2022年6月19日日曜日

偏愛メモ 『石油の世紀(上)』第十一章 ガソリンの時代 P345-381(随時更新)

P344 一九一九年、アメリカ陸軍のドワイト・D・アイゼンハワー大尉は、平和な時代が訪れて軍隊生活がすっかり退屈になり、陸軍を辞めてインディアナポリスへ行き同僚に誘われた仕事を始めようかと考えていた。

そんな矢先、陸軍がアメリカ大陸横断自動車キャラバン隊の参加者を募集していることを聞いた。キャラバン隊で、自動車輸送の可能性と、立派なハイウェーの必要性をアピールしようというのだ。

退屈をまぎらわせ、西部で安上がりな家族旅行をしようというのが、彼の本心であったが、ともかく自発的に参加した。彼は後にこう言っている。「あの時代に、自動車隊で大陸を横断しようというのは、まさに冒険だった」。

『トラックとタンクローリーによる秘境アメリカ横断』という著書の中で、彼はこの旅行を回想している。

キャラバン隊は、一九一九年七月七日、ホワイトハウスの前庭の南隣にゼロマイル・ストーン(道路元標)を設置し、旅立った。四二台のトラック。スタッフ用や監視・偵察用の五台の乗用車、そしてさらにはオートバイや救急車、タンクローリー、移動食堂車、それに移動式の自動車修理工場や通信隊用のサーチライト車まであった。

「言葉遣いといい運転技術といい、内燃機関より馬のほうが向いている連中が、車のハンドルを握っている」とアイゼンハワーは思ったという。最初の三日間、自動車隊は一時間あたり平均五マイルと三分の二のペースで何とか進んだ。

「のろのろ走る兵員輸送列車よりましとも言えなかった」とアイゼンハワーは言っているが、その後もスピードが上がるようなことはなかった。

P346 旅行の記録は、「車軸折れ」だの「ファンベルト切断」だの「プラグ故障」「ブレーキ破損」といった文字で埋まっている。道路のほうも、アイゼンハワーに言わせると「まともなところから、道なき道まで」さまざまだった。

「あるところでは重いトラックが道に穴を開けて動けず、一台づつキャタピラのついたトラクターで引っ張り出さなければならなかった。ある日など、六○マイルから一〇〇マイル進む間に、そんなことを三回も四回も繰り返した」

ワシントンを七月七日に出発し、サンフランシスコに着いたのは九月六日だった。サンフランシスコでは、パレードで歓迎を受け、それに続いてカリフォルニア州知事が、一八四九年のゴールド・ラッシュ時にカリフォルニアを目指した“不朽の四九年組”になぞらえて一行に賛辞を贈った。

しかしアイゼンハワーは、もっと先を見ていた。「この自動車隊から、立派な二車線のハイウェーの必要性を考えるきっかけを得た」と回想している。それから三五年後、彼はアメリカ大統領として、州間ハイウェー網の計画を強力に進めることになる。

一九一九年、アイゼンハワーのこの“秘境アメリカ横断のろのろ”自動車隊(写真)は、自動車時代という新時代の夜明けが、アメリカにきたことを示すものであった(注1)。

旅行の時代 P346-348
「今世紀は旅行の世紀です。そして戦争がもたらした疲労感といったものが、旅行したいという意欲をさらに搔き立てるでしょう」、ヘンリ・デターディングは、一九一六年、アメリカにいるシェル石油の幹部の一人に、こう手紙を書いている。

彼の予言は、第一次世界大戦が終わるとすぐ現実のものとなった。その結果、石油産業ばかりかアメリカ人の生活そのものも大きく変わっていったのである。

その変化は、きわめて急激であった。デターディングが予言した一九一六年、アメリカには三四〇万台の自動車が登録されていた。

P347しかし一九二〇年代の平和と繁栄を謳歌した時代に、工場の組み立てラインから驚くほどの数の自動車が作り出されていった。二〇年代末、その数は二三一〇万台に達している。

走行距離も年々伸び、一九一九年には一台平均四五〇〇マイルだったのが、二九年には七五〇〇になった。ガソリンを燃料にしていた。

自動車の登場で、アメリカ社会の様相は一変した。フレデリック・ルイス・アレンは、『オンリー・イエスタディ』という作品の中で、二〇年代の新しい世相について次のように記している(相互参照)。

「鉄道沿いの繁華な町がすっかり寂れ、国道六一号線沿いの町には、自動車修理工場やガソリンスタンドやホットドッグ屋、レストラン、喫茶店、旅行者のための休憩所、キャンプ場などが次々と誕生して賑わうようになった。

