P368 一九三九年十二月、まだ不思議な休戦状態が続くなかで、ジェームズの父フランク・ゴールドスミスはゲシュタボが迫ってくる危険を背中に感じた。王者ロスチャイルド家の血筋にあるとはいえ、ユダヤ人である以上、自分だけが助かるという確証はなかった。彼はフランス一のホテル王だったが、クリスマス前に家族に身支度を命ずると、ピレネー山脈を越えて海岸に向かうよう告げたのである。仲間のユダヤ人も、多くの家族が行動を共にした。
ビスケー湾からイギリスに向かう船は、ただの満員でなく、定員四百人のところに五千人という危険な数の乗客を詰め込んでいた。そのときゴールドスミス一家は、思いがけない乗客とめぐり合った。まだ幼いルネ、アン、イヴリンというロスチャイルド家の子供たちが、おそらく死を覚悟して、その船上でふるえていた。
一九四〇年五月十日、イギリス・フランス方面での休戦状態が突然破られた。ポーランドを完全に支配し終えたドイツ軍は、西部戦線に進撃を開始した。同日、ウィンストン・チャーチルがイギリス首相に就任し、挙国一致内閣が組織された。チェンバレンの時代は終わった。本物の世界戦争がはじまったのである。今度はたがいに容赦のない殺し合いのほかはなかった。一方的な占領でなく、これからは軍需産業同士の死闘になる。
ドイツ軍が早くもオランダを占領した。その街のなかには、まだ幼い、一ヵ月後にようやく十一歳の誕生日を迎えようとする少女がいた。その子の名は、アンネ・フランクといった。ロスチャイルド、ハイネ、シフたちと同様、この少女の一家はフランクフルトの出であった。ヒットラーが首相となった一九三三年、ドイツからオランダに移り住み、やがて父親の会社の四階に隠れ家をつくり、運命の日までの短い歳月を過ごそうとしていた、『日記』をつけながら。
この戦争の初期の特徴は、ヒットラーが自らあれほど攻撃P369していたはずの共産主義者ソ連と手を組んだことにあった。"賤しいユダヤ人" と、"呪うべき共産主義者"をこの世から消すはずの独裁者が、一九三九年八月二十三日(開戦九日前)に、"ドイツ・ソ連不可侵条約"を結び、さらに翌年二月十一日には"ドイツ・ソ連通商協定"によって、ソ連から石油・貴金属・穀物の供給を受けたのである。ヒットラーを助けたのが共産主義であった。
ユダヤ人の虐殺に手を貸したのが、ソ連であった。ソ連の侵略活動は、次のように記録されている。九月一日の開戦から十六日後…
一九三九年
九月一七日 ポーランド侵攻
一一月三〇日 フィンランド侵攻
一九四〇年
六月一七日 バルト三国のうちエストニアとラトビア占領
六月二八日 ルーマニア占領
七月二一日 バルト三国のうち残るリトアニアも併合
こうしてソ連が、ナチスと歩調を合わせ、開戦から一年も経たずに東欧から北欧にかけて次々と武力侵略をおこなった歴史は、第二次世界大戦史のなかではヒットラーの陰に隠れて、小さな出来事として見過ごされてきた。しかしこれが小さな行為であるはずはなかった。両国が手を組まなければ世界大戦は起こらなかった、少なくともドイツがポーランドにやすやすと侵略することはなかった、それほど重大な開戦の責任はソ連にあった。一九八九年にソ連が正式に認めたように、ソ連の外相モロトフとドイツの外相リッベントロップが密約を交わし、ポーランド侵攻と分割を約束していたのである(tw、tw)。
この犯罪は、決して軽微なものではなかったが、戦後は噂になりながら隠され、ナチスだけが一方的に断罪されてきた。しかしニュールンベルク裁判でナチス戦犯が異口同音に指摘したように、密約を一方的にできるはずはなかった。それから五十年後の現代における問題は、ソ連に侵略されたリトアニア、ラトビア、エストニアで爆発した。その密約が開戦を招き、今日のバルト三国の激しい独立紛争を起こしてきたのである。(略)
