2019年9月7日土曜日

偏愛メモ 『地球の落とし穴』第二話 ダイアナ妃黄金伝説P24-43

2.1 皇太子妃交通事故のミステリー P24-28(tw,tw)
(P24-)

P24 (略)皇太子チャールズと離婚したあとに死亡したので、この時点での彼女は、新聞などの表記に従えば"元"皇太子妃だが、ナポレオン元皇帝、元暴君ネロ、秦の始元皇帝とは言わない。"元"や"前"をつけるのは、文章の流れを阻害する悪しき形式主義である。正式な肩書としても、ダイアナ妃(相互参照)が離婚後も、"妃殿下(ハー・ロイヤル・ハイネス)"の称号を維持することをエリザベス女王が認めたと、当時の英紙が報道していたので、本書では一貫して、ダイアナ妃と書く。

この事故は、何年にもわたって皇太子夫妻がイギリス・ゴシップ界をにぎわせたあとに発生したのだが、不思議と怪奇と謎のかたまりのようなミステリー事件であった。九六年八月二十八日に正式離婚して、ほんの一年後(九七年八月三十一日)に彼女が死亡したため、かなり衝撃的な事件となった。

総じていえば、死者のダイアナ妃に対して報道が好意的だったことは、人間の心やさしさとして当然であった。また、彼女が恋人と一緒に乗っていた自動車を、醜悪なゴシップ・カメラマンたちがオートバイで追跡し、その"パパラッチ"と呼ばれる大金目当ての変質者的行動が、ダイアナ妃を死に追いやったと、全世界から非難が集中した。

P25 (略、ゴシップ報道についての記述)大事件発生後、そうした報道の勢いに乗って、それ以上に私の理解を超える不思議な論調が、海を渡って続々とやって来るニュースのなかに見られた。

イギリス国民の中から、「エリザベス女王は、ダイアナ妃の死に対して冷たい」と、批判の声がわきあがったのだ。この批判は、どう考えても首をかしげざるを得ない。説明するまでもない。女王はチャールズ皇太子を産んだ実の母親である。ダイアナ妃が貞淑を絵に描いた女性であれば、その批判も当たっている。

しかし、自分の息子をほったらかして、ほかの男とべたべた熱愛中で、心中同然の形で最期を遂げた嫁さんに、思いやりを持つ母親が、この世のどこにいるものか。ダイアナ妃は勝手に死んだのに、エリザベス女王にとって合点のゆかない言いがかりで、とんだ災難であった。

さらに、ダイアナ妃の善行が、洪水となってマスコミにあふれた。さまざまな施設を訪れて病人たちを励ましたダイアナ妃・・・地雷廃止を訴えてきたダイアナ妃・・・などである。それを中傷するわけではない。が、別の視点もある。

皇太子妃の立場にあれば、全世界ほとんどの王室や皇室の関係者と同じように、本人の意志とP26は関係なく、そうした施設を慰問することになっている。むしろ、彼らが、訪問して初めて庶民生活の現状を知るのは、大昔の童話『王子と乞食』に描かれた通りで、まったく困ったことである。ダイアナ妃が所有した湖つきの大邸宅などは、庶民生活とかけはなれ、とんでもない貧富の差ではないか。

(略、地雷廃止運動や核兵器廃絶運動、化学兵器廃絶運動は、きわめて大事であるが、...戦争の死傷者の九九パーセントは、通常兵器によるもの、という)

現在、戦乱が最も多いアジアと中東各国では、地球上の兵器輸入の大半を占めるまでに悪化している。それを販売する兵器商人と軍需産業のすべてに批判を向けなければ、意味もない。そこで、ダイアナ妃にまつわる、気がかりな数々の事実に目が向いてゆく。

彼女の事故死とほぼ同じ時期、タイの通貨バーツの暴落にはじまって、香港株の大暴落が起こP27った。それが九七年十月二十七日のウォール街の大暴落につながり、同時に、そのすべての余波を受けた兜町の大暴落が翌二十八日に続発し、一瞬、地球全土に深刻な影が落ちた。

わが国では、その後、十一月に入って三洋証券、北海道拓殖銀行、山一證券、徳陽シティ銀行が続々と倒産し、一時は、恐慌前夜かと思わせる金融パニック状態に陥った。韓国とインドネシアもまた、国家が崩壊寸前となる未曽有の経済崩壊に突入した。

そのかたわら、もはや見捨てられた国とさえ思われていたロシアへの投機熱が、突如として、盛んに燃えあがっていた。ちょうどその暴落直前、十月末になって中国の江沢民主席が訪米し、クリントン大統領と首脳会談に臨もうという時期を狙って、いきなり、ハリウッド映画界を挙げての中国叩きが、大々的に始まった。