市街電車が姿を消し、鉄道が次々と支線を廃止した。二〇年代の初め頃、ほとんどの中心街の交差点は、ひとりの警察官で交通整理ができた。しかし二〇年代の終わりには、何という変わりようだろう。

赤、青の交通信号、点滅器、一方通行の道路が増え、客寄せの車止めだらけの遊歩道、どこまでも厳しくなる一方の駐車規制---それでも毎週土曜と日曜の午後には、メイン・ストリートで数グロックも、車が数珠つなぎになって渋滞するようになった。蒸気の時代は、ガソリンの時代に道を譲りつつあった」

自動車革命の影響は、どこよりもアメリカで大きかった。一九二九年には、世界の自動車の七八%が、アメリカにあった。国民五人あたりに一台の車があったのだ。これに対してイギリスでは三〇人に、フランスでは三三人に一台。ドイツでは一〇二人、日本では七〇ニ人、ソ連では六一三〇人に一台しか車がなかった。

アメリカは、まさにガソリン消費の先進国だった。石油産業の変化は、劇的だった。一九一九年の全米の石油需要は一日あたり一〇三万バレルだったが、二九年には二倍半に増えて二五八万バレルに達した。全エネルギー消費量に占める石油のシェアは、同じ期間に一〇%から二五%まで増えた。

P348 増えた分のほとんどはガソリンで、四倍増を記録した。二九年の石油消費量のうち八五%は、ガソリンと重油が占めた。それと比べると灯油は、無視できるほどの量だった。“ニュー・ライト”は“新しい燃料”に道を譲ったのである。(注2)

ガソリンの魔法 P348-352
自動車文明の時代を迎えたアメリカに、重要なものが登場した。新しい燃料と新しい生活様式に捧げられた聖堂---ガソリンスタンドである。二〇年代以前には、ガソリンは一般の小売店で売られていた。

ガソリンは、缶などに入れられて店のカウンターの下に置かれるか、店の裏に置かれていた。商品にブランド名はなく、客は、本当にガソリンなのかナフサや灯油など安いものが混ざったものなのか、知りようもなかった。

その上そんな販売方法は、まだるっこく煩わしかった。自動車時代の黎明期にはガソリンを荷台に乗せ、家から家へと配達しようと試みた者もあった。このアイデアは、流行らなかった。というのも、荷台ごとよく爆発したからだ。

もっといい方法があるはずだ、ということで誕生したのが、ガソリンスタンドだった。第一号のガソリンスタンドを作ったという名誉を受けるにふさわしい人物は何人かいるが、業界紙『ナショナル・ペトロリアム・ニュース』によると、ガソリンスタンドの創始者として最も重要なのは、セント・ルイスの“自動車ガソリン会社”である。

一九一〇年五月一〇日付の新聞の何ページ目かに、「ドライバーのためのステーション」という見出しで、「セント・ルイスの自動車ガソリン会社が、ガソリン販売の新しい方法を試み、成功している」と伝えている。

新機軸で記者の関心を引くのに成功したこのオイル・マンは「このゴミ捨て場から儲けられるとはね」と高笑いしている。記者は一号店こそ見ているが、セント・ルイスの二号店には足を運んだ。その店は、本当にゴミ捨て場だった。

P349小さなトタンぶきの小屋に、二つのガソリンの樽が置かれていた。外には、高いやぐらの上に二つのタンクがあり、重力を使ってガソリンを注入できるようにホースが伸びていた。

すべての設備は、ぬかるんだ一角に置かれていた。草創期のガソリンスタンドは皆そうだったが、小さく、狭苦しく、汚く、建てつけが悪く、タンクは一つか二つしかなかった。通りからは狭い舗装もしていない通路でやっと入れるものだった。

二〇年代に入って、ガソリンスタンドはようやく整備されるようになった。一九二〇年には、ガソリンを売っているのは一〇万軒に満たなかったが、その半分は食料品や雑貨・金物店を兼ねていた。

一〇年後には、そんな店ではもうガソリンは売っていなかった。一九二九年にはガソリンを売る店は三○万軒に増え、そのほとんどがガソリンスタンドか自動車整備工場だった。特にドライブイン方式のガソリンスタンドが増え、一九二一年の一万二〇〇〇軒から、二九年には一四万三〇〇〇軒になった。