当時の史実を知らずに、激動のヨーロッパを知ることはできない。新しい歴史を解析してみよう。開戦直後に、ナチスと共にポーランドへ侵攻し、悪名高い"カチンの森の大虐殺(tw)"をおこなったソ連が、そのP370事実を認めたのが四十九年後の一九八九年であった。(略)これもまた、独裁者スターリンひとりに責任を帰す性格の問題ではなかった。戦後のニュールンベルク裁判でこの事実が提示されながら、ナチスを裁く検事側の椅子のひとつにソ連が坐っていたため、故意に無視され、アメリカ、イギリス、フランスもその犯罪隠しに協力したのである。
しかも第二次世界大戦当時、ドイツにソ連から石油を供給して戦争を持続させたのは、ほかならぬロスチャイルド=ノーベル財閥がソ連のバクー油田から生み出した会社「シェル」であった。シェルはイギリスの会社である。現在でもロスチャイルドの会社である。すでに宣戦を布告したイギリスとドイツの戦闘のなかで、石油は軍艦・戦闘機・戦車などすべての動力となり、弾薬の源であった。そのイギリス企業が敵国ドイツへ"自殺のための石油"を販売したのには、理由があった。
シェルの支配者としてのし上がり、石油業界のナポレオンと異名を取ったのが、ヘンリー・デターディングという男で、彼は共産主義を憎む資本家の象徴であった。バクー油田をソ連が国有化したため、ひと方ならぬ苦労をして原油を確保しなければならなくなったデターディングは、共産主義を相手に闘いはじめた。この男が、ロシア革命から七年後の一九二四年に、リディア・コンドヤロワという女性に惚れて結婚式を挙げた。彼女の父は、パウル・コンドヤロフ将軍--ロシア人だが、レーニン革命によって倒された帝政側の人物であった。
ところがヨーロッパの石油王デターディングは十二年後に別の女性、今度はナチス党員のシャルロッテ・クナークと結婚し、自らナチス党員となるや、ドイツに定住して次々とヒットラーの組織に金を与えはじめた。こうして、暗殺されたユダヤ人ラーテナウ外相が敷いたドイツ・ソ連の外交路線を悪用しながら、片方ではバクーなどから石油を調達し、もう一方でナチスを育てる「シェル」の冷酷なビジネスが誕生した。デターディングは開戦の七ヵ月前にこの世を去ったが、開戦後も社内でこのビジネスが続けられたことは、石油業過の語り草となっている。
開戦から九ヵ月後、一九四〇年六月七日に、ナチス政府は次のように公表した。「ソ連とルーマニアからの大量の石油輸入によって、わが国のガソリンは確保されているのである!」この石油を運んだのが、ほかならぬロスチャイルドの企業「シェル」であった。これは、まだ解けない謎である。しかし石油の絶対量が世界的に足りない状況にあったこの当時、実業界で"ナチスとユダヤ人問題"を重役人が議論する空気はどこにもなく、シェルが商品を販売したのは自然な商行為であった。
しかもソ連は、ドイツにバクーなどの石油を輸出するどころか、いまや国内の石油が不足しはじめ、十一月にはモロトフがヒットラーに中東の石油を要求するほど事態は深刻になっていた。こうしてナチスの自信に満ちた声明が、翌一九四一年には逆証明されることになってしまった。五月二十三日、ヒットラーがロシア油田の共同開発をソ連に申し入れた時、今度は盟友であるはずのスターリンが拒否する態度に出たのである。(略)それからわずか一ヵ月後、ドイツ軍がロシアに侵入する姿を、全世界は目にすることになった。--バルバロッサ作戦。石油は魔物である。
このスターリンとの対決の前に、ドイツはオランダだけでなく、ベルギー、ルクセンブルクを占領し、破竹の勢いでイギリス海峡に到達。さらにムッソリーニのイタリアが南からイギリス・フランスに宣戦布告し、フランスを挟撃する姿勢を取った時には、フランス政府は逃げ出してしまったのである。
一九四〇年六月十四日、ドイツ軍がパリへ無血の入城を果たし、かの憎むべき屈辱の条約を締結したヴェルサイユ宮殿に、いまクレマンソーの姿はなく、ヒットラーの有頂天にのぼりつめる姿が代わりにあった。パリ陥落…(tw)。
