2020年7月21日火曜日

偏愛メモ 『バテレンの世紀』第一七章 英国商館とアダムズ P279-291

第一七章 英国商館とアダムズ P279-291

カタリーナ使節が追い返された一六一八年四月の時点で、日本とスペインとの関係は実質的に断絶した。メキシコとの通商を望んだ家康は、豊臣家を滅亡させて安堵したかのように、一六一六年六月に世を去っていた。

その家康も全国禁教令を布いたとき、すでにメキシコ通商に熱意を失っていたはずである。布教に執着するカトリック国にあえて友好を求めずとも、布教抜きで商売だけしてくれるオランダ・イギリスがすでに登場していたのだ。

英国は一六一三年に日本市場に参入した。司令官ジョン・セーリスが乗ったグローヴ号が平戸へ入ったのはその年の六月一一日である。ただし日付に関していえば、他の欧州諸国が一五八二年以来、教皇グレゴリオ一三世が定めたグレゴリ暦を使用したのに、英国は一七五二年までユリウス暦を用いたので、この頃の英人の記録はすべて、他の欧州人の記録より一〇日遅れの日付になっていることに注意しよう。

英国では日本と通商しようとする意向は早くから存在した。一六世紀の後半、英国の航海者たちはいわゆる北東航路、ロシアの北を抜けてアジアへ至る航路を見出そうと必死だったが、一五八〇年に派遣されたジャックマンとペットの船隊は、北シナに到着したあと機会を得て日本へ渡航せよと指令されていた。

北東航路が挫折し、P280ついでカナダの北を廻る北西航路の試みも潰えたのち、アジアへ至るには結局喜望峰廻りの航路によるしかなかった。一六〇四年に出航したエドワード・マイケルボーンの船隊は、中国はむろんのこと日本へ渡航する特許状を得ていたが、スマトラ島を経てマレー半島沿いに北上する途中、パタニ沖で日本船と死闘を演じ、航海長ジョン・デイヴィスが戦死した。

デイヴィスは北西航路開拓以来の名高い航海者である。気落ちしたマイケルボーンはそのまま帰国の途についた。英国側は日本人海賊と記録しているけれども、これは南方交易に従事していた日本上人の船だろう。

当時の商船が武装していて、必要とあれば海賊行為を働いたのは、日・中・欧を問わぬ状態だった。マイケルボーンの船隊自身、それまで数々の略奪行為を行っていた。

「未知の同胞への手紙」 P280-281
英国東インド会社は、一六一〇年に出航させたアンソニー・ヒッポンの船隊に、日本在留のウィリアム・アダムズ宛の手紙を託していたが、ヒッポンは結局日本へ至らず、当時英国商館が設けられていたジャワ島西部のバンタムまで行って帰航した。

アダムズが日本にいるという情報は早くからオランダに伝わっていて、英人はオランダ経由でそれを知ったのである。アダムズは家康から信任され、三浦半島の逸見にニニ○石の領地を賜り、江戸日本橋の近くに屋敷も与えられていた。

れっきとした幕臣となっていたのだ。日本人妻がおり、二人の子も得ていた。一漂流者としては希な好運というべきだが、むろん望郷の思いはあった。オランダ船が平戸へ入港し、代表が家康に謁見したのは一六〇九年のことだが、アダムズはそのことに関知していない。

彼がオランダ人と関係したのは、一六一一年オランダ商館長スペックスが家康を訪うたときで、これはスペックスから事前に手紙で助力を乞われたのである。その年の一〇月ニニ日付で、アダムズは「未知の同朋への手紙」の名で知られる有名な書簡を書いた。

P281 手紙は「予は其の名は知られざれども、英国商人数人ジャバ島に在ることを聞きたれば、此の機会を利用して、尊敬すべき、未見の会社員に一書を呈す」に始まり、日本へ漂流するに至った経緯、家康の殊遇、日本の国情を述べている。ジャワ島のバンタムに英人がいることはむろんスペックスから聞いたのである。

