(P12)
P12 かつての満州国を下敷きにしてなされたような気がする。時の総理大臣として、高度経済成長に向け号砲を打ったのは、前総理大臣・安倍晋三の祖父の岸信介である。その岸が産業部次長として満州に赴任し、満州開発五か年計画を立て満州国の経済政策の背骨をつくって、後に「満州国は私の作品」と述べたのはあまりにも有名である。(参照→『軍隊なき占領』P182-)
世界史的にも類をみない戦後の高度経済成長は、失われた満州を日本国内に取り戻す壮大な実験ではなかったか。そんな思いが私をきつくとらえていた。戦後高度経済成長の象徴である夢の超特急も合理的な集合住宅もアジア初の水洗式便所も、すべて満州ですでに実験済みだった。
(略)
第一章 異形の人脈 P30-63
P56 日本商事は。渋谷駅のハチ公前、いまQフロントという複合ビルにかわった旧峰岸ビル内にあった(tw、tw)。伊達が里見に会うためよく出入りしていたのも、キャバレー「チャイナタウン」の控室の隣接するその日本商事のオフィスだった。(中略)P57 同社が設立されたのは、昭和12(1937)年2月5日、昭和12年といえば、里見が本格的に阿片販売に乗り出す年である。(中略)目的蘭に、塩、葉煙草、医薬品の輸出入と書かれていた。
里見が上海でつくった阿片販売組織の宏済善堂が現地販売網の相手として選んだのは、中国の秘密結社・青幇の頭目として知られる盛宣懐の甥の盛文頤だった。その盛文頤の公的な肩書は祐華塩公司社長である。阿片と塩が苦力集めに不可欠な物資だった(中略)P58 日本商事が入っていた峰岸ビルオーナーの峰岸澄夫も、里見遺児基金名簿に名を連ねている。(中略)峰岸澄夫のことを知る東急百貨店のOB「峰岸さんの父親(峰岸梅吉・昭和10年没)という人は、渋谷の名士で、あの辺一帯の大地主だったそうです。戦前は道玄坂から現在の渋谷センター街にかけて、すべて峰岸さんの土地だったとも聞いています。P59 峰岸さんは東北大学の文学部を出た人でした。文学青年のような雰囲気で、いいところのおぼっちゃんという感じがしました。…」
峰岸ビルが竣工したのは、日本経済が高度経済成長に向け駆けあがっていった昭和34(1959)年のことだった。1階から6階までは東宝系の封切館、7階には当時全盛期だったキャバレーチェーンの「チャイナタウン」が入った。里見が代表をつとめた日本商事のオフィスは、その控室の隣だった。
当時は日本映画界がピークを迎えた頃で、家賃収入は順調だった。だが、日本映画界はまもなく斜陽となり、それに伴って峰岸ビルの経営もおもわしくなくなった。当時売り出し中の堤清二率いる西武流通グループが峰岸ビルを買収して渋谷に進出してくるのではないかとの噂がささやかれるようになったのは、ちょうどその頃だった。
渋谷は西武のライバルの東急の本拠地である。ましてや峰岸ビルは渋谷の一等地にある。峰岸ビルの前の土地は、路線地価ランキングで、銀座の鳩居堂前、新宿のタカノフルーツパーラー前と並んで、都内の地価トップ3に毎年顔を出す常連だった。西武の買収を防御するため、東急から峰岸ビルに役員が送り込まれることになった。峰岸の人となりについて話してくれた東急百貨店OBも、そのひとりだった。
P60 「峰岸ビルの帳簿を見て驚きました。放漫経営の見本のようでした。峰岸さんは乗せらやすい人でしたから、あちこちからむしりとられていたんだと思います。タニマチ気取りでほうぼうに金をばらまいていたようです。△△△△の後援会に入って、金づるのようなこともしていました。(中略)葬儀はかつての渋谷の大地主にしては、寂しいものでした。弔問にきた政治家は〇〇〇〇だけでした。(中略)渋谷の大旦那だった峰岸家もあれで終わってしまったんですね」(中略)
戦後、大蔵大臣、外務大臣、官房長官などの重要閣僚を歴任した△△は、岸信介らと並ぶ満州官僚のひとりである。大東亜省の前身の興亜院の官僚時代、△△は華北連絡部に勤務した。P61 興亜院の華北連絡部は、阿片問題を扱う部署である。峰岸ビルを管理していた和栄興業元社員の有賀充男氏によれば、峰岸家は鎌倉時代から続く名門で、渋谷一帯の土地もそもそも源頼朝から拝領したものだという。
第二章 男装の麗人 P64-103
P87 梅村の振る舞いと欲望の深さは、いまさら、人倫に悖ると批判するのもおこがましいような怪物ぶりである。梅村は満州や「魔都」上海で里見と過ごした官能と蠱惑の日々が忘れられず、それを戦後までひきずって虚飾と放埓、淫奔と猟色の人生を送ったのだった。
第三章 魔都放浪 P104-127
(P116-)
P116里見は、「覚書」のなかで、この旅行の思い出にふれ、「中国をイヽナーと思い、その味をかみしめたものである」と語っている。
大正四(一九一五)年夏に行われたこの調査行は、北京を出発し、太原、黄河、延安、西安、泰嶺、漢水、漢口と回る約四ヵ月間の四人編成の大旅行だった。このときの記録をまとめた「遠塞遍歴」という旅行記が残っている。
まもなく中国の邦字紙の新聞記者となる才能の片鱗をみせるように、里見の文章は漢文脈調の美文である。
未だ今日の泊まりまで三十支里あるといふ、餓えた腹に白麺を四杯平らげて又歩き出す、最早其頃は月も山の端を出て晴れた空に懸って居る、護兵の道を知って居る方は驢馬の荷物を監視して馬夫と共に先に行ってしまって居る、道が分らぬので岐路に会ふと馬の蹄を捜して進む。P119このとき里見はわずか十九歳である。その若さでこれだけ格調高い文章が書けること自体、驚きである。油田地帯を通過したときには、後年、ジャーナリストとなることを予感させる的確な観察眼と批評眼を披歴している。
真昼のような月光を浴びて西瓜畑を荒らしたり、玉黍子を折ったりして兎ある山上に犬の吠え声を頼って行くと人家四五軒の部落に出た、道を聞くと未だ十五里時は十時に近い。
道は数百尺の懸崖を下る羊腸たる小逕を月光に透して歩一歩下れば十数間の谷間に渓流淙々の声をなして草蔭を流る両側の山高く屹立して月の姿さへ細い
(略)
…こゝを通り過ぎると油田の楼台が一つある、高さ二十間余り、目下盛に工事中である、楼台に接して揚巻機を据え、更に油槽に連結する鉄管を布設中で五人の米国技師が事業服を油と塵に光らせて、支那人の工夫と共に働いて居る(中略)。P120湯村家所蔵のアルバムには、この大旅行に出かけた四人の記念写真が貼られている。他の三人が髭をたくわえ、昂然と胸をそびやかしているなかで、里見ひとりは髭も生やさず、胸もそびやかしていない。
一昨昨年のの秋から一昨年にかけて、世間の耳目を驚かしたのは延長の石油問題だ、延長を中心として陝西の石油採掘権を、我国の手に入れんため商議中だとの噂が高かったが一昨年の二月に俄然支那政府が米国スタンダード会社と締結した延長石油合弁会社の契約が発表せられた、
我国と支那側とに条款締結せられ正に調印と云う所迄運んで居たのに支那側委員熊希齢との間に、コムミッションの金高に就いて少しく行き悩んだのに際して突嗟運動を開始して成功したのが彼のスタンダード会社である(中略)
油田は延長、延安を中心として北は、延川、南は宣川に及ぶ陝北一帯の地方で延長延安、宣川の三ヵ所に試掘を開始した居た、三百年間世界の需要額に応じ得ると云う大油田を米国に奪はれたは正に一大恨事である
それでも里見が、見る者にひときわ強い印象を残すのは、その面構えにただならぬ雰囲気が漂っているからだろう。
詰襟の学生服のポケットに無造作に手をつっこみ、口をへの字に結んだ里見の風貌は、体を少しななめにかしがせた姿勢や、ひとり草履ばきという個性的ないでたちとも相俟って、一度決めたらテコでも動きそうにない強い意志を感じさせる。
(略)
第四章 秘密工作 P128-164
(P128-)
