第一五章 マードレ・デ・デウス号爆沈 P256-265
日本宣教はザビエルの渡来以来、イエズス会の独占するところで、その特権は一五八五年、教皇グレゴリオ一三世(参照)がイエズス会士以外の宣教師が渡日するのを禁じたことによって保障されていた。しかし、マニラに本拠を置くスペイン系托鉢修道会は、この禁令をくぐり抜けて日本宣教に参入すべく、あらゆる機会をねらっており、フランシスコ会が秀吉・家康とフィリピン総督の外交交渉に乗じ、使節として来日して以来、京都・江戸に拠点を築いたことは先述したとおりである(第一三章)。
スペイン系修道会がこのように日本に執心したのは、たんなる宣教への情熱によるものではない。ポルトガル・スペインの海外布教は教皇から国王に与えられた布教保護権のもとに行われた。両国国王は一四九四年のトルデシーリャス条約によって分割されたおのおのの支配領域の布教を保護する責任を有するが、そのことは同時に、布教領域を自国の植民地化する権限をも与えられたことになる。
そもそもは、トルデシーリャス条約による世界分割というのが途方もないことである。分割されるのはアフリカ、東インド(東南アジア・中国・日本を含む)、西インド(南北アメリカ)である。いずれも多数の独立国家を含む。
教皇アレクサンデル六世(tw,tw)はこの領域を二分割して、スペイン国王とポルトガル国王に与えた。勝手な話とも誇大妄想ともいえるが、P257日本も中国も自らのあずかり知らぬところで布教対象と定められ、布教を受け入れぬ場合には暴力的手段で屈服させるべき対象とされたのである。
→『ルネサンスとは何であったのか』P156-
→『日米衝突の萌芽』P20-
→『1852』P21-
もちろん、ザビエルにせよヴァリニャーノにせよ、日本宣教に武力を用いようなどとは考えていなかった(tw)。
というより、日本が武威がさかんな国と知って、その不可能を悟っていたのだ(参照)。
しかし、武力による支配はつねに宣教師たちの頭にあった。その一例として、ペドロ・デ・ラ・クルスの一五九九年二月五日付、長崎発イエズス会総長宛の書簡を見よう。クルスはイエズス会士として一五九○年に来日したが、国籍はスペインである。
クルスはまずスペイン人が日本において、布教・貿易、さらには一歩進めて征服のための基地を設ける必要を説き、その基地を四国、あるいは関東に求めるべきだという。一方、長崎の不安定さを説き、天草の土岐にポルトガル人の基地を置くことをすすめる。
小西行長はよろこんで土岐を提供するだろう。マカオは放棄して、土岐をそれに替る布教・貿易の拠点とすべきである。日本に武力を導入して堅固な基地を建設することには反対論があるが、気にしてはならない。
反対論の筆頭であるヴァリニャーノさえ、「この国を征服するだけの武力を持ちたいと神に祈るが、それは不可能だ」と漏らしている(参照)。
フェリペ三世が軍隊を派遣して、前述の二港を確保しようとすれば、諸侯やその家臣はよろこんで協力するだろう。彼らは上級権力に対する隷属性が強く、もっと安定した地位を求めているからだ。悲惨な状態にある百姓がわれわれを歓迎することは明らかだ。
クルスはさらに、このような基地獲得の利点として、「機会あり次第行うはずのシナ征服のために非常に適した兵隊を、安く日本から調達できる」点をあげている。このシナ征服論はマニラ宣教師たちが好んで論じる題目だった。
スペイン系修道会の日本進出 P258-259
P258 布教保護権のもとで行われる宣教に国益の観点が伴うのは当然で、イエズス会がポルトガル国王の保護権のもとにあったのに対して、マニラのスペイン系修道会はスペイン国王の保護権のもとにあった。