ここから、歴史上特筆すべき人物シャルル・ドゴール将軍(→参照)が突如として現れると、自由フランス軍を率いて抵抗を呼びかけ、ナチス打倒のため立ち上がったのである。ドゴール将軍とは、一体何者だったのであろうか。一体、誰の認知を得て、フランス国民を統率する権利が与えられたのか。歴史家の多くは、この大きな疑問にくわしく答えてくれない。ドゴールは、ある人物によってその任に選ばれた。ある人物、それはウィンストン・チャーチルであった。
パリが陥落すると、ボルドーに逃れていたフランス首相レイノーは、ペタン副首相と真っ向から対立した。首相は北アフリカから"反撃する作戦"を主張したが、副首相はナチスと"休戦協定"を結べと言うのであった。ペタンは第一次世界大戦の英雄で、P372このとき実に八十四歳。かつての勇者ペタン元帥を副首相に据えたつもりのレイノーが驚いたことに、この老人は首相を追放して政権を自ら握ると、たちまちヒットラーと休戦協定を結んでしまい、あとは余生をそこで過ごそうとでもいうのか、中部の山岳地帯にある小さな温泉町ヴィシーに政府を移してしまった。悪名高いヴィシー政権は、このあとユダヤ人迫害のために法律を制定し、十万近いユダヤ人をを強制収容所へへ送っていった。これがフランス人の奇怪な歴史であった。
こうしてユダヤ人にとってただ一つ残された希望、それはイギリスにほかならなかった。ウィンストン・チャーチルの両肩にすべての責任が重くのしかかってきた。ところがこの好戦家は、周囲に重厚な人材を揃えていたため、たじろぐどころか身を乗り出して戦闘を呼びかけた。ヒットラーが休戦を申し入れても、それを蹴ったのがチャーチルであった。チャーチルは、イギリスの敗北を避けるための首相ではなく、ナチズムを倒すための首相、として選ばれていたからである。
チャーチルに与えられた任務は、戦勝に向かう道であった。(略)"Vサイン"の発明者チャーチルは、勝利(victory)のほかには許されない、という厳命をある人物から受けていた。この男が握っていた人材のひとりが、エドワード・スピアーズという暗号解読の専門家で、情報機関のなかでも群を抜く能力を持っていた。見る目が鋭く、行動力があり、チャーチルとは第一次世界大戦の時から深い信頼関係ができていた。フランスの抵抗部隊の指揮官としてだれを選ぶべきかとチャーチルに尋ねられた時、そのスピアーズが推したのがドゴールだったのである。(略)
半年後に五十歳の誕生日を迎えようとしていたドゴールは、後にフレデリック・フォーサイス「ジャッカルの日」の主人公になるほど世界的な重要人物--暗殺の対象--になろうとは、このときはまだ想像だにしていなかった。第一次世界大戦でペタン元帥に仕えた男ドゴールに、チャーチルはいま第二次世界大戦でそのペタン元帥に反旗を翻す指導者になれと説得した。チャーチルとドゴールの戦術思想は強く共鳴し合っていた。
そのころ多くの軍人はいまだにナポレオン時代の古臭い戦闘に郷愁を抱き、"陣営の配置"などに頭を使っていたが、この両人は"兵器の機動性"、特に空軍や海軍の装備と殺傷能力が戦争の向背を決する近代戦を強く主張していた。軍人の勇気ではなく、兵器の優劣がことを決定する--またそれを維持する軍需工場と石油を確保すれば、物量の原理によって必ず勝利が訪れる--このように、後年われわれが東西対立四十数年にわたって見てきた戦争哲学を、イギリスとフランスP373でそれぞれ生み出したのがチャーチルとドゴールであった。(略)
近年の企業番付では、ヨーロッパ一位が「シェル」、二位が「ブリティッシュ・ペトロリアム」(英国石油)という順位が不文律となっている。後者は、BPと略して呼ばれ、つい先年、一九八七年に株が民間に公開された時には史上最大規模のためロンドン・シティーが大騒動となった。石油王ロックフェラーの本拠地「スタンダード石油オハイオ社」を完全買収し、鉱山王グッゲンハイム家が支配してきた世界最大の産銅会社「ケネコット」も買収したのが一九八〇年代のBPの姿だ。
