欺瞞的な韓国の"中立声明" P119-120
P119 日露戦争終結後、世界と極東の政局の潮流を一変させる諸々の事件や事態が、わずか数十年の間に生起した。韓国併合、辛亥革命、そして所謂「二十一ケ条」問題、満州の鉄道争覇戦、米国の排日移民問題、ロシア革命、シベリア出兵等、第一次世界大戦の波紋である。極東情勢に安定をもたらしたのは韓国併合のみ、他は悉く後日の事変及び戦争の遠因となった。(略)
明治三十七年(一九〇四年)一月、日露関係が急迫するや、韓国は突如、「厳正中立」を密かに列国に打電したが、すでに京城を制圧していたロシアはこれを無視した。露兵を撤退させ得ない、"中立声明"は一片の空文にすぎなかった。(略)
ロシア側の戦術によるものであった。戦争となれば、日本が朝鮮を進路に選ぶことは明白だったので、日本軍の朝鮮領土利用を予め封じておこうとして、ロシア側から知恵をつけられ、朝鮮政府はこのような早まった中立声明を発したのだと云われてゐる。(略)
P120 "中立宣言"の数日後、日本側は黄海で、ロシア軍の出動を旅順に要請する手紙を携行する朝鮮人を乗せた小舟を拿捕したのである。しかも驚くべし、その手紙の発信者は"中立宣言"を声明した当の大臣であった。
これによって、朝鮮には中立の意思など微塵もないことが物的証拠によって立証されたのである(H・B・ハルバート『朝鮮滅亡/古き朝鮮の終幕』)。当時在韓のジャーナリストであったカナダ人F・A・マッケンジーは、日露開戦の直前、宰相の李容翊に面談し、もし朝鮮が滅亡から救われようとするなら、改革が必要であると強調したところ、李は即座に朝鮮は安全である、なぜなら我々の独立は欧米諸国によって保証されてゐるから、と答えたと云う。
これに対してマッケンジーさんーは「力によって裏づけられてゐない条約は無意味であることをあなたは理解してゐない。尊重されるべき条約を望むなら、それに応じた生活をしなければならない。改革がなされなければ滅亡しなねない」と強調した。
すると宰相は「他国が何をしようと問題ではない。我々はいま中立であるから、中立の尊重を要請すると声明を出した」と述べたので、マッケンジーが「もしあなたが自衛しないならば、彼等は何のためにあなたを守ってくれるだろうか」と質問したところ、宰相は「我々はアメリカと約束ができてゐる。アメリカは、いかなる事態が発生しても、我々の友人である」と固執したと云う。(略)(『朝鮮の自由のための闘ひ』)
欧米に依存して、自国の独立のために一指も動かそうとせぬ他力本願の朝鮮の姿を活写した一節と云へよう。
日韓議定書の意味P120-121
二月、我国が対露開戦劈頭に先勝するや、韓国は俄かに態度を親露から親日に一変させ、ここに日韓議定書が結ばれた。P121(略、議定書の内容)有事に於いて日本が韓国領土を軍事使用することを認めた日韓議定書は、確かに韓国の主権の一部を侵害するものである。もし議定書がなければ、我国は朝鮮半島から満州へ軍を進めることはできず、対露戦争の遂行は不可能だったであろう。
日露戦争は日本ではなくロシアの勝利に終わってゐたに違ひない。開戦に先立つ日露交渉でロシア側が日本による韓国領土の軍事的使用に反対した理由も、また韓国を使嗾して"中立宣言"を出させた理由も、実はここにあったのだ。(略)
韓国の本当の悲劇は、この国が漸く日露開戦するに及んで親日に転じた事実のなかにあることが分かるのではあるまいか。
悪貨の追放--施政改善第一弾 P121-122
議定書調印から半年を経た明治三十七年(一九〇四)八月、第一次日韓協約が結ばれ、韓国政府は日本人一名を財政顧問とP122て、また日本政府の推薦する外国人一名を外交顧問として採用することになった。議定書にある「施政改善」の第一弾である。
