①NHK
②『日本国紀』
第十二章 敗戦と占領 P407-441日本国憲法 P410-413
P412 いわゆる「戦争放棄」として知られるこの条項は、マッカーサーの強い意向で盛り込まれたものだったが、さすがに民生局のメンバーからも、「憲法にこんな条項があれば、他国に攻められた時、自衛の手段がないではないか」と反対する声が上がったといわれる。そのため、「前項の目的を達するため」という文言が追加され(芦田修正)、自衛のために戦力を保持することができるという解釈を可能にする条文に修正されたが、日本人の自衛の権利すら封じる旨を謳っていることに変わりはなかった。
GHQはこの憲法草案を強引に日本に押しつけた。内閣は大いに動揺したが、草案を呑まなければ天皇の戦争責任追及に及ぶであろうことは誰もが容易に推測できた。この時、草案を受け入れた幣原首相は、後に「憲法九条は私がマッカーサーに進言した」と語っているが、それは有り得ない。九条は、トルーマン政権及びマッカーサーの断固とした意志であり、「戦争放棄」についてはマッカーサーが民政局長に手渡したとされる指示ノートに残されている。(略)
③『日本近現代史入門』(url)
第六章 敗戦直後の日本の改革と日本国憲法 P350-454七人の男、日本国憲法制定に立ち上がる P408-425
P409 まず初めに声をあげたのは文化人グループであった。敗戦翌月の一九四五年九月二七日、辰野隆、正宗白鳥、山田耕作、山本実彦、村岡花子たちが、日本文化人連盟発起会を開き、「文化の民主主義化を促進する」するよう会合を持ち、このグループが日本国憲法誕生の起爆剤となった。(略、メンバー紹介)。
P411 この文化人グループに続いて動いたのが近衛文麿グループであった。一九四五年一〇月四日に第二回目の近衛・マッカーサー会談がおこなわれ、マッカーサーが憲法改正によって自由主義を取り入れる必要性を近衛に申し伝えた結果、近衛のもとで、憲法学者・佐々木惣一博士、高木八尺博士、ジャーナリストの松本重治などが、アメリカ国務省と連絡を取りながら憲法草案の作成に着手した。(略、近衛の逮捕で消滅)
P412 第三の動きは、松本丞治グループであった。一九四五年一〇月一一日に幣原喜重郎首相・マッカーサー会談がおこなわれ、新任総理大臣の挨拶に来た幣原に対してマッカーサーが憲法の自由主義化と人権の確保を口頭で要求したのである。(略)
第四の動きが、もっとも重要な鈴木安蔵グループであった。一九四五年一〇月一五日に憲法学者の鈴木安蔵が自由憲法の必要性について三日間にわたって講演し、その内容が新聞に連載されたことがきっかけとなって、一一月五日に先の文化人グループの高野岩三郎のほか、杉森幸次郎・室伏高信・岩淵辰雄・馬場恒吾・森戸辰雄が加わって、この七人が「憲法研究会」を東京で結成したのである。(略)P413一二月二八日の毎日新聞一面に鈴木安蔵草案が掲載され、これがGHQの憲法草案の土台となったのである。(略)
第五の動きとして、同時期の一一月八日に、政党のトップを切って日本共産党が第一回全国協議会を開き、新憲法の骨子を決定し、一一月一一日には、人民主権の憲法草案「新憲法の骨子」を発表した。(略)つまり、一九四五年内に生まれた憲法草案は三つだけで、共産党案が最も早く、続いて佐々木惣一草案が出て、翌月に憲法研究会草案(鈴木安蔵草案)が出た。しかし共産党は"天皇制の廃止"を求める行動に出たため、当時の日本の世情では、支持される可能性は低かった。
マッカーサーもその世論を考慮して、占領政策を容易にするため天皇制を維持する方針を固めていたので、共産党案には最初から育つ芽がなかった。佐々木惣一草案は、自由主義者の高木八尺博士や、ジャーナリストの松本重治も議論に加わったので、民主化については一部に進歩的な面を含んでいた。(略)P414しかし、"天皇の統治権を維持する"という佐々木惣一の封建思想がひどく時代遅れで、近衛の自殺と、佐々木の頑迷さのため、この草案は完全に空中分解した。残るは年末に登場した鈴木安蔵草案しかなかったのである。
アメリカは、ちょうどその直前の一九四五年一二月六日にGHQの弁護士で、民政局の法規課長だったマイロ・ラウエルが「日本の憲法についての準備的研究と提案のレポート」を作成していた。そこに、日本人の急な動きが出てきたのを見て、大晦日に連合軍翻訳通訳部(ATIS=Allied Translator and Interpreter Section)が、鈴木安蔵らが打ち出した憲法研究会草案の翻訳に取りかかった。
