2018年3月1日木曜日

アメリカ対日協議会(ACJ)とは、

『渡辺武日記』P516-23

(朝鮮戦争勃発1950.06.25の三日前の日記。渋谷松濤にあるコンプトン・パケナム邸にて、ジョン・フォスター・ダレス(このときは国務長官顧問)、ジョン・アリソン、渡辺武、海原治、澤田廉三、松平康昌が会食。その内容。)

(ダレス)日本は国際間の嵐がいかに劇しいか知らないので、のどかな緑の園生に居るという感じである。
(渡辺)しかし、自らを守る方法のない日本人としては、将来に対して漠然たる不安感がある。アメリカが日本をアメリカの側に引つけて置かうと思ふならば、ロシアの侵入から必ず保護されるといふ安心感を与えられることが必要であると自分は考へる。
(ダレス)ロシヤ人の性格は、Hitlerその他とちがって、じっくり将棋をさすようなやり方で、勝算のない戦争はやらないと思ふ。現在の戦力は5:1位でアメリカの優位である。これがつづく限り戦争はない。若し西独及日本がロシアの手に落ちた場合、この比率がロシア有利となり、戦争の危険にさらされる。したがって、アメリカは日独をロシアの手に委ねることは出来ない。
(カーン)日本に軍事基地を置くとして、どちらから切り出すべきものと思ふか
(渡辺)アメリカ及び日本の世論を考へると、日本から申出る形をとることがしかるべしと思ふ。
(カーン)吉田首相は反対のようである。
(ダレス)アメリカとしては、仮に日本の工業を全部破壊して撤退して了ってもよいわけだ。日本は完全に平和となる。しかし、日本人はうえ死にするかもしれない。自分は日本がロシヤにつくかアメリカにつくかは日本自体で決定すべきものと思ふ。




『占領史追跡』P156-7


思わぬダレスの提案を聞いた国務長官のアチソンは、彼に対日講和条約をまかせようという気になった。仕事をはじめるにあたって、ダレスが特使としてはじめて東京を訪問したとき、カーンの誘いに応じてパケナム邸まで足をはこんだのである。ハリー・カーン自身の言葉(「デイリー・ヨミウリ」のインタビュー)によると、ダレスという人物について彼はこう語っている。(中略)一九五〇年六月、カーンはミネアポリス経由で東京へ旅立とうというとき、飛行機に乗ってみると、偶然にも、フォスターと夫人の姿をみつけた、と話している。

P157 偶然というには、あまりにもできすぎたものではないか。ともあれ、機内で、カーンはダレスの隣にすわり、日本占領政策全般からマッカーサーの政策、占領がなぜ失敗したかという多くの意見や彼の印象を話したというのである。カーンはこうつづけている。
「東京にいるあいだ、非公式な場所であれば、心おきなく意見をのべることのできる日本人代表に会ってみませんかと私は誘ってみた。フォスターはその場で同意したものの、多忙な公式の予定から時間をさくことは難しいだろうと思っていた。ところが驚いたことに、羽田到着後すぐに朝鮮に向かい、帰ってきたフォスターへ電話してみると、補佐官のジョン・アリソンとともに、六月二二日、パケナムの家での夕食会に来て、床(著者注・畳)にすわり、日本の友人たちの意見を聞くという返事だったのである」
夕食会に集まった要人の顔ぶれは次のようであった。大蔵省から総司令部との連絡部長をつとめる渡辺武、国家地方警察本部から企画課長の海原治(のち警察予備隊を創設)、パケナムに大磯の樺山を引き合わせた元外務次官の澤田廉三(エリザベス・サンダース・ホームの澤田美喜の夫)、そして宮内庁の松平康昌。このほか、ハリー・カーンとパケナム、ダレスの補佐官であるアリソンが列席した。

  (次頁より『渡辺武日記』から会談の模様が引用される)

『日本近現代史入門』


朝鮮戦争は、日本や国連での定説では、「一九五〇年六月二十五日に突然に、北朝鮮軍が先に三十八度線を越境して南への侵攻を開始して、戦端が開かれた」となっているが、これは米軍の発表であって、事実としての根拠はまったくない。この年初めにアメリカが韓国と"軍事協定"を結んで五日後、一月三十一日にアメリカ国防総省トップの統合参謀本部議長オマール・ブラッドレーが陸海空の三軍首脳を引き連れて来日すると、GHQ司令官マッカーサーと軍事体制の強化について会談し、翌二月一五日にアメリカ議会でジョゼフ・コリンズ陸軍参謀総長が「日本に駐屯する米軍は数か月以内に戦闘準備が完了する」旨を証言したことが公表されている。