韓国財政顧問には大蔵省主税局長を長年勤めた目賀田種太郎が就任した。(略、通貨改革、世界最悪とされた通貨を健全化した。貨幣濫鋳の弊を除くため竜山と仁川の典園曲(造幣局)を閉鎖し、第一銀行け京城支店をして韓国政府の国庫事務を取り扱わせ、同行が発行する銀行券を無制限に通用させるなど非情な決意と苦心で貨幣整理を断行した)
目賀田の改革は一時的には混乱を伴ったにせよ、長い目で見て朝鮮の国家に駅をもたらしたことは認められてしかるべきであらう(F・A・マッケンジー『朝鮮の悲劇』)。
→『日本近現代史』3.6 日露戦争による朝鮮侵略 P129-138(参照)
保護化は東亜安定への道 P122-123
斯くして韓国の外交と財政は事実上、我国の指導を受けることになったのだが、この保護化を公平な第三者はどう見たか。米国の著名な外交史家タイラー・デンネットはかう書いている
。韓国人は、その最近の歴史も駐米外交官達も、ルーズヴェルト大統領の尊敬や称賛の念をひき起すことができなかった。・・・大統領にとって、(省略)保護化は東亜の安定上、已むを得ぬ結論と見てゐるのだ。ルーズヴェルト大統領は日本の韓国保護化に何の干渉もしなかった。それは「韓国は自分を守るために一撃すらP123与えることができなかったから」(ヘイ国務長官宛の短信)なのである。
英外相ランズダウンもまた「韓国は日本に近きことと、一人で立ちゆく能力なきが故に、日本の監理と保護の下に入らねばならぬ」と書いたが、韓国問題についての世界の共通認識の所在が、これでほぼ推察できるのではあるまいか。
一進会の対日協力 P123-125(tw)
必ずしも日本の勝利を信じてゐなかった韓国政府は首鼠両端を持する態度を取り、議定書の約束にも拘らず、我軍の作戦遂行に対して非協力的であった。しかしながら、一般国民の中には日露戦争に彼らなりの理解を持ち、日本軍に好意を寄せる者も少なからずいたことは事実であり、それはやはり歴史に記録しておくべき事柄だろう。
例へば戦争初期に朝鮮北部を旅行したマッケンジー(前出)は、「どこでも韓国の国民からは日本軍に対する友好的な話題ばかりを聞かされた。労務者や農民達も友好的であった」と書き記してゐる。なぜ韓国の民衆は日本軍に対して好意を示したのであらうか。
それは日本軍の行動に自制があり、敵対者に対してさへ寛仁であったからだ、とマッケンジーは云う。軍律が厳正で、住民を丁寧に遇し、挑発した食糧にも公正な代価を支払ったため、日本軍は韓国民の心に影響を与へずにはおかなかったのであると---。
下層階級の人々は、日本が自国の地方官僚の圧政を正してくれるようにと希望してゐたし、上流階級の人々の多くは、朝鮮の遠大な改革は外国の援助なしには遂行し難いと確信してをり、そのため日本に心を寄せてゐたと云われる。
親日的な朝鮮人の団体としてあまりにも有名な一進会が結成されたのも、日露戦争酣の明治三十七年秋であった。一進会会長はには元東学党幹部だった李容九が推され、会員数は百万と称された。一進会の五大綱領は、
- 皇室の繁栄
- 人民の生命財産の安固
- 施政の改善
- 財政・軍政の整理
- 日本軍への積極的協力
P124 李容九は、日露戦争を、ロシアに代表される西欧侵略勢力との決戦とみなし、日韓軍事同盟でロシアの侵略を阻止してアジアを復興することこそ、朝鮮の運命を開く道へと考えたのである。一般には排日空気の濃厚な当時の朝鮮で、このように対日協力を声明し実践することは多大の困難を伴ふものであったが、一進会は敢えて親日に踏み切ったのであった。
その頃、朝鮮鉄道は釜山から京城までで、我軍が満州へ兵を送るのに必要な京城から新義州までの鉄道はまだ敷設されてゐなかった。韓国政府が非協力的であったため、我軍は甚だ困窮したのであったが、この時、一進会が鉄道敷設に起ち上がったのである。