文中アダムズが「内政はよく整い、おそらく世界中でこの国ほど正しい政治が行われている国はない」と述べているのは注目に値する。アダムズの手紙はオランダ船によってバンタムの英国商館に届いた。

同商館員スポールディングの返書は翌一六一二年にアダムズのもとに届き、彼は一六一三年一月一二日付でスポールディングに手紙を書いた。それによると、ヒッポン艦隊に託された東インド会社総裁の彼宛書簡は、おそらくオランダ船によってだろうが、彼のもとに届いていた。

アダムズは英国人と通信しようとする試みが、しばしばオランダ人によって妨げられたと訴えている。

とにかくアダムズは東インド会社総裁の彼宛書簡によって、会社が日本に派船しようとしていることを知った。従って、スポールディング宛書簡は、家康にこのことを告げて大層よろこばれたことをまず述べた上で、日本の市場状況、オランダ人の商売の仕方を詳報し、派船するなら平戸ではなく東部に来航すべきだという重要な提言を行っている。

なぜなら東部は国王(秀忠)・皇帝(家康)の朝廷の所在地で、平戸はそこから遠く離れすぎているからだ。江戸の近くには良港があり、自分がすでに測量ずみだという。浦賀のことである。アダムズはまた文中で、日本人の信仰について、仏教各派が共存し、
「他を説き伏せようとはせず、各人ともその良心に従っている」
と述べているが、この観察は、、日本人は信仰に寛容で、一家のうちでさえ各人信じる宗派が違うと、イエズス会士が報じていることを想起させて興味深い。

アダムズとセーリスの不和 P282-286
さて英東インド会社の第八回航海司令官ジョン・セーリスは、率いた三隻のうち二隻はバンタムから帰航させ、クローヴ号に座乗して一六一三年一月一四日、日本に向けてバンタムを出た。浦賀に来いというアダムズの地図まで添えた手紙が書かれた二日のちのことで、手紙はセーリスと行き違いになってしまった。

先に述べた通り、平戸到着は六月一一日。その日のうちに松浦鎮信と隆信が来船し、歓迎の辞を述べた。鎮信はこのときすでに藩主の座を孫の隆信に譲っていたが(嫡子久信は若死)、実権はまだ彼の手のうちにあった。

オランダ商館長ブローワーもやってきた(在任一六一三~一四。この年スペックスと交替)が、セーリスは「王と予らの間に何が起こったかを知らんがため」だと思った。翌日にはおびただしい日本人が英船を見物にやってきて、クローヴ号の乗員は甲板に出ることもできぬほどだった。

セーリスが身分ある数名の夫人を自室に招くと、彼女らは壁にかかったヴィーナスの画像を見て跪いた。マリア像だと思ったのだ。彼女らは自分たちはキリシタンだと、セーリスに囁いた。鎮信も女連れでやってきた。

女たちは楽器をかき鳴らして唱った。セーリスの連れてきた通訳は日本生まれで、鎮信が語ることをマレー語でセーリスに伝えたというのも、当時の実情を語っている。

セーリスは会社から、日本ではアダムズの力を借りよと指令されていたので、入港直後アダムズ宛に、平戸へ至急来てくれるよう依頼する手紙を書いた。手紙は平戸藩の使者に託されたが、行き違いがあってアダムズの許に届くの遅れ、彼が平戸に着いたのはやっと七月二九日、せーりすは五〇日近くも待たされたのである。

セーリスはこの間、平戸の両王(鎮信と隆信)や重臣と親交を重ねた。手厚い贈物をしたのはいうまでもない。老王(鎮信)はセーリスが気に入ったらしくてたびたび訪問し、その都度女芸人たちを伴った。彼女らは島から島へとめぐって芝居を打つのだが、むろん売春もする。