さらに六月一八日にアメリカ国務省顧問で強烈な反共主義者ジョン・フォスター・ダレス(一九五三年から国務長官)が韓国軍を視察して、韓国将兵に「戦争が間近である」ことを告げたあと、六月二一日に来日して吉田茂首相に会談を求め、日本に「再軍備を要求」して、その"四日後"に開戦したのだから、これが偶然の一致であるはずはなかった。

      (中略)

P502 この時代から、財閥と戦争犯罪者の復権が、雪崩のように起こった。朝鮮戦争の開戦四日前、一九五〇年六月二一日にジョン・フォスター・ダレスが韓国から訪日した同じ飛行機に、"偶然にも"「日本の財閥を復活させるべきだ」と主張し続けてきたアメリカの週刊誌「ニューズウィーク(Newsweek)」の外信部長ハリー・カーンが乗り合わせ、翌日の夜、ダレスとカーンが、日本の財閥復権で最重要人物と目される四人と会談した。

P503 ジョン・フォスター・ダレスは、モルガン財閥が生み出した世界最大の鉄鋼会社USスチールとロックフェラー財閥のスタンダード石油トラストをつくったサリヴァン&クロムウェル法律事務所の最高責任者で、このあとアイゼンハワー政権の国務長官となって外交戦略を一手に握り、ロックフェラー財団の理事長に就任した財界№1であった。弟のアレン・ダレスは一九四七年にCIAを設立して、のち一九五三年に自ら長官になり、イランでCIAクーデターを実施した。この二人は、全世界で数々の凶悪な軍事工作をめぐらした兄弟であった。

兄ダレスとカーンの共通の目的は、日本の財閥を復活させ、戦前にアメリカが日本に投資した莫大な金をウォール街が回収することにあった。このような目的をもって、ダレスは日本を再軍備させ、財閥を復活させるための工作のため、以下の四人の日本人と会談したのである。

四人のうち一人目は昭和天皇の側近・侍従長の松平康昌で、三井財閥当主・三井八郎右衛門の義兄弟であった。二人目が澤田廉三で、三井財閥創始者・岩崎弥太郎の孫婿であった。三人目が渡辺武で、息子の妻が住友財閥当主・住友吉左衛門の実兄・西園寺公望首相の曾孫で、日立コンツェルン総帥・鮎川義介の孫にあたっていた。実にこれだけでダレスは、三井・三菱・住友・日立の財閥と、天皇・華族に渡りをつけたことになる。

四人目は毛色の変わった海原治で、後年に国防会議事務局長となって再軍備活動に権勢を広げて、海原天皇の異名をとる軍事利権者であった。P504ダレスにとって、彼も日本の再軍備の根回しに重要な人物であった。GHQ最高司令官マッカーサーは、GHQが財閥を解体したことを批判するカーンと烈しく対立していた。ところが、朝鮮戦争勃発後の一九五〇年一一月三〇日にトルーマン大統領が「朝鮮戦争で原爆を使用する可能性がある」と発言して、イギリスなど西ヨーロッパを含む全世界から痛烈な批判を浴びたあと、戦争の膠着状態を破るため中国への大攻撃など強行作戦を計画するマッカーサーが、今度は戦線の拡大をおそれるトルーマンの怒りを誘い、一九五一年四月一一日に七一歳の「老兵マッカーサー」が罷免され、後任にマシュー・リッジウェイ中将が任命されるという、日本にとって寝耳の水の重大事件が起こった。

その五日後の四月一六日、日本の国民から絶大な感謝と敬愛の言葉を贈られながら、偉大なる足跡を残した占領者マッカーサーが日本を離れ、リッジウェイが第二代GHQ最高司令官に就任し、代わって朝鮮戦争の指揮をとった。

すると新GHQは、ただちにアメリカ財界・軍需産業代理人ダレスの方針に沿って、六月二一日に財閥解体をになってきた持株会社整理委員会の解散を命じて、独占禁止法も大幅に緩和し、財閥解体に関する法令の原則廃止を打ち出したのである。さらに九月八日にサンフランシスコ講和条約が締結されると、翌一九五二年四月二八日にそれが発効して日本が独立したので、"占領軍GHQ"が消滅した。その結果、GHQの公職追放令が無効となり、戦時中の企業幹部がどっと復帰しはじめた。これら旧幹部は、すべてが戦争加担者ではなく、主要企業が網羅されていたので、有能な人間もかなり復職できた。

