第二七章 ポルトガル人追放 P420-436
幕府はすでに一六三五年に、日本人の海外渡航と在外日本人の帰国を禁じ(参照)、一六三六年には日葡混血児を国外追放し、長崎に築造した出島にポルトガル人を隔離していた。一六三八年四月、島原・天草一揆を集結させたのち、いよいよ課題に上ったのはポルトガル人の追放である。ポルトガル船の来航が続き、マカオとの関係が断たれぬ以上、宣教師の潜入が避けられぬのは言うまでもない。将軍家光と幕府要人のキリスト教禁圧への執念は、たんに異教がおぞましいというのではない。宣教師はあくまでスペイン・ポルトガルの侵略の先兵だという、豊臣政権下のサン・フェリーペ号事件(一五九六年)以来の観念は牢固たるものがあり、鎮圧したばかりの一揆農民が、もしも叛意を持つ大名と共謀していたらという恐怖は消えることがなかった。
スペイン・ポルトガルの世界支配はすでに退潮に赴いていたと言っても、そんなことが当時の幕府にわかる訳もなく、政権の基盤を固めたばかりの彼らにとって、マニラとマカオの軍事力への対応は、国家防衛上の最優先事項だった。
「オランダがマニラを占領できないか」 P421
P421 参府中の第七代オランダ商館長クーケバッケルは、原城陥落からふた月余りしかたたぬ一六三八年五月一九日、牧野信成宅に招かれた。牧野は当時オランダ人応援の任にあった。彼の発言は次のように記録されている。
「最高の閣老は私と同様、ポルトガル人を今後日本に来させず、彼らの通交・貿易を完全に禁止しようと考えている。しかしこの件に関して、皇帝(家光のこと)の所で未だ最終的な発表と決定は行われていない」。
牧野はポルトガル人追放の理由として、毎年宣教師を連れてきて布教を止めず、そのため有馬・天草の反乱など、毎年数えきれぬほど多数が宣教師のために死んでいるからだと説明した。
この時大目付の井上政重が来訪、牧野としばらく談合して、こんどは二人がかりの質問になった。井上は上使として島原・長崎を視察したばかりだった。牧野が「日本は金銀に不足していない。だが生糸・絹織物が供給されないとなると、高価になって困ったことになる」
と述べたのに対して、クーケバッケルは「われわれはポルトガル人がマカオからもたらしたのと同様のものをもたらすであろう」と胸を張った。牧野はさらに尋ねる。
「ポルトガル人は日本を追放されてもマカオに留まるだろうか」「日本貿易が断絶すれば、彼らはマラッカ・ゴアへ、やがて本国へ立ち去るだろう」。牧野はさらにオランダがマニラを占領できないかと尋ねる。「マニラは防衛が固くて、会社の力で占領するのは無理である」。
すると二人は不審そうに「有馬の旧主松倉重政は自分の兵だけでマニラを占領すると、将軍に申し出たぞ」と言う。クーケバッケルは同地の状況を詳しく説明し、艦隊で海上封鎖するのが最上と答えた。
銀の大産出国・日本 P421-423
牧野が金銀に不足はないと言っていることについて説明しておこう。当時最大の産銀国がスペイン領のペルーであるのは言うまでもないが、明清社会経済史が専門の岸本美緒によると、一六〇〇年前後は年に二五〇トンの銀がヨーロッパへ、二五~五〇トンがマニラへ流入したという。
それに対して日本の銀産出は年間五〇~八〇トンであった。少なくとも局面をアジアに限れば、ヨーロッパを経由してアジアのに流入する分を考慮しても、日本銀の地位は確固たるものがあった。日本の銀輸出が激減するのは一六六○年代後半、銀山がまったく枯渇するのは一八世紀半ばで、牧野が金銀は十分にあると言ったのは事実その通りだった。
クーケバッケルは翌一六三九年年初頭に離日し、フランソワ・カロンが商館長の地位に就いた。クーケルバッケルと共にタイオワン事件の収拾に努めたカロン(第二三章)は、平戸勤務が長く日本語も達者で、のちに『日本大王国志』を著わす人物である。
カロンは三九年五月二日に江戸に着いた。井上政重は二〇日、カロンを招待して、マニラ攻略の可能性や、今年のポルトガル船来航の見こみについて尋ねるたあと、「最近三人の宣教師が捕えられ牢獄に入れられている。二人は日本人、一人はスペイン人である。彼らは誰も助けようとしないので非常に弱り、道で食物を乞い、自ら裁判所の手に落ちたのである」と語った。