スペイン・ポルトガルはフェリペ三世(ポルトガル王としては二世)を戴く同君連合の関係にあったものの、フェリペはポルトガルに独立的な地位を与えており、両国の国益は依然として対立していた(参照)。
マニラのスペイン系修道会は、国益という点でも、イエズス会の日本独占を許せなかった。マニラのドミニコ会は薩摩王国に働きかけて、その懇請を受ける形で、一六○二年に五名の司祭・修道士を送りこんだ。彼らは甑島に定住し、さらに京泊(現薩摩川内市)に教会を建てたが、布教の実があがらぬうちに、一六〇九年に島津氏から退去を命じられた。
彼らは長崎に移り、代官村山等安の厚意を得て、そこへ京泊の教会を移築した。その間、同会のモラーレスは駿府に家康を訪ねている。家康はイエズス会、フランシスコ会、ドミニコ会に全方位外交の姿勢をとったわけである。
一六○二年にはアウグスティノ会士二名が平戸につき、何かの縁故を得て豊後の臼杵と佐伯で布教に従事したが、一六一一年には長崎に進出して教会と修院を建てた。一方、江戸や京・大坂で活動していたフランシスコ会も、一六〇八年頃長崎に教会・修院を建て、一六一二年には準管区長が長崎に居を定めた。
このようにしていまや長崎は、イエズス、フランシスコ、ドミニコ、アウグスティノの四修道会の本拠となり、イエズス会とスペイン系修道会の抗争の場となったのである。
スペイン系修道会の日本進出は一五八五年の小勅書に違反する行為であったが、一六〇〇年一二月、教皇クレメンス八世は禁令を緩和して、ポルトガル領域を経由しての日本入国をすべての修道会に赦した。ただし、フィリピン・メキシコから直接日本へ入ることは禁じられ、すでにマニラから入国したものは日本から退去すべきことが命じられた。
この小勅書は一六〇三年頃長崎に到着した。司教セルケイラはこれにもとづいて、マニラから来日したフランシスコ会士、ドミニコ会士、アウグスティノ会士に退去を促したが、もとより実効をあげることはできなかった。
彼らはそれぞれ、関東・薩摩・豊後の領主から布教を許されており、その信任にそむくわけにはゆかぬと主張し、さらに、イエズス会の布教の及ばぬ前記地域の信者を見棄てることを神は許さぬと反論した。
セルケイラは、かくなる上は、スペイン国王からフィリピン総督に小勅書の遵守を厳命してしてもらうしかないと思った。しかし、フェリペ三世の周りにはすでに小勅書廃止の動きが渦巻いていた。
しかも、日本イエズス会内部においても、ディエゴ・デ・メスキータ、アントニオ・フランシスコ・デ・クリターナ、さらに前出のクルスらはスペイン系修道会に同情的で、彼らに退去を迫ることに反対だった。
クリターナとクルスはスペイン人である。日本イエズス会は国籍に由来する内部対立を抱えこんでいたのだ。この問題は結局、一六〇八年六月にパウロ五世が小勅書を出すに及んで決着がついた。各修道会は今後、どこを経由しようと日本入国は自由とされた。小勅書の長崎着は一六一一年七月であった。
揺らぎ始めるポルトガルの対日貿易独占 P259-262
一七世紀初頭はスペイン系修道会が、イエズス会の独占を打ち破って、日本宣教に加わっただけでなく、貿易の面でもオランダ、ついでイギリスが日本市場に参入し、マードレ・デ・デウス号の爆沈によってマカオ・長崎間の交易が杜絶する一方、フィリピン前総督の日本漂着によって、日本・メキシコ間の交易が模索されるなど、日本とヨーロッパの接触が一挙に多面化した時期である。
また日本人もこの頃から、朱印船の形で南方に進出し始め、各地に日本人町が形成された。朱印船と南洋日本人町については、のちに一括して述べることにして、ポルトガルによる日本貿易独占が揺らぎゆく経過を、なるべく時系列にそって語りたい。
スペインに対して反乱を起こした北ネーデルランド七州は、一六〇九年スペインと一二年間のの休戦条約を結んだ。P260この条約によってオランダは国際的に独立国の地位を得た。