日本では、着々と日米防衛ラインの見直しという作業が進められた。日本国民の自覚がないまま、いきなり米軍が日本での軍事行動を拡大する国際的な政策であった。これらが、九八年を迎えたわれわれの前に置かれた状況だ。

(略、これらの現象を正しく分析した解説はなかった、という)

2.2 兵器商人カショーギのコールガール組織 P28-35
(P28-)

P28 ダイアナ妃とは何者であったか。八代目ジョン・スペンサー伯爵と、ファーモイ(フランス読みフェルモワ)男爵家のフランセス・ロシュは、恋に落ちた。当時、全世界で大ヒット中のポール・アンカの歌があった。"ダイアナよ、どうか私を見捨てないで"Oh! Please stay by me,Diana"…。やがて二人は結婚式を挙げ、女の子が生まれたのは一九六一年七月一日のことであった。

この世に呱々の声をあげた三女ダイアナ・フランセス・スペンサーと命名されたのは、フランク・シナトラに"マイ・ウェイ"を捧げたポール・アンカが、この"ダイアナ"をヒットさせた四年後のことであった。ダイアナ妃の死去に際し、なぜ全世界が、この思い出の曲を葬儀で流さなかったのか、私は理解に苦しむ。エルトン・ジョンの曲より、こちらのほうが迫力があったはずだ。

さて、彼女の母フランセスは、ダイアナが七歳になると、早くも"マイ・ウェイ"を歩みだし、スペンサー伯爵と離婚して、たちまち別の男ピーター・シャンド=キッドと、再婚してしまった。が、ダイアナの父スペンサー伯のほうも負けてはいなかった。レイン・マッコーコデールという女に言い寄ると、こちらも再婚したのである。

ところが、ダイアナの継母となったこのレインは、P29伯爵の財産を売り飛ばして散財の限りをつくす女で、みなから酸性雨と呼ばれるようになった。英語で書けば、Raineという名前なので、英語の酸性雨--acid rain(アシッド・レイン)--にひっかけたあだ名であった。

散在する妻を嘆きながらスペンサー伯が九二年にこの世を去ると、自由の身になった酸性雨は、一年後にたちまちフランスの女たらしジャン=フランソワ・ド・シャンブラン伯爵と結婚した。しかし五十五歳の伯爵は、そのとき別のアメリカ女性と離婚したばかりで、慰謝料の支払いに困り果て、金目当てに八歳年上の女、六十三歳の酸性雨をひっかけたのだ、と報じられた。

この結婚が日本の大新聞で大きく紹介されたとき、「ジョン・フランソワ・ドシャブラン伯爵」と、ロンドン特派員の記事に書かれていた。ジョンとは、ジョン・ウェインやジョン・メイジャー首相のように英語圏の名前である。フランス語圏では、ジャン・ギャバンのようにジャンであることを知らない博学な特派員だが、ド・シャブランをドシャブランとも書いていた。ほっとすると、酸性雨がどしゃぶりなので、本当にドシャブランと読むのかも知れない、いや単なる新聞の誤植だろうかと、私は迷った。

しかも当のダイアナの長姉セーラは、生まれた時からエリザベス女王が庇護者となって、この酸性雨が降り注ぐ継母の生家マッコーコデール家に嫁ぐ、という乱脈をきわめた一家であった。このような立派な環境に恵まれたダイアナは、ある日、めでたく華燭の典を挙げ、チャールズ皇太子妃となった。

さてダイアナ妃の弟も、同名のチャールズだったが、こちらはのちの九代目スペンサー伯爵で、アパルトヘイトが続く南アフリカ(南ア)で、父親譲りのダイヤモンドや金銀の利権をむさぼりP30続けていた。ダイアナ妃が事故死したときのことを、読者はご記憶であろう。弟のチャールズが南アのケープタウンから悲しみの談話を語ったのはそのためである。

そのあと、ロシア最大のダイヤモンド会社「サハ」が、同社の六十四カラットの巨大なダイヤを、事故死した悲劇の皇太子妃に因んで「プリンセス・ダイアナ」と命名すると発表した。さらにダイアナ妃の死のほぼ二ヶ月後、南アから世界のダイヤ市場を支配する「デビアス」が、その「サハ」との提携を発表したのである。すべて、チャールズたち利権者の差し金であった。

このチャールズ伯爵の名前は、当初、アール・スペンサーであると日本の大新聞に紹介されていた。日本の記者は、アール(Earl)が、卿を意味するサーと同じように、伯爵を意味する称号であることをご存知ないため、固有名詞として書いたものものらしい。

世界最大のダイヤ業者デビアスを所有し、鉱物採掘のため黒人を地獄の労働にかり出してきた南アのオッペンハイマー家、その一族と婚姻関係を結んでいたのが、ほかならぬダイアナ妃の姉と継母の一族、酸性雨の生家マッコーコデール家であった。