あと一つは、アメリカではない連合国グループが動いていた。この一九四五年一二月一六日からモスクワで連合国のアメリカ・イギリス・ソ連の三国外相会議が開催され、戦争に敗北した日本を連合国が占領するにあたり、「アメリカ主導のGHQだけに憲法など日本の改革を任せることに反対していたからである。そこで一二月二六日、日本を管理するための政策機関として一一ヵ国で構成される国際的組織"極東委員会"を翌年の一九四六年二月二六日に発足させることで合意し、翌日モスクワ宣言として発表した。(略)
P415 こうして一九四五年を送り、明けて一九四六年以後が、有名な、世に論じられてきた憲法制定の議論だが、すでにこの段階で、民主的憲法の骨格は、鈴木安蔵草案によって決まっていたのである。(略、以下、この草案にかかわった七人について語られる)
P419 一九四六年が明けて、急な動きに泡を食らった日本政府の松本丞治が、ようやく憲法改正私案の起草を開始し、憲法問題調査委員の宮沢俊義らが加わったが、彼らは国民の主権さえ眼中になく、民主化とはほど遠い封建的憲法をこしらえたのである。一九四六年二月一日の毎日のスクープで、この日本政府の憲法改正案の内容を知ったGHQが驚きあきれて激怒し、二月三日にマッカーサーがニューディールの民生局に、急いで憲法モデルを作成するよう極秘に命じることになった。
民政局メンバーは、ポツダム宣言と、国連憲章と、前年末に公表された鈴木安蔵草案を土台にして、アメリカ憲法、ドイツのワイマール憲法、フランス憲法、日本の各政党の憲法草案など、ありとあらゆる資料を並べて議論を重ねた。しかし、憲法学者ではない彼らが、短時日での作成を命じられたため、結局は鈴木安蔵草案を骨格にして、二月一〇日にGHQ草案を作成した。
それを知らない日本政府が、二月八日に「憲法改正要綱」(松本試案)をGHQに提出したが、二月三日にGHQが政府案を拒否し、逆にGHQ草案を突きつけられ、以後はよく知られるように、徹夜の書き換え作業にかかった、という次第であった。P420 情けないのは、日本の国民に自由を与えようとするそのGHQ草案に、吉田茂と白洲次郎が口を出して、民主化を妨害し続けた態度であった。マッカーサーはアメリカ上院軍事外交委員会で、日本人は「十二歳の子供」であると語ったが、まさにそのような振る舞いであった。
s 最終的には一九四六年三月五日、GHQとの交渉によって大幅に修正された日本政府の確定草案が採択された。翌六日に緊急記者会見で「憲法改正草案要綱」が発表されたのである。そこには、鈴木安蔵たちが求めた通り、主権在民が明記され、天皇制は維持されるが天皇を単なる国家の象徴とし、天皇の統治権が否定されていた。また、GHQがほかの戦勝国に天皇制維持を納得させるために、国際紛争を解決する手段としての「戦争放棄」が規定されていた。マッカーサーがこれを全面的に承認する声明を発したことは言うまでもない。
最近になって注目されているのが、「憲法第九条の発案者は誰であったか」という史実の発掘である。「戦争放棄の条項を発案したのはマッカーサーだった。アメリカの押しつけ憲法である」と吹聴する人間が多いが、実は「首相の幣原喜重郎が、憲法に戦争放棄の条項を入れたいと言った」と、一九五一年五月五日にアメリカ上院外交委員会でマッカーサーが述べた証言記録がある。また一九四五年一〇月九日から一九四六年五月二二日まで総理大臣をつとめていた幣原本人が、一九四六年一月二四日の幣原・マッカーサー対談について、一九五一年に秘書・平野三郎(のちの衆議院議員)に語った内容が、「幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について」と題した文書として一九六四年に内閣の憲法調査会に提出されていた。
それによれば、幣原は、P421原子爆弾ができた地球は集団自殺に向かっているので、だれかが自発的に武器を捨てる必要があり、「その歴史的使命を日本が果たす」ために、マッカーサーに戦争放棄条項を進言し、その時、日本人の発案とせず、アメリカの発案とするよう頼んだと書かれていた。そして一九五八年に憲法調査会の高柳賢三会長が渡米して、憲法の成立過程を調査して帰国した。
