2019年1月10日木曜日

偏愛メモ 『重光・東郷とその時代』(随時更新)

第四章 二・二六事件

P124-149
革新派・昭和軍閥の系譜 P138-141
(P138)

第六章 盧溝橋事件 P184-214

6.1 議会民主主義の残燈 P184-186
(P184)

6.2 宇垣一成内閣の流産 P186-191
(P186-)

P188 杉山は敗戦後、事務室で自決し、それを電話で聞いた夫人もただちに後を追って自害した。そのとき宇垣は杉山の副官宛ての手紙で、当時を回想して、
杉山から「軍があなたに反対している。これと申す確たる理由がないが、なにぶん一部の連中が騒いで取り鎮めに困るから大命を拝辞してほしい」といわれたので、「陸軍内部をとりまとめることはあなたや陸相の責任だ、私のこところにもちこむのは見当違いだ」と答え、「爾来私の杉山観は変わって、ずいぶん責任感を弁えぬ人だと考えてきましたが、今度の見事なる御最後を聞きまして、元帥はやはり責任感の強い方であると見直した」
と述懐している。

この逸話一つでも当時の事情が分かる。「確たる理由はないが一部が騒いでいる」というだけの理由で天皇の大命を拝辞しろというのは無茶苦茶な話であるが、もう部下の下克上には、陸軍部内でも誰も無抵抗となっていたのであろう。

また、死に際が見事ならばすべてが赦されるというのは伝統的な考え方である。それは、その人が自分の命より尊いと思うなんらかの価値観をもっているということであり、恥を知っているということである。

それだけの価値観をもっているのならば、体を張って部下を説得できたはずであるが、それをしなかったのが問題である

死に際の見事さは広田も同じであった。そして大勢に順応して国を誤った罪も同じである。戦後は「美学 」などという意味不明領な言葉が生まれたが、「美学」だけではダメなのである。本人は自己満足しても、まわりがひどく迷惑する。国家戦略についてしっかりした見識をもたないと国を誤るのである(tw,tw)。

  以下、略

6.3 林銑十郎内閣は三ヶ月で総辞職 P191-193
(P190)

6.4 政党も軍も歓迎した近衛文麿の登場 P193-202
(P192)

(P194-)

P194 結果から見れば、近衛の政治は日本を破滅に導いた。盧溝橋事件の処理を誤り、その後も戦争が泥沼化する節目節目で有効な指導力を発揮できず、のちに松岡洋右を外相に登用して日本を英米に対して抜き差しならない対決状況に追い込んだ。また、日本の戦前の政党政治に終止符を打った大政翼賛会が発足したのは近衛内閣のもとであった。

それは、誰がやっても抗し難い時代の潮流のゆえか、それとも政治家としてのP195近衛の欠陥からきたものだったのだろうか。近衛についての文献は多いが矢部貞治の『近衛文麿』がもっともくわしいので主として、これに当たってふり返ってみたい。

健康のうえでは、近衛は若いころから虚弱児であった。政治上の進退も健康を理由とするものが多かった。特定の持病というよりも、よく風邪をひいたり、腹をこわしたりして寝込んでいたという。昭和前期、「青白きインテリ」という言葉があった。もっと古くは才子多病、佳人薄命ともいった。ちょっと風邪をひくと座敷に床を伸べて家人の介護のもとに休むという、戦前の上流階級に育てられた子弟のひとつのタイプであった。

健康のせいもあってか、「明るい陽性の性格でなく、むしろ陰性の人で笑うにも呵々大笑するということはなかった」という。近衛の交友は、政治家、軍人、官僚、実業家、学者、文人、思想的にも右翼、左翼に至るまで広く集めたが、「近衛のほうで親友と思った人は存外少ないよう」だったという。

気が多く、ディレッタント的に広い分野の人を幕下に抱え込むが、自分の意思にP196よる決断は下せなくて、結局は、強いところ、声の大きいところに押し切られて大勢に順応している。これだけでも、その後の戦争、敗戦に至る近衛の不作為の失政を十分説明できる。

こうした近衛の性格は政権に就くとやがて見えてきたようである。西園寺自身、第一次近衛内閣が支那事変の解決に指導力を発揮しないことが明らかになったころから近衛に失望して、近衛を、定見のない「狐を馬に乗せた人」と評するようになり、「身体がもう少し良くなって、もう少し根気があれば陛下にも拝謁していろいろお話したいけれども、それも思うようにまかせない状態なので、まあ黙って様子を見ているより仕方がない」と漏らしていたという。

西園寺が、ただ一人期待をかけて、自分の後継者にも育てようとした近衛に対する失望感の表明である。西園寺は、もともとは、いずれは自分の後を継ぐ皇室の藩屏として近衛に期待するところがあった。そして他日総理となることを期して、まず貴族院議長にさせるなど準備していた。

P197 早く父を失った近衛に対して、西園寺は父親の役目を果たそうとしていた(相互参照)。しかし大貴族として皇室の藩屏である点は同じとしても、政治思想的には、近衛は西洋的自由主義の西園寺の子というよりも、アジア主義者の実父近衛篤麿の子であった。近衛の思想は、彼自身の文章で語っているので分かりやすい。

よく引用される『元老重臣と余』(日付は不詳。敗戦の前後と推定される)は、まず書き出しから、「昭和六年秋満州事変勃発のころより、余は西園寺公始め重臣たちと、時局に対する考え方につきそうとうの距離のあることを感ずるようになった」と始めている。

そして、大正八年に西園寺公に連れられてパリの講和会議に出席したときを回想する。じつは近衛は大正六年に京大を卒業し、翌年、すなわち訪欧の前年にはすでに「英米本位の平和主義を排す」という論文を発表している。

そのなかで近衛は、第一次世界大戦は、平和主義と軍国主義のあいだの戦いP198というよりも、現状維持国と現状打破国の争いだったと考え、真の問題は「現状」とはそもそも何であるかということであるといっている。

そして、もし現状が正義にかなっているのならば、これを打破しようとする国はたしかに正義の敵であろう。しかし、実情は、英仏がすでに世界の植民地を独占して、ドイツだけでなくすべての後発国は獲得すべき土地もない。

こういう不公平な現状を打破しようというのは正当な要求であり、日本はドイツに同情なきをえない、というのである。そして要するに、英米の平和主義は「現状維持を便利とするものの唱う、事なかれ主義」であり、正義人道とは関係ない、と論じている。

そして、パリ会議でも「英米を中心とする国際連盟を謳歌すること」はできず、早晩連盟の破綻を予期していた。そして、「ゆえに余は当時元老重臣を始め、政府当局がややもすれば英国に追随する傾向ありしに不満であって、ときどき西園寺公にもお話ししたが、公は長いものには巻かれろ、という諺を引いて反駁せられた」と回想している。

ここに、いまに至る現実主義と自主独立願望とのあいだの相克が見られる。世界の覇権国について行けば日本の安全も繁栄も心配いらない、という西園寺の現実主義に、若き近衛が「対英追随」を感じて、ついて行けなかったのである。

P199 「満州事変を契機にして元老重臣の指導的立場はにわかに弱化し、軍部がこれに代わった。・・・反動は恐ろしいもので、これらの人々は過去十年間の平和主義、協調主義、国内では議会政党万能主義への鬱憤を一時に爆発させて、元老重臣は君側の奸なり、政党政治家は国体の破壊者なり、というふうに排撃の火の手を挙げ、その結果が五・一五となり、二・二六となった

近衛もまた幣原外交、大正デモクラシーのあいだは鬱屈していたのである。近衛が皇道派の軍人と近かったのは事実のようである。ただ、これらの人々に対して、「元元老重臣が自分について疑ったように決して無条件に賛意を表したのではない」といいつつも、「少壮軍人らの個々の言説には容認できないことは多々あるが、彼らが満州事変以来推進し来った方向はわが日本として辿るべき必然の運命であるといえる」といっている。

(略)

P202 内閣の発足早々、初閣議の挨拶や記者会見で何をいうかについて、近衛自身が書いたメモが残っているが、それによれば、「現内閣の使命は、国際的には『もてる国』と『もたざる国』、国内的には『もてる者』と『もたざる者』とのあいだの相克対立を緩和するにあり」として、国際間の分配の公平のためには国際正義を、国内の分配の公平のためには社会正義を、といっている。

そして「国際正義は世界領土の公平な分配まで行かなければ徹底せず、次善の策として、移民、貿易が自由に行われればよいが、それも困難な現状は、『もたざる国』に属するわが国の大陸政策を正当化する根拠となる」と書いてある。

この考え方は大川周明や北一輝をイデオローグとする青年将校の思想と大同小異である。この時期となっては先手ではなく、後追いであるが、当時の世論にも軍にも、近衛内閣は違和感を感じさせないものであった。

こうして一般の評判のよいなかで、組閣も順調に進み、陸相の杉山、海相の米内光政は留任し、外相は広田弘毅、書記官長には、新聞記者出身であり当時は親軍、敗戦後は左派社会党となる代議士風見章を登用した。しかし、組閣後一ヶ月で盧溝橋事件が勃発することになる。

6.5 盧溝橋事件の発端 P203-208
(P202-)

(略、近衛首相と蒋介石の直接交渉案、宮崎龍介の近衛密書を蒋介石に届ける話の記述なし)

6.6 たび重なる中国側の挑発 P208-214




第七章 南京占領(tw) P216-248

按兵不動 P237-243
P237 参謀本部でも、中国側の面子を立てて講和交渉に導くために、停戦ではないが、南京の前で一方的に兵を止めて交渉に入る「兵を按えて動かざる」の策が提案された。しかし、提案者である戦争指導課の堀場一雄の表現を借りれば、「作戦当局と激烈なる論争に入りしも、作戦当局はこの方策に対する熱意に乏しく、戦勢を主張するのみで、奔馬を停止するの術を弁えず」出先の軍は一番乗りを競って南京を攻略してしまった。

