2023年2月9日木曜日

偏愛メモ 『持丸長者-国家狂乱篇-』第五章 植民地を動かした銀行と大事件 P254-315

P288軍事支出が最大規模になった一九二〇年(大正九年)、三月に東西の株式相場が暴落して戦後恐慌が始まった。米価が暴騰し、株価の暴落と共に、成金が急速に没落していった。この時代の国民の苦境については、第一話の幕末・維新篇(三五四頁~)の米騒動とその時代の米価グラフを見ていただきたい(tw)。

手を結ばなければ生きて行けないとの自覚から、労働者たちが五月二日にわが国最初のメーデーを東京上野公園で開催し、一万人を超える群衆が「聞け、万国の労働者」を歌い、山縣有朋内閣が制定した集会の取締りを規定した治安警察法の廃止を叫び、失業の防止と最低賃金法を政府に要求した。

翌一九二一年には不況がさらに深刻化して、二月から十月にかけて、全国に労働争議が吹き荒れた。北海道蜂須賀農場、汽車製造、足尾銅山、大阪電灯、藤永田造船所、住友電線、住友鋳鋼、住友伸銅所、三菱内燃機神戸工場へと広がり、団体交渉権を要求する争議が阪神地方全体に続発した。

特に七月、神戸川崎造船所、三菱造船所、神戸製鋼所、ダンロップ、台湾精糖に争議が拡大すると、三菱造船所では三万五〇〇〇人の労働者がストライキ四十五日の大争議立ち上がり、姫路師団の軍隊が出動する戦前最大の争議となった。

このあとも、川崎造船所、横浜船渠、浅野造船所、石川島造船所へとストライキと争議が続いた。

この年の労働組合参加者は一〇万三四四二人に達し、ストライキに五万八二二五人が参加した。この一九二一年九月二十八日、財閥当主の安田善次郎が大磯の別邸で凶漢・朝日平吾に暗殺され、十一月四日には東京駅で原敬首相が中岡良一という青年に短刀で刺されて暗殺された。殺伐とした暗殺時代が到来したのだ。

P289原敬は平民宰相と呼ばれたが、それは爵位を受けなかっただけで、当人は井上馨に取り入って、長州閥に抜擢された閥族代理人であった。西園寺内閣の内務大臣時代、神社は原則一町村に一社しか認めないとする「神社合祀令」を出し、住民の信仰のよりどころとして町村の部落ごとに祀られていた神社つぶしにより、部落ごとの自治を奪おうと画策した人物である。

寺内正毅内閣を引き継いで総理大臣になってからも、長州の陸軍大臣・田中義一に動かされ、地方の金満家・分限者・素封家を中核とした利権内閣を組閣し、内閣全期間の三年一ヵ月にわたってシベリア出兵を続け、日本国民を疲弊に追いこんでいた。

前述の朝鮮「三・一独立運動(Twilog検索)」が起こった時、軍隊を派遣して徹底的に弾圧し、七五○○○人を虐殺したのが、原敬である。

翌一九二二年にも争議は止まらなかった。横浜船渠、大阪電灯、石川島造船所、大阪鉄工所、大阪住友伸鋼所、阪神電車、野田醤油、さらに大阪・名古屋・八幡を中心に、官業労働者が巨大デモを展開し、軍縮に伴う失業救済を要求した。労働組合参加者は前年より三割も増えた。

全般に造船所の争議が多いのは、それまでの好況が軍需景気にあり、なかでも軍艦製造を柱にしていたからである。裏返せば、この時代に造船所から追い出されたどん底の労働者が要求した失業の救済は、軍需産業に取りこまれた下層階級が、軍縮の縮小に反対し、戦争で息をつなごうとする危険な動きであった。

その労働者を生み出した源は、農家で食えなくなって都市に流れこんだひとたちの極度の貧困にあった。小作人争議が二年間で三二五八件に達し、江戸時代の百姓一揆とは比較にならない大きな数であった。