アジア海域では条約が翌年発効することにされたので、東インド会社は東南アジア海域で活動していた艦隊に、発効以前にできうる限りポルトガル・スペインに打撃を与え、各地に拠点を築くように命じた。
折からマカオを出港したポルトガル定航船を追って、二隻のオランダ船が長崎に着いたのは、一六〇九年七月一日のことである。ポルトガル船は危うく拿捕を免れて、その二日前、長崎に入港していた。
これこそ翌年爆沈するマードレ・デ・デウス号である。
オランダ船は翌日平戸へ入港した。長崎の繁昌を嫉視していた松浦氏がこの珍客を大歓迎したのはいうまでもない。
オランダ船が平戸へ入ったのは次のような事情からだ。オランダは一六〇三年、マレー半島東岸のパタニに商館を設けたが、そのことを知った英国人のアダムズは、リーフデ号生き残りのクァケルナクとサントフォールトに家康の通行許可状を持たせてパタニへ送った。
両人は松浦氏が仕立てた船で一六〇五年無事にパタニに着き、折からマラッカを攻囲中のオランダのマテリーフ艦隊に家康の許可状を伝えた。マテリーフは翌年南シナ海へ入ったものの日本行きの余裕はなく、マカオ付近で出会した平戸の船に、三年以内に平戸を訪うと伝言した。
前述の二隻のオランダ船はマードレ・デ・デウス号を拿捕できぬ場合は、平戸へ赴いて通商を開くように指令され、共和国総督マウリッツの国書も携えていた。彼らの使節は松浦氏の仲介によって、八月下旬駿府で家康と会見し、マウリッツへの返書と、「いずれの浦に着岸するすといえども、相違あるべからず」という来航免許状を与えられた。
九月二〇日船員会議によって、平戸に商館を開き、ジャック・スペックス以下六名の館員を置くことが決議された。スペックスは、このときまだ二一、二歳の弱冠だったという。商館を開いても、二隻がもたらした商品は生糸・胡椒など少量で、とてもポルトガル船の敵ではなかった。
平戸候は日本では売れ行きの悪い胡椒を一二〇〇グルデンで買い取った。みすみす損をしても、オランダ商館を立ち行かせたかったのだ。二隻のオランダ船はただちに平戸を去ったが、P261そのうち一隻はオランダ本国に漆器九箱と陶器九ニニ七個をもたらした。
「これぞ最初の日貨輸入船」と、『一七世紀日蘭交渉史』の著者ナホッドは言う。
この時期、フィリピンからの商船来航は急増していた。長崎駐在のイエズス会司教セルケイラは、これによってマカオ・長崎間の貿易が深刻な打撃を受けることを憂慮し、スペイン政府に働きかけたが、もとより効果は望まれず、一九〇九年には五隻のマニラ船が来航し、生糸の取引価格は低下して、マカオからの定航船もマニラ船も十分な利をあげることができぬ始末だった。
このようにマニラからのスペイン船が大量の生糸を日本へもたらしたのは、一五八○年代から中国船がマニラに来航し、一七世紀初頭には年間三、四○隻にのぼったからである。中国船の目当ては新大陸からマニラにもたらされる銀だった。
中国の銀需要は膨大なもので、スペイン領アメリカの産出する銀のかなりが中国に吸いこまれた。もちろん日本の銀も、マニラを通じて中国へ吸収されたわけである。日本はスペイン領アメリカと並ぶ世界有数の銀産出国であった。
マニラのスペイン商人は、銀を対価として入手した生糸を日本へ転売して利を得た。マカオのポルトガル人とまったく同様の手口である。フィリピン政庁が日本貿易に力を入れたのは、日本から輸入する小麦等の食糧と武器類が、植民地を維持する上で欠かせなかったからだ。
マニラのスペイン人は生活物資を自給できないばかりでなく、防衛上も弱体であった。一六〇三年、マニラ在住の中国人(サングレイと呼ばれた)が反乱を起こして鎮圧された。当時マニラの中国人人口は八〇〇〇人にのぼっていた。