セーリスは日本では高位の者が、この種の婦女を身辺にはべらせることを、P283何ら恥としないことを知った。

七月二五日はジェームズ一世の即位記念日だったので、クローヴ号は祝砲を放った。セーリスが老王を訪ねると、立派な甲冑をとり出し、これは朝鮮の役で着用したので愛着があるのだが、今日の記念のためにと言ってセーリスに与えた。殊遇というべきだろう。

鎮信の対英貿易への期待、もって知るべしだ。彼がキャンバス地の布を注文し、それを上衣に仕立てて肌にじかに着たというのもおもしろい。セーリスは老齢の貴人が、こんな粗い布をじかに着用するのに驚いた。鎮信は余りぎれもハンカチにして毎日使用したとのことである。

平戸にはもちろんオランダ商館があり、館長ヘンドリック・ブローワーは新たなる競争相手の出現に神経をとがらせていた。セーリスは協調を望んでブローワーに、双方が所持する織物の価格を協定し、それ以下で売らぬことにしようと申し入れたが断わられた

ブローワーは翌日、手持ちの織物を大幅に値引きして方々へ送り出した。英国織物が市場に出回る前に先手を打ったのだ。早くも苛烈な商戦が始まったのである。

おもしろいことに、松浦家の当主隆信は、セーリスにひいきしたようだ。ブローワーが江戸へ行こうとしていることを知って、セーリスはこれを阻止してくれるよう隆信に頼んだ。ブローワーがアダムズの西下を妨げるのではないかと惧れたのである。

隆信はこの乞いを容れて、早速船止めの触れを出した。松浦家はブローワーとうまく行っておらず、そのためセーリスに肩入れしたのかもしれない。だが先廻りして言えば、松浦家と英国商館の蜜月も長続きしたわけではない。

平戸藩主は幕閣に対しては商館の保護者であると同時に、商館に贈物や融資を強要する厄介な相手だった。のちに商館長リチャード・コックスは長崎と平戸の利点を比較して、長崎では奉行一人に贈物すればよいが、平戸では藩主のほかにその親戚や重臣に贈物せねばならず、しかも彼らは絶えず借金を申し込み、返済はしないとぼやくことになる。

オランダ商館、イギリス商館双方とも、平戸藩当局とのいざこざを免れなかった。

P284 異郷で一三年を過ごしたアダムズの、待望した同国人との出会いは、いささかの感情も含まぬ冷ややかなものだった。セーリスとアダムズは最初から肌が合わなかったらしい。セーリスはアダムズが日本人になり切っているように感じられたし、自分たち同国人よりオランダ人の方に親近感をもっているのではないかと疑った。

一方アダムズはセーリスが傲慢で、自分が日本でかちえている地位に敬意を払おうとしないと思った。アダムズは母国に強い郷愁を感じてはいても、何よりも家康に信任された幕臣であり、彼の要請のもとにオランダやスペインの使節の応接に関わってきた。

日本に漂着したのもオランダ船に乗ってのことだし、オランダ使節が家康に謁するとき。当然のこととして周旋の労もとって来た。いまさらセーリスから、どっちの味方かなどと猜疑されるいわれはない。ビスカイノの船から脱走したスペイン人の相談に乗るのも、自分の義務のうちだ。 母国のために一肌脱ぐ熱意はもちろんあるが、お前はいったい何国人だといわんばかりのセーリスの目つきは煩わしく心外の極みであったろう。

しかし、ともかく二人は家康のいる駿府まで旅をともにすることになった。むろん通訳特許状を得るためである。駿府に着いたのは九月六日だった。セーリスは家康に手ずから英国国王の国書を手渡したと航海記に書いているが、それは嘘である。

アダムズの記すところに拠ると、本多正純がセーリスから国書を受けとって家康へ渡したのである。それは当時の慣例であるが、事前にその作法を聞かされたセーリスは、家康に直接奉呈できぬのなら謁見せずに帰るとゴネた。

もちろんそんな虚勢が通るはずもなく、セーリスも作法に従わざるを得なかった。細かいことのようだが、アダムズはそういうセーリスにも嫌気がさしたのではなかったk。

英国国王の書翰はアダムズによって邦文に訳され、家康の返翰もまた彼によって英文に訳されたが、前者が謙遜な口調に書き改められ、後者もへりくだった調子に書き改められているのは、その方が双方によいとアダムズが考えたからに違いない。