これは奥州水沢で捕らえられたジュアン・バウチスタ・ポロ司祭、ペドロ・カスイ岐部司祭、マルティノ式見司祭の三人のことである。水沢は一村挙げてキリシタンだった見分(後藤寿庵の領地)の近くで、日本イエズス会士の最期の潜伏地だった。
ポロは病弱ですでに六三歳。もう潜伏は無理と覚悟して、自ら仙台藩家老水沢領主の石母田大膳宗頼のもとへ出頭した。石母田は彼を親切に迎え、医師をつけて江戸に送った。岐部・式見も似たりよったりの事情でつかまったものだろう。
幕府は島原・天草一揆のあと、キリスト教禁圧を徹底するよう、拡販に指令しており(寛永一五(一六三八)年九月)、井上はこのときキリシタン禁圧政策のの責任者の立場にあった。彼が「彼らのために罪なくして死んだ日本人と同数のポルトガル人を殺してやりたい」と激語したのは、この日カロンに対してである(三七四頁)。
井上が言及した三人のうち、穴吊るしの拷問にあってポロと式見は転んだが、P423岐部は棄教を拒んで絶命したと伝えられる。
井上はまた「もし日本の当局がポルトガル人を追放したら、オランダ人はこれまでポルトガル人がしていたように、日本に絹織物や薬品を持って来られるか」と前年一六三八年五月、牧野がクーケルバッケルに述べたのと同様の案件を問うた。
カロンは出来ると即答し、さらに、ポルトガルの仲介で、高価な広東の織物・金羅紗を日本へ輸出してきたシナ人は困窮するだろう、他の国はこのようなものを求めないからだ、彼らは非常に銀を求めているので、オランダ人に渡すためにあらゆる方法を用いるだろうとつけ加えた。
オランダ平戸商館長カロンと重臣忠勝の問答 P423-425
井上の質問はポルトガル人の追放が、いまや幕府のさし迫った課題になっていることを示していた。翌二一日には平戸候の二人の奉行が、酒井忠勝と松平信綱のもとに呼ばれ、「ポルトガル人が日本から追放されたら、ポルトガル・スペイン人は、オランダ人が日本へ来ることを妨害できるだろうか」と問われた。「世界中のどの船もオランダ船には対抗できないと度々聞いている」と二人は答えた。
二人はオランダ人カロンに、スペインからインド、さらに日本までの海路を示す地図を作らせるようい命じられた。
ここで忠勝と信綱が出て来るのには意味がある。将軍家光は父秀忠のもとで権勢をふるった土井利勝を遠ざけようとしていたし、土井と忠勝はこのころ極端な不仲になっていた。また信綱は家光の子飼いで、一揆鎮圧の功を立て、出頭ぶりには目ざましいものがあった。
つまりこの二人は家光の意志を代弁していたのである。
カロンらは一夜で海路図を仕上げた。何枚もの紙にわけて描き、張り合わせて一枚の地図にした。「我々の知識と経験の及ぶ限り書き示した」。翌五月二二日、上記の平戸藩の奉行二人が取りに来て、城中へ持参した。
P424 カロンたちも呼ばれて登城し、「閣老の隔離された集合所」に案内された。閣老全員が集まっていた。カロンが閣老と呼んでいるのは、年寄や六人衆(後の老中・若年寄)だけでなく、もっと広く要職にある幕臣のことだ。
日本近代史が専門の山本博文は『江戸幕府日記』によると、この日評定所の大寄合が開かれていて、カロンらが呼び出されたのがこの場だったのは確かだと言う。これが史上有名な四月二〇日(邦暦)の大評定である。
議長は酒井忠勝が務めた。そこにはオランダ人の地図以外に様ざまな世界地図が並べてあった。まず忠勝が口を切って、一昨日の井上とおなじく、オランダ船の日本来航がスペイン・ポルトガル船によって妨げられることはないのかと問うた。
カロンは答える。「我々がスペイン人を恐れるのではなく、彼らが我々を恐れているのだ。彼らは戦わずして逃げ失せる。ゴアその他を毎年封鎖しているのはわが艦隊である。スペイン人は我々を日本から遠ざけることはできない」。
閣老たちの憂慮のひとつはかくして解消した。しかし、まだより重要な憂慮が残る。「ポルトガル人が追放されたら、貴下らはこれまで彼らが日本に提供していたのと同様の生糸・絹織物・薬・乾物を供給できるのか」。