なお堀場は、南京占領の結果、「上海苦戦※の反動、訓練不十分なる応召兵の介在等により一部不軍紀の状態を現出し、志那敗残兵および不良民の乱暴も加わり、南京攻略の結果は十年の恨みを買い、日本軍の威信を傷つけたり」と記している。十年ではない。半世紀以上続く傷となった。石射も、各領事館からの現地報告に接して日記に次のように記している。
「上海からの来信、南京におけるわが軍の暴状を詳報し来る。略奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か。日本国民民心の頽廃であろう」として、もっとも目立った暴虐の首魁の一人は元弁護士の某応召中尉であり、部下P238を使って宿営所に女を拉しき立っては暴行を加え、悪鬼のごとく振る舞った
と書いている。この事件は、海外に大々的に報道され、日本の評価を落とし、中国人の抗戦意欲をますます固めた。戦争において、相手国の残虐行為ほど戦争プロパガンダの材料として優れたものはない。(略)

  上海苦戦※参照→『日中戦争はドイツが仕組んだ』

P239 純粋な非戦闘員の被害者の数が千人単位か、あるいは万単位に達したか、いまとなっては確認する術もないが、とにかく日本軍の行動に大規模な越軌があったことは事実であろう。若干弁解じみた説明としては、民間人の服装をした便衣隊掃滅の必要があったとか、治安秩序の空白を機として暴民による暴行掠奪あったというが、部分的にはそういうこともあったかもしれない。しかし、日本軍の越軌的行動が、「お前たちは何という事をしてくれたか」といったと伝えられる松井石根司令官の発言、前記の堀場、石射の表現に相当するような、上海でも、広東でも、武漢でもまったく見られなかったような規模のものであったことは確かだとしか言いようがない。(略)

石射は日本人の民心の頽廃といっている。たしかに、北清事変や日露戦争のときのような、文明国として世界に認められたいという若き日本の初心は失われていた。しかし、日本軍が全体としてそこまで堕落していたならば、蒙古軍がサマルカンド、バグダッドで次々に大虐殺を繰り返したように、またソ連軍が満州、ドイツで暴行をほしいままにしたように、武漢、広東など各都市でも同じ事件が起こっているはずであるが、それは起こっていない。(略)

P240 南京でこうした事件が起こった理由は、一言でいえば、戦争では、そのときの環境と雰囲気により、そういうことが起こるときもある、ということである。(略)

南京事件は実在した P243-246
P243 南京事件については戦後半世紀以上を経て、いまだに論争が絶えない(tw)。その一つの理由は、この問題が、裁判の合法性と裁判の手続きの妥当性について多くの疑点を残している東京裁判によって取り上げられたからであり(tw)、その後も南京事件の存在を強調する側の動機のなかに、日本の過去のすべてを否定的に見ようという東京裁判以来の戦後左翼史観の残滓が強く残っているからである。また、これがあるために三十万人虐殺というような荒唐無稽と言える事実誤認さえも無批判に受け入れようという態度があるからである。それが当然の反発を招いているのである。

さらに、南京事件をナチスのホロコーストと同列に論じる試みさえある。ホロコーストは一民族の計画的絶滅であるのに対して、南京事件は戦争状態における一般市民の被害の問題である。法的に分類すれば、南京事件はむしろ、広島、長崎の原爆投下やP244ドレスデン、東京の絨毯爆撃、満州、樺太におけるソ連兵の暴行と同じ種類の問題として論じられるべき性質のものであろう。それをホロコーストと一緒にしようとするから、反発がますます強くなるのも当然である。

(P266)


P266 かつて福地桜知は、「言論統制で苦しむのはつまるところ文章の下手な連中だ。文章が上手ければ、何も取り締まりに触れるようなことは書かなくてもいいたいことはいえる」といったという。汪兆銘はその詩文から見ても一大文章家であり、…

P268 西安事件(tw,相互参照)1936.12.12で蒋がいかなる妥協をしたかは永遠の謎であるが、汪自伝では、蒋が、(一)孫文の連ソ容共の政策を実現して対日戦を行うこと、(二)国民政府に共産党を含めること、(三)抗日に同情するすべての外国と協力するすること、あるいはそれ以上の秘密の約束をしたのであろうと推測している。汪自伝は、そのとき蒋介石を救い出した宋美齢の回想として「西安事件は中国国家を猛烈な勢いで破壊し、西安は死の罠だった」と引用している。宋美齢はいつこれをいったのだろうか。もちろん汪兆銘は日本の敗戦前に死んでいるから、最終的に国民政府が共産軍に敗れて台湾に追い落とされ る前である。ということは、宋美齢は、西安事件以降の国共合作が中国を支那事変の泥沼(相互参照,後述参照)に引きずり込んだ原因だと思っていたということになる。
宋家の三姉妹 01:54:30~西安事件
(P280-)

P280 ボルシェビキの冷徹な外交
革命後のソ連は、いままでのいかなる国とも異なる独特なイデオロギーのもとに、しかも一党独裁の専制体制によって極端な秘密主義を守ったので、その動向は謎とされた。チャーチルは、ソ連を「謎に包まれた謎のなかの謎」と呼び、近衛文麿内閣のあとの平沼騏一郎内閣は、独ソが不可侵条約19390823を結んだとき、「複雑怪奇」と呼んで退陣することになる。(関連『鮎川義介と経済的国際主義』P196)

このときの独ソ接近を理解できなかったのは、平沼騏一郎だけではなかった。キッシンジャーは、「もしイデオロギーが必然的に外交政策を決定するのならば、ヒトラーとスターリンの提携は、その三世紀前におけるリシュリューとトルコのスルタンの提携以上にありそうもなかった」と書き、「リシュリュー、メッテルニッヒ、パーマーストン、あるいはビスマルクにきわめて明快だったであろう戦略を西側諸国が理解することを拒んだことはスターリンの仕事を容易にさせた」と書いている。(中略)

しかし、いまとなってみると、ソ連の行動などはキッシンジャーのいうとおり、単純明快なものだった。思い出すのは冷戦中、故牛場信彦駐米大使が「共産圏の専門家などは偉そうな顔をしているが、あれは実は簡単なんだ。難しいのはアメリカの政治を読むことだ」といっておられたことである。それはキッシンジャーがひそかに訪中した、いわゆるニクソンショックのあとのことであった。もう一度キッシンジャーを引用すると、「スターリンの究極の悪夢は、ソ連邦を攻撃する繕資本主義国の同盟であり」「ボルシェビキの義務とは、すなわち資本主義国同士を争わせ、ソ連邦が彼らの戦争の犠牲となることを回避することであった」---『外交』第十三章。(中略)

P282 満州事変後の極東の情勢をソ連がどう判断してたかは、1932年の日本共産党テーゼと同時期のコミンテルン第十二回執行委員会の反戦決議から知ることが出来る。それによれば、満州事変は日本帝国主義によって火蓋を切られた強盗戦争であり、国際連盟においてフランスとイギリスが満州事変における日本の行動を庇ったことは、国際連盟が仏英帝国主義の道具になっていることを示している。

他方アメリカは、満州占領に反対しつつも極東における勢力範囲の公平な分け前を要求し、太平洋におけるその地位強化のために日本とソ連の両方が弱まることを欲して、日ソ戦争を挑発しようとしている
。まさに、ソ連に対する戦争のために帝国主義列強の統一戦線をつくろうとする意図が強化されている、というのである(tw)。

  参照→『モルガン家』P532
  参照→『赤い盾』2.6 ロスチャイルド家の反撃 P368-415
  参照→『誰が第二次世界大戦を起こしたのか--フーバー大統領『裏切られた自由』を読み解く』


P283 1932年はヒトラーが権力を握る前年であり、ソ連としては、もっとも恐れたのは、英仏の帝国主義と日本の帝国主義による包囲だった。とくに、それまでは、短い朝鮮ソ連国境だけで対峙していた日本が全満州を制圧し、最大な国境線で接するようになったことには脅威を感じたのである。

極東の軍備増強
ソ連では、1928年スターリンが権力闘争に勝ってトロツキーを追放し、ソ連邦の命運を賭けて、重工業の建設と農業の集団化を達成するための五ヵ年計画を始めた。満州事変が起こったときはまだその三年目であり、内政の状況からいって、これに対応できる態勢になかった。ヤコブレフは『歴史の幻影』のなかで当時の情景を描写している。

「1931年夏にカラダンダの荒野に撲滅富農を乗せた最初の列車が到着した。…約五十万人、無人の土瀑で彼らは、最初のうちは地面に穴を掘って上から藁かぼろをかぶせただけの場所に住んだ。冬には暖房もない小屋に五十平方メートルあたり七十人から八十人が入れられた。1932年の春までに生きのびたのはその半数だけ。P284 33年末には四人に一人しか生き残れなかった」。スターリン自身がチャーチルに語った証言によれば、このような仕打ちを受けた農民は一千万人に達したという。

こんなときに、日本と事を構える余裕などあるはずもない。ソ連の政策は、当然に極東の軍備増強と、その増強が達成されるまでのあいだなんとしても日本と衝突しないための対日宥和、そして日本が南進して、国民党、米英と衝突するのを期待することにあった。(中略)

日ソの兵力比をパーセントで見ると、昭和10年、11年ごろに日本にとって最悪となるが、この二年間に国境紛争は三百回以上起こっている。その多くは国境が不明確な地域で起きたものであり、力を背景に、国境線の問題では一歩も譲らなかった。

日本との戦争をできるだけ引き延ばす
他面ソ連側は戦闘を拡大する意図はまったくなかった。共産主義者の考え方として、日本との戦争はいずれは不可避である。が、「その不可避な戦争を、資本主義同士が戦うときまで遅らせること」(1927年党大会におけるスターリンの演説)が肝要とされている。日本との関係では、日本における北進論(対ソ連)を抑え、南進論(中国本土)を奨励するのがその政策である。

日本と蒋介石との戦争、日本とアメリカとの戦争が起こるようにさせ、それまではソ連は日本と平和的関係を保って、日本が弱ったところで一撃を加えればよい。それは、その計算どおりとなった。ソ連はそのために積極的な情報工作を行った。近衛文麿のブレーンだった尾崎秀実は、のちにソ連のスパイだったことが発覚して死刑となるが、支那事変勃発当時は、最高の中国問題専門家としての名声を利用して『朝日新聞』『中央公論』などで、事変の拡大のためのキャンペーンを行った。

