レオン・サイガルによれば「原爆投下目標を選定する行動系統は軍事政策委員会と目標都市選定委員会だった」という。

基本的には暫定委員会は「…科学畑の代表を加えて、すでに軍事系統で決定された原爆使用という選択を賛美するためのものだった」。

しかし、原爆の持つ特別な意味と、この新しい科学・軍事的進歩が世界的に多大な関心と注目を集めることを考えると、合衆国政府首脳が新型兵器の真の目標を知らなかったとはどうしても考えにくい。

残念なことに、トルーマン個人の知識に関する情報は、むらがある上に矛盾に満ちている。さらに現在利用できる情報にはぽっかりと目立つ穴がある。鍵を握る書類も隠滅されてしまった。

トルーマンは何か理由があって思い違いをしていたため、目標都市は軍需工場があったから選ばれたのだと主張していた可能性も(かなり疑わしいが)ないわけではない。それは(部分的にせよ)暫定委員会の勧告だったのだから。

けれどもスティムソンが日記に記した六月六日の大統領との会話に関する記述によれば、大統領は進行中の計画について大筋は理解していたようだ。

P165私は大統領に対日戦略の策定で忙しいと言った。日本は製造工場を分散しているので航空隊を照準爆撃に限定させることは難しく、地域爆撃は避けがたいことも話した。

この件が心配な二つの理由を話した。一つはアメリカ合衆国はヒトラーよりも酷い残虐行為を行ったと言われたくないこと、もう一つは航空隊が日本を爆撃しつくして、新型兵器が力を示すための適切な舞台がなくなってしまう恐れが少々あることだ。大統領は笑って、わかったと言った。
(22:30~原爆投下に至る経緯時系列27:33~スティムソン六月六日の日記)[桜R41217]【今、世界はどうなっている?】林千勝×水島総 第21回「改竄された歴史、原爆投下の真の標的とは?
『決断の年』でトルーマンは暫定委員会の五月三十一日の勧告をごく一般的なものととらえたらしく、原爆は「特に警告を与えずに使用し、驚異的な力を示威できる目標に対して用いられるべきである」と述べている。

また、委員会の科学者のアドバイザーが(ごく一般論として)原爆は「直接的な軍事目的で用いる」よう主張したと述べている。さらに大統領は次のように述べている。
最終的に目標として広島、小倉、新潟、長崎の四都市が推薦された。これらの都市は第一攻撃目標としてこの順番でリストされた。順番は各都市の軍事的重要度の順であるが、投下時の気象状況を加味して考慮する。

選定目標が軍事目的として適切であると承認しうるか、私はスティムソン、マーシャル、アーノルドと詳細に検討し、時期と最終的な第一目標についても話し合った。
目標都市選定委員会が始まった当初から、グローブスは実際の使用許可は「より高位者が」下すべきだと強調していた。大統領がまずまちがいなく、原爆使用以前に詳細な説明を受けていたことは上記の回顧録の引用からも読みとれる。

けれども一九四五年七月二十五日、トルーマンはポツダムで日記に次のように記している。
この兵器は今日から八月十日の間に日本に対して使用する。私はスティムソン陸軍長官に目標は軍事目標、兵士、水兵であって、女と子どもではないと言った。ジャップが無情で、冷酷で、狂信的な野蛮人だとしても、世界のリーダーであるわれわれは、共通の幸福を守るため、この恐ろしい爆弾を古都や首都に落とすことはできない。彼と私は合意した。目標は純粋に軍事的なものとする。…。
P166 大統領はこの日記を書いた時点で、現在明らかになっている正反対の事実を知らなかった可能性もある。けれども、現在知られている事実から考えて、これ以上トルーマンに好意的な味方をすることは非常に難しい。

大統領の七月二十五日の記述は、単に「歴史」をにらんで書いただけではないかという歴史家もいる。大統領が歴史上の名声に深い関心を寄せていたことを知っているだけに、この意見はもっともだと思われる。

けれども現時点では、単にこの記述は広島の記録の謎の一つであると考えるべきだろう。

けれども、ポツダム後の数週間、大統領が基本問題をどう理解していたかについては疑いの余地がない。トルーマンは長崎を最後に原爆投下を止めた理由を「さらに一〇万人の人々を消し去るのは考えただけで残酷すぎる」

と八月十日の閣議で説明した。

記録の空白について考えてみよう。大統領は非公式に口頭で説明されただけでなく、文書で説明を受けていたことはまずまちがいない。大統領自身が「選定された目標が承認される前に…私は自分でも詳細に検討した…」と記しているからだ。