このBPの株を海軍に買わせたのが、ほかならぬチャーチルだったのである。そのためウォール街では今日でも、チャーチルは世界一の投資家とみなされている。
チャーチルは戦争が面白くてならなかった。インド、エジプト、南アという大英帝国植民地の3C拠点で、原住民を苦しめ抜いた戦争のなかから誕生したチャーチルが、いまや独裁者ヒットラーを倒して自ら英雄になろうという野望を抱いた。
ところがこの人物、単純な戦争屋ではなかった。他に別の目的を持って活動してきた。侵略の急先鋒として、植民地の№2「次官」から商務院に移って総裁のポストに就くと、ロスチャイルド一族の貿易のために走り回り、ついで情報機関のボスとして内務大臣をつとめたあと、海軍大臣となっては艦船を激増させ、軍需大臣となっては戦車の生産に没頭した。
さらに陸軍大臣・航空大臣・植民大臣と軍事世界のトップを歴任したが、いずれのポストにあっても、ほかに類のない軍備増強の足跡を残してきた。細菌爆弾の研究さえ命じたことが明らかにされている。この男が大蔵大臣という要職を手にしたのが一九ニ四年、その翌年にチャーチルが何をしたかと言えば、シティーのロスチャイルドやゴールドシュミットなど五大金塊銀行がボロ儲けをした金本位制の復活という一大経済政策であった(関連1、2、3、4)。
第二次大戦の開戦と共に直ちに海軍大臣となってしきりに腕をさすってみたが、チェンバレンのドイツ宥和政策の前になす術もなく、首相を猛烈に批判してきたチャーチルである。悲願であった首相のポストを手にして、そのうえ国防大臣を兼務することになったのであるから、戦争屋にはこたえられなかった。
『ガンジー』と『遠い夜明け』でインドと南アの問題作を世に問うたリチャード・アッテンボローが、映画監督として一人立ちした初期の作品が→P374へ
(P374-)
P374 一九七二年の『若き日のチャーチル』だったことは、アッテンボローやチャーチルの個人史とイギリスの歴史を三重写しにして見せる出来事だ。ハリウッドのゴールデン・グローヴ賞を獲得したその映画では、冒頭からインドで従軍する若僧チャーチルの姿が描かれ、たえず戦争に熱中する貴族社会の男が主人公として描かれた。
その作品ではまだチャーチルの残忍さを描いたとはとても言えないが、イギリス国内では今日でも英雄の筆頭に挙げられるチャーチルである。イギリス人のアッテンボローとしては、精一杯の皮肉をこめて幻想の破壊につとめたのであろう。
チャーチルは間違ってもヒットラーを倒した英雄ではなかった。イギリスの軍需産業に火を付け、そのためヒットラーとナチズムを生み出した戦争の挑発者、特にナチズムに対するドイツ国民の共感を誘発した男、第二次大戦の要因を自らの手で生み出した男、それがチャーチルの過去であった。
そして自分で蒔いた種は、自分で刈り取らねばならなかった。その男の出番が到来したのである。
"チャーチル首相の閨閥"を系図34に描いてみると、このようになる。従兄のチャールズ・チャーチルが、一九世紀全米一の富豪で鉄道王ヴァンダービルトの娘と結婚していたため、首相は一文無しのような顔をしながら、一族には金がうなっていた。
従姉リリアン・チャーチルは、イングランド銀行総裁とモルガン・グレンフェル創業者のグレンフェル一族と結婚し、これまたロスチャイルド家とモルガン家という世界二大富豪を掌中にしていた。チャーチル本人はマルボロ(モルバラ)公爵家に属する最高位の貴族ファミリーで、一九五三年にガーター勲章を授けられて、サーの称号で呼ばれるようになり、チャーチル夫人は"レディー"と呼ばれるようになった。
ある日のこと自動車に乗っていると、便所に、"レディーズ"と書かれているのが見え、チャーチルは夫人に「ほら、君もあそこに入れるようになったのだ!」とふざけてみせたというが、それか公爵家のプライドが語らせた皮肉であった。