尾崎は「南京政府の支配は一種の軍閥政治」であると、その後の「蒋介石を対手とせず」の声明の伏線となる議論を展開し、「局地的解決も不拡大方針もまったく意味をなさない」「日本国民が与えられている唯一の道は戦いに勝つということだけ・・・そのほかに絶対に行く道がないのは間違いない」といい、元が宋を滅ぼすのに四十五年、清が明を滅ぼすのにも四十六年かかった例を挙げ、戦争を拡大するよう、早期にやめないよう、煽動している。

西安事件では、ソ連は中国共産党に対して、蒋介石を釈放するよう圧力をかけたという。そして国共統一戦線を結成させ、盧溝橋事件の翌八月には中ソ不可侵条約を結んで、中国に対する武器援助を開始した。昭和12年から16年までに、ソ連は中国に航空機一千機、砲一千門、機関銃一万挺を含む軍事援助を与えたという。

P288 こうしたソ連の戦略がわかっていれば、それだけで、支那事変、張鼓峰事件、ノモンハン事件、日ソ中立条約、中立条約侵犯のすべての背後にあるソ連の考え方が簡単に理解できよう。

ヒットラーの戦略
「『我が闘争』に示されているヒットラーの哲学は、陳腐であるとともに空想的であり、従来から存在する右翼過激思想を通俗的にまとめ上げたものであった。その思想は知的潮流を引き起こすことはなかった。この点で『我が闘争』はマルクスの『資本論』や十八世紀の思想家たちの著作と異なっていた」---キッシンジャー

たしかに、ヒットラーの思想のなかには、人種の優越のような空想的発想はあっても、人類の普遍的価値観となりうるものは何もない。ただ、ドイツの国家戦略はあった。それは、ウクライナに至る東ヨーロッパの穀倉地帯を押さえてゲルマン民族の生存圏を確保することである。しかし、その戦略的発想に加えて、ユダヤ人憎悪のような低次元の偏見や独裁体制から由来する個人的な思いつきや思い込みが混在したことが、ボルシェビキのような冷徹な一貫性を失わせている。

日独伊枢軸同盟に至る過程で、ドイツにとっても日本にとっても最大のディレンマとなり、それがまた蹉跌の原因ともなったのは、イギリスとの関係である。ドイツの目的が東方における生存圏確立のためであるとすれば、西方とは事を構えたくないのは当然である。1936年8月、リッベントロップを駐英大使に任命したときに、ヒットラーは「どうかイギリスも防共協定に参加させてくれ、これが自分の最大の望みだ」と訓令した。

そして同年11月、日独防共協定成立に際して、日本では東郷茂徳欧米局長が、当時の閣僚はすべて協定に賛成であり、寺内寿一陸相が統合に対して「あなたは、まだイギリスのことを心配するのですか」と責めるのを物ともせず、英国との政治協定を結ぶのを防共協定の条件としている。だが、防共協定は英国の公式の了解を得ることはできず、反対に英国の猜疑を深めつつ締結され、それが三国同盟に至る最後の過程では、ソ連よりも英国を対象とするようになっていく。

P290 リッベントロップの覚書
それには必然もあろう。東郷が指摘したように、日独防共協定には本来的に英国の猜疑心を招く要素があった。ヨーロッパの覇権をドイツが握るということは、英国の伝統的な欧州大陸におけるバランス・オブ・パワーの政策と衝突することになる。しかしヨーロッパ大陸で、フランスの有事の際に英米の支持を受けてバランス・オブ・パワーの要素として残るかぎり、英国としては、ドイツの東方進出は絶対に困るという性質のものではない。

リデル・ハートの『第二次世界大戦史』によれば、1937年11月のハリファックス英国上院議員の訪独によって、ヒットラーは、英国が東ヨーロッパにおけるドイツの行動にフリーハンドを認めた、との印象を得た。英国側は、そこまでははっきりいわなかったとしても、ドイツの東方進出には十分理解を示したようである。

英国の態度がミュンヘン会談とポーランド侵入のわずか半年のあいだに百八十度変わるのは、英国の世論が第一次大戦後はウィルソン主義の影響を受けて、従来の現実主義的な思考と並行して道徳的な原則を重視するようになっていたからである。また島国である英国には、そうした道徳的思考を許す地政学的な余裕が与えられていた。

「ヒットラーの失敗は、バランス・オブ・パワーという歴史的原則を破ったことでなく、第一次世界大戦後のイギリス外交の道徳的前提を踏みにじったことであった」---キッシンジャー

 (正史はそうだが、別の見方もある。参考→『誰が第二次世界大戦を起こしたのか--フーバー大統領『裏切られた自由』を読み解く』)

イギリス人はヴェルサイユ条約の不公正さは知っていた。だから、ドイツが同じ人種であるオーストリアの併合を禁止されているのは不合理だと思っていたし、ドイツ人居住地域であるズデーテンラントをチェコスロヴァキアから回収することにも反対しえないと思っていた。しかし、その後ナチスが強引にチェコスロヴァキアを解体して保護国化したことには同じ民族自決原則からいって道徳的に許せなかった。そして民主主義特有の現象として、それまでの宥和政策に対する反動が世論を正反対の方向に引っ張って、ポーランド侵入に際しては対独宣戦に立ち至らせるのである。

このように、英国を敵にまわすことはもともとヒットラーの意図でもなく、また、P292 パワーポリティクスの必然でもなかった。それなのに枢軸同盟が、ついには英米を主要目標にするようになるのに重要な役割を果たしたのはリッベントロップである。(中略)

リッベントロップは、正式に外相に就任する前に駐英大使となったが、ヒットラーから命令された使命には失敗した。教養がなく傲慢なリッベントロップはロンドンでは相手にされなかった。そこで、チアノ伊外相のコメントによれば、彼は「裏切られた恋人」の憎悪に駆られ、英国に対する私怨を晴らそうとしたのである。1938年1月の「総統のための覚書」で、「私は過去数年、イギリスとの友好のために働いた。これが実現すればこれ以上の喜びはない。しかし、今日私はもはや英独の相互理解を信じない。

P293 イギリスをもっとも危険な宿敵であるという考慮を根本的に維持しなければ、われわれの敵は利益を得ることとなろう」と書いて、テオ・ゾンマーによれば「まったく支離滅裂なひどいドイツ語で」、日本、イタリアと組んで英国に対抗する同盟を結ぶことを主張した。この覚書脱稿の四週間後にリッベントロップは外相に任命された。テオ・ゾンマーは「この覚書の歴史的価値は、ヒットラーの十一月の大演説の価値にほとんど劣るものではない」と書いている。

張鼓峰事件とノモンハン事件
日本には、ボルシェビキや、ヒットラーらの戦略と比較できるような国家戦略はなかった。それは当然のことであり、日本は独裁国家ではなく責任内閣制であって総理大臣が次々に代わるのだから、すべての内閣が一貫した政策のもとに行動することはありえない。東京裁判では、指導者のあいだに共同謀議があったことになっているが、そんなものは実在しないし、ありえようはずもない。

日本の政策が一貫して侵略的であった証拠として引用された広田弘毅内閣のときの国策の基準(昭和11年)にしても、各省の妥協による作文でしかない。こんなものを読んでも、その時点における政府内のだいたいの考え方がわかるだけである。

P294 そして、その後政府が政策を決定するに際してこれを読み返してそれに従うこともなかった。それがこの種の文書の常である。

ただ一つ戦略らしいものがあったとすれば、それは石原莞爾の国家戦略論であり、その衣鉢を継ぐ参謀本部の戦争指導課の考え方であった。支那事変前年の昭和11年8月の対ソ戦計画大綱では、「ソ連のみ敵とすることに全幅の努力を払い」「英米の中立を維持せしむるためにも支那との開戦を避けることきわめて緊要」としている。

そして、盧溝橋事件後は事件の不拡大に努め。その後昭和13年6月に至る三次の戦争計画要綱では、「戦争規模をなるべく縮小して国力の消耗を防ぎ」「速やかに和平を締結する」ことを主張している。まさに蒋介石との戦争に日本を巻き込み、英米とも対決させようというソ連の戦略とガッチリと四つに組んで対抗できる戦略であった。

結果としては、日本は、中国本土の泥沼(前述参照)にはまり込み、対米戦に追い込まれるという、ソ連と中国共産党の思う壺にはまることになる。それは共産主義戦略の勝利であり、大本営の戦略さえ一貫して守れなかった日本の政策決定過程の欠陥がもたらした日本戦略の敗北であった(tw)。

P295 支那事変の最中、ソ連国境では、1938年に張鼓峰事件、39年にはノモンハン事件が起きている。いずれも、まったく日本側の敗北である。(中略)P296 日本側は日本軍の伝統に恥じない勇戦をしているが、個々の人間の戦闘能力で戦局の帰趨を変えられるような戦力バランスではなかった。問題は作戦ではない。敵がそれだけの大兵力を投入できることを認識しなかった情報戦の欠陥と、中央の意向を無視して手持ちの兵力だけで勝とうとした自信過剰と現地の独走であり、これは両事件に限らず、第二次大戦の全局面を通じて日本軍が終始犯した過ちである。(中略)

信念を貫き通した米内光政
日独伊三国の枢軸同盟の締結は、日本を第二次大戦に押しやった、唯一とはいわないが決定的な要因の一つである。これを最後まで拒否し、内閣に陸送を送らないという最終手段で辞任を強制されるまで、一歩も譲らなかったのが米内光政であった。米内は南部藩の貧乏士族の出身で、海軍兵学校での成績は中くらいであったが、柔道では並ぶ者がないくらい強かったという。(中略)