ガソリンスタンドは、大都会の街角にも、小さな町のメイン・ストリートにも、田舎の十字路にも、どこにでもあった。ロッキー山脈の東では“フィリング・ステーション(油充填所)”、西では、“サービス・ステーション”と呼ばれた。

そして一九二一年、その未来の姿を思わせるようなガソリンスタンドが、テキサス州フォート・ワースに登場した。そこには八つの給油ポンプが備わり、表通りから三つの進入路があった。

しかし本当に現代的なガソリンスタンドを生み出したのは、カリフォルニア州、とりわけロサンゼルスだった。それは巨大な看板、手洗所、雨よけの大きな庇、植え込み、それに舗装した進入路といった標準的な構造のものであった。

シェル石油が初めて作り出したこの“標準化”されたガソリンスタンドは、猛烈な勢いで全米に広がった。二〇年代末には、ガソリンだけでなく“TBA”と呼ばれるタイヤ、バッテリー、カーアクセサリーなども販売して、利益をあげるようになった。

P350 インディアナ・スタンダード石油はガソリンスタンドを、エンジン・オイルや家具のツヤ出し油、ミシンや掃除機用の機械油まで、石油からできるすべての商品を販売する大型店に変身させようとしていた。
(略)
P352ティーポットの中の嵐
ガソリンの価格が多くのアメリカ人の生活に影響を与えるようになった。一九二〇年代には、いつ値上がりしても人々の恨みの対象となるようになった。マスコミの取材対象になり、州知事や上院議員そして大統領までが議論をし、連邦政府のさまざまな機関の捜査の対象になった。

一九二三年には、ガソリンが高騰した後、ウィスコンシン州選出のロバート(“ファイティング・ボブ”)・ラ・フォレット上院議員がガソリン価格についての公聴会を開き、大いに議論を呼んだ。

彼が委員長を務める上院の小委員会は「少数の大手石油会社が、一九二〇年一月以降してきたのと同じように、今後数年間も石油価格を操作し続けるなら、わが国の国民は遠からずガソリン一ガロンあたり最低一ドルを支払わなければならなくなる」と警告を発した。

だがその後ガソリンの供給が増え、価格が下がり、彼の警告も効力を失うことになる。一九二七年四月には、ガソリン小売り価格は、ラ・フォレットの悲観的な見通しに反して、サンフランシスコで一ガロンあたり一三セントに、ロサンゼルスでは一〇・五セントに下落した。

しかし、ラ・フォレットのガソリンの価格変動論は的が外れていたとしても、それは単なる副次的な問題だった。彼は、もう一つの標的をとらえていたのだ。アメリカ史上で最も有名かつ奇怪な汚職事件--“ティーポット・ドーム”事件(相互参照)--を上院で暴いたのである。

ワイオミング州にあるティーポット・ドームは、その地質構造がティーポットの蓋に似ていることからその名がついたが、P353海軍が石油保留地として確保した三油田のうちの一つ--他の二つはカリフォルニアにあった--だった。

海軍用の石油保留地というのは、第一次世界大戦の前に、タフトとウィルソン政権下で、アメリカ海軍が燃料を石炭から石油に切り替えるかどうかで議論した結果設けられたものだった。

同じような議論はちょうど同じ頃、ウィンストン・チャーチルとフィッシャー提督にマーカス・サムエルが加わり、イギリスでも行われた。石油の石炭に対する優位性や産油国となったアメリカの有利な立場はわかっていた。

しかしアメリカ同様イギリスでも、ある海軍将校が言うところの「軍艦の機動性と国家の安全を揺るがす供給不足」の可能性が憂慮されていた。肝腎な時に石油が切れたらどうするのか?

しかしながら石油の優位性は否定しようがなく、アメリカ海軍は、イギリス同様、一九一一年に石油への切り替えを決定した。翌年、石油供給への危惧を和らげるため、ワシントンの連邦政府は油田地帯に海軍石油保留地を設け始めた。

それたは「予期せざる緊急事態に供給を確保」するためのもので、戦争なのどの危機の際に生産を開始することになっていた。しかしワシントンでは、長い間、こういう保留地を設けるべきかどうか、民間に貸与して部分的な開発を認めるかどうかで、議論が闘わされてきた。

この議論は、公有地の資源を民間が開発すべきか、資源は連邦政府の責任で確保すべきかという、今世紀の初めから続いてきた論争の一部分でもあった。

ウォーレン・G・ハーディングは、“大統領らしく見える”というのが一番の理由で共和党の大統領候補にあげられた。一九二〇年にホワイトハウス入りした時、彼はよき政治家の例に漏れず、資源論争の両陣営に受けようとして、資源の「保護と開発の調和を図る」とぶち上げた。