一方マニラ市内で武器をとれるスペイン人は七〇〇にすぎなかった。鎮圧部隊の有力な部分は三〇〇の日本人だった。
総督アクーニャは翌年の書簡で、サングレイとの戦いで弾薬が尽きていたところ、日本へ送った船が補給してくれたと感謝している。
ちなみに、日本が中国の生糸を入手するのに、ポルトガル人やスペイン人の仲介を経ねばならなかったのは、むろん明朝が海禁政策を維持し、日本への渡航も許さなかったからである。しかし、家康が一六一○年、福建総督宛に貿易を望む書を送ったのをきっかけとして、次第に唐船が長崎に来航するようになり、一六三○年には三〇万斤の生糸をもたらすようになった。
マカオ・長崎貿易はこの面でも危機にさらされるが、それはまだ先の話。
マカオ事件に激怒した家康 P262-264
二隻のオランダ船に追われているとも知らず、一六〇九年六月二九日に長崎に着いたマードレ・デ・デウス号に話を戻そう。実は座乗するカピタン・モール、アンドレ・ペッソアは、前年マカオで有馬氏の家臣を殺害したという前歴を抱えていた。
一六〇八年、インドシナの占城へ交易に赴いた有馬氏の船が、帰航の時期をのがしてマカオで越年した。乗員は遭難してマカオに来合わせた他の日本人とともに、市街をわがもの顔でのし歩き、ポルトガル人ともめごとを起こした。
定航船のカピタン・モールはマカオの治安責任者でもあるから、ペッソアは武装して二軒の家にたて籠もる日本人に降服を勧告した。一軒の五〇名は降伏したが、他の一軒の四七名は勧告に応じない。火をかけて、逃れ出る者をことごとく射殺した。
降伏した五〇名のうち一人は盗賊として絞首された。
ペッソアはマカオでの一件について、自分の措置の正当さを信じていたが、家康に一応の申し開きをした方がよいと考えた。しかし、長崎奉行長谷川左兵衛藤広が、家康の怒りを招きかねぬのでその件は伏せておくべきだと言うので、それに従って、恒例の使節には、マカオへ日本人が来ることを禁ずるよう請願せよと命じるにとどめた。
使節は一六〇九年八月、莫大な贈物を携えて駿府に赴き、家康から、日本人がマカオへ赴いて迷惑をかけるとのことゆえ、マカオ渡航を禁ずる、違反者があれば当地で処断してよろしいという朱印状をえた。
P263実は、左兵衛はこれを機に、マードレ号が舶載した貨物を、自分の裁量のものとに置くつもりだった。マカオからの定航船は長崎に入港すると、舶載した生糸の目録を自主的に提出し、長崎奉行・日本人商人と、一括販売する価格を交渉・決定する。
日本人商人は奉行が次々に割り当てた量の生糸を、定航船に赴いて受け取るのである。ところが左兵衛は今回に限って、マードレ号が入港するやただちに役人を船に送って、すべての目録を作らせようとした。
ペッソアは従来の慣行に反するこのような措置を拒否した。要するに左兵衛はポルトガル人が維持して来た取り引き上の自由を否定し、一方的な価格での買い取りを押しつけようとしたのだ。紛争の続く間ペッソアは、マカオの一件で自分をおどして事を有利に運ぼうとする左兵衛の意図に気づき、自ら家康の前に出て弁明しようとした。
しかし左兵衛は、家康に一件を知られたら一切は破滅だというし、司教セルケイラもおなじ意見である。ペッソアは思いとどまったが、これが一生の不覚となった。
一方、左兵衛はマカオの一件を家康に暴露するつもりだった。そのため有馬晴信を使った。晴信はマカオから帰った生き残りの家臣から話を聞かされて、当然遺恨を抱いていた。有馬船は家康の依頼で伽羅木を購入する任も帯びていただけに、彼の不快感は強かったのではないか。
しかし彼は一方では、イエズス会を通じてポルトガル人と友好関係があった。そういう晴信を左兵衛は煽った。結局、晴信は駿府に罷り出て、マカオの事件を言上した。果して家康は激怒した。彼の怒りはマカオで日本人が殺された点にあったのではなかろう。
