(上)
第一章 第二次大戦前奏曲 P27-70
P026-056
真珠湾の真実 P27-30
P27一九四一年(昭和十六年)十二月七日(日本では八日未明)、日本軍の真珠湾攻撃が開始された。この攻撃によってアメリカ国内の主戦派と孤立派は、アメリカの第二次大戦への参加について賛否の結論をえないまま、突然その大論争に終止符をうった。
アメリカ人にとって、ひとたび他国から攻撃されたからには、もはやアメリカが参戦すべきか否かを議論する必要はなかったからである。この日、われわれアメリカ国民は、いまや、好むと好まざるとにかかわらず、太平洋において戦争に突入したのである。
日本が真珠湾を攻撃すると、日本と日独伊三国同盟を締結していたドイツは、アメリカに対して宣戦を布告し、それまでアメリカをヨーロッパ戦争に介入させないためにとっていた、いろいろな手段をいっさい放棄してしまった。
そこで、アメリカ政府は首脳はたちは、イギリスおよびソ連の首脳たちと同様、真剣になってこの戦争にあたることとなった。
日本の真珠湾攻撃は、アメリカによって計画的に挑発されたものであるという事実は、真珠湾の惨敗と、それにひきつづきフィリピンを失陥したことにより、おおいかくされてしまった(tw)。
アメリカ国民をヨーロッパ戦争に裏口から参戦させようとしていた当時のアメリカ政府は、P28フィリピンのアメリカ守備隊を日本軍の犠牲に供するもやむをえない、と考えていた。
アメリカ国内の反戦派の人たちは、ルーズベルトがドイツに対しては明らかに戦時中立を犯す行動をとり、また日本に対しては最後通告をつきつけて、なんとかしてアメリカを参戦させようとしていたことは、じゅうぶんに承知していた。
だが、反戦派の人たちは、当時、アメリカで共産主義国ソ連の存在がアメリカにとり、少なくともナチスドイツと同じ脅威を与えると認識していた人びとといっしょになって、アメリカが戦争にまきこまれないように努力をつづけていた。
第二次大戦はなぜ起こったかについて、われわれは当時どんな意見をいだいていたにせよ、日本軍の真珠湾攻撃により、いまやアメリカ国民は勝利のために全国力を結集して戦い、この対戦がなぜ勃発したかという議論は、後世の史家の手にゆだねなければならない、と考えるようになった。
また、ルーズベルト国民に対して、二度とアメリカの子弟が外国の戦場へ送られることはないであろう、と何度もくりかえし約束していた。しかし、第二次大戦の進展とともに、アメリカの大生産力が全面的勝利を博するために動員され、アメリカの子弟が再び世界各地の戦場に送られ、戦死するという失望的事実が生じた。
いま、われわれは当時を回想し、歴史の流れを考察するとき、かつてヒトラーが制服を夢見た地域よりもはるかに広大な地域に、全体主義的な専制政治を台頭させる結果となった第二次大戦に、アメリカがなぜ、また、どのようにして参戦したかを、検討しなければならない。
この二十世紀のもっとも悲惨な時代に、主要な役割を演じた人びとの伝記や覚え書きが、P30出版され、また米・英・独の公式文書が発表されたりしたので、日本軍の真珠湾攻撃以前の反戦派の人たちによってわずかに想像されていた事柄が、いまや、これを知ろうとする者にはだれでも、はっきりと知ることができるようになった。
そこで私は、第二次大戦の結果、アメリカの安全保障が大戦以前よりも一段と険悪な状態になったけれども、なぜ、このような事態を招いたかを説明する。また、一九一四~一八年の第一次大戦終了後にひきつづいて起こった大戦真相の暴露時代に相当する期間が、第二次大戦後には存在しなかったことを指摘したい。
一九二〇年代を回想してみよう。当時は大西洋をはさんで欧米両大陸の一般大衆は、第一次大戦中の宣伝とは矛盾する事実~大戦の遠因、近因およびその結果に関する書籍、記事、演説~の大洪水により第一次大戦に対して、すっかり幻滅を感じさせられてしまった。
第一次大戦が終わって十年もたたないうちに、ドイツ一国が戦争犯罪人であったという神話が粉砕され、第一次大戦勃発の真相が明らかにされてきた(tw)。そして懲罰的な意味をもったベルサイユ平和条約の悪い結果が、世界中に認識されてきた(『赤い盾(上)』P284)。
しかし、現在はどうか。第二次大戦後すでに十数年の歳月が流れているが、その間アメリカはかつて第二次大戦中の<勇敢なる同盟国>であったソ連との冷戦に終始し、これまで第二次大戦の真の原因は何であったかについては、第一次大戦後のそれに比較されるような探求も行われていない。
そしてまた、現在の危機をはらんだ世界情勢は、主としてアメリカが招いたものであるということも、国民の間に認識されていない。
両巨頭の誤算と専横 P31-34
P31ここで一つの仮説をたてれば、アメリカが第二次大戦に参戦していなかったならば、また少なくとも独ソ両国がともに疲れはてるまで参戦を見合わせていたならば、ソ連が現在、地球の半分近くの広大な地域に君臨するような事態にはならなかったであろうということになるが、それを認めようとする者さえきわめてまれである。
もしもアメリカが、フーバー元大統領やタフト上院議員その他の愛国者たちが熱心に提唱した政策を支持していたとしたら、アメリカはその参戦によって共産主義国ソ連に無条件援助を与えるかわりに、公正で永続的な世界平和を強力に進められることが明確になるまで、おそらくは第二次大戦に参加するのを回避していたに違いない(相互参照『鮎川義介と経済的国際主義』P226、『億万長者はハリウッドを殺す(上)』P208)。
さらに、アメリカ参戦後もルーズベルトとチャーチルが、ヨーロッパ大陸がの勢力均衡を破るようなドイツ抹殺を企図していなかったならば、アメリカがこの大戦のために払った努力は、むだにはならなかったかもしれない。
われわれの目標は、モンロー主義の維持とヨーロッパとアジアにおける勢力均衡の復活でなければならなかった。これはイギリスにとっても同様であったろう。イギリスの国家的利益は、一時的な敵国の抹殺どころか、ソ連の領土、勢力、影響力を途方もなく増大する結果に終わった第二次大戦の<勝利>によって、取り返しがつかない痛手をこうむる結果になってしまった。
P32ウィンストン・チャーチルは「イギリス帝国の崩壊を主宰するため、私はイギリスの首相となったのではない」と言明していたが、その彼がイギリスを現在の第二流国の状態に急転落下させるような諸政策をとったことは、実に歴史の運命の大きな皮肉といわねばなるまい。
チャーチルの数冊の著書をみても、第二次大戦がみじめな結果に終わったことについて、彼自身の責任も認めていなければ、また、ルーズベルトの責任も追及していない。そして、なお、その著『第二次大戦回顧録』の序文のなかで、彼は次のように述べている。
「何百万もの人びとが、全力を尽くして戦い、戦争の犠牲となり、そして大義名分の勝利をかち得たのちにおいても、われわれはなお、平和、または安全保障を得ることができず、さらに、われわれがこれまで克服してきた危険な状態より、さらにいっそう険悪な状態に現在おかれているという事実によって、人類は、その悲劇の極に達している。」まったくチャーチルは、彼のおかしたあやまちを認識する聡明さを欠いているのか、あるいは、そのあやまちを認め、それは自分の責任であったと、みずから認めるだけの大度量を持ち合わせていないように思われる。
チャーチルは、平時、戦時を通じて、そのすぐれた政略によって、イギリスを世界の最強国に仕立てあげてきた。イギリスの政治家の由緒ある家柄に生まれ、その伝統を受けついでいたにもかかわらず、彼の祖先たちの英知と政治家としての能力を欠いていたということは、実に奇怪なことである。
チャーチルは、三百年以上にわたってイギリスの一貫した政策目標であった、ヨーロッパ大陸の勢力均衡を再建しようとせずに、ドイツの破壊を企図したが、結局ソ連にヨーロッパ支配の機会を与えてしまった。
チャーチルが彼の祖先の金言を無視して、自分の感情で自分の理性を支配するような愚行をおかしたことは、ジョージ・ワシントンが『訣別の辞』において、アメリカ合衆国の国策遂行にあたり、大統領となるべき人びとに与えた忠告を、ルーズベルトが無視したことと好一対をなしている。ワシントンは、その『訣別の辞』のなかで次のように述べている。
「…(略)…国家施策を実施するにあたってもっとも大切なことは、ある特定の国々に対して永久的な根深い反感をいだき、他の国々に対しては熱烈な愛着を感ずるようなことが、あってはならないということである。ルーズベルトは、時の試練をへたアメリカ建国の父祖たちの、多くの金言を無視して、彼自身が大いに憎悪していた独裁者と同様に、アメリカの政治を自分の思うように支配した。また、彼は、スターリンは<彼の友人>であり、あるいは、友人となりうるものであり、そしてソ連は、アメリカの永久的な同盟国、あるいは永久的な同盟国となりうる国である、と想像した。
そして、そのかわりに、すべての国に対して公正かつ友好的な感情をもつことが、なによりも重要である。他国に対して、常習的に好悪の感情をいだく国は、多少なりとも、すでにその相手国の奴隷となっているのである。
これは、その国が他国に対していだく好悪の感情のとりこになることであって、この好悪の感情は、好悪二つのうち、そのいずれもが自国の義務と利益とを見失わせるにじゅうぶんであり、…(略)…国家間の平和は、この好悪の感情の犠牲となって失われることがしばしばある。
好意をいだく国に対して同情をもつことによって、実際には、自国とその相手国との間には、なんらの共通利益が存在しないのに、あたかも存在するかのように考えがちとなる。一方、他の国に対しては憎悪の感情を深め、そこにはじゅうぶんな動機も正当性もないのに、自国をかりたて、常日ごろから敬意をいだいている国との闘争にP34さそいこむことになる。…(略)…」
アメリカ国民の大多数は、第一次大戦の約束がほごにされたことを思い出し、本能的に、または、過去の経験からみて、第二次大戦がなんらよい結果をもたらすものではなく、おそらく第二次大戦後は戦前以上に悲惨な状態となるかもしれないと考えて、第二次大戦への参加に反対であったことは、ほとんど疑う余地がない、
こうしてワシントンの遺訓はたびたび無視されたが、アメリカ国民がワシントンの遺訓を守ろうとしていたことは明らかだった。それはアメリカ国民が、ルーズベルトの選挙公約を支持していたこと、アメリカ軍のヨーロッパ派遣によって生ずる悲惨な結果を警告していたチャールズ・リンドバーグ大佐などの意見を支持していたこと、この二点から考えても明瞭であった。
参戦に反対する米国民 P34-40
一九二〇年~三〇年代のだ一次大戦の真相暴露時代に生まれ、または成長した人びとは、P35さらにいま一度、世界戦争に加わろうとはしなかった。第一大戦の結果、ロシアに共産主義の独裁制が出現し、一方では、大戦後の懲罰的な平和条約によって、ドイツの民主主義の成長は挫折し、とどのつまりはワイマール共和国の崩壊となって、ドイツにヒトラーのナチス独裁制が台頭する気運をつくった。
またベルサイユ条約は、東ヨーロッパの国々を自立できない弱小国に分割した。これら弱小国の国民たちは、ウィルソン主義によって、たがいに対立する小国に分離独立させられ、第一次大戦前のオーストリア・ハンガリー帝国の領土であった当時よりも、国民の生活状態は悪化し、自由はさらに制限され、国民生活のすみずみまで圧迫が加わった。
フランスがドイツを"封じこめる"ために、これら東ヨーロッパ諸国を利用しようとしたので、それによって、これら諸国の人びとがなんらかの有利な地位にたち、その独立がおびやかされなかったこと、はたしてだれが言いうるであろうか。
"世界を民主主義にとって安全なものとする"ための第二回目の戦争であった第二次大戦は、どうもよりよい結果をもたらさなかったようであり、この戦争は、西欧文明にとって悲劇であったことが、おそらく証明されるであろう。
アメリカの反戦派の人びとが唱えていた政策は、イギリスその他の世界諸国にとっても、当時、アメリカで有力であった親英派と主戦派の人びとがかかげていた政策よりも、より有益であったことは、いまではほとんど疑う余地がないようである。
リンドバーグ大佐が非難される原因となった、一九四一年年四月二十三日に行った有名な演説の要旨は、次のとおりである。
P36「私は、もしイギリス帝国が崩壊するような事態が起これば、それは全世界にとっての悲劇であろう、と確信していることについては、以前から申しあげてきているところであり、これからもまた言明するつもりである。私がこのヨーロッパ戦争の起こるまえから、この戦争に反対を唱え、紛争を話し合いで平和的に解決するよう主張したおもな理由の一つは、これである。ドイツがソ連に対し攻撃を開始したのち、共産主義についての知識を持っていた人びとは、アメリカがヨーロッパ戦争に介入すれば、チャーチルが遅ればせながらも、<第二次大戦前よりも、さらに険悪な状態>と認識するようになった事態にたち足るであろう、と予想していた。
私は、イギリスとフランスがこの戦争で勝利をおさめるじゅうぶんな見込みがあるとは、考えていなかった。すでに、フランスは敗北し、また、最近二、三ヵ月の宣伝と混乱にもかかわらず、イギリスが負けつつあることは、いまや明らかである。
この事実は、イギリス政府さえも認めている、と私は信じている。しかしイギリスは、残された最後の死に物狂いの計画を一つもっている。それは、彼らがアメリカを説きふせて、アメリカ軍をヨーロッパに遠征させ、イギリスといっしょになって、このヨーロッパ戦争の大失策をアメリカに軍事的にも、財政的にも、分担させるようにできるかもしれない、と考えていることである。
私は、イギリスがこうした希望をいだいたり、アメリカの援助を求めようとするのは、無理のないものと思っている。しかし、ポーランドからギリシャまでイギリスに味方した国のすべてが、敗北のうきめにあうという情勢のもとでイギリスが宣戦布告した事実を、いまやわれわれは知っている。
戦争に死にもの狂いのあまり、イギリスは与えることもできない武力援助を、P37それら諸国のすべてに約束したことも、われわれにはわかっている。イギリスが、自国の戦備、軍事力および戦況について、アメリカをごまかしたように、ポーランドからギリシャにいたるイギリスに味方した諸国をごまかしたことを、われわれは承知している。」
たとえば、エール大学のニコラス・スパイクマン教授は、真珠湾の攻撃直後に出版した『世界政治におけるアメリカの戦略=アメリカと勢力均衡』(America's Strategy in World politics:The United States and the Balance of Power)と題する著書のなかで「ドイツと日本を抹殺することは、ヨーロッパ大陸をソ連の支配にまかすことになるだろう」といい、「ウラル山脈から北海までのソ連は、北海からウラルにひろがるドイツにくらべて、大きな改善とはなりえない」と述べている。
アメリカのソ連援助は悲惨な結果をもたらすであろう、聡明にも予想していた人びとのなかには、フーバー元大統領がいた。一九四一年六月、ヒトラーがソ連に開戦した結果、イギリスがドイツも攻撃から比較的に安全であったころ、フーバー元大統領は「これまでの歴史のなかでの大きな笑いぐさは、アメリカがソ連を援助したことであろう」といっていたP38(このフーバーの演説は、一九五四年八月十日、彼が行った放送演説で記憶を喚起されたとおりである)。
フーバーは、独ソ両国をたがいに戦わせるべきであり、アメリカのソ連援助は「共産主義を世界じゅうにまき広げることになるだろう」と主張した(tw)。だから、アメリカがヨーロッパ戦争に介入しなければ、アメリカの手で<恒久的な世界平和>がもたらされるときが訪れるであろう、とも予言した。
ルーズベルトは、こうしたフーバーの予言にはいっさい耳をかたむけなかった。また、ルーズベルトは、アメリカ国民が参戦に気乗りうすで参戦反対の立場にあるのに、なんとかしてアメリカ国民を戦争に介入させよう、と決心していた。
武器貸与法(相参,相参)(一九四一年三月成立)から一九四一年八月の大西洋会談にいたる間、ルーズベルトは戦時国際法の中立違反や、アメリカの議会、国民の意志とは反対の行動をとって、あるときは堂々と正面からやるかと思えば、あるいは裏面工作を行なった。
たとえば、イギリスを援助するためにアメリカがとった<戦争一歩てまえ>の行動につづいて、「独伊の敵性軍を攻撃撃破すべし」と、アメリカ大西洋艦隊あての一九四一年年八月二十五日付け秘密命令が発せられた。
この秘密命令は、大西洋会談の二週間後に出されたものである。この会談において、ルーズベルトは「余は宣戦しないかもしっれないが、戦争はするかもしれない。もし、議会に宣戦するようにと要請すれば、彼らはそれについて三ヵ月も議論するかもしれない」と述べている。
P39アメリカ駆逐艦がドイツ潜水艦を攻撃したグリア号事件ののち、ルーズベルトは九月十一日、「ドイツ潜水艦は見つけしだい攻撃せよ」という演説を行った。彼はこの演説で、ドイツ潜水艦と通商破壊艦を<ガラガラヘビ>ときめつけ「ガラガラヘビがカマ首を持ちあげるのを見つけたら、飛びかかるのを待つまでもなく、ただちにたたきつぶせ」と述べ「今後、独伊の艦船でアメリカの設定した防衛水域に立ち入るものは、それによってこうむる損害は彼ら自身の責任である」と言明している。
もしヒトラーが、アメリカの戦争挑発行為に乗せられないように、確固たる態度をとっていなかったなら、アメリカは日本の真珠湾攻撃の数ヵ月前に、公然と戦争に介入していたであろう。
当時のイタリア外相チアノ伯は、戦後に出版された日記のなかで「ドイツはアメリカの参戦を早めたり、または参戦の原因となるようなことはなにひとつしないように、固く決心していた」と述べている。
これに反してルーズベルトは、将来、アメリカが攻撃されるという恐怖を持ち出して、議会を自分のかたよった行動に合致するように指導した。アメリカ国民はニュールンベルグ軍事裁判のさい、ドイツの秘密文書を徹底的に調べた結果、ドイツはアメリカ攻撃計画をなんら持っていなかったことを承知している。
アメリカ攻撃どころか、何トンにも上る膨大な記録文書を調べたところでは、ヒトラーはアメリカとの戦争を回避するために、全力を尽くしていたことが判明している。ドイツは、その同盟国である日本によって対米戦を強制されるまでは、アメリカに対して宣戦しなかった。
P40イギリスのすぐれた戦史研究家であるJ・F・C・フューラー陸軍少将は、一九五六年『西側世界の歴史』(A military History of the WesternWorld)のなかで次のように述べている。
「アメリカ軍の第二次ヨーロッパ派遣は、第一次派遣のときよりも悲惨な結果に終わった。このときの戦争挑発者はドイツ皇帝ではなくて、アメリカ大統領であった。アメリカ大統領の国家社会主義に対する嫌悪の情と権力欲のため、アメリカ国民はヨーロッパ戦争に投入され、そして再びヨーロッパ戦争が世界大戦に発展したのである。ルーズベルトは、ドイツに対米宣戦させようとした極端な挑発行為に失敗し、アメリカ国民の大多数の参戦反対の決意も固く、アメリカ議会で宣戦布告の同意が得られる見通しもなかったので、彼は目を太平洋に転じた。
押収したドイツ公文書によれば、ヒトラーが西半球を攻撃を計画していたという、ルーズベルトはの主張を証拠だてるものはなく、アメリカが参戦するまで、対米戦の回避はヒトラーの希望の一つであったことはきわめて明白である。」
実際、日本を強制して対米宣戦を布告させるよう、外交的、経済的に日本を圧迫することは可能な状況であったので、もしそうするならば、日本はドイツほど、がまんづよくないと思われた。
これに対し日本は、その存在を危険にさらさずには後退できないまでに、あまりにも深く日中事変に突入していた。アメリカは、日本が面目をつぶさない限り現に保持している地点から撤退できない、という妥協の余地のまったくない提案を日本側におしつけた。
ルーズベルトの戦争挑発 P41-44
P41一九四一年七月二十六日、ルーズベルトは、日本に対して経済的な制裁を加えたが、この制裁は、日中事変の勃発当初であったなら中国をたすけたかもしれなかったが、一九四一年七月では、もはや中国にとってなんの利益にもならなかった。
いまや、こうした制裁は、中国を援助するためではなく、日本を戦争に挑発するためであり、イギリスの勢力を維持するために、どうしたらアメリカを参戦させられるかという、ルーズベルトのジレンマを解決するために使用された。
チャーチルは、その著『大同盟』(The Grand Alliance)の大西洋会談の説明で、一九四一年八月十二日、本国に打電した電報を引用して次のように書いている。
「われわれは、大統領声明の骨子となる、日本に対する警告にとくに強い調子をもりこんだ。人びとは、そのきびしい語調が、国務省の手でいつものように柔らげられはしないかと心配した。しかしルーズベルトは、その声明にはきびしい言葉を使って日本に警告する、とキッパリと約束してくれた。」さらにチャーチルは、メンジス豪首相あてのメッセージのなかで、「ルーズベルト大統領は協定事項に従って、日本に対して警告を発すると約束してくれた。…(略)…貴下は、ル大統領の警告はソ連攻撃のことにも言及していることに注目されたい」と述べている。
対日戦でオーストラリアは危険にさらされるので、このルーズベルト大統領の日本に対する最後P42通告によって日本を「しばらくおとなしくさせることだろう」とチャーチルはメンジス首相にかさねて保証したが、それが誤りであったことはいうまでもない。
ルーズベルトの声明が、このような目的で出されたものではなかったことは、ルーズベルトが十一月二十五日、「日本は来週月曜日までに、アメリカを攻撃するものと思う」と述べたことで明瞭になった。
のちになって、スチムソン陸軍長官は「どのようにしたら日本を追いつめて第一弾を発射させ、しかもアメリカはそれによって損害を受けないようにできるか、ということが問題であった」といっている(訳注2)。
アメリカ国民を戦争にかりたてていた全期間にわたって、アメリカ国民の全部をだましつづけることは、ルーズベルトと側近者にとって不可能なことがわかった。
しかし、民主主義の旗手である、と主張していたフランクリン・D・ルーズベルトは、彼がイギリスと結んだ秘密の約束事項については、アメリカ議会にも国民一般にも少しも報告していなかった。そのやり方は、他の国のどの独裁者にも負けないくらい巧妙であった。
このイギリスとの秘密の約束は、アメリカ国民をヨーロッパ戦争にはまきこまないという、ルーズベルトの選挙公約を信じて、彼をアメリカ大統領に選んだ多数の選挙民の意志と希望を踏みにじるものであった。