しかし内務長官にニューメキシコ州選出の上院議員、アルバート・B・フォールを選んだことで、彼が保護よりも開発を選択していることが隠しようもなくなった。フォールは、それぞれの道で成功を収めた牧場主、弁護士、鉱山王であり、政治的にも強力な力を持っていた。

ある雑誌は彼のことをこう書いている。

P354「古き時代のテキサスの保安官のような乱暴で腕っぷしの強い開拓者で、若い頃は、ピストルの早撃ちで知られていた」「公有地の処分に制限などはないという考え方は、カウボーイハットと馬を合いすることと同様、典型的な西部の男のものであった」。

論争のもう一方の人々は、まったく違った見方をしている。保護派のあるリーダーは、フォールのことを「開発ギャング」と呼んでいる。「内務長官に彼以上に悪い男を選ぶこともできるだろう。だけどそれはそう簡単なことではない」と、このリーダーはつけ加えている。

フォールは、海軍石油保留地の管理権を、強引に海軍省から内務省に移管することに成功した。次は保留地を、民間企業に貸すことだ。彼の動きは、世間の知るところとなった。

一九二二年春、貸借契約が結ばれる直前に、スタンダード石油のウォルター・ティーグルが突然、広告業者のアルバート・ラスカーの事務所に姿を現した。ラスカーは、ハーディングの選挙運動を指揮し、今は全米海運業協会の会長を務めていた。

ティーグルはラスカーに言った。

「内務省は、すぐにでもティーポット・ドームを貸す契約をしようとしている。しかしどうも何か匂うんだ。私自身、ティーポット・ドームに関心はない。ニュージャージー・スタンダードとしても何の関心も持っていない。しかしあなたは、大統領にこの件がうさん臭いことをつたえるべきだ」

少々躊躇したものの、ラスカーは大統領に会いに行き、ティーグルのメッセージを伝えた。ハーディングは、机の後ろを行ったり来たりして、言った。「そのうわさを聞いたのはこれが初めてではないんだ。しかし、もしアルバート・フォールが正直な男でなかったなら、私もアメリカ大統領としてふさわしくないということになる」。

この二つの点については、まもなく真偽が厳しく試されることになる。(注4)

フォールは、ティーポット・ドームをハリー・シンクレアに貸した。シンクレア石油が生産した石油を連邦政府が買う、というきわめて有利な契約だった。

P355フォールはまた、カリフォルニアにあるもっと好条件の保留地エルク・ヒルを、エドワード・ドヒーニーに貸した。この二人は、アメリカのオイル・マンの中でもよく知られていた人物であった。

彼らは、かつてのスタンダード石油とは無関係に、独力で事業を始めた企業家であった。ドヒーニーは一種伝説上の人物であった。彼は最初、山師だった。鉱山の立坑から落ちて両足を折り寝込んでいる間に、弁護士になるべき勉強した。

ナイフ一本で、クーガ(アメリカライオン)と戦ったとも言われている。一九二〇年代までにドヒーニーは大資産を築き、彼の会社パン・アメリカンは、スタンダード石油石油の流れをくむどの会社よりも大きな原油生産会社となった。

さらにドヒーニーは、民主・共和両党の政治家に、注意深く政治資金を贈っていた。

カンザスの薬屋の息子、ハリー・シンクレアも同様であった。彼は、薬屋になるべく修業した。しかし二〇歳の時、投機に失敗して薬屋を失ってしまった。失意の中、彼は石油掘削装置用の材木を売って生計を立てた。

それからカンザス南東部とオクラホマのオーセージ・インディアンの居住地にある小さな油田権益の売買を始めた。投資家を誘って、石油探鉱利権を一件ごと売りさばくちっぽけな石油会社の世話役となった。

商売が上手で、実行力があり、自信にあふれ、他の投資家の意見など歯牙にもかけなかった。「彼が座るところが、上座になるんだ」と仲間の一人は言っている。彼にしてみれば、単にわが道を行こうとしただけだ。

オクラホマのグレン・プールに全財産を注ぎ込み、幸運を引きあてた。新しく発見されたオクラホマの油田に行き、まだパイプラインがつながっていないため、あふれ出る石油で油まみれになりながら、買える限りの石油を一バレルあたり一〇セントで買い占めた。