グローブスがマーシャルに各目標都市をページごとに説明した明確で詳細なメモを送ったことはわかっている。さらにそのメモは隠滅されたこともわかっている。グローブスは「情報が洩れることを絶対に」防ぐためだと言っているが、安全保障上同程度重要な多くのポツダム文書が隠滅されていないことを考えると、この説明を受け入れるのは難しい。

P167広島は軍事的価値が低く、重要な戦略港でもなく、わざわざ主要産業施設を避けるように狙いを定めたことが、現存する記録資料から明らかだ。そこでもう一度トルーマンの八月九日の発言を吟味してみる必要があるだろう。

すなわち、広島が選ばれたのは、非戦闘員の犠牲を最小限にとどめるためだという説明である。

暫定委員会の明快な勧告も目標都市選定委員会もその正反対であったことは言うまでもない。暫定委員会は「民間地区に限定することはできない」と言っているが、実際に目標として推奨しているのは「活発な軍需工場で、多くの工員が働き、その住居が近接しているところ」なのだ。

軍需工場の代わりに軍司令部があったとしても、基本的な考えは変わらない。暫定委員会と目標都市選定委員会の主な狙いが「心理的効果」を最大にすることであったのは間違いない。

軍事・産業施設(あるいはマーシャルが五月二十九日に提案した海軍施設)の破壊を目的とするのとはまったく異なっている。つまり多数の非戦闘員を狙ったということである。

もちろんここでも、強大な心理効果が主目的であったということを大統領が知らなかった可能性がないとはいえない。けれども、やはり初の原爆使用にあたって、その方法を大統領に十分に説明しなかったとは考えにくい。

トルーマンは助言の詳細を忘れてしまっただけなのだろうか?そうかもしれない。大統領は年を経るうちに、現在では記録書類によって真実でないと証明されている多くのことを自分に信じこませてしまったのだろう。

P168 だが、大統領が主張した広島への原爆投下理由がすべて嘘であることを、当初から全然知らなかったとは考えにくい。その権威ある大統領の主張が以後すべての論争の根拠となったのだ。

最後にさらに疑わしい問題がある。大統領の回顧録に見られる奇妙でどこかぎくしゃくとした論理だ。
原爆を使用するに当たって、私はそれが戦時国際法にのっとった兵器として使用されることを重んじた。すなわち軍事目標に投下することを望んだのだ。
一九四五年十二月の演説準備用の手書きメモは(推定犠牲者数に関しては怪しいが)、大統領の論理と現実の本質を端的に示しているように思われる。原爆は「二、三の日本の都市を…」犠牲にする価値があると大統領は信じていたのだ。

実際、投下目標が重要な軍事目標ではなく、心理的効果(バートン・バーンスティンの言う「恐怖爆撃」)が目的だったとしたら、大統領が言うように重大な法的問題が生じることになる。

この決断に関して法廷で裁かれた唯一の例が一九六三年の下田事件だ。この事件で、東京地方裁判所(このような事件の日本の法的責任を規定する一九五一年に結ばれた対日平和条約の規定に基づいて残余司法権を有していた)は国際法の直接侵害であるとの判決を下した(一九五五年、日本の市民五人が日本政府を相手取って、広島と長崎への原爆投下によってこうむった負傷に対する損害を訴えて訴訟を起こした。東京地裁は、国際法に直接違反するとの判断を示した)。

一九四五年の時点で法律上の問題そのものが考慮されていた証拠はない。以下に挙げる情報は将来の研究の手がかりとなるだろう。この件に関する証拠が見つかったとしての話だが。

P169第一に、統合参謀本部議長レイヒ元帥は、生物兵器や毒ガスの使用は「現存する戦時国際法すべてに…違反する。敵の非戦闘員を攻撃する」うえ、「原子爆弾もまったく同じ範疇に属する」とルーズベルト大統領をはじめとする面々を強く説得したという。

第二に、一九四二年春に陸軍法務総監は、日本の稲作を破壊する液体は「毒ガスを禁じる国際法には違反しない…」との見解を示したが、原爆の放射性毒物と密接に関連づけて「そのような化学物質は敵の人間に害を与えないであろう」との但し書きをつけた。

第三に、トルーマンが決断したとき、世界的に著名な法律学者が身近にいた。ジェームズ・F・バーンズは元最高裁判所長官であり、ヘンリー・L・スティムソンは合衆国を代表する国際弁護士の一人だった。