実際、チャーチルの著書によって明らかにされたように、ルーズベルトからチャーチルあての個人的書簡に述べられている事項は、ルーズベルトが、アメリカ国民の意向をいかにひややかに無視していたかという好例として、これ以上のものは他にないであろう。
こうした書簡とハリー・ホプキンズ大統領顧問~チャーチルは、彼をルーズベルトの<主要なつっかい棒の一本で、生気を与える男>と呼んでいた~との会談についてチャーチルが説明したところによれば、ルーズベルトは早くも一九四一年一月には、後日、アメリカ参戦の原因となったイギリスとの秘密同盟にひとしいことを決定していたのは、まったく疑いの余地のない事実であった。
チャーチルはルーズベルトから、ハリー・ホプキンズは自分の<もっとも信頼する友人であり、大統領の個人的代理人>でもあるとの通知を受けとっていた。そのホプキンズは、一九四一年一月十日、ロンドンのダウニング街十番地の首相官邸におもむき、"目をギラギラさせながら、感情を不自然におしころした様子で”チャーチルに話しかけた。
「ルーズベルト大統領は、英米両国が共同して、この戦争で勝利をおさめようと決心している。この点を誤解しないようにしていただきたい。大統領は、一身上にどんなことが起ころうとも、あらゆる犠牲を払い、またあらゆる手段に訴えても、首相を援助する決心でいることを伝えるために、私をロンドンに派遣した。ルーズベルト大統領は人間の知力及ぶかぎり、なにごとでもやる決心でいる。」チャーチルはその著『大同盟』のなかで、ハリー・ホプキンズは腰かけたまま「巧妙にでっちあげた戦争介入の大義名分を説明しながら、まったく興奮していた」と書いている。
ホプキンズがルーズベルトにかわって語ったところによると、「戦争介入の名分は、ヒトラーを打倒、破壊および抹殺することに限るべきであって、その他の意図とか忠誠心とか、P44または国家目標といったものは、いっさい取り除かなければならない」と。
こうすることによって、ルーズベルト大統領は、ホプキンズの口を通して、アメリカ憲法に違反してルーズベルト自身がより高尚であると考えた目標のため、すなわち、ヒトラー抹殺のために、アメリカ国民を外国の戦争には介入させない、という彼の約束を破ったのである。
この前年、つまり一九四〇年の十二月に英米統合幕僚秘密会議が開かれ、アメリカの<勝利の計画>の基本となる政策が検討され始めた。
スターク海軍作戦部長がいっているように、問題は、アメリカ参戦の<可否>ではなくて参戦の<時期>であった。一九四一年一月十日、ルーズベルトは議会に対して、武器貸与法の成立を要請したが、これによってアメリカ議会は実質的には、宣戦布告に関する憲法上の権限をルーズベルトに譲り渡したことになってしまった。
再びスターク作戦部長の言葉をかりると、ルーズベルトは、武器貸与法成立後のアメリカはヨーロッパ戦争に<非公式に>参戦している、と見ていたのである。しかしルーズベルトは、ドイツあるいは日本を挑発して第一弾を発射させるまでは、少なくとも、それを公式の戦争とすることができなかった。
共産主義とナチス・ドイツの台頭 P44-48
私がアメリカの時期尚早な参戦や、または無条件的なヨーロッパ戦争介入に反対していた理由は、私がおさめた歴史研究と、私の育った家族的な背景によるものでったといえるかもしれない。
P45しかし、これは主として、私がドイツで共産主義とナチズムの双方について、勉強していたことに原因がある。エーゲ・レイオンが、いみじくも<赤い十年間>と呼んだ時代の大多数のアメリカ人にとっては、共産主義とソビエト連邦について、その事実を知る機会はほとんどなかった。
私は一九三六年から三八年にかけて二年間、ドイツ陸軍大学に学んでいたが、そのころのドイツでは、たえず共産主義の脅威について喧伝されていた。
共産主義の脅威についての喧伝をよく検討してみると、最近までアメリカ国民が知らなかったり、または無視していた共産主義者の目的、常套手段および方法について、その真実のすがたを大いに理解することができた。
また私は、同時代のアメリカ国民の大多数の者とはちがった目でドイツをながめるようになった。これは私がナチス政権のやり方を正しいと認めたり、仕方がなかったと許すことではない。
ヒトラーは第一次大戦後のドイツ処理の結果、政権を獲得するようになったのであり、彼が政権を維持できたのは、ワイマール共和国の終わりごろ、ドイツ国民のうえにおおいかぶいさっていた経済的破綻と貧困から、ドイツ国民がのがれ出ようと一生懸命に努力していたことが原因であった、と私が認識したからであった。
しかし、人びとはヒトラーの政治には批判的であった。だが、その反面ヒトラーがドイツ国民を混乱の底から救い上げてくれるのだという、ヒトラーに対するドイツ国民の気持ちは、ウソではなかった。
ヒトラーは多数の失業者に、仕事と希望とを与えることによって政権を獲得し、一九一八年以来他国からあなどられ、無視され、または圧迫され続けてきたドイツを、P46他国のあなどりを受けないまでの強大な国に育て上げたのである(tw)。
さらに、ドイツの生活圏獲得政策は、モスクワを中心とする世界的規模の共産主義の陰謀ほどには西側社会に脅威を与えるものではなかった、と私は確信している。ドイツの東方進出は<生活圏>を求めるため、すなわち、原料の供給源と市場を求めるための国民運動であった。
この運動は、ドイツの親類ともいうべきイギリスが、十九世紀に<やみくもの海陸両棲本能>を発揮して、イギリス帝国をつくりあげたのと同じ強制的現象によるものであった。
しかし、アメリカ・インディアン、スペイン人、メキシコ人たちからアメリカ大陸の半分近くも強奪した北米移住者の子孫であるアメリカ人や、あるいは<太陽の没することなき帝国>を築いたイギリス人には、ドイツ人の民族目標である東方進出は、非難すべきものに思えたのかもしれない。
そして人びとは、ヒトラーのユダヤ人処理と近隣弱小国を弱い者いじめする高慢ちきなやり方には、大いに反感を覚えたが、ドイツが当時おかれていた状態とその記録を研究してみると、ナチス革命を支えていたダイナミックなナチス政権の自己保持力は、なぜ存在していたか、人びとには納得できた。
主として英仏を意味する西欧社会は、ドイツ国民がワイマール共和制度の下で"平和愛好的に民主的に"生活している限りそれでじゅうぶんだとして、敗戦のドイツ国民に対して正義、自尊心およびはげしい労働によって生活の糧を得ることを認めていなかったのである。
第一次大戦後のドイツは、ベルサイユ条約の<戦争犯罪>条項によって、心理的にも政治的にもP47過重の負担をおわされ、戦勝国からの膨大な賠償要求に押しつぶされた。
さらに、海外からの資金導入による人為的な短期間の好景気ののち、一九二九年に始まった世界的経済恐慌で、ドイツはとどめを刺された。そしてドイツのワイマール共和制は、第一次大戦後うみつけられた巨竜のタマゴがかえって成長した狂信的愛国者たちの手により、破壊されてしまった。
もっとも大きな災厄は、うっかりして知らずにいることよりも、"そうではあるまい、こうあるべきだ"と信ずることから生まれるといわれている。
アメリカ人は学校や大学の教科書、一般向き人気取りのジャーナリストの書いた表面的な記事や、あるいは偏見をまじえた記事から落穂ひろいをするように、西洋史や世界史の知識を集めたり、勉強したりするのがほとんど大部分で、それ以上に歴史を深く勉強する機会や時間に恵まれるものはほとんどいない。
だから、それらアメリカ人の大多数が、ドイツ人はもっとも好戦的国民でであると信じこませるような宣伝にたやすくのせられたからといって、驚くにあたらない。
アメリカ国民にドイツに対する恐怖の念を与え、憎悪させて、アメリカを参戦に導こうとした人びとや、日本とドイツの破壊をアメリカの最高で唯一の戦争目的と考えていた人びとにとっては、歴史がドイツ人は好戦的国民ではなかったと証明していても、さほど問題にはならなかった。
これと反対にアメリカ国民に、共産国ソ連はドイツの敵であるからわれわれの味方であると信じこませることは、彼らにとって、それは少しもトリックと感じられなかった。
だから、P48あんなにも多数の人びとが、そのために戦い、そのために犠牲となった。その希望は失われ、ナチス・ドイツすら与えなかったような~ルーズベルトとその演説起草者たちが熱病にうかされたように想像していたのを別にすれば~真に危険な状態に、現在アメリカが直面することになったのである。
真珠湾とチャーチル P48-51
ドイツがもっとも侵略的な国家で、たび重なる平和の破壊者であるという世間の想像は誤っている、ということを確かめるには、たいして歴史を研究する必要はない。地図を一見すれば、イギリスやフランスが平和愛好国であったかどうかはすぐわかることだ。
もし英仏が平和的であったならば、どうして地球上のあんな広大な地域を統治することができるようになったか、ひとつ彼らにたずねてみようではないか。
国家および国民は、その歴史上いろいろの場合において、またその環境によって<平和愛好的>にも、侵略的にもなっている。イギリスはエリザベス一世の時代から十九世紀末までに、貿易、権益、植民、開発のための領土を求めて、数えきれないほどの戦争を世界各地で行なった。
第二次大戦前には、四千万の島国のイギリス国民がアジアとアフリカで、約四億五千万の人びとを統治するという成功をおさめていた。十九世紀の後半まで国家統一のできなかったドイツとイタリアは、その間ほとんど植民を送り出せず、植民競争にあとから加わってみれば、もはや征服すべき土地はほとんど残されていなかった。
P49独伊は十九世紀末のアフリカ植民地の獲得競争に加わったが、英仏がすでに武力を用いたり、または脅迫によって入手していた広大な植民地や保護領には、くらべることもできなほどのわずかなものを得たに過ぎなかった。
さらに、ナポレオンが没落し、フランスが何世紀にもわたって持ちつづけてきた、ヨーロッパ大陸を支配しようとする野望をすててから後の半世紀の間、プロシャはヨーロッパ諸国のなかで戦争を行わなかった、ただ一つの大国であった。
プロシャ以外のドイツ諸州も他国と平和関係を維持していた一方、ロシアはペルシャ、トルコと戦い、英仏はアフリカとアジアで植民地獲得戦争をやるかたわら、クリミア戦争でロシアと戦った。
だから、<いつ果てるとも知れないヨーロッパの戦争>に介入反対を唱えるアメリカ国民をなだめるのに役立った<ドイツ人>は西欧諸国民のなかでもっとも侵略的である、と一般に信じられていた宣伝は、真実ではなかった。
ウィンストン・チャーチルは、読者のために、ルーズベルトがアメリカを参戦させる決心をしていたことについては、なんら疑問の余地のないようにはっきりと書き残してくれている。
チャーチルはその著『大同盟』のなかで、真珠湾攻撃前の二年間にかわされた個人的な親しい人あての手紙によると、ルーズベルトはチャーチルにくらべて"より自重"してはいたが、チャーチルにはルーズベルトが「どちらに味方し、なにを欲しているかよくわかっていた」と述べている。
さらにつづけて、「ルーズベルトは強力な中立国の元首として高く尊大にかまえていたが、この中立を保っているアメリカをなによりもまず、自由のための戦争に介入させるように望んでいた。P50だが、彼はまだ、どうしたら戦争に介入できるか、その方法を知らなかった」と書いている。
さらに彼によると、ルーズベルトとその信頼する友人たちは、アメリカを少なくとも一般的な中立国の線にとどめておこうとする「議会の制約を受けて、身をよじって苦しんでいた」。だから、日本のアメリカ攻撃は「彼らの戦争介入問題とその責任を大きく軽減することになった。
ルーズベルトと側近たちが、日本軍の真珠湾攻撃によってアメリカ国民がこれまで経験したこともなかった、アメリカの安全がおびやかされるという事態のために、アメリカ国民全体を一致団結させてくれる事実にくらべて、日本軍の攻撃のしかたや、その攻撃規模を比較できないほどに軽視していたことは、われわれから見れば明らかなところである」とチャーチルは述べている。
チャーチルは、また『大同盟』のなかで、ルーズベルトとその側近たちが「彼らの敵(日本を指す)の意図の全貌と、敵のこれからまさに行動にうつさんとしていたこと」について承知していた、と言及している。これは、日本の暗号解読の結果、ルーズベルト、スターク海軍作戦部長、そしておそらくマーシャル陸軍参謀総長もまた、十二月七日(日本時間の八日)決行予定の日本軍の真珠湾攻撃について、事前に警告されていたと解さねばならないことになる(相互参照)。
事実、真珠湾査問会の公聴会の席上、ホーマー・ファーグソン上院議員に喚問された一人の青年海軍将校は、次の事実を証言している。すなわち、十二月六日(日本時間の七日)P51夜、ホワイト・ハウスにおいて、彼の面前で、ルーズベルトとホプキンズ大統領顧問は、日本の戦争電報を読んだ。ホプキンズが予防措置をとるように主張したとき、ルーズベルトは
「その必要なし」と答え、「民主主義のためにはりっぱな記録を残すよう事態の進展を待たねばならない」(関連)と語ったというのである。
日本の真珠湾攻撃の第一報がとどけられたとき、チャーチルはワンナイト駐英アメリカ大使、アベレル・ハリマンといっしょに、チェカーズの彼の別荘にいた。「これで、例の二人のアメリカ人が長い苦痛からやっと解放された、と人びとはおそらく考えたにちがいない」と、チャーチルは書きとめている。
チャーチル自身は、「これで救われたと感じ、感謝の気持ちで、その夜はぐっすり眠った」。
第一次大戦の原因 P51-54
一九二〇年代の第一次大戦の真相暴露時代に、ドイツが戦争挑発者であったという<戦争責任論>は一方的な見方であり、大戦の根本原因は英独間の産業と貿易の競争であったことが、一般に認識された(相互参照(1、2、3)、tw1、tw2)。
ジョン・メイナード・ケインズ(相互参照)が、彼の名著『平和の経済的帰結(相互参照)』(The Economic Consequences of Peace)で述べているように、これまでの時代におけると同様に、イギリスは貿易上の競争相手を倒すために、第一次大戦で戦ったのである。
ルーズベルトがアメリカの安全について、いつわりの恐怖感を与えて、アメリカ国民を戦争にかりたてたと同じように、一九一〇年、イギリスの選挙戦中、野党の保守党首バルフォアは、P52イギリス国民を、イギリスはいま危機に際会しているとおびやかすことによって、選挙に勝利をおさめようとした。
その当時、自由党員であったチャーチルは、これを評して「理由もなく、恐怖状態をつくりだそうとしている。すなわち、正当な理由もないのに、英独両国間に敵意を生じさせようとしている」といった。
バルフォアがドイツに対して戦争を挑発するのをいとわなかったことは、彼とヘンリー・ホワイト・アメリカ大使の会話に如実に示されている。ホワイト大使は、英独間の貿易戦争が最高潮に達したとき、イギリス政府と会談のため、イタリアからロンドンに派遣されたのであった。
アメリカの歴史家アラン・ネビンズがその著『ヘンリー・ホワイト=アメリカ外交の三十年』(Henry White,Thirty Years of American Diplomacy)で書いているように、バルフォアとホワイト大使との会談は、次のとおりである。
バルフォア((少しかるい調子で)ドイツが多数の船舶を建造して、イギリスの貿易をとりあげてしまわないうちに、ドイツに対して宣戦を布告する理由を見つけられないとは、われわれもだいぶ間が抜けている。
ホワイト あなたは個人的には非常にりっぱな人だ。それなのにどうして、自分の国に害を与えない他国に対し戦争をしかけるなんて、そんな政治的に不道徳なことを企てるか?その国だって、あなたの国が持っていると同様に、海軍を保有するりっぱな権利があるんだよ。ドイツと貿易上の戦争をしようと望むなら、もっとうんと働きなさい。
P53バルフォア もっと働けということは、われわれの生活程度をさげることになろう。それよりは戦争するほうが、イギリスにとっておそらく、もっと簡単な解決法であろう。
ホワイト これは驚いた。あなたみたいな者が、そんなことをいうなんて。
バルフォア(再びかるい調子で)これは正しいか、正しくないか、の問題ではない。これはおそらく、イギリスの優位保持に関する問題であろう。
イギリスの博学な戦史研究家のフューラー陸軍少将は、この記録にのこる会話にこう論及している。この二人の興味ある点は、バルフォアの道理にあわぬ冷酷さを証明するにとどまるものではない。
この会話の重要な点は、「産業革命によって生存のための経済闘争が生まれてきたが、この闘争では、人びとは原始時代にかえって、ジャングルのなかで行われていた自己保存の法則を適用するようになったことを意味する。
原始時代の人間と野獣との戦いは、国家間の産業闘争に姿をかえた。この産業闘争では、各競争相手はすべて野獣のように争った」ところである。
私が歴史について学んだ知識のすべては、第一次大戦の戦前と戦中を含めて、ヨーロッパの血ぬられた各世紀、それにちょうどいま、ヨーロッパの天地に燃え出した大火災の諸条件、またはその環境、これらの事柄によって、私はアメリカが適切な時期でもないのに、第二次大戦に介入しようとすることに対して、反対する気持ちをもつにいたった。
しかし、私は職業軍人の一人として、アメリカのような政治体制の下では、戦争か平和かの決定は、私のあずかり知らぬところであった。私の仕事は、事態の進展を予想して、たえず戦争計画をたて、P54運命の女神や政治家や権力におごった指導者たちが、投げ込むかもしれない不測の事態に対し、アメリカを準備させることであった。
こうして、私は自分では欲しなかった戦争のための、<勝利の計画>の立案者となったのである。ひとたび、この計画の作成にあたるや、私は短期期間に敵を降伏させ、戦後の平和会議では、アメリカが再び脅威をうけない有利な地位に立つ世界を出現させようと、その計画作成に全力をうちこんだのであった。
第二章 第二次大戦の開幕 PP58-70
P58-
ルーズベルトの戦争計画 P58-62
P058私にとって一九四一年十二月五日は、生涯忘れることのできない日である。その日は、日本軍の真珠湾攻撃二日前の金曜日午前七時半、ミューニションズ・ビルディングの私の部屋にはいると、部屋のなかのムードが異常な興奮に包まれているのが感ぜられた。
将校たちが寄り集まり、騒がしく話し合っていたが、私の秘書がすっかりうろたえて、私にシカゴ・デイリー・トリビューン紙を渡すと、この騒ぎはとたんにしずまった。室内は水をうったように静かになり、室内の目はすべて、
<ルーズベルトの戦争計画>
という大きな活字の見出しの新聞を読む私のうえにくぎづけになった。この見出しの下に、いくら小さな活字で
<一千万動員を目標とし>
その半数は、ヨーロッパ、アジア、アフリカへ派遣。ナチス打倒のため、一九四三年七月一日までに、陸上攻勢作戦、提案さる。
私はたいへん心配になったので、シカゴ・デイリー・トリビューン紙のチェスリー・マンリー記者の署名入りの記事をいそいで読みだした。P060それは、次のような書き出しで始まっていた。
「ルーズベルト大統領の命令により、陸海軍統合最高司令部の計画した秘密報告書によると、総計五百万にのぼるアメリカ遠征軍が、ドイツおよびその衛星諸国に対し、決定的な地上攻勢にでるために、動員されるよう要求されている。この記事を読むにつれて、私が過去数ヵ月間、日夜、心血を注いできた<勝利の計画>の最重要部分を、シカゴ・デイリー・トリビューン紙の記者が、正確に伝えていることは一目瞭然であった。
この秘密報告書では、合計千四万五千六百五十八名の動員が計画されている。この計画は、これまでに経験しなかった規模の、少なくとも二つの海洋と三つの大陸、すなわちヨーロッパ、アフリカおよびアジアにわたる全面戦争の青写真である」
<勝利の計画>に関する情報は陸軍省内では、きわめて厳格な秘密保持の手段がとられていた。マンリー記者によって「文明社会の全域にわたって、人びとの運命を左右する決定事項や公約を述べた驚くべき文書」と大々的にすっぱぬかれて、アメリカ政府が秘密にしていた戦争計画は、いまや全世界の人々の知るところとなってしまった。
ワシントンに爆弾がとうかされたとしても、私はこれほどまでに驚きも、困惑もしなかったであろう。陸海軍をこれまでに実施したこともない規模で動員し、それを日独両国に対する海外作戦に使用するという、詳細な計画が露見したことは、アメリカ政府にとって、政治的なダイナマイトが爆破したことを意味した。
このことは、アメリカがヨーロッパ戦争に介入しようと計画しており、その時期は目前に迫っていること、またルーズベルトが唱えていたヨーロッパ戦不介入の約束は、単なる選挙演説にすぎなかったことを証明する打ち消しがたい証拠となった。
しかも私自身は、この計画の秘密保持の担当者であり、この計画が漏れるようなことでもあると、アメリカの参戦を早めさえしたかもしれない。
一九四一年七月九日、ルーズベルトは「アメリカの潜在敵国に勝つために必要な全軍需生産量」の見積もりを作成するよう、スチムソン陸軍長官とノックス海軍長官に命じた。陸海軍の見積もりを調整するよう指示されていたスチムソン長官は、これをジョージ・カトレット・マーシャル参謀総長に伝えた。
マーシャルはこの命令を戦争計画部長のジロウ准将(のち中将)にまわした。この戦争計画部というのが、陸軍参謀本部のなかでアメリカの国防に関係する、すべての不測の事態に対処する計画作成の責任を持っていた。
そして、実際の計画作成の責任は、フォート・ベニングの部隊指揮官から二、三ヵ月前にこの戦争計画部に転勤してきたばかりの、当時、陸軍少佐であった私にかかってきた。(略)
<勝利の計画>の立案は、スチムソンからマーシャルを経てジロウからウェデマイヤーへと伝えられた。
(略)
P62とくに機密保持には細心の考慮を払うよう注意した。これは、一般のアメリカ国民は、まだ、アメリカを戦争にまきこませないという、ルーズベルト大統領の約束を信じており、ギャラップ世論調査によれば、アメリカの有権者のほとんど大部分の者がアメリカの参戦に反対していたので、こうした細心の注意を払ったことは、いうまでもなかった。
大西洋会談の内幕 P62-65
アメリカ政府の戦争準備と中立違反行動は、枢軸国側諸国を挑発してアメリカに宣戦させるように計画された。これはイギリスとソ連を強化することによって、アメリカが参戦しなくてもすむための手段である、と言葉たくみに説明されていた。
同様に、アメリカの軍事力強化は、アメリカとアメリカ領の諸島および西半球に対する侵略を抑制するために必要である、と主張された。