『軍隊なき占領』

第一章 謎の訪問者 P22-57
P26 連合国のよる日本占領について学ぶ。連合国軍最高司令官マッカーサーは軍事独裁者でありながら、一九四七年、日本に民主平和憲法を与えたのだと教えられる。この憲法は、今日もなお、この国を司る最高位の国法である。学生たちは、戦争を引き起こした者に科せられたパージや懲罰のこと、天皇の神格化否定宣言、さらに、長く苦しんできた天皇の「臣民」たちに与えられた多数の改革について学ぶ。それ以上によく知られているのは、三菱、三井、住友、安田など、戦前、日本の独裁金権体制を堅固に支えてきた強力な「財閥」を、マッカーサーが解体したことである。

それでもなお、平均的日本人が(平均的アメリカ人もそうだが)十分に認識していないことがある。「しかし、早くも一九四七年には、アメリカの対日政策の重点は、そのような遠大な改革から、日本を極東の経済ワークショップとして復興させることに転換していた」とションバーガー教授は指摘した。一九四〇年代末期に、日本を民主化する方向からアジアにおける反共の砦にする方向へ、アメリカの対日政策をの重点を大きく転換させた一連の動きを「逆コース」と呼ぶが、教授は、日本の戦後史研究でしばしば無視される、「逆コース」研究の第一人者である。

教授の論文によれば、「奇妙なことに(略)非公式の圧力団体が果たした役割は、ほとんどすべての占領史P27研究者から、事実上、無視されてきた。日本とくに関りがあったもっとも重要な団体はアメリカ対日協議会(American Council on Japan)であり、それがジャパン・ロビーと呼ばれるにふさわしい組織だった」

一九四八年から五三年までの期間、アメリカの対日政策に大きな影響を及ぼしたこの「ロビー」は、財閥解体計画をめぐるアメリカ国内の改革派と反動派の闘争から生まれた。ハリー・F・カーンは、このロビーの首謀者であり、アメリカ対日協議会(ACJ)の事実上の組織者であった。(略)

ゴリアテともいうべきマッカーサーを前に、無敵のダビデたるハリー・カーンは、伝説のように「石投げ器と石」だけで向かっていったわけではなかった。それどころか、彼は、当時、唯一の存命中の大統領経験者をはじめ、閣僚級の政治家数人、国家安全保障会議(NSC)の最高位の役員たち、また、著名な将軍や提督それぞれ数人P27の支持を取りつけていた。そのうえ、アメリカの最も傑出した財界人と彼らの企業に仕える顧問弁護士たちや、彼らが支配する有力財団の理事長たちもまた、カーンの支援者だった。

実権は誰が握っていたのか、そして、だれがだれに仕えていたのか、といった問題は、ACJの主役の顔ぶれを紹介するうちにおのずと明らかになる。(略)一九四〇年代から六〇年代にかけて、カーンは日本で最も有名な戦後の首相P29吉田茂と、いわゆる保守本流のその後継者たちを訪ねるのをつねとしていた。後継者の中には、ACJのおかげで栄達を果たした者が何人かいた。なかでもとくに知られているのが、(略)岸信介である。岸は重大な戦争犯罪の罪を問われ、戦後の三年間を巣鴨拘置所ですごした(略)。

しかし、ACJが設立された一九四八年にはどういうわけか釈放される。その後、岸が東条内閣の他の閣僚たちを含めたP30戦前の軍国主義者や帝国主義者らを従えて、自民党総裁の地位にまでのし上がったのは、カーンをはじめとするACJ一派の後押しがあったからだという説があり、またこれを裏づける確たる証拠が存在する。(略)

日本の戦前型の軍国主義者たちは、資本主義、天皇制、軍備拡張を支持しており、拡大主義者であったから、カーンと親しいジョン・フォスター・ダレス(アイゼンハワー政権の国務長官)など、アメリカの右翼政策立案者たちのもっとも熱心な同志になった。ダレスの狙うところは、日本を、当時アジア大陸の二大共産勢力であった中ソを、封じ込めないし無力化するための反共同盟の北の砦にすることだった。

P31 旧勢力の老兵たる彼らは、絞首刑あるいは長期刑をかろうじて免れたことに大いに感謝していたこともあり、保護者たるアメリカ人の政策を実行に移すための格好の仲介者となった。岸はまさしくその典型だった。