P131満州国建国のプランナーの石原莞爾は、満州国を植民地化しようとするあらゆる勢力に猛烈に反対した。昭和十二(一九三七)年の日中戦争勃発時、参謀本部作戦部長だった石原は、不拡大方針でことに臨んだ。
石原が主唱する世界最終戦争の一方の主役たるべき東アジアブロックの形成が台無しになることを恐れたからである。
そして、最後は満州国の日本からの独立を主張して軍部の不興を買い左遷された。もし石原の主張通りのことが進めば、石原はいわば日本のジョージ・ワシントンとなり、東アジアの一画に、日・漢・朝・蒙・満の五族を中心とした東アジア諸民族が居住するアメリカ合衆国なみの多民族国家が誕生していた可能性もある。
(P132)
P132関東軍の機密費の基本的な資金源となったのはアヘンだった。そして、満州国のメディア統合を図って関東軍の絶大な信頼を勝ちとり、やがて、もう一つのメディアともいうべきアヘンを思うがままに扱って「魔都」上海にアヘンという毒の華を咲かせた男だった。
元東洋大学教授の中下正治氏(故人)が、里見の死の二ヵ月前に聞きとった「覚書」には、日中戦争下における中国要人や、関東軍高級参謀の名前がおびただしく登場する。
里見はこの時代をふり返って、記事が足りないと、あちこちの新聞を切り抜いて新聞をつくった。要領よく記事ができると、酒をのんだり、マージャンをしてけっこう遊んだ、スポーツ記者も買って出て、野球やテニスの記事も書いた、これは当時としては実にハイカラなものだった、と楽し気に回想している。
里見が「京津日日新聞」に入社した頃は、中国軍閥間の抗争による政権交替が目まぐるしく行われた時代だった。「覚書」は大正十一(一九二二)年春の第一次奉直戦争による政局転変にふれている。
P133第一次奉直戦争とは、奉天派の張作霖と直隷派の呉佩孚の内戦のことで、劣勢となった張作霖は前線から後退し、東三省(奉天、吉林、黒竜江)の独立を宣言した。
(略、「覚書」の張作霖の様子)
「覚書」はここで、「張作霖は柔和な人で、奉天軍の戦況がよかったので手ぶり足ぶりで話をする人(と里見さんは鉄砲を打つ身ぶりなどをしてくれた)」と、里見の得意そうな仕種を挿入の形で紹介している。
<話の途中で通訳が陸軍中佐であった本庄繁さんであることがわかり、一安心してゆっくり坐り込み、しまいには馬鹿話などして気分よくあってくれた。長居をしてあわてて天津に帰って翌日の新聞にこの会見記をのせた>P134当時、張作霖の軍事顧問だった本庄は、その後、関東軍司令官となり、敗戦後自決した中国痛の陸軍軍人である。里見はこの張作霖会見から約十年後、満州国通信社(国通)の設立にあたって、本庄の雅量に接することになる。
里見が中国社会の奥深くまで人脈を広げてゆくことができたのは、一つには、中国語が堪能だったためである。張作霖の会見に際しては通訳を必要としたが、大陸生活が長くなるにつれ、里見の中国語は本物の中国人と間違われるまでに上達していった。
もう一つは、里見の任侠肌の性格である。まだ二十六歳という若さで、大物軍閥に平然と会見する度胸のよさは、図々しいともとられかねない。だが、同文書院時代、「三国志」や「水滸伝」に熱中した生一本な性格は、むしろ、それをプラスの評価に転じさせた。
『東亜同文書院大学史』における里見の評価は手ばなしの礼賛に近い。
<里見は学生時代から思いやりがあり、人の面倒もよくみる親分肌のところがあり、男にも女にも好かれ多情多恨、当時はやった村上浪六の小説を地で行った男、というのが同期の仲間の述懐である>前近代的な英雄、豪傑肌の人物を主人公とした村上浪六の小説は、大正年間に大流行し、とりわけ軍人たちの間でもてはやされた。里見が中国社会に深く通暁するとともに、軍人たちにウケがよ買ったのは、こうした肌合いが彼らの気脈と通じあっていたためでもあろう。
支那の各地を縦横無尽に駆け回った一匹狼の壮士に憧れていたせいなのか、里見には一ヵ所に長く居つけない放浪癖があった。
大正十二(一九二三)年五月、里見は臨城事件の取材に出かけた。臨城事件とは、天津から南京対岸の浦口に向かう津浦線の急行列車を、約千名の土匪が襲い、アメリカ人一人が殺害されたほか、外国人と中国人二百数十名が拉致された事件である。
人質のなかには世界的大富豪ロックフェラーの関係者もいたため、世界を騒然とさせる大事件となった。この臨城事件は、「覚書」のなかでもふれられている。
<当時としては一等ハイカラな車で津浦線の特急ブルートレイン(ブルーに車体が塗ってあった)を土匪の孫美瑶が停めて物は略奪して、毛唐十数人を山塞へ引きづり込んで行った。その中にロックフェラーの姪とかいう女がいて、当時としては大事件になった(中略)日本人記者のなかで、臨城に一番乗りしたのは里見だった。取材を終えた里見は、生来の放浪癖で、周辺の山をぶらついたり、城壁を見ながら運河の土手で寝ころんだりして、のんびり過ごした。
北京から上海、天津からも内外記者、それにロイターなども来ていた。時事の小山という記者が、当時としては珍しい電報で、ロックフェラーの姪が強姦されていると打った。時事がこれをのせたので、一時、大問題になったことがある>
この頃、里見は新聞記者生活にそろそろ飽きがきていた。「覚書」にもこう書かれている。
<ちょうどその頃、新聞が厭になって、放浪心が起きかけていたときだった。天津もあいたし、南にぶらりと出てみましょうかと、ボヤーと半日ぐらいして、天津に帰る汽車に乗った。帰る途中、黄河の鉄橋を過ぎた頃、食堂車で飯を喰っている時、デップリした紳士が入って来て前に座った。日本人らしい。上田某とは、ずっと後年、優れた国際報道をしたジャーナリストに贈られるボーン・上田記念国際記者賞の元となった上田碩三のことである。
むこうから声をかけてきて、お互いに名乗りをあげると、能島進といって広告専門の大阪電通の社長さんや(東京電通は光永星郎が社長で、次を上田某がやっていた)。北京に行く途中で、眼にまかせていろいろっ喋っている中に、電通(相互参照)に来んかという。
荒っぽい仕事だが、うちに来んか、兵隊には扱わんという話になった。当時は28才だし、兵隊にはしないというのだから何をさすかわからないが、これはいゝなと思った>
能島の誘いにかなり心は動いたが、ほどなく「京津日日新聞」の北京版、「北京新聞」が創刊されることになったため、里見の電通入りは結局、実現することなく終わった。しかし、このときの能島との奇縁が、のちの国通実現の決め手となった。
里見が「北京新聞」に籍を置いた期間はそう長くはなかった。だが、里見の新聞記者としての声価を決定づけたのは、この時代だった。里見は毎日、「北京新聞」の記事を一人で数百行書く一方、外務省系の「順天時報」に旺盛な寄稿をして、日本人がほとんど知らなかった国民党軍の内情を伝えた。
呉佩孚の東三省攻撃に記者として従軍し、郭沫若と親交を結び、昭和三(一九二八)年六月、北伐に成功し北京に入城した軍服姿の蒋介石に会見したのも、この時代だった。
P138湯村家所蔵の写真アルバムをみると、この時代の里見はすべて支那服である。仕立てのいい支那服を着、流暢な中国語で取材する日本人記者は、里見のほかにはいなかった。国民党の内情に深く通じた里見を日本軍側がいかに重用していたかを示す記述が、「覚書」のなかにある。
<昭和3年(民国17年、1928)北伐完成の年。この年は不幸にして済南事件あり。日本の山東出兵、北伐挫折。この北京攻略に当り、日本は方針を変更。山海関まで国民党の進出止むなしとす。北伐軍北京攻撃に際し、北京には日本居留民あり、又駐屯歩兵部隊あり、ここに衝突あらんか再び済南事件の二の舞の恐れあり。然れども当時の日本陸軍、革命軍側に適当の連絡方法なし>済南事件は、山東省で北伐途上の国民革命軍と日本軍が軍事衝突して日本軍が済南城を占領した事件である。この軍事衝突による中国側の死者は五千人以上にものぼった。