いま明らかにされたアメリカの<戦争目的>は、大西洋憲章にうたわれたように<ナチス独裁政権の最終的破壊>だけに限られていなかった。マンリー記者は次のように書いている。
P63「この計画ではまた、これまで大体においてアメリカ政府のスポークスマンや戦争宣伝家たちによって、きわめて熱心にでっちあげられた世人周知の作り話のなかで、さきに述べた以外のものも暴露されている。
たとえば、これはドイツ国民に対する戦いというよりも、むしろヒトラーとナチス政権打倒のための戦争であるという一般的な考え方を、この計画は次のような言葉であざわらっている。
『ドイツ人の力によるナチス政権打倒は、近い将来に実現しそうになく、またドイツが軍事的敗北するまではそうした事態は起こらないであろう、と考えられている。たとえ、ドイツに新政権が生まれるとしたところで、その新政権がアメリカにとって受け入れることのできる平和条件にこうじてくれるかどうかまったくわからない』」
アメリカの国防に影響をおよぼすと考えられる、あらゆる不測の事態に対処する計画の作成については、歴史的に多くの先例が残されていたが、ルーズベルトは、実際にはそんな脅威はありもしなかったのに、ナチス・ドイツはアフリカのダカールから南米を侵略しようとしていると語って、アメリカ国民に恐怖のため血の凍るようなお思いを味あわせようとした。
ヒトラーは、南北アメリカ諸国を脅迫したこともなければ、また攻撃を計画したこともなかった。
ルーズベルトや彼の助言者たちうちのだれかが、アメリカはドイツから攻撃される危険がある、と実際に信じていたとはちょっと考えられない。ルーズベルトは、アメリカ国民を戦争にまきこまない、と国民に誓ったが、その約束を公然と破らずに、チャーチルと結んだP64アメリカをヨーロッパ戦争に介入させる約束を果たすことのできるただ一つの方法は、ドイツか日本を挑発してアメリカに戦争をしかけさせることである、とにらんでいた。
ルーズベルト大統領、チャーチル首相、カドガン外務次官、ホプキンズおよびウェルズ国務次官の間で話し合った大西洋会談の覚え書き(覚え書き第四部一七八四-九二ページ)によると、ルーズベルトは、もし日本が南方に進出すれば、
「アメリカは各種の手段でこれに対抗し、このため日米間に戦争が起こることも自分は覚悟のうえである」と責任をもって日本に通告しようと述べている。
ウェルズ国務次官が、アメリカは南太平洋地域の平和維持の役目よりも、さらにいっそう広範囲な任務を引き受けねばならず、
"中国、ソ連、イギリス自治領また植民地あるいは太平洋南方地域のオランダ植民地に対する”日本の攻勢を反撃できるように準備する必要があると提案したとき、チャーチルとルーズベルトは、これに同意した。
しかし、ルーズベルトは、このことは秘密了解事項としておくべきだと明らかに感じた。チャーチルはのちに(一九四二年一月二十七日)、太平洋会談の結果
"アメリカは、アメリカ自身が攻撃されなくても”東アジアで戦争に参加するであろうし、また日本が太平洋で暴れまわるようなら
"イギリスは日本に対して単独で戦わなくてよかろう”という確信を深めた、とイギリス議会に報告している。
一方、ルーズベルトは陸海軍長官に命じて、秘密裏に全面戦争を準備し、日本とドイツを撃破するために、アメリカの全資源を動員するよう指示した。そういうわけで、P65いまこうしてアメリカの<勝利の計画>がシカゴ・デイリー・トリビューン紙とワシントン・タイムズ・ヘラルド紙によって、ドラマチックにすっぱぬかれることになった。
ルーズベルトの恐怖宣伝 P65-70
アメリカの多数の若者を遠い戦場~主としてヨーロッパ~に送るという計画がすっぱぬかれるという事態に直面すると、ルーズベルトの友人たちは、戦わなければならない場合には外国で戦うほうがわがアメリカ本土内で戦うよりはましであろう、と答えた。
これはアメリカ軍が外国へ出かけて戦うほうが、起こりうるドイツ軍のアメリカへの進撃~スペインかイタリアからアフリカ大陸に渡り、南下してダカールにつき、そこから大西洋を渡って南米大陸へ上陸しアメリカへ~してくるのを迎え撃つよりも、ましであろうというのである。
たとえ、ドイツ軍がブラジルに到着できたと仮定しても、ブラジルにやってきたドイツ軍は、ヨーロッパにいるドイツ軍よりも、アメリカにとってはより遠方の敵となるのだという事実は、ごまかされてしまった。
ドイツ軍やイタリア軍は、南米基地からはアメリカ本国に対して、簡単に有効な攻撃力を結集することができず、アメリカ勢力圏内のカリブ海を通らなければ、パナマ運河に到達することさえもできない。
だから、こうした進攻作戦のために長くのびたドイツ・イタリア軍の補給線は、アメリカの海軍と空軍から思いのままに攻撃されるであろう。
P66そこでルーズベルトが、ドイツは大西洋を越えて南米にやってくる、と子供だましのようなことでアメリカ国民をこわがらせている一方では、アメリカ軍指導者たちは、こんなばかげたことは気にもとめなかった。
そのわけは、ドイツ軍の南米大陸進撃はアメリカにとって、どちらかといえば無害なものであり、決定的な重大性を与えるものではないことを理解していたからである。
軍人はだれも、また軍事知識に明るい者はだれでもすぐに、ドイツ軍が大西洋を横断し南米大陸に進撃してくるなど、夢想だにしなかった。「ドイツ軍が南米に上陸しくるぞ」とのデマは劇的に演出されはしたものの、それはドイツ軍の能力についてウソを伝えたものであり、これはあとでわかったように意図されたものであった。
しかし、多数の疑うことを知らないアメリカ国民たちは、この風船玉のようにふくらんだドイツ軍のアメリカ本土攻撃の脅威を信用して、アメリカ本土で戦うよりじゃヨーロッパに遠征軍を送ったほうがよい、というルーズベルトの主張をよろこんで受け入れた。
アメリカ政府の要人で、アメリカはヨーロッパの戦争には介入しないという原則を忠実に守るため、愛国的な努力をかさねた者はほとんどいなかった。しかし、ひとにぎりばかりの勇気ある民間人や、数人の国会議員たちは、ドイツ軍はドイツ空軍の猛烈な爆撃支援をもってしても、二十二マイル(約三十五キロ)のイギリス海峡を渡ることはできなかったと指摘した。
だが、ルーズベルトとその同調者たちは~一九四一年六月二十二日以降は、急に共産主義者までも~ドイツ軍が何千マイルもの大洋~地中海と大西洋~をおし渡って南米大陸に有力な侵略軍を上陸させ、ブラジルと中米の通過不能のジャングルを突破して、ついにアメリカを攻撃することができ、またそうするであろう、と主張した。
アメリカ軍人のなかで、ルーズベルトがペテンにかけるために用いた、この恐怖戦略を、公然とあばいた者はがだれもいなかったことは興味深い。
しかし、アメリカの軍人たちは、アメリカがドイツの空軍と地上軍を実際に捕捉、撃滅することによってドイツの抗戦意志をくじき、ドイツを敗北させる準備をしなければならなくなることを、はっきりと認識していた。
それは、つきつめていくと、大部隊のアメリカ遠征軍がヨーロッパの戦場へ送られるだろうということであった。それでは枢軸国を撃破するために必要な作戦とは、どんな作戦であるのか、そのとき(一九四一年夏)には、はっきり予想できなかった。
ドイツ、イタリアおよび日本を撃破するために必要なアメリカ軍の機動力、兵力および編成の一般計画について、できるかぎり正確な見積もりを作成する必要があった。訓練、器材、武器、車両、船舶、飛行機そのほか数多くの種類の資材をできるだけ早く、作戦部隊に供給できるようにしなければならなかった。
このため、アメリカの工業生産力と人的資源に関して、注意深く見積もりをたてることが必要になってきた。徴兵の実施にあたっては、国内の経済と行政活動~重要な通信、運輸、産業、病院、法律の施行、公共事業を含む~に支障をきたさないよう慎重に計画されねばならなかった。
われわれは、アメリカ軍の予想される展開の時期と場所とを考慮にいれて、膨大な機動計画を作成しなければならなかった。P68その結果、各種の調達資材品目別に、その優先順位をつけることになった。すなわち、広い戦場に展開する大近代軍を装備、訓練、輸送および維持するために必要な貨物船,鉄帽、四発爆撃機、ライフル銃、双眼鏡、戦車、毛布そのほか無数の物品について、優先順位をつけた。
アメリカ本土とその海外領土、わが国と西半球を防衛するための諸基地などに展開する軍隊の装備と輸送だけでなく、予想できる戦場に派遣されるアメリカ軍部隊に対しても、またナチス・ドイツの侵略をくいとめている連合国軍にも、必要物資を供給するために、アメリカの生産能力を大きく増進させねばならないことは、きわめて明らかだった。
<勝利の計画>のうち、陸軍関係は直接、私の監督指導のもとに作成され、陸軍航空部隊に関係あるものはとくに航空機関係の見積もりを提出してもらい、私の作成した陸軍関係の戦力見積もりに加えた。
海軍関係は海軍省で準備され、その写しが私と統合幕僚会議の陸軍委員ウィリアム・スコベイ陸軍大佐に送付された。<勝利の計画>が一冊の本の形式になるまえに、陸軍航空部隊の分も含めて完全な陸軍の戦略見積もりが五部タイプされ、次のとおり配布された。
陸軍省(スチムソン)一部、陸軍次官補(マックロイ)一部、陸軍参謀総長(マーシャル)一部、陸軍参謀本部戦争計画部長(ジロウ)一部、戦力見積もり作業用控え(ウェデマイヤー)一部。
五部の写しはすべて、番号をつけたうえで登録された。こう処理するのが、当時、ワシントンで、P69実施されていたもっとも厳重な秘密保持のやり方であった。こうして秘密が漏れないような処置がとられていたにもかかわらず、その厳重な秘密措置が破られるという重大な事態に、アメリカ政府は直面することになった。
ルーズベルト大統領が、どうして<勝利の計画>が漏洩したか連邦捜査局(FBI)に調査を命じた、とジロウ将軍から知らされて、私は非常に困惑した。この計画やその他の秘密事項に関して、私はこれまで許可されていない人に話したことはないのを、自分自身ではよく承知していた。
しかし、戦争が目前に迫って緊張した空気のなかで、秘密保持に万全の処置をしていたかについて、私には自信が持てなかった。私は、アメリカが参戦したときには、直ちに政府の決定に従い、全面的にこれを支持して国家に忠誠を尽くそうと、はっきり覚悟をきめていた。
<勝利の計画>漏洩の精神的苦痛とFBIの取り調べとによって、私は罪の意識を感じ、私に与えられた仕事ができなくなった。
私の直属の上官であるジロウ戦争計画部長は、私の立場に同情してくれて、私が秘密を洩らしたのではないことを確信している、と明言してくれた。この重大な秘密は、戦争計画部からは漏れていないだろう、とジロウ将軍はその所信を語った。
こうした将軍の態度は、それから二、三時間後に、私がマックロイ陸軍次官補の部屋で感じた空気とは、まったく反対のものであった。彼はごく最近、スチムソン陸軍長官のスタッフとして次官補に任命されたばかりで、豪華な部屋に大きなマホガニーの机を置き、すみの方には国旗と陸軍次官補旗をP70まぶしいばかりに立てかけていた。
政府機関のどの部局でも、新しい民間人が任命されたときには、いつでも意識的に、または無意識的に、各人がその新参者を評価した。マックロイ次官補はたいへんな野心家で、上司の言うことには何でもハイハイと従うが、下の者に対しては、自分の意見を押しつけて自分のしたいほうだいをやりそうだ、と感じた私の同僚がいた。
マックロイ次官補は、私に腰かけるようにすすめなかったので、私は不動の姿勢で立ったまま、彼の奥歯にもののはさまったような、あてこすりを聞かされた。
「ウェデマイヤー君、われわれの戦争計画の秘密を洩らした犯人は、必ず何かどこかに証拠を残していると思うが、…どう思う? きみ」と。
第三章 戦争計画漏洩事件 P71-106
(略、ウェデマイヤー中佐(計画作成者でこの本の著者)が疑われFBIの取り調べを受けたという話)P76私は、アメリカ第一協会の主旨の一部には賛成していたが、その会員ではなかった。アメリカのとる行動が自国の国家的利益に合致しているという確信がないのに、アメリカはヨーロッパの諸問題などに発言したり、それに介入すべきでない、と私は固く信じていた。アメリカ自身には、当時、直接危険がさし迫っていたのではない。
私は数ヵ月間、アメリカの国家目標を確かめ、アメリカのヨーロッパ戦争介入を正当化する政策なり、協定なりがあるかどうか、発見しようと努力してきた。アメリカのモンロー主義は、P77よく理解できる政策の一つであったが、ドイツかイタリアが、この主義を明らかに侵害して、西半球に領土を拡張しようと計画しているのか、または領土をそこまで拡張できるのか、この点について確信を持っていえる人はいなかった。
ドイツやイタリアが、アメリカ大陸へ領土を拡張しようとすれば、モンロー主義に抵触することはいうまでもなかった。
一九四一年六月二十二日、独ソ両国が不可侵関係を破棄し戦争を開始してから、独ソが互いに死闘を繰り返している間は、ヨーロッパ諸国は事情の許すかぎりこれを静観すべきである、と私はたびたび意見を発表していた。
こうして、独ソが共倒れになるまで待っていると、やがてイギリスとおそらくはアメリカも、そのとき乗り出していって、ヨーロッパの勢力の均衡を確立するという歴史的役割を果たすことができたであろう。
そして、ヨーロッパを共産主義者やファシストが支配するのを防止することも可能であったはずである。
(略)
P102私はたぶん、アメリカは戦争に介入すべきではないということをしゃべりすぎたり、または軽率に論じたりしたのであろう。当時、状況によっては、アメリカの参戦が必要となるかもしれない事実のあったことは、私も認めていた。
私が以上のようなことを、率直に打ち明けたところ、調査官たちはかなりこれに興味を覚えたらしく、くりかえし孤立主義について、私の意見を引き出そうと努力した。それに対して私はこう答えた。
「私は外交的、経済的および文化的の国際協調には賛成するが、アメリカの軍事的、経済的資産を、相手国をよく見きわめもせず、無差別に提供することには反対である。これは、あまりにも理想に走りすぎた崇高な言葉であり、実行不可能な観念であった。私はアメリカがついに戦争に突入したあとで、虫が知らせるというのか、一九四二年一月一日の日記に次のように書いている。
他国へP103の援助にあたっては、相互扶助関係が基礎とならなければならない。アメリカは、外国の兄弟げんかや内乱にまきこまれてはならないが、国際間の摩擦をやわらげ、健全な経済的発展と名誉ある平和を進める用意がなければならない。」
「この新年は、アメリカ国民のみならず全世界の人びとに、多くの苦痛と犠牲とを約束してくれた。イデオロギー闘争、強奪、指導者の権力闘争、よりよい生活状態を求めて努力するグループ、これらのものがまんじどもえになって、世界じゅうに混乱、破壊、野蛮行為の大渦が巻きおこる。未解決の漏洩事件
いまアメリカ国民は、一つの主義を打倒しようと懸命であるが、この主義を打倒したその後には、この主義と同じ程度の危険性のある他のもう一つの毛色の変わった主義を、出現させることになるのはきわめて明らかである。
アメリカは戦争で破壊された世界を安定させる任務を果たす努力を持っているので、戦争にも勝利をおさめ、平和会議でもりっぱな成果をおさめなければならない。」
このころになると、戦争計画部の私や他の幕僚たちは、<勝利の計画>を全面的に推進するため非常に忙しくなり、もはや秘密漏洩事件の調査結果に、あまりかまっていられななくなった。
(略)
十二月七日の日本軍の真珠湾攻撃によって、アメリカ国民全部の注意は、アメリカの防衛という神聖な義務に集中した。そして、われわれアメリカ人のすべては戦争についての見解の相違を捨ててしまった。
P105アメリカ第一協会、親英派、親仏派、親中国派 、世界統一派、参戦派、国際派、反戦派、各派その見解の相違はもう存在価値を失っていたし、また意見の衝突もなかった。一日も早い勝利を得るため、国家に忠誠と愛国心とをささげて、各自の最善を尽くすことに全国民が一致した。
(略)
第四章 ドイツ留学と戦略研究 P107-140
第五章 勝利の計画 P141-163
第六章 大戦略 P164-179
第七章 宣伝と戦争目的 P180-199
P182(抜粋)第二次大戦中のあるとき、共産主義者は意のままについてくる共産主義者たちを、極めて巧妙に使って主導権を握ったことがあった。事実、彼らは情報機関をほとんど完全に支配した。たとえば、中国に派遣されていた新聞記者のなかには、毛沢東がレーニンやスターリンよりも、トーマス・ジェファーソンに近い人物であるという、世にも奇怪な意見にだまされて、組織的に中国問題に関して、もっとも軽薄で弁解の余地のまったくない、誤った記事を報道した者もある。こうした記者たちは、国民党の腐敗ぶりにはしばしばふれていたが、毛沢東が思想的には大量殺人罪を犯しているという、いっそう重要な点は見のがしていた。P184(抜粋)日本軍の真珠湾攻撃から二週間たって、チャーチル首相はおおぜいの随員を引きつれてワシントンを訪問した。チャーチルは、あらかじめ外相アンソニー・イーデンをソ連に派遣していた。スターリンは彼自身の、ヨーロッパについての青写真~事実、共産主義者の青写真には、全世界に対する彼らの計画が設計されていた~を持っていたので、彼はなんのために戦っているのか、その目的を正確に知っていた。
この当時でさえ、スターリンは心のうちで、ドイツを小国に分割しようと考えていた。彼はバルト沿岸諸国とベッサラビア地方を併合し、フィンランドを強制してソ連側につけようと計画していた。スターリンはポーランドとソ連との将来の国境線は、いわゆるカーゾン線とすべきだと主張し、早くも一九四一年に、P185これをイギリスが承認するよう強引に要求していた。これらの事実はロシアの独裁者スターリンが、実際的な戦略思想を示したいくつかの例であった。
チャーチル、あるいはルーズベルトの側には、このスターリンの戦略に比較できる戦争目的が考えられたり、また戦争目的が準備されていた事実は、探しても見当たらない。
P187(抜粋)戦争は他の手段によっては達成できない、明確で具体的な国家の正当な目的とか、重大な目的を達成するための最後の手段としてのみ、その戦争行為が正当化されるのである。
ローマ人が述べたように、戦争は国家間の最後の議論である。クラウゼヴィッツが「戦争は武力を使用する政治的手段の延長である」と述べるはるか以前、紀元前五〇〇年ごろ孫子は「百戦百勝は善の善なるものにあらざるなり、戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり」と書いている。
第八章 秘密裏にロンドンへ飛ぶ P200-225
第九章 米戦略を英国に提示 P226-252
第十章 英国、戦略の常道にそむく P253-294
10.1独ソ戦線と日本軍攻勢の見通し P253-259(相互参照)
P253(略)アメリカへの帰国の機上で、私はホプキンズ顧問、マーシャル将軍および一行に同行しているイギリス海軍軍令部長デュドレー・パウンド提督と数回にわたり、重要な会談を行った。
このとき、私は、ヨーロッパ大陸の心臓部を共産主義者が占領するのを防止するため、英米軍が総兵力をあげてできるだけすみやかに、ヨーロッパ大陸に進攻することがもっとも重要である、と少しも臆するところなく強く主張した。
一九四二年が戦争の勝敗を決する、もっとも重要な年になるであろうということについては、一同の意見が一致した。
事実、将来の運命は、これから数ヵ月間の戦局の推移で、決定されそうであった。P254もし枢軸側がソ連を討ち破ることができなければ、彼らはこの大戦に敗北するだろう。東部戦線でドイツが敗北すれば、長期戦となり、これは日独を打倒するのに、長期の消耗戦に必然的に移行する気運にあった。
私が日本に関して言及したとき、これからの二、三ヵ月間に日本が何をやろうとしているかについて、ホプキンズが私の意見を求めた。これに対して私は、日本が重要な経済資源の開発を可能にする、戦略的基地を確保することにより、南西太平洋地域において、日本の立場を強化するこちができる、と答えた。
日本は、南西太平洋に確固たる地位を確保することにより、バイカル湖以東を占領する目的でソ連に対し、激しい攻勢を開始することが可能となるであろう。
こうしたソ連作戦は、かならずドイツのソ連進撃と歩調を合わせて実施されるはずで、P255この作戦が成功すれば、日本本土につきまとっていた最後の脅威が取り除かれ、日本は東アジアにおいて<共栄圏>を確立するのに困難を感じなくなるものと思われた。
こうなれば、日本は最大の戦力を確保することになるであろう、と私は意見を述べた。枢軸側諸国は、私が当時感じていたように、やっといましがた全力をあげて軍需生産にとりかかったばかりの、連合国側の工業生産力と戦力との密接な関係を認識していたに違いない。
ドイツや日本の最高司令部は、ヨーロッパや東アジアにおいて限られた目標を達成するために、彼らが現在得ている軍事的優位と主導権を明らかに利用するだろう。そしてさらに、日独は経済的にも軍事的にも、その立場をいっそう安全なものとするであろう。
最近、ソ連軍がドイツ軍を撃破したといわれるが、ソ連の状況は私にとってやはり一つのナゾである、ホプキンズとマーシャルに話した。東部戦線の戦況については、当時、正確な評価を下すことは非常にむずかしい、と私は感じていた。
ソ連の戦力については、連合軍首脳とドイツ軍側の双方とも、過小評価していたようであった。ソ連の抗戦力は、おそらく秋か冬にはっきり示されるはずで、ソビエトにきびしい寒さが訪れ、降雪の時期になると、道がぬかるみ、ドイツ軍の機動作戦は不成功に終わるだろう、と思われた。
一九四一年の冬の終わりごろには、ドイツ軍はある期間中、東部戦線で戦線の膠着化を求めていたことは、明らかであった。
ホプキンズは、ナチス政権になにか内部崩壊のきざしがあると思うか、と私にたずねた。現在までのところ、ナチス政権はきわめて多くの成功をおさめているので、当分の間、その立場が悪くなることはあるまい、と答えた。
P256ドイツでは現在、軍人も民間人も彼らの指導者が非凡な力を有しているもの、と確信していた。われわれの見るかぎり、ドイツ国民はヒトラーのもとに、一致団結しているようであった。
しかし、いつ終わるともしれない対ソ戦で、一九四二年から四三年にかけて、さらにひと冬、ソ連で戦闘を継続しなければならない状況に追いこまれたとき、ドイツ人は意気消沈するだろう、と私は希望をいだいていた。
ドイツ軍は、占領地が少しずつ手中からこぼれおちてゆく事態になったら、どうするのであろうか?ドイツ人の犠牲がふえ、戦局の進展するにつれて、武器や車両類の損害が増大してきたら、これに対して彼らはいかに対処するのであろうか?