一方、結婚生活に入ったチャールズ皇太子とダイアナ妃が、それぞれ"Oh! Please stay by me"と歌った相手は、数知れなかった。それが追っ掛けカメラマン・パパラッチのゴシップ・ネタとして全世界をかけめぐった。ところが、それぞれの相手が、どのような男女であったかという内情は、ほとんど報道されなかった。

ダイアナ妃の実母フランセスは、ピーター・シャンド=キッドと再婚した、と述べたが、イギリス貴族の最も格式のある人名録"Debrett's People of Today"を開くと確かに彼女の履歴がシャンド家の一員として記録されている。

シャンド家の人間は、そこに数人しか記載されていないので、ふと、彼女の前に目を落とすと、ロザリンド・シャンドという女性の名があり、さらにその前を見ると、ロザリンドの夫ブルース・シャンドについての記述がある。そして、この夫妻のあいだに生まれた娘の名前を読み取って、私は愕然としたものである。

P31---カミラ(パーカー・ボウルズ夫人)---と書かれていた。

この名前には誰しも聞き覚えがある。ある日、妻ダイアナに興味を失ったチャールズ皇太子が、「君を熱愛している」と電話でささやき、密かに録音されたそのテープが、九二年にイギリス全土に放送された。世紀のゴシップとして目を注がれた女性が、そのカミラ・パーカー・ボウルズであった(tw)。

ダイアナ妃の実母が再婚したシャンド家が、ダイアナ妃から夫チャールズを奪った恋人の生家だったことになる

イギリス王室は、このようにわれわれと変わらず、普通どこにでもある恋愛をくりひろげていた。小生は、このように興味深い事実を密かに山のように探りあてても、ほかにやらなければならないことがたくさんあって、こんな乱脈な男女関係に付き合っているひまがなかった。

むしろチャールズ皇太子が、かねてから、イギリスの建築を近代化することに強く反対し、大英帝国古来の文化を守ろうとしている態度に強く共鳴し、この男は、珍しく知恵のあるイギリス国王になる可能性があると見ていた。しかしこれは世間が考えるようなゴシップではなかった。

ここから、全世界が震撼する物語が進行していたのである。チャールズの恋人カミラの母ロザリンドを調べてみると、義理の妹の父は、ピーター・キャリントン卿であった。彼はゴシップが報道された当時、国連代表として、目をおおうばかりの人殺しが続くユーゴスラビア内戦の調停P32人をつとめたヨーロッパ軍需産業の総帥だったのである。

いずれまたどこかでお目にかかるに違いないこのキャリントン卿の名前を記憶しておこう。九七年八月三十一日、パリでダイアナ妃が交通事故で死亡したとき、恋人のドディ・アル⁼ファイドも同乗しており、共にこの世を去った。

ドディは、八一年にアカデミー作品賞を受賞したイギリス映画『炎のランナー』の映画プロデューサーであった。そのため、ダイアナ妃との熱愛に陥る前には、女優ブルック・シールズとできあがり,その艶聞はあまねくビヴァリーヒルズに知れ渡っていた。

ドディの父モハメッド・アル⁼ファイドは、イギリス王室御用達のデパート「ハロッズ」のオーナーとして有名なアラブ人大富豪であった。彼は、五四年にサミラ・カショーギという女性と結婚し、その兄アドナン・モハメッド・カショーギ(相互参照)の義弟となっていた。そのあいだに生まれたのが、ダイアナ妃と一緒に死んだ恋人ドディである(tw,tw,tw)。

しかしドディの父は、なぜ豪華デパート「ハロッズ」を買い取るほど巨額の金を持ち、大富豪だったのか。

ドディの伯父にあたるアドナン・カショーギは、六六年、サウジアラビアのファイサル国王に同伴してアメリカを訪問した。ファイサル国王は、ニューヨークなどで重要なアラブ外交を展開したが、同伴者のカショーギは、さらに重要な非公式の昼食会に出席していた。

そこに、誰が集まっていたであろう。ロッキード社、マクドネル・ダグラス社、レイセオン社、クライスラー社、リットン・インダストリー社など、全米の軍需産業の社長・会長クラス、最高幹部がずらりと顔を揃え、カショーギを囲んで、ある世界情勢について、危険な会話をはずませていたのである。

ライバルである彼らが一堂に会するのは、尋常な出来事ではなかった。これP33までにない大量の兵器が全世界を行き交い、ベトナムで北爆が開始された翌年、ついにアメリカが北ベトナムの首都であるハノイ市にも爆撃をしかけ、戦火が激しく燃えあがった時代である。

やがてモハメッド・アル⁼ファイドは、義兄カショーギの秘密事業の総支配人となり、全米を代表するそれらの軍需産業から、莫大なコミッションが支払われるようになった。ジュネーヴにあるスイス銀行のカショーギ口座に、大金が振り込まれるようになったのである。