カロンは井上に答えたことを繰り返し、台湾を介するオランダのシナ貿易が年々著しく増大していて、前記の物資入手には確信があるばかりでなく、ポルトガル人が追放されたら、これまで以上にシナ船が来航して、必要物資を供給するだろうことは、先年マードレ・デ・デウス号事件でポルトガル船来航が中絶した折、シナ船来航が急増した洗礼で明らかだと答えた。
忠勝は納得した様子だったが、意外なことを言い出した。「まあ不足なものがあれば、我々の船を出して取ってくればいい訳だ。ポルトガル人は我々の船を攻撃できるだろうか。どう思うかね」。彼だけではない。
幕閣の何人かはこの時期になってもなお、奉書船の復活を選択肢のひとつとして考慮していたのである。日本貿易独占を企むオランダ東インド会社としては、ここが踏んばり所だった。
カロンは答える。日本船が台湾以北のシナ沿岸で交易するなら、P425ポルトガル・スペインの妨害は受けない。彼らはこの海上の支配権は持たぬからだ。しかし、シナは日本に敵意を持っているから交易は不可能だ。だから日本船は台湾以南、トンキンや交趾シナ、カンボジア、タイへ向かうことになる。
従来ポルトガルは長崎貿易のため日本船を見過ごしていたし、スペインも僚国ポルトガルのためそうしていた。しかし、ポルトガル人が追放されたとなると、彼らには手控える理由がない。日本船はむしろ復讐される。
このあと閣老間で議論が交わされた。大部分は日本船は海外渡航せぬがよいとの考えだったが、数人はこれに反対したとカロンは記している。討論の末、忠勝は「我々は他の人の奉仕をうけることが出来る限り、日本船を国外に渡航させる必要はない」と結論づけたが、六人衆の阿部重次は「中国船は禁制を犯してひそかに日本へ来航する。
オランダ人が持って来る商品も、中国人がひそかに台湾に持ちこんだものだ」とオランダの供給能力になお懐疑的だった。カロンは忠勝に促がされて反論した。「我々が我々の船でシナに行かぬのは事実だ。だからと言ってひそかに商品が持ちこまれていることにはならない。
オランダ人はシナへ行かぬ契約が結ばれているからだ。しかし台湾に商品を持って来る商人には、シナの代官から通行許可証が与えられっている。必要量に足りぬなら、買物係のシナ人を送って買付けることもできる」。
議論は二時間にわたったとカロンは言っている。五日後の五月ニ七日、カロンは招かれて牧野信成を訪ね、彼からニニ日の大評定の様子を聞かれた。彼はこの寄合に出席していなかったのだ。彼はポルトガル人追放問題に結論が出るには、まだ一年はかかるだろうと言った。
しかし実際はニニ日の大評定の意義は重大で、幕閣はポルトガルのあとはオランダが埋めてくれるという、決定的な心証を得ていたのである。あとは家光の決断を待つだけだった。
ポルトガル船の長崎来航禁止 P426-427
ポルトガル船の来航を禁ずる老中奉書が出されたのは、この年七月五日(一六三九年八月四日)のことである。長崎には上使太田資宗が派遣され、太田は兵七〇〇を率いて八月三日に長崎に着き、ポルトガル人のみならず、オランダ人、中国人にもこの旨伝達した。
ポルトガル人は長崎貿易が停止されればマカオは生きてゆけぬとな泣訴したが、どうにもなるものではない。かくしてポルトガル船来航の約一世紀の歴史が閉じられた。
マカオ市は貿易再開を嘆願するため翌一六四○年、使節を長崎に派遣したが、幕府は黒人など一三人を除いて使節以下六一人を処刑、船は焼却して断乎たる決意を示した。
しかし、一六四○年、スペインから独立すると、ポルトガルは本国から日本へ使節を送って交易再開を試み、一六四七年、大使シケイラ・デ・ソウザが二隻の船を率いて長崎へ入港した。ポルトガルは独立に当たって、スペインの仇敵オランダと同盟を結んでおり、独立と同盟を通知して幕閣の心証をよくしようと望んだのである。
しかし幕閣の方針は揺らがず、二隻は平和裏に退去せしめられた。