その年、一二月五日に、マッカーサーが高柳会長に宛てて、「(憲法第九条は)世界に対して精神的な指導力を与えようと意図したものであります。本条は、幣原男爵の先見の明と経国の才と叡智の記念塔として、永存することでありましょう」との手紙を送った。そこで同年一二月一〇日に、高柳会長がマッカーサーに宛てて、「幣原首相は、新憲法起草の際に、戦争と武力の保持を禁止する条文を入れるよう提案しましたか。それとも貴下(マッカーサー)が憲法に入れるよう勧告されたのか」という質問の手紙を送った。
それに対して、一二月一五日付けでマッカーサーから返信があり、次のように明記されていた。「戦争を禁止する条項を憲法に入れるようにという提案は幣原首相がおこなったのです。首相は、私(マッカーサー)の職業軍人としての経歴を考えると、このような条項を憲法に入れることに対して私がどのような態度をとるか不安だったので、憲法に関しておそるおそるわたしに会見の申し込みをしたと言っておられました。私は、首相の提案に驚きましたが、私も心から賛成であると言うと、首相は明らかに安堵の表情を示され、私を感動させました」。
以上、憲法調査会に関する動きは東京新聞二〇一六年六月一二日と八月一二日の記事によるので、P422この記事によって初めて史実を知った日本人も多いだろう。しかしこの記事が掲載される三九年前の一九七七年にアメリカで製作され、翌一九七八年に日本でも公開された伝記映画『マッカーサー』の中に、幣原首相がマッカーサーを訪問して、「軍国主義者をおさえるために、新憲法に武器保有の放棄を入れるよう幣原が提案し、マッカーサーが驚きつつ感動した」シーンが明確に描かれていたのである。
この映画は、ハリウッド大スターのグレゴリー・ペックが主演し、アメリカ国防省(ペンタゴン)が協力して、史実を忠実に再現して製作された作品である。憲法第九条が日本人の発案だったことは、動かない事実なのである。
かくしてGHQとの交渉で修正された日本政府の確定草案が採択され、「憲法改正草案要綱」が発表されたあと、連合国の極東委員会が、「これで決定するのではなく、日本の国民が憲法改正に自由に参加し、議会を経て決定しなければならない」と、これまたまったく当然の勧告をおこなった。それを受けて議会でたびたびの議論が展開され、鈴木安蔵グループも次々と意見を加え、さらにそこに国民が数々の意見を寄せたのである。
怪しげな密室の小委員会が修正案を出すなどもしたが、土壇場になって、一一ヵ国の国際的組織、極東委員会が「普通選挙制」と、「総理大臣と国務大臣は文民でなければならない」という重要な条項の追加を求めたおかげでそれを加え、一九四六年一〇月七日に衆議院が、憲法改正案の貴族院修正案を可決し、「帝国憲法改正案」つまり現在の「日本国憲法」が修正可決されたのであった。四ヵ月におよぶ議会を経ての成果であった。
P423 憲法改悪の動きが出てきた最近になって、この骨格をつくった鈴木安蔵草案の存在意義がマスメディアで報道されるようになったのは好ましいことである。だが、それが「今発掘された新事実」であるかのように報じられるのは、まったくの嘘である。広く日本の文化人の考えを採り入れた憲法研究会草案をもとに、GHQ草案が生まれたことは戦後すぐに日本史の書物に書かれ、古くから知られた事実である。
その存在を、知らなかったとすれば報道人として恥ずかしいことであり、実は故意に無視して、「GHQの押しつけ憲法」というデタラメ世論を生み出してきたのが、近年のテレビと新聞の報道界なのである。
しかし鈴木安蔵らの憲法研究会草案にも欠点があり、それをGHQの良識あるブレーンと世界的な極東委員会が補い、議会で広く国民の声を採り入れた者が、一九四七年五月三日に施行され太日本国憲法であった、というのが正しい。憲法の口語化に尽力したのは、『路傍の石』を書いた小説家・山本有三であった。
こうして成立した日本国憲法について一筆述べておかなければならないことがある。近頃、「自衛隊という軍隊は実在するのだから、日本国憲法の第九条を修正する必要がある」という人間がいるが、条文の意味をまったく理解していないようだ。第九条は「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と定めたのである。つまり憲法制定後に生まれた自衛隊は、日本が侵略を受けるようなやむなき場合にのみ活動する、その名の通りP424「自衛に限られる」と憲法に縛られているのであって、自衛である限り憲法違反ではないと解釈されて、存在が認められてきたのだ。
一方、外国の戦闘に参加する集団的自衛権の行使と、積極的に戦争を仕掛ける軍隊と、他国を威嚇する武力は憲法違反なのである。