一九世紀のフランス人外交官で日本史家のレオン・パジェスは『日本切支丹宗門史』にその訳文を掲げ、P285家康がこんな屈辱的な返翰を書くはずはなく、偽文書であると断じた。

アダムズ訳文は半ば創作と言ってよく、セーリス『日本渡航記』の訳者村川堅固は「かくて日英間最初の国交は、家康とジェームズ一世と双方ともに歪曲修飾せられた訳文の国書に満足することによって開始せられたのである」と皮肉たっぷりに記している。

セーリスは家康に勧められて江戸に将軍秀忠を訪ね(参照)、ついでに浦賀を視察した。

良港で江戸に近く、「平戸を棄てて浦賀を選ぶべきだ」と彼は思った。懸案の通商特許状は駿府に帰って受けとった。アダムズの訳文は原文にある条項が欠けたり、ない条項がはいっていたり、村川によれば「まったく無茶苦茶なもの」であるが、漢文まじりの候文をアダムズが読めたはずはなく、日本人の説明を受けて訳文を作ったのだろうし、その際、英国側の請願書の条項が混入するのも避けられなかった。

いずれにせよ、特許状は日本のどの港に入港してもよろしく、居住も自由で「諸役」も免じられるというのだから、セーリスは満足して当然だった。

英人が法を犯した場合「イギリスの大将」に処置を任せるという、いわゆる領事裁判権も、邦文の朱印状には明記されている。これはオランダ、ポルトガル、スペインにも認められていた特権だった。

主権を侵害する治外法権などという観念は当時の日本人の頭にはなかった。厄介な事は向こうに押しつけておけばよい、という程度の考えだったのだ。

アダムズともども平戸へ帰ったセーリスは、一一月ニ六日商務員会議を開いて、商館を平戸に残すことを決議し、リチャード・コックスを館長、他に七名の英人を館員に選んだ。うち一人はアダムズである。

彼は駿府においてすでに家康に暇乞いをしていた。所領の朱印状を差し出して故国へ出発したいと願うや、家康はじっとアダムズの顔をみつめて、「それほど帰りたいのか」と問うた。「帰りたくてたまらないのです」と答えると、「無理に引きとめることもなるまい」と言って、これまでの労をねぎらった。

アダムズが朱印状を差し出したのは、致仕とともに所領を返還する意思表示だったが、所領はそのまま息子のジョゼフに安堵された。妻と二人の子の生活は保障され、アダムズが心置きなく帰国する条件は調ったのである。

クローヴ号にはすでにアダムズの船室も用意されていた。だが彼は乗船せずに、英国平戸商館と契約した。彼はのちに「私はクローヴ号で国に帰りたかったが、司令官(セーリス)が無礼の振舞いをしたので考えを変えた」と手紙に書いている。

しかし、商館との契約が切れたあとでも、英船はたびたび入港しているのに帰国しようとせず、ついに日本で生を終えた。いろいろ憶測はできるが、それを書いても詮ない気がする。日本はすでに彼の第二の故郷となっていたと言うしかあるまい。

商館との契約条件についても、セーリスとの間にひと悶着あった。アダムズがこれまでオランダ人から受けていた報酬からして、年給一二○ポンドを最低額としたのに対して、セーリスの提示額は八○ポンドだった。結局一〇〇ポンドで折り合ったが、両者には悪感情だけが残った。

契約期間は二年間である。セーリスは日本を去るに当たってコックスに、アダムズという男はオランダやスペイン側に寝返るかも知れず、よくよく用心すべき人物だと注意した。

コックスが日記に記した「日本気質」 P286-288
クローヴ号は一二月五日平戸を出航、帰国の途についたが、新たに一五名の日本人船員が乗りこんでいた。というのは、クローヴ号がバンタム出航以来、一四名の船員が死亡、七名が脱走したので、欠員を補充せねばならなかったのだ。

