2019年9月6日金曜日

偏愛メモ 石原莞爾少将「蒋介石と近衛文麿の直接交渉案」について、いくつかの本の記述

『近衛文麿-野望と挫折』P84(url)

2.5 卓見の士 P84-87
P84 参謀本部第一部長(作戦部長)である石原莞爾少将は北支事変がはじまるや、ことはきわめてP85重大と、和平にむけて近衛首相に蒋介石との直接会談を提言します。これに対して風見は、
「石原少将は参謀本部の第一部長にして、同少将にして北支に於ける日支両軍の衝突事件が含蓄する意義の如何に重大なるかを知悉するとせば、近衛公が南京に飛んで蒋介石と直接交渉し、依って以て問題の解決をはかるべしと要求する前に、

支那駐屯軍の満州への後退の用意ある旨を政府に向かって明らかにすべきに拘わらず遂にこのことなきは、石原少将の地位に在ってすらその用意を実行に移すことの容易ならざる有様なるを物語るものといわざるを得じ、即ち軍部内の統一全からざる也。統制力は疑わしきを実証して余りありというべし」(昭和十二年七月十三日)
とまず意地悪く指摘しています。

しかし、考えてみれば、陸軍や支那のそのような状況を前提に大変な危機感をもって石原は行動にでたのです。実際、石原は梅津陸軍次官に反対されています。風見は屁理屈をつけて石原を非難し、あえて不作為を意図し、事態を悪化させるよう取りはかったもでした。(略、風見の日記)

P86 危機的な状況だから近衛は動かないよ、と風見は言っているのです。風見も風見ですが、近衛もこれにあわせて、この大切な七月十二日から十九日までのあいだの時期、例のごとく病臥して自宅に引きこもって動こうとしませんでした。

七月三十一日、石原は天皇に対して支那の軍事情勢についての御進講を行い、「軍としては保定の線に進むことが精一杯で、それ以上の戦線の拡大には自信がもてない。したがってそこまで行く前に、外交手段により兵を収めることを最善の策と信ずる」と言上げします。天皇もこれに同感の意を表されています。



『日中戦争はドイツが仕組んだ』P64(url)

P71 この際思いきって、北支にあるわが部隊を全部を一挙山海関まで下げて、近衛首相自ら南京に飛び、蒋介石と膝詰め談判によって、日支問題の解決を図るべきだと思う」同席していた陸軍次官の梅津美治郎中将が反論した。「北支から全面撤退するというが、明治以来積み重ねた北支のわが権益は一体どうするのか。

またこの場合満州国は安定するであろうか。

P72 さらに近衛首相を南京に乗り込ませるというが、総理の意向は確かめてあるのか」陸軍大臣杉山元大将は何も発言しないが、一撃が持論である。(略、不拡大か一撃か、は五相会議で決すべき、国策事項)

十九日、蒋介石の「最後の関頭演説」が発表された。南京で行われていた外交交渉が決裂にP73近いものとなったとの情報も入った。それを受け参謀本部第二部は武力行使の決意を行うべきとの意見を出した。

(略、部長会議の様子)

P75 不拡大方針を述べていた石原部長は、次々と一撃論の主張を認めて、最後に内地師団の派兵を決することになったが、こんなことから不拡大派も石原部長に不信感を持つようになった。

北支那駐屯軍の池田純久参謀はこう述べている。「軍中央部では、一方においては不拡大主義を堅持しながら、他方においては、内地師団を動員したり、その部隊を北支地区に派遣したり、まったく筋の通らぬことを実施し、いたづらに支那側を刺激するばかりであった。まったく首尾一貫せぬ支離滅裂な態度であった」



『夢顔さんによろしく(上)』P208(url)

P208 盧溝橋事件は、ごく限られた地域紛争にすぎないという当初の予測に反して、北京一帯P209から華北全体、ひいては中支にまで拡大しそうな気配を見せはじめた。近衛公はこのことを非常に憂え、腹心中のの腹心である書記長の風見章に、なんとかして拡大を阻止する方策をたてるよう指示した。

風見もまったく同じ考えだった。首相の意を受けた風見は、陸軍内部で不拡大を声高に唱えている、参謀本部の石原莞爾作戦部長を官邸に呼んで方策を練った。石原は、もっとも効果的な方法は、近衛首相自らが南京に乗り込み、蒋介石とじか談判することです、と提案した。風見はただちにこの案に乗った。近衛も賛成し、南京行きの飛行機の準備にとりかかった。

これを知った杉山元陸相らが色をなして反対し、けっきょく近衛の南京行きは軍によってつぶされてしまった。近衛公は、次善の策として、密使に親書を持たせて南京に派遣することにした。

「蒋介石がもっとも信頼する日本人のひとりに、かの宮崎滔天の子息、龍介がいる。近衛公は、この宮崎龍介氏を密使にしたてて、南京に派遣することにしたのだ」(『娘が語る白蓮』が詳しいP101(url))