正式名は、ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチルというが、このスペンサーとはスペンサー伯爵家、読者ご存知のダイアナ妃(相互参照)の父親が八代目に当たる一族で、もともとチャーチルのマルボロ公爵家から分家して生まれたのがダイアナ妃であった。
しかもチャーチル本人の結婚相手が、やはり現代のエリザベス女王の従妹アレクサンドラ王女の一族になる。まだまだる。マルボロ公爵六代目の孫娘は、メキシコで石油を掘り当てたピアソン家に嫁ぎ、そのピアソンの兄弟が投資銀行ラザール・ブラザーズを支配して、先ほど述べた通りクライヴ・ピアソンの資金によってブリティッシュ航空が設立されたのである。
またそのアメリカ閨閥は、パン・アメリカン航空の創業者ホイットニーと共に、ヤルタ会談の話し相手ルーズヴェルト大統領当人が一族として姿を現し、そこに死の商人デュポンが結ばれるという異様な世界であった。
P375 ヤルタ会談はファミリー談合の場であり、第二次大戦後の歴史を支配したヤルタ体制は、改めて検証する必要を感じさせようチャーチルを要約すれば、シティーの二大マーチャント・バンクの中枢にあって、鉄道と航空界を動かす一見"貧乏貴族"であった。これからの物語で、やがて海運王オナシスに登場してもらうが、予告編として、その姿もチャーチルの系図に加えておく。
戦後、オナシスの豪華船クリスティナ号の上で、チャーチルやケネディーが不思議な談合を重ねる時代が来る。
しかし以上の説明でも、チャーチルの特質のなかで最大の要素についての説明が欠けている。これだけあげれば、ロスチャイルドにとってはモズレー卿やチェンバレン首相のように反逆者となる危険性が充分に残されていたのだが、チャーチルはこの戦争の開戦直前に、ジュネーブにあるプレニーの館に招かれていた。
館の主は"赤い盾"フランス家四代目のモーリス・ロスチャイルド。青年時代にフランスでドレフュス事件を目撃して以来、自分がユダヤ人であることを強く自覚し、上院議員となっていた。ナチスによるパリ陥落後は、老ペタン元帥に反対の一票を投じ、終身刑の宣告を受けてフランス国籍を剥奪された果敢なロスチャイルド家の男であった。
このモーリスが開戦前から動いて人材を物色し、のちにペタンに追われるレイノー首相やチャーチルたちをスイス・ジュネーブの館に招いて、早くからヒットラー対策を練っていたのである。第二次世界大戦の楽屋裏における作戦本部は、兵器産業を動かすロスチャイルド邸に置かれ、この実戦部隊のなかから、次々と大戦の英雄が生み出されようとしていた。
チャーチルは若くして"赤い盾"一族に惚れ込み、南アのボーア戦争に参戦する直前、二十一歳のときにロスチャイルド邸のパーティーに招かれていた。
ロスチャイルド卿は素晴らしい感覚の持ち主で、まことに博識です。このように賢い人に会って話を聞くことができるというのは、実に貴重な体験ですこのようにしたため、母に手紙を出していた。この文面にあるロスチャイルド卿は、MI5"スパイキャッチャー"ヴィクター・ロスチャイルド(相互参照)をパーティーの十四年後に生み落とす家族、当時のイギリス政界を動かしていたユダヤ王の当主だった。
チャーチルの惚れ込みようは尋常なものでなく、終生ロスチャイルド家の代理人として働いたが、戦後、南アの「アングロ・アメリカン」や「リオ・チント」の資金を糾合してカナダに巨大発電プロジェクトを成功させ、アンソニー・ロスチャイルドとエドマンド・ロスチャイルドを感激させたのが、チャーチルだった。
私が老いても友情がこわれないというのは難しいことですチャーチルはその時ロスチャイルド宛にこう手紙に書いたが、この開発事業というのが、カナダのチャーチル河にあるP378チャーチル滝のダム建設で、これがのちにロスチャイルドの原子力帝国を築く出発点となり、わが国のウラン輸入に大きな道を拓くのである。