P297 友人のすすめで同期でいちばん遅れて海軍大学の受験勉強をするようになってから、モリモリ勉強しだし、海大の秀才となった。やがて各ポストを歴任してゆくうちに、心ある人は、米内こそ将来の海軍を託するに足る人材と思うようになるが、誰よりもそれを認めたのは山本五十六だった。(中略)

P298 昭和13年の初頭からリッベントロップは大島浩駐独陸軍武官に同盟の話をもちかけ、陸軍はその夏ごろにはドイツの意向を受け入れる方針を固め、それを政府部内で通そうとするが、米内は反対して一歩も退かない。

米内は、板垣征四郎陸相と五時間余議論し、「自分は防共協定の強化の強化そのものに不賛成であるが、陸軍がここまで蒔いた種を何とかしなければならないというにしても、対象をソ連にとどめるべきであり、英国までも相手にする考えならば『職を賭しても』これを阻止する」といっている。その後、あの手この手で圧力を加える陸軍に対して微動だにせず、信念を貫き通した米内の態度は立派である。そして、同時に海軍の枢軸派も抑えて、部内を一糸乱れず統率した山本の手腕も見事であった。

近衛は昭和14年1月にかねて希望していたとおり総理の職を辞し、代わって平沼内閣となるが、近衛は枢密院議長、無任所大臣として閣内に残り、人事、政策ともに、近衛内閣からの継続を保ち、米内は留任した。三国同盟をめぐる論争は続き、そのあいだ妥協案をつくったり、「その案ではとうてい伊独を納得させられない」といって枢軸派の駐独大島、駐伊白鳥敏夫両大使が訓令執行を怠るなどというゴタゴタが続いて、結論に達しないうちに、1939年8月、P299ドイツはそれまで仮想敵としていたソ連と不可侵条約を結んだ。日本政府は、防共協定の違反としてドイツに抗議して、交渉を打ち切り、平沼内閣は8月28日「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」と声明して総辞職した。

ドイツの政策の急回転は、ドイツの必要から生じたものであった。ポーランドに強硬な要求を出しているが、ポーランドは英仏の援助を恃んで譲歩しない。その地域に行使できる武力を持っている国はソ連しかいないが、英国が裏でソ連との協調を策している気配もある。そこで、リッベントロップがモスクワに乗り込んで、東ヨーロッパの勢力範囲分割についてソ連と話をつけて、一挙に独ソ協力を成立させたのである。(中略)

P300 平沼の後継は、陸軍の推す阿部信行となった。阿部は明哲保身なだけの軍事官僚であり、軍の中堅層から「毒にも薬にもならない」人物として担がれたものである。米内は、山本と同期の吉田善吾を後任の海相に推した。山本は引きつづき次官として補佐しようとしたが、米内は山本を連合艦隊司令長官に出した。米内の腹では、次官に残すくらいなら当然自分の後継の大臣にする。しかし、そのまま残っては暗殺の危険があるのを慮り、海軍の貴重な人材を温存しようとしたのである。(中略)

P301 阿部は大命降下に際して天皇よりとくに「米英協調」を命ぜられたが、本人自身、平均的な軍人として親独派であり、どうしてよいのか分からないうちに、政党からは信任が得られず、陸軍からも見放され、わずか四ヵ月半で退陣した。

その後任を米内としたのは湯浅倉平内大臣の独走といってよい。湯浅は、天皇が一言「米内はどうだろうか」と漏らされて以来、陸軍を抑えうるものは米内しかいないと心に決めて、西園寺公望の支持を得て米内内閣成立に突っ走った。そして天皇は畑俊六陸相に対して、協力を求める異例の優諚を賜り、米内内閣は昭和15年1月に成立した。この過程で平沼、近衛などはまったく蚊帳の外に置かれた。

高名なジャーナリストである高宮太平の筆を借りれば、「平沼、近衛、木戸らは時には陸軍に対して不満を漏らすが、真正面から抑えようとはしない。抑えれば自分の生命が危ういという怯懦心もあったが、政権欲、権勢欲があるから、思い切ったことができないのである。湯浅は文字どおり捨て身だった。君国の将来を念ずるほか、一身の利害栄達など眼中になかったのである」。まだ日本には忠臣義士がいたのである。このくらいの勇気のある人がもう何人かいれば、あるいは、近衛、広田にこの勇気があれば、というのが昭和史の痛恨事である。

P302 ついに態度を変えた畑陸相
こうした経緯でできた米内内閣は、組閣早々から、「枢軸反対の論功行賞」「対英米媚態」外交と呼ばれ、軍や右派の倒閣運動の的となったが、米内はびくともしなかった。四月には米内はグルー大使に対して、「日本の政策は決定したからもうご心配無用である。日本においてファシズムを望み、独伊との提携を求める分子は鎮圧した」と語っている。

ところが、いったん気勢をそがれた枢軸派の勢いを盛り返させたのはヨーロッパにおけるヒットラーの成功であった。兵を西に転じたドイツ軍はたちまちに北欧、西欧を席巻し、六月にはパリ入城を果たした。ドイツ賛歎の声が再び沸き上がった。そのようななかでも、事態を冷静に見る人々もいた。西園寺は、「ヒットラーが偉くても長くて十年続くか続かぬかの問題だ。ナポレオンもそうだった」と達観し、米内は「ヒットラーやムッソリーニは「一代身上だ。あんな者と一緒になってはつまらない。彼らは身上を棒にふったところでもともとだ。三千年の歴史のある日本の天皇と一代身上者を同じ舞台で手を握らせようなどとはとんでもない話だ」と語ったという。

P303 しかし、すでに陸軍の倒閣運動は露骨だった。武藤章軍務局長は何度も石渡荘太郎内閣書記官長に、軍の総意として内閣退陣を要求した。畑陸相は天皇の意を体して最後までこの動きに加わらなかったが、ついに突然態度を変えた。畑は、枢軸国との関係強化と内閣の総辞職を求める文書を米内に突きつけた。米内は少しも悪びれず、「陸軍の所見は現内閣の所見と異なるから、都合が悪ければ辞めてもらいたい」といった。畑はさっそく辞表を提出し、陸軍はもとより後任を送ることを拒絶し、それが米内内閣の終わりだった。

その前に天皇は、木戸幸一に「自分はなお米内を信任している」と漏らされたが、木戸はこれをすぐ米内に伝えず、米内が辞表をもって参内したしたときに初めて伝えた。高宮は、これを木戸の故意だったと考えている。木戸は近衛と同じく大勢順応派であり、盟友近衛に後を継がせるためそうしたことは十分考えられる。なお、畑の態度の豹変の理由は、陸軍の最長老閑院宮の御命令だったので、畑としては抗しうべくもなかったということだった。畑はこのことは誰にも口外せず、戦後になって東京裁判でも沈黙を守ったが、当時の参謀次長の証言でやっと真相がわかった。

P304 畑は、米内に陸軍の意向を伝える文書を手交したのちは「屠所に引かれる羊のように神妙に」辞職したが、米内は畑の心事を理解していて、畑が自殺するのではないかとしんぱいしたという。米内は、東京裁判で、畑が突きつけた内閣総辞職要求について証言を求められたが、米内は、この忘れるべくもない文書について「記憶がない」と証言した。裁判長は、「当時の新聞にも出ているではないか」と縮刷版を出して追及したのに対して米内は「字が小さくて読めない」といった。(中略)

松岡洋右の登場
これほどに、天皇は「絶対に許さんぞ」といわれ、米内、山本がテロを恐れずにP305抵抗した三国同盟が、第二次近衛内閣ができると、あっという間に成立してしまう。これは時流もあろうが、松岡洋右の強引な事務の取り進め方によるところが大きい。近衛内閣が7月末に組閣されると、すぐに松岡外相はドイツの意向を打診した。ドイツのほうは、必ずしも確たる方針がないままスターマー特使の派遣を決めた。夏が明けた早々、9月4日、松岡は、総理、陸海相、外相の四相会議に、事前の予告もなく謄写版二十数枚の三国同盟案を提出した。皆驚いたが、「まあとにかく参戦、武力支援の問題は慎重にしてほしいが、交渉ははじめてもよい」という了承を得た。

松岡とスターマーの会談は九月九日から始まり、たちまち私案がまとまり、十九日には成文を御前会議で審議するところまで進み、二十七日にはベルリンで条約が署名された。

、 この間、海軍はどうしていたかというと、吉田海相は、陸軍、外務、世論のあいだで孤立無援となり、心痛のあまり入院し、辞職し、及川古志郎が後任となった。次官もすでに山本から豊田貞次郎に代わっていてもはや大勢に抗する力はなく、若干の字句の修正で妥協した。(中略)

P306 天皇の御憂慮のとおり、この条約は日本を破局に導いた。(中略)
第一条で日本はヨーロッパ新秩序建設における独伊の指導的地位を認め、第二条で独伊は大東亜新秩序における日本の指導的地位を認めた。日本が当面関心のあった仏印(ベトナム、カンボジア、ラオス)と蘭印(インドネシア)はそれぞれドイツが本国を占領しているのであるから、ドイツが支配権をP307主張できる地域である。また、第一次大戦の敗戦でドイツが取られた太平洋諸島もある。さらに英帝国が解体した場合のマレー、ビルマ、インド、豪州の問題もある。したがって、とにかく日本が大東亜共栄圏と考えていた地域に日本の優先権を認めさせたのだから、もし戦争画が枢軸側の勝利に終わるとすれば日本はこの条約によってドイツの大きな譲歩をかち得ていたことになる。空想的取り極めとしては価値があったのである。

その背後には、当時松岡がもっていた地政学的発想がある。つまり、独伊、日本、およびロシアがそれぞれ旧大陸において南北に勢力圏をもち(日本もドイツも、インドはソ連に与えてもよいと考えていた。その三勢力が協調して、モンロー主義のアメリカを南北アメリカ大陸に閉じ込めるという考えである。地政学や戦略というには、あまりに空想的な子供っぽい考えであるが、独ソ協調の期間のヒットラー、リッベントロップは同じような考え方をしていて、松岡はその影響を受けていた。