全土の農民がどれほど貧しさにあえいでいたかを物語る。政府はこの国民を黙らなければならなかった。これが、後年に訪れる戦争末期の国民総動員・新体制運動・大政翼賛会の最大の伏線となる。

P290一度、大戦争を始めた国家の経済的宿命は、果てしない軍国資本主義にあった。

この時代の始まりが、序章に述べた、日本工業倶楽部が結成された一九一七年(大正六年)にあたっていた。前章まで紹介してきた、それぞれの大産業に誕生した持丸長者の華やかな世界、潤沢な資金、贅をつくした生活、芸者を揚げる成金趣味は、膨大な数の貧乏国民の上に成り立っていたのである。

関東大震災の衝撃
さて、右に一九二三年(大正十二年)まで軍事費比率を示したのは、この年から、軍事費の比率が三〇%台へとかなり大きく落ちるからである。この年九月一日にマグニチュード七・九、死者・行方不明一四万二八〇七人の関東大震災が起こった。

最近の研究では死者一〇万人説が有力になってきたが、被害が史上空前だったことは変わらない。産業界と金融界が受けた深い傷跡が、そのあとの日本経済の根幹を揺るがしていった。

死者の最大は本所・深川の火災を中心とした東京だったが、震源は伊豆大島の東方の海底で、もっとも強い揺れが集中したのは神奈川県南部であった。京浜工業地帯の工場が壊滅し、貿易港の横浜は繁華街の元町と山下町がほとんど何も残らず、全市の四分の一、住宅の六割以上が焼失してほぼ全滅する大被害であった。

東京市内では、東京証券取引所が焼け落ちて立会い不能となり、銀行が本店一三八行のうち、一三一行が焼失し、支店三一〇行のうち二二二行が焼失。

P291全焼した会社と銀行の合計四四七〇棟という甚大な被害であった。

被害総額の推定は、東洋経済新報社によれば七〇億円、大蔵省によれば一〇〇億円(現在時価三・六~五・二兆円)とされたが、後遺症を考えれば、その二倍にも達した。

ヨーロッパ大戦の終焉による世界的恐慌と共に、日本に大不況が広がっていたところへ、大震災が襲いかかり、東京市だけで一挙に七万人の失業者を出したのである。

このあと、昭和二年恐慌→財閥の肥大化→一九三一年(昭和六年)のドル買い事件と満州事変、この連続する流れの中で、日本の国民全体がファッショの嵐に巻き込まれていった。

不況の震源は、関東大震災が起こる三年前、一九二〇年の株式相場の暴落にあった。四月六日に、相場の影響を受けた大阪の増田ビルブローカー銀行が破綻に追い詰められたため、銀行が新規貸出を停止して、貸出を回収し始めた。

こうなると、それまでの投機熱で思惑買いを続けていた早耳の市場がいっせいに金を引きあげ始めた。現在ではその名が残っていない増田ビルブローカー銀行だが、これは一介の証券会社ではなかった。

頭取の増田信一が、序章の一九二六年の長者リストにあり、破綻後も現在価値で七億円ほどの資産家として生き残っている。古い興信録によれば、増田信一は製銅業者であり、彼の父は信之助となっているが、信之の誤植と思われる。

増田信之は、すでに登場したように、閔妃の朝鮮で貨幣の製造を指導して韓国皇帝より勲四等に叙せられた大阪製銅会社社長で、広瀬宰平や五代友厚と組んだ住友財閥の重要人物であった。

増田家の近親者には、のちに大阪府第三位の長者となる二代目・野村徳七がいた。日露戦争の投棄で基礎を築いた野村は、第一次世界大戦では船株を安値で仕込んでいたため、

P292野村商店が二○○万円以上(現在時価二〇億円)の巨額の利益を出して日本の熱狂相場をリードし、この時は大阪野村銀行(戦後の大和銀行・現りそな銀行)を設立して間もない時期であった。