ロスチャイルド家の誠実な代理人で好戦家、これがチャーチルの隠された最大の特質であった。ロスチャイルド財閥と"赤い盾"一族のメンバーとして、この男が首相の座についた瞬間、イギリス国内の反ユダヤ勢力は一掃され、上流社会の動揺は遂に鎮静された。ロスチャイルド財閥は崩壊していなかったのである。かくしてチャーチルの人選によってドゴール将軍は誕生した。
(略)
(P384-)
P384ここまでの経過をふり返ってみる。シュネーデル家とヴァンデル家が手を組んで世界三大兵器メーカーのひとつ「シュネーデル」を育てあげ、大砲から今や巨大な軍艦まで製造していた。
しかもそのヴァンデル家の半数はドイツのルール工業地帯でナチスのテュッセン・グループに組み込まれ、奇妙な八ヵ月間の休戦を演出した(tw)。このヴァンデル家のいとこの結婚相手が、自由フランス軍の英雄、ドゴール将軍の長男だったのである。
死の商人と将軍家の結婚式は、第二次世界大戦直後の一九四七年に挙げられていた。なんたる史実であろうか。
ドゴールが武器を執れと呼びかけた日(tw)、フランス人だけでななく全世界が感涙にむせび、誰もが立ち上がった。ところがそれは系図を見れば、ナチスに接収された一族の軍事工場シュネーデルを取り返すためであったとしか考えられない。
後世に名を残す“自由フランス”とは、自由軍需フランスであった。
自由フランス軍の旗手をつとめたのが、のちのフランス・ロスチャイルド銀行会長、ギイ・ロスチャイルドであった。ドゴール将軍の孫シャルルとジャンが、ちょうど今、一九九〇年代フランスの有力議員として台頭してきたところまで系図に示しておく。
これからの現代史の物語に筆を進める前に、読者にこの第二次世界大戦の本質を理解してもらわなければならない。EC統合の舞台裏がここにあるからだ。
この系図は、軍需工場の資金源をにおわせる美術商クリスティーズの重役を経て…またしてもある家族に導かれる。
P385悪魔が手招きするように、系図32に示した“テュッセン男爵とシュレーダー男爵の異様な世界”の系図と重なってしまったのである。頁を戻って(参照)注意深くご覧になれば、大変に興味深いことに気づかれるはずだ。
同じロスチャイルド家の人びとがどちらの系図にも立っている。こうしてロスチャイルドの手のなかに、ドイツの死の商人「テュッセン」--フランスの死の商人「シュネーデル」--イギリスの死の商人「ザハロフ--ヴィッカース」が握られていたことが分る。
“国際的な兵器シンジケートが存在している”と多くの歴史家は指摘してきた。その言葉が事実であったことを、これほど雄弁に語る図はないであろう。
第二次大戦の歴史をくわしく分析し、さまざまの名作映画の題材をこの戦場に取ってきた人類である。フランスがナチスに敗北したことを歴史の汚点とみなし、そうでなければ悲劇として描きつつ、強力な軍隊の必要性を説くことがひとつの方向のようだ。
しかし戦争当事者による解析を信ずることは禁物だ。
その物語に登場するのが、あまりにも有名なナチスのマジノ線突破という、歴史の一大転換点であった。それは、奇妙な八ヵ月間の休戦のあとに起こった。
ドイツ軍が突如としてフランス国境に迫り、ドイツへの防壁として築かれたていた強固な壁が、メッサーシュミットなどドイツ空軍の攻撃の前に一瞬で破られ、たちまちパリ陥落、そして反撃の自由フランス軍ドゴールの誕生、となったのである。
P386マジノ線が持っていた意味は、しかしそのような軍人の解析では説明できない。マジノ線とは、マジノ陸軍大臣が考案した防壁であった。この大臣の出身地はどこであったか。
アンドレ・マジノ家は、ロレーヌ地方の出、つまりドイツとの国境にあって一千年来の争奪戦をくり返し、現在もECの大きな問題となっている“アルザス・ロレーヌ問題”の震源地である。