そして条約の第三条で、今現在ヨーロッパ、アジアで戦争をしていない国からの攻撃に対する相互援助を規定している。つまりソ連と米国であるが、ソ連については第五条で除外しているので、結局この条約の目的は米国である。P308 三国協調は当初はソ連、やがて英国を念頭に置き、最後には米国をその対象とすることとなったのである。これを見ても、この同盟がパワーポリティクスの必然から来ていないことがわかる。そして松岡やドイツが信じていたのは、この条約が米国の参戦防止に役立つということであった。

条約署名後、リッベントロップは米国に対しても、もし参戦すれば「二億五千万を超える三国国民の団結した力と戦わねばならない」と警告を発し、ワイツゼッカー外務次官のような冷静な外交官でさえ、アメリカは二正面作戦には辟易するだろうといっている。日本の強大な海軍力、英米に対抗しうる一つの大きな軍事資産と考えられていた。松岡の天皇に対する説明も、アメリカとの戦争を避けるためにはこれしかないということであった。(中略)

P309 しかし、ヒットラーも松岡も米国についての読みを誤っていた。アメリカは力のバランスのうえに立った損得の勘定で戦争をする国ではなかった。道徳的原則と国民感情のうえに立って戦争をする国であった。二十世紀も終わりとなってみれば、こんなことは常識である。それは二十世紀の半ば、1951年に出版されたジョージ・ケナンの『アメリカの外交五十年』で明確に指摘され、世紀末のキッシンジャーの『外交』によって、理論的、歴史的に詳細に分析されている。

だが、それは戦争が終わってからの後知恵であった。当時は誰もわかっていなかった。少なくとも世界各国の政策立案者の常識とはなっていなかった。そして皆、アメリカの出方を暗中模索し、あるいは幻想を抱いたのである。しかし、常識的に米国の反発の危険をわかっていた人はいた。天皇も西園寺もわかっていた。そして、誰よりも日米外交の担当者であるグルー大使がわかっていた。

グルーは1940年10月1日の日記に「同盟の主たる目標がアメリカであることは明瞭である」と書き、「九月の日記を書き綴る私の心は重苦しい。これは過去に私の知っている日本ではない」と書き記した。P310外交官がその任国について、「これはもはや、いままでに私の知っている国とは違う国だ」と書かねばならないときの絶望的な心境を思うと、ただ哀切である。

第十章 破滅的な松岡洋右外交 P312-337


大政翼賛会の発足 P312-322
(P312-)

P312 昭和十五年七月に第二次近衛内閣が組閣して以来九月には枢軸同盟が成立し、十月には大政翼賛会が発足し、十一月には皇紀二千六百年式典が挙行され、十二月には西園寺公望の国葬が行われた。生活面では、十五年夏には砂糖とマッチ、冬には木炭、十六年春には米が配給制となり、「戦地の兵隊を思え」「贅沢は敵だ」のポスターが街頭に張られた。(略)

この時代のもっとも象徴的な出来事は、明治憲法発布以来半世紀の歴史のあるP313議会民主主義の柱である政党が消滅してしまったことである。

新体制運動は近衛を中心に動いた。昭和十五年六月二十四日、軽井沢から帰った近衛は、次のような声明を発表した。
「内外未曽有の変局に対処するため、強力な政治体制を確立する必要は何人も認めるところである。自分は今回枢密院議長を拝辞し、かくのごとき新体制の確立のために微力を捧げたい」
既存の政治を打破しようという運動はそれまでもあったが、いわゆる新体制運動が動きだすのは昭和十五年に入ってからであり、三月には、政友会、民政党、社会大衆党のなかの愛国主義的傾向の人々が聖戦貫徹議員連盟をつくった。運動はこの連盟を中心に拡がり、右の近衛声明が出るころにはすでに大勢は決していた。(略)

P314 陸軍が三国同盟に反対していた米内光政内閣を強引に引きずり下ろした背景には、近衛の新体制運動運動を期待する国民世論の雰囲気もあった。近衛の動きは結果として米内内閣倒閣に手を貸したこととなる。それに先立つ六月に湯浅倉平内大臣の後任となった近衛の年来の親友の木戸幸一は、それが時流だと思ったのだろうか、米内留任を望まれる天皇の御意見を米内に伝えず、米内辞職後は近衛を推している。

他方、西園寺はそのころ、もはや近衛に失望していたようである。重臣会議が一致して近衛を支持したという結論を伝えても、老齢、病気を理由に奉答を謝絶している。そして、その失望の原因としては、「ごろ人気で政治をやろうなんて、そんな時代遅れの考えでは駄目だね」と漏らしたという。

「時代遅れ」という言葉には含蓄がある。ヒットラーのあと追いの真似をしても駄目だ、という趣旨であろう。米内のような「正を履んで憚れない真の勇気」をもった人が去るのを惜しんだ言葉と解してよいであろう。

P315 西園寺の危惧はたちまちに的中し、近衛内閣は早々に三国同盟を結び、大東亜新秩序建設、国内では新体制運動に突き進む。

西園寺はもう近衛からは何の相談も受けなくなっていたが、死ぬまで頭脳明晰であり、大日本帝国が破局に邁進しつつあるのを明確に予知し、それを側近に漏らしつつ、十一月二十四日腎盂炎で急逝した。

自由民権運動以来自ら手塩にかけて育てた日本の政党政治の終焉と、大正デモクラシー以来の日本のリベラリズムの逼塞、そして何よりも大日本帝国滅亡の予兆を目の当たりにしつつの死であった。(略)

松岡洋右外相の独走 P322-328
P322 第二次近衛内閣の外交は、終始松岡洋右外相に引っかき回され、引きずられたままだったといって過言ではない。それがもたらした結果は、大日本帝国の命運を左右するほど重大なものであった。

しかし、この松岡外交の過程をくわしく記述する価値があるかどうかは疑わしい。

なぜかといえば、松岡の行動には、歴史の必然性とは必ずしも関係ない、松岡の個人的な動機や習癖からくるものがあまりにも多いからである。

それも深い思想や哲学からくるものでではなく、自分の沽券にこだわり、俺のいうことは間違ったことはないとか、万事俺に任せろとかいう個人的習癖であり、理論があるとしても、長期的な戦略ではなく、強く押せば向こうは引っ込むというような低次元の戦術的計算であった。

そしてその意見を押し通す手段は、相手の口を開く暇を与えず喋りまくり、相手を辟易させることであった。前にも述べたが、こう言う人物は、ヒラの職員としては極めて有能であるが、

P323課長となると、もう使う方が注意して、仕事を思う存分させつつも、マイナス面をカヴァーしなければならない人物である。そして、けっして課長以上にしてはいけない人物である。

結局は、こういう人物を外相に登用した近衛の人物鑑識眼の誤りである。

松岡は、満州事変に際して国際連盟を脱退したときのヒーローとして虚名を博していた。松岡自身は、当初は連盟脱退を外交の失敗と思ったのだが、世論の意外な喝采を受け、その後次第に自ら右派の英雄として振る舞うようになっていた。

近衛はあらゆる実力者、有名人、知識人を傘下に集めるのが好きだった。有名人を自分のまわりに取り込みたいという貴族の習癖であろう。その裏として、近衛は批判勢力があること、とくに近衛が自ら人気があると思っている軍、右翼から批判が出ることを嫌った。

新体制運動についても、それができるころにはもう近衛の熱が冷めていたのは、一つには右翼の一部からそれが「幕府的存在」であるという批判が出ていたからだという。

そういう近衛にとって、右翼、国権主義者のなかに人気があり、軍からも忌避されていない松岡のような人物が外相にうってつけと思われたのであろう。

P324 しかし、松岡は、近衛内閣の看板の一つとして、近衛の人気を高めるだけの役割に甘んじるにはアクが強過ぎた。

前章で述べたとおり、松岡は就任早々、迅雷耳を掩う暇も与えず三国同盟を結んでしまった。その際リッベントロップの訪独招請もあり、松岡はすでに同盟国歴訪を考えていた。

松岡訪欧の一つの直接的な動機は、日ソ国交調整がはかばかしく進んでいなかったことにある。三国同盟のために訪日したスターマー公使が、ドイツは日ソ間を斡旋する用意があるといっていたので期待したのであるが、一向にその気配もない。

松岡の外交顧問であった斎藤良衛によれば、松岡は日ソ国交調整問題について直接ヒットラーと相談するつもりであり、「もし調整実現の望みがないならば、アメリカ牽制は一場の夢と化し、同盟条約の存在価値は皆無となるから、…独伊と握った手を解き離すより外はない」とまで考えていたようである。

松岡訪欧に先立って一九四一年二月三日、政府は交渉案要綱を決定した。それによれば、戦後の講和会議では、世界を大東亜圏、欧州圏(アフリカを含む)、米州圏、ソ連圏(インド、イランを含む)の四大圏とし、英国には豪州、ニュージーランドを残すこととしている。

P325いまから思うと、こんな誇大妄想的な計画をよく大真面目に政府決定したものと思う。松岡に押しまくられたことと、近衛内閣の世界新秩序ムードのためであろう。

しかし、これはじつにリッベントロップが一九四〇年十一月、ベルリンでモロトフに提案したところのものである。キッシンジャーによれば
モロトフはこのあまりにも誇大な提案に興味を持たなかった。 ドイツが提供するといっているものはドイツがまだ所有しているわけではなく、ソ連はこの領土を占領するためにはドイツを必要としなかった
のである。

ソ連のボルシェビキ外交はもっと現実的であり、ドイツからは、ドイツが現にもっているもの、つまり東欧、北欧における大幅な譲歩を要求した。それは日本に対しても同じであった。

日本が、各国は南北に勢力を伸長すればお互いに衝突しないという観念的な論理で北樺太の買収を希望したのに対して、ソ連は、日ソ間に中立条約ができれば日本はシナにおいて有利になるという理由で、その代償として北樺太の利権解消を要求している。

共産党員はヒットラーや松岡のような子供じみた空想の世界に生きていないのであった。

P326 したがって、独ソの関係調整はドイツの思惑どおりにいかず、松岡がベルリンを訪問する前に、ドイツはすでにソ連との話し合いを諦め、ソ連攻撃のバルバロッサ作戦を決断していた。