占領期間中、「ジャパンロビー」の役割はその名のとおり、アメリカの対日政策に影響を及ぼすことだった。カーンは、一九四七年から五一年までのきわめて重要な時期に、自分の支持者や顧客たちを動かして財閥解体を逆行させ、財界と政界のリーダーたちの追放を解除させた。旧指導者らを影響力のある地位に復帰させることにより、反革命派は民主的諸権利の行使に歯止めをかけ、上昇機運にあった労働運動を後退させ、日本を再軍備の道へと導いたのである。

なによりも、ACJは天皇制維持のためのロビー活動を成功させた。その功が認められたのであろう。カーンは日本政府から勲三等瑞宝章を、また、彼の協力者のジェームズ・リー・カウフマンは勲三等旭日章を受けた(カウフマンは死後あらためて勲二等瑞宝章を受章)。カーンの側近グループのなかで欠かせない人物であるカウフマンは、弁護士として、戦前はアメリカの対日投資に尽力したが、この時点では、投資家の資産と利権を回復させるための準備をしていた。

   (略)

国務省分裂 P35-38
冷戦は日本に不安定な状況を生み出し、カーンと仲間たちはそのなかで初期の政治工作を遂行した。太平洋戦争が終結に向かう頃、アメリカ政府の主流をなしていたのは、社会改革を実行して一九二九年以降の大恐慌からアメリカを救いだした「ニューディール派」だった。彼らは本来、反ファッショであり、史上もっとも破壊的な戦争を引き起こした敵対諸国に対する厳しい処分を支持した。

それに対する保守派は、ニューディール派を、急進派、破壊分子、さらには共産主義者とさえみなした。P36両者間の大きな対立点の一つは、ドイツと日本の降伏後にとるべき政策、とりわけ経済政策だった。『ニューズウィーク』と『タイム』はともに、ドイツと日本に対して、報復的というよりもむしろ和解的な政策をとるよう政治的支援を集めようとしていた。これはきわめて自然な動きだった。アメリカの資本家たちは、この両国に巨大かつ価値のある利権を有しており、領地を占領して、その政府を一時的に支配したのち、両国への投資と市場拡大を促進したいという野望をいだいていたのである。

占領政策の一本化を図っていた国務省内で、もっとも保守的な勢力は、ジョゼフ・C・グルーが率いるものだった。グルーは、戦前の十年間(一九三二~四一年)、駐日アメリカ大使をつとめており、日本の主要財閥や家族、外交官、政界の首領たちと親交があった。ルーズベルト政権が一九三七年以降の日本の中国侵略に強硬に反対していたのにひきかえ、グルーは、西側諸国を相手にした総力戦になるのを防ぐために、日本の軍国主義分子の敵意を買うことは避けなければないと考えていた。

その意味で、グルーは、これと同時期に同じ理由から、ヒトラーに対する融和につとめていたイギリスのネヴィル・チェンバレン首相と同じ役割をアジアで演じていた。P37グルーは、ジョン・ピアポント・モーガンのいとこで、彼自身も富豪だったが、日本と中国におけるアメリカの投資権益の行方を憂慮していた。その大部分はモーガン系列の企業と銀行が支配していた。

もう一人の宥和主義者は、ロックフェラー財団の理事長でもあるジョン・フォスター・ダレス上院議員だった。彼のサリバン・アンド・クロムウェル法律事務所は、すでに長年、海外のロックフェラー系企業に仕えていた。見識のある評論家の多くが、第二次世界大戦は不可避と考えていたとき、ダレスは(一九三九年に)こう断言していた。「ドイツ、イタリア、もしくは日本が、わが国に戦争を仕掛けてくるなどと考えるのはヒステリーだ」。驚くことではないが、後年、カーンは、グルー、ダレスと深く関り、彼らの保守的な対日政策を宣伝することになる。(略)

P38 グルーは自分のまわりに、アジア経験が豊富で自分と似た考え方をする外交官を数人置いていた。いわゆる日本派と呼ばれた人たちで、参事官のユージン・H・ドゥーマン、古参の親日派のジョゼフ・バランタイン、国務省極東局長になった中国問題専門家ウォルトン・バターワース、駐日大使からハーバート・フーバー政権の国務次官になったウィリアム・R・キャッスル、そして、東京のアメリカ大使館の元語学将校でマッカーサーの友人でもあるマックス・ビショップだった。これらの人びとが作る結束の固いグループが、カーンを軸にACJのインナーサークル(中枢)を形成した。(略)