近くはフランスのナポレオン、次はドイツのクルップの大砲が勝つという具合に、交互に奪い合い、ヴェルサイユ条約で再びフランスに、次いでナチスが取り返し…
ことに一九世紀から、死の商人にとってここは鉄と石炭を生み出す、いわば金の卵を生むガチョウと変っていた。
マジノが陸軍大臣という最高位まで出世したのは、死の商人シュネーデルの差し金によるものであった。シュネーデルの創業者ヴァンデル家--さきほどの系図の通りドゴール家--は、初代のロスチャイルドより一世代も前という古い時代にこの国境地帯から台頭し、大工場を構えた一族であった。
マジノ線の構築は、途方もない資材を使う工事となり、それ自体がヴァンデル家に莫大な富をもたらした。一族が根城とするアヤンジュという町は、ドイツとの国境からわずか三十キロで、これこそマジノ線の頭脳であり、心臓だったのである。
そのため開戦時にはドイツのテュッセンとフランスのシュネーデルという死の商人同士の密接な結びつきから、ドイツ~フランス国境で両軍の兵士が交歓する光景まで生み出した(相互参照)。
ところがさきほどの二枚の系図のなかにハーケンクロイツの旗がひるがえると、一九四〇年五月から事情が一変してしまった。国際的兵器シンジケートさえ無視する策士ヒットラーが、死の商人ヴァンデルの牙城マジノ線を突破し、それまでのシンジケートの密約を台なしにしてしまった。
これを一族のドゴールが無視できるはずはなかった。
チャーチルとスピアーズが、今は亡き死の商人ザハロフの遺言を忠実に守り、ロスチャイルド邸での事前会議によって信頼できる信頼できる軍人ドゴールを選び出していた。
しかし全面的に信頼することはできなかった。ドゴールもまた独りで立ち回る可能性がある危険人物とチャーチルは判断していた。自分たちと同じ濁った水のなかから出てきた男には、全権を与えず、巧みに利用する算段であった。
イギリスがモズレー卿やチェンバレンのごときアーリア人の優生思想を説く人間を生み出したように、フランスにもチャーチルがそれるその思想の素地はなかったのであろうか。
全ヨーロッパを揺るがしたドレフュス事件は、パリを舞台に発生したのである。
ここまでの戦況の説明で、ひとりの偉大な主人公の存在をわれわれは忘れている。クルップである。ユダヤ王ロスチャイルドが育てた兵器財閥の系図に、ハーケンクロイツの旗がひるがえってしまったのは次のような歴史によるものであった。
P387ヒットラーがヴェルサイユ条約を破棄して再軍備に踏み切ろうとした時、最初に訪問したのがルール工業地帯のなか、クルップ城と呼ばれるエッセンであった。
これはただの訪問でなく、記録映画『十三階段への道』にそのときの様子が生々しく残されている通り、ヒットラーを大歓呼で迎える鉄鋼の町エッセンの市民がいた。
このフィルムは現在ビデオ化され、当時の歴史を「戦争と企業と個人」の三方向から追跡して、政治の裏面を鮮やかに示している。ニュールンベルク裁判を軸にした貴重なヨーロッパ史である。
一九三〇年代の大砲王クルップは、そのとき世界の軍艦王になろうとし、すべての殺人兵器を生み出す準備を整えてヒットラーを迎えた。
クルップと言えば大砲の代名詞になるほどの存在だが、第一次大戦で突如として海中から姿を現し、海軍王国イギリスの軍艦を次々と撃沈したUボートの恐怖によって、海のクルップは知られていた。
ドイツのゲルマニア造船所で天才ルドルフ・ディーゼル(相互参照)が内燃機関を発明し(1892年に発明され、1893年2月23日に特許が取得wiki)、今日のディーゼル・エンジンという言葉を生み出したUボートのクルップ。
これに対抗したイギリスの潜水艦は、ザハロフと組んだマクシム銃のパートナー、スウェーデン人トルステン・ノルデンフェルトによる蒸気動力の潜水艦であったのだから、クルップのほうがはるかに先を行っていた。
しかしその数十年前に、もうひとつの隠された物語があった。