よく説かれるように、幕府はポルトガル船の来航を禁じたのみで、西洋諸国との通商を断絶したのではない。しかし一六七三年、英船リターンが来航して貿易再開を望んだとき、幕府は英国王室とポルトガル王室の姻戚関係を口実としてこれを拒んだ。
幕府にはオランダとの通商で十分で、それ以上に紛擾を招く原因となる海外関係は持ちたくなかったのだ。
山本博文はキリスト教厳禁がポルトガル人排除にまでエスカレートした以上、東南アジア海域において強固な力を持つスペイン・ポルトガル勢力と衝突せずに、オランダに物品輸入を頼るという選択をとらざるを得なかった、それがいわゆる「鎖国」だと言う。
また岸本美緒によれば、東アジアの大航海時代は一七世紀初めに最盛期を迎え、その後次第に鎮静化して、一七~一八世紀の東アジア・東南アジアでは、「鎖国」「海禁」ないし海外交通の縮小という形で、国を閉じる傾向が広く見られるとのことだ。
それはまた新たな国家形成の動きでもあり、幕府の選択も、その動向の一環であった。
長崎でポルトガル人追放令を伝達した上使太田は、同時に当地へ呼び出していた大名の使者たちに「浦々御仕置之奉書」を交付した。これはすでに江戸で在府の大名たちに伝達されていたのだが、改めて念を入れたのである。
この奉書は領内浦々に常に確かな者を置いて、不審な船が現れたら改めることを命じたもので、幕府の念頭にある不審な船とは、むろんスペイン・ポルトガル船だった。つまり幕府はポルトガル人追放ののち、スペイン・ポルトガル船による報復が、日本沿岸で行われるので花衣かと強く憂慮していたのだ。
翌一六四○年、前記したように、マカオ船が嘆願のため長崎へ来航して厳しい処分を受けた際、そのために下向した上使加々爪忠澄は、九州諸大名の使者を集め、領内に遠見番所を設置し、ポルトガル船を見かけたら、島原藩主高力忠房と長崎奉行に報知して、その指揮のもとに対処すべきことを命じた。
しかも幕府は「浦廻上使」の名で船手頭を派遣して、沿岸の警備実施を検分する熱心さであった。これは各藩にとって相当な負担で、細川忠利は知人への手紙で、遠見番所に勤める者は藩で召し抱えねばならぬし、早船三○艘には一二〇〇人の水夫が必要で、「事のほか九州の弱りにて候。きりしたん程日本をなやまし候もの、またと之なく候」とこぼしている。
長崎港の警備については、曲折はあったものの、一六四二年になって、福岡藩と佐賀藩による交代勤番が確定した。
家光の奢侈禁止令とキリスト教排除という「国家理性」の発動 P427-429
スペイン・ポルトガル船が仮想された外からの脅威だとすると、内では深刻な不景気という現実が進行していた。一六四○年二月カロンは大坂の商人福島新左衛門から「大きな値下りと、なお毎日全商品の値段が下がっているため、非常な損害を受けているので、約二万八〇〇〇テールにのぼる彼の負債の残りを、今まで支払うことができない」との通知を受けた。
カロンは通詞利右衛門を大坂へ送り、四月になって利右衛門は新左衛門から二万二○○○テールを取り立てて帰ったが、上方ではやはりすべての商品が急激に値下りしているとのことだった。カロンは参府のために四月ニ七日に大坂に着いた。
話に聞いた通りの状況だった。「一つの例外もなしにすべての商品の値段が下った。多数の豪商は大部分の商品を、まだよい値段の中に買ったため破産した。ポルトガル人の追放により、すべてが値上がりすると考えたが、反対となった。そこで彼らの多数は妻子を残して逃亡した」。
自殺した者もいるとカロンは書いている。
カロンは江戸に着くと多くの商人から「すべての商品は値下がりし、低廉な入札が続いている」と聞かされた。「この最も主な理由は、皇帝が布告により、貴族、商人、市民の使用人は、今後絹の着物を着てはならないと厳しく命じたからである。
また領主、役者は金羅紗、詩集・金入りの布を、着物や寝具に用いてはならないと命じられた。これらの人々はこれらの高価な品物を非常に大量に使用していたので、今この厳しい禁令はすべての商品にとって非常な障害となり入札は止められたままである」。