ドイツ外務省(ワイツゼッカー次官)および海軍はバルバロッサ作戦を松岡に通知したほうがよいと進言したが、ヒットラーの司令部は作戦の秘匿を指令した。ただ、ヒットラーもリッベントロップも、松岡に対して独ソ関係がうまくいっていない状況と独ソ衝突の可能性には言及している。

その代わり松岡に対してドイツ側が執拗に迫ったのは、日本がシンガポールを攻撃して、英国海軍をアジアに釘づけすることであった。しかし、松岡は出発前にシンガポール攻撃について何ら言質を与えないよう陸海軍から強く釘を刺されていたので、「自分は決める立場にないが、日本がいつ攻撃に出るかは時期の問題であり、自分はなるべく早いほうがよいと考えている」と答えている。

こうして松岡は、日独ソが強調してアメリカとのあいだにバランス・オブ・パワーを築きアメリカの参戦を防ぐという大戦略については、ドイツの意向について確信がもてないまま、帰路モスクワを訪問した。

P327そして往路モスクワに立ち寄ったとき、すでにモロトフに示しておいた日ソ中立条約についてモロトフと交渉した。条約交渉は、ソ連との交渉のいつもの型のごとく一度は物別れの状況となるが、最後のギリギリの段階でソ連側が交渉再開を望んで、妥協した。

条約はきわめて簡単なもので、第一条で相互の領土の不可侵、第二条で第三国との戦争における中立を規定し、第三条で、条約は五年間有効で満期の一年前に破棄通告がなければ自動延長とした。

そして松岡は、北樺太の利権問題を数ヵ月以内に解決することを合意した。

この条約は、日本を米、英と戦わせるソ連の大戦略からいっても、ドイツとの関係が緊迫している状況からいってもソ連の大成功であった。スターリンは、モスクワ駅で松岡外相を見送るという異例のゼェスチュアを示し、さらに松岡を抱擁して別れの挨拶をした。

日独ソ提携して対米牽制をするという松岡の戦略は、独ソ開戦でたちまち崩れることとなるが、条約成立の時点では、ドイツが言を左右にして協力してくれなかった日ソ国交調整を松岡は自分独りの力で達成したのである。まんまとソ連の策略に乗ったのも知らない松岡の得意思うべし。

P328 また、それはもともと松岡の意図したところではないが、日ソ中立条約は、大東亜戦争に際して背後の懸念をなくしてくれた意味で悪いことではなかった。そして戦争末期、まだ条約の有効期間中のソ連の参戦という中立条約違反の負い目をソ連に負わせた効果もあった。 松岡外相の日米交渉妨害 P328-334
松岡の独走、暴走のなかでも、最も大きな害をなしたのは日米交渉に対する松岡の妨害である。しかも、それをなした松岡の動機が、大きな政策についての意見の相違からというのではなく、あえていえば松岡のケチな根性からきていることを思うと、悔やんでも悔やみきれないところがある。

三国同盟の仮想敵が米国であることは条文を見れば明らかであり、同盟が成立するや否や米国は戦略物資の禁輸強化を行い、米国内の世論も戦争を賭しても日本を抑えるという声が高くなった。

松岡の外交はもともと強く出ることによりアメリカを引っ込ませようというのであるから、米国の世論をなだめようという策をとるはずもなく、米国政府側も、松岡のやりかたにおこってしまって、日本を宥和する政策を打ち出す気もなく、日米関係はただただ悪化していった。

P329 しかし、そこがアメリカの懐の広いところであるが、政府間が暗礁に乗り上げているのに対して民間が動きだした。

それはカソリックの修道会であるメリノール会の聖職者ウォルシュとドラウトであった。彼らは大統領の選挙事務長であり、親日派であるウォーカー郵政長官とも親しく、近衛とローズヴェルトのあいだに和解のための仲介を申し出た。

両師は昭和15年11月の滞日中、松岡外相や陸軍当局とも会ったが、松岡などはこうした民間の動きなどに大した期待をもたなかった。

しかし近衛は、あいだに立った井川忠雄(大蔵省出身のアメリカ通)を信頼して、松岡にも駐米大使として赴任する野村吉三郎にも秘して、やらせてみて成り行きを見るゴー・シグナルを出した。

その後三人は、それぞれの国の首脳の意を受けつつ話し合いを続け、昭和16年4月15日に至って成果を得た。そして翌16日、密かにハル国務長官と野村大使のあいだで、これを政府間の話し合いに載せることに合意した。

この日米了解案の内容は、じつに苦心の作である。

P330 米国側は三国同盟を実質上空文にすることを希望したが、日本側としては、国際信義のうえから、結んだばかりの条約を骨抜きにするわけにはいかないので、これは全く防衛的なものであると宣言することとした。

いちばんの問題は支那事変の解決であったが、諒解案は、中国側が満州国を承認し、蒋介石と汪兆銘の政府を合体させ、日本軍は協定に基づいて撤兵し、非併合、非賠償の条件の和平を結ぶことを米大統領が蒋介石に勧告することとした。

4月18日、たまたま東京では閣議の最中にこの案がもたらされ、その夜、政府と統帥部の連絡会議が開かれたが、全員賛成だった。陸海軍は「飛びついた」のが実情だったという。すぐに原則的賛成を返電しろという意見もあったが、もう二三日で帰国する松岡を待つことにした

じつは、近衛は松岡がつむじを曲げることを憂慮していた。そして、自ら松岡を迎えの車中で説得しようとして飛行場まで赴いた。ところが松岡は帰路二重橋で皇居を拝むパフォーマンスをすると言い出し、インテリの近衛は、それに付き合うのをためらい、同乗を断念した。

はたして代わりに同乗した大橋忠一次官は説得に失敗し、近衛は、のちのち「あのときに自分が同乗していたら…」と残念がったという。

P331 じつは日本に着く前に、近衛は大連に着いた松岡に電話をして米国から重大な提案がきている
から急いで帰国するようにといった。松岡はその時は上機嫌だった。モスクワで旧知の駐ソ・アメリカ大使に対し、米国が日支和平をの仲介をするよう説いた効果が早くも表れたと思ったからである。

ところが、自分の知らないうちにカソリック宣教師によってできた案と聞くや、ただちに不快の念を顔に出し、会話を打ち切ってしまった。

首相官邸の会議に出席した松岡は、ヒットラーさん、チアーノさんと呼びながら訪欧の話を吹きまくり、近衛がたまらず日米諒解案の話をすると、激昂して、「米国にだまされるな、とにかく自分は疲れているから、二週間か一ヵ月くらいのうちに考えをまとめたい」といいたいだけいって帰ってしまった。

あとに残った関係者は東条陸相も含めて、松岡の暴慢に憤慨し、とにかくこの話を進めようと合意したが、もう機会は去ってしまった。この経緯は書くだけでも恥ずかしいような、低次元の話である。しかも、こうした小人物の意固地が国の運命を翻弄したとなるとやりきれない気持ちになる。

結果として、松岡は、日米諒解案に到達する際に双方が行った妥協すべて否定するような日本側修正案を5月11日、米国に提案した。

P332 ハルは、その回想録のなかで「この提案から希望の光はほとんど差していなかった。日本は自分の利益になるようなことばかり主張し、他国の権利や利益をほとんど考慮に入れていなかった」と記している。

もし日米諒解案をもとに日米交渉が進展していたならば、どうなったであろうか。

交渉が容易なものでなかったことは十分想像しうる。ハルの回想禄では、ハルはその原案を検討したあとで、提案の大部分は日本の帝国主義が望むようなものばかりで非常に失望したと書いている。

しかし、一部には全然承諾できない点もあるが、そのまま受け入れられるものもあり、修正すれば同意できる点もあって、日本との交渉の糸口となる機会を逃すべきでないと考えた。

つまり、聖職者の道徳的権威で平和を第一の目的として両者に押しつけられた案であって、もともと米国が全部同意できる案でもなく、松岡が考えているように、値切ることが可能な案ではなかったのである。

現にハルは、すべての国の領土と主権の尊重、内政不干渉、平和的手段のみによる現状変更というような原則を日本側が承認することを条件として、交渉開始を提案している。

P333漠然たる原則であるが、もっとも厳しく解釈すれば満州事変に遡って現状変更を否定することになる可能性も秘めているわけである。また、アメリカがもしそれでよいといってもそれから蒋介石を説得しなければならない。それも容易ではなかったろう。

とくに難交渉が予見されるのは、日本軍の撤兵条件であり、日本の軍は前から、華北には防共地域を設けて駐留を継続するほか、他の戦略的要点からの撤兵も渋っていたので、簡単には決着はつかなかったであろう。

しかし、もし蒋介石側が、満州については、時間がたてば大使の交換ぐらいはしてもよいとか、過去にも何度か示唆された現実的解決を受け入れ、日本の軍が撤兵条件を大幅に譲歩すれば---それに終戦の聖断がに近い天皇のイニシァティブが必要だったかもしれないが---妥協の可能性はあった。

しかも国際情勢は激動していた。もし日本が真剣な交渉に入っていたとすると、その直後に独ソ開戦があり、ドイツはふたたび三国同盟の精神に対する背信行為を犯すわけであるから、アメリカの希望する三国同盟の空文化にとって絶好の環境が出現したことになる。

P334 また、緒戦のドイツ軍の勝利のあいだ、米英側もドイツの勝利という最悪の事態を考えれば、対日妥協も考えざるをえなかったかもしれず、また日本軍としては北進という選択肢が大きくなるわけであり、中国から大幅に撤兵するインセンティブとなったかもしれない。

歴史のイフは、いまさらいってみても確たる結論の出る話ではないが、少なくとも日米戦争を回避するチャンスが少しでもあったものをみすみす逃したことは押しみてあまりある。

 偏愛メモ、この日米交渉をジョン・ドゥ・アソシエーツ(John Doe Associates)と呼ぶ(非公式)。
  →『鮎川義介と経済的国際主義』(参照
  →『ウェルカムトゥパールハーバー』(参照)、ジョン・ドゥ・アソシエーツを扱った小説