第四に、トルーマン自身も現役および予備役の将校だったのだから、戦時国際法についてよく知っていたはずだ。

第五に、ニュルンベルクと東京の軍事裁判の法的な基礎となる条約が一九四五年八月八日にロンドンで調印されている。ドイツと日本の場合、事後法が適用できるかどうか疑問視する声も多いが、これが長崎への投下の前日であることに注目したい。

フランシス・ボイル教授は条約の規定により二回目の原爆投下(ニュルンベルクの基準が承認されればおそらく最初の原爆も)は違法であるばかりでなく、条約に規定されている犯罪にあたるとの意見を述べている。

第六は、トルーマン大統領の回顧録執筆を手伝った一人モートン・ロイスは、偶然にも学者で、空中戦に関する研究書を執筆していた。大統領がこのように法律を意識したのはロイスの助言による可能性もある。

P170 だが、大統領が一九四五年の時点で法的な問題に気づいて考慮に入れていたのか、あるいは一九五〇年代半ばの回顧録執筆の際につけたしたのかは定かではない。

2.43 長崎と『決断の年』P172-
2.44 ある種の書類 P189-
2.45 もっとも恐ろしい爆弾、もっとも恐ろしいもの P217-

第三部 ジェームズ・F・バーンズ

2.46 歴史から消え、歴史を修正した男 P232-
P232/ 234/ 236/ 238/ 240/ 242/ 244/ 246/ 248/ 250/ 252

第四部 歴史を管理する

2.47 レスリー・R・グローブズ(参照) P256-
2.48 検閲と秘密主義 規則と例外 P281-
2.49 最終的展望 P302-
P306

結論 複雑な沈黙 P307-

自分たち以外の、名も知らず顔も知らない人たちに---その人たちの有罪無罪を裁ける立場に私たちがいるわけでもないのに---核兵器を使おうとすることによってすべての文明の基礎である自然の構造を破壊の危機にさらすこと…それはあまりに横暴な、度はずれた、神を冒涜す恥知らずな行為だ!
        ---ジョージ・ケナン『軍拡競争に関するあるキリスト教徒の見解』(相互参照)
この間に行われた多くの世論調査から明らかなように、アメリカ人の大多数は広島と長崎への原爆投下の正当性にほとんど疑問を抱いていない。原爆が数十万、いや数百万のアメリカ人の命を救ったという通説は、今も生きている。

さまざまなヒロシマ神話の増幅という点において、我が国の指導者たちは私たちアメリカ人を欺いてきたと言えるだろう。多くの基礎的な事柄について、私たちは誤った方向に導かれてきた。

そして四軍の兵隊たち(そして間接的には彼らの家族や友人たち)が長年にわたり、彼らの命は原爆によって救われたと教えられてきた。この誤った情報で彼らが安心したのは無理もないが、そのせいで原爆神話はますます強化されたのである。

P308 この五〇年間を通じて、新聞その他の報道も概して、この十分に疑わしく怪しい「事実」なるものを疑うことなく、少しなりと調査してみることもなく、繰り返してきた。むろん例外は常にあったが、たとえば一〇〇万人の命が救われたという神話は、最近のスミソニアン博物館による「エノラ・ゲイ」展示計画をめぐる論争でも「事実」として広く報道されたbのである。

だが、私たちアメリカ人があえて真実を知ろうとしなかったことも事実である。聞かされた話に疑問を呈することもなく、むしろ神話を喜んで受け入れてきたのではないか。

この半世紀の間、何かにつけて漏れ聞こえてきたり耳障りな情報の真偽を確かめてみようとすることも、ほとんどなかった。ごく基本的で資料も揃った事実にさえ、まっすぐ目を向けることは非常に、非常に困難だった。

過去五○年間、私たちは、「復讐」としか呼べない何かによって原爆投下を正当化しようと務めてきたように思われる。原爆の使用は軍事的に見て必要だったかという議論は、しばしば日本の奇襲攻撃や軍隊の蛮行に対する怒りというまったく異質な問題にとすり替えられてきた。

確かに日本人にも直視すべき醜い過去がたくさんある。真珠湾の奇襲はもとより、上海爆撃や南京虐殺、朝鮮女性に対する強制売春、七三一部隊による人体実験、パターンの「死の行進」、そして米兵その他の捕虜に対する組織的な拷問と虐殺、等々だ。