ダレス動く P41-46
戦後の日本では、戦時中のような「思想統制」に人びとが苦しめられることはなくなった。しかし、猛威を振るいはじめたインフレに不安が生まれつつあった。デトロイトの銀行家ジョゼフ・ドッジが示した厳しい経済安定政策、いわゆるドッジ・プランが実施され、景気が徐々に回復しはじめると、社会の風潮は保守主義に向かった。トルーマンの財閥解体計画は消滅した。すべてはACJの計画どおりに動いていたが、それでもカーンは満足しなかった。

彼の顧問ともいうべきジョン・フォスター・ダレスも同じだった。共和党上院議員だったダレスは、一九五〇年四月、国務省特別顧問(極東問題担当)に任命された。P42 六月、ダレスは、マッカーサー元帥及び連合国最高司令部(SCAP)民政局(GS)のコートニー・ホイットニー准将と対日平和条約の条件を協議していた。ダレスの信任を得ていたカーンは、ダレスの特別機に首尾よく同乗して来日した。この機に乗じて対日協議会の計画を売り込んだのか、あるいは、逆に、ダレスがカーンを利用したのだろうか。ダレスは日本の再軍備を説いていたが、それを拒否したのがマッカーサーだった。

六月十八日から二十一日まで、韓国を訪れ、北緯三十八度線の防御施設を視察した。東京に戻ると、ただちにマッカーサーと協議に入った。後日、AP通信に、「極東における平和維持のためのアメリカによる積極行動」が予想されると語った。朝鮮戦争勃発後わずか四ヵ月という時期に、ダレスは、「日本を自由世界圏内にとどめておくという問題は唯一、朝鮮のおかげで(略)解決可能になった」と述べていた。

六月二十二日、ダレスは、カーンの招待を受けて、東京(渋谷)のパケンハム邸を訪れた。(略、夕食会メンバーの紹介など)P46 ダレスが何を考えていたにせよ、朝鮮戦争は日米関係に急速かつ激烈な変化をもたらした。日本はたちまち当時のアメリカのマッカーシズムにも似た反共の嵐に呑み込まれた。日本共産党の中央委員会と同党機関紙『赤旗』のスタッフは、憲法上の保障にもかかわず非合法化され、労組、マスコミ、その他公職に対し、いっせいに「アカ狩り」が行われた。景気はたちどころに上向きはじめ、日本が韓国防衛のための工業基地、補給基地となるにつれ、特需ブームが起こった。

極東の反共のリーダー P46-49
一九五〇年七月、マッカーサーは七万五千人の警察予備隊の創設を命じた。これが今日の自衛隊の前身となるが、創設にあたって主導的役割を果たしたのが、パケンハムの友人で、先の夕食会にも出席した海原治だった。新憲法の第九条が、陸、海、空のいかなる軍隊の存在をも禁止していたため、この新軍隊の名称は当時、きわめて微妙な問題として扱われた。

一九五一年、三菱財閥が、事実上、戦前の規模で再建され、他の財閥も着々とあとに続いた。(略)ダレスは一九五一年にふたたび訪日した。このときダレスに同行していたのが、ジョン・D・ロックフェラー三世だった(ロックフェラーの金融帝国は、その後まもなく、日本への最大の投資家となる)。このときの訪日目的は、対日平和条約の地ならしをすることだったが、これが日本と台湾を結びつけ、以来、中国のとの関係を厳しく阻害する結果となった。一九五一年九月、アメリカなど連合国の大部分との平和条約がサンフランシスコで調印されたが、アメリカのかつての同盟国である中ソの不参加が目立った。

第二章 逆コース P60-104
(略)P65 筆者は「逆コース」についての従来の月並みな解釈は退け、(大仰なものではなく、むしろ醜い話だが)もっと事実に即した説を支持したい。(略)その方針転換の陰には、アメリカのエスタブリッシュメント内部の小グループによる法外な政治力乱用があったことが示されている。正式な権限はもたないが、この一派には国のコンセンサスを論駁したり、民主的であるはずの政府を操ったりするばかりか、P66あげくには私的な意向を政府に押しつけて、それを公式の長期政策として認めさせてしまう力があった。(略)

ジャパン・ロビー始動
この圧力グループの存在を、正統派の日本問題研究家が論じることはめったにない。彼らは、すぐだれとわかる実在の人物による政治的策謀について論じるのを快く思わない傾向がある。人間のあさましい欲望をいちだんとさらけ出した、大物がからむ策謀であればなおさらだ。(略)