この脱走事件は当時のイギリス船員の気風を示して興味深いので、脱線の気味はあるが略述しておこう。

セーリスが駿府への旅に出たあと、留守を預かるコックスは、船員たちが勝手に上陸して娼家に泊まるのに手を焼いた。P287しかも彼らは積荷を盗んで女郎に支払うのだ。船長メルシャムが娼家から彼らを連れ戻すや、娼家の主人は今後自分の店に捜査に来れば殺してやると息巻いた。

コックスが松浦隆信に訴え、日没後英国船員を家に入れてはならぬと布告してもらうと、船員たちは市中で飲むのを許されぬのなら野外で飲むまでだと言い放つ。一〇月二日、ついに七名が小舟で脱走した。「向こう側の島」の料理屋で騒いでいるというので探しに行くと、それは別の三人だった。

翌日七人は「二リーグを隔てる不毛の島」にいるとわかった。コックスは松浦の両王に頼んで、兵を派遣して連れ戻してもらおうとしたが、彼らは長崎に逃げ、船では犬のように扱われたと不平を述べ立てた。結局彼らはポルトガル人とスペイン人のもとへ投じて、マカオとフィリピンへ去った。

セーリスは旅から帰ってその事実を知ったが、残った船員も手に負える連中ではなかった。一一月九日、二人の船員が「終夜野宿して」格闘し、「一人は生命も危」かった。そのほかにも二組が決闘のため上陸しかけていた。

セーリスは鎮信に、今後英人が上陸して争うならば断罪に処すと厳命してもらった。

一五名の日本人の補充はそういう次第で必要となった。彼らはクローヴ号でイギリスまで行き、一六一五年にエクスペディション号で帰国し、その際賃金について揉め事を起こした。何しろ初めてイギリスを見た日本人である。

旅行記を残していればどれほどおもしろかったことだろう。人間の経験にはこのように、記録もされず埋もれてしまった事柄の方がずっと多い。セーリスは帰国したのち、私貿易を営んでいたのを会社から咎められた。また春画を大量に持ち帰っていて、東インド会社の役員会はそれを取りあげて焼却した。

幕末、西洋人は日本に春画が溢れているのに一驚したが、早くも当時から横行していたわけである。

それにしてもセーリスは日記に平戸を棄てて浦賀を選ぶべきだと書いたのに、なぜ平戸に商館を置いたのだろう。

「鎖国と国境の成立」の著者武田万里子は東南アジアへの派船、中国との貿易に便利という利点をのほかに、
「輸入品の販売、輸出品・日常品の調達について、長崎・平戸と京坂をむすぶルートがすでにできていて、P288江戸方面にあらたに開拓するより、それを利用するほうが有利であると判断したのが第一であろう」
と言う。

ブロードクロスという厚手の毛織物は英国船のもたらす主要商品だが、販路は京坂だった。輸出品についても、蒔絵は京都であつらえられたし、銅は大坂の宿主が、鉄や釘は備後・鞆の宿主が調達した。宿主とは日本人の代理店である。

英国商館は江戸にウィッカム、大坂にイートンを駐在させた。

平戸の「老王」松浦鎮信は一六一四年七月に死去した。この人は平戸が火事に見舞われたとき、馬を駆って英国商館に乗りつけ、「一切の物を倉庫に入れ、入り口を塗り塞げ。そうすれば危険はない」と教えてくれたように、心から英国人に親切を示した。

それとともに彼はしばしば肉料理をねだった。「葱と蕪菁をとを入れたイギリス牛肉」がほしいとか、「胡椒をかけたイギリスの牛肉と、蕪大根及び葱と煮た豚肉二斤」がほしいと言ってくる。

あるときは、オランダ商館で昼食をとるから、おまえもワインを一本提げて相伴しにこいとコックスに言ってきた。出席してみると、オランダ商館長ブローワーは席には着かず、テーブルで肉を切っている。そのうちひざまずいて、鎮信とその連れに酒をついだ。