だが、それでもヒロシマの問題は残る。

また私たちはしばしば、新たな研究に基づく新たな議論と、米軍人への批判を取り違えてきた。これは(第二次大戦に参加した将軍たちの証言からも明らかなように)まったく正しくない。

一九四五年の太平洋で前線にいた兵士たちは、祖国のために命を捨てる覚悟だった。このもっとも基本的な点において、彼らは文句なく英雄なのである。

P309政治の中秋にいた人たちの耳には、原爆に代わる手段があるという進言が届いていた。だが、それは何も知らされていなかった現場の軍人たちには無関係である。

現場の人間が、上層部の知っていることについて誤った情報を与えられたのは、これが初めてでもなければ最後でもない。

残念ながら、私たちは今も、知りえた情報に基づいて問いを発するという行為を怠りがちだ。以前に比べたら今は手の届く情報がずっと多いはずなのに、公の場での議論が以前よりも深まったとは言えず、むしろ浅くなっている

報道のあり方に関する最近のある調査によると、「現在の報道状況は終戦直後の高揚した時期のそれより悪い---今のメディアはほとんど、公式見解と一致しない証拠や理論を無視している」。
初期[一九四五~一九五〇年]には、(一)原爆使用の決定について自ら疑問を投げかけるジャーナリストや編集者がいたし、(二)太平洋戦線へのソ連の参戦が戦争終結に重要な役割を果たすものだったことを理解していた…。
かつては高級軍人たちが報道機関にとって貴重な第二の情報源となり、彼らはその個人的な経験や確信に基づいて喋ってくれたのだが、今はもうその世代も失われてしまった。

だが、だからだと言っていくつかの貴重な事実が永遠に闇に葬られたわけではない---少なくとも、未解決の問題を率直に提起することは今も可能だ。あの一九四五年の事件に関する根本的かつ倫理的な問題を提起し、これに取り組むことは不可能ではない。

現にヒロシマ以後の半世紀間、思想的・宗教的立場を異にするさまざまな人たちが繰り返し示してきたように、まだ多くの発見がありうるし、その気になれば新たな疑問を提起することもできるのである。

P310 本書のこれまでの記述で明らかなとおり、過去にアメリカ人が公式の神話以上のことを知りたいと思い、せめて疑問を呈しようとしていたなら、それを知ることは十分に可能だったのである。

はっきり言って、原爆の使用が「数十万」あるいは「数百万」の命を救うためには唯一の選択だったという見解は正しくない。実際には日本の降伏条件を緩和するとか、ソ連の参戦を待つとかの選択肢がった。

九州上陸作戦の敢行は十一月の予定だったから、まだ三ヵ月のの余裕があった。また本州上陸は早くても翌年の春とされていたから、そこまでには六~七ヵ月の余裕があったではないか。

当時の米戦略爆撃調査(そこでは無条件降伏要求の緩和もソ連の参戦も前提としていない)あるいは米陸軍省の研究(ソ連の参戦があれば戦争終結はほぼ確実と判断していた)の結論を受け入れるかぎり、少なくとも今の時点から振り返るならば、ハンソン・ボールドウィンの指摘するように原爆投下は「誤りだった」ことになる。

だが、マジックの傍受記録や統合参謀本部の文書、一九四五年の諜報資料、原爆投下の決定過程に深く関わっていた軍上層部のさまざまな発言、それにレイヒやスティムソン、フォレスタル、マクロイ、ブラウンの日記など、さまざまな証拠を利用するすればもっとはっきりした結論を下せる。

もちろん五〇年前の人たちの心の底を覗いてみることは不可能である。そしてニュアンスや発言の重みには議論の余地が残るとしても、これだけは確かに言える。原爆投下に代わる手段は存在していたし、大統領とその助言者たちはそれに気づいていた、と。

アメリカは原爆の投下を急いだのではないか、他の可能な選択肢を真剣に考慮しなかったのではないか。

P311こういう批判に、トルーマンは最も神経をとがらせていた。人間として、彼のこういう気持ちは理解できる。

だが、本書の調査過程で明らかになった情報を加味すると、大統領とバーンズは日本が降伏寸前であることを知っていたにもかかわらず、原爆実験が成功した途端に、八月半ばに予想されるソ連軍の参戦よりも早い時期の戦争終結に重大な関心を寄せるようになっていた(→上巻P8)。

その決定がいささか性急なものであったことを示唆する証拠がある。トルーマンは八月十日になってポツダム宣言に「無条件降伏」の語が明記されていること、そして広島が破壊される前に考慮すべき事項が特定されていたことに気づいたのである。