ソ連でのシーソーゲームのような戦闘は、これまでナチス指導者たちがドイツ国民に約束していた、繁栄と平和の時代をもたらさないことを、ドイツ人はまもなく認識するにちがいない。
マーシャル将軍は、東部戦線の戦況がこの大戦のカギであり、そしておそらくは世界の将来のすべてを左右するカギであるとの仮定に立って、東部戦線における枢軸側の戦力について、いろいろと推測した。
私は、これから展開される可能性のある二つの情勢について、思い切って意見をのべてみた。
その第一は、ドイツ軍は東部戦線では、現在の前線にそって戦線の膠着化をはかり、その間に一方では、地中海から中東地域の連合軍に対して、激しい攻撃のほこ先を転じてくるかもしれない。
これと同時に、日本軍は独伊と手をにぎるため、インドを通って西方に進撃してくるかもしれない。しかし、東部戦線で戦線が膠着化してしまうと、ソ連は後方地域で軍隊を立て直し、ウラル山脈の背後で工業力を拡充する機会を得るであろう。
第二の可能性は、ソ連陸軍を撃退するため、ドイツは全力をあげてソ連軍を攻撃するかもしれないことであった。そのためには四、五年を必要とするであろう。ひと息つくひまが与えられたならば、ドイツ人はウクライナ、ドネツ盆地およびコーカサス地方をうまく利用するようになるであろう。
その間に、日本は南西太平洋において、その地域の経済資源を開発するかたわら、その軍事情勢を固定化するよう努力するかもしれない。そしてヨーロッパでソ連軍が撃破されたとなれば、日本軍は労せずしてシベリアの沿海州を占領できよう、というのであった。
もしドイツが、東部戦線の固定化と中東地域への進出に成功すれば、これはイギリス帝国の崩壊を早めるものであると、マーシャルは考えた。これは必然的にオーストラリアとイギリス本土との交通線を切断し、インドとエジプトは枢軸側のえじきになるだろう。
もし枢軸側が兵力と物資を中東=インド洋作戦にふり向けた場合には日本自体の立場は戦線をひろげすぎて危険な状態におちいることを、わたしは指摘した。このような状態になれば、恐るべき補給上の問題が生じるだろう。
日本は中東地域においてドイツと接触しようと試みるまえに、シベリアの沿海州を占領しなければならない、と私は考えた。
日本は同時に、二正面作戦を実施する能力がないというのが、私の意見であった。もし日本がインドに進出するとなれば、沿海州を占領して日本の立場を軍事的に安定させる機会を失うことになろう。
P258それからマーシャル将軍はもう一つの仮定を持ち出した。それは、もし枢軸側が軍事的にソ連を敗北せしめることになれば、これからの数年間、ドイツと日本にとって、最大の脅威となるものを取り除いたことになる。
そうなれば、日独は東アジアとヨーロッパにおいて、それぞれの立場を軍事的にも、経済的にも安定させるようになるだろう。
こうして、アフリカ大陸の西北部、イベリア半島、地中海および中東地域の枢軸側支配を拡張し、インドに進撃した日本軍と効果的な接触を維持するために、多数のドイツ軍部隊が東部戦線から転用されるようになろう。
この状況のもとでは、枢軸側はイギリスに対して、きわめて効果的な海上封鎖体制を確立して、イギリスに降伏を強要することができるかもしれない。
そして日本は、軍事的にも、経済的にも、非常に強大となるので、日本を打倒することはきわめて困難となり、日本打倒は思いもよらないほどの事態となるであろう。
そこで、われわれの見通しが正しいと仮定すれば、連合国側はソ連が敗北しないように全力を出して、ソ連を援助しなければならないことになる。事実、私が考えていたとおり、問題はアメリカがソ連に供与できるもっとも効果的で、もっともタイムリーな援助を決定することであった。
これはソ連にすばらしい勝利を獲得させるためではなく、アメリカの戦力が大戦の勝敗に決定的な影響を及ぼしていることが判明するまで、ドイツに戦闘を継続させておくためであった。
ホプキンズは一九四二年の間にどうすれば、ソ連をもっとも効果的に援助できるか、その手段について概略説明するよう、私に求めた。
P259彼はペンを取り出して、私の話すのを紙にメモした。まず第一に、アメリカ軍とイギリス軍の要求を正しく考慮したうえで、ソ連軍に適当な軍需物資を引き渡すことである。
次に、東部戦線からドイツ陸・空軍部隊をできるだけ多く撤収させル牽制作戦を実施することである、と私は説明した。英米軍はヨーロッパ大陸に対して、できうるかぎり強力な攻撃を加えることによって、ドイツ軍を牽制することができるであろう。
そして一九四二年二は成功は期しがたかったけれども、フランスに対して予備的にまえもって、牽制上陸作戦--スレッジハンマー作戦と呼ばれていた--を実施することが必要になるかもしれなかった。
連合軍がイギリス本土から、しだいに激しい空襲をドイツに加えることが、東部戦線におけるドイツ空軍の勢力を減殺するのに役立つことは、疑問の余地はなかった。
10.2アイク、ノルマンジー作戦指揮官となる P259-264
10.3戦略家としてのチャーチルの欠陥 P264-269
10.4ディエップ上陸の失敗 P270-280
10.5ノルマンジー上陸計画と英米のかけひき P280-284
10.6サギをカラスという詭弁 P258-294
第十一章 北アフリカ上陸作戦の胎動 P295-337
P305もし、アメリカが真珠湾で大被害をこうむったあと、さきにイギリスととりきめていた--まずドイツを倒し次にアメリカ戦力の大部分を集中して日本を撃破するという--作戦方針をとりやめていたら、どうなっていただろうか、と私は何回も考えたことがある。アメリカ国民にとって、心理的には、日本をドイツよりさきに攻略する戦略のほうが、ドイツをさきに倒す作戦方針よりも、よりいっそう大多数の者に理解され、したがって一段と支持されていただろう、と思われる。
P306真珠湾当時、イギリスはドイツ空軍の猛烈な空襲にじゅうぶん耐えており、少なくともドイツがイギリス本土上空の制空権を完全に確保しないかぎり、ドイツ軍のイギリス本土上陸は全く成功する公算がなかった。
しかしいまや、ヒトラーはソビエトの共産政権を倒そうとして、ドイツ軍の航空部隊と地上部隊の大部分を東部戦線に投入して、ソ連との戦争に忙殺されていた。
こうした状況下では、私がアメリカ軍の展開状況を推測したように、アメリカ軍は対日戦では不必要な兵員や資材をイギリス本土に輸送する一方、太平洋地域においては航空および海軍兵力を急速に増強できたであろう。
そして、しだいに航空および地上部隊の強力な兵力をイギリス本土に結集して、後日、実施されるヨーロッパ大陸攻略の好機に備えたことであろう。われわれがこうしている間に、ドイツとソ連が互いに血みどろの戦いをつづけて、両国の軍事力と戦時経済を破壊しつづけたものと思われる。
いま述べたような兵力展開を行っていたならば、あまり重要でない作戦や副次的作戦のために、兵力を浪費することにはならなかった。
さらに重要なことは、こうした状況では、大きく増強されたアメリカの戦力が、中国国民政府の日本に対する軍事力を増すためばかりでなく、国民政府の中国共産党に対する抵抗力をも強めるのに役立てられたであろう。
そうした計画が進行していたら、大戦後、中国が共産党の進出を許すほどに国力を使い果たしたり、士気を沮喪させたりせずにすんでいたはずである。
P307もしイギリスが依然として地中海方面の牽制作戦を主張する場合、アメリカは作戦の主目標を太平洋方面に変えるほうがよい、とマーシャルは勧告したためw、彼はこっぴどく非難されるハメになった。
彼は、ソ連の強要により、第二戦線をつる目的でイギリスを圧迫しているのだ、と悪口をたたかれた。マーシャルに浴びせられたこの非難がまちがっていたことを理解するうえで、私よりつごうのよい地位にいた人はほとんどいない。
マーシャルは、早い時期にイギリス海峡を横断して、ヨーロッパ大陸に上陸することを主張した。その理由は、敵の弱い時機と場所とを選んで味方の兵力をそこに集中することは、軍事的に見て正しかったからである。
ドイツ軍は東部戦線でソ連と死闘を繰り返しているとき、西部戦線を堅固に守備するわけにはいかなかった。
実際のところ、アメリカ政府は各戦線からとどけられる相反する緊急的な諸要求に、めちゃくちゃにひっかきまわされていた。マーシャル将軍の考え方は合理的であり。正しい戦略の原則に合致していた。
彼は、イギリスが、ヨーロッパに決戦兵力を集中しようとするアメリカの作戦計画に従って、イギリスのあまり多くもない戦力を結集しようとすれば、それでよし、さもなくば、日本を最初に倒す目的で実施する以外にアメリカは、他の手段を持っていないことを、イギリスに認識させねばならない、と感じていた。
ジョー・マッカーシー上院議員が、マーシャルはまったく陰険な理由から、第二戦線を形成しようとしていると吹聴していたが、P308それはまったく事実無根であった。
(随時更新)
第十二章 カサブランカ会談 P338-363
12.1会談開催までの舞台裏 P338-342P338一九四三年(昭和十八年)一月に、フランス領モロッコで行われた英米両巨頭のカサブランカ会談は、第二次大戦の<分水嶺>をなす重要な会談であった。 12.5チャーチルの二つの心配 P358-363
(P360-)
P360連合国側が、ヨーロッパ大陸侵攻作戦の準備に関心を持っていることは理解できるが、そのため、われわれはもしかしたら、日本軍に占領地域の強化を許すようなハメになるかもしれない、とキングが自分の心配を表明したことはいうまでもなかった。
彼は日本に対して、単ににらみあっているだけではじゅうぶんでない、と強く感じていた。連合国側は戦力をさらに太平洋方面に増強して、部分的に攻撃作戦を実施すべきである、とキングは主張した。
(随時更新)
第十三章 無条件降伏 P364-384
第十四章 各戦線の視察 P385-417
第十五章 同省意味の米英戦略 P418-437
第十六章 シシリー島強襲作戦 P438-451
(下)
第十七章 ヨーロッパ要塞の下腹をねらえ P13-24
第十八章 ノルマンジー作戦の決定 P25-51
第十九章 ビルマ奪還作戦 P52-104
第二十章 中国戦線におもむく P105-155
ヒマラヤを越えてP105(抜粋)(一九四四年)十月二十九日午後、私はニューデリーに到着し、さっそくダン・サルタン将軍の司令部を訪問した。サルタン将軍はウェストポイント陸軍士官学校の出身で、輝かしい軍歴を持ち、高潔な人物であるとともに、祖国に対する忠誠心もりっぱであった。
サルタン将軍はスチルウェエルの副司令官として、これまで二、三回中国戦線を訪れた経験を持っていたので、中国の複雑な事情も少しは承知していた。サルタンは私に対し、スチルウェルは中国戦線のことについては、だれにも相談せずに自分だけで処理しており、作戦計画については他の者に知らせないよう秘密にしていた、と語ってくれた。
サルタンは、スチルウェルがシェンノートや蒋介石ともうまくやっていないことを、よく知っていた。彼も私同様、どうして急に、スチルウェルが交代させられるようになったか、はっきりしたことは知らなかったが、スチルウェル解任のおもな原因は、スチルウェルがビルマ駐屯の中国軍部隊ばかりでなく、中国全土の全中国軍を彼の指揮下に入れるように主張したからであろう、推測していた。
P122(抜粋)中共軍は、日中戦争の主要会戦のいずれにも参加しなかった。一九三七年の上海戦にも、広西省の李宗仁将軍が日本軍に大打撃を与えた一九三八年の台児荘戦(日本では徐州会戦といわれている)にも、また、同じ年の武漢三鎮の防衛戦にも、長沙戦にも、後になってはサルウィーン戦とビルマ戦線にも、彼らは加わらなかった。
第二十一章 暗躍する共産主義者 P156-189
第二十二章 中国戦線の反攻作戦 P190-231
第二十三章 中国の戦後処理 P232-266
満州を蹂躙するソ連P232私の幕僚は、終戦の兆候が高まるにつれて、新たに生じてくると思われる多くの問題の計画と忙しく取り組んだ。われわれ中国戦線司令部は、共産主義者との容易ならぬ困難に直面することを承知していた。
ウラジオストック、延安およびモスクワから行われる宣伝の計画は促進された。こうした共産側の重要拠点からの宣伝のおもなテーマは、アメリカは極東を搾取し征服しようとしている、つまり、われわれは帝国主義者であるというのであった。
国民政府とその指導者たちは、帝国主義者であり、また人民の搾取者への協力者である、ときめつけられた。だから、蒋介石は人民の敵であった。誇張された蒋政権の不正と悪政に関する、いいかげんな報道が絶えず極東全域に伝えられ、アメリカの新聞にくりかえし報道された。
そこで、われわれとしては、ソ連の後援する中国共産党の策謀の結果として生起してくるかもしれない情勢について、あらかじめじゅうぶんに警戒していた。中国共産党は、西側の言葉が意味するような政党ではなく、私的な軍隊を持ち、クレムリンの後援のもとで、中国全域を完全に支配する目的で行動している陰謀家であった。
P233中国共産主義者の機先を制して、国民政府軍が日本軍部隊の降伏を受理する立場にたつようにすることが、どうしても必要であった。アメリカの対極東政策ははっきりしなかったが、中国、朝鮮、満州、仏印および台湾にいる三百九十万の日本軍の降伏と本国送還の準備について、私は中国国民政府を援助するよう指令された。
対日戦勝記念日の直後の決定的な情勢の数週間、私は国民政府軍の北方と東方に急派するため、アメリカ軍の飛行機と船舶を使用した。これが中国共産主義者を激怒させたことはいうまでもなく、彼らは自分たちの新聞とラジオで、私に痛烈な個人的攻撃を加えはじめた。
一九四五年十一月二日、そのころ国民政府軍を満州に輸送するアメリカ艦船部隊の指揮官バーべー海軍中将は、ソ連代表と陸上で交渉した結果、営口から撤収を余儀なくされた。
同地では数千の中国共産党部隊が、塹壕を掘っているのを目撃した。その数日前、共産兵がバーべーの乗ったランチに発砲したので、彼は葫蘆島でもやむなく海上に引き返した。
営口と葫蘆島は、大連や旅順とともに、満州の南部における唯一の港である。ソ連と中国の共産主義者のため撤収を余儀なくされたアメリカ海軍は、中国北部の秦皇島に国民政府軍を上陸させるよりほかに道がなかった。
勢力争いは、満州と中国北部において、すでに米ソの間に進行中であったが、不幸にしてアメリカ人の多くは、この事実にまだ気づいていなかった。われわれはいまだに「ロシア人を信頼せよ」という、戦時中のたそがれ時期のなごりをとどめており、そのころでも、われわれはソ連と友好的に協力することができ、そうすべきであるという空想をえがいていた。
P234公的な立場にあるアメリカ人にとっては、スターリンの侵略的な行動と邪悪な目的を暴露し、非難し、公然と攻撃することはタブーであった。私に与えられた指令のなかで許されていたように、解放地域に統治権を確立しようとする国民政府の努力に対し、大きな援助を与えることによって、中国共産主義者とクレムリンの主人公の行動を阻止する努力をした、と私は自認することができない。
私が中国方面アメリカ軍司令官であり、また蒋介石の参謀長であったという事実が、問題をさらに複雑にした。日本人の本国送還という、与えられた指令にかくれて、毎日のように追及され、私をしばしば四面楚歌の状況におかれた。
私はつとめて冷静にふるまい、軽率な発言をしないよう用心した。執拗に食いさがる者には、私は政策を決定しているのではなく、ワシントンからの指令に従って行動しているにすぎない、といって応酬した。
私としては、アメリカ政府は蒋介石が満州を接収するために必要とする補給品と武器の援助を与えず、こうした援助を受けない国民政府が満州を占領しようとしても、中国北部に対する権威を再確立する力を持っていないことを知っていたので、中国政府はアメリカ、イギリス、フランス、中国およびソ連の五ヵ国による満州の暫定的な保護を提案するよう、蒋介石に進言した。
これとともに、万里の長城から南方の中国北部に対する、蒋介石の支配力を確実にするため、もっとも有能な行政官と軍事指導者を派遣することが賢明である、と勧告した。
P235私が五ヵ国による満州の保護管理を提案した基本的な目的は、満州におけるソ連の一方的な行動を妨げることであった。私は共産主義者がひとたび勢力を確立したならば、いかなる場所からでも自発的に撤退するものではないことを知っていた。
だが不幸にして、アメリカの執拗な要請によって、ソ連は日本の敗北が既成事実になってから、ようやく対日戦に参戦したのであった。満州は農業と工業の面で、中国本土の経済と統合された豊かな地域であり、安定した中国経済の建設を育成するのにきわめて重要であった。
満州をソ連に売ったヤルタ協定
中国の満州に対する主権は、カイロ会談のさい厳粛に承認され、その後の会談で再確認された。しかしヤルタ会談のとき、ルーズベルトとチャーチルは、ソ連が日本のあとがまにすわりこんで、満州を支配できるような、また影響を与えるところが大きい譲歩を、スターリンに対し秘密に約束していた。
たとえば、旅順は一九〇四-〇五年の日露戦争前のように、再びソ連の海軍基地となり、大連はソ連が関税の検査を受けず、関税を支払わないで商品を売りさばくことのできる自由港となり、ソ連は大連の港湾施設の半分を所有することにとりきめられた。
また、ソ連の満州鉄道の共同所有権も認められた。このように、スターリンに対して満州の事実上の支配権を与えることになる、こうしたすべての譲歩に対し、はっきり同意することを余儀なくさせるよう、蒋介石に圧力を加えることが保証されていた。
要するに、ルーズベルトとチャーチルはヤルタ会談のさい、中国が過去十五年間にわたり、日本に譲り渡すまいと苦心した、満州における帝国主義的な特権をソ連に与えるよう蒋介石を説得することを、スターリンに約束したのであった。
蒋介石はこの事実を、それから数ヵ月後まで知らされなかった。私は、ハーレー米大使が私の面前で、中国の国家権益に関する、ヤルタ会談の背信行為を通告するという、きわめて不愉快な任務を遂行したさい、蒋介石が示した反応を決して忘れることができない。
しかし、蒋介石と国民政府は、これに対して公然と抗議しないで、アメリカの政策に同調した。そして、われわれが中国の犠牲において行ったソ連に対する譲歩を認めた、一九四五年八月の中ソ条約に調印するため、宋子文と王世杰をモスクワに派遣した。
中ソ条約には、ソ連政府が中国に対して精神的支援および軍事物資や、その他の援助をするにあたっては、それらの援助・支援はすべて中国の承認された政府としての国民政府に対して行なう、とされていた。
蒋介石としては、米英が少なくとも、ソ連にこの条項を遵守させるために必要な保障の裏づけを、彼に与えてくれるものと期待していたことは、疑いの余地のないところであった。
しかし、ソビエト政府は、彼らの言いなりほうだいになる中国共産党をあやつって、最初から国民政府の打倒を意図していた。
ソ連は日本が降伏するわずか八日前に、獲物(勝利)を手に入れるため参戦したので、ソビエト陸軍は実質的な敵の抵抗を受けないで、すみやかに満州を師はすることができた。
P237満州の要地をおさえ、すべての交通機関を支配したソ連軍は、日本軍の降伏を受理し、その武器と装備品を接収し、これらを中国共産主義者に陰に陽に利用させた。
さらに赤軍は、移動できるすべての工業施設を撤去し、その他の大部分を破壊するなど、ただちに満州を横暴きわまる手段で利用した。
ソ連が後援していた中国共産軍が使用するかもしれず、また赤軍が満州の占領をつづけるのであれば、ソ連自身が利用できる施設を破壊しなければならなかったことは奇怪に思われた。
私は、こうした不合理に見えるソ連の態度の理由として、クレムリンの指導者たちは、アメリカがソ連に満州にとどまることを認めたり、中国共産主義者に満州の接収を許すほど無気力であるとは決して考えていなかった、という結論に達した。
明らかにクレムリンとしては、この当時までは、P238アメリカが中国国民政府に対し、適当な政治的・軍事的の支援を拒否するとは考えていなかった。
スターリンとその追従者たちは、われわれをためそうとしていたが、ワシントンにいる共産主義者の替え玉によって、アメリカの態度と意図をよく承知していたので、彼らの計算した危険率は小さいものだった。
J・エドガー・フーバーの名著『詐欺師』(Masters of Deceit)のなかに述べられているように、共産主義の同調者とソ連のスパイは、アメリカ政府機関の一部に浸透し、アメリカの政策m計画および公式見解などはこうした浸透者の影響を受けただけでなく、これらの事柄は直ちにモスクワに報告されていた。
そのうえ、アメリカは国際的な陰謀の面ではまだ子供であったので、事態の真相をつきとめるだけの能力を持っていなかった。
われわれとしては、米英が実際上、中国に調印を強要した条約に規定された約束を、ソ連が罰を受けずには無視できないよう、中国に必要な政治・軍事・経済的な援助を与える道義的な義務があると思われた。
いや、それ以上に、中国がソ連の衛星国にならないようにすることは、明らかにわれわれ自身の国家的な関心事でもあった。
ソ連軍の南下を万里の長城で防ぐ
そこで、私は、ワシントンから示された矛盾を漠然とした訓令を、できるだけ弾力性のあるように解釈して、共産主義者の行動を抑制するように努力した。
ソ連政府がヨーロッパにおいて行った約束や協定と同様に、ソ連政府が一九四五年八月の中ソ条約を尊重する意図のないことは、P239このころまでには疑問の余地がないほど明らかになっていた。
クレムリンは、中国国民政府軍部隊の満州進出に反対しただけでなく、中国共産党には降伏した日本軍の武器と装備品を与えて、アメリカをはじめ世界じゅうのいたるところで有力な宣伝機関を利用して、中国共産党を支援した。
私は中国国民政府が自らの力では、こうした情勢におそらく対処できないと考えたので、ソ連に対し中国北部と満州に防衛線を設定するため、アメリカ陸軍の七個師団を中国に派遣するよう、アメリカ陸軍省に要請した。