また武器弾薬を北方へ輸送するため、一進会は北進隊を組織して日本軍に協力した。これらがいづれも、多大の困難と犠牲を伴う事業であったことは云ふ迄もない。因みに、京義鉄道敷設工事に参加した一進会員は、黄海道、平安南道、平安北道を合せて十五万人に上った。(略、詳細)
戦争の危機、事故や病気、多大の出費、加えて反日的朝鮮官民による迫害など、様々の艱難辛苦を冒して日本軍に協力した一進会の捨て身の行動は、自国と東亜の復興をこの一戦に賭ける深い信念と憂情あってこそ、はじめて可能だったのである。
日韓人の間に、このように深い理解と美しい協力関係が見られたにも拘らず、日本軍について渡韓してきた日本人商人達の横暴な行為が朝鮮の人心を離反させ、やがて戦勝が続くにつれて、日本軍自身も韓国民に対して横柄でP125抑圧的な態度を取るようになって行った、とマッケンジー書いている。
戦勝の驕りの他にも、様々な事情があったに違いない。だがそれにしても、少なくとも一時期は日本に心底からの理解と協力を吝しまなかった韓国民を離反せしめたについては、日本人の民族的欠陥と不徳もあったに違いなく、筆者はそれを同胞として痛恨するものである。
保護条約から併合へ P125-126
(略、歴史年表、一九〇五年八月第二回日英同盟~第二次日韓協約(相参)、一九〇七年ハーグ密使事件、それを受けての高宗譲位、第三次日韓協約)
古く遅れた朝鮮社会の急激な改革が、ある面でこの国の人々に犠牲を強ひたことは事実である。翌一九〇八年、統監政治を称賛した元韓国外交顧問スティーヴンス(米国人)は賜暇帰国の際、在米韓国人に暗殺された。
そしてさらに、その翌年十月、我が伊藤博文もまた韓国人・安重根のためにハルビン駅頭にて暗殺されるや、韓国併合論が高まり、翌明治四十三年(一九一○年)八月、韓国は遂に我国に併合され、李氏朝鮮は五百有余年の歴史を閉ぢたのであった。
朝鮮社会の救い難い停滞 P126-127
朝鮮の社会は甚だしく遅れてゐた。制度文物のみならず、思考様式そのものが停滞してゐたのである。朝鮮国民にとって、近代化即ち悪なのであった。朝鮮社会上下に遍く弥漫したこの硬直した思考が、どんなに朝鮮の近代化を妨げる結果になったかは計り知れないものがある。電車を走らせることさえもが、この国では暴動のきっかけになりかねなかった。
(略、H・N・アレンの編集した『朝鮮近代外交史』とマッケンジーの『朝鮮の悲劇』より、線路に寝ていた朝鮮人の轢死事件が頻発し、暴動に発展する例が取り上げられる)
→『朝鮮開国と日清戦争』エピローグ ホーレス・アレン(参照)の更迭と朝鮮王朝の惜別(参照)
右の話は、当時の朝鮮社会の救い難い蒙昧と前近代性を象徴して余す所がない。「近代的改革」を一方で「日本の侵略」と捉え、他方「近代化」それ自体を罪悪視する思考様式が韓国社会の発展に大きなマイナス要素として作用した作用したことは否めぬところであらう。
"義兵闘争"のこと P127-128
(略)
独立宣言書の精神 P128
筆者の朝鮮観は酷薄に過ぎるとの誹りを受けるかも知れない。だが筆者は韓国の歴史や民族を殊更に賛美する者でもなければ、蔑視する者でもない。優れたものについては、これを認めるのにいささかも逡巡せぬつもりである。
例へば後年の朝鮮独立宣言書(一九一九年三月一日)を読む時、ここに表現された精神の高さと広さに深く心を打たれる。これを世紀の大文字と呼ぶべしとさへ思ふ。そして同時に、これだけの高邁な理想と寛大な精神を有する朝鮮民族が、もっと早い時期に、その精神の活力を独立に向けて集中発揮し得なかったことを痛惜する他ないのである。
痛恨の悲劇 P129
(略)