両者の関係は再び緊張して一触即発の機運となった。だが、互いをつなぐ外交パイプはなく、このままの状態で推移すれば、流血の事態となることが避けられない状況となった。 P139そこで日本軍は国民党側に知己の多い里見に調停斡旋を依頼してきた。この調停斡旋に最も熱心だったのは、駐在武官の建川美次(少将)、補佐官の原田熊吉(少佐)、参謀本部支那研究員の田中隆吉(大尉)の三人だった。
建川は日露戦争に騎兵中尉として従軍、ロシア軍の背後をついて横断し、山中峯太郎の『敵中横断三百里』のモデルとなったことで知られる。原田と田中については、後のアヘン工作で里見と密接な関係をもつため、あとで詳しく述べたい。
里見は二ヵ月にわたる秘密工作をつづけ、国民党側との協定文書の調印をとりつけた。里見は「覚書」で、北京占領はこうして何の不祥事もなく静穏理に行われた、と述べ、最期をこう結んでいる。
<この件、小生今日迄黙って語りしことなく、知る人なきも小生の中国生活中、自ら明治維新の江戸城明け渡しの故事にも思い到り。自らを誇り、自ら自身を慰むるの事(中略)、当時の写真一葉あり、小生終生の記念なり>この大仕事を終えた頃、里見は「北京新聞」を辞め、満鉄南京事務所の嘱託に転職する身となった。これは、昭和五(一九三〇)年八月、それまで北京の西郊に駐屯していた蒋介石が新首都の南京に入ったことに対応する動きだった。
(P140-)
P140首都が遷都したため、北京在住の日本人の間にも大きな変化が起きはじめていた。「北京新聞」の主幹だった里見も、同紙の規模縮小にともなって「北京新聞」を離れ、南京に移った。
里見はこの満鉄時代、「国民党第三回中央執行委員会 第三次全国会議」の概要を翻訳著述する一方、中国共産党軍が支配する武漢政府を取材し、紅軍のビラなどを柳行李二個分も集めた。
これが、同文書院の四期先輩で、里見の面倒をなにくれとなくみた波多野乾一の文名を一気に高らしめた『中国共産党史』(全七巻・時事通信社・昭和三十六年)の原資料となった。
里見はその一方で、国民政府に対し満鉄の機関車売り込みに成功するなど、本業の方でも華々しい業績をあげた。これによって満鉄に里見ありという声価がにわかに高まった。
それに加えて、「京津日日新聞」と「北京新聞」時代に培った政治感覚と、中国要人にまで築いた幅広い人脈は、もはや里見を一満鉄マンにとどめておかなかった。
昭和六(一九三一)年九月に満州事変が勃発すると、今度は三転、関東軍第四課の嘱託辞令を受け、奉天行きを命じられた。関東軍第四課は、満州国の対外宣伝と、満人ら先住民の人心安定を計る宣撫担当の部署である。
関東軍は里見の卓越した語学力と、優れた世論形成能力を買ったことになる。
P141 里見の関東軍第四課での最大の仕事が、国通設立に向けての工作活動だった。ことの発端は、新聞聯合専務理事の岩永祐吉が関東軍に提出した「満蒙通信社論」だった。その要旨は、満州にすみやかにナショナル・エイジェンシーを設立すべし、外国通信社や営利目的の通信社の乱立による誤ったニュースの流布は、満州の国際的地位を低下させ、いたずらに人心の混乱を招くおそれともなる、というものだった。
この「満蒙通信社論」が、まもなく一国一通信社論となり、電通(相互参照)と聯合の合併、すなわち電聯合併に発展することになる。この流れについて、里見は満州暦の康徳九(昭和十七)年に出版された『國通十年史』のなかで、次のように述べている(tw)。(略)
<一国一通信社、この観念は当時の日本の情勢から言って一の国策になって来た。英のルーター、仏のアバス、独のトランスオーション、伊のステファニー、露のタス、僅かに米国のAP、UPの両通信社、日本は聯合通信社と電報通信社即ち「聯合」と「電通」の両社であった。小磯は、東条(英機)内閣退陣後の総理大臣となった元陸軍大将の小磯国昭、板垣は、石原莞爾らとともに満州事変を強行し、極東国際軍事裁判で絞首刑の判決を受けた板垣征四郎のことである。
日本の事が外へ出る場合、時によると二つのルートによって左右のニュースが出る。P142例えば国際連盟脱退といふ強い日本の意志の表示と一方は左迄もないといふニュース、これが対外的に響く影響は中々甚大である。夫れに加へて国内のニュース供給も時ともすると右と左の二つの形で現れる場合がある。対外的にも対内的にも日本の意志の凝結を要するは無論の事であるが、そのころは一層痛切に感ぜられた。
然るに「聯合」これは半官的の存在であり、一方「電通」は民間の経営である。国に対するに変わりはないが、組織と立場の相違は色んな隙を生ずる。一国一通信社、日本の通信社統一は小磯陸軍次官の頃一度議があったが、まだ当時の国内情勢はともすれば政治問題と迄はならず進む可くして進まなかったと聞いて居る。ここに起こつたのは先ず満州だけを先に統一すべしとの議である。これは今はなき「聯合」の岩永祐吉氏によって提議せられ板垣さんの裁断によって決したと記憶しする>
関東軍第四課に派遣された里見の役割は、この岩永論文を火急のうちに現実化することだった。
(略)
(P144)
P144 当時の電通(日本電報通信社)は、広告専門に特化した現在の態勢とは違い、広告分野に加えて世界的ネットワークを持つ通信社の機能を兼ねそなえた一大情報機関だった。戦後の読売争議で名を馳せた鈴木東氏も、元は電通のベルリン特派員だった。また、前出の上田硯三も、電通を創業した光永星郎の片腕となって活躍した国際的ジャーナリストだった。電通と聯合は日本を代表する通信社として各地で覇を競っていた。
関東軍から密命を帯びた里見は、満州国が誕生して間もない昭和七(一九三二)年夏、関門海峡を渡った。その時の気持ちを里見は『國通十年史』のなかで、率直にこう告白している。
<既に其頃両者も薄々気配づき、特に「電通」側はひどく神経過敏であった。私は命を受けて東京行の途上、実は大変なことを引き受けたつくづく思った>里見は東京には直接向かわず、まず大阪に行き、かつて天津への帰路の汽車のなかで、一面識を得ただけの大阪電通社長の能島進に面会を求めた。(略)
(P146)
P146 同書には、このとき「電通」と「満蒙通信社」(その後、満州国通信社、略称国通と改称)との間で結ばれた仮契約書の全文も掲載されている。(略、全文一部)そして末尾には、次の署名が記されている。
昭和七年十月十九日P147 満州における聯合と電通の通信網を統合した国通は、関東軍司令部が奉天から満州国の首都・新京に移駐して一ヵ月後の昭和七年十二月一日、その新京で呱々の声をあげた。政府はこれを強力な援軍として、日本国内の通信統制に本格的に乗り出していった。反骨の言論人として知られる菊竹淳(筆名=六鼓・福岡日日新聞副社長兼主筆)をはじめとする新聞人たちは、「国内の通信社を聯合一社とすることは、新聞の自由を失わせ、国民を盲にする言論報道の抑圧にほかならない」と反対の声をあげたが、そうした反対論を尻目に、政府、聯合側の新通信社結成工作は着々と進められた。
満蒙通信社代表 里見甫
日本電報通信社代表 光永星郎
そして、二・二六事件が起きる一ヵ月前の、昭和十一(一九三六)年一月、電聯合併による同盟通信の発足をみることとなった。通信網を聯合に奪われた電通は、これ以降、広告取次専門会社として生きるほかなかった。電通社史の『電通66年』(昭和四十三年十二月)の電聯合併に触れた記述は苦渋に満ちている。
(P148)
P148(略)その後、電通と同盟の間で、電通は通信とニュース写真に関する事業を同盟通信社に移譲する、電通は広告専門会社となり、同盟の広告部門を引き継ぐといった内容を主旨とする契約が取りかわされた。戦後、同盟は共同通信と時事通信に分割された。(略)