これに対し統合幕僚長会議から、こうした兵力は派遣できないと回答してきた。しかし、ケラー・E・ロッキー中将の指揮する海兵隊二個師団が派遣され、天津に司令部をおいた。私は、不十分ではあったが非常に貴重なこの増設部隊を、北京から海岸に至る、山東半島を含む地域に配備した。
私は蒋介石とワシントンに対し、国連によって満州を後見とする必要があると勧告したが、そのさい、注意して<信託統治>という言葉を使用しなかった。というのは、この言葉には永久または、少なくとも長期的にという言外の意味が含まれているからであった。
こうした慎重な言葉の選択によって、中国人の感受性をやわらげ、中国が長期にわたる対日戦の荒廃から回復する時期まで、満州を安定した管理のもとにおくという保証について、五大国全部が責任を分担することになる、と私は考えた。
しかし、蒋介石は満州の後見に関する、私の勧告に同意しなかった。彼にとっては、それは政治的な不可能であったかもしれない。日本との戦いは一九三一年満州の地にはじまった。
P240いまや中国は、長期にわたる苦しい試練の末、よろこびと希望にみちた勝利にひたっていた。おそらく蒋介石としては、もし彼が満州に中国の主権を再確立しようとしなかったならば、彼は東洋の全域で面子を失い、こうしたとりきめを理解しそうにない中国国民の間に、彼の威信は失墜するかもしれないと考えた。
そのころ、どんな理由からかわからないが、彼は私の勧告を受け入れず、終戦となるや、直ちに満州の総督を任命し、国民政府軍の一部兵力も満州に派遣して、満州における効果的な行政上の支配体制を確立しようとした。
冬が近づき、満州と中国の北部諸省に寒気が訪れるようになったので、私は中国軍部隊に適当な被服を準備して、軍隊を派遣するよう主張した。アメリカ陸軍の協力をえて、アラスカから飛行機で暖かい冬の被服が届けられてきた。
私はまた、部隊の兵士全員に天然痘の予防接種および発疹チフスとコレラの予防注射をおこなうよう主張した。だが、これは大変な仕事であり、政府軍による満州、とくに満州の北部諸省は直ちに占領したいと希望していた蒋介石の大きな関心事である、派遣部隊の行動を遅らせることになった。
私があくまで主張したので、ついに蒋介石は満州派遣部隊に行なう、適当な準備と予防注射に関する私の計画に賛成した。
私の指示によって行動していたアメリカ第七艦隊司令長官ダン・バーべー海軍中将が、国民政府軍部隊の輸送に使用できる船舶をもっているので、直ちに国民政府軍部隊を輸送することが可能である、と蒋介石に語った。
私は蒋介石に打電し、私が貴下の参謀長である限り、P241満州に派遣する部隊の戦闘能力をじゅうぶん考慮し、慎重に作成した計画を実行すべきであると述べ、もし蒋介石がバーべー提督を参謀長にすることを希望し、この満州派遣部隊の行動について責任をとらせることを望むならば、自分は直ちに辞任するとつけ加えた。
ここで、私は、<面子>ということの重要性をよく理解していたので、蒋介石自身が日本軍の中国派遣軍総司令官岡村将軍の降伏を受けるよう主張したことを思い出す。彼はいつものように表情を顔に出さないで、私に代理をつとめるよう希望した。
私は蒋介石にかわって、中国国防部長陳誠将軍か、中国陸軍総司令何応欽将軍が岡村将軍の降伏を受理すべきであると反対し、「結局のところ、八年にわたった戦争のため、中国は数百万の人命を失い、その国土を荒廃させられたのであるから、外国代表が中国戦線内で敵の降伏を受けるべきではない」と語った。
蒋介石は降伏式のもつ象徴的な意義を理解し、私の提案に同意して何応欽を南京に派遣した。私は、アメリカ軍の野戦部隊指揮官ロバート・B・マックルアー陸軍少将を、降伏式におけるアメリカの代表に任命した。
日本軍の大部隊が武器をすてた他の数地域において、私は中国の将軍が日本軍の降伏を正式に受理するよう手配した。マリノフスキー元帥指揮下のソビエト陸軍が日本軍の降伏を受けた満州のほかに、もう一つの例外は香港であった。
私は蒋介石から、香港にいる日本軍部隊の降伏を受理するため、イギリス代表が同地に向かったという通知が、マウントバッテン提督から蒋介石にあったことを聞いた。これはデリケートな問題になった。
というのは、P242香港と九竜はイギリスの主権領土として承認されていたが、双方とも中国戦線に含まれ、連合軍最高司令官マッカーサー将軍は蒋介石に対し、その責任地域内のすべての日本軍部隊の降伏受理を準備するよう、指令していたからである。
蒋介石と私は、この問題について相談した。その結果、中国の代表が香港における日本軍の降伏を受理すべきであると決定したので、私はただちにこのことをワシントンに連絡した。ところが、これは中国とイギリスの間で解決すべき問題である、という手遅れの返電に接した。
蒋介石としては、とくにマッカーサー将軍から指示されたていたことでもあったので、アメリカ政府が自分の立場を支持しなかったことに失望した。結局、イギリスは中国代表の出席を認めたが、この香港における日本軍の降伏を受理する主役は、イギリスの代表であった。
P242- 在留日本人の内地送還(相互参照)
P244 多数の日本軍兵士の捕虜と一般市民の被抑留者が、送還業務に反抗したり、サボタージュしていたならば、この送還計画の実施が不可能であったことはいうまでもない。しかし、日本の天皇が降伏声明を行った結果、中国における日本軍部隊は非常に従順で、われわれは日本軍部隊の、統制のとれた協力を得られるものと確信した。
日本人が集結させられ、乗船港に向かって出発する直前、シラミ駆除を受けていた地区を視察したさい、私は多くの日本人が示した卑屈に近い態度に驚いた。一万人ほどの日本人の男女と子供とを集結させていたある収容所で、日本人一同が土下座して私の方向に向かい、頭を地にすりつけているのを見たとき、私はびっくり仰天、まったく当惑してしまった(tw)。
P245 われわれの戦争目的は、他の人種の奴隷化であったのだろうか。それとも、人種、皮膚の色、社会的階級などに関係なく、全人類を対等ならしめ、他人を恐れず卑下しなくもよい社会をつくるため、われわれは戦ったのではなかったのか、と私は自問した。
権力におぼれた傲慢な誇大妄想狂から、人に卑屈と恐怖をしいる権力を取り除くために戦ったのである、と私は自答した。わが連合国の指導者たちは、人間の尊厳性の維持についてしばしば言及した。だが、わが連合側の<無条件降伏>要求によって、いまや日本日本は完全にわれわれの慈悲にすがらねばならないハメとなった。
この現実を見て私は、われわれが過誤と愚劣な行動の結果、他日、ソビエトが強大な勢力を得た暁には、われわれもまた、ソビエトの前にひざまずき、その慈悲にとりすがらねばならないようになっているのではないか、と恐れた。
いまや戦争は終わり、敵の占領から解放された地域では、知事、市長、地区の首長など、重要な行政上の職に多数の者を任命することが必要となった。私は蔣介石に対し、軍人以外の有能な文官を起用するよう主張した。
当時、中国には行政官と管理者とが不足していたが、蒋介石としては軍閥政治の確立を避けることが重要である、と一般に見られていた。
P246-中国に対する英国の思惑
P246多数の中国人の状況は、われわれが内地に送還中の、いまや落ちぶれはて昔の面影は見ることもできない、日本人たちよりもさらにひどかった。八年もの戦争の間に、多くの中国人は日本軍のために家を追われたり、日本軍の占領地区にとどまるよりも自発的に西方の諸省に非難したのであった。
いまや、こうした人たちを自分の家にもどし、この戦争のため荒廃した国土に、どうにか生活できるよう準備しなければならなかった。
日本軍は長期にわたり、中国の工業、商業および文化の中心である東部の諸省と海岸地域を占領し、また共産主義者が勢力の中心地とした、一部の農村地域を除いた北部諸省をも支配していた。
国民政府は中国の再建と復興とに、ほとんど克服できないほどの難問題に直面した。西欧の産業が進歩した諸国~これらの国では、戦争による損害の程度は中国より少なかった~が、アメリカの数十億ドルにのぼる援助がなければ達成しできなかった、こうした国家経済再建の仕事は、中国においてはほとんど実現不可能であった。
それは、対日戦の終結にひきつづいて、中国はモスクワの指導する共産主義者の猛攻に、対処しなければならなかったからである。
それだけではなかった。理由は違うが、イギリスもソ連と同様に中国を弱体化し、不統一のままにしておくことを希望していたのは、明らかであった。その意図するところは、P247主として通商上の権益によるものであった。
イギリスは中国の強化、独立を援助しようとする、アメリカのおぼつかない努力に反対した。こうしたことには、はっきりした証拠の裏付けがあった。私は中国の自給自足化をはかるため、大小の諸改革に着手するよう中国を援助していたが、ある出来事のために一度、アメリカ本国へ帰ってくる必要にせまられてきた。
蒋介石は終戦前、アメリカ軍の装備を国民政府軍にひきつづき使用したいこと、またアメリカから機械類、通信器材および輸送装置の購入を希望していることを明らかにしていた。また、彼は、中国はトラックとバス、技術者、技師、農耕学者、財政専門家および軍事顧問も必要とする、と語った。
中国としては、過去における外国の支配と経済搾取のにがい経験があり、また、アメリカが単独で戦争中に中国を援助した事実から見て、この国の戦後の再建のための補給源としてアメリカをたよりにしたことは、きわめて当然のことであった。
他方、今日の近東地域で見られるように、イギリスが、かつての自国の市場にアメリカ商品の販路を開拓しようとしている、と解釈できるアメリカの行動に対し、疑惑の目でながめたのも当然であった。
このため、私が中国において発生していた異常件数に達する交通事故を、大幅に減少させようと努力したとき、それはまだ終戦前であったけれども、私がアメリカに帰って打ち合わせてくる必要が生じた。
数千年にわたる中国の交通機関~かご、ラクダの隊商、人力車、ウマ、馬車~は、イギリスと同様に道路の左側を通行していた。交通事故のおもな原因の一つは、中国における車両のほとんどが、自動車もトラックもアメリカ製であったので、P248ハンドルとライトは道路の右側通行に設計されていたことであった。
(略、交通規則を右側通行に改正する話。左側通行のイギリスの反対で予定が遅れたが、終戦後の一九四六年一月に右側通行になった)
P250- 戦争をフットボール視した米国
P250アメリカはこんどの戦争を、フットボールのゲームのように戦った。つまり、ゲームが終わると、勝者は勝利を祝うためグラウンドを立ち去って行くように戦った。戦争が終った後、アメリカはわれわれの<同盟国>の目的がはっきりと異なっていたにもかかわらず、戦争の目的が確実に達成されないうちに、アメリカ軍部隊の動員を解除すれば悲惨な結果を招くこと、を思いつかなかった。
そこで対日戦が終わると、他のすべての戦線のアメリカ軍指揮官と同様に、私は指揮下の部隊の動員解除に関する指令を受けた。司令部の第一課(G-1人事担当)は、輸送船の都合がつきしだい、本人がきわめて重要な配置にあって、他の者に交代させることが困難な場合でもP251~それにとんちゃくなくすべての兵士を~点数制度によって、本国に帰還させる命令を実行するための計画を作成した。
(略)
P252問題なのはアメリカ国民が、遠い地域の戦後の実情を理解していないことであった。アメリカ国民は、ドイツと日本の無条件降伏によって、ヨーロッパとアジアに真空状態ができたことに気づいていなかった。
彼らが知っていたことは、敵が降伏し、アメリカのすべて都市や村で行われた、そうぞうしい戦勝祝いだけであった。アメリカ国民としては、戦争に勝ったのだから自分たちのむすこはすぐ家に帰ってくる、と考えたのは無理からぬところであった。
そのうえ、われわれの指導者たちは、平和をかちとるために強大なアメリカの軍隊を維持する必要があることを、率直に国民に知らせるほどの気力も純真さも持ちあわせていなかった。
多くの国会議員は、自分たちの選挙民をよろこばせ、次の選挙での当選を確実にするため、子弟をアメリカに帰すことを主張していた。彼らの大部分は、共産主義者の国際的な陰謀は、P253われわれが完全に打倒したナチスや日本人よりも、さらに大きな危険性をはらんでいる事実に気づかなかった。まさに強力な理性的指導体制が望まれるときであった。
それなのに、アメリカの議会は「われわれの子弟を帰せ」という要求にほとんど例外なく屈服し、アメリカの海外にある兵力を減らし骨抜きにするよう、軍部に圧力を加えてきた。
こうしたことはすべて共産主義者が極めて巧妙に、かつ大々的にまき起こした戦後のヒステリー症状であったのだ。
クラスメートのジャック・バンス
P253(抜粋)一九四五年九月、ハーレー大使と私は再び帰国の命令を受けた。われわれは飛行機で重慶からマニラに直行し、太平洋を横断してサンフランシスコへ、ついでワシントンに向かった。
P254(抜粋)ハーレーはトルーマン大統領に、健康の都合で大使として中国に帰任できないかもしれない、と語った。重慶の生活状況は、どちらかといえば苦しかったが、中国の東海岸が日本軍の占領を解かれて、海上の交通線が開けてからは、アメリカからの食糧補給も行われるようになった。
ハーレーは大統領に、彼の後任として私を推薦したので、私があとで大統領に単独会見すると、大統領は、中国大使に任命されることを希望するかとただした。私はマーシャル将軍に相談してから、はっきりした返事をすることにした。
マーシャル将軍は率直に「きみがこうした仕事に関心があれば別だが、そでないのなら国務省の仕事には関係するな。ぼくとしては、きみは陸軍にとどまるべきであると思う」といった。
そのころマーシャル将軍は、バージニア州リーズバーグのりっぱな邸宅で余生を楽しむため、陸軍参謀総長を辞任する考えでいた。彼の言葉によると、実業界やその他から勧誘を受けたが、すべて断ったという。こうした勧誘のなかには、途方もない高給を申し出たものもあるが、「われわれ軍人は、金では買えない生活から、なにものかを得ていることを知っている」と、将軍はつけ加えて語った。
P254
P256
P255(抜粋)私の短いワシントン出張中、私はトルーマン大統領と統合幕僚長会議から、アメリカの中国における権益と中国国民の将来の見通しなど、中国に関する報告書を提出するよう命令された。P256そこで私は、帰任の途中、この報告書の基礎となる実情を調査するため、奉天と北京、ついでに上海を視察した。
大統領とマーシャル将軍は、私が明確な結論を出すことを遠慮した方がよいと考え、また軍人が政策に容喙するとの批判を国務省から受けないようにするため、明確な勧告をすることをさけ、選択の許される数案の実行策を提案せよ、とのことであった。
私の一九四五年十一月二十日、統合幕僚長会議あての長文の暗号電報(付録第四参照)に見られるように、私は中国に対するただひとつの政策が、アメリカおよび自由世界の権益を保持できること、すなわち、それはわれわれの同盟者である中国国民政府に対しはっきりした援助を与えることである、と明言することを考慮して、中国の情勢に関する私の見解を明確に述べたにすぎなかった。
その当時はもちろん、またその前後においても、私は中国における不吉な情勢について説明し、アメリカの明確にして断固たる対中国政策の決定を促進させるため努力したが、ワシントンからは、はっきりとした一片の指令も届かなかった。
本末を転倒した中国政策
P256私の受けた指令が、実情にそぐわず、矛盾した性質のものであることは、私がワシントンで行われたトルーマン大統領、国務長官および統合幕僚長会議などの会談から中国に帰任し、蒋介石に提出した一九四五年十一月十日の私の報告のなかに述べられている。
P257トルーマン大統領は、"蒋介石と中国国民政府に対し、ひきつづき援助を与えると約束した”と、報告できたのは私にとって幸いだった。しかし、この保証は、大統領の政策に全面的に同意し(中国に対する軍事援助)を認めながらも、次のような統合幕僚長会議の指示によって、ほとんど無意味に近いものとなった。
「…(略)…アメリカ軍は内乱(原文のまま)にまきこまれるべきではない。すなわち、中国派遣アメリカ軍部隊は、中国政府とイギリス、フランス、ソ連その他の外国との関係において、超党派的な立場にとどまるべきである、とアメリカ軍の幕僚長たちは強調した。この指示は、われわれがアメリカの対中国援助は、中国の国内事情の安定によって左右されると考えながら、その安定はアメリカの援助と支援によって保証できるものなのに、本末を転倒して政治的・軍事的な考慮よりも経済的な点を重視したばかりでなく、アメリカのP258対中国援助は、実際には、国民政府が共産側と妥協するか否かに、かかっていることを示唆したものであった。
中国軍部隊の展開を支援するアメリカの援助は、もし、この軍隊がアメリカにとって受け入れられない中国政権を支援しようとして、内戦または侵略の脅威を与えるために使用されるなど、アメリカ政府の意向にそわなかった場合には、幕僚長たちは、こうした援助を中止することを条件として明示した。
中国において国民の意志をじゅうぶんに代表した統一政府のもとで、どのくらい政治的安定が達成されつつあるかということは、アメリカが経済、軍事その他の中国援助を決定するときのつねに基本的考慮事項とみなされる。
中国援助継続の可否については、この基本的考慮に立ってアメリカ政府が定期的に検討することになろう。」
しかも、中国共産主義者はモスクワの指令下にあったので、たとえ無意識ではあったにせよ、アメリカは事実上、アメリカの援助を犠牲にしてモスクワへの服従を、中国国民政府に要求したのであった。
一九四五年九月、米中連合軍司令部の幕僚長たちが、中国国民政府軍部隊の再配置計画を共同で作成したさい、私は蒋介石に対して"前途に障害が待ち構えていたり、中国共産主義者あるいはソ連によってこれからの情勢がつくりだされる"ことを、この計画では考慮にいれていない、と報告した。
だから、この再配置計画は最初は適当であると考えられ、部隊は"予想される情勢に対処するのに適当である"と判断されていた。しかし後になって、情勢上、"かつて日本軍が占領していた地域に、多数の国民政府軍部隊を配備する必要がある"ことが、はっきり理解されるようになった。
要するに、私は、アメリカとしては、中国を明らかにオオカミどものえじきには供したくないにしても、クマの抱擁から救いだす気持ちは持っていない、と蒋介石に報告しなければならなかった。蒋介石に対する報告で、私は次の指令を受けたことを述べた。
「アメリカ軍司令官としての私は、私の指揮する軍隊を中国国民政府軍と中国共産主義者、ソ連共産主義者、その他の中国および満州における、見解を異にする分子との間にまきこませ、または、その介入を許すことはできない。私がワシントンから与えられた指令には、中国国民政府と共産主義者間の問題の解決は、厳密中国国民政府の責任として示されている。さらに私は、アメリカとしては、蒋介石が満州について、ソ連と同じ条件で交渉するために必要な支持を与えようとしていない、と報告しなければならなかった。
P259しかし、蒋介石付き参謀長としての自分は、よろこんで複雑な中国の国内事情をよく研究し、提起された諸問題については、よく検討を加えたうえで、その解決策を見つけるよう助言するつもりである。」
私は「自分は(満州に進駐する)計画の作成について、中国側を援助することは承認されているが、アメリカ軍を満州に派遣することはできない。アメリカとしては、満州については、中国とソ連の両国政府間でとりきめが行われるべきである、と考えている」と述べた。
また私は、蒋介石は西側の意見を無視することはできない、と述べなければならなかった。私は「アメリカの新聞には、中国における排外風潮を示唆する記事が報道された」と語り、「すべての外国との間の善意を助長するため、あらゆる手段をとる必要がある」と勧告した。
私はアメリカにおけるイギリスの影響力の強さを理解していたので、"中国は軍事的にも、経済的にも、自立の準備ができていない"から、中国は治外法権その他の外国の特権を撤廃するにあたっては"礼儀正しい、しっかりした態度によって"のみ行わなければならない、と提案した。
これから、四年ほどすぎた一九四九年九月二十六日、ノーランド上院議員が当時の、私の蒋介石に対する秘密報告が中国文書課の首席書記~最初、私の司令部に、その後はマーシャル将軍の事務所に勤務した~の職にあったチン・ヌー・チ(漢字名不詳)という、共産側スパイの中国人により、共産側の手に渡っていることを明らかにした。
この中国人は書記として、アメリカ側のあらゆる文書を取り扱い、必要なものの翻訳をしていた。一九四九年四月、彼は公然と共産主義者に宗旨を変えた後、「米国・蒋介石の陰謀に関する秘密報告」(Secret Report on the United States-Chiang Kai-shek Conspiracy)という書を発行し、そのなかで彼が共産側のスパイを働いていたことを告白した。
マーシャル、特使として中国に
一九四五年十二月、マーシャル将軍から私に、大統領より中国へ特使として勤務するよう要請されたので、近く着任するという連絡があり、要員とその準備について、彼は私の意見を求めてきた。
私は有能なヘンリー・バイローデ陸軍大佐を将軍の中国における事務所の管理主任に、マーシャル・S・カータ陸軍大佐(のち少将)を将軍と大統領、国務省および陸軍省の間の通信連絡を処理する責任者に、それぞれ推薦した。
さらに個人的な秘書も必要であると考え、そのころ将軍の秘書をしていた若くて聡明なモナ・ネイソン嬢を同道するように勧告した。
マーシャル将軍がアメリカ大統領の代理として、大使の資格で中国に赴任するという発表は、中国側だけでなくアメリカ大使館にとっても大きな関心事であった。ハーレー大使はすでに辞任していたが、その後任はまだ任命されていなかったので、ウォルター・S・ロバートソン公使が、中国におけるアメリカの首席外交代表であった。