すなわち寛永一六(一六三九)年、家光の意志によって発せられた奢侈禁止令は、長崎交易に依存する商人に大打撃を与えた。当時の日本人が身分の上下を問わず、華美な絹織物を競って着用していたことについては、アビラ・ヒロン『日本王国記』を始め数々の証言がある。家光はこれを嫌った。
先のこととなるが、一六四ニ年の参府は、カロンの次に平戸の商館を次いだマクシミリアン・ルメール(在任一六四一)が長崎へ商館を移設した後、商館長となったエルセラック(在任一六四一~四二、四三~四四)が行ったが、彼はその往路と復路にわたって、京・大坂の取引先である豪商たちが破産して、いまは悲惨な境遇に陥っていることを知った。
彼らの破産はポルトガル人追放による生糸・絹織物の価格上昇を見込んで、過剰に商品を仕入れたためだろうが、P429不況一般については、ポルトガル船への日本人の投資が、追放によって回収不能となったことも考慮せねばなるまい。
オランダ船は連年マラッカ海峡を制圧し、ゴア・マカオ間を往来するポルトガル船を一五○隻、一六二九年から一六三五年までに捕獲・撃沈した。その結果ゴアからの資金を絶たれたマカオは、長崎で日本人から高利の借金をするようになった。
日本側からするとポルトガル船に投資した訳だが、長崎商人のみならず大名・幕臣までポルトガル人に貸しつけ、その額は追放の年一六三九年には、七○クルザードにのぼった。これだけの金が回収不能となったのである。
いくつかの銀行が倒産したようなものだ。幕府はこれほどの犠牲を、おのれの権力の基盤たる者たちに払わせても、ポルトガル人追放を断行したのであって、キリスト教排除を最優先とする「国家理性」の発動を、そこに見るべきなのは言うまでもない。
「オランダ人もキリシタン」 P429-431
オランダ人はもちろん、ポルトガル人追放を歓呼して迎えた。このことを知ったバタヴィアのインド政庁は一二月一〇日をもって感謝日と定めたほどである。一六四○年、オランダの輸入は約六三〇万グルデンに達した。
これはその後も破られることのない最高記録である。そのうち生糸輸入はニ二万九〇〇〇斤、前年の二倍にのぼっている。当時日本市場での生糸需要は三○万斤前後と見られていた。だが、オランダ人の前にはなお障害が残っていた。
長崎市民と五ヵ所糸割符仲間から、オランダ生糸をパンカド(一括購入)のもとに置くことと、商館の長崎移転を望む働きかけが、幕府に対してなされていたのである。
また、一六四○年の輸入額が前年より倍増したといっても、不況の影響で銀輸出は四分の一に落ち、利益は激減していたのだ。カロンは一六四○年度の参府によって、牧野信成の助けを得て、パンカド強制と長崎移転を阻止することができた。
当時幕閣の第一人者たる酒井忠勝を始めとして、カロンは幕閣内に有力な庇護者を持っていた。だが、暗雲は彼ら閣老越しに、P430オランダ人の頭上に垂れこめようとしていた。
この年七月、家光は領国へ帰る松浦鎮信に対して、「汝の父隆信はオランダ人によい秩序を守らせた。汝も父のやり方に従うように。教えをひろめない点で違ってはいるが、オランダ人もキリシタンである。ポルトガル人はキリシタンのために日本から追放されたのである」と戒めた。
家光がオランダ人もキリシタンだという警戒感を抱いたのは、貿易再開嘆願のため来航したポルトガル使節を処断させるために、長崎へ下向させた旗本加々爪忠澄の報告で、オランダ商館にキリスト紀元年号が記されているのを知ったからだとされるが、加々爪の平戸検分は八月のことで、家光の警戒感はその前から生まれていた。
家光は加々爪忠澄の報告を得て、オランダ人もキリシタンであるという事実に、さらに疑念をかき立てられたのだろう。特に聞き逃せないのは、彼らの建造物にキリスト生誕紀年が記されているという一件だった。
その年のうちに、井上政重を上使として平戸へ派遣して、商館倉庫を破却させたのは、オランダ人に厳重な警告を与えようとしたものと考えられる。
政重の一行は一六四○年一一月九日に平戸オランダ商館を検分した。カロンの記するところでは、申渡しは大要次の通りだった。「皇帝は貴下がポルトガル人と同様キリシタンであるとの、確かな報告を受けている。
