第二章 証言 P161-254
2.1 母・菱子の思い出 P161-1782.2 自他殺論争 P179-204
2.3 亜細亜産業の実態 P205-221
2.4 秘密サロンの人脈 P222-254
姓名が確定できる人々 P222-250
ある意味で、大叔母の寿恵子や母菱子の証言にも危険な部分はある。作為的ではあり得ないが、あまりにも事件の事実関係に符号しすぎる面がある。その意味では鎗水情報と同様に、何らかのフィルターを通して検証する必要があるのかもしれない。
初めて下山事件の話が出た一九九一年夏の横浜の夜以来、私は数年にわたり、寿恵子や母に再三"取材"を試みてきた。その回数は数えきれない。だがまとまった情報が得られたのは最初のうちだけで、あとは二人とも散発的に人名や小さな出来事を思い出す程度だった。
もちろんひとつ一つは貴重な証言であり、事件の真相に迫るヒントを与えてくれたこともある。特に亜細亜産業の人脈に関してはかなりの部分が明らかになった。
その人数は名前が確認できたものだけでも二〇人以上、確認できないものを含めれば数十人にも及ぶ。
ここで二人の証言とその後の情報により明らかになった人物を列記し、事件に明らかに無関係と思われる者を除外し、整理しておきたい。
P223〇林武
本名、林武一。明治三八年(一九〇五)、長野県出身。専売局芝工場勤務、官業労組主事を歴任した後に東京市議を一期務め、昭和一八年に亜細亜産業(亜細亜パルプ専務取締役)に入社した。
いわゆる社会党右派の労組闘士として知られ、昭和二〇年には「総同盟」結成に参加。二二年に亜細亜パルプを退社し、東京都労働局長に就任した。だがその後も亜細亜産業総師の矢板玄と親交し、"サロン"に出入りしていた客観的な確証がある。
この人物は母と寿恵子の両方が記憶し、すでに文中にも何度か登場している。母の記憶では「笠間の疎開先に祖父を迎えに来た男」、寿恵子は「雑油の配給に一役買った男」だと言う。その人脈は広く、同じ社会党の西尾末広、都知事の安井誠一郎、共産党指導者として知られる伊藤律、転向組の田中清玄や鍋山貞親などとも親しかった。
特に田中と鍋山とは親密で、「夕方会社に来ては、林を誘ってよく飲みに行っていた」(寿恵子談)と言う。
林武は当時四〇代後半。身長一五〇センチ強と小柄で、眼鏡を掛けていた。私の手元に写真があり、顔も確認できる(33ページの写真)。
P234〇工藤孝次郎
寿恵子が、「雑油の横流しの二重帳簿を作っていた」と名指しする人物。役職は取締役で、事実上の亜細亜産業のナンバー2。矢板玄の昭和電工時代からの腹心の部下で、番頭的な存在だった。大叔母によると「林と工藤が汚い仕事をすべて引き受けていた」。
ちなみに昭電疑獄事件は、当初工藤の担当だった。後に北海道虻田郡の生家に戻っている(33ページの写真)。
〇岩本興次
亜細亜産業の社員。寿恵子は亜細亜産業の取締役と記憶。矢板玄の昭和電工時代からの同僚で、「香港もしくは上海にいたことがある」と聞いた。主にGHQ関連の"仕事"を担当し、退社後は岩城興業代表取締役という記録が残っている。
〇白洲次郎
ある意味で白洲次郎は、「戦後の日本を作った男」と言ってもいい。明治三五年(一九〇二)兵庫県芦屋生まれ。綿の貿易商だった父文平の影響で中学生の頃からスポーツカー(ペイジ・グレンブルック)を乗り回し(tw)、その後英国のケンブリッジ大学に留学。
卒業後は新聞記者、P225「日本食品工業」の取締役を経て、吉田茂の側近となった。いわゆる「ヨハンセン(吉田反戦)グループ」の中心人物である。
戦後は吉田茂の招聘により「終戦連絡事務局」の参与(後に次長)に就任。吉田政権とGHQの交渉役を務めると同時に『日本国憲法』の誕生に寄与した。伝説の多い男でもある。青柳恵介は『風の男白洲次郎』(新潮文庫)の中で次のように論じている。
<白洲次郎が本質的に「穏やかで優雅な人」であることに異を唱えるつもりはないけれども、占領期間中、GHQが「従順ならざる唯一の日本人(tw)」と本国に連絡した男、ホイットニー(*注・GS局長)が「白洲さんの英語は大変な立派な英語ですね」と言った際「あなたももう少し勉強すれば立派な英語になりますよ」と答えた男、そういう男を「ふだん穏やかで優雅な人」と評するのは、明らかに皮肉である>白洲次郎とGSとの確執は、すでに歴史的事実として認識されている。昭電疑獄事件を通じてケージス(チャールズ・ケージス大佐、GS局長)の追放に関与したことも、斎藤昇国警長官の証言などにより明らかになりつつある。
一方でG2のウィロビーやキャノン中佐とは積極的に親交。G2直属の「辰巳機関」の長、辰巳栄一をウィロビーに紹介したことは、P226白洲自身が認めている。