彼はマーシャル将軍とは面識がなかったが、将軍が近く到着するとの報道を歓迎した。ロバートソンは本来の外交官ではなかったが、戦時中は政府の各種の重要な職につき大きな貢献をした。
蒋介石はこの件についてとくに関心を持ち、マーシャル将軍の中国訪問の真の目的について、私にいろいろと質問をした。私には、蒋介石がスチルウェルを中国勤務から解任させるようにしたので、蒋介石としては、マーシャル将軍の蒋介石に対する態度には、P262なにか割り切れないものがあるように感じている様子がいつも見受けられた。
私は、中国とアメリカにとって、マーシャル将軍のように貫禄のある人物が中国を訪れ、政治と経済復興の実現を援助してくれるのは幸運である、という見解を述べた。
蒋介石はマーシャル将軍とその一行のレセプションと宿舎について、入念な計画をたてた。将軍の飛行機が上海空港に到着したとき、そこにはアメリカと中国の儀仗隊が整列していた。私は将軍を出迎え、将軍のために特別の部屋を用意しておいたカセー・ホテルに案内し、一行がくつろいだのを見とどけてから、デベロップメント・ホテルの私の事務所にもどった。
しばらくしてマーシャル将軍から将軍の部屋にくるようにとの電話がかかった。われわれが将軍の最初の蒋介石訪問について相談しているとき、将軍はスーツケースのなかから、大統領から与えられていた訓令の写しを取り出した。
この訓令には、中国の国民党と共産主義者による連立政権の樹立が要求されていた。私はマーシャル将軍に、共産主義者と国民党の間の妥協をはかることは不可能であると考えると述べ、その理由として、まだ大きな勢力を持っている国民党は、その勢力の一片でも手ばなさないことを決意しており、他方、共産側はソ連の援助のもとに、すべての勢力をかちとろうと、同様に決意していることを説明した。
マーシャルと意見の衝突
マーシャル将軍は、憤然とした表情で「自分としては、国民党と共産主義者との連立政権P263を樹立するという使命を達成できるつもりだから、きみはぼくを援助すればよいのだ」と語った。
私はできるだけの援助を惜しまず、中国戦線にあるアメリカ軍の部隊や資源は、すべて将軍の意のままとし、すでに私の幕僚のなかで、もっとも有能なパウル・カラウェイ将軍とJ・H・カフヘイ陸軍大佐の二人を、将軍に配属することにした、と答えた。
マーシャル将軍のきげんはわるく、夕食のときでさえ、不快な表情を示しつづけていた。その夜、私は途方にくれた。将軍は、私が個人的には彼に献身的に仕え、非常に尊敬していることを、はっきり知っているにちがいない。
カサブランカ会談のさい、「きみがいつも思ったとおりの意見をぼくに伝えなかったならば、きみがぼくに奉仕していないことになる」と語った将軍の言葉を、思い出した。
私としては自分の考えを率直かつ自由に述べたのであるが、それについて将軍が私に、ほとんど敵意に近い冷淡な態度をとるのは、いったい何がそうさせたのであろうか、と思案した。
ついに次のとおりの結論に達した。すなわち、戦時中の激務による過労が将軍の心身をいためつけ、またアメリカからの長途の飛行機のために将軍は疲れているのだ、と。
その翌日、マーシャル将軍は南京に行き、蒋介石を訪問した。私も随行したが、この会談はきわめてなごやかなもので、私はこの二人が前途に横たわる困難な仕事を達成するため協力し合う、という確信をいだいた。
ついでマーシャル将軍は、ウォルター・ロバートソン公使と長い時間会談した。P264公使はアメリカ大使館の状況を説明し、将軍が大使館員を自由に使うよう述べた。
ここで私は、それまでの数ヵ月間、ロバートソンと私とは密接に協力し、とくに彼が中国におけるアメリカの余剰物件の処分についての交渉で、私を援助してくれたことを述べておかなければならない。この交渉の結果、ロバートソンの現実的で確固たる態度と、適切な判断とによって、アメリカは数百万ドルを節約することができたのである(付録第一参照)。
マーシャル将軍は、蒋介石が将軍とそのスタッフのために用意した宿舎のある重慶に、少なくともしばらくの間、本部をおくことにした。私は毎週、私の指令部のある上海から飛行機で重慶に行き、前線の動員解除状況と日本人の本国送還の進行状況とについて、将軍に報告した。
その年の十二月後半、アメリカ陸軍長官ロバート・パターソンが世界旅行の途次、中国を訪問した。(略)P265パターソン長官は、上海を出発するまえ、辞任を決意したハーレー大使の後任に、私がなる考えがあるか否かを聞いてくるように頼まれた、と語った。
私はさきに大統領から、中国駐在大使になる意向をただされたさい、この問題をマーシャル将軍に相談したところ、陸軍にとどまるよう助言されたと答え、大統領の厚意は感謝するが、私には中国におけるアメリカ軍司令官として、果たすべき多くの任務があり、とくに前線の動員解除と日本人本国送還という仕事が残っていることを、大統領に説明するよう、陸軍長官に依頼した。
パターソンの出発後、私は重慶のマーシャル将軍を訪れた。将軍からのいろいろな質問に対する答えのなかで陸軍長官のおもな関心事はアメリカ陸軍の動員解除であるように思われたと語り、ハーレー大使の後任になるつもりあるか否かを私にただすよう、陸軍長官は依頼されていたことを、不用意にもらした。
するとマーシャル将軍は、私がそれを受けるべきだと語り、彼の数週間の中国滞在中に、国民党と共産主義者の双方とも、私を尊敬していることを知ったので、彼の困難な使命を達成を援助できるものと考える、とつけ加えた。
私は将軍を援助する考えであり、将軍がご希望ならば大使就任を引き受けるが、長いこと悩まされた痔瘻の手術をする必要があるので、アメリカに帰国したいと答えた。
マーシャル将軍は大統領に電報し、P266パターソン陸軍長官に答えた大使就任についての私の否定的な返事を取り下げ、私を中国駐在アメリカ大使に任命するよう要請した。
一九四六年四月、私は再びアメリカに向けて出発した。中国戦線の動員解除は終わり、アルバン・C・ギレム陸軍中将が、中国に残留するアメリカ軍部隊の指揮官に任命された。
マーシャル将軍は、私を中国駐在アメリカ大使に任命するよう勧告したが、アメリカの対中国政策のあり方について、彼の見解は私の考えと異なっていることを、はっきりと感じとった。
ハーレー大使が一年前に見ていたように、私は中国国民党とクレムリンの支配下にある中国共産主義者との間に、和解の可能性はありえないと考えた。私が大使就任について、マーシャル将軍の希望に同意したのは、将軍が中国における共産主義者の脅威が、アメリカにとって危険なものであることを認識するうえでお手伝いできるかもしれない、という希望をまだ、いだいていたからであった。
第二十四章 混迷する対中国政策 P267-290
中国共産党の横槍P267一九四六年五月、アメリカに帰国した私は、陸軍病院に手術を申し入れ、中国駐在大使に任命されるまでは、陸軍省付きに補せられた。六月一日、国務次官ディーン・アチソンから、国務省にくるよう連絡があった。
アチソンはマーシャル将軍から大統領あての電報を私に示したが、そのなかには、私が中国駐在大使に就任するニュースがもれたので、マーシャル将軍の中国共産主義者とのデリケートな交渉に大きな支障を生じた、という意味のことが述べられてあった。
共産主義者は、私が戦時中に蒋介石と密接な関係にあったことや、終戦となるや機を失せず、国民政府軍部隊を中国北部の要地に進駐させる措置をとったことなどで、共産主義者と国民党の双方に対して、公平でありえないという理由から、私の大使就任に抗議したのであった。
アチソンは、自分としては気の毒に思うが、私の大使任命はとりやめにしなければならない、と語った。(略)
私は部隊の指揮に専念し、政策は政治家にまかせることを切望したが、祖国に対する関心と、アメリカの対中国政策に対する心配は高まる一方だった。最初に大統領特使として中国に派遣され、後には国務長官となったマーシャル将軍が実施している対中国政策の危険性について、私はしかたなく指摘せずにはいられなかった。
メリーランド州フォート・ミードの第二軍司令官に就任するため、ワシントンを出発するさい、私はフォレスタる国防長官の要求によって覚え書きを提出した。この覚え書によって、私と私の尊敬していたマーシャル将軍との仲たがいのミゾは、いっそう深められる結果となった。
(略)
P270その当時、マーシャル将軍と将軍が代表した有力な政治勢力(国務省を指す)に公然と挑戦した私は、この覚え書きのなかで、次のように書いた。
「マーシャル将軍が、パリの平和会議をめぐるデリケートな情勢と、アメリカとしては現在、外交政策および国際関係において、大戦中の敵味方のいずれの側にもかたよらない厳正中立の立場を守る必要のあることの二点について、認識しているかどうか疑問がある。P271私は、トルーマン大統領が米ソ関係の徹底した分析検討とこれについての勧告を要求したことを、知っていた。われわれ軍部の研究はいずれも、アメリカは中国~できるかぎり強力にして、統一された中国~と友好関係を維持することが、アメリカの利益という見地からきわめて重要である、という結論に達していた。
現在の世界情勢は、ある種の国際的均衡状態を維持しようとするさいに、ソ連およびソ連と密接な位置にある中国が果たす役割~善悪いずれにしろ~によって影響されいるので、マーシャル国務長官が現在の世界情勢の複雑な国際関係について、じゅうぶんに理解しているかどうか疑わしい。
マーシャル長官が、トルーマン大統領の要求によって作成されたソ連情勢に関する、明確かつ力強い研究を利用していないのは、不幸なことである。」
それまでに国防総省で考えられたところでは、これに代わる結論としては、ただひとつ、すなわちソ連に支配された中国が現出するというのであった。
陸軍参謀本部の情報部(G-2)は、中国共産主義者が直後モスクワと連絡している事実を証明する、動かすべからざる証拠を持っていた。私は、「陸軍長官のファイルのなかには、トルーマン大統領が数日前、アメリカの政策の基本的態度のひとつとして、アメリカは中国国民政府に対する支援つづけなければならない、と確信したことを示す公式書類がある」と覚書に書いた。
マーシャル将軍の中国に関する言明は、アメリカ国民や世界の多くの国から聖書の字句と同じように、全幅の信頼を寄せられていたので、将軍が「中国の内戦は現在も行われており、将来もつづくだろう」と述べたことから見て、アメリカは中国から手をひくよう決意していると思われる、大きな危険が感じられた。
私は覚え書に述べた見解を、次の言葉で結んだ。
「ここしばらくの間、とりうるただひとつの有効な行動としてマーシャル将軍に示したいことは、P272アメリカの対中国政策~中国の内戦の有無にかかわらず~が変化する可能性があるか否かの示唆は、きわめて重大であるので、将軍としては、現在、アメリカの立場について、決してコメントしてはならない。共産主義に無知だったマーシャル
さらに、中国共産主義者の承認をほのめかすべきではない~いままでのこところ、たいして言質を与えていないが~。最後に、もしマーシャル将軍が、世界情勢およびソ連情勢について説明を受けていないならば、この件についての重大性を述べてある報告書を、トルーマン大統領から受け取る必要がある。」
私は、中国駐在大使としての内命を共産主義者の反対のために取り消すよう勧告してきた、マーシャル将軍の態度を憤慨した。しかし、将軍がひとたび中国情勢について、適切な報告を受けたならば、
"中国情勢の現実と、のちに<冷たい戦争>と呼ばれるようになった、米ソ間の全世界的な争いにおける、中国情勢の複雑なからみあいを理解するようになる”と信じていたし、そう信じたいと願っていたのである。
その当時(一九四七年)はむろんのこと、その後においても、私はマーシャル将軍の行動の動機を決して非難しなかった。私は、進んで売国奴を支持した、あるいはアメリカ政府部内における破壊的な共産主義同調者の道具になっているとして、マーシャルをきめつけようとしたマッカーシー上院議員のやり方に、あくまで反対であった。(参考『共産中国はアメリカがつくった-G・マーシャルの背信外交』)
今日でも、私がマーシャル将軍の部下として<勝利の計画>の作成を援助した戦時中のように、私は将軍のアメリカに対する献身的な奉仕を確信している。
P273しかし自分は、将軍がアメリカの対中国政策の責任者になるまで、また、第二次大戦に勝利をおさめるため何年間も、陸軍参謀総長として最高度の努力をささげ、ついに心身をすりへらしてしまったことも、よく知っている。
マーシャル将軍は、私利私欲のためや代表する国家またはイデオロギーのために目がくらんだ、各種各様の諸国民から、つねに激しく攻撃されつづけていたので、アメリカのながい将来を見通した忠言に耳をかさなかった。
また、彼は<周辺作戦>でアメリカの戦略を妨害したイギリスのため、絶えず悩まされつづけた。将軍は、共産主義者の手段について研究する時間も機会もなく、また研究しようとする気持ちも持たず、中国のすべての罪悪を蒋介石政府のせいにした、旧友スチルウェル将軍の報告を、やたらと信じていた。マーシャル将軍はまた、ルーズベルト大統領の気まぐれとも、戦わなねばならなかった。
ルーズベルトは、第四期の大統領就任期なかばにもうろくする以前でさえも、陰謀家どもや共産主義に対しては腰ぬけのインテリたちにとりかこまれていた。彼らは大統領夫人にとりいって、そのひいきをほしいままにし、また大統領の信任あついハリー・ホプキンズなどから、大きな権力を与えられていたのである。
もともとマーシャル将軍は軍人であり、国際社会における闘争の複雑性についてほとんど知識がなく、また共産主義者が社会正義のために偉大にして崇高な願望を、彼ら自身の極悪非道な目的を達成するために悪用する特殊技能については、なんにも知らなかった。
そのうえ、P274将軍は自分の運命を決するような重大使命をおびて中国に派遣される以前に、中国情勢を正しく評価できないほどに心身をすりへらしてしまっていた。最後に、私はマーシャル将軍以上に尊敬した人物はいないので、将軍は権力や権勢の最高位についた人物のうち、たいていの者がおちいりやすい罪悪から免れることができなかったのだ、と認めなければならないことを非常に残念に思うのである。
アクトン卿の有名な格言によれば、「すべての権力者は腐敗し、絶対的権力者は絶対に腐敗する」と。マーシャル将軍は絶対権力こそ持たなかったが、将軍の第二次大戦の終結時における名声はきわめて高く、その政治的な影響力は圧倒的なものがあったので、将軍は不可能なことを可能であると考えた。
こうして、自己の目的を達成させるため、将軍のうぬぼれを利用した共産党の秘密党員や、共産主義に同調するへつらい者のために、将軍はまんまとそのえじきにされたのである。
もし、そうでないというのであれば、中国国民党とモスクワの支持する中国共産主義者との基本的に相反する政治目的を調停しようとして、水と油を混ぜ合わせるような不可能なことが実現できるとは、将軍は決して信じなかったであろう。
一九四六年十一月十八日、私は国防大学における講演で、中国戦線における経験を慎重に語った後、次のように述べた。
「私はこうした経験から、中国の情勢を早急に改善できることを学んだ。一九四五年にえた大きな収穫と学んだ教訓とは、第二次大戦で最後の勝利に間に合うよう大きく役立たせるには遅すぎた。私はマーシャル将軍と国務省の政策に言及し、私の見るところでは、蒋介石は、"アメリカの現実的な援助~援助の量ではなくて、援助提供にあたって適用される聡明さで測られるもの~がえられたならば"中国統一と国民政府の立憲制度化に向かって前進できる、と述べた。
だが、われわれは、太平洋方面でアメリカ軍に対して投入されいたかもしれない、百五十万の日本軍を中国大陸にくぎづけにしていた事実を、見落とすことはできない。われわれは、蒋介石とその同僚はわれわれに協力することが可能であり、また協力するであろうことを学んだ。
蒋介石とその同僚は、彼らの軍隊と国民の状態を改善できるし、また、これまで改善してきた。彼らは、アメリカから好意ある具体的な助言をえたとき、急速に進歩した。」
私は、中国の複雑さは全面的で悪名高い~しかも突発的に撃ち合う~内戦によって、さらに複雑さを加えており、
"われわれは、蒋介石と国民政府は全体主義的で腐敗し圧制的であるが、中国共産主義者は、その農業経済と政治機構の点で、民主的であるという話を聞いている"
と語った。だが私は、こうした話のなかには、いくらか真実性のあるものもあったが、それは中国情勢の実際を示していない、ことを認めた。
日本が降伏したとき中国にいたわれわれには、中国経済が八年にわたる戦争と日本軍の占領によって、すさまじい荒廃と狂いを生じたためだけからではなく、"二十五年前からの根深い、国内諸問題、激しい憎悪感情、政治的な中傷"のためにも、中国が重大かつ切実な諸問題に直面することは明らかであると見られた。
P276マーシャル将軍の中国情勢に関する分析に言及し、私は次のように述べた。
(略)
私は前述したことの論拠として、ドイツが対ソ連攻撃を開始した一九四一年六月二十二日以前には、P277中国共産主義者がイギリスの戦争努力を激しく非難していたことを指摘した。独ソ戦勃発後は、中国共産主義者はアメリカの共産主義者やその同調者のように、その態度を百八十度変えた。
またソ連が、中国国民政府だけを支援すると約束した一九四五年八月一日の宋・モロトフ協定に違反し、中国共産主義者へ完全に協力したことは周知のとおりである。ソ連は、蒋介石が終戦後に軍隊を再配備したさい、大連~宋・モロトフ協定ではだれでも使用できる開港場に指定されていた~の使用さえも中国に拒否した。
こうしたことや、その他の多くの理由から私は「中国共産主義者はモスクワと実際に提携している真の共産主義者ではない、という考え方には頭から反対である」と述べた。
マーシャル批判の講演
私は軍人であり、中国戦線における日本軍との軍事作戦に専念してきたが、政治や経済的な出来事にまったく無関心ではいられなかった、と国防大学の後援で語った。
蒋介石の参謀長として、私はあらゆる情報に接することができ、職務のために中国のあらゆる地域を旅行する必要があった。
私は中国のあらゆる階級の人びとと接し、政治、経済、軍事上の問題などについて話したが、こうした階級のなかには、共産主義者、国民党員、社会民主主義連盟の支持者、中国青年運動の指導者、農民、実業家、学者などが含まれていた。
私は中国戦線で起こった重要なP278出来事を分析検討するさい、客観的態度でのぞみ感情にとらわれないように努力した。私の経験を基礎として、「中国共産主義者は熱狂的なマルクス主義の革命者であり、彼らの目的達成のためには手段を選ばず、全力を尽くして共産中国の実現をはかろうとしている」と、確信するに至った。
そこで私は、中国共産主義者の当面の目的は<政権獲得>にあるので、"現在のところソビエトの経済制度を中国に適用することを重視していない”から、さしあたり"その終局目的を達成するため、ある種の民主主義的な手段を用いることをためらうものではない"と、この講演につけ加えた。
この同じ講演のなかで、私は、中国国民政府は独裁主義とか全体主義であるとか、しばしば嘲笑的にいわれているが、国民党の終局の目的は立憲共和国の樹立であるのに対し、共産主義者はソ連方式による、全体主義の独裁体制を建設しようと希望しているので、国民政府とその敵である中国共産主義者との目的の間には、根本的な相違があると述べた。
私は二年間の親しい接触によって、蒋介石は個人的に率直で、私心のない指導者であり、中国国民の福祉に大きな関心を持ち、孫文の教訓にしたがって、立憲政府を熱心に樹立しようとしていることを、確信するにいたった。
しかし、こうした立憲政府の樹立は、中国が最初に日本と、ついでソ連の支援する中国共産主義者と戦っているかぎり、実現不可能なことはいうまでもなかった。
私は講演での質問に答えて、「ただひとりの人間で、中国の複雑な問題を解決できるものではない。P279私が諸君に保証できることは、蒋介石は誠実であり、真にキリスト教徒の紳士であり、策略やごまかしという欠点もなく、私に対していつも率直であったことである」と述べた。
私は蒋介石の最大の欠点は、友人や昔からの支持者に対する誠実さであった、と考える。彼の顧問たちの側近のなかには、節操も能力もない人間どもがいた。蒋介石に対して、こうした人物を解任させるように納得させることができなかったならば、中国情勢の将来について推測することは、困難であった。
そこで私自身、蒋介石に対して、彼の部下には非常に無気力で不正直な者たちが多いので、彼が中国の国民のために考えているりっぱな計画は、こうした人物を追放しないかぎり、決して達成できるものではないと、述べた。
蒋介石は、こうしたグループのために、中国におけるもっとも愛国的で有能な、多くの人びとと接触し援助を受けることを、妨げられていた。私には、蒋介石は政治的に機敏で、理論的な考え方と迫力にとむ性格の持ち主であるが、家族と友人に対して誠実であることを要求する儒教の教えのために、おしつぶされているように思われた。
蒋介石は、彼をとりまく側近者の解任に反対したため、中国におけるもっともすぐれた有能な人物たちのうち、一部の者を遠ざける結果になった。
そのうえさらに、私の見るところでは、蒋介石は"中国を統治するための、教育された行政官と専門家に極度に不足していた"ので、不利な立場に立たされた。
中国の国民の八〇パーセントは農民であり、その文字の読めない人の程度を見積もることさえ困難であった。P280中国にはきわめて裕福なわずかな上流階級、ごく薄いサラリーマン階級、わずかばかりの中産階級、それに、みじめな貧困と無学でも字の読めない生活を送っている、多数の国民からなる階級がある。