鎮信らが帰ったあとで、どうして席につかずひざまずいて酌をしたりするのかとただすと、それがこの国の習わしだ、王自身、客を招く場合にはおなじように振舞うだろうと、ブローワーは答えた。

コックスはこののち日記に「ニフォン・カタンゲ」(日本気質)という言葉を書きつけることになる。これは日本人が交誼をたしかめあうために、絶えず贈物を交換する習慣を指している。コックスもむろんこのニフォン・カタンゲに従わねばならなかったが、なかなか煩わしいことであった。

イギリス商館員の「愚痴」 P288-291
クローヴ号のもたらした積荷は何とか販路を見出した。家康は大砲四問、火薬一〇樽、鉛六〇〇棹を買いあげてくれた。P289アダムズの尽力があったのはいうまでもないが、家康はむろん大坂城攻めを考えていた。大坂冬の陣で淀君の胆を冷やしたのは、おそらくこの大砲である。

1)真田丸46 カルバリン砲(イギリス)
2)独眼竜政宗42 カノン砲(オランダ)
3)徳川家康47 不明
4.1)葵徳川三代28 カルバリン砲(イギリス)
4.2)葵徳川三代29 解説
5)Nスぺ戦国(2) カノン砲(オランダ)
1)               2)               3)
4.1)              4.2)              5)


東インド会社は対日貿易を開始したものの、有効な戦略を持っていなかった。日本は銀の産地だというので、インドで売れ残った英国産の雑貨や、ジャワ島に設けた基地バンタムで集めた南洋物産を持ちこめば、容易に銀がえられると思っていた。

東インド会社は本国から銀を持ち出すばかりで、世論の攻撃を受けていたので、銀がうなっている日本で商売すれば、胡椒・肉荳蒄など本国へ持ち帰る南洋物産と交換すべき銀を入手できると踏んでいた。ところが、日本へ来てみると、日本人は英国産の雑貨や胡椒など欲していないことがわかった。

彼らが欲しがっているのは生糸と絹織物、それに鹿皮と蘇木である。鹿皮は羽織・袴・足袋などに武士が好んで用いる。一種の軍需品と言っていい。蘇木は染料として需められた。鹿皮と蘇木の産地はインドシナやシャムである。

生糸・絹織物はポルトガル人のように中国大陸に基地をもたぬ以上、これもインドシナに来航する中国船から手に入れるしかない。

だからインドシナ方面に船を出して、そういった日本で売れる商品を入手する必要がある。セーリスは先見の明があって、日本を去る際インドシナに派船すべきことをコックスに指示していた。また対馬に商館員を置いて、朝鮮との交易を開くようにも指示した。

この方策はセイヤーズが対馬に派遣されて、とうてい見込みなしと分かった。一方インドシナには一六一四年の春、日本向け商品を仕入れるべく、ピーコックとカルワルデンが中国船に便乗して派遣されたが、現地でトラブルが生じ、ピーコックは殺されカルワルデンは行方不明、携えた資金も失われた。

コックスは二〇〇トンばかりの和船を購入、シー・アドヴェンチャー号と名づけ、アダムズを船長として、シャムへ向かわせた。一六一四年一二月に出航した同船は暴風雨に遭遇して航行不能に陥り、ようやく琉球の那覇港に入った。

P290 船体の修理に手間どるあいだ日本人船員が反抗を始め、アダムズの苦労は尽きない。那覇港滞在中に、大坂城の落人が首里城へ入り、彼は豊臣氏の滅亡を知った。大坂城に明石掃部(ドン・ジョアン)以下キリシタンが多数籠城し、六人の宣教師もいた。

その一人は長崎の代官村山等安の三男で、落城の際斬られたが、残るイエズス会士二名、アウグスティノ会士一名、フランシスコ会士二名は無事脱出した。アダムズにはむろん彼らへの同情などない。日記に「皇帝が勝利を収めたという報知に接して大いに喜んだ」と記している。