この時のブームで、久原鉱業の増資によって巨利を得て、京都南禅寺に別邸を築造した野村徳七は、一九二五年には野村證券を創業する。

三重県伊勢商人として国分の缶詰で巨財を築く国分商店社長・国分勘兵衛(明治時代からの長者一族。一九九〇年全国第六位)も、北前船長者の右近権左衛門(一九三三年福井県第一位)も、この一族だった。しかも増田家の一族周辺には、非常に多くの満鉄株主がいた。

こうして増田の破綻ショックで、綿・生糸・米という三本柱の取引所が立会い停止となり、総崩れになだれこみ、さらに株が暴落して、株式市場が当分閉鎖となった。

増田が破綻した翌五月には、幕末・維新時代から日本経済を主導してきた横浜の五大生糸売込商として君臨する茂木商店が倒れ、その機関銀行であった横浜七十四銀行と横浜貯蓄銀行が連鎖的に倒産して茂木王国が一瞬で崩壊したのである。

この茂木惣兵衛の一族には、もう一人の横浜五大生糸売込商・小野光景がおり、三菱の岩崎家も近親者で、愛知県名古屋の名門繊維会社・滝定も一族に連なっていた。

このショックで年末までに銀行二一行が破綻し、取り付け騒ぎは六一行にも達した。つまり、単なる相場の崩壊ではなく、日本の基幹産業の資本家が苦境に陥って、全国の紡績業や海運・食品・銅鉄の金属業、あらゆる産業に余波が広がったのが、この恐慌による大正不況であった。

資本家は再び甦ることができても、解雇されてワラ一本にもすがろうとする労働者と、その工場労働者を送り出してきた農民たちは、救いのない人生に投げ込まれた。

P293そこで全国に起こったのが、さきほど記した一九二一~二二年にかけての膨大な件数の労働争議と小作人争議の噴出であった。その中で、経営者側では、ますます不良債権が積み上がっていった。

ところが不良債権は、隠されるもおのである。これ以上の破綻を避けるために、どの会社も銀行も粉飾決算でうわべをとりつくろって、その日をしのぐようになった。その増田・茂木ショックから三年後に起こったのが、関東大震災であった。

この時の政府は、地震発生の八日前に、山縣有朋一族の加藤友三郎首相が現職で死去したため、代わって外務大臣・内田康哉(やすや、とも読む)が臨時首相をつとめていた。

内田は満鉄総裁を務めたあと、外務大臣として、「挙国一致、国を焦土にしてもこの主張を徹すことにおいては一歩も譲らない」と焦土演説をして、日本が満州を傀儡国家とし、満州国の承認を推進する人物である(相互参照)。

熊本藩の蘭学者・内田玄真の息子だったが、持丸長者奈良第一位の林業支配者・土倉庄三郎の女婿であり、また横浜正金銀行頭取として渋沢・安田・大倉・古河と並ぶ「明治五人男」と称された長者中の長者・原六郎の義弟にもあたっていた。

大震災の翌日、内田康哉は臨時首相を退き、薩摩藩・山本権兵衛内閣が発足した。権兵衛の娘は、一人が“維新の三傑”西郷隆盛の甥と結婚して古河財閥に連なり、もう一人が総理大臣・松方正義の息子と結婚していた。

松方正義は明治の財政を担って財閥を肥やし、自らも私腹を肥やして全国第八位の持丸長者となり、東京で第一七位の大地主であった。この震災のなかで治安を担当するもっとも重要な内務大臣には後藤新平が就任した。

九月一日の夜から、東京では「朝鮮人が井戸に毒を入れた」、「暴動を起こして放火している」といった流言蜚語を警察が広めたため、恐怖に憑かれた日本人の民衆が朝鮮人・中国人に襲いかかって虐殺し、その虐殺に軍隊・警察・憲兵が加担するなか、六〇〇〇人以上が殺されていった。