さらに白洲は、ハリー・カーン率いるACJ(ジャパン・ロビー)の日本側の代弁者の一人としても知られている。だが、ドッジ・ラインの制定には執拗に反発した。このあたりには「けっして持論を曲げない」という白洲の強かな人間性と信念がうかがえる。
寿恵子は、昭和二二年頃に何度か白洲次郎が亜細亜産業に来社したことを記憶していた。
「とにかく素敵な人だった。背が高くて(白洲は身長一八〇センチあった)、いつも英国製の高そうなスーツを着ていた。話術がうまくて、優しそうで、まるで銀幕のスターみたいな人。いままで生きてきて、あれほどいい男に会ったこともない」
祖父とは年齢が近いこともあって、仲が良かったようだ。戦後から祖父はソフト帽を愛用していたが、白洲次郎の影響だった。祖父のソフトのコレクションの中にステットソンというメーカーのものが二つあった。当時、会社員の月給に匹敵するほどの高級品である。そのうちの一つを祖父は「白洲にもらったものだ」と自慢していた。
我が家には白洲次郎と思われる人物が祖父や矢板玄などといっしょに写った写真が残っている(口絵2~3ページの写真)。
→『軍隊なき占領』P90参照
→『日本近現代史入門』P391参照
→『近衛文麿- 野望と挫折-』P117参照
→『夢顔さんによろしく(上)』P125参照
P227〇三浦義一(相互参照)
明治三一年(一八九八)大分県生まれ。小田原時代の北原白秋に師事した後、大正九年に早稲田大学を中退して九州電気株式会社に入社。だが一三年に退社して上京。昭和七年には右翼結社『大亜義盟』を創立して相談役になるが、翌年に「虎屋事件」の首謀者として逮捕、投獄された。
出所後は右翼の矢吹一夫、関山義人らと交友。のちに矢吹らと理論誌『国策』を主宰する国策社を設立(昭和一〇年)。この国策社の創設当時の青年部長が関山義人で、事務所は戦中戦後にかけて日本橋室町のライカビルの四階にあった。
だが奇妙なことに、三浦の経歴の中から"ライカビル"の名は抹消されている。
その後も小田原の益田孝男爵邸に門罪状を送りつけた「益田男爵事件」(昭和一〇年)、「不穏文書事件」(一二年)、「政友会革新派総裁中島知久平狙撃事件」(一四年)などで投獄、出所を繰り返す生活を送った。
昭和一三年(一九三八)には中支方面派遣軍嘱託として大陸に渡り、張南京市長顧問に就任。関山義人と共に上海や南京を中心に暗躍した。またこの頃から軍の上訴部とも深く交流するようになり、東条英機とも交友。
その関係で迫水久常と知り合い、後の「金銀運営会」の人脈を築いた。
戦後は、「室町将軍」と称され、長年にわたり日本の右翼社会の頂点に君臨。政財界にも絶大な権力を誇った。P228『日本の右翼』(日新報道出版部・猪野健治著)の中に、昭和四〇年頃の建国記念日の制定に関して興味深いエピソードが載っている。
<右翼は「建国記念日は、二月一一日(*注・旧紀元節)以外にあり得ない」立場に立っていた。そんな緊迫したある雨の朝、西山幸雄氏(日本及日本人社会長=当時)は、世田谷の三浦邸をたずねた。話は、当然、建国記念日におよんでいった。P229 この一文は日本の政治と右翼の関係、さらに三浦義一が佐藤栄作をいかに自由に操れたかを如実に物語っている。
愛飲のオールド・パーを傾けていた三浦は、ややあって田中角栄自民党幹事長(当時)に電話をかけさせた。
田中幹事長が電話口に出ると、三浦はあれこれ説明をきいていたが、最後に「総理の意見は・・・」とたずねた。電話の様子では、佐藤首相は、まだ最終的な態度をきめかねているようで、三浦は「じゃ、こっちから総理に電話しよう」といって電話をきった。
数分後、鎌倉から電話が入った。佐藤首相からであった。三浦と佐藤は、佐藤が運輸省の自動車課長時代から親しい仲である。
たがいに挨拶をかわしあったあと、三浦は「ときに建国記念日の問題だが二月一一日にしてもらわなきゃ責任はもてない。たのんだよ」とダメを押した。そして席へ戻ると、「おい、二月一一日に決まったと」と、平然といったという>
三浦は日本の政財界だけでなく、GHQにも発言力を持っていた。一時戦犯容疑で収監されたが、病を理由に釈放。G2のウィロビーと組み、「昭電疑獄事件」ではGSのケージスを放逐するために暗躍した。
晩年は自らを"牢人"と称し、「牢人の会」を主宰。政財界のフィクサーとして盤石の地位を築いていく。なかでも三浦義一は、九州電気時代の人脈を辿り、終生日本の電力事業に影響力を行使し続けた。 br>