貴下は日曜を守り、キリスト生誕の年を貴下の家の破風に書いている。十戒、主の祈り、洗礼、晩餐礼、新旧約聖書、モーゼ、預言者、使徒などを信じている。ポルトガル人との違いを我々は小さいと考えている。
貴下がキリシタンであることは以前から知ってはいたが、別なキリシタンと考えていた。そこで皇帝は私に、上記の年号の入っている建物を、例外なしに取り壊させるよう命令した。これは最近建てられた北側から始め、全部を取り壊すように。
日曜を公に守ることは許さない。商館長は今後一年以上留まってはならず、毎年交替せよ。これは国民と長い間接触して、教えを弘めないためである」。「最近建てられた北側」というのはこの年の春に竣工したばかりの倉庫である。
しかし、カロンはためらわなかった。皇帝(家光)の禁令にちょっとでも不平を見せてはならぬと承知していたからである。彼は「冷静に、度量を見せて、しかし恭しく」、命令にはすべて正確に従うと即答した。
これがよかったのだと、カロンは自賛している。でないと危いところだった。というのは、その後彼は平戸候から、もしカロンが抗弁したり、懇願したりしていたら、上使はその場で彼を殺害し、商館員を全部逮捕するつもりであったと伝えられたからだ。
井上はカロンの即答ぶりに満足し、驚いてもいるとのことだった。平戸候が伝えた井上の言葉には注目すべき点があった。カロンが延期を願い、この件を酒井忠勝、堀田正盛、牧野信成らオランダびいきに訴えて、宮廷工作をすることを井上は予想していたのである。
彼はそれを断固として阻止する決意だった。だから即答を促し、カロンがしぶるなら、切り捨てる覚悟だったのだ。
倉庫破却命令は家光の判断か P431-432
このカロンの記述の真偽は従来問題にされてきたところだ。幕閣はオランダ人が十分な生糸・絹織物を供給できると確信できたからこそ、念願のポルトガル人追放に踏み切ったのではなかったか。そのオランダ人を殺してしまってどうするつもりなのか。
肝心なのは井上が、これは将軍じきじきの命令で、重臣たちはそれを知らないと言っていることである。つまり家光は、今回の措置を閣老たちに知られたら、うるさいことになると考えて、井上に密命して自分の意志を断行させたのだ。
いったい家光はキリシタン禁制のためには、今後唯一の海外貿易の窓口となるであろうオランダと断交してもよい決断していたのだろうか。ここは判断の難しいところである。カロンを殺し商館を接収してしまえば、この窓口は閉じる。
家光はいったん閉じても、かのノイツ事件のときのように、オランダ人は屈従して戻って来るはずだと読んでいるのだろうか。それとも、平戸候かカロンの伝えるところのどちらかに誇張があり、井上はまさかカロンを殺そうとまでは考えていなかったのか。
P432 今となっては断定しようもないことであるが、ただ明白なのは、このときの措置が、閣老たちを抜きにした家光ひとりの決断だったことである。
それにしても、「十戒」を始めとして羅列された語句は、まさか家光s自身の言葉ではあるまい。これはキリシタン取締りの責任者の地位についた井上自身の勉強を語るものだろう。井上は殉教者を作ることを好まず、司祭たちを背教せしめることによって、一般信者の信念を阻喪させようとしたという。
穴吊るしはあくまでも棄教を強いる手段だったのである。井上はカロンとは旧知の仲であり、一件落着のあとカロンに、このような任に当たったのは残念だと語った。彼はカロンの態度に感銘を受け、こののちオランダ人に対して父親のような保護者の立場を示すことになる。
オランダ商館、長崎の出島へ P432-433
カロンは翌年一六四一年二月に離日し、マクシミリアン・ルメールがあとを継いだ。商館長は毎年交替せよとの命に従ったのである。ルメールはこの年四月、恒例の献上品を携えて参府し、五月一一日に江戸城中で、酒井忠勝、松平信綱ら四人の老中から、商館の長崎移転を命じられた。