(P150-)
(P156-)
P157 国通の名を国際的に印象づけたのは、昭和八(一九三三)年五月に行われたロイターとの通信提携契約だった。このときの経緯については聯合上海支局長として里見と直接交渉し、里見遺児の"芳名帳"にも名前を連ねている松本重治(相互参照)の『上海時代』に詳しい。
一九三三年五月下旬、長城以南の作戦にも停戦の可能性が増大すると、私は、ぜひ一度、満州と平津地区に旅行して現地の情勢を自分の眼で見たいと考えるようになった。P158 ここに登場するチャンセラーは、ロイター通信社の極東支配人で、同じ上海を拠点とする松本とは、ごく昵懇の仲だった。
ちょうどそのとき、満州国通信社(以下、国通という)の主幹里見甫君から、近くロイテルと通信契約したいと思っているから、チャンセラーとの交渉斡旋のため、私に新京(長春)に来てくれないかとの丁重な依頼状が届いた。
その直後、チャンセラーから、「国通」との話しがあるので、君も一緒に行かないかとの話があった。都合よい話なので、善は急げと、数日後、大阪商船の船で上海を後にした
→『近衛文麿 野望と挫折』P120-(参照)
(略、大連観光)新京行きの夜行には、里見、松本、チャンセラーの三人で同じ一等のコンパートメントに乗り込んだ。その車中で松本を通訳とした話し合いが行われ、「国通」とロイターの契約の基本合意がなされた。
新京には翌日の午前中に着き、正式の調印は正午から、新京の「ヤマトホテル」で、満州国総務庁次官の阪谷希一の立ち会いのもとで行われた。阪谷希一は、渋沢栄一の娘婿で、西園寺内閣の大蔵大臣や東京市長などを歴任した阪谷芳郎の長男である。
(略、松本重治が里見甫の紹介で関東軍小磯国昭参謀長に会見することができて、里見の人脈に驚いた話、吉林省から新京への帰りの列車に川島芳子と乗り合わせた話とか)
P160 松本は同じ本のなかで、里見のことを「私利私欲に恬淡な人だ。その点が、私には、附き合って、気持ちがいい。天馬空を行くような、きっぷのよい男だった」と述べている。
(略、里見甫の人柄、甘粕正彦のことが記される)
第五章 アヘンの国 P165-196(参照)
第六章 不逞者 P197-226
P196
P197ハルビンは国際情緒あふれる街である。丸屋根のロシア正教会聖堂をはじめとするロシア式建築が数多く立ち並ぶ石畳の道を歩いていると、どこかヨーロッパの小さな街に紛れこんだような錯覚に襲われる。
ハルビン一の繁華街、中央大街(旧キタイスカヤ通り)を行き交う人びとのなかにも、毛皮の丸帽子をかぶったロシア人女性が目立つ。肌は透きとおるように白く、金の産毛が風に光っている。いちいち振り返るのが面倒くさくなるほどの美人ぞろいである。
里見や甘粕が活躍していた時代、大観園はハルビンの中心街から少し離れたところにあった(tw)。いまそこは完全に取り壊され、跡地は大きなデパートにかわって跡形すらなかった。大観園はかつては満州一の歓楽街、というより満州最大の魔窟だった。
下層中国人が密集して居住する傅家甸近くにあった大観園は、一度まぎれこんだら絶対に生きて戻れない、といわれた。
P198 女子供はもちろん、大の男でも恐ろしくてめったに近づくことさえできないところだった。
歌手の加藤登紀子の母親の加藤淑子さんは、戦中をハルビンで過ごした経験がある。京都出身の加藤淑子さんは、かつてこの街の郊外にあったハルビン学院を卒業し、ロシアの駐在武官の通訳や特務機関の仕事についた後、満鉄入りした加藤幸四郎氏と結婚した(tw)。
やはり京都出身の加藤氏は、戦後、東京・新宿でロシア料理の「スリンガー」を開き、平成四(一九九二)年、八十三歳で他界した。
ハルビン学院は、後藤新平の発案でできたロシア語専門の学校である。後藤はロシア革命直後のシベリア出兵を積極的に推進したことで知られている。だが、いざロシアに出兵しても、ロシア語が出来る者が少なく、ロシア側の情報が取れる者がほとんどいなかった。
その事実に愕然とした後藤は、ロシア問題のエキスパートを養成するため、ロシア人が多く住むハルビンに専門学校をつくることを発意し、大正九(一九二〇)年、ハルビン学院の前身となる日露協会学校をつくった。
昭和十(一九三五)年、二十歳でハルビンに渡り、十年以上ハルビンで暮らした経験をもつ加藤淑子さんに会ったのは、大観園について何か記憶が残っていることはないか、と尋ねるためだった。
P199「大観園ですか?知りません。え、フージャデンのことですか。フージャデンなら知ってます。でも、恐ろしいところだと聞いていましたので、一度も行ったことはありません。
フージャデン近くの大きな中華料理店には時々行きました。二人乗りの馬車を何台かつなげて行くんですが、フージャデン付近を通るとき、馬車の戸を外から開けられて引っ張り下ろされるかも知れないので、体を固くして隣の人としがみつき合っていた記憶があります」
「紅楼夢」のなかに出てくる架空の中国庭園の名にちなんで大観園と命名されたこの魔窟には、安女郎屋や阿片窟が密集し、人間の本能をそそのかすように、獣姦や死姦さえ自由だった(tw)。
大観園と大きく書かれた石造りの門をくぐると、饐えた臭いが鼻をつき、光の射さない路地の道端に全裸の死体が転がっていようと、誰も見向こうとはしなかった。それどころか、死体の腹を裂いて阿片をつめ、格好の運搬道具にする者さえいた。
戦前、この地獄にも天国にも似た欲望の坩堝をルポした著者不明の奇書中の奇書『魔窟・大観園の解剖』(満洲国警務総局保安局編・原書房・昭和五十七年七月)には、そう書かれている。
『魔窟・大観園の解剖』は、木賃宿の経営形態と宿泊人の素性から“性欲労働者”の性
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P203 里見がアヘンと本格的に関わるようになるのは、昭和十二(一九三七)年、天津の「庸報」社長として上海にやってきた頃だった。里見の目的は、この年の八月に起きた第二次上海事変を取材することだった。
里見遺児の"芳名帳"には、上海時代に知り合った特務関係の軍人が数多く登場する。
楠本実隆、岡田酉次、塩沢清宣、都甲徠は、中支那派遣軍の元特務部員だし、里見と伊達をつないだ岡田芳政は、参謀本部から阿片を管轄する興亜院(後の大東亜省)に出向した男である。
また、前に少しふれた元上海憲兵隊特高課長の林秀澄は里見の葬儀で柩を担いだ男である。
里見に、特務資金調達のための阿片販売をひそかに依頼してきたのは、楠本実隆大佐だった。楠本の部下の特務部員の岡田酉次は、著書の『日中戦争裏方記』(東洋経済新報社・昭和四十九年三月)で、このときのことをおおむね次のように述べている。
上海で特務部が阿片に手を出したとの情報が流れると、当時参謀本部第八課の課長で謀略担当の影佐禎昭大佐は、特務部にこの仕事から手を引かせるため、同文出身で
P204中国人に友人の多い里見甫に命じて中国側の適格者を物色させた。
それが、清朝末大臣をつとめ、日本の財界と提携して大冶鉄山を興し、八幡製鉄などに鉄鉱を供給した盛宣懐の甥で、阿片常習者の盛文頤(相互参照)だった。阿片吸飲者の常として、盛の生活は昼夜の関係が転倒して面会時間が午前の三、四時となり、ホトホト閉口させられた。そのうえ話がときどき誇大妄想的となり、思惟にも混乱を伴う場合が少なくなかった。
戦後、東京の芝公園に中華料理店の「留園」を出して成功した盛毓度が、ここに出てきた盛文頤の直系の縁戚であることは第二章で述べた。里見がアヘンの販売相手として、中国の秘密結社の青幇、紅幇につながる盛文頤を選んだのは、盛が中国社会の隅々までアヘン販売のネットワークを張りめぐらせていたからである。