クルップ家がこれからドイツ国内で王者として台頭しようとするまだその青春期のことであったが、工場を拡張するために大金を必要としたため、皮肉にも敵国フランスの銀行家セイエールから莫大な融資を受け、やがて兵器王への道を歩むことができたのである。
“銀行家”セイエールが融資をしたのには、理由があった。それは哲学者ニーチェと現代フランスの著名な“評論家”セイエールの興味深い関係まで遡ることになる…
『ツァラトゥストラはかく語りき』によって超人の思想を説いたニーチェ(tw)は、民主主義をあざ笑った。人生の哲学という範囲に限れば、それは逞しい気質でもあったが、やがて妄想に取り憑かれたニーチェは、“攻撃と征服”を身上とする独善主義者となり変わった。
一八八九年には突然、鞭打たれる荷馬車の馬を見て馬に抱きつき、失神して発狂、そして死。
このニーチェに心酔したのが評論家セイエールで、その息子が死の商人ヴァンデル家の娘と結婚し、孫娘が現代フランスの原子力庁スポークスマンと結婚した。
しかもこのスポークスマンは、フランスの核兵器工場として名高いマルクールから出発して原子力のエネルギー産業に身を移し、いわば“戦争と平和”の二つの仮面を使いわける要注意人物であった。
さらに孫息子は、同じく現代フランスの軍事顧問をつとめながらこの兵器会社ヴァンデル・グループの会長、という大変な“現代史”を誕生させてきた。
(P388ゴビノー伯爵『人種の不平等に関するエッセイ』)
P388 ニーチェが超人思想に取り憑かれたのは、よく知られているように、音楽家ワグナーに心酔したためであった。またフランスの外交官ゴビノー伯爵は、評論家セイエールの人種論を形成した重要人物として知られているが、ゴビノーが一八五四年に発表した論文『人種の不平等に関するエッセイ』こそ、アーリア人が白人のなかで最もすぐれた民族であることを主張した。世界で初めてのアーリア人優生思想であった。
アーリア人とは何であろう。これは純粋に、言語学のなかで語尾などの発音が一定の規則を持つ民族をアーリア語族と定義したにすぎないものであった。ところがゴビノーは、その民族が最も優れていると語り始めると、ワグナーとその娘婿のチェンバレンを同じ思想に感染させ、さらに連鎖反応のようにニーチェ、セイエール、ヒットラー、クルップまでゴビノー病に上気してしまった。
この"アーリア人優生論の系譜"図解すると、同時代に"ひと握りの人間集団"が動いてナチズムとその勝利のシンボル、ハーケンクロイツを誕生させ、しかもこの危険な思想集団のなかに銀行家セイエールがいたため、一族の資金を使ってフランスの「シュネーデル」とドイツの「クルップ」という二代兵器メーカーが育てられた経緯が分かってくる。
世界史に欠けているのが、ここに図解した"銀行家"セイエールとそのひ孫の"評論家"セイエールの血族関係である。かくして現代フランスの核兵器と原子力産業を動かす"新しいシュネーデル"がわれわれの前に存在するところとなった。
ロスチャイルド財閥の中枢にハーケンクロイツの旗がひるがえった秘密は、この銀行家セイエールが兵器王シュネーデルの生みの親であったという史実にあった。チャーチルがドゴール(→参照)を選びながら、"信頼せずに利用する"と判断した一理もここにあった。
自由フランス---人種差別のないフランス---ロマンと芸術の都パリ---このような"スポークスマンの言葉"が現代に飛び交っている。しかしファシズムの始祖はフランス人であった。
ユダヤ人ロスチャイルド家の人選は、こうして最初から複雑な問題をはらんでいた。これが欧州大戦と呼ばれた第二次世界大戦の太い柱の芯となって、戦闘は展開していった。それでも当時は、彼ら以上にヨーロッパの民衆が純粋な気持ちでナチス打倒のために立ち上がったのである。
(随時更新)
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