その場には井上政重と長崎奉行馬場利重が立ち会い、老中の言葉はこの二人が取り次いだ。ルメールによると大要次の通りである。「外国人が貿易を行なうかどうかは、日本国にとってあまり重要でないが、オランダ人は老皇帝(家康)から通行許可証を得ているので、彼らの商業その他について自由を享受してよい。ただし、船は今後長崎へ入港し、財産一切は平戸から長崎に移すように」。
外国貿易が重要でない云々はもちろん勿体をつけたのである。長崎移転という厳しい処置をとるためには、恩を着せる必要があった。ルメールはなぜこんな事態に至ったのか、情報収集に努めたが、結局「これは日本を安定させるという、P433重大な理由から起こったものであり、最近有馬で起こったような反乱が、再び外国人の援助によって起こるのを防ぐためである」といった程度の話しか聞けなかった。
オランダ商館の長崎移転は、倉庫破壊の時点で決まっていた訳ではない。その後幕閣で評定が繰り返され、家光の意志との摺り合わせもなされて、この決定に至ったのであろう。別に平戸藩に叛意は認められないにせよ、唯一外国との窓口を特定の一藩に管理させるのは不都合で、やはり長崎奉行の監視下に置くべきだとの結論に至ったものか。
長崎にはすでに出島が築かれていた。これを活用せぬ手はない。長崎商人はポルトガル人追放以後、オランダ人を長崎に招致する運動を続けていたが、幕府はあくまでも国益の見地からこう決めたのである。幕府はこの時ルメールに、宣教師を乗せたポルトガル・スペインの船を捕獲してよいと、虫のいい許可も出している。
ルメールは江戸を去るに当たって、平戸藩主松浦鎮信を訪ね、長年の厚誼を謝した。鎮信も感謝の言葉を述べたが、「悲しそうで、物思いに沈み、あわれに見えた」。一五歳で父隆信のあとを継いだ鎮信は、このときまだ二〇歳に達していなかった。
最後のイエズス会宣教団 P433-435
一六四二年と翌四三年の二度にわたって、イエズス会は最後の日本宣教団を送った。最後というのは、結果としてそうなったのであって、送りこむ側も送りこまれる側も、これが最後と思ったわけではない。これはアントニオ・ルビノという一人のイタリア人神父の強い意志から出たことで、イエズス会自体は本部も出先も、日本へ無理して宣教師を送ることには消極的だった。
この宣教団の基本資料は、パジェスの『日本切支丹宗門史』と、『長崎オランダ商館の日記』である。『バタヴィア城日誌』の記載はこの蘭館日記の引き写しにすぎない。P434ただ、『バタヴィア城日誌』の注釈者が「情報も不正確、錯誤があって、不明な点が多い」と述べているのはその通りだ。
一六三九年、ルビノは日本管区巡察師に就任した。巡察師になったからといって、別に日本へ行く必要はなく、前任者がマカオで死んだので、そのあとを継いだだけである。だが彼はぜひとも日本へ潜入する覚悟だった。
パジェスによると彼には背教者フェレイラの償いをするという、強い動機があったとのことだ。
ルビノはフランシスコ・マルケス司祭を伴なってマニラへ渡った。マルケスはポルトガル人と、大友宗麟の血筋をひく女との間に生まれた混血児である。マニラで同志を得たルビノは、これをふたつのチームに分けた。
その方が成功の確率が高いと考えたのだろう。ルビノの率いる第一団は、彼とマルケスのほか、ディエゴ・デ・モラレス(スペイン人)、アントニオ・カペチェ(イタリア人)、アルベルト・メチンスキ(ポーランド人)の三人の司祭、それに三人の従者からなっており、その一人朝鮮人トマスはカンボジアの日本人教会で働いていたという。
彼らの船は一六四二年八月一一日、薩摩の下甑島で座礁、一行はすぐに見廻り役人に見つかり、長崎に連行された。幕府が強化させた沿岸警備体制が機能していた証拠だ。長崎到着はニニ日で、この日の蘭館日記に記載がある。
蘭館日記は四人の司祭と五人の従者とし、姓名・年齢を記すが、姓名には誤りがある。パジェスは一行八人とするが、日記は一貫して九人としており、現地情報ゆえにこの方を信ずべきだ。
「彼らは皆日本の服装をして居り、改宗パードレ・ジョアンが奉行の命を受けて棄教を勧めたところ、激しい言葉で拒否された」。ジョアンとはフェレイラのことで、ルビノはフェレイラ背教の事情が知りたくて潜入したのに、いきなり本人から転向を勧められたのだ。