これら暴挙を指揮したり黙認したのは内務省と、憲兵を管轄した陸軍であった。なかでも特高警察を主導する警視庁官房主事だった正力松太郎は、「朝鮮人が謀反を起こしているという噂があるから、それをあちこちに触れまわってくれ」と流言を広めてまわった(tw)。

当時の責任者だった人物のその後は、警視総監・湯浅倉平が朝鮮総督府・政務総監となり、警保局長・後藤文夫が台湾総督府・総務長官に転身した。後藤文夫が満鉄総裁・中村雄次郎一族であることを考え合わせると、彼ら内務省トップが、朝鮮・台湾・満州の植民地行政官の最高位として、国家ぐるみで組織的に動いたと見える。

しかも湯浅倉平を任命したのが後藤新平であった。後藤新平は台湾総督府で初代民政長官をつとめて、日本の植民地支配に抵抗する三万人以上の台湾人を処刑したが、その民生長官を一九一九年に改称したのが、後藤文夫の就任した総務長官ポストであり、後藤新平は初代満鉄総裁でもあった。

大震災後、全国各地で収容された朝鮮人たちは二万三七〇〇人にも達し、その一部は民間人に引き渡されて殺害された。

全国の人が、震災の被害者を救おうと救援物資を送り、商人たちでさえ思惑買いによる投機控えて物価の暴騰をおさえようとしているなかで、一体なぜ、この理を失う虐殺が起こったか。

経済不況が続き、国民から追いつめられた政府か内務省が、日本の貧困層の不満と怒りを朝鮮人と中国人に向けさせる機会としてとらえたのが、関東大震災ではなかったか。

翌年に後藤新平が正力松太郎に読売新聞買収のため大金を与えたのは、なぜであろう。

P295そうした中で、後藤新平は、帝都復興院総裁を兼務し、後年に「震災から東京を復興した偉人」とする伝記が流布する。

大蔵大臣には大分県出身の井上準之助が就任し、大蔵大臣だった薩摩出身の市来乙彦が九月五日に日銀総裁に任命され、甚大な被害に呆然となっている商店や企業・銀行の救済を任された。

彼らはまず、借金の返済期限が迫っている手形(借金の証書)を「震災手形」と認定する方法をとり、被災して資金難に苦しむ者がただちに借金を返さないでもよいよう一ヶ月の猶予期間を設けた。

しかし一ヶ月では効果がなかったのでたびたび延長したが、こうなると金を貸している銀行が、不良手形を抱えて経営が行き詰まる。
(略)
P306
昭和二年恐慌
昭和二年(一九二七年)一月、若槻内閣は政府補償によって震災手形の整理を進めることとし、そのための損失補償法案を議会に提出したが、野党は銀行の不良債権の実態を明らかにせよと攻めたて、手形の整理が進まなかった。

そうして震災手形問題を審議中の三月十四日に、大蔵大臣の片岡直温が突然、「東京渡辺銀行が破綻した」と発言したため、預金者が銀行に殺到して取付け騒ぎとなり、渡辺銀行とその姉妹銀行あかぢ銀行が翌十五日に臨時休業に追い込まれた。

実は、渡辺銀行はまだ破綻せず、何とか決済にこぎつけていたのだが、この歴史上有名な失言によって、本当の破綻に追い込まれてしまったのである。これが失言恐慌・昭和二年恐慌と呼ばれる大恐慌の始まりであった。

土佐高岡郡生まれの片岡は、前年に長者番付で京都府第三位の資産家であり、兄が大阪財界の大物・片岡直輝だった。明治末には野村徳七と並ぶ北浜の資産家となった大物相場師「島徳」こと島徳蔵が、ミナミの料亭大和屋で政友会などの政党関係者と交遊する時代に、片岡直輝がこれを後押しして大阪株式取引所理事長に就任させ、バクチ場と呼ばれる市場でかせぎまくった相場の金が政治資金に化けていた。