広島および長崎への原爆投下も(一〇万人以上の犠牲者を出した三月九日から十日にかけての東京大空襲のような)通常兵器による攻撃も似たようなものだとする議論がある。

ジョン・ダワーが指摘しているように、犠牲者の実数は定かではない。最近の推定によれば、通常兵器による連続的な都市爆撃をすべて合わせた以上の人数(おそらく三〇万くらい)が、原爆投下によって犠牲になっている。

確かな数字は誰にもわからないが、どちらの被害が大きかったかは疑う余地もない。また、原爆を使わなかったら通常兵器による都市爆撃が続いていただろうという議論も当たらない。すでに見たように、鉄道や航空機製造施設のような軍事目標を優先的な楽劇目標にせよという指示が、すでに出されていたからである。

複数の軍指導者たちによる証言も、事態を明らかにする一助となる。最も大事なのは、東京を初めとする大都市への大規模な爆撃は、天皇が終戦に向けて動きだしたという情報を入手する前に行われたという事実である。

アイゼンハワーやレイヒらは、一般の人口密集地を爆撃することが無意味かつ誤りであるというだけでなく、

P312 日本に降伏の用意があると思われるときにそのような行動に出るのは軍隊の伝統的な規範に背いているとまで言っていたのである。

また「我が国が世界中に衝撃を与えるようなことは避けるべき」(アイゼンハワー)だという意見にも説得力があった。同様に一九四五年五月二十九日には、マーシャルが「このような兵器はまず、大規模な海軍施設などの直接的な軍事目標に対して用いられるべき」だと述べている。

そして都市に対して用いる場合には、明確な避難勧告を出すなどして「その後に起こるであろう非難」に備えるべきだといも指摘している。

原爆の使用に関して、真に「決定」と呼べるものはなかったという説もある。戦況(あるいは官僚機構など)の流れに押される形で決まったものであり、当時それに直接的に反対する者がいたという証拠も残っていない、とする説だ。

かつては私自身もこの「決定不在説」「状況(モメンタム)説」にくみし(部分的には提唱もし)ていたわけだから、この見解が私たちにとって魅力的なのは承知している。

誰の決定もなかったのなら誰の判断が問われることもなく、したがって私たちは責任を回避できるからだ。

それに、この状況説を支持するような材料も少なくない。たとえば、政府の最高幹部レベルで原爆使用の是非が直接的に議論されたことを示す資料はほとんど---「まったく」ではないが---ない

だから記録の不在を盾に、原爆の投下は「決定」されたのではなく状況に押し流されて行なわれたという議論が成り立つ。

だが、新しい証拠を見れば、事がそれほど単純でなかったことは明らかだ。

真実は、少なくとも三つ(おそらくはそれ以上)の明確で紛れもない決定が下され、原爆の使用を「不可避」とするような条件ができあがっていたのである。

P313そしてこれを境に、原爆の使用に対する反対論を封じこめるため、その他の問題についてもしっかりとした枠組みが用意されていたのである。

第一の決定では、日本に真剣な回答を促すために十分な時間的猶予を与え、降伏しやすい状況をつくろうという提案を拒絶している。すでに本書で見たように、有意な時間的猶予を与えないという明確な選択はポツダム宣言でも確認されている。

第二の、より重大な選択は、日本に対して天皇の地位を保証しないという決定である。こう決まった以上、そして降伏すれば天皇の追放や処刑もありうると日本側に信じさせていた以上、戦闘の終結が望めないことは自明だった。

この点に関して、実は米英政府のトップレベルに原爆の安易な使用に反対する一定の「モメンタム」があった。既に見てきたように、大統領に対しては降伏条件を明確化するべきだとの助言が一〇回以上も、米英両国指導部のほとんど全員から出されていたのである。唯一、この方向の助言をしなかったのがジェームズ・F・バーンズである(→上巻P246)。

ポツダム宣言の 第一二条を削除するとの決定は、正に当時の政治的モメンタムに逆行するものだった。それは中央の決定だったし、当時もそう理解されていた。
12) The occupying forces of the Allies shall be withdrawn from Japan as soon as our objectives are accomplished and there has been established, beyond doubt a peacefully inclined, responsible government of a character representative of the Japanese people. This may include a constitutional monarchy under the present dynasty if it be shown to the complete satisfaction of the world that such a government will never again aspire to aggression.(参照)

