P13 この時代に権勢をふるっていたのは「モダニズム」と総称される潮流。ヴァージニア・ウルフ、ジェイムズ・ジョイス、マルセル・プルーストらがその代表で、実験的・個人主義的作風がもてはやされ、その手法の一つとして、作中人物の目と声によって物事を描写する「内面視点」が大いに導入されました。
それまで主流だった、「そのとき彼は○○と言った」というような、全知の語り手が神の視点から物語る文体は、どこか古臭いものと捉えられるようになっていきます。そうではなく、人物の「意識の流れ」を追い、人物の「ボイス」を多声的P14に響かせるのが、最新のかっこいいスタイルとなっていった。
モダニストたちの、旧世代の小説作法から抜け出して新しい文学を創造しようとする気概は苛烈でした。そうしたなかで、ミッチェルはどうしたのか。エドウィン・グランベリーという評者への手紙(一九三六年七月八日付)に、彼女はこう書いています。
わたしの作品を、第一に、一個の小説であり物語であると評していただきありがとうございます。ジョイス風でも、プルースト風でも、ウルフ風でもない、ということですね。貴殿は、拙作がどんな本であるかを的確に総括なさったばかりか、本の背後にどんな精神があるか、鋭く見抜いていらっしゃる。『風と共に去りぬ』の一気呵成に読ませる文体は、アマチュア作家の若書きだと思われてしまいがちですが、この手紙からは、ミッチェルが自覚的にモダニズムに背を向け、高度な文体戦略を持ってこの作品を書き上げたことがうかがえます。実際、彼女はリライト魔だったようで、七十回ほど書きなおしたパートもあると言われているのです。
わたしは”意識の流れ文学”はどうも読めません。もともと脳神経学者か精神医学者を目指して勉強を始めましたので、人間の心の川の澱みや密林でなにが起きているか実際よく知っておりますし、たっぷり見てまいりました。だからこそ、小説中には書く気になれないのです。
P15 ミッチェルは、同世代のロスト・ジェネレーション作家のように書くつもりもありませんでした。一度、当時流行りだったジャズ・エイジ小説(短編)を書き始めたことはあるのですが、酒とパーティに明け暮れるジャズ小説の世界が自分の一人目の夫を思い出させたこともあり、この手の小説は、フィッツジェラルドに任せておけばいいと考えるに至り、これにも背を向けることになります。
結局、ミッチェルは、南部のプランテーションを舞台にした小説を書くことにします。しかし、伝統的な南部小説---南部を称揚するために書かれた、貴族然とした白人富裕層が恋をしたり、英雄的な活躍をしたりする一方で、マグノリアの花が揺れ、そこに気のいい黒人奴隷が出てきてバンジョーを弾いたりする物語---を書くつもりは、彼女には全くありませんでした。
彼女が舞台に選んだのは、「ディープ・サウス」と呼ばれるジョージア州北部にあたる内陸の土地でした。南部の中でも早くから入植が進み、文化が洗練されP16ていた沿岸部とは違って、開発されて間もない、素朴で垢抜けない農園の暮らしをあえて選び、「新しい南部像」を創出しようと決意したのです。
「新しい南部像」を描くにあたってミッチェルが活用した資料の一つは、南北戦争後に盛んに出版された、南部婦人の手記や体験記でした。そこには生活の細部が詳らかにされており、なかには小説仕立てのものもありました。その生々しい描写が、ミッチェルにさまざまな着想を与えたように思います。
もう一つは、意外なことに、同世代の作家たちが必至で手を切ろうとしていたイギリスの十九世紀のヴィクトリア朝文学だったのです。ミッチェルは幼い頃から、母メイベルににイギリスの名作を読むよう、うるさく言われていました。
一作読むごとにおこづかいがもらえ、読まないと室内履きで叩かれたといいます。このときの読書体験を創作に活かしたのです。
ミッチェルの小説の背景として、もう一つ、この厳しい母親との関係にも触れておきましょう。メイベルはしつけにうるさく、要求の多い親でした。娘が野球や乗馬で男の子たちを負かすのを喜んだり、新しい時代の強いサバイバーになってほしいと自ら銃の撃ち方をみっちり仕込んだりする一方、幼い頃から娘をお作法教室やバレエレッスンに通わせ、上品な「南部の貴婦人」となるべく、小さなレディとして振る舞うことを強いました。
つまり、男性的な面と女性的な面の両方を娘に求めたのです。さらにカトリックの篤い信仰を求め、奉仕の精神と他愛の心を説いた。ミッチェルはやはり、この立派な母親の存在に重圧を感じていたと思います。そして、「男であれ、しかし女であれ」と同時に二つの像を求められて分裂し、ジレンマを抱えた。若い頃フラッパー娘になったのも、こうしたことへの反動があったからでしょう。
(略)