前述したように、アヘンはタバコのようにどこでも気軽に吸えるものではない。各地に小さな吸煙所が設けられており、そこを牛耳る小ボスの上に、中ボスがいて、さらにその上に組織全体を取り仕切る大ボスがいる。
中国全土の地下深く蟻の巣のようにつくられたそのネットワーク組織を自在に操れるのは、中国社会に深く根をおろした青幇、紅幇のネットワークしかなく、ズブの素人ではまったく手におえるものではなかった。
P205 『日中戦争裏方記』には、前にふれた藤田勇の名前も出てくる。藤田が陸軍省に頼まれ、三井物産を通じて二十万ポンドのアヘンをペルシャから輸入したという、例の話である。だが、一介の日本人"政商"に過ぎない藤田に、中国社会に網の目のように張りめぐらされた阿片販売網をコントロールできるわけがなかった。
また、販売を中国人に委託しようにも、青幇、紅幇との付き合いがない藤田には、それもできない相談だった。藤田の話は半分しか本当ではない。前にそう述べたのは、そういう意味である。実際、藤田自身が後にそれを認めている。昭和二十一年(一九四六)年六月二十七日、極東国際軍事裁判で藤田は検察側に次のような宣誓書を提出している。
「私、藤田勇は良心にかけて左記のことが真実であることを誓います。一九三七年の秋、私は新聞記者として上海におりました。その年の十一月、陸軍中佐(引用者注、その後大佐)長勇が東京三井物産を通じて二○万英ポンドのアヘン購入の委託状を私に手渡しました。
この委託状の名義は楠本(実隆)大佐になっていました。私は東京に帰って、三井物産の輸出入部に行き、私の名で上海駐在の陸軍のためにペルシャから二○万英ポンドのアヘンを買うことを頼みました。三井物産は私の注文を拒みました(中略)。
四月ほど後、三井物産の太田(静夫)氏は三井が注文を受けると申しました。
P206私はこれ以上のことには関係しませんでした。(後略)
つまり藤田は陸軍の依頼で三井物産との間はつないだが、その後どうなったかについては一切知らない、と述べている。
(略、証言の信憑性について)
ペルシャから密輸されたこの膨大な量のアヘンを捌いた人物こそ、里見甫だった。
逆に言うなら、それだけの大仕事をこなすには、中国の裏社会に深く入り込んだ里見のような人物以外には考えられないことだった。
P207 にもかかわらず、藤田がペルシャアヘンの密輸にからんだと周囲に吹聴したのは、大言壮語で政財界を渡り歩いてきた、いかにも小物"政商"らしい自己宣伝癖のせいだったのだろう。もっとも、藤田のような海千山千がタダで三井物産への橋渡しをやったとは思えない。
おそらく、陸軍から三井物産への口利き料として相応のカネを取り、それがまた、藤田の誇大妄想壁で二百万円の謝礼という大層な話に化けたに違いない。『日中戦争裏方記』の記述をよく読むと、ペルシャアヘン密輸入の仕事が、藤田にかわって、途中から里見にシフトしたことがうかがえる。
いいかえれば、里見の登場によって、藤田はアヘンビジネスの世界から外された。
この仕事をやりこなせるのは、陸軍に絶対的な信用をもつ上に、青幇、紅幇にも太い人脈があり、アヘンビジネスに精通した里見のほかにはいなかった。『日中戦争裏方記』にもある通り、その里見に、余人をもってかえがたしとして白羽の矢を立てたのは、参謀本部第八課の課長で、謀略担当の影佐禎昭だった。
(略、里見と影佐の関係)
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P209 特務部が"皇軍"の汚名となる阿片取引の汚れ仕事を里見にまかせたことは、楠本や岡田と同じ特務部員で、やはり、"芳名帳"に名を連ねる元侍従武官の塩沢清宣の談話でも裏づけられている。塩沢は、里美の晩年の秘書を自任していた伊達に、里見の死後、こんな秘話を明かしている。
上海の宏済善堂は、軍が阿片取引に深入りするのを心配した昭和天皇が、しばしば「どうなっているのか?」と御下問になるので、里見にその旨を含ませ、軍の隠れミノとするために発足させた。
塩沢は、阿片工作を密命した影佐を訪ね「阿片工作は陛下のご意志に背いているのだから、絶対外部に漏らさぬように」と釘を刺したという。戦後、天皇の戦争責任が占領軍の間で議論になったとき、天皇が好戦的でなかったことの証拠としてこの話がもちだされたという。
前掲の『われらの生涯のなかの中国』のなかに、里見のアヘン取引が軍上層部の機密中の機密事項だったことを別の面から裏づける岡崎嘉平太の談話証言が載っている。日銀出身の岡崎は大東亜省の参事官として、戦中、上海事務所に勤務していた。
里見は、まず戦争の終わり頃まだおって、やっぱり阿片を売ってた、上海でね。それで大蔵省の事務官で、兼陸軍特務機関嘱託や、興亜院華中連絡部、または陸軍事務嘱託で中国にいた、戦後、大蔵次官になった長沼弘毅とぼくとで、阿片を売るのをやめさせようじゃないかとやってたら、上海におった大佐の塩沢清宣---後で中将、師団長になったが---が手紙をよこして、あれはわれわれがやっているからやめてくれってここに出てくる長沼弘毅は、官僚でありながらシャーロック・ホームズの研究でも知られた文筆家である。
このとき上海特務部が機密費調達のために画策していたのは、前述したペルシャ産阿片の密輸だった。当時、ペルシャ産阿片の取引に関しては、三井物産と三菱商事が激しく鎬を削っていたが、この取引に関しては、里見のいわば露払い役の藤田の口利きもあって、三井側が凱歌をあげた。
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P211 里見とペルシャ産アヘンの関係については、戦後の東京国際軍事裁判で、里見自身が驚くほど正直に証言している。その詳細は後に譲るが、里見はそのなかで、宏済善堂がペルシャ産アヘンで儲けた利益は約二千万ドルにものぼったこと、宏済善堂の手取りマージンはアヘン取引額の八パーセントだったことを明かしている。
宏済善堂がペルシャ阿片であげた二千万ドルという金額は、当時の為替レートで換算し、現在の貨幣価値に直すと、三十兆円近くにのぼる。
第二次世界大戦の火の手がヨーロッパであがると、ペルシャ産阿片のルートは途絶しがちになり、これにかわって蒙彊産阿片が宏済善堂の主要取扱い阿片となった。
"芳名帳"のメンバーで、里見が死んだとき葬儀委員長をつとめた元満州国総務庁次長の古海忠之は、著書の『忘れ得ぬ満州国』(経済往来社・昭和五十三年六月)のなかで、売り捌き先に困った蒙古産阿片の販売を「私の親友里見甫君」に頼んだことを明かしている。古海は甘粕とも格別の親交があった男である。
彼は当時、南京政府直轄の阿片総元売捌をやっていたので、手持ちの阿片を彼のもとに送りつけ、できるだけ高価に買い取ってもらい、なるべく多額の金を得ようとした。(中略)里見甫君は非常に無理をして結局二千万円を払ってくれたP212 三十五トンのアヘンを積んだ船は大連港を出発し、途中アメリカの潜水艦の攻撃を避けるため黄海を一週間ジグザグ航海して、無事上海に着いた。このとき古海から里見に送られた三十五トンの阿片を処理し、見返り物資の工作機械などを調達したのは、これも"芳名帳"に出てくる岩田幸雄だった。
獄中生活十三年の前歴をもつ右翼の岩田は、カーキ色の制服に岩田機関の腕章をつけ、戦闘帽に編上靴というスタイルでテキパキと船積みする若手機関員たちを叱咤激励した。上海に拠点を移した里見の許には、その岩田はじめ、阿片という密に群がる毒蛾のように、いかがわしげな連中ばかり集まってきた。