関連図書:鳥居民著「原爆を投下するまで日本を降伏させるな」、武田清子著「天皇観の相剋」
トルーマンもさまざまな機会に認めているように、日本軍に戦闘をやめさせ、国内秩序を維持していくには天皇の存在が必要だろうという認識は、関係者の間ではほぼ自明のことであったと思われる(実際、原爆投下の五日後には大統領によって、天皇の地位が保証されたのである)。

原爆の使用に直接的に反対する意見は、文書の形ではほとんど残されていない。だが、右に述べたような事情を斟酌すれば、これは驚くに当たらない。

P314 ポツダム宣言から天皇の地位保証を削除するか否かは政治的な決断に委ねられていた。そして削除するという大統領の決断が下された以上---そして地位保証をしなければ戦闘の続行は不可避であるという認識があった以上---軍事的な選択肢は二つしか残されていなかった。原爆を使うか、本土上陸まで突き進むか、である。

かかる状況で原爆投下に反対することは、誰にとっても---軍人であれ文民であれ---馬鹿げたことであった。原爆反対は大量の犠牲を伴う本土上陸作戦の敢行を主張するに等しかったからだ。それはまた、大統領が明確に決断に異を唱えることでもあった。

第三の決定に関しても、今は文書による確かな記録がある。それはソ連軍の参戦を待たないという決定である。この決定もまた、政治のレベルで下された。

すでに見たように、降伏条件の緩和を進言するという点では、バーンズを除くほとんどすべての助言者が一致していた。だが一方で、できうればソ連の参戦は回避したいという思いも共通していた(実際、グルーやフォレスタルなどは、ソ連参戦の前に戦争を終わらせるために降伏条件の緩和を求めたふしがある)。

従って、この問題に関しては誰にも、大統領およびバーンズの決定に異議を唱える動機はほとんどなかった。

これらの重大な決断が下された以上、原爆投下の是非について議論する余地はほとんどなかった。大統領の決断によって選択肢が絞られた以上、もはや原爆投下に反対するのは理不尽なことのようにみえたのである。

こうした状況のモメンタムを止められる人物がいたとすれば、それはトルーマンでさえ偉大な国民的英雄と認めざるを得なかった男、欧州戦線でヒトラーを倒して意気あがる連合軍最高司令官だけだったろう。

P315本人の言葉(そして本人に直接取材した伝記作家の記述)を信じるなら、アイゼンハワーは一九四五年七月二十日に、トルーマンに直接、原爆を使わないよう進言している。

だが、この日以後も、大統領とバーンズによって次々と重要な決定が下されていく。なかでも重要なのは、もはや日本側の反応をフォローしないという決定、特に日本側の暗号の傍受記録をフォローしないという八月初めの決定である。

付け加えるならば、「決定不在説」あるいは降伏条件の緩和を拒みソ連軍の参戦を待たないという決定の重要性が理解されていなかったとする見解は、スティムソンの次のような個人的発言によっても否定される。

スティムソンはグルーに対して、「貴殿も承知のように、みんな気持ちが高ぶっているし、相当な地位の人たちが…反対側で動いている」と伝えていたのだ。

したがって、不可抗力な歴史のモメンタムに全員が縛られていたという議論は成り立たない。アイゼンハワーは率直に「あの恐ろしいもので彼らをたたく必要はない」と述べている。それに、バーンズの主張に「従う」べき理由もなかったはずだ。

マイケル・ウィザーは書いている。交渉を「試みることもなく原爆を投下し、一般市民を殺害し、恐怖に震えあがらせたのは二重の犯罪である」と。

アイゼンハワーらが繰り返し指摘してきたのは、選択は可能だったという事実であり、降伏条件の緩和については大統領の助言者たちがバーンズに敗れたという事実である。

そして後に原爆投下の決定を批判するようになった軍幹部たちが、戦争終結には別の方法がありえたし、それを試してみるべきだったとしているのも正しい。

(以下、原爆投下を批判した要人たちの事例が続く、ハーバート・フーバー、ジョン・フォレスター・ダレス、ヘンリー・ルース、リチャード・ニクソン、マッカーサーなど)

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P316/ 318/ 320
P322
歴史上いかに高潔な人にも、例外なく道徳的には疑わしいところがある(相互参照)」(ラインホルド・ニーバー、1946)
この半世紀の間、私たちは核兵器の脅威をどのように考えて来たのか。この点をきちんと問いなおせるかどうかが、いま問われている。「抑止力」としての核兵器という考え方に慣れすぎて、私たちはこの便利な言葉の意味を問いなおそうともせずに使ってきたのではないか。