第二次近衛内閣の総辞職 P334 松岡訪欧の最中すでに、ドイツは対ソ戦を暗示していたが、六月二十二日、ドイツはついにソ連を攻撃した。同じ日の夕方、松岡は天皇に拝謁し、近衛と何の打ち合わせもなく、日本はドイツと協力してソ連を討つべきこと、南方は一時手控えねばならないが早晩戦わねばならず、日本はソ、英、米を同時に敵として戦うことになる旨上奏して天皇を驚かせ、天皇は松岡忌避のご意向を明らかにした(相互参照)。

三国同盟は、米国の参戦を防止しようというのがその本来の目的であった。しかし、独ソ戦によりたちまちに米英ソの同盟ができたことになる。これと戦うことは危険極まりない。

P335近衛は、三国同盟破棄を松岡と陸海相に書面で申し入れた。しかし、松岡はそれを真面目に取り上げず、またドイツ軍が破竹の勢いでソ連領内に進撃している時期においては、軍部もそれに同意しなかった。

三国同盟破棄は不可能と知った近衛は、もうこうなっては三国同盟を実質的に骨抜きにして対米交渉を進めるほかはないと考えた。

しかし、他方ドイツはしきりに日本が軍事行動に出ることを督促してきた。六月三十日オット大使は松岡に対し、リッベントロップの申し入れとして、いまこそ日本にとって「唯一無二のチャンス」であり、「シンガポール攻撃も重要だが、いまはソ連を叩くべきだ」といってきている。

結局、七月二日の御前会議で「帝国国策要綱」をつくって、松岡の即時北進論を抑えた。そして矢部貞治によれば、「多少代償的な意味で」南方進出の態勢を強化する姿勢を示した。

矢部によれば、そのなかの「対英米戦も辞さず」は「たんなる御題目にすぎず、誰もそれを本気で考えたのではなかった」という。しかし、むしろこれが日本を対米戦争に追い込む大きな要因となるのである。

この御前会議の内容を、正確なコメントとともにソ連に報告したのはゾルゲ(相互参照)であった(tw)。

P336
ゾルゲは尾崎秀実とともに、第二次大戦中活躍したスパイのなかでおそらくは最高の実績を上げたスパイであり、一九六四年にソヴィエト英雄賞を授けられ、いまも賞状と勲章が赤軍博物館に展示されている。

ゾルゲはナチス党員になりすまし、近衛側近の尾崎と連係して、日本政府内の情報をオット大使に頻繁に連絡して珍重され、すべての枢機を知る立場にあった。

日米交渉を成立させず日米戦争を導くよう、日本の最高の国家戦略にまで影響を与えただけでなく、日本に対ソ戦争の意思がないことをソ連に知らせて、ソ連がシベリアの戦力をモスクワ前面に転用し、独ソ戦に勝つ一因をつくっている。

尾崎もゾルゲもスパイであることが発覚して真珠湾海戦の二ヵ月前に逮捕された。尾崎は検察当局に、「自分たちの赤化運動はすでにその目的を達し、日本はついに大戦争に突入し、革命は必至である。自分の仕事が九分どおり成功しながらいまその結果を見ずして死ぬのは残念だ」と述べている。

近衛としては、こうして北進は抑えておいてただちに対米交渉を進めたかったのであるが、当時米国はすでに松岡を通じて折衝してもムダと考えるに至っていたようである。

そして、七月四日の大統領メッセージを松岡の頭越しに直接近衛に伝えたことで松岡はつむじを曲げて、ますます米国に対して挑発的な言動をとるようになり、野村大使からはもうこれではやっていられないと辞意の表明まであった。

そこで、もともと天皇のご意向もあり、実質的には松岡はずしを主要な眼目として近衛内閣は総辞職し、大命は再び近衛に再降下し、第三次近衛内閣が発足した。

この時期の松岡の言動には、矛盾撞着する者が多く、重光葵や伊藤正徳など、控えめではあるが「狂」という表現を使っている。巷間伝えられるところも、これに符合するところがある。こうした人物を登用した近衛に最大の責任が着せられるべきであろう。

第十一章 真珠湾へ P340-370


硬化する米国の態度 P340 大東亜戦争開戦に至る過程は、数限りない人々によって繰り返し繰り返し語られている。戦争が日本と日本の歴史に与えた惨禍があまりにも大きかったので、敗戦以来、誰も彼もがどうしてああなったのだろうかと思い返し、悔恨と無念さをもって、その経過を反芻しているのである。

日本が石油を止められたのちの選択肢は、もう「ジリ貧」か「ドカ貧」しか残っていなかったというのは正しい観察であろうが、その直接の引き金となった南部仏印に進駐したのはなぜだったのだろうか?

そもそも日本にとって「南進」とは何だったのだろうか?

日米交渉の実質的内容で最大の難関は駐支日本軍の撤兵問題であったが、陸軍の態度が交渉の大詰めになるにつれて硬直化し非妥協的になったのはなぜであろうか?

また、日米戦争の主な担い手である海軍が、長期戦に成算のないことを終始認めながら、開戦にはっきり反対できなかったのはなぜだろうか?

最大の疑問は、米国の態度の硬化である。一九四一年春の日米諒解案のころに比べると十一月のハル・ノートの内容は格段に硬化している。

P341また、おそらくはそれしか打開の道はなかった近衛・ローズヴェルト会談の実現を阻んだのは何だったんだろうか?それは南部仏印進駐のためだけなのか?日米妥協に反対する蒋介石の圧力、国際共産主義の策謀、暗号文の誤訳は、どこまで関係があったのだろうか?

こうした疑問に答える前に、ここでは、通史を書くという趣旨からして、また読者の皆さまの記憶をもう一度呼び起こすために、まず日誌風に事態の推移を略述し、そのあとで右の疑問について考察してみたいと思う。

日誌を遡るときりがないので、第二次近衛内閣も終わりころの昭和十六年(一九四一)七月二日の御前会議以降とする。

・七月二日 御前会議で「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」を決定。「情勢の推移」とは六月二十二日の独ソ開戦後の新事態のことであるが、松岡洋右外相が、一転してソ連攻撃を主張したのを抑え込むのが会議の主目的。

しかし、対ソ戦を当面見送る「代償」(近衛日記)の意味で、南方進出の態勢を強化し、対英米戦の準備を整えることを決定。

P342 ・七月十八日 第三次近衛文麿内閣成立。実質は松岡更迭。外相は松岡に代わって豊田貞次郎。

・七月二十四日 仏印に対して南部仏印進駐を通告。二十八日進駐。

野村吉三郎・ローズヴェルト大統領秘密会談。ローズヴェルトより「いままで石油禁輸せよという世論を抑えてきたが、いまやその論拠を失った。仏印から撤退してその中立を保障すれば日本による物資入手に協力する」。

・七月二十五日 日本資産凍結

・八月一日 対日石油禁輸

・八月五日~八日 ワシントンで事態収拾のための協議。日本側は仏印以外に進出の意図がないことで諒解を得ようとしたが、アメリカは仏印撤兵を主張して、不調。

・八月十二日 ローズヴェルトとチャーチル、大西洋で洋上会談。英米共同宣言(のちに大西洋憲章)に署名。宣言の内容は抽象的であるが、第二次大戦における米英協力の確立。

・八月二十八日 ローズヴェルト・近衛会談提案を野村よりローズヴェルトに手交。ローズヴェルトは乗り気でアラスカのジュノーでの会談を示唆したが、同夜ハルは野村を招致して、首脳会談前に事務的な詰めが必要だと述べた。

P343・九月三日 右のハルの考え方を正式回答。首脳会談の事実上の拒否。

・九月六日 御前会議で「帝国国策遂行要領」を決定。十月上旬までに対米交渉妥結の目途がつかない場合は対米宣戦を決意

席上、天皇はあくまでも外交交渉の成功を希望され。
明治天皇の御製を引用された。四方の海みなはらからと思ふ世になど波風の立ち騒ぐらむ
・同日 近衛は、グルーとドーマン(米大使館きっての日本通)に対して首脳会談の実現を慫慂。

・九月二十五日 連絡会議。九月六日の会議で決定した十月上旬の最終期日を十月十五日に確定。

・九月二十七日 六月の米提案に対する日本側回答は、松岡外相更迭のために、在米日本大使館が手交を控えていたが、これをハルに手交。この切羽詰まった時期における回答としてはないようにメリハリがなく、かえって、米側に日本の真意を疑わしめることとなった。

・十月二日 米側回答。ただし九月二十七日の日本側提案はまったく無視。結論部分で「日本側は、原則の実行に対して、いろいろな条件や例外をつけているが、こんなことで首脳会談をして意味があると思っているのだろうか?」。

P344/



346/ 348



"手術をすれば助かるかもしれない" P349-350

天皇「陸軍は日米戦争をどのくらいの期間で片づける自信があるのか」
杉山「南洋方面は三か月のつもりです」
天皇「支那事変を一か月で片づくといってすでに四年たって片づかないではないか」
杉山「シナは奥地が広く・・・」
天皇「シナの奥地が広いことは初めからわかっている。太平洋はもっと広いではないか」

なぜ南部仏印に進駐したのか P350/ 352

強硬論はすべて善という雰囲気 P354/ 356

交渉打ち切りの最後通告 P358/ 360/ 362

「ローズヴェルトに会いさえすれば・・・」 P364/ 366/ 368/ 370
(略)

第十二章 栄光に酔った六か月 P372-401


第十三章 大東亜共栄圏 P404-434

13.1 重光葵と東郷重徳 P404-407
13.2 欧米植民地支配の実態 P408-419


P414 福沢諭吉の文章の魅力は、余計な遠慮や偽善を排して物事の本質にズバリ入るところにある。(中略)「江戸時代は、将軍直属の幕吏が幅をきかせた。われわれ小藩の士族などは、大井川を渡ろうとするためには、朝早くから四時間も待たねばならない。やっと順番がきたと思うと、『下に居ろう。下に居ろう』という声で公儀の荷物がくるので、逃げ散って、これを見送ってから、結局、六時間も待たされて川を渡った。・・・