驚愕・怒りはいかほどであったろう。「取調べに対しては少しも憚るところなく、キリスト教を伝えるために禁を犯して日本に渡来したのに、早くも発見されたが、いかなる刑罰も忍ぶ覚悟であると述べたので、奉行以下取調べに当たった人は皆驚いた」。ルビノはこのときすでに六二歳であった。
一行九名は翌一六四三年三月一七日、穴吊るしの拷問を受けた。棄教したのは従者一人で、それも手当中に死んだ。残る八名中三名が徐々に死亡、二五日までに生き残った五人は首をはねられた。
五野井隆史『日本キリスト教史』は大村牢の死亡帳に、三人の南蛮人が一六四二年、六五年、九○年に死亡した記載されていることを付記し、全員処刑に疑いを残しているが、この三人は蘭館日記によると、三、四年前琉球でとらえられた別なスペイン人である。
ペドロ・マルケス(ポルトガル人)、アロンソ・デ・アロヨ(スペイン人)、フランシスコ・カッソラ(イタリア人)、ジェゼッペ・キアラ(イタリア人)の四人の司祭、ほかに日本人イルマン、五人の従者よりなる第二団は、一六四三年マニラを出帆、六月二三日筑前の梶目大島で、黒田藩の見張り番に捕らえられた。
『長崎実録大成』によると、「月代ヲ剃リ日本風ノ如キ衣類ヲ着シタレドモ、眼ザシ鼻ノ高サ常ナラザル故、所ノ役人二告知」された。なお従者のうち三人は海外在留二〇年を越す日本人だった。彼らは江戸へ連行され、全員棄教して、宗門奉行井上政重の小日向の屋敷中に設けられた「切支丹屋敷」に収容された。
密航カトリック宣教師に言及するオランダ商館長 P435-436
同年一一月参府した長崎商館長エルセラックは通辞から、彼らは拷問の恐怖から棄教し、囚人で行動の自由はないが、生涯各月米五俵、年一貫目を支給されることになった。背教者として彼らは早速、京・伏見の信者を摘発したと聞かされた。
彼は一二月二日の項にも、通辞の話としてこう記している。「転向して日本人となった彼らは、三日前に上司から日本風に妻女と同棲することを命じられ、日本人パードレたちは承知して自由になったが、ポルトガル人パードレ四人は拒絶したので、再び投獄された、前よりも厳重に監視を命じられた由」。むろんパードレのうちポルトガル人は一人だし、日本人にパードレだった者はいない。
同月一八日には、井上政重の「首席執事がエルセラックの宿に来て、パードレらが女と同棲することを承知せぬので拷問した」と話した。ニ一日に彼は井上政重から将軍の「命令書」を交付されたが、その第三項はこの度の二次にわたる宣教団の渡来に言及し、
「パードレらが日本に渡り、またイスパニアやポルトガル人に頼んで、日本に対し何か悪事を企てることを聞いた時は、日本官憲に知らせることを望む」と述べていた。
家光の憂慮は深かったのである。エルセラックは切支丹屋敷の司祭たちに関心があったらしく、一六四四年五月の日記にも、長崎奉行馬場三郎左衛門利重の「江戸で棄教したパードレは依然婦人に接することを承知せぬので、毎日水責めその他の拷問にかけられている」とい談話を記載している。
拷問がこわくて棄教したというのに、女に接するのは拷問以上におそろしいというのはカトリック修道僧ならではの心理だろう。
フェレイラに関しても商館日誌は度々言及し、沢野忠庵と名乗る彼が「奉行の所にある地球儀の水平線上に聖徒の名のついた暦がある」、危険だから削るべきだと指摘するほど、幕府の忠実な手先となっていたことを伝えている。
ルビノのふたつの宣教団が壊滅したあと、一七○八年シドッチが単身潜入するまで、宣教師の入国の試みは途絶えた。新井白石の審問で有名になったシドッチの例は、個人の壮挙にすぎず、ルビノの宣教団が「最後の」と呼ばれるのは失当ではない。
しかし幕府は依然として憂慮していた。一六五一年にもなって、井上政重は長崎商館長に対して、会社の信用を保ちたければ「この国の仇敵であるローマ・キリスト教徒」のたくらみについて知りえたときは、すぐ長崎奉行に通知せよと注意せずにはおれなかった。
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