マニラの日本人は一七世紀初頭には一五〇〇人に達しており、一六〇七年から〇九年にかけて毎年暴動を起こして鎮圧された。総督代理ロドリゴ・デ・ビベロは、〇八年に二〇〇人の日本人を強制送還し、その旨幕府へ通告したが、家康は「悪逆をなす輩は、呂宋法度の如く、成敗致さるべき也」と返書している。
家康はマードレ号の使節がこの事件を自分に報告しなかったことを怒ったのだ。ポルトガル人は事件を隠匿したと信じた。ペッソアが家康のもとに赴いて釈明していたら、マニラの先例からして、彼は激怒することはなかったろう。
ペッソアがそうしようとしたのを阻んだのは、長谷川左兵衛のたくらみだった。彼は家康を怒らせることで、マードレ号に圧力をかけ、マカオ貿易の主導権を握ろうとした。彼はすでにマードレ号の生糸以外の貨物を低価格で一括購入することに成功していた。
有馬線は占城国王へ家康の書簡と贈物を伝達した帰路、マカオで事件を起こしたのである。このことも家康の頭にはあったのだろう。彼は晴信に、ペッソアを訊問した上で適当に処断せよと命じた。晴信は有馬領へ帰り、兵を率いて一六一〇年一月一日長崎に現われた。
晴信が左兵衛と計ってペッソアを召喚すると、ペッソアは身の危険を感じてそれに応じず、ただちに上陸中の船員を呼び戻して出航の準備にかかった。左兵衛から上陸中のポルトガル人に禁足令が出ていたので、マードレ号に帰り戻れた船員は五〇人にすぎなかったが、ペッソアは出航を決断した。ポルトガル商人は陸にとり残された。
生糸を積載したまま爆沈 P264-265
(略、マードレ号攻防の様子)ペッソアはとっさに決断し、火薬庫に点火するよう命じた。マードレ号は轟音とともに沈没した。ペッソアは若くして軍務にたずさわり、武功を重ねたポルトガル人である。その果敢な最期はイベリア武士の名を辱めなかった。
晴信はマードレ号を逃したら自決するしかないと覚悟していたといわれるが、多くの部下を失い心たのしまなかった。
P265 陸上ではイエズス会の司祭たちがマードレ号の脱出を祈ったのに対して、日本人修道士はその爆沈を歓呼した。
イエズス会日本準管区長パシオは事件二ヵ月後の書簡で、家康はマニラ貿易に頼ることができたためにマードレ号を奪うよう指令したのだと指摘するとともに、この事件でイエズス会は三万ドゥカードを損失したと述べた。
マードレ号積載の生糸はまだ揚陸されておらず、海中に沈んだ。その量三〇万斤と伝えられる。これは当時の日本の年間生糸輸入量に相当する。
長谷川左兵衛はこの際、家康とイエズス会の仲介を果たし、長崎貿易に深く関与してきたロドリゲス・ツズ(参照)を追放しようと企んだ。その相棒となったのが長崎代官村山等安である。等安はイエズス会により受洗し、その力を背景に代官となったのに、その後スペイン系修道会に乗り換え、イエズス会に露骨な敵意を示すようになった。
彼がロドリゲスを憎んだのは、生糸取り引きの上の利害の対立のほか、彼の妻がロドリゲスと密通したからだという説がある。イエズス会士ディアスの書簡によれば、ロドリゲスは「しばしば彼女の着物の中に手を入れて乳房をさわった」という。
『通辞ロドリゲス』の著者M・クーパーは、この件については司教セルケイラがロドリゲスの潔白を証言しており、事実とは考えられぬと主張する。
ともかくロドリゲスはマードレ号爆沈の二ヵ月後、左兵衛の意を受けてマカオへ去った。
オルガンティーノはイエズス会が長崎貿易に深く関与することを憂慮し、その旨ローマにの本部に警告していたが、ロドリゲスが離日する一年前に逝去した。日本人をこよなく愛し、また日本人から愛された古強者だった。
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