上海時代に里見と知り合い、"芳名帳"にも連なることになる許斐氏利、児玉誉士夫、笹川良一、阪田誠盛、吉田裕彦(児玉機関副機関長)といった魑魅魍魎の顔ぶれは、さながら、戦前の上海から戦後日本に延びた地下人脈の様相を呈している。
彼らほど有名ではないが、"芳名帳"にある佐々木武行は、あのアル・カポネと親交をもち、上海の賭博場管理を軍から委された人物である。また、国家主義団体・大化会の清水行之助、東亜同文書院出身(十八期)で、上海領事館の副領事をつとめた岩井英一、早撮りで知られた映画監督のマキノ雅広も、"芳名帳"のメンバーである。
岩井英一は、上海を訪れた大川周明の度胸を試そうと、お互いに股間を広げて睾丸の皺を伸ばし、そこになみなみと注いだ酒を飲みあったと自慢する、バカだか利口だかわからない型破り外交官だった。大川周明は後の東京裁判で、東条英機の頭をポカリとやるなどの奇矯な行動で知られた奇人である。
上海での大川の狂気じみた品性下劣なふるまいは、許病ともいわれる東京裁判での異常な行動を連想させる。そんな馬鹿話が臆面もなく書かれた岩井の『回想の上海』(「回想の上海」出版委員会・昭和五十八年八月)に、里見の気前の良さを物語るエピソードが紹介されている。
岩井が恩義ある中国人の社長就任祝金を里見に頼みに行くと、里見はその場で百万円の小切手を渡した。岩井は、それは現在なら五億円くらいの貨幣価値はあったろう、と述べている。
「阿片王」と恐れられた里見の素顔は、"最後のカツドウ屋"といわれた映画監督マキノ雅広の快著ともいうべき回想記『映画渡世・地の巻』(ちくま文庫・平成七年八月)のなかに、生き生きと描かれている。里見とマキノの関係は、戦後、里見は住んでいた東京・成城の家をマキノが買い取るほど深い間柄だった。
二人の関係は、マキノのところに突然かかってきた一本の電話からはじまった。昭和十七年(一九四二)年、マキノが市川猿之助、原節子、高峰秀子らの豪華キャスト
P214 で、「阿片戦争」の制作発表をしてから間もなく、「わしは阿片の親分だ」と言ってかかってきた電話があった。聞くと、里見機関からだという。マキノが電話で言われた通り、里見の東京での定宿になっている帝国ホテルに駆けつけると、初対面の里見は上機嫌で香いった。
「阿片はアングロサクソンの代わりにわしがやっとるんだ」そしてこうつづけた。「マキノ君、二十万やるから、上海へ来い。これはわしの罪滅ぼしだ。たしかに現在の阿片はわしが握っている。しかし、儲けてはいないんだ。『阿片戦争』という映画を上海で撮れ」
里見は、アヘン戦争で大量のアヘンを海中に沈めて敵のイギリスに対抗した林則徐の名前を出し、その林則徐を主人公にした映画をつくってくれ、とも言った。里見の申し出た二十万円はマキノが固辞したため、結局、制作会社の東宝が受け取ることになった。
里見が望んだ上海現地ロケも、スタッフが危険すぎると二の足を踏んだため、実現せずに終わった。
「阿片はアングロサクソンの代わりにわしがやっとるんだ」という里見の台詞は、東条英機が東京裁判の尋問が終わったとき、弁護人の清瀬一郎に語ったといわれる心境を想起させる。東条は清瀬に、「もし希望を言うことが許されるならば、この裁判は昭和三年來の事柄に限って審理しているが、P215阿片戦争までさかのぼって審理されたら、この戦争の原因結果がよくわかると思う」と述べたという。
昭和十八(一九四三)年、マキノは完成して間もない「阿片戦争」のプリントを一本かついで上海に渡った。里見の秘書役だったコールマン髭の小泉武雄も一緒だった。マキノは帝国ホテルで小泉に会って以来、小泉とは不思議に馬が合った。
里見は夕方にならないと起きないと聞いていたので、マキノは適当に時間をつぶしたあと、虹口の乍浦路に面したピアスアパートに里見を訪ねた。ピアスアパートは壮大な建物で、中庭が驚くほど広く、マキノは度肝を抜かれた。同行した小泉が、ピアスアパート全体が里見さんのものです、と言うので、マキノはまた腰を抜かした。
エレベーターで上がり、里見氏自身の部屋はどんなに立派かと思ったら、「みんな同じなんだよ」と里見が言った。ただ、電話が何本もあるのが印象的だった。中国語でかかってくる電話、日本語でかかってくる電話、英語でかかってくる電話…といった具合に分類されているらしい。P216 (略、里見、マキノ、秘書の小泉、徳岡と四人で花札をやる)
書斎にも電話が一本あって、これは満州からかかってくる電話専用だった。日本からかかって来る電話は見えない場所に受話器を隠していた
数日後、マキノは里見や徳岡らと一緒に、里見の防弾ガラス付きの車に乗せられて、蒋介石の伯父さんと称する男を訪ねて行った。そこはレンガの城壁が聳え立ち、三間ほどの堀がある大きな城のような邸宅だった。
城の中に入ったとたんに、大門が自動的に閉じられた。あちこちに小さな家が建っていて、各棟から女の子が出てきて、ワンサと走り寄る。私たちはたちまち女達に囲まれた(中略)。P217二階には、蒋介石の伯父さんという人が低いベッドに寝そべって阿片を吸っていた。マキノがベッドに寝そべっていると、うら若い娘が、次々と小さなカップにコーヒーを入れて持って来た。マキノが飲もうとすると、徳岡がそれを制した。「気に入った娘が来るまでは、全部飲んじゃいけません」それが中国流の女の品定め法らしかった。
里見のおじさんはその蔣介石の伯父さんという人と二言、三言話すと、その隣のベッドに横になった。私たちも同じようにベッドに寝そべった
マキノが何より驚かされたのは、いかにも大物らしい中国人たちが、一様に里見の言うことをよくきくことだった。あるとき、マキノが小泉にそのわけを尋ねると、小泉はこう耳打ちした。
里見のおじさんは、国民政府主席の蒋介石から阿片の権利をあずかり、蒙古で栽培されたケシの花を飛行機で運搬し、満州か中国のどこかで精製した阿片を各地に配給しているんだ。そして、阿片で得た利益の半分を蒋介石の伯父さんという人を通じて蒋介石に渡し、四分の一は日本側中国主席の王精衛(汪兆銘)が取って日本占領地区の統治費用に使い、残りの四分の一の八分を軍部に納めて、あとの二分を里見のおじさんが色々
P218な経費を含めて取っているんだ…・
マキノは同じ話を里見の秘書の徳岡からも聞いた。
蔣介石側にも、これと敵対する王精衛(汪兆銘)側にも、そして日本の軍部にも、アヘン販売で得たあがりを上納する。常識ではおよそ考えられないふるまいである。しかし、里見だったらやりかねないような気がする。
里見は、偏狭なナショナリズムとも、狂気に通じるパセティックな情熱とも、不毛なイデオロギーとも、一切無縁に過ごしてきた男だった。
アヘンがあれば国家はいらない。快楽があれば軍隊はいらない。中国人以上に中国を愛し、ほとんど中国人になりきった里見は、そんなアナーキーな、というより、まつろわぬ者の不逞やくざな思いにとらわれていたのかもしれない。マキノは最後に述べている。
東宝や松竹の映画が、そしてその後大映の妻三郎映画が上海で上映出来るようになったのも、里見氏の金に支えられてのことであった。昭和十七年(一九四二年)二月に日本軍がシンガポールを占領した時、東条英機総理は、里見甫から、蒋介石の金として二十億円貰って、中国との戦争終結をする約束だったのを、東条英機は金だけ受け取って、総理をやめて逃げてしまったのだという話も聞いたP219 妻三郎映画とはいうまでもなく、戦前のスーパースターの坂東妻三郎主演映画のことである。マキノも言っているように、里見の金ばなれのよさは常識はずれだった。里見が阿片で稼いだ資金目当てに、小遣いをたかりにくる輩はあとをたたなかった。
里見はピアスアパートの部屋に風呂敷に包んだ札束をいくつも用意しており、それを目当てに訪ねてくる憲兵、特務機関員から大陸浪人にいたるまで、いつも気前よく呉れてやった。