『軍拡競争に関するあるキリスト教徒の見解』と題する論考で、ジョージ・ケナンは道徳的・宗教的な問題を鋭く提起している。
自分たち以外の、名も知らず顔も知らない人たちに---その人たちの有罪無罪を裁ける立場に私たちがいるわけでもないのに---核兵器を使おうと思うこと、そしてそうすることによってすべての文明の基礎である自然の構造を破壊の危機にさらすこと、あたかも今の自分たちの安全と利益なるものが文明の蓄積および未来に予想されるすべての物事よりも大事であるかのようにふるまうこと。それはあまりに横暴な、度はずれた、神を冒涜する恥知らずな行為だ!(相互参照)
(略)

P324/ 326

あとがき P328-
P328/ 330/ 332/ 334
P336 P337また、ここで再度強調しておくべきことがある。バーンズとトルーマンが公的および私的な場で、原爆投下以前に天皇の位置づけを明確にしない理由として、政治的懸念をあげた証拠はないのである。

(この件に関する)明確な当時の記録も、一つとして存在しないのだ。さらに広島原爆投下後の記録から、はっきりとうかがえるのは、トルーマンの政治的非難に対する無関心さである。実際、そうした証拠から判断するかぎり、トルーマンは政治的問題にそれほど頭を悩ましていなかったのだ。

最後に、バーンズの見解を表していると思われる当時の記録によれば、バーンズは無条件降伏の草案の文体を修正する(彼は修正を望んでいなかった)ことと、天皇制維持を保証すること( 八月十一日に保証した)(相互参照)の決定的な違いをあいまいにしていたらしい。

P338/ 340/ 342/ 344/ 346/ 348/ 350
P352 アメリカ首脳部が経済的利害を深く憂慮していたことは間違いない。たとえばスティムソンの発言には、アジアに対する経済的憂慮が色濃くあらわれている。(七月一七日、「大統領は…スターリンとの初会談について手短に話し、満州における機会均等はほぼ確実に押さえられたと思うと語った」)

また、まともな歴史的視野に立って考えれば、明らかに、アジアに対するアメリカの経済的関心を資本主義経済の拡大の歴史と切り離すことはできない。そしてアメリカ首脳部は、東欧を含む戦後ヨーロッパに資本主義市場を打ちたてたいと躍起になっていたのである。

だが歴史的要素の認識と、「はずみ」や「もともと存在していた世界機構内の衝突という原動力」が必然的に広島・長崎への原爆投下をひきおこしたという決定論的主張を行うことは、全然別である。

決定論は証拠資料を度外視しているし、繰り返して言うが、他の選択肢が存在したという現実をも考慮に入れていない。政策決定者の大半は(「機会均等」を最も懸念していた高官スティムソンをはじめ)、原爆投下によらない戦争終結の可能性のある解決策を、強く支持していた。

グルーも、原爆の使用はアジア全般、特に日本との政治経済関係を改善するどころか、悪化させるだろうと憂慮していたと思われる。

概して、「はずみ論」からは非常に重要な疑問が生じる。とりわけ、なぜ都市部に原爆が投下されねばならなかったのか、二つの都市を破壊する理由はどこにあったのか、という疑問だ。

P353「はずみ論」と似てはいるが、これよりは幾分具体的な「憶説継承(inherited assumption)論」なる学説がある。この説によると原爆の使用は、ルーズベルト大統領時代から受けつがれた憶測と政策の産物と解釈される。バーンスティンによる同論の概略を見てみよう。
フランクリン・ルーズベルト大統領政権下で生まれたトルーマンに引きつがれた憶測の推進力、日本への安易な標的変更、戦争の早期終結による人命救済対策、原爆を使用しないことで生じるリスクへの懸念など複数の要因で、原爆投下の理由はおおかた説明できる。
最後の二つの要因、つまり早期戦争終結による人命救済とリスクの回避が、新たな証拠資料により否定されたことは、今まで見てきたとおりである。また、原爆使用に関しまとまった政策がルーズベルトから受けつがれたことを示す確たる証拠もほとんど存在しない。