昭和ニ四年の日発再編問題(見返り資産の巨額融資にからむ電力会社九分割問題)では、当初三浦はGHQの意向である九分割案に田中清玄らと共に反対の立場をとっていた。だがのちに白洲次郎が中心となって発足した「電気事業再編成審議会」(松永 安左エ門会長・委員の一人に水野成夫がいた)に同調。
日本の電力再編成を加速させる原動力となった。この時、終止反対の立場を押し通した田中清玄との間に深い確執が生まれた。三浦義一は白洲次郎と蜜月の仲で、銀座では「おそめ」という同じクラブに通い、青山の同じマンションにも部屋を持っていた。
当時の面白いエピソードが『おそめ』(石井妙子著・洋泉社)に載っている(P362/364/366/368)。
三浦の助言で秀が購入したマンションは、青山にあり、階下には白洲次郎も部屋を持っていた。白洲は、やはり後にこの部屋を顔なじみの秀にならと安い値段で譲った(P368)P230 文中の"秀"とは、銀座のクラブ「おそめ」の経営者の上羽秀である(fig3/fig4)。
〇田中清玄
明治三九年(一九〇六)北海道亀田郡七飯村生まれ。東京帝国大学文学部美学科入学の後、昭和ニ年九月に共産党に入党。共産党再建活動を通じて佐野学らと知り合い、逮捕、釈放、脱走を繰り返した。
武闘派の共産党員として頭角を現し、昭和五年一月の和歌山二里ヶ浜での共産党再建大会では書記長として警官隊と戦い、五月には追及を逃れて上海に密航。その二ヵ月後に治安維持法により逮捕拘留され、無期懲役。
だが昭和八年七月、獄中で佐野学、鍋山貞親らと連名で転向声明を発表。以後は一貫して国粋主義者としての道を歩むことになる。
昭和十六年四月二九日、紀元二千六百年の恩赦により仮釈放。昭和二〇年一月に土木会社「神中組」(後に三幸建設)を創設して実業家となった。昭和ニ四年八月一七日に起きた松川事件では、当時事件現場の近くに神中組の工事現場があったことから田中清玄の関与が疑われたことがある。
だが田中は「電源防衛隊」の活動で新潟県内にいたことを理由に事件当日のアリバイを主張し、追及を逃れている。この松川事件に関連し、田中は、後年、次のような発言をしている。
<---ソ連が本気で田中さんに、後方撹乱工作を依頼しようとしたとお考えですか。もちろんです。ソ連が私を使ってやりたかったのは、電力や輸送機器間の破壊工作でした。これをやられたら米軍は身動きが取れませんからね。それで私は、「祖国防衛・平和安定のための電源防衛。食糧増産・生産・運輸の安全」をスローガンに掲げ、全国各地の電源・石炭地帯を中心に電源防衛隊を組織して、彼等の破壊工作に対抗したのです。この証言にはいくつかの奇妙な点がある。まず田中は三鷹、松川の両事件が「ソ連の後方撹乱工作の「一環」としているが、あまりにも説得力に乏しい。さらに三鷹、松川の両事件には触れていながら、国鉄三大事件の内の最大の事件、「下山事件」には一言も言及していない。なぜなのか。
一九四九年には三鷹事件、松川事件が起きていますが、あれはみんな国鉄を寸断して、日本の輸送路を断って、日本を米軍の基地として機能しないようにする、彼等の後方撹乱工作の一環ですよ。私は今でもそう確信しています。>(大須賀瑞夫著『田中清玄自伝』文芸春秋・一九九三年)
P232 興味深いのは同じ『田中清玄自伝』の中で、田中は昭和二三年に神中組を「三幸建設」と名を変え、血盟団事件の被告だった四元義隆に会社を無償で譲ったと主張している。もしこれが事実ならば、松川事件が起きた昭和ニ四年八月にはすでに三幸建設は四元のものだったことになる。
だが田中の主張に対し四元義隆は、まったく異なる証言を残している。
<四元は実業界でも活躍した。昭和三〇年に田中清玄が投げ出した三幸建設の社長に就任すると、その人脈をフルに使って業績を上げ、同社の再建に成功した>(黒井文太郎編『謀略の昭和裏面史』)田中が四元に三幸建設を譲り渡した昭和三〇年当時、実は五億円にものぼる巨額の負債があったと言う。さらに付け加えるならば、田中清玄が社長時代の三幸建設の大口個人株主の一人に、田中と同じ共産党からの転向組であり昭和ニ四年当時国策パルプの副社長だった水野成夫がいた。
塩山総裁が事件の三日前に連絡を取ろうとし、当時「鉄道電化期成同盟」の委員長として国鉄電化事業の中枢にいたあの水野成夫である。
「電源防衛隊」を組織していたと自らが語るように、田中もまた労働問題のフィクサーという立場で日本の発電事業に深く関与していた。つまり田中と水野は、三幸建設の巨額の負債だけでなく、国鉄の電化事業においても利害関係が一致していたことになる。
大叔母は田中清玄のことをよく記憶していた。神中組を設立する一年ほど前からほぼ毎年のように亜細亜産業に顔を出し、同じ転向組の同期の鍋山貞親とは特に親しかったと言う。
〇西山幸雄
(以下、略)