先年、香港に旅行したときに、支那の商人が靴を売りにきた。暇なので、わざとゆっくり値切っていると、そばにいた英国人が、支那人がまた無理をいっているとでも思ったのだろう。靴をもぎ取って私に手渡し、二ドルほどの金を支那人に投げ与えて、ものもいわずに、ステッキで追い出してしまった。

私はただ、英国人の横暴がうらやましかった。英国人は、かつての幕吏どころでなはなく、P415 無人の境を行くがごとく東洋の諸国を往来している。その心のなかは、さぞ愉快であろうと思う。日本も数億円の貿易を行って、数千隻の軍艦を揃え、大いに世界に国威を輝かせば、支那人などは、右の場合の英国人が支那人を扱ったと同じように扱えるだろう。

そのうえに、英国人をも奴隷のように扱う圧制も加えられるのにと、獣のような恐ろしい気持ちが湧いてくるのを禁じえなかった。圧制を憎むのは人間のもって生まれた性質というが、それは圧制されるのを憎むのであって、自分が圧制をするのは、人間最上の愉快といえる(tw)。

かつての幕吏、いまの外国人に対して不満をもつのは、自分がその圧制を受けているからである。私の希求するところは、いま圧制している人を、逆にこちらから圧制して、日本が世界で圧制を独り占めにすることである

当時の日本人、あるいはすべてのアジア人の心のなかに一度は生まれた願望を正直に書いた論説である。そして日本はついに英国人とオランダ人に勝って、白人種に屈辱を与え福沢のいう「獣心」を満たしたのである。
(略)
13.3 重光の対支新政策 P419-424
13.4 大東亜会議開催 P424-429
13.5 植民地解放と日本の功罪 P429-434

第十四章 敗戦の教訓 P436-462

第十五章 滅びの叙事詩 P464-492

第十六章 もう、やめねばならない P494-528

16.1 沖縄の決戦 P494-500
16.2 散る桜、残る桜も散る桜 P500-505
16.3 もう、やめねばならない P505-509
16.4 無差別殺戮の地獄へ P510-512
16.5 一縷の望みもない和平への努力 P513-516
(P512-)

P513 東郷重徳外相は、開戦当初日本国民全体が緒戦の勝利に酔いしれているときから、早期和平を追求してきた。それは重光葵にも引き継がれたが、その交渉の過程を辿ることは虚しい。振り返ってみて、現実の可能性がまったくなかったからである。

東郷は、戦争が第一次大戦のようにドイツが孤立して英米仏露と戦うことになるのを想定して、「この戦争における外交戦はソ連の争奪にあり、これを外交の関ケ原と目し」たが、独ソがすでに戦っていてはソ連を日本側に引き込むことは困難なので、まず独ソ和平を策した。

時期としては、ドイツがまだ優勢なあいだのチャンスを捉えようとして、一九四二年のドイツの夏季構成の前に何とかしようとしたが、ドイツは、逆に日本の対ソ戦参加を要求してきた。こうしてこの計画が進まないうちに、東郷は東條英機内閣を去ってしまった。重光もこの方針を受け継いだが、結果としてソ連から明白な拒否の意思表示があった。

P514 ソ連は一九四三年十一月のテヘラン会談ですでにドイツ打倒後の対日参加の意向を漏らし、四五年二月のヤルタ密約では、南樺太、千島の引き渡しなどを条件にして、対独戦終了の二、三ヶ月後の参戦を約している。ヤルタ密約はトルーマン大統領さえ、ローズヴェルトの死後金庫の中に発見して愕然としたという極秘文書である。

これを知る由もない日本はその後もソ連の仲介による和平工作に期待したが、ソ連が日本からの働きかけにいささかでも心を動かした形跡は皆無であり、日本側の努力はまったく徒労に帰している。ただその間、一貫してソ連の仲介を期待することは困難という正確な情勢判断を守った佐藤尚武駐ソ大使と、それでもどこかに一縷の望みはないかと探求した重光そして東郷外相との長文電報のやりとりは、ここで紹介する紙幅もないが、当時の国家戦略論として滋味掬すべきものがある。

重光が最後の望みを託したのは、バルカン、中近東、中国において、米英とソ連の利害が衝突することであり、ソ連が、アジアの権益を守るには英米との協力よりも日本との妥協のほうがよいと考えるチャンスだった。これは理論的に考えて、必ずしも非現実的な判断ではない。しかし、実際にローP515ズヴェルトの指導のもとに進行していた米ソ関係は、外部から想像できないほどのものであった。

ローズヴェルトがなぜあれほどスターリンに甘かったかは、いまでも説明し尽くされていない。ローズヴェルト自身マルクス・コンプレックスをもっていたというし、その側近にも親共的傾向の強い人がいたのは確かであるが、いずれにしてもナイーヴといえるくらいソ連に甘かった。

東欧については、スターリンの予期に反して、ローズヴェルトはまったくのフリーハンドを与えたに等しかった。アジアについても、すでにテヘラン会談において、中国の意向を考えずにロシアに不凍港の必要を認めている。不凍港といえば、それは大連、旅順のことである。こういう状況では、日本からの働きかけがスターリンの心を動かすチャンスはゼロであった。

はたして予定どおりドイツの降伏の三ヶ月後、ソ連はまだ有効期限であった中立条約を侵犯して対日宣戦し、満州、樺太、千島の日本人に言語を絶する惨苦を与えることになる。それだけでなく、ポツダム宣言第九条に「日本軍隊は、完全な武装解除ののち、各自の過程に復帰し平和的かつ生産的生活を営む機会を与えるP516べし、」とあるのに違反し、じつに五十七万の日本軍将兵を拉致して強制労働を課し、そのうち、七万以上が飢えと寒さでシベリアの土と化した。

近年になってロシア人にこのことをいうと、「あれはわれわれと違う世代の違う考え方の人々がやったことでわれわれの責任ではありません」という。そしてまた「あのころはロシア人も同じような目に遭っていた」という。

そうかもしれないと思う。共産主義ソ連の本質を知らず、それに幻想をもつ過ちを犯したのは、ローズヴェルトも日本も、そして革命当時のロシア国民も同じだったといえよう。

16.6 終戦 P516-528
(P516-)

(P522)

P523 こうして組閣を終えた鈴木が窓外の桜を眺めつつ、「もう、やめねばならない」と決意したことはすでに述べた。このあとの終戦に至る細かい経緯は、枝葉末節であろう。鈴木も東郷も、戦争も、戦争終結の機会を心中ひそかに求めていたが、ドイツの敗戦のときでも、ポツダム宣言のときもまだ日本国内では機が熟していなかった。

八月六日、原子爆弾が広島に落とされた。それが老若男女の非戦闘員に及ぼした惨苦は言語に絶した。実地調査をしてみると、紛うかたなき原爆とわかった。その報告は八日にもたらされ、同日ソ連が対日宣戦をした。九日の晩、最高戦争指導会議が開かれた。

出席者は、鈴木首相、東郷外相、阿南惟幾陸相、米内海相、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長であったが、ポツダム宣言受諾にどういう条件を付けるかで意見が対立した。条件といっても、陸軍がいうのは、米軍の本土上陸は許さない、在外の日本軍は降伏でなく自発的撤兵とするなど、面子にこだわる条件でとうていアメリカが受け入れるはずのないものであり、事実上の継戦論であった。

鈴木は、ここで、寸刻を争う情勢のもとで、こうして時を過ごすべきでないと考え、天皇の前で再度会議を開くことを決め、その日の夜中十一時五十分から御前会議を開いた。ここから先は、議長であった鈴木の回想の表現を借りて記述するのがいちばんよいと思う。カギカッコは内は引用である。

従来の経緯を説明し、ポツダム宣言の無条件受諾が最善であることを「論理正しくはっきりした口調で述べた」東郷が、「つねに冷静に、反対の立場の人々に対しては毅然として、ポツダム宣言の意義を説明され、信念をもって終始された」ことに鈴木は深い敬意を表している。

陸奥宗光、小村寿太郎、幣原喜重郎が築いてきた大日本帝国の外交の灯が消える直前の瞬間に東郷がみせた日本外交の最後の輝きである。これに対して阿南陸相は「私は外務大臣に反対である」と前提して、「敵4P525の本土来襲を待って徹底的打撃を与えれば、そのときこそ自ずから平和への道も有利に開ける」と抗戦を主張した。

「その緊張した空気は誠に真剣そのもので、真に御前会議らしい」雰囲気だった。そこで鈴木は「この重大な事柄を決するに、じつに陛下ご自身にお願い申し上げ、国の元首のお立場から御聖断を仰ぐべきだと心中強く決するに至った」のである。

そして玉座近くに進み出でて、「かくなるうえは誠にもって畏れ多い極みでありますが、これより私が御前に出て、思し召しをお伺いし、聖慮をもって、本会議の決定と致したいと存じます」と述べた。これこそ日本の近代史で誰もあえてしなかったことである。もし戦争に至る大きな節目のときに時の総理が昭和天皇の御聖断を仰いでいたならばどうだったろう、との感慨は避けがたい。

鈴木の回想を続ける。そこで天皇は、「自分は外務大臣の意見に賛成する」と仰せられ、その御説明においては、「誠に理を究め、曲を正す、正鵠な御認識によるお諭の御言葉であり、いかに陛下が平素から正しく戦局を御認識あられたかが拝察できる御論旨でP526あった。一同ただ声なく粛然と襟を正したのである」。

会議は十日の午前二時まで続き、翌朝七時には、鈴木は連合国に対してポツダム宣言受諾の用意ある旨電報させた。十三日に、連合国側かの正式回答があり、その内容が国体の護持について不明確であるとして、ふたたび主戦論が強くなり十四日ふたたび御前会議が開かれた。しかし、昭和天皇の御決意は変わらなかった。(以下省略)
(P528)


文献目録 P529-536
関連年表 P537-545