昭和十七(一九四二)年四月の翼賛選挙に立候補して念願の政治家となった岸信介もその一人だった。前出の伊達によれば、このとき里見は岸に二百万円提供したという。
「鉄道省から上海の華中鉄道に出向していた弟の佐藤栄作が運び屋になって岸に渡したんだ。これは里見自身がから聞いた話だから間違いない」
京都の西陣織職人で、東条英機の私設秘書だった若松華瑶を仲介役とした里見と東条の浅からぬ関係については前述した。元総理の細川護熙の父・細川義貞の日記(昭和十九年十月十六日)に、こんな記述がある。
朝、川崎豊君(注・帝国火災保険取締役支配人)を訪問、談たまたま東条に及びたるに、彼は昨年中華航空にて現金を輸送せるを憲兵隊に挙げられたるも、直に重役以下釈放となりたることあり、これはその金が東条のものなりしを以てなりとのことにて、以前より里見某なるアヘン密売者が、東条に屡々金品を送りたるを知り居るも、恐らく是ならんと(攻略)P220 里見の甥で日本画家の里見嘉一氏によれば、里見と親しかった父親は、里見本人から直接聞いた話として、「戦時中、東条には小遣いを随分やっていた」という話をよくしていたという。
前にも簡単にふれたが、里見は"芳名帳も顔を出す海南島・厚生公司東京事務所責任者の高畠義彦との関係を通じて、海南島阿片にもからんでいる。蒙彊でケシ栽培に携わっていたことからこの仕事に就き、一九九九年に九一歳で亡くなった及川勝三氏は、このとき里見から呼ばれ、こんなやりとりをしたことを、『証言・日中アヘン戦争』(江口圭一著 及川勝三・丹羽郁也[述]岩波ブックレット・平成三年八月)のなかで告白している。
「蒙彊政権ではいくら月給をもらっていた」「四百八十円です」P221「じゃ月千円でどうだ。ただし全部渡すと酒を飲んだりして使ってしまうから、半分は奥さんの方に渡そう」
千円という月給は、この当時の総理大臣の月俸八百円より高い破格の金額である。うなるような札束に囲まれながら、里見はそれで私腹を肥やすようなことはまったくなかった。酒は一滴も飲まず、贅沢といえば、英米製の高級シガレットを絶え間なく吸うくらいのものだった。
誰というなくつけられた「阿片王」という、殺伐としておどろおどろしいニックネームを感じさせる雰囲気はどこにもなかった。まわりの者はみな、親しみさえこめて、「里見のオッチャン」、「里見のオッサン」と呼んだ。
見るからにいかつい若い衆をいつも強面で従え、昨日陸軍の格好をしていたかと思えば、今日海軍の帽子をかぶる変わり身の早さと、軍の威光をカサに強奪同然の物資調達をする手口の悪辣さで、誰からも鼻つまみ者だった児玉誉士夫とは何から何まで対照的だった。児玉は里見のところに金をせびりにきた。
前出の岡田芳政は、かつて部下として使ったことがある児玉について貴重な手記(未発表)を残している。そこにはおよそ次のようなことが書かれている。
上官の臼井(茂樹)中佐の命令で、共同租界の警備責任者だったイギリス人のケジック暗殺を児玉に依頼し、児玉に十万円と拳銃十挺を渡した。だが、児玉は暗殺を果たせず、
P222ケジックの部屋の前で手下に切腹のマネごとをさせる猿芝居を打ってお茶をにごした。
その後、児玉はメキメキ頭角を現してきた。その裏には、憲兵隊長に会社のビュイックを贈るなどの贈賄工作があった。そのうち、児玉が根城にしていたブロードウェイマンションで海軍の特務に関わっていた水田機関の水田(光義)が射殺される事件が起きた。
水田の後釜には児玉が座ったので、水田を殺したのは児玉ではないか、という噂が上海中に広がった。
戦後、児玉は上海で荒稼ぎした金で自由党を再建したが、児玉から資金を提供された三木武吉は、「嫌なヤツだよ。のこのこやってきて、初対面なのに肩をもみましょうか、というんだ」と言っていた。
児玉の熱海の別荘は、元は上海で殺された水田の持ち物だった。そこには水田の位牌を祀った部屋があり、そこに泊まると必ずうなされるので一緒に泊まってくれないか、という話を児玉の側近から聞いた。
あるとき里見に児玉評を聞いたことがある。「これといった取柄はないが、勇気のあるのがいい」。それが里見の児玉評だった…。
里見のジャーナリスト時代について最もよく知る東亜同文書院後輩の佐々木健児は、P223前掲の遺稿集のなかで、里見の上海時代の驚くべきエピソードを紹介している。里見が本格的に阿片に関わる少し前の「庸報」時代のことである。
昭和十二(一九三七)年八月、第二次上海事変が勃発したとき、日本軍は敵の経済を撹乱するため、ニセ札を大量につくる謀略工作を計画した。ところが、いざニセ札が刷りあがりテストをやろうという段になると、みな怖じ気づいて引き受けようとする者が誰もでてこない。
そこで手をあげたのが、里見だった。里見がフランス租界のハイアライ遊技場に行って試すと、一回目は無事通ったが、二度目には見破られて領事館警察に突き出され、ブタ箱に叩き込まれる羽目になった。しかし、取り調べがはじまっても、里見は「オレ個人でやったんだよ」とシラを切り通したので、警察もやむなく里見を釈放した。
この一件で陸軍内部での里見株は一段とあがった。その頃、第二次上海事変の戦闘は上海北方の閘北で膠着状態に陥り、日本軍は攻めあぐねていた。強行すればいたずらに犠牲が多くなるばかりなので、ここは外交交渉で行くほかないという結論になった。
軍は考えた末に支那側に知り合いの多い里見に折衝役の白羽の矢を立ててきた。里見は伝手を求めてフランス租界で敵将とひそかに会い、折衝の結果、相応の大金を代償に支払うという条件で支那軍総退却の合意をとりつけた。
P224 しかし、この約束に一杯の不安を感じた日本軍側は、代償金の前渡しを例のニセ札で行おうと言いはじめた。里見はこれに烈火のごとく怒り、軍首脳を怒鳴りつけた。「何を言うか。これだけのことをのませておきながら、それに報いるのにニセ札とは何事か。そんなことで武士の一存が立つか」
里見のこの一言で信義は守られ、かねてから打ち合わせ通り、敵は約束の日時に小銃を空に向けて発砲し、これを合図に総退却をはじめた。そして呼応した日本軍の総攻撃で、難攻の戦線もついに破れた。
常識的には考えられない話である。しかし、支那事変初期にあってはこうしたこうした戦場謀略は必ずしも珍しいことではなかった。元陸軍少将の今井武夫は『昭和の謀略』(朝日ソノラマ・昭和六十年七月)のなかで、こうした例をいくつかあげている。
…石家庄攻撃に際しても、第一軍は十月八日攻撃を始めたが、万福鱗指揮下の第五十三師は、その前日退却を始めたから、敵陣地は予定より早く崩壊してしまった(中略)。その後においても、華北の旧軍閥将領は、単に万福鱗に限らず、ひそかに日本軍に款を通じてくるものがあったが、当時北支那方面軍はこれら中国軍の帰順を認めず、軍閥の帰順工作を禁じたため、爾後そのあとを絶つようになった。P225 一般に支那事変初期においては、中国軍閥、あるいは雑軍と日本軍との間には、各地でしばしば前記と同様な接触交渉が行われたことが少なくなかった。里見の戦場工作もおそらくこれに類したものだった。佐々木は述べている。
…敵の将軍に裏切り行為をさせたのだから、こちらも誠心誠意でなかればいけない、というのが里見さんの考え方であった。どうせゴマかすのだからニセ札で---なんていうことは、絶対にできぬ実に奇麗な男だった「軍人どもが謀略を企んでも、この通りミミッチイのだから、本当の謀略など出来るものではなかった」という佐々木の結びの言葉は、里見の胸中を代弁するだけでなく、一匹狼で生きてきた里見という男の魅力も魔力もあぶりだしている。