P307大阪瓦斯は、社長の片岡直輝と取締役の野村徳七らによって経営され、薩長藩閥政治家は、伊藤博文以来、これらの金にたかってきた。島徳は序章一八頁に名がある通り、筑豊炭鉱御三家と並ぶ巨大資本家であった。この世界から出た大蔵大臣の失言から、渡辺銀行が破綻に追いこまれたのである。

破綻したあかぢ貯蓄銀行は勿論赤字ではなく、前述のように、渡辺銀行の頭取・渡辺治右衛門の屋号が明石屋治右衛門で「明治(あかぢ)銀行」と命名したもの。この東京第五位の大地主だった渡辺銀行破綻が、不況に苦しむ預金者の不安を煽って、ほかの銀行にもみるみる波及していった。

これらの個人銀行は、身内や親しい実業家に対して、担保も取らず、信用貸しで融資することが商人世界の常識となっていたからである。これは今日の経済論では大いに批判される経営メカニズムだが、江戸時代からの商業では、人間が人間を信頼するという関係で成り立っていたので、決して不自然ではなかった。

むしろそれによって、下町の商業が活かされてきた。しかし近代的な銀行は、不特定大衆の金を預かるのだから、身内の事業に融資すれば問題が出てくる。一ハ三頁の系図2「満鉄株主集団Ⅲ東京大地主・渡辺銀行グループ」の系図が吹き飛んだのだから、その深刻さが理解される。

四日後の三月十九日午後には、村井銀行の東京本店が取付け状態となり、二十二日には京都支店、神田支店など全店が休業に追いこまれた。タバゴ王・村井吉兵衛は前年に長者番付の最上位グループに名を残してこの世を去っていたが、残されら大富豪の村井一族には悪夢のような出来事が待っていた。

この窮地で、手を貸してくれるはずの日銀総裁・三島弥太郎も、すでにこの世になかった。

P308近江出身で元禄年間から江戸に出て、江戸屈指の両替商となった中井新右門家の中井銀行も、同時に休業に追いこまれた。この時にばたばたと連鎖的に破綻に追い込まれた銀行を、多くの書は小さな銀行としているが、とんでもない認識不足である。

渡辺治右衛門と村井吉兵衛の資産はいずれも五〇〇〇万円、合わせて一億円に達していた。日本最大の紡績業者である鐘淵紡績の総資産が、この二年後に一億四六〇〇万円、日本最大の海運業者・日本郵船が一億四〇〇〇万円、いや日本最大企業の満鉄でさえ一〇億円に満たない時代である。満鉄の総資産の一割を二人で握るほどの持丸長者であった。

一ハ九八年(明治三十一年)に納税額が東京府で第三位の中井新右衛門もまた、決して小さな商人ではない。商人銀行であった彼らの融資先は、当時の庶民生活を支えた衣類や電力、鉄道、鉱山まで広がり、甲州財閥・根津嘉一郎や渡辺治右衛門の息子・勝三郎が社長をつとめた上毛モスリンに中井銀行が最大の融資をおこなっていた。

もう一つの大きな融資先だった高田商会は、機械輸入で三井物産と並ぶ軍需産業の大商社であった。「天下の糸平」として鳴らし、北海道まで政財界に巨大な勢力を伸ばした横浜貿易の巨商・田中平八の息子が、高田商会創業者の高田慎蔵の娘と結婚していたのだから、商業界におけるその勢力は絶大であった。

この高田商会が危機に陥り、あまりの影響の大きさに、海軍と密着した高田商会の救済は議会で問題となったが、大蔵省預金部から救済資金は投入されず、これら上毛モリスンや高田商会が破綻し、その余波で中井銀行が閉鎖に追いこまれたのである。