彼はモンスーンの時期を失い、結局平戸へ帰ったのは、一六一五年六月のことである。

そもそもはバンタムを出航する英船が、インドシナやシャムで日本向けの商品を仕入れて、平戸へ来航すればよろしいので、そうすればコックスやアダムズがいらぬ苦労をすることはなかった。しかし、東インド会社は東アジアの事情にうとく、従って効率的な総合企画力も欠け、第一インドシナ・シャムで商品を仕入れようにも、手がかりすら持たなかった。

その方面はすでに日本の朱印船の商圏に入っていた。平戸イギリス商館は朱印船の開いた交易圏に参入する形をとらざるをえなかった。一六一五年一二月、アダムズは再びシー・アドヴェンチャー号を指揮してシャムを目指し、翌年一月メナム河口に着いた。

取り引きは順調で、首都アユタヤに住む日本人の首領城井久右衛門の協力も得られた。買い入れた蘇木ニ三万七〇〇〇斤、鹿皮三七〇〇枚はシー・アドヴェンチャー号には積み切れず、折から来航していた長崎商人の船と唐人船に分載した。アダムズか平戸へ帰ったのはその年の七月である。

このようなアダムズの奮闘にもかかわらず、平戸商館の展望は明るくはなかった。一六一五年八月には英船ホジアンダー号が平戸へ着いたが、あい変らず日本では売れそうもないものばかり積んで来た。長崎貿易におけるポルトガルの地位は強固だし、同じ平戸での先輩オランダにはいつもしてやられる。

イギリスがまともに商売しようとしているのに、オランダはこの時期海賊商売、すなわちポルトガル船と中国船の拿捕・掠奪に精を出していた。P291ジャカルタの東インド会社がその方針なのである。特にマカオからの定航船を捕らえるよう、平戸のオランダ商館長に指令した。

生糸を満載しているから、それを狙った。一六一五年一〇月に書いた手紙で、英商館員ウィッカムが愚痴ったのも無理はなかった。「近来オランダ人は当地においてわれらのみならず、諸外国人より優勢なり。これ近来、多数のジャンク船を捕え、支那人より盗み取りし生糸、琥珀織、繻珍、天鵞絨及び支那陶器巨額なるを以て、正当に商品を得たる者は、何人も利益を得る能わざる相場にて、之を売る為なり」。

オランダ人は海賊行為が発覚するのをおそれて、中国人船員を孤島に置き去りにしたこともあったという。しかし幕府はポルトガル船掠奪は黙認した。

一六一五年の夏、オランダ船ヤカトラ号が、五島列島西南の女島付近で、ポルトガルのジャンク船を拿捕したとき、オランダ商館長が松浦隆信を介して家康の意向を打診したところ、ポルトガル船が朱印状をもっていないのなら幕府はまったくこのことに関知しないとのことだった。

  朱印状云々はこの船が占城から来たからであろう。朱印状の権威が侵されない限り、外国船同士の紛争には関わらぬというのだ。家康は日本が海外での紛争に巻きこまれるのを徹底的に嫌った。この姿勢が幕末まで継承されたことは、徳川政権の性格を考える上で大事なことのひとつである。

家康は元和二(一六一六)年四月に死去した。その年の八月(邦暦)には京坂での取り引きを禁じ、交易を平戸・長崎に制限する法令が出た。アダムズは何とかこれを撤回させるべく江戸の「宮廷」で頑張ってみたが、相手にされなかった。

家康から特に信任されていた彼も、秀忠の新政権の下ではただの一外国人にすぎなかった。貿易制限令はキリスト教の伝播を嫌う秀忠の意思から出たことだったが、イギリス商館にとって打撃ととはならなかった。

主力商品の鉛は相変わらず家康と同じように将軍秀忠が買い上げてくれた。武田万里子はこれを交易地制限の見かえり措置とする。貿易に打撃を与えるのは秀忠の本意ではなかった。

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