P67 ジャパン・ロビーの中枢機構として発足したのがアメリカ対日協議会(ACJ)であり、グルー一派が長年にわたり一貫して広めてきた意見をそのまま主張した。駐日大使時代のグルーは戦争回避のために軍部ファシズムを黙認し、そのゆきすぎを我慢するよう説くなど、日米関係を円滑にするために力を尽くした。グルーの経歴や交友関係、行動を調べると(略)

P68独立戦争以前のニューイングランド時代から続く家系の生まれで、大富豪のなかで育っている。従兄にあたる金融資本家ジョン・ピアポント・モーガンは、日本を含む多くの国々に強大な利権を有する複数の銀行や企業を支配していた。たとえば、その一つのジェネラル・エレクトリック社は、外国企業として日本に最大の投資をしていた。グルーの前任大使であるW・キャメロン・フォーブスが、モーガン傘下のAT&Tの取締役をつとめていたことも偶然ではあるまい。(略)

P69 一九三〇年代と四〇年代、二つのグループに分かれたアジア専門家が国務省の主導権争いを繰り広げた。日本に対する態度が一貫して寛大な、いわゆる宥和派は、「日本派」あるいは「グルー派」として知られた。対する「中国派」は、パールハーバー攻撃以前から、日本の侵略を阻止する強硬手段を講ずるよう主張しており、日本の敗戦後も対日強硬策を擁護した。(略)

マスコミの結託
羽が生えそろったばかりのジャパン・ロビーが活力を得て巣立つまでには、報道機関が重要な役割を果たした。なかでも『ニューヨーク・タイムズ』『シカゴ・トリビューン』そして、ヘンリー・ルースの出版物(『タイム』など)の特派員たちは、すぐに、まだ無名だったジャパン・ロビーとその目標の敬虔な使徒となった。最大の貢献をしたのは『ニューズウィーク』であろう。当時は、主に、ハリマン、アスター、メロン、モーガンなどの大富豪が所有し支配していた雑誌である。

すでに述べたが、同誌の出版人や役員は、戦前は、公然とファシズムを支援していた。発行人のマルコム・ミュアは全米製造業者協会のリーダーだったが、同協会こそはアメリカ保守主義の砦であり、『ニューズウィーク』のオーナー重役アベレル・ハリマンとビンセント・アスターから盛んな支援を受けていた。

一九四〇年代末期に『ニューズウィーク』東京支局長だったのがコンプトン・パケンハム。一九五〇年六月に歴史的会合を主催することになったイギリス人である。同誌の外信部長だったはりー・H・カーンは、終戦当時は日本についてほとんど知識がなかった。だが、パケンハムの知識と感受性、そして知り合いのアメリカ人投資家の日本に対する高い評価に刺激され、日本に関心をいだくようになった。ともに筋金入りの保守派であるカーンとパケンハムは、アメリカの納税者に負担をかけずに日独両国の経済を一刻も早く復興させることをめざしていた大手銀行や大企業と意見が一致していた。(略)

P71 パケンハムと同様、ジェームズ・リー・カウフマンも日本では古顔だった。戦前、日本で開業していた数少ない外国人弁護士の一人で、当時、勢力のあった日本アメリカ協会(American Association of Japan)の会長もつとめた。ハーバード法律大学院の優等生で、『ハーバード・ロー・レビュー』の元編集者という経歴をもつカウフマンは、一九一四年から三八年まで東京のマッキーバー・カウフマン・アンド・ヤマモト法律事務所のパートナーとして活動し、五年間、東京帝国大学法学部教授の職にあった。

アメリカの銀行の日本での債券発行のために大きく貢献し、彼の事務所は「事実上、日本にあるあらゆるアメリカ企業」の代理人をつとめた、と彼は書いている。しかし、一九三八年、ますます排他的傾向を強める日本政府は、カウフマンをはじめ大部分の外国人弁護士の日本での活動を禁止する法律を通過させた。筆者が入手している資料のなかでカウフマンがふたたび登場するのは、一九四六年、国務長官特別補佐官ジョセフ・バランタインに書いた彼の書簡である。(略)