P309その波紋はどこに達したであろうか。大蔵省でこの決断を下した人物は、当時の理財局国庫課事務官として預金部の資金を動かし、のち大蔵大臣から東條英機内閣の大東亜大臣に出世し、戦後は一九七〇年に靖国神社のA級戦犯合祀を画策した最大の右翼黒幕・青木一男である。

軍需輸入を食い止める平和的な判断であったはずがない。高田商会破綻によって、三井物産が軍需輸入で覇者となったのである。

だがこの一連の取付け騒ぎも、翌月の連鎖的な破綻よりは、まだよかった。四月に入ると、五日に日本最大の商社・鈴木商店が新規取引を中止し、八日には鈴木商店が経営する神戸の第六十五銀行が休業に追い込まれ、株式相場が暴落し始めた。

十八日には、台湾銀行が台湾内の店舗を除いて全支店が休業し、同じ日に大阪の近江銀行が休業すると、全国に銀行取付けが波及していった。二十一日には、日本一を誇る大名資産で出発した十五銀行(華族銀行)までが休業に追いこまれたのである。鈴木商店は最終的に七月三十一日に閉店した。

関西や台湾を中心に起こったこれら鈴木商店・台湾銀行・近江銀行・華族銀行の連続破綻は、この取付け騒ぎの震源が関東大震災ではないことを明らかにした。これら関西の土地は大震災の被害を受けたわけではない。

ところが関東大震災が起こり、震災手形によって借金の支払いを延期が許されるというので、全国の各社・各銀行が粉飾決算によってそれ以前から隠していた不良債権を、火事場泥棒的に震災手形として認めてもらい、経営の悪化を伏せてきたのである。

鈴木商店は、痛快な伝説の事業家・金子直吉によって経営され、第一次世界大戦前後には、スエズ運河を通過する船舶の積荷のうち、神戸の鈴木商店が一割を占めるほど、世界的な大商社となっていた(tw)。

P310もとは土佐出身の貧しい金子直吉が、台湾総督時代の後藤新平を言葉巧みに懐柔して、台湾産の樟脳に目をつけ、その大半の販売を鈴木商店が引き受けるようにしてから、一気に店を興隆させた商店だった。

その後の成長と肥大は、戦争を土台に肥えた軍需成金のパターンではあったが、直吉の才覚と、その番頭役を信頼した鈴木商店主・鈴木よね(よね子)の判断によって、鈴木商店は日本一の商社となっていったが、当時の持丸長者第一位の岩崎家や住友家が一億円の資産のときに、金子直吉の月給は九〇円。

小さな小林製鋼所が神戸製鋼所に発展し、帝国人造絹絲(帝人)が設立され、石川島播磨重工業の一部門となる播磨造船所を育て、双日の母体となる日商岩井を生み出した直吉の力量は、特異なものであった。

この男、本質的には戦争嫌いとも言われるが確かではない。生涯一軒の家も一坪の土地も所有せず、最後に文無しで死んでいった人生を見れば、不可思議な人物である。

その間にも、大正七年には、五月七日に農商務省が外米管理令に基づいて三井物産、鈴木商店、湯浅商店、岩井商店を外米輸入商に指定したため、鈴木商店は朝鮮や台湾からの外米を大量に輸入し、これを安い値段で近畿・中国・四国地方に送って米価暴騰に歯止めをかけようと最大の力を尽くした

ところが、「米価の暴騰は鈴木商店の策謀だ」との噂によって、鈴木商店とその系列の神戸新聞社、神戸製鋼所、神戸信託などが民衆の襲撃を受ける米騒動に巻きこまれ、次々と灰燼に帰した。