宮崎滔天は、(略、孫文、蒋介石との関係が記される)

P210 近衛公は、宮崎龍介を支那に派遣するにあたり、宮崎同様蒋介石の信頼が厚い、ジャーナリスト出身の元衆議院議員秋山定輔に、南京への連絡を依頼した。秋山は親交を結んでいた国民政府駐日陸軍武官、蕭叔宣に頼んで、特使派遣を打診した。

蕭叔宣は、暗号電報で蒋介石に指示を仰いだ。蒋介石の返事は、
「特使派遣を歓迎する。中国上陸後の特使の安全を保障し、南京まで無事に案内したいので、上陸する港と日時、乗船名を連絡されたし」
というものだった。

近衛公は、軍による妨害を排除すべく、密使派遣の件を杉山陸相だけに告げ、途中の安全を確保するよう要請した。「ところが、それが裏目に出てしまった。宮崎さん神戸から上海行の船に乗り込んだ直後、待ち構えていた憲兵隊の検問にひっかかり、逮捕されてしまったのだ。

当然父上は激怒され、杉山陸相を詰問されたのだが、陸相はぬらりくらりと言を左右にするばかりで、宮崎氏は今も勾留されたままだ。けっきょく、日支首脳の直接交渉で局面を打開すしようとした父上の狙いは、杉山陸相以下軍部の妨害で頓挫してしまった」



『上海エイレーネー』P40(url)

その期限の十九日、内地師団動員をなんとしても阻止せんとする不拡大派リーダーの石原参謀本部第一部長は、拡大派の杉山陸相、梅津次官らに対し、このままでは全面戦争となるのは必至なので、思い切って華北の軍隊を満州域内まで退き、あわせて近衛文麿首相が南京に行き蒋介石と直接交渉すべきだ、と膝を詰めた。しかし陸相は「首相にその気迫はあるまい」とあしらってしまう。

結局翌二十日、内地師団の動員が閣議決定される。これで勝負あったかと思われたが、綱引きの形勢はまたもや逆転する。二十一日、現地視察から戻った柴山軍務課長らが「協定は履行されつつあり出兵は不要」と報告、二十二日には北支那駐屯軍の橋本参謀長が「現有兵力で足りる」と打電し、さらに、馮治安の部隊の一部が撤退を始めたとの情報が入る。その結果、内地師団動員は再度見合わせられるこちとなった。

この間の中国側の状況を見ておくと、宋哲元ら現地軍の首脳部は事態の収拾に奔走したが、蒋介石は徹底抗戦の意思をほぼ固めていた。蒋介石は、華北に向けて中央軍を北上させ、同時に日本軍に対して妥協的な宋哲元に抗戦を強く指示する。

そして、七月十六日から江西省九江南部の景勝地、廬山において汪兆銘と連名主催の廬山座談会を開催、会議二日目の十七日、四十五分に及ぶ大演説を行い、「最後の関頭」に至ったP42ならば徹底的に抗戦する、と宣言した。

ただ、この時蒋介石はあわせて、絶望に陥る一瞬前まで外交による事変の解決をはかる、とも述べているのだが、中国各紙に全文が記載されたこの演説は中国民衆を大いに刺激し、抗日世論をさらに燃え上がらせることとなった。

最後の関頭」演説を受け、北平周辺を守備する宋哲元麾下の第二十九軍は爆発寸前の緊張状態となる。二十五日には北平郊外の廊坊で事件が発生した。(略)

こうした現地での緊張の高まりを受け、二十七日、日本では三度目の内地師団動員の閣議決定がなされてしまうのである。二十九日夜には通州で日本人虐殺事件が発生した。ここに日中間の情勢は戻りようのないポイントまで達したかに見えたが、七月末に天皇の和平を促す言葉もあって、八月に入っても最後の外交努力が続けられた。

八月上旬、外務省石射東亜局長の発案を元にした停戦交渉案と国交調整案が陸海外三省大臣による了承を得た。両案は、七月十一日に現地で調印された協定のように盧溝橋事件の謝罪や責任者処罰といったものを要求するものではなく、満州国承認または黙認を求めはするものの、満州事変以降に日本軍の圧力のもとで設定された非武装地帯の調整や地方政権(冀察政務委員会・冀東防共自治委員会)の解消などの譲歩を行うというものである。

両案の中国側への提案は、中国畑の長い元外交官の在華紡績同業会理事長船津辰一郎から、船津の友人で国民政府外交部亜州司長の高宗武に示すという方法がとられることとなった。いわゆる船津工作である。八月九日午前、船津・高宗武会談が行われ、午後には川越茂中華大使と高宗武との会談が行われた。(略)

ところが同日、日本海軍の大山中尉が上海虹橋空港そばで殺害される事件が発生してしまう。これが決定的な引き金となって上海での全面的衝突が勃発する。
(略)