阿片という悪の華の世界にどっぷり浸かりながら、不思議なことに里見には、このとき日本軍がとろうとした組織悪のいじましさも、権力にたかることでしか生きられない児玉のような国士気どりのさもしさもない(→児玉関連『東京アンダーワールド』P107、『軍隊なき占領』P183)。
「人は組織をつくるが、組織は人をつくらない」
P226 里見は晩年、秘書役の伊達によく、そう言ったという。阿片を通じて中国と人間を知りすぎた里見は、中国も人間も知らなすぎた日本軍の敗退を、早くもこの時点で感じとっていたのだろうか。
第七章 風雲の上海 P227-274
P250
P251 当時の上海を象徴する有名人に、鄭蘋如(鄭蘋茹)(相互参照)という女スパイがいた(tw、tw)。中国人司法官の父と日本人の母の間に生まれた鄭蘋如(鄭蘋茹)は、人並外れた美貌の持ち主だった。鄭蘋如(鄭蘋茹)はその類まれな容姿で、時の日本国総理大臣・近衛文麿の息子で、当時、東亜同文書院に学生主事として赴任中だった近衛文隆に近づいた。長身でハンサムボーイの近衛文隆は、プリンストン大学留学中からプレイボーイとして知られていた。鄭蘋如(鄭蘋茹)と近衛文隆の美男美女カップルが夜な夜な上海の盛り場を遊び歩く姿は、日本政府を慌てさせた。二人の仲が日中関係悪化の原因となることを恐れた近衛家では、文隆を急遽帰国させる強硬手段に出た。
P252 鄭蘋如(鄭蘋茹)はその後も、敵国日本の情報をとるため、日本側諜報機関のジェスフィールド76号のボスの丁黙邨に色仕掛けで接触し、丁黙邨を危うくテロの凶弾に倒れる危地に陥れた。この辺りの経緯は二○○八年二月に公開されたトニーレオン主演の「ラスト、コーション」に官能的に描かれている。(参照→鄭蘋如(鄭蘋茹))
それから間もなく鄭蘋如(鄭蘋茹)は逮捕され、ジェスフィールド76号側の館に囚われの身となった。その最期を見取ったのは、すでに何度も紹介してきた上海憲兵隊特高課長の林秀澄だった。林はこの美女の最期について、こんな生々しい証言を残している。
死刑執行官は林子江という中国人官吏でした。林は監禁中の鄭蘋如(鄭蘋茹)に「鄭さん、こんな屋敷にいつまでもおっても面白くないだろ。きょうは特別に君を映画に連れて行ってやろう。だから早く支度しなさい」と言って表に連れ出した。鄭蘋如(鄭蘋茹)はおしゃれな女性でしたから、金色の靴を履き、めかしこんで林の用意した車に乗り込んだ。
車が上海の繁華街を抜け、郊外に差しかかると、さすがの鄭蘋如(鄭蘋茹)も気がついて狂ったように泣き叫び始めたそうです。私は前もって連絡を受け、刑場に先回りしていましたので、こうゆう状況はすべて憲兵から聞いております。車が赤土だらけの刑場に着きますと、確かに鄭蘋如(鄭蘋茹)の泣き声が聞こえました。鄭蘋如(鄭蘋茹)は二人の支那人に両脇を支えられて車からひきずりおろされ、あらかじめ掘ってあった真四角な濠の前に座らされました。
執行する直前、鄭蘋如(鄭蘋茹)は中国語で何か言っていたようです。後から通訳に聞くと、顔を撃つのだけはやめて、と言ったそうです。鄭蘋如(鄭蘋茹)を坐らせた後ろで死刑宣告分を読みあげ、それが終わってすぐ、拳銃で後頭部を撃ちました。ダーンという音が鳴ったかと思うと、体が前に吹っ飛んで濠のなかに入った。ところが、完全に入りきれないで金色の靴を履いた足が濠の縁にひっかかった。それを支那人たちが濠のなかに引きずりこみ、まわりの赤土で埋めて処刑は終わりました。
その帰り、車の外を通る婦人を一人ずつ眺めるともなく眺めていたんですが、そのとき初めて、ああ、鄭蘋如(鄭蘋茹)というのはたしかに美人だったんだな、上海であれほど美しい女はいなかったんだな、ということをあらためて確認したような気がいたしました・・・。
第十章 家系図の迷路 P424-521
P424 "男装の麗人"梅村淳の人生は、秘密めいた物語に満ちている。その養母となった梅村うたの生涯は、それにも増してミステリアスな謎に包まれている。うたは、自分が戦中を過ごした満州の深い闇のなかに溶け込んでしまったかのように、生きた証を消していた。
P517 この世の不幸を一身に背負って生きてきたようなうたにとって、この世ならぬ化外に生きてきた里見は唯一、身も心もゆだねられる存在だったのかもしれない。男親の愛情も知らずに育ち、男根願望をもったまま背徳の愛に走った淳にとっても里見はそうした俗愛を超越する崇拝の対象だったのかもしれない。
戦後、上海から引き揚げ里見が住んだ世田谷・成城の家で美女二人と"姉妹どんぶり"の関係にあったことは、だいぶ前に述べた。そうしたことから考えても、里見は皇帝溥儀拉致事件に深く絡む満州湯崗子温泉(相互参照)・対翠閣女将の梅村うたと、その養女で阿片の運び屋だった男装の麗人の梅村淳の二人をP518 相手にする"母娘どんぶり"の関係だった可能性はきわめて高い。(中略)
里見の女性関係の乱脈ぶりは、明らかに常軌を逸している。不思議なのは、それでいて里見の女性関係が脂ぎっては見えず、風鈴が風にでも鳴るように、涼やかにさえ見えることである。それもアヘン世界に生きてきた里見の、善悪を超えた幻惑の魔力だったのだろうか。
(あとがき)
P554 墓石に刻まれた「里見家之墓」の文字は、里見の戦後の逼塞した生活とは対照的に、巣鴨プリズンを出所後、総理大臣にまで登りつめた岸信介の筆になるものである。その脇の苔むした墓碑銘には、里見の数奇な生涯を暗示するかのような撰文が刻まれ、松籟の音だけが時折耳をうつ風のなかに、誰に語りかけるともなく佇んでいる。
里見は、アヘンをどんな気持ちで売り捌いてきたのか、あの戦争をどんな気持ちで眺めていたのか。そして、戦後という時代をどんな気持ちで生きてきたのか。そう尋ねても、われわれはもうその答えを肉声で聞く機会を永遠に失った。
われわれにいまできるのは、風雨に摩滅してよく読めない碑文のなかに、満州の夜と霧の向こう側に姿を消してしまった里見の姿を想像することだけである。
凡俗に堕ちて 凡俗を超え
名利を追って 名利を絶つ
流れに従って 波を揚げ
其の逝く処を知らず
P560
P562 本書『阿片王』は、「満州の夜と霧」の第一部として書かれたものである。ことし五月末には「満州の夜と霧」の第二部として『甘粕正彦 乱心の曠野』を刊行した。こうした点を勘案して、里見甫と甘粕正彦の共通点と相違点を簡単にあげておきたい(tw)。
二人はほぼ同じ時期(甘粕は明治二十四年生まれ、里見は明治二十九年生まれ)に生き、同じ時期に中国大陸で暗躍した。その活動分野が、闇世界に深く関わっていたことも共通している。里見も甘粕も策謀渦巻く大陸で生き生きと活動している。
しかし、二人のパーソナリティはまったく違う。一言で言うなら、里見が徹底したエピキュリアン(快楽主義者)だったのに対し、甘粕の生活は痛々しいほどのストイシズム(禁欲主義)に貫かれている。
この差が、里見の評伝をピカレスク(悪漢小説)風にさせ、甘粕の評伝をビルドゥングスロマン(教養小説)の色彩に染めている。映画にアナロジーすれば、里見の人生はフェリーニの「8½」を思わせ、甘粕の人生はコッポラの「地獄の黙示録」を思わせる(tw)。
これは甘粕が"主義者殺し"の烙印をひとり負って自決した潔癖すぎる元エリート憲兵であり、里見が中国人以上に自由を満喫する日本人離れした市井のバガボンド(放浪者)だったことに起因している。ただし、二人とも金銭欲や名誉欲、出世欲に恬淡としていた点では共通していた。これが軍をして二人を重用する結果となった。
里見が阿片密売に従事し、甘粕が世界的謀略をめぐらした満州帝国は、日本近現代史上最大の妄想の産物だった。これが、建国からわずか十三年でこの地上から消滅した満州に対する私の基本的認識である。
(以下略)
P564/ 566
関連
・『甘粕正彦 乱心の曠野』(参照)
・『満州裏史』甘粕正彦と岸信介が背負ったもの(参照)