中国を長い間の貧困から脱却させ、国家を統一し、進歩をはかろうとする中国政府の直面した困難な状況は、すべて国土を悲惨な状態に荒廃させた八年間の対日戦と、それにつづく共産主義者の略奪と破壊によって、とてつもなく大きくさせられたのである。
こうした状態の中国に政治を改革し、民主主義化を要求することは、暴風雨のさなかに、こわれた屋根を修理せよ、と人にいいつけるようなものであった。
国防大学で講演のあとの質問の時間に、私は中国における改革の進行はゆるやかに行われるべきだと述べた後、次のように語った。
「われわれアメリカ人はせっかちであり、また能率的である。イギリス人もまた同様である。われわれは目標をみつめて、それを達成しようと強く望む。われわれは遅延と迂回にがまんができない。中国の実情をアメリカ国民に知らせるにはどうしたらよいか、という学生の質問に対して、私は、共産主義者はその主義、主張を宣伝するため、全世界に驚くべき宣伝機関と、少数ではあるが訓練された宣伝家を持っているけれども、蒋介石の報道や宣伝の組織は、きわめて貧弱であると答えた。
私はしばしば到達目標を定めた。私はこうした到達目標を蒋介石に勧告したが、その勧告はなかなかに実行されず、私は失望させられた。私は絶えず自己反省しなければならなかった。中国における生活のリズムと様式は根本的に、または急速度に改革できるものではない。
諸君はヨーロッパの歴史については先刻ご承知で、『権利の章典(権利の宣言を確認した一六八九年制定の法律)』が制定し施行され、立憲政治が創設されるまでには、数百年P281を必要としたことを承知している。
現在、中国は封建制または中世紀の状態から近代化に向かって徐々に移行しつつある過渡期にある。中国の近代化達成の程度と速度は、中国の内外からの、評価することも、手にふれることも、また予言することもできない、多くの影響力によって左右されるであろう。」
中国からアメリカに帰ったとき、中国についてはむろんのこと、共産主義についても事実を曲げた報道だと、私には考えられることを掲載している新聞や雑誌などを読んで、びっくりしたことがある、と語った。
アメリカ国民が知らされている中国についての情報は正しいものではなく、しばしば事実を曲げたものが伝えられている、と私は感じた。
私は、中国におけるアメリカの利害関係は、ちょうどヨーロッパにおけるアメリカの利害関係と同程度に重要であり、また基本的には似かよった正当化の理由づけを備えており、"アメリカがヨーロッパ問題に関心をいだいていたり、参加しようとするさい、その行動の背後にひそんでいる基本的な考え方と同一の思想が、アメリカの極東問題に対処する態度の基本となっているのである"と述べた。
私は国防大学の学生たちに、われわれが蒋介石とその政府に対する、政策と態度を決定するにあたって、P282忘れたり軽くかたづけてならないこととして、約十二年前、対日戦を遂行中の蒋介石が、日本の提案したきわめて有利な和平条件をくりかえし拒否した事実を、思い起こさせた。
中国が、この和平提案を受け入れていたならば、約百五十万の日本軍は、フィリピン、小笠原諸島、マリアナ諸島および沖縄におけるアメリカ軍との戦いに使用するため、中国から撤収されていたであろう。
蒋介石が断固として、日本の和平提案を拒否し、同盟国とともに戦うという誓約を固く誠実にまもったので、蒋介石は多くのアメリカ兵の生命を救い、われわれの最後の勝利に寄与したことはいうまでもない、と私は語った。
アメリカの中国における目標は、中国国民が統一された民主主義国家を建設しようとするのを援助することによって、中国やその他の世界各地における、アメリカ自身の利益を確保することにあるので、われわれは次の事柄を含めて適切な政策をとる必要がある、と述べて講演を終わった。
「…われわれは、他の国家または国家のグループに、アメリカの国家目的の実現を妨害しようとする野望をいだかせない態勢を確保するために、アメリカ軍部隊を展開する。われわれはだれでもあやまちをおかす。偉大な人物や謙虚な者は自分のあやまちを認めて、P283孔子が教えた「過ちては改むるにはばかることなかれ」という言葉にしたがって、そのあやまちを改めるように努力する。
極東の現状に対処する現実的な解決策のひとつとして、蒋介石とその政府に対しアメリカが早急に、かつ永続的に援助を与える必要がある。アメリカは中国に対して借款と物質補給による経済援助をつづけるとともに、これらの援助がアメリカの意図する目的のため確実に使用されるよう、適当な保証措置をとる必要がある。」
中国を理解しないアメリカ
私は、マーシャル将軍が中国に対する彼の基本的な過失、つまり、国民政府と共産主義者は勢力争いする二つの党派にすぎないという考え方と、蒋介石に共産主義者との妥協を強要するため、一九四六年から四七年にかけて、中国に対する武器、弾薬を全面的に禁止した過失、の二点を認めるならば、いまでも将軍をこの時代の偉大な人物のひとりとして尊敬する。
しかし将軍は、国民政府に対し共産主義者への譲歩を強要するという、まちがった対中国政策を決して改めなかった。
一九四七年一月、国務長官に就任するため中国から帰国するさい、将軍は"彼の真の連合政府を設立しようとして、苦心したほとんどあらゆる努力"に抵抗した国民政府内の人びとを<反動主義者の有力なグループ>として、きびしく非難した。
将軍は一九四七年一月七日の公式声明のなかで、"中国政府内における中国共産党との協力は考えられず、力の政策だけがこの問題を解決できるという考え方を、きわめて端的かつ率直に述べた"中国人を反動主義者ときめつけたことによって、彼が共産主義者の脅威について理解していないことを、さらにはっきりと明らかにしたのであった。
マーシャル将軍は、一般的に見て共産主義、とくに中国共産主義者の本質と目的を、理解していなかったように思われる。P284将軍は一九四七年一月七日の声明のなかで国民政府の打倒を促進するため、中国経済を破壊しつつあった一部の<徹底した共産主義者>がいることを認めた。
しかし、彼は、「共産主義者のなかには、近い将来における共産主義イデオロギーを確立するための残忍な手段よりも、中国国民の利益を重視する自由主義的なグループ」がいると主張しつづけたが、事実は、これとはまったく反対であるという明らかな証拠があったのにもかかわらず、彼はそれらをすべて無視してしまった。
国民政府の歳入は、対日戦が終わって<平和>が訪れたとき、増加するどころか減少した。鉄道、鉱山、産業の復旧と軍事費にあてる予算の割り合いはいよいよ増加したので、人びとの道徳観念を混乱させるようなインフレーションとなり、それによる腐敗、道徳の低下は、長期にわたった対日戦の当時よりも大きかった。
その当時では、つねに将来に希望がもたれたが、いまでは、アメリカは敵である共産主義と仲よくなり、あるいは少なくとも、中国における反共勢力の支援を拒否しているように見えた。
アメリカは、蒋介石が民主的な改革に乗り出すとともに、中国共産主義者と協力するよう主張していた。また、アメリカは強力にして独立した中国を希望すると言明していたが、国民政府が中国共産主義者を粉砕するためには不可欠な、物質的・政治的な援助と支援を、国民政府に供与することを拒否した。
われわれが国民政府に着手するよう主張した改革は、たとえアメリカが援助してさえ、平時において実行することは決して容易なわざではなかったろうし、実際には中ソ戦争であるP285内戦のまっただ中では、まったく不可能であった。
中国が真に必要としていたものは、統治能力を備えた政府であった。私が感じたように、中国の最悪の苦悩~腐敗、悪政、非能率など~は、中国の政治の独裁的な特徴に由来するのではなく、政府の指令を実行させる権力と権限に欠けていることによるものであった。
しかも蒋介石には、果てしない戦争と、中国が分裂しないよう忠誠な幹部を保持しておく必要があり、そのためまったく手いっぱいの状況で、政治を浄化することまで手がまわらなかったのであると、じゅうぶんとまではいかなくとも、ある程度の弁解の余地があった。
アメリカの風潮に見られたように、蒋介石をファシストの独裁者よばわりすることは、事実にまったく相反するが、それはアメリカの対中国政策を誤った前提条件の基礎のうえにおくことになったので、その結果はまことに悲劇的であった。
全体主義とはほど遠い中国国民政府の権限は、きわめて限られたものだった。国民政府は個人のことには、ほとんど干渉しなかった。国民政府がついに没落するようになった原因は、政治を積極的に遂行した罪によるのではなくて、なすべきことをしなかった怠慢の罪によるものである。
その最大の欠陥は、行政の非能率と、その結果として、机上の計画および法令の字句のうえではりっぱに作りあげられていた諸改革を、実行に移せなかったことの二つである。
たいていのアメリカ人は、一七七六年(アメリカ独立)以前の歴史をほとんど知らず、また外国を旅行して多くの人類~とくにアジアにおける~の状況についての知識を持っていなかったため、こうした人たちが中国を訪れたとき、ぞっとするような、貧困、悪徳、悪政などを、P286国民政府のせいにしたのは無理もない。
私の司令部の教育部に勤務していた、有能かつ感覚の鋭いリントン陸軍大佐は、一九四五年当時を回想し、アメリカ軍機関紙スターズ・アンド・ストライプス紙に、次のように書いている。
「アメリカの兵士たちが、目あれど見ず、耳あれど聞かず、心あれど理解しないことは、まったく悲劇的であるといえよう。彼らは、貧困と不道徳と、駄馬として働かされている人間とを目撃するが、こうした問題は手職人時代から、近代技術の現代へ脱皮しようと苦しんでいる大国の歴史には、先天的に付随するものであるという理由を考えようとしない。国共連立を強制する米政府
彼らはちんぷんかんぷんの言葉を耳にするけれども、それが中国の将来について、信頼と希望をうたっている住民の声であることがわからない。アメリカの兵士たちの心は、中国は彼らが知っているアメリカの生活とは、非常に異なったものであることを教えてはくれるが、彼らは、アメリカ人や多くの人びとと同様に、中国が今日の現状から出発しなければならないことを理解しない。」
私はマーシャル将軍が国務長官に就任するため、一九四七年一月に中国を出発するさい、米英側に立つ国民党とソ連の支持を受けていた中国共産主義者の間の争いから、それはあたかもアメリカの関心事ではないかのように~あっさりと手を引いたことに~ぎょっとするばかり驚かされた。
P287その後、国務長官としてのマーシャル将軍は、蒋介石が共産主義者との妥協に同意するまでは、アメリカの中国における同盟者に対して、軍事または経済的援助をひきつづき拒否した。
その一方では、共産主義者の勢力を排除するため、ギリシャに対し四億ドルを援助するよう勧告した。このことは、将軍が彼の対外政策のあいまいさを、じゅうぶんに理解していなかったことを示すものと思われる。
ずっと後年の一九四八年三月十日、マーシャル国務長官は、トルーマン大統領の一九四五年年十二月十五日の声明にある、共産主義者を中国政府のなかに加えるべきである、という一件はまだアメリカの政策であるかという質問に対して<肯定的な返事>を与えた。
さらにトルーマン大統領は、一九四八年三月十一日の新聞記者会見のさいに、中国政府に中国共産主義者を加えることに関する質問に答えて、次のように言った。
これについての一九四五年十二月十五日の彼の声明のなかに述べられているアメリカの対中国援助・支援のために必要条件は「現在なお生きている」と語った。しかし、ここで述べておかなければならないことは、この言明を二通りの意味に使い分けようとしたトルーマン大統領は、「アメリカがある政府を援助しようするさいには、われわれは、中国または他の国の政府に共産主義者を加えることを希望しない」という相矛盾する言明を行い、事態の混乱をさらに大きくしたことである。
私は軍隊生活にもどり、政治問題にふれることを避けたいと希望した。だが、トルーマン大統領が一九四八年四月、P288共産主義の猛攻撃に反対する断固たる支援声明を出すよう求めた蒋介石の死にもの狂いの懇願をしりぞけて、共産主義者との連立中国政権の要求をくりかえし求めた。
大統領の三月十一日の声明をまたもや繰り返したとき、私は中国国民に対して、心からなる同情と失望を表明せずにはいられなかった。
私には、トルーマン大統領が、彼の言明はアメリカ政府の立場を明らかにしたものであると述べたとき、蒋介石とすべての反共主義者~蒋介石の味方であろうとなかろうと~が絶望し、両手をあげて抵抗をやめる気になったにちがいないことが、はっきりわかった。
このようなあいまいで、相矛盾した内容の声明に対して、その内容を明確にすることは、できるだけ避けねばならないことであった。中国国民の立場からすれば、アメリカ政府は、その対中国政策の意味するものがなんであるのかを知らないのか、それともまた、なお中国がモスクワに服従することに賛成してはいるものの、これをアメリカ国民にかくすよう努力している、という結論にすべての中国人は到達したのであった。
一九四八年四月、アメリカ議会の決定により中国に対する援助は見込みがなくなったので、トルーマン大統領はさっそく、蒋介石あての書簡の中にこのことを述べた。
こうしてアメリカ政府は、一九四八年という重大な年が暮れるまで、中国に対する軍需品の輸送をおくらせて、中国援助法の意図した目的を妨げることに成功した。
私もほかの人と同様に多くのあやまちをおかした。一九四六年十一月十八日に国防大学で講演した翌年、私は一生を通じて最大のものであったと思う、大きなあやまちをおかす運命P289になっていた。
私は中国と東アジア全域に対するアメリカの現実的な政策の作成に役立つと確信した仕事を引き受けた(私はこれについて、みずから自分への指令書の作成を許可された)。
幻滅を感じさせられるようになった私の経験は、次章に述べてある。
私としては、自分のうぬぼれとか、誤った自慢話としてではないが、私のようにヨーロッパおよびアジアで、共産主義の実態について学ぶ機会のなかった多数の同時代の人びとにくらべ、私がいくらかの物事の実情をはっきり観察できたという満足感をいだいたとしても、たぶん、それはお許し願えることだろう。
国防大学での講演のさい、中国または朝鮮は、アメリカ軍がアジア大陸から撤収した結果として生じるソ連の侵略に抵抗できるか、という質問に対し、私は次のように答えた。
「それは明らかに不可能なことだと思う。私は、ソ連に隣接するいかなる国、いかなる地域、またはいかなる政権も、ソ連に匹敵する外国の援助がないかぎり、ソ連の侵略と浸透に抵抗できるとは考えない。」さらにもうひとつの質問に対する解答のなかで、こう述べた。
「中国国民政府は現在のところ、軍事的に中国共産軍を撃破し、粉砕する能力を持っている。国民政府軍の装備の大部分はアメリカ製であるので、アメリカがこれらの装備を維持し使用するため、国民政府に弾丸の供給をつづけなかったならば、国民政府軍の戦闘力を大きく弱める結果になるだろう。私の講演を聞いた人たちが、その四ヵ月前、中国国民政府が共産主義者と和解するまで、中国に対する武器と弾薬の輸送を停止したのは、マーシャル将軍であることを知っていたことはいうまでもない。
国民政府が共産勢力を粉砕できるか否かは、中国共産軍が外部から受ける援助しだいであることをかさねて申しあげる。また、国民政府が勝利をおさめるか否かは、P290全然見通しのつかない状況である、とお伝えしたい。」
私は、この講演で述べた私の見解が、マーシャル将軍の見解と正反対であり、のっぴきならぬことをいったとまではいえなくても、それに近いことをいったことを承知していた。
私の投じた一石によって、これからさき外交関係の仕事につく機会はなくなったと考えながら、私はフォートミードの第二軍司令部での任務を完遂するために本気にとりかかった。しかし、私の外交関係の仕事はまだ終わったわけではなかった。
第二十五章 米国ついに中国政策を誤る P291-327
マーシャル、中国視察を要請P291 一九四七年の春、私は陸軍参謀総長アイゼンハワー将軍の命令により、ロンドンの国防大学、キャンバーリーの陸軍大学、サンドハーストの陸軍士官学校で講演するため、イギリスを訪れた。(略、講演の他ヨーロッパ各地を視察や友人と会った話)
P292一九四七年七月の第一週、私は国務省に行きヨーロッパ視察について、簡潔にマーシャル将軍に報告した。将軍は、私に大使として中国に行く意向を正し、レイトン・スチュアート中国駐在アメリカ大使は健康がすぐれないので、大使としては無理である、と語った。
私は、将軍が一年前に大使の任命を受けるように要求したこと、その後、私が中国共産主義者にとって好ましくない人物であるという理由から、大使任命が取りやめられたことを述べた。
すると将軍は、中国共産主義者に、私の大使任命についての反対を認めたことには、少しも当惑した気持ちも遺憾の意も示さないどころか、自分も中国共産主義者にとっては、おそらく好ましくない人物であろう、と笑って答えた。
これを聞いて、私はためらうことなく、陸軍にとどまりたいと述べた。するとマーシャルは、大統領や他の閣僚と極東情勢について討議した結果、将来の政策の基礎として中国と朝鮮の状況について、客観的な研究が必要であることに決まったので、私がこの任務を引き受けることを希望し、これは一時的な仕事なので二、三ヵ月以上はかからない、と語った。
P293私は、これまでの国務省および陸軍省に書かれてないことや、中国駐在のアメリカ大使館では得られなかったことを、私の派遣によって明らかにしたいのか、とはっきりただした。
するとマーシャルは、アメリカ政府が追及していた消極的な対中国政策を非難する議会~ウォルター・ジュド下院議員やスタイルズ・ブリッジス上院議員など~やその他の者による圧力のため、対中国政策の再検討を余儀なくされていることを認めた。
私が陸軍省で、マーシャルといっしょに勤務していたとき~たとえば、英米巨頭が会見した諸会談への旅行、フォート・メイヤーの宿舎から国防総省までの通勤の途上、また、彼がトルーマン大統領の特使として中国に派遣された場合など~いつもマーシャルには何かに気をとられているように、私には思われた。
だからマーシャルは、目には見えないがつねに彼をとらえて離さない、何か不思議な力のため、いつも深く感がさせられているように見受けられた。
私は、中国に使いするよう私に提案した彼の目的を、理解しようと努力した。彼の高潔な人格、信念と友人に対する誠実さに関する私の信頼は、彼が真珠湾の敗戦について、調査した陸軍の査問委員会で行った証言と、中国における国民党と共産主義者の連立政権は可能でもなければ、また望ましくもないという私の見解に対して、彼が一九四五年十二月上海で示した憤慨とによって、多少、ぐらついてはいたけれど、信頼をまるで失っていたわけではなかった。
私の以前の上司であるマーシャル将軍に対する私の尊敬と好感は、まだ非常に大きかったので、P294彼はついにアメリカの極東政策に関するアメリカ政府の前提が適当でないことに気づき、いまやその政策を訂正しようとしている、といささかも疑いをいだかなかった。
(略) ウェデマイヤー使節団の現地到着
P296一九四七年七月、われわれが南京に到着すると、多数の中国要人とレイトン・スチュアート大使など、アメリカ側の当局者が出迎えていた。私が儀仗隊を閲兵し、多くの旧友たちとあいさつをかわした後、大使は私を彼の官邸に同行すると話したが、すでに中国の当局者から、蒋介石が私のためにりっぱな邸宅と召使いを準備してくれていることを知らされていた。
(略)
P297私は大使館員に、私の中国訪問に対する中国とソ連の両国の共産主義者の反応について尋ねた。モスクワは、私の中国と朝鮮についての派遣を、アメリカの対極東政策の転回点を示すものと考えたという。
私はこれを聞いたとき、こうしたソ連の態度は、クレムリンとしては、最初に満州を占領し最後に中国を共産化するソ連の陰謀の達成を、アメリカが決してソ連に許すとは期待していなかった、という私の一九四五年当時の考え方を強めることになった。
もしクレムリンがそのように考えていなかったとしたら、ソ連は対日戦のP298終了直後に、満州の工業施設の移動や破壊を行なっていなかったはずである。
共産主義者たちは、私の中国到着を新しい戦争計画を準備する、アメリカの大きな決意の結果であると考えている、と教えられた。彼らは、私の任務が、マッカーサー将軍の全面的な協力をえて、新しい戦争計画の基礎資料を準備するためである、という結論に達したという。
次に、共産主義者は、私の中国視察の目的について、アメリカのとるべき中国に対する援助方式を確かめるためである、と推測した。いまやモスクワは、現状においては、アメリカの大きな援助がなければ、国民党の中国はおそらく生き残ることができないだろう、と考えた。
中国各地にいるソ連政府の代表たちは、私の行動とともに私が連絡をとる人物のあとをつけるよう、指示を受けていた。上海に駐在していた多数のソ連官吏は、今後六ヵ月間の中国の出来事は、中国の支配をめぐってアメリカとソ連の間の争いに発展し、おそらく公然たる衝突事件にまで進展するかもしれない、という見解を表明した。
中国共産主義者は、こうした見解を裏付ける情報をばらまき、
一、ウェデマイヤーの使命とひそかに示唆したのであった。
二、予定されているイギリスのバーナード・モンゴメリー元帥の日本訪問
三、ソ連は中国に対する侵略政策を強化しているという西欧側諸国の新聞の報道の繰り返しから、極東全域にきわめて重大な事態の発展が期待される
そのころ、私が受け取った報告によれば、個々のソ連代表たちからえた情報の一部は、正確なものであった。たとえば、上海におけるタス通信特派員ヤク・シャミンは、P299ウェデマイヤー将軍は長いこと強硬な反ソ傾向の持ち主として知られており、ソ連当局からは反動主義者と見られている、と語った。
以前、ウェデマイヤーが駐華アメリカ大使に任命されることが考慮されていたとき、ソ連の新聞と当局はワシントンに対して、彼を大使に任命することは中国におけるアメリカの反ソ政策のあらわれとして考えられる、と報道した。
