2019年9月28日土曜日

偏愛メモ 『オンリー・イエスタディ』

二章 常態への復帰 P35-70

2.3 ウィルソン、パリへ行く P44-51
P44 ウィルソンの精神も、戦争によって影響をうけていた。一九一七年四月(の参戦)以来、彼の意思は逆らい得ないものになっていた。合衆国では、彼の指導権に公然と反対することは、事実上できなかった。大統領に異論を唱えることは、愛国精神に反することだった。大統領の教書と演説は、アメリカの戦争目的と講和条件についての世論の基調を示すものであった。

ヨーロッパでは彼の弁舌の力はきわめて効果的で、政治家たちは否応なく彼の指示にしたがい、休戦条約では彼が提示した条件を認めたほどだ。世界のいたるところに、彼のP45ことばを救世主の福音と考える何億もの人間がいた。国際連盟を基盤にした世界の新秩序を構想した以上、彼はみずからパリに赴き、その広大な権力を有益に行使して、構想を現実化せねばならないことは明白だった。

輝かしい夢が彼をとらえていた。ロッジ上院議員のような批判者はもちろんのこと、ランシング国務長官のような同僚たちまでが、交渉は部下に委ねるべきであるし、ドイツとの講和を第一にし、国際連盟に関する議論は延期して、動揺している世界をひとまず均衡状態に戻すべきだ、と異議を唱えるかもしれなかった。

が、彼は戦時中うるさ方を沈黙させることができたではないか。今度も黙らせられぬはずはあるまい。十二月四日---休戦後1ヶ月にも満たない---に、大統領はジョージ・ワシントン号に乗船して、ニューヨークを出帆した。(略)

それから数週間の出来事は、彼にいっそうその感を強くさせた。意気揚々と、彼はフランス、英国、イタリアをまわって歩いた。イギリス本土で、これほどの大歓迎を受けた外国人はいない。ロンドン市中行進はまさに戴冠式の行列に匹敵するものだった。

イタリアでは彼に敬意を表すために、街路は黒山の人だかりとなった。「こんな歓呼は前代未聞である」と、ウィリアム・ポリトーは述べた。「パリの街頭で聞いた歓喜の声を、私は一生忘れないであろう。私はフォッシュ元帥やクレマンソーの通るのを見たし、ロイド・ジョージはじめ、P46多くの将軍たち、帰還部隊、軍旗の通過を見てきた。が、ウィルソンは乗り物のなかから、何か特殊な人間ばなれした、もしくは超人的なものを聞いたのである」。

これら圧倒的な大群衆を眺め、その歓喜の声を聴いて、ウッドロー・ウィルソンが"行くところ可ならざるはなし"の感を抱いたとしても当然だ。会議がはじまり、彼が人びとの予想通りに演説したとしたら、旧来の外交官の誰がウィルソンに拮抗し得たであろうか。運命はウィルソンをそして全世界を、希望に輝く未来へと導いているかのようだった。

が、実際には、運命は別の計画を用意していた。ヨーロッパでもアメリカと同様に、理想主義は退潮していた。世論をはかる確かなバロメーターともいうべき英国首相ロイド・ジョージは、「カイザーを絞首刑にしよう」という綱領を掲げて再選のための運動を展開していた。

そして、ウィルソンと正義のために歓呼していたはずの群衆はロイド・ジョージと復讐とに一票を投じたのだった。ドイツ人を打ちのめしたいま、抜け目のないヨーロッパの政治家たちが考えていたのは、自国の国益と自身の栄光のためにパリ会議から何をひき出すかということだった。

彼らは戦利品を持ち帰りたがっていた。群衆がウィルソンに喝采しているのは知っていたが、群衆とは移り気なもので、領土の合併や懲罰的な賠償金を課すことにも同様に熱狂的喝采が送られるであろうことを、彼らはよく知っていた。自国への土産になる分捕品をくれる平和をとりきめようと、彼らはパリ会議に臨んでいたのである。

一方、ワシントンのアメリカ上院では、ウィルソンの国際連盟と平和に関する十四か条への反対が強まっていた。一九一八年十二月二十一日には、上院共和党の理論的指導者ヘンリー・カボット・ロッジが、上院は条約締結に関して大統領と同等の権限を持っていること、そして交渉に先立って要望を表明すべきだという声明を出した。

P212

七章 クーリッジ時代の繁栄 P213-247(tw)

7.1好景気時代
P214/ 216
7.2自動車の隆盛
P218
(略)
P219そうなると、アメリカの姿は一変した(相互参照)(tw)。以前は“鉄道沿線”にあって賑わっていた村々は、“貧血症”にかかったように経済的に行きづまって不振になった。国道六十一号線に沿った村々には、車庫、ガソリンスタンド、ホットドッグ・スタンド、チキンディナー食堂、喫茶店、旅行者休憩所、キャンプ場などが繁昌して人びとが押しかけた。国中にバスの路線網が張りめぐらされた。大戦直後には、どの街でもメイン・ストリートとセントラル・ストリート

P220 との交差点に交通巡査が一人いれば、充分に交通整理ができた。だが二〇年代の終わりになると、何というめまぐるしい変わりようだろうか---赤と緑の信号機、点滅信号機、一方通行路、一時停止標識、だんだん厳しくなる駐車規則---そしてさらに土曜日と日曜日の午後にはいつも、メイン・ストリートに沿って、ピカピカ光る車の流れが何ブロックも続いた。ゆっくりと、だが確実に、蒸気の時代はガソリンの時代に移行しつつあった。

7.3活況を呈するラジオ
P222/ 224
7.4セールスマンの全盛期
P226/ 228
7.5推奨広告と口臭
P230/ 232/ 234
7.6繁栄の成果
P236
7.7バートンのもたらした福音
P238/ 240
7.8カルヴィン・クーリッジ
P242/ 244/ 246