P72 バランタインは、その後まもなくジャパン・ロビーの中心メンバーになる。一九四七年のはじめには、一派はまだACJとして知られてはいなかったが、すでに対SCAP攻撃の態勢をととのえていた。引退したグルーがどこよりも自分の息がかかった国務省でロビー活動に励んでいたことは、当時の書簡から明らかである。ジョージ・C・マーシャル将軍が国務長官になったのもこの頃のことで、彼は陸軍長官ケネス・C・ロイヤル、国防長官ジェームズ・V・フォレスタル、陸軍次官ウィリアム・H・ドレーパー、国務次官ロバート・A・ラベットらとともに、ほどなくジャパン・ロビーの砦を固めていく。

これらの指導者たちは、少なくとも一九四七年から四九年までは確実にジャパン・ロビー幹部と手紙のやりとりをしていた。一九四七年六月には、カーンは知人のウィリアム・V・プラット提督(退役)を通じ、元大統領ハーバード・フーバーとの面会に成功した。フーバーはカーンの考えに同意し、『ニューズウィーク』のキャンペーンに激励を与えて、カーンが書く記事のために極秘文書までリークした。

P73カーンの攻撃の手はじめは、一九四七年一月二十七日号の『ニューズウィーク』記事「日本人パージの陰に--アメリカ軍内部に対立」だった。この記事でカーンは追放された財界人たちを「日本でもっとも活動的で、有能で、教養ある国際人グループ」と喧伝し、共産主義の脅威に対抗するアメリカの最高の協力者となる人びとだとほめそやした。

「このような迫害は、日本の極佐グループと、つねに目を光らせているロシア人、つまりは過酷なパージの擁護者を助けるだけである」とカーンは書いた。パケンハムの取材にもとづいて書かれたカーンの記事は、マッカーシー時代の典型的な論調だった。カーンは「二万五千人から三万人」の日本の財界人が職を奪われるだろうと書いたが、実際に指名された財界首脳は千九百人ほどで、大企業役員の一パーセントにも満たなかったのである。





『億万長者はハリウッドを殺す(上)』P211(url)

こうして盟友ヒットラーに対するアメリカ人の攻撃を食い止めるのに成功したモルガン=ロックフェラー連合は、その代表者ジョン・フォスター・ダレスが次のように語った。「枢軸国のドイツ、イタリー、日本がアメリカに戦争を仕掛けると考えるのは、まさにヒステリックな妄想なのだ

『億万長者はハリウッドを殺す(下)』P16(url)

↑朝鮮半島について、ご参考

『赤い盾』P82-(url)

このような手法を身内のベルモントから学んだペリー一族も、黙って見ていたわけではなかった。「意味のある結婚を!」、これを合言葉に他念なく営々たる努力を続けた結果、ペリー提督の兄のひ孫アリスが、ボストン上流社会のジョゼフ・グリューと結ばれたのである。グリューは高校・大学を通して、二年後輩の若き重要人物、フランクリン・ルーズヴェルトと親交を深めていた。言うまでもなく、時のセオドア・ルーズヴェルト大統領の一族であった。このグリューの名を、日本人は忘れないだろう。

やがて1931年に満州事変が勃発したが、この日本人の蛮行を、浦賀以来の仲であるペリー一族のグリューが承認しないはずはなかった。利権主義者同士の了解というものだ。翌年に早くもグリューが公式に日本大使として着任した直後、フランクリン・ルーズヴェルトが第三十二代大統領に選ばれた。さきほど示した巨大な系図8のなかで、タイタニック号の犠牲者となった"ホテル王アスター"と、"ロスチャイルド一族"をつなぐ線が、実はこのルーズヴェルト大統領によって結ばれていた事実再び注意を払っていただきたい。それが伝説的富豪のロスチャイルド家の代理人をつとめたオーガスト・ベルモントの手腕であった。ロスチャイルド商会が扱う商品は、ダイヤと金銀、ウランだけではない。あらゆる人種・宗教・国籍の人間をベッドに招いて扱うことを得意としている。

ベルモント一族のジョゼフ・グリューは、日本大使となってからP83もっぱら三井・三菱の財閥を渡り歩き、軍人たちと親しく交流を深めていったが、その友情は、ポケットのなかで金貨がじゃらじゃら音を立てている限り続く、という性格のものであった。音が聞こえなくなると、互いに牙を見せるかも知れない。グリューはやがて、自分の狙っていた中国大陸での石油利権を日本人から拒絶され、この時、両者のあいだに大きな溝が生まれたのである。その後の歴史は、狡猾さと残忍さのいずれが勝つかという選択を、真珠湾攻撃から原爆投下に至るまでの戦争に託していった。悲惨なのは、それを何も知らずに殺されていった人間たちである。