そして鉄製のタンクを急造して、パイプラインがつながるのを待ち、一バレル一ドル二〇セントで売ったのだ。

P356第一次世界大戦までにシンクレアは、アメリカ中央部で独立系として一番の石油生産者になっていた。しかし大企業に媚びへつらいながら石油を売ることに、我慢がならなかった。

そこで五○○○万ドルを集め、一九一六年に、生産から販売までを扱う一貫操業の石油会社を設立した。その会社はすぐ全米一〇以内にランクされるまでになった。会社に君臨する絶対君主として、シンクレアは仕事のためなら全国どこででも闘う心づもりをしていた。

何かをしようとする時に、目の前にには何も立ちはだかるものはない。彼はそんなふうに考えるようになっていた。そんな彼が欲しがったのが、ティーポット・ドームだった。

一九二二年四月、内務省は黒いうわさが渦巻く中、ドヒーニーとシンクレアとの契約を行った。政府の油田保護派の一人などは、「フォール氏は口のうまい大手石油業者ときわめて仲がよい」と評していた。

ラフォレット上院議員は調査を開始した。石油保留地を海軍省から内務省の管轄に移すことと直後の民間貸与に反対した海軍将校たちが僻地に左遷されたことがわかった。

彼の疑念はさらに高まった。しかし翌年の三月にフォールが内務長官を辞職した時には、まだ疑いの範囲を超えていなかった。フォールは何かと議論を呼んでいたが、依然として信頼され尊敬される政治家であった。

しかしこの頃には、ハーディング政権は汚職とスキャンダルの泥沼にはまり込み始めていた。ハーディング自身、愛人を囲っているという批判にさらされていた。大統領はカンザスの平原を走る専用客車の中で「私は政敵とうまくやっている。私の仲間うちの者こそが、問題を引き起こしているのだ」とこぼしていた。

それからほどなくハーディングは、サンフランシスコで突然この世を去った。医者は死因を「塞栓症(血管の閉塞)」と発表したが、ある新聞の編集者は「恐怖と恥辱と混迷という病気にかかっていた」と書いている。

彼の後を、副大統領のカルビン・クーリッジが継いだ。

P357一方、上院の公有地問題委員会が、ティーポット・ドーム問題を取り上げることになった。依然としてはっきりした証拠はなく、すべては「ティーポットの中の嵐」にすぎないと言う者もいた。

そんな時、注目すべき事実が浮かび上がってきた。ティーポット・ドームが貸与されたまさにその頃、ニューメキシコのフォールの牧場で、多額の費用をかけた大がかりな改修工事が行われていたのである。

フォールはまた、小さなブリキの缶から百ドル札をごっそり取り出して、隣の牧場を買い取っていた。なぜ急に金回りがよくなったのか?この疑問を突きつけられたフォールは、「ワシントン・ポストの社主、ネッド・マクリーンから一〇万ドルを借金した」と弁明した。

マクリーンは、病気で動けないということで、パーム・ビーチでインタビューに答え、金を貸したことを認めた。しかし渡した小切手は現金化されず数日後に返却されたことも明らかにした。

もっと驚くべき事実が明らかにされた。シンクレアの秘書が「もしフォールが欲しいと言うなら、フォールに二万五○○○ドルから三万ドルをやってもいい、とシンクレアがかつて話していた」と証言したのだ。

そして実際フォールはそう頼んだのだ。シンクレアは突然ヨーロッパに旅立ち、記者を避けるためにあわててパリからベルサイユに向かった。

そして爆弾宣言が出た。一九二四年一月二四日、エドワード・ドヒーニーは上院の委員会で、彼が一〇万ドルをフォールに渡したことを証言した。現金は、彼の息子が小さい黒いバッグに入れてフォールのオフィスに運んだと言う。

「これは決して賄賂ではない。旧友への融資だ」とドヒーニーは強調した。一〇年前、二人は一緒に金鉱探しをしたことがあったのだ。フォールがサインしたというメモ書きの借用書もあったが、署名の部分は破り取られていた。

ドヒーニーは「わたしが突然死ぬようなことがあっても、フォールが借金の返済を迫られて困ることがないように、署名の部分は妻が持っている」と説明した。なんと思慮深い友情であろうか。

P358フォール自身は、病気のため証言できないと言っていた。そのことは多くの人にほんの数年前の出来事を思い出させた。一九二〇年、党派性旺盛なフォールは、もう一人の上院議員と一緒にホワイトハウスに押しかけた。