軍需産業の代理人になったカショーギは、返す手で、ヨーロッパ全土と日本に大金をばらまいて世界的なロッキード事件をひき起したのち、フィリピンのマルコス大統領をわいろぜめにした。さらに八〇年代には、アメリカの敵国であるはずのイランに武器を売りつけ、ホワイトハウスの全閣僚と、イスラエルのユダヤ人兵器商と直接取引するイラン・コントラ事件で、主役をつとめた。

そのころ、ブルック・シールズは、カショーギのメッセンジャー・ガールであることが全米に知れ渡った。彼女の当時の恋人は、まだドディではなく、カショーギの息子モハメッドだったのだから。これらは、発覚した中のわずかな事実である。ほとんどは発覚せずに、アドナン・カショーギの名前は

、全世界の戦乱の陰に暗躍する"死の商人"として、欠かせない代名詞となった。

サウジの兵器商ではなく、アメリカとヨーロッパの軍需産業がひき起す戦争戦争の火付け役として、アル⁼ファイドと共に、数百万人から一千万人単位の生命を、傷つけ、あるいは、この世から消す役割を果たしてきた。その商品のひとつが、地雷だったのである。

この目的を果たすため、カショーギつくりあげた世界的な高級コールガール組織は、すさまP34じいものであった。彼が使ったコールガールたちは、"マダム・ミミ"と呼ばれるフランス美人が組織するグループで、マダムの本名は、ミレーユ・グリッフォンといい、一二歳のときに炭坑で石炭堀をしたことがある苦労人であった。

結婚して息子を三人もうけた彼女は、美人だったお蔭で、パリのモデル仲間と知り合い、そこで"高級モデル・エージェント"という会社を設立して妖艶な女性を斡旋しはじめた。これが、国際的な高級娼婦の大事業のスタートとなったのである。欧米では、この女性に関して、長大な記録が残されていた。

マダム・ミミと自称した彼女は、十八歳から二十四歳までの優美な女を厳選して使い、彼女たちが二十五歳になると馘にした。『マイ・フェア・レディ』の物語そのままに、自分が雇った女に教養から言葉、衣裳の着こなしまで教えこみ、全身をクリーニングして、一流の女に仕立てあげてから男のもとへ送りこんだのである。それが、世に高級コールガールと呼ばれるものであった。

マダム・ミミが誇りとしたのは、自分が雇っている女はただの娼婦とは違い、ベッドの中で男と政治を語らい、歴史、文化にまで及んで楽しませるほど会話ができる女だ、ということであった。そこに接近してきたのが、世界各国の兵器の商談に奔走していた男、サウジアラビアのアドナン・カショーギである。

やがてマダム・ミミはカショーギは、その高級コールガール組織の運営する事業に、カショーギが五〇パーセント出資することで話が折り合った。コールガールたちは、時に特別機で中東へ飛び、時にはヨーロッパ全土へ送られ、次々と兵器取引きの商談をせいりつさせていった。

P35 その一人が、世界的なスキャンダルを巻き起こしたミス・インドのパメラ・ボルド--インド名ボルデスであった。彼女はカショーギに抱かれたあと、ヨルダン国王フセインと関係を深め、プロ・テニスのイワン・レンドル、リビアのカダフィ大佐のいとこにあたる将校、アラン・ドロンの息子アントニー・ドロン、イタリアの軍需産業フィアット社の幹部、北大西洋条約機構(NATO)の高官、イギリス政界の要人たち、ローリング・ストーンズのビル・ワイマン、遂にはエリザベス女王の娘アン王女の夫マーク・フィリップス大尉などを次々にベッドに招いたことを誇り、最後にはその錚々たる相手の名前を暴露してしまったのである。

そのためアン王女とフィリップス大尉は、のち九二年、チャールズ皇太子とカミラの熱愛電話がゴシップとして流れた同じ年に、離婚する羽目になった。母親のエリザベス女王にとっては、苦悩の時期であった。

しかし八九年、パメラ・ボルドは何者かの手でバリ島へ連れ出され、謎の交通事故に遭った。そのため、殺される危険を感じて、以後、沈黙を守った。その事件に先立つ五年前の八十四年、すでにフランス警察の盗聴によってこの売春組織は摘発され、その全貌が明らかにされていた。ついに逮捕され、ニースで裁判にかけられたマダム・ミミは、一年半の実刑判決を受けた。

マダム・ミミは摘発されたが、コールガール組織は、まだ生き続け、その後ますます広大なものになっていった。東ヨーロッパ、とりわけベルリンの壁が崩壊後、貧困にあえぐポーランドなどでは、美人娼婦を集めるための人買いが公然と横行した。

 →とりあえず凄い

2.3 イギリス王室と武器商人 P36-41
(P36-)

2.4 歴史を読み解く鍵はマネー P41-43
(P40-)