実際、私たちが知るルーズベルト自身の考えは、いくらか方向性が異なっている。一九四四年九月にルーズベルトとチャーチルにより結ばれたハイドパーク協定では、非常にためらいがちで慎重な表現が用いられている。
「爆弾」が完成した暁には、十分な検討を重ねたのちに、日本への投下が行われる可能性はある。その際、降伏するまでは爆弾の投下を続ける旨を、日本に前もって警告してい置くべきであろう。
ハイドパーク協定締結から四日後に、ルーズベルトはバネバー・ブッシュ、レイヒ、チャーチルの科学顧問であるチャーウェル卿と原爆問題を討議した。ジェームズ・コナントにあてた書簡で、ブッシュは「新たな問題が浮上…」と記している。
会談の途中でルーズベルト大統領が、ある問題を提起した。つまり、原爆を実際に日本に投下するべきなのか、それとも国内で完全に実験を終えたうえで単なる警告として使用するべきなのかという問題である。
P354 マクジョージ・バンディはこう述べている。
「非常に興味深いことに、フランクリン・ルーズベルトは後任者たちと異なり、日本への原爆投下をめぐる基本的な疑問に悩んでいた形跡がある…大統領は五、六日の間に二度も、そもそも原爆を使うべきなのか、また使うとしたらどのように使用するべきなのか、と思い悩んでいた」
アレクサンダー・ザックス(Alexander Sachs、相参1相参2)もまた、ルーズベルトが事前警告と原爆実験のデモンストレーションについて考慮していたらしいと述べている。サックスは著名な経済学者で、原爆開発に対しルーズベルトの関心を最初にひきつけた張本人の一人である。

彼によれば、ハイドパーク協定調印から数ヵ月後に、「原爆は前もって警告を発したうえで使用するべきであり、人間および動物を退避させた地域にのみ投下すべきだ」と大統領が語ったという。

ルーズベルトの構えはせいぜい曖昧というところだが、いずれにせよ都市の爆撃に関してはかなり迷いがあったことは記録に残っている(バーンスティンはルーズベルトの政策を「非常に明確だった」と評しているが、と同時に、「ルーズベルトが原爆の投下回避および警告・デモンストレーション後に限った使用の可能性を熟考していた形跡がいくらか認められる」とも述べた)。

また、たしかにトルーマンはルーズベルトから具体的な政策(賠償方針がその一例である)を受けついだが、かなりの恒久的な変更を加えることは辞さなかった。

しかし、ルーズベルトが原爆使用に関していかなる見解をもっていたにせよ、広島原爆投下までの数ヵ月間で世界の情勢は激変した。これが最も重要なポイントである。

ルーズベルトは世界全体、つまりヨーロッパ、極東、ロスアラモスが同時にターニングポイントを迎えた、ちょうどそのときに死去した。

P355彼の死の一週間前には、ロシアが日ソ中立条約を更新する意図はないと発表、それとほぼ時を同じくして日本では内閣が崩壊した。ドイツの降伏は目前だったし、事実二六日後には降伏を宣言した。

マンハッタン計画は七月にアラモゴードでのクライマックスに近づきつつあった。そして原爆投下の数週間前には、言うまでもなく、日本の崩壊が近いことを物語る情報が、着々と伝わってきていたのである。

一九七三年、マーティン・シャーウィンもまた「憶説継承論」を唱えた(「…トルーマンは己れの不安定な立場と前大統領の威光により過去に縛られていたのである」)。だが新たな資料に照らしあわせたうえで、シャーウィンは持論を修正し、八七年次の結論にいたった。
原爆が使用されたのは、日本の降伏を促すのに他に選択肢がなかったからではない。核という選択肢があるのに、ほかの方策に頼るのが望ましくなかったからである。原爆の使用はおまけつきだった。

つまり、戦争を終わらせる可能性だけでなく、他の選択肢を選ぶ必要性がなくなるという望みである。だからこそ、原爆投下は(他と比較して)好ましい方策だったのである。
こうしてシャーウィンも、「ある決断が下された」という見方をせざるをえなくなったのである。
「一九四五年夏になされた決断は、伝統的侵攻に核兵器という二つの選択肢からなされたものではない。それはさまざまな外交、または戦略的選択肢のなかから選びとられたのだ」
トルーマンの決定はもっともであるが必然性はなかった。回避することもできたはずである。こうした説からは、ルーズベルトなら原爆を使用したのだろうかという疑問がわきあがる。

この問いに答えを出すことは不可能だが、ルーズベルト政権からトルーマン政権への転換に関連したいくつかの要因は手がかりになる。

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出典一覧 P369-

(関連)
なぜマーシャル将軍は5月に提案された太平洋戦争終結のための最後通告を「時期尚早」といったのか?見方が違う二つの著書より(参照

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