また、ヤク・シャミンは、スチュアート駐華アメリカ大使の任命が発表されたとき、ソ連としては大いに安心したとも語った。いまや、ワシントンがウェデマイヤー将軍を、今回の中国と朝鮮における実情調査に任命したことについて、ソ連当局としては、これはアメリカの中国および極東全域における強硬な反ソ政策への転向を意味する、と当然考えたのであった。
こうしてソ連当局は、アメリカが蒋介石に対し、非公式な軍事援助を開始するものと予想した。さらにヤク・シャミンは、ウェデマイヤーの中国・朝鮮視察は、上海のロシア人社会の論議の中心話題になっている、と述べた。
私の現地調査に対する、中国共産主義者の反応は、次に引用する中国共産党放送のなかに、はっきりと示されている。
「山西省北部から一九四七年七月十六日中国に対する忠告
アメリカ帝国主義は、評判の悪いウェデマイヤー将軍を再び中国に派遣して、自由に中国に対する侵略を実行し、蒋介石の死にかかった国民政府を支持しようとしている。すべての中国人民は、プロシャ軍国主義の教育を受けたアメリカ帝国主義者ウェデマイヤーのことをよく知っている。
P300日本の降伏後、彼は人民解放軍(中国共産軍)によって包囲された青島、天津、北京および秦皇島などを、日本軍と傀儡政府軍に対してはこうした諸都市を保持し、人民軍に降伏しないよう命令しておきながら、これらの諸都市を占領するため、急いでアメリカ軍部隊を派遣した。
それと同時に、彼は最大の航空輸送部隊を編成し、蒋介石の六個師団を上海、南京、北京、天津、青島および済南に空輸した。
その後、彼は満州において内戦を戦うため、アメリカ軍の占領する秦皇島に蒋介石の五個軍を海上輸送したが、この満州こそは、満州の人民義勇軍が十四年もの長期間、積極的に活動し、ずっと以前に蒋介石が見捨てた領域である。(以下、省略)
(略)
P302私は国民政府についての悪政、腐敗および無気力の明らかな証拠を握っていた。アメリカの政府と新聞のなかには中国国民党、とくに蒋介石にはげしく反対する強い勢力があることも、じゅうぶん承知していた。
また私は、中国共産主義者に同調しているアメリカ人の影響力も、無視できないことを理解していた。私の勧告が採用されるためには、自分としては中国の情勢を全体的に明確に観察し、私が蒋介石との個人的関係や、また中国国民に対する私の感情のために影響されなかったことを、アメリカの政府と国民に納得させなければならなかった。
一方、私のおもな関心事は、アメリカの安全保障と利益であることを明確に示す必要があったし、他方、私が中国に持っていた影響力を駆使して、一部の重要な改革を行なわないかぎり、P303中国を共産主義者から救うためのアメリカの援助を受けるわけにはゆかない、と国民政府を納得させるよう努力しなければならなかった。
要するに、私は二重の任務を持っていたのである。その一つは、アメリカの援助をむだづかいしない証拠を示す必要のあることを、国民政府に納得させることであり、もう一つは、こうした援助を中国に与えるようワシントンを説得することであった。
<ウェデマイヤー報告>が国務長官のために発表禁止されることを知っていたならば、この二つの私の目的は相関関係にあったので、私は南京で決して、国民政府要人たちに対し、講演を行わなかったであろう。
私は、国民政府の要人たちに講演するにあたり、蒋介石の懇望によって講演することと、アメリカ大統領の使節としてではなく、単にひとりの中国の友人として語ることを冒頭に述べた。
また、自分は不本意ながら講演するのであり、目撃したとおりの事実を述べる、と前置きした。私の述べることに感情を害さないで、建設的な精神で受け取ってくれるよう一同に希望した。こうして私は、観察した状況を語り、気づいた悪政と腐敗の事例を列挙しはじめた。
私が発見した政府機構上の欠陥、職員の不足、非能率と愚かさについて、詳細かつ熱心に話しはじめると、聴衆一同はしーんと静まりかえって、私の話に聞きいっていた。講演が終わったとき、蒋介石夫妻と一部の高官たちはねんごろに握手して、私に謝意を表した。
スチュアート大使といっしょに宿舎にもどる車中、大使は私に礼を述べ、私が述べたことP304はおそらく中国人の感情は害さず、これほど心服される資料を提供し、これほど有益な効果を与えることができた人は、大使の知るかぎりでは私よりほかにいなかった、と口をきわめてほめてくれた。
しかし、私の胸中にはまだ不安が残っていたが、私の率直な発言が、腐敗した悪政を改めるため思い切った手段をとる場合、蒋介石の手助けとなることを念願した。
その後私は、講演を聞いていた行政院の長老のひとり~彼はみんなから非常に尊敬されていた~が涙を流していたことを耳にした。なぜ涙を流しているのか、ウェデマイヤー将軍の述べたことに憤慨しているのかと聞かれたとき、彼は「ウェデマイヤー将軍は真に中国の友人であり、将軍が述べたことは事実である、と確信しているので、それで泣いているのだ」と答えたという。
事、志と違った中国への忠告
しかし、それから一ヵ月後ワシントンに帰って、私の中国訪問に関するアメリカ大使の報告を見たとき、私は思いがけない、その報告に驚いてしまった。その報告から、私は蒋介石をはじめ中国人の感情を傷つけた、という印象を受けた。そればかりかスチュアート大使は、私の講演が大使の懇望によるものであったことには一言もふれていなかった。
私はここで、私にとり致命的となった南京での講演にさきだって起こった、きわめて心配な出来事を思い出さねばならない。講演の前夜、私は予定した講演の内容を要約したメモをつくり、それをベッドのわきのテーブルの上において寝た。
P305翌朝になると、そのメモが見あたらない。私のスタッフ~ハッチン大佐、ボイル大尉、閻大尉~に聞いてみたところ、彼らは部屋を出るとき、私がこのメモをベッドのわきのテーブルの上におくのを見たと答えた。
それとなく召使いたちにただしてみたが、彼らはなにも知らなかった。私はこのことを大使には知らせないで、大使館のひとりに話したところ、彼は大使の信頼する友人である中国人のフィリップ・傳がメモを失敬したもの、と推測した。
そのとき私は、この傳は大使が燕京大学の学長であった時代の学生であり、なかば公式の資格で大使に雇われ、大使の官邸に住んでいたので、館員は大使官邸では秘密書類を大使に提出しないよう注意されていることを知った。
極秘書類が官邸で提出される場合はいつでも、その内容がすぐ、これを知る資格のなかった人びとにもれた。調査してみると、容疑はいつでも大使の子分であり、親友である傳にかかった。
私は中国を出発する直前の一九四七年八月二十四日、中国の現地調査任務中に得られた、きわめて重要な結論の一部をもりこんだステートメントを新聞に発表した。そのなかで、国民政府の腐敗と悪政について、率直に批判した。
国民党の文官と軍人の指導者に対する講演のときと同様に、こうした欠陥をはっきり述べた目的は、私がトルーマン大統領にに勧告する予定であった中国に対する、軍事援助と経済援助を現実的、効果的に使用するため、中国が思い切った措置をとるのに必要な雰囲気をつくりあげるのを確実ならしめるためであった。
P306私の報道関係の助言者であった賢明なマーク・ワトソンは、このような批判的なステートメントを発表しないよう、しきりに助言した。だが不幸にして、この助言に従わなかった。
ほかの場合と同様にこのときも、賢明な外交官なら決してやらないような大失敗を演じたことはいうまでもない。私は胸中にえがいていた主張の実現を促進するかわりに、国民党に対する共産側の悪意に満ちた宣伝の炎に油をそそいだにすぎない結果となった。
私は建設的な目的を達成するどころか、蒋介石の立場を弱め、また、カリスマ的な指導力を発揮しる蒋介石の能力を、不本意にも中傷したのであった。新聞に声明書を発表してからまもなく、われわれ使節団の中国滞在中における、中国側の協力と厚意を謝するステートメントだけを発表すべきである、というワトソンの助言に従うべきであったことが、私にはよくわかった。
私は、自分のおかした重大なあやまちに対するいいのがれからではなく、こうしたあやまちをおかした理由を説明しておきたい。
アメリカ政府の高官たちが、中国問題を抹殺するような態度をとり、また彼らは、ソ連共産主義者が国民政府の打倒を扇動し、激励し、支援しているため、国民政府の改革、その他の民主主義の諸目的達成を不可能にしていることを理解せず、中国の窮状はこの国の国内問題であると考えていたことなどを、私が承知していたため、それによって私の行動が大きく影響されたことを、読者諸君に思い出していただきたい。
私は、中国は援助する価値がある、とアメリカを納得させるような行動をとり、国民党指導者たちを覚醒させることを希望した。P307その当時、私は中国に対する援助を勧告した。トルーマン大統領とマーシャル国務長官に対する報告書が、握りつぶされ無視されるとは、まったく知らなかったことを、ここで重ねて述べておきたい。
私の報告書が握りつぶされるとは知らず、私は、アメリカに帰って、アメリカ政府がすみやかに、アメリカの戦時中の忠実な同盟者である中国国民政府を援助しなかったならば、共産主義者が中国を支配するに至るであろう、と勧告する決意をかためていた。
私は、自分の勧告がアメリカ政府に受けいれられ、実行されることに、一点の疑念をいだいていなかった。私の重大なまちがいは、アメリカ国民に対して、中国情勢に関する私の調査が、感傷的なものではないことを理解してほしい、という切望から生じたものであった。
要するに、私は中国における戦時中の友情とか、あるいは密接な関係によって、調査上の偏見や影響などを受けたりしなかった~まあ、言ってみれば、こうしたことは考慮に入れなかった~ことを理解してほしかったのである。
私の目は、中国の運命がかかっているアメリカをみつめていた。私は、中国がまちがっていると思われる点をすべて正直に述べることにより、中国の欠陥を指摘しながらも、なおかつ、中国に対する援助を供与するよう主張する私の誠意が認められることを希望した。
「ウェデマイヤー報告」の要点P307-314
ウェデマイヤー報告、握りつぶされるP314-319
スチュアート中華大使の報告P319-324
ついに退役を決意すP324-327
第二十六章 第二次大戦に勝者なし(一) P328-351
漁夫の利を占めたソ連P328われわれはいつでも、過去をふりかえり過去の経験にもとづいて将来を予見したくなるものである。南北戦争の古戦場ゲティスバーグのほとりをぶらぶら歩きながら、リー(南軍の将軍)もミード(北軍の将軍)も過失のために敗れたのだ、ときめつける二人の老兵アイゼンハワーとモンゴメリーの姿は、いつも笑いぐさになっている。
このけなされた二人のあの世の将軍は、こんどは後世の戦略家と戦術のやっている失敗を見て、おもしろがり、あわれんだにちがいない。ガラス張りの家に住む人は、石ばかりでなく日光にも注意しなければならないように、衆人環視のなかにある者は思わざる伏兵にも注意する必要がある。
だが、過去をふりかえって将来を予見することは、とくに軍人にとっては価値がある。それは、政策と決定を評価し、とるべき行動の方向について、代案をいろいろと推測してつくりあげ、また戦略や戦術に関する貴重な教訓を将来に適用するために、焦点を合わせる機会を与えてくれるからである。
第二次大戦は、過去をふりかえって将来を予見するため、もっとも豊富な資料を提供してくれている。P329まず第一に、チャールズ・リンドバーグ大佐が一九三九年に警告したように、ドイツと連合国の双方の立場から見て、第二次大戦そのものが最大の過失であった。
この戦争では、だれも勝利を得るわけにはいかなかったし、まただれも勝利を得なかった。
この大戦におけるドイツとイギリスの二重の過失は、古代ギリシャのペロポネソス戦争の悲しむべき歴史を繰り返す結果となった。エディス・ハミルトンがその著『ギリシャの風習』(the Greek Way)のトゥキュディデスの章のなかで説明しているように、
古代の民主的な海洋国家であったアテネと、全体主義的な大陸国家のスパルタは、貪欲と勢力拡大のため互いに戦った。一方、アジア風性格の強国であったマケドニアは、この二つのギリシャの強大な都市国家が互いに戦争でへとへとに疲れるのを待ち望んでいた。
第二次大戦も、明らかにこれとよく似ている。ドイツ(スパルタ)とイギリス(アテネ)が互いに組んずほぐれつ、めったやたらと嚙みあっていたとき、ソ連(マケドニア)は西側の自殺的な共倒れのけんかによって、利益をひとりじめすることになった(tw,tw)。
これはもちろん、事態を本質的な見地から観察した場合にいえることであって、もっとわかりやすくいえば、死児の齢をかぞえるようなことに過ぎないかもしれない。かつて職業軍人であった私は、連合、枢軸の両陣営の指導者たちが、開戦後に実施したかもしれなかった戦略上のことに対して、検討の焦点をおそらく絞るべきであろう。
私は、多くのあやまち~判断のあやまち、誤った諸決定~を自分でもおかしたことを承知しているので、第二次大戦中のいろいろな決定事項について論評するにあたり、いくらか無遠慮に批評を加えることになる、と思う。
P330第二次大戦中、私はあるときは、こうしたあやまちを発見して改めたが、なかには戦争が終わるまで気づかなかったものもある。私がそのとき行った分析検討と対応措置とは、その当時えられた不十分な情報にもとづいてなされたものだった。
(略)
第二十七章 第二次大戦に勝者なし(二) P352-374
27.3日本の戦略的錯誤 P360-363(相互参照)
P360東アジアにおいては、ヒトラーの他のパートナーである日本が、ソ連の沿海州に対して攻撃を加えないで、太平洋でアメリカと事を構えるという大失敗をおかした。
日本としては、アメリカを参戦させるかわりに、東部シベリアの要衝ウラジオストックを攻撃すべきであった。その攻撃によって、多くの目的が達成できていたはずである。
ウラジオストックを攻撃していたら、P361日本海軍は、ウラジオストック経由でアメリカの武器貸与による補給物資のソ連への輸送を防止できたものと思われる(tw)。
この対ソ連攻撃によって、ソ連の大兵力を東部シベリアにくぎづけにしていたであろう。とくに重要なことは、この攻撃によってソ連に二正面作戦を行わせることになるので、この大戦の勝敗を左右する重大な時期において、日本は同盟国ドイツを援助できたはずである。
そうなるとスターリンとしては、シベリア方面の兵力をモスクワ戦線に移動するわけにはいかなくなる。シベリアから増援部隊が得られなかったならば、モスクワの陥落はほとんどまちがいなかったであろう。
もし日本が、ソ連の沿海州を攻撃していたならば、ソ連軍はスターリングラードでドイツ軍を撃破することができなかった、と私は確信する。もしドイツ軍が、スターリングラードで勝利をおさめ、コーカサスを占領していたならば、ドイツはさらに長期にわたって戦争を継続することができたであろう。
そうなればアメリカの参戦はさらに遅れて、枢軸側は少なくとも戦争を手詰まり状態に持ち込むことが、できていたかもしれない。
枢軸側は多くの失敗をおかしたのであるが、こうした失敗が連合国側の過失によって、埋め合わされていなかったならば、ヒトラーはもっと早く死ななければならなかったし、また、死んでいたであろう。
一九四〇年から四一年にかけて、アメリカとの破局を避けるため、ヒトラーはいくらか分別のある態度を示したが、それは外交上の手腕といえるものではなかった。
しかし、日本はヒトラーのこうした努力を、すべて真珠湾攻撃の瞬間にだいなしにしてしまった(相互参照)。
P362前述したように、連合国の地中海方面に対する戦略は、不幸かつ不必要なものであり、その当時の英米の戦争努力と資源は、そのためにタイムリーな決定的打撃を敵に与えることが不可能ではないにしても、実行できなくする程度にまで消費された、と私は考える。
この過失は<北アフリカ作戦>、<シシリー作戦>、それにつづく対イタリア作戦とますます悪化していった。われわれは、ヨーロッパ大陸に対する決定的な攻撃を遅らせるため、大きな危険をおかすことになった。
というのは、もしドイツが趙破壊力のV2号ロケットを、もう少し早く完成していたならば、ドイツはイギリス本土南部を廃墟とすることができ、米英の進攻作戦準備を修羅のちまたに化していたかもしれなかった。
軍事的な観点からすれば、一九四四年六月のヨーロッパ大陸進攻後の戦局は、すべて順調に経過した。アイゼンハワーは、臨機応変の才とすぐれた判断力によって、国家的利益は大きく相反したが、ドイツ打倒という米英共通の同一目的に統合されたチームを作り上げることに成功した。
連合側の各国は、「あらゆる犠牲を払っても、勝利を達成する」という目標は別として、戦後のヨーロッパについて異なった理念を持ち、利己的な見地から敗者を犠牲にして、なにものかを得ようと決意していた。
共産主義者は、戦後の略奪と、征服した国民の利用と支配について、他のどの国よりもよく心得ていた。アメリカは戦後の目標と責任について、もっとも素朴な考え方をいだいていた。
アメリカは、敗戦国に対し領土を要求したり、彼らを無力化するような賠償を要求すべきであった、と私は主張しているのではない。P363しかし、われわれは人命と財産の点では膨大な犠牲を払ったので、われわれとしては、敵を軍事的に粉砕する以外に、ある種の建設的な目的をしっかりと持っているべきであった。
私が多くのアメリカ人の希望と願望について解釈したように、アメリカの指導者たちが、次のような戦後の条件とか約束を主張することを、私は希望した。
すなわち、すべての国民は、一、名誉ある平和な雰囲気のなかで神を礼拝する機会を与えられ、ニ、その財貨を交換し、そのエネルギー、才能および発明などに、それ相応の報酬を受ける機会を与えられ、三、国民をどのように、だれが支配するかを決定する機会を与えられなければならない、と。
これらの最終目標は漠然としたものではなく、具体的である。
こうしたことは、英米共同で採択した大西洋憲章によって認められた人間の価値、責任および権利にもとづくものである。それは同時に、ファシズム、共産主義、その他いかなる独裁による圧制政治をもヨーロッパ全域から排除する問題であった。
27.4極東でのアメリカの大失策 P363-368
27.5予知されていた真珠湾の奇襲 P368-371
P372
27.6連合国側の最大の過失 P372-374
最後に、連合国側の過失のうち最大のものは、同盟国であるソ連の戦後に対する意図を正しく判断できなかったことである(tw)。ルーズベルト大統領は、一九四四年三月八日、こう述べている。
「余としては、ソ連はまったく友好的であると考える。ソ連はヨーロッパの残りの地域を全部むさぼり取ろうとはしていない。ソ連は他国を支配するような考えは少しも持っていない。多くのアメリカ人は、ソ連はヨーロッパを支配しようとしていると心配しているが、余個人としては、この心配がなんら根拠あるものとは考えない。」だが、それから約一年後、ルーズベルトは死亡直前に、おそらくスターリンの極悪非道な目的に、完全に気づいたものと思われる。しかし、ルーズベルトの後継者たちは、災厄の前兆に適時適切に気づかなかった。
ジェームズ・フォレスタル、ウィリアム・ブリット、ロイ・ヘンダーソンなどの政府当局者や民間人は、共産主義の何たるかをよく理解していた。だが、フォレスタルは、その先見の明と誠実さのために、みずから命を絶つ結果となった。
第二次大戦の全期間を通じて、フォレスタルは、部下を職務に精励させたすぐれた行政官であり、部下の士気をふるいたたせた指導者であった。彼は国防長官に就任すると、陸・海・空三軍の間の意見を調整するため、公正な努力を重ねた。
フォレスタルは、新聞や政府部内の一部から、不人気になることを恐れず、労を惜しまず職務に精励して疲れることを知らない勤勉家であった。彼は信念に徹し、アメリカの利益や主義が侵害されていると考えた場合、自分の所信を堂々と述べることをためらわなかった。
P373その一例は、パレスチナの分割問題について見られる。フォレスタルは、アラブの世界をうとんじることは誤りであると考え、その意見を発表したので、反ユダヤ主義者と決めつけられ、きわめて不当な非難を浴びた。
彼は有名新聞の特派員たちから激しく非難されたが、こうした非難の一部は、彼の個人的な名誉と勇気に対して向けられた。
ワシントンでうわさされた流言によると、ジョージタウンのフォレスタル邸に侵入してきた暴漢を夫人が追いはらっていた間、彼は(いくじなしなので)便所のなかにかくれていたという。
彼は、民主党が政治上の借りをルイス・ジョンソンに払うについて、ジョンソンを国防長官に任命したトルーマン大統領のために、犠牲に供されたのである。われわれは国防長官時代のフォレスタルをよく知っており、こうしたトルーマン大統領の措置は、国家に対する誠実ですぐれた奉仕者に対し、きわめて不当な行為であると考え、またこの国防長官交代が、アメリカの空軍が独立したばかりの重大な時期に行われたことに失望を感じた。
われわれが、共産主義者の戦後の行動について考察するかぎり、スターリンがみずからまちがいをつづけたことは、われわれにとってきわめて幸運であったと思う。
ソ連が第二次大戦後犯した最大の失敗は、アメリカ国民がソ連に寄せていた善意を利用しなかったことである。アメリカ国民をひきつづき欺くべきであった。ソ連がマーシャル・プランの援助資金を受け取っていたならば、はるかにすみやかにソ連経済を回復できていたかもしれない。
P374 それと同時に、ソ連がこうした態度に出ていたならば、アメリカは世界各地へソ連勢力の浸透を許すことになっていたであろう。幸いにして、ソ連は熟慮したうえで、アメリカをうとんじる道を選んだ。
アメリカが従前の信じられないほどの初心な心理状態から、少しでも抜け出すことができていたとしたら、それはまったくソ連自身のせいといわざるを得ないのであろう。