これで"赤い盾"ロスチャイルドがモルガン・グレンフェルを仲人として"反ユダヤ主義者"モルガンと手を組んだ理由が漠然とながら推測できるだろう。(中略)1989年に何が起こっているか。…(中略)ロスチャイルド家がフランクフルトに復活すると宣言した直後の9日、東西ベルリンの壁の取り壊しが開始され、27日にそのドイツ銀行がわが「モルガン・グレンフェル」の買収を発表したのである。翌28日、コール首相が遂に東西ドイツの再統一を提案し、ある人間の目から見ればそれが歴史の流れを過去のナチス帝国時代に戻そうとするかのように映ったか、2日後の30日、ドイツ銀行の頭取として軍需産業の統合と「モルガン・グレンフェル」の買収に全精力を傾けたヘルファウゼン頭取が爆殺されてしまった。

  現代の鍵を、ドイツ銀行とロスチャイルドが握っていることが分かる。そのモルガン・グレンフェルとロスチャイルドの正体を知るため、歴史のなかでもう一歩調査を深めてみる時、そこに信じ難い事実がさらに二点隠れていることに気付くだろう。日本大使であったグリュー一家のジェーン・グリューが、当時全米一の富豪J・P・モルガンJrの妻となっていたのである。

今日、アメリカの巨大財閥モルガン家は消滅したという話が定説になっている。しかし彼らは、姿を変えて生きている。系図9に見られる通り、まぎれもなくロスチャイルドの代理人オーガストベルモントと閨閥をつくり、「モルガン・グレンフェル」のなかに融合している。モルガン家は統一ドイツの象徴「ドイツ銀行」に入り込んでいるのである。(略)

P86 グリューが日本にやってきたモルガン家のアメリカ大使であるなら、同じ時期に東京に着任したイギリスの大使は誰であったろう。グリュー着任の前年になるが、一九三一年に満州事変が勃発し、日本が戦争に突入していったこの年に、すでにロンドンからはフランシス・リンドレーが着任していた。この人物は、以前、一九〇六年に東京へ来た経歴があり、ちょうど日露戦争で日本勝利の翌年に当たる。シフやロスチャイルドが日本に大金を貸し付けたので、その返済の裏交渉に走りまわるため、表向きはイギリスの高度な外交官として二年間も滞在していた男だった。

そして一九三一年から三四年まで、今度はグリューと欧米連合を組む形で、正式の大使として活動したが、その結果、リンドレー大使はどのような報酬をもらったのであろうか。まさしくロンドンに戻ったその一九三四年のことだが、六月十二日にリンドレーの三女サラがロスチャイルド一族のフィリップ・ヨークと結婚式を挙げたのである。しかもこの系図9が示す通り、イングランド銀行の総裁二名を生み出し、「モルガン・グレンフェル」の創業者を含む重要な家系に入った。それはロスチャイルド家がすでに身内に準ずる人物としてこの外交官を派遣していたことを意味する。

逆に日本人の目から見れば、事変直後のもっとも危険な行動をとった侵略時期にアメリカからモルガン家の一族グリュー大使を迎え、イギリスからロスチャイルド家の一族リンドレー大使を迎えていたという状況になる。誰も気づかなかったが、その両人とも、実は「モルガン・グレンフェル」の代理人であった。大使の身許は歴史を解く鍵になる。(略)

"赤い盾"がなぜ"反ユダヤ主義者"と手を組んだか、という実業界の謎は、この系図をもって、ここに完全に氷解する。ロスチャイルドからヨーロッパの潤沢な資金を託されたベルモントが、P87ヴァンダービルト財閥、モルガン財閥と血縁関係を結びながら、海軍一族ペリー家や米英の大使をファミリーのメンバーとして近代史を動かしてきたのである。

一八七九年にアメリカの鉄道王ヴァンダービルトが大鉄道ニューヨーク・セントラルの持株を処分したとき、その仕事をJ・P・モルガンに委嘱した。モルガンはそれをオーガスト・ベルモント※経由でロスチャイルド家に売却して、大富豪と鉄道王の地位を確立したという史実は、この系図そのままであったことが分かる。第二次世界大戦中にロスチャイルドとモルガンの仲はファシズムの台頭によって引き裂かれたが、それも一瞬の出来事で、現在でもモルガン財閥のペン・セントラル鉄道の大株主はロスチャイルド財閥の「リオ・チント・ジンク社」である。(略)※オーガスト・ベルモント(→『日本1852』(参照))

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