そこから立ち直りながら、世界の海軍軍縮条約と、大震災の不況によって神戸製鋼所播磨造船所が大打撃を受け、ついに鈴木商店は破綻に追いこまれたのである。

鈴木よねの一族が、もしその閨閥を、政治家や華族たちのに広げていれば、鈴木商店は現在も生き残る財閥になっていたに違いない。

P311この恐慌は、財閥が待ち望んでいたものだった。鈴木商店をつぶし、中小の勢力を傘下におさめる恰好の機会だったからである。三井財閥の大改革を機に常務取締役に抜擢されて以来、三井銀行の経営トップとして資金を動かしていた池田成彬(せいひん、とも読む)が、この恐慌を目にして、台湾銀行から短期貸借のコールマネーを全額引きあげたので、台湾銀行は鈴木商店救済どころではなく、自分の経営が危機に陥った。時の台湾銀行頭取は、森広蔵で、鈴木商店が興盛のピーク時代に神戸商業会議所特別顧問をつとめていた人物だから、神戸最大の商人・金子直吉とは昵懇の間柄だった。

そうした関係から、関東大震災の翌年には、台湾銀行から鈴木商店に対する融資額が三億円を超え、台湾銀行の全貸出額の半額近くに達していた。しかし森広蔵といえども、鈴木商店を切り捨てなければならない立場になり、三月ニ十六日に台湾銀行から新規貸出の停止を通告された鈴木商店は、それから十日後に借金に追いつめられたまま最後の坂を転げ落ち、そのため、続いて台湾銀行が窮地に陥り、休業に追いこまれたのである。

大阪の近江銀行も、三井財閥には目ざわりな存在であった。鐘淵紡績にとって最大のライバルは大阪紡績と三重紡績が合併して誕生した東洋紡績だったが、その合併の仕掛人で、のちに東洋紡社長に就任した近江商人の阿部房次郎が取締役をつとめてきたのが、名門の近江銀行であった。

したがって、近畿地方の膨大な数の紡績業者が、この銀行経営に関わっていた。阿部家は長者だらけで、さらに阿部一族と結婚した相手には、長者番付で大阪府第二位の山口銀行頭取・山口吉郎兵衛(序章の長者番付では全国第三五位)、島根県第二位の堀藤十郎(鴻池善右衛門~野村利利左衛門一族)、

P312総理大臣の金満家・松方正義がその親族として名前を連ねていた。ここが破綻したのである。

しかも同時に破綻した華族銀行(十五銀行)は、その松方正義の息子である松方巌が頭取として経営してきたので、傘下には、薩摩の川崎正蔵が築いた川崎財閥系のの神戸川崎銀行のほか、関西の浪花銀行もあり、松方巌が頭取をつとめる東京の丁酉銀行もあった。

松方の個人経営による乱脈融資が破綻の原因ではあったが、最終的な倒産が誰かの差し金であった可能性は高い。なぜなら、倒産の少し前に、さる筋から破綻間近だと知らされた多くの大名華族資産家たちが、十五銀行から預金を早めに引き出して助かったと伝えられるからである。

代表者であった松方巌公爵は私財の大半を放出して責任をとり、爵位を返上したが、十五銀行は、のち一九四四年に帝国銀行に吸収合併されて、三井銀行会長だった万代順四郎頭取の傘下にはいった。

このように渡辺銀行の破綻に幕を切って落としたこの昭和二年恐慌は、大衆の不安を煽った実業家たちによって加速されたものであった。関東大震災前から日本の不良債権経営の実態を知っていた実業家たちが、日本の経済に最も大きな不安を抱いていたのである。

そこへ渡辺銀行の破綻を耳にして、家族や手代を銀行に走らせ、預金の引き下ろしを指図した。大衆はそのような事情を知るはずもなく、あとから動いて被害を受けた烏合の衆にすぎなかった。

部下を見捨てて敵前逃亡したフィリピン戦線の司令官・富永恭次、ビルマ方面司令官・木村兵太郎をはじめ、一九四五年八月十五日の戦争敗北で占領地から真っ先に逃げ出したのが日本の多くの軍人であることは、終戦でよく知られているが、

金融危機で真っ先に逃げたのも長者たちである

恐慌で拡大した五大銀行の勢力
(略)
P314

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