民主党のウッドロー・ウィルソン大統領が本当に脳卒中を患っているのか、それともうわさされているように精神を病んでいるのか調べるためだった。「大統領、われわれ一同閣下のご健康をお祈り申し上げとります」、フォールは、大真面目に言った。

ウィルソンはか弱い声で答えた。「どんな方法でかね、上院議員?」今や人々は、フォールの症状を調査するべきだと主張した。奇怪な話が次々と暴露され評判はガタ落ちとなった。

捜査当局は、パーム・ビーチにいるワシントン・ポストの社主、ネッド・マクリーンとワシントンのいろいろな人物たちとの間で司法省の古い暗号を使った電報が多数交わされていることを掴んだ。

元列車強盗がオクラホマから上院の委員会に証言に現れたこともある。上院での証言を拒否して議会侮辱罪に問われたハリー・シンクレアは、バーンズ探偵社を使い、陪審員を尾行させた。

一九ニ四年の雑誌『ニュー・パブリック』は「ワシントンは石油にどっぷり肩までつかっている。新聞記者は、他のことは何も書かない。ホテルでも道端でも、ディナーの席でも、石油がただ一つの話題だった。議会は他の仕事をすべて放り出している」と書いている。

一九二四年の大統領選挙が間近かに迫り、カルビン・クーリッジは当選することを当然のことと考えて準備に余念がなかった。石油問題へのかかわりについてはできる限り触れないようにし、ティーポット・ドーム事件のまきぞえを極力避けようとした。

ある共和党の下院議員は、クーリッジのティーポット・ドーム事件のかかわりといえば、彼が石油ランプの光の下で大統領として宣誓させられたというぐらいのものだ、と彼は弁護した。

民主党は、この事件を醜聞として大統領選挙の争点にしようともくろんだ。しかし彼らはカルビン・クーリッジの政治手腕を低く評価しすぎていた。そして自分たちの弱みを見落としていた。

P359ドヒーニーは、民主党員であり、ウッドロー・ウィルソン政権時代の閣僚の少なくとも四人に割のいい仕事を提供していたのだ。

ドヒーニーはまた、ウッドロー・ウィルソンの娘婿で一九ニ四年大統領選挙の民主党候補指名争いの先頭を走っていたウィリアム・マカドゥーにも、弁護士費用として一五万ドルを支払っていた。

マカドゥーは、この話が明るみに出て選挙戦から脱落し、民主党の候補はジョン・W・デービスとなった。さらに、上院のティーポット・ドーム事件調査委員会の委員長を務める民主党の議員が、実はドヒーニーとモンタナ州の石油探鉱開発計画について話し合っていたことも明らかにされた。

ティーポット・ドーム事件へ人々の怒りが高まるのを見て、クーリッジは反撃に出た。彼はハーディングの息のかかった連中を首にし、不正を糾弾し、民主党と共和党一人ずつ合わせて二人の特別検察官を任命した。

このようにして彼はうまく事件と距離をとり、一九ニ四年の大統領選挙では、“サイレント・カルビン”のあだ名どおり行動した。彼の戦略は事件を無視する沈黙作戦だった。

石油について徹底的に触れよとしなかった。作戦は大当たりだった。驚くべきことにティーポット・ドーム事件は選挙期間中ずっと争点にならず、クーリッジは楽勝を収めたのである。

事件は二〇年代が終わるまで続き、一九二八年にはシンクレアがコンチネンタル貿易という架空の会社を通じて、フォールにさらに数十万ドルを渡していたことが明らかとなった。

フォールは合わせて最低四〇万九〇〇〇ドルを、二人の友人に便宜を図った謝礼として受け取っていたのである。ついに一九三一年、貪欲なフォールは刑務所に入れられた。

在職中に重罪を犯して有罪になり服役した閣僚は、アメリカ史上彼が初めてであった。シンクレアは、法廷と議会に対する侮辱罪で懲役六ヵ月半の判決を受けた。刑務所に向かう途中、彼はシンクレア合同石油会社の取締役会に出席した。

そこで、他の取締役から正式に信任の決議をする旨を告げられた。ドヒーニーは無罪となり、刑務所に行かずに済んだ。P360ある上院議員は「アメリカでは、一〇〇万ドル以上に有罪を宣告できないからな」と不満を漏らしていた。(注5)

P360大佐と自由公債 P360-363/ 362地球物理学と幸運 P363-366/ 364/ 366大君 P367-371/ 368/ 370上げ潮 P371-373/ 372/ 374競争の時代へ P374-377/ 376/ 378サンキストの野郎ども P378-381/ 380

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