2020年7月5日日曜日

偏愛メモ 『バテレンの世紀』第一四章 家康とイエズス会 P239-255

第一四章 家康とイエズス会 P239-255

P239 ヴァリニャーノが第三回日本巡察のために長崎に上陸したのは、秀吉の死に先立つこと四〇日余りの一五九八年八月五日のことだった。彼はマルティンスに替わる新司教、ポルトガル人のイエズス会士ルイス・セルケイラを伴なっていた。

こののちヴァリニャーノは一六〇三年一月に至るまで、主として長崎に駐留することになる。秀吉の死は長崎・有馬方面に逼塞するイエズス会に新たな希望を与えた。バテレン追放令は効力は喪うだろう。ヴァリニャーノは、朝鮮からの撤兵を監督するために博多に来ていた石田三成のもとにロドリゲス派遣して、次代を担うはずのこの男の意向を打診させた。

三成は当分目立たぬようにするのがよいと言いつつ、態度は十分好意的だった。

ヴァリニャーノはオルガンティーノを京都に復帰させてよい頃だと判断した。都で公の前に姿を現わしたオルガンティーノは信者たちから大歓迎されたが、これを知った長崎奉行寺沢広高はオルガンティーノの退去を要求し、従わねば報復すると脅すだけでなく、長崎の下僚に指示して、日本人信者の教会出入りを差し停めた。

寺沢はこれまでもイエズス会に対して表裏つねなく、心労の種になっていたのである。ヴァリニャーノはトラブルを避けるために、セルケイラ以下一六名のイエズス会士と、三○余名の神学生を天草へ移すとともに、P240寺沢の心を解くべく、ロドリゲスを都へ派遣した。

ロドリゲスは小西行長などの助力を得て、寺沢の怒りをなだめることに成功したばかりでなく、伏見で家康に会うことができた。宣教師の自由な居住を求めるロドリゲスに対して、家康は「太閤がなくなったからといって、すぐに追放令を解除するわけにはいかないが、いずれは定住の許可がおりるだろう」と答えた。

これは一五九九年のことだが、実は家康は秀吉の死後間もない前年の一二月、伊勢国に潜伏していたフランシスコ会の宣教師ヘロニモ・デ・ヘスースを伏見城に呼びよせ、スペイン船の浦賀寄港を、並びにスペイン人の鉱山技師、パイロット招請の件で、フィリピン総督に斡旋の労をとるように依頼していたのである。

へスースは一五九四年、フィリピン総督の秀吉に対する返書を持って来日し、その後もバウチスタとともに宣教活動に従事し、バウチスタらが九七年に長崎で処刑されたあとマニラへ追放された。しかし、翌九八年には、ルイス・ゴメス(イエズス会の第二代日本準管区長ペドロ・ゴメスとは別人)とともに口之津に上陸、ゴメスはすぐにつかまったが、彼は都をめざし、やがて伊勢に匿われることになったのである。

家康はへスースがフィリピンとの交渉に尽力する代償として、江戸居住と教会の建設を許したので、彼は都の信者を伴なって江戸へ赴き、一五九九年五月、新築成った教会堂で初ミサを献じた。その後マニラへ帰ったヘスースは、一六○一年総督テーリョの書簡を携えて家康のものに赴いたが、同年一〇月に病死している。

関ヶ原の戦いと英国人アダムス登場 P240-243
ヴァリニャーノは一五九九年度年報に、前年二月から九九年一〇月までに、約四万人の新しい信者を得たと書いているが、秀吉の死後、宣教師たちがいくらか活動の自由を得るや、これだけの成果がたちどころに挙がったことは注目に値する

P241 一六〇〇年の関ヶ原の戦いによって、最も有力なキリシタン大名の小西行長が没落したことは、イエズス会にとって大きな痛手となった。行長だけではない。織田秀信は美濃を喪って高野山に追放され、筑後の毛利秀包も所領を没収された。

しかし、有馬晴信と大村喜前が西軍について領土が保全できたのは、不幸中の幸いといわねばならない。何といっても、有馬領と大村領はイエズス会の最後の砦だった。関ヶ原の一戦は著名な日本人キリシタンたちの運命を狂わせた。

宇喜多秀家の重臣ジョアン明石掃部(全登)は、関ヶ原の戦場で斬り死にを覚悟したところ、かねて友人の黒田長政と出会い、一身を救われて彼の部将となった。一五五六年第三次ミッションで来日したヴィレラによって受洗した古参キリシタン、ジョルジ結城弥平次は行長のもとで矢部の愛藤寺城を預かる身であったが、行長没落後は加藤清正の支配下に入った。

清正は当初小西の遺臣たちの信仰に干渉しようとしなかったが、元来が熱烈な法華の行者である彼は次第にキリシタンの家臣に圧力を強めたので、弥平次は一六○二年、肥後をあとにして有馬領に移り、知行三〇〇〇石を得て金山(現・雲仙市国見町)城主になった。

数奇を極めたのはかつての豊後国主大友義統である。朝鮮の役での失態を咎められて豊後を召しあげられ、毛利輝元に預けられていた義統は、石田三成が反家康の兵を挙げるや、毛利から四〇〇〇の兵を借りて、旧領を回復すべく豊後に攻め入ったものの、黒田孝高と一戦して脆くも敗れ、捕虜となった(軍師官兵衛48-49)。

そもそも如水黒田官兵衛孝高は彼にとって、父のような存在だった。薩軍に席巻されたて危く領国を喪おうとした時に救援してくれたのも官兵衛だったし、永らく父宗麟に反抗してきた彼を説得して、洗礼を受けさせたのも官兵衛だった。その官兵衛は義統を捕虜にするや、彼が信仰を喪っていることを厳しく責め、彼を神のもとへ立ち帰らせようとした。

その点では官兵衛というのもおかしな人である。智謀湧くがごとく、天下への野心ももちろんあった。彼がこのたび九州で西軍に与する諸将を撃破した働きを聞いて、家康は如水め、何を企んだのやらと呟いたそうだ(軍師官兵衛49)。

ところが、キリシタン信仰については処女のように純真だったらしいからおかしい。もっとも彼にも信仰が薄らいだ時期があり、ヴァリニャーノから領内の司祭を召還すると脅されて、平頭して謝ったことがある。とにかく、義統は官兵衛の説諭によって信仰をとり戻した。

そして、その後終生変わることがなかった。彼は出羽国の秋田実季に預けられ、実季が常陸国へ転封となると、ともに移ってそこで死んだ。苦行に明け暮れるみごとな信仰ぶりだったと伝えられる。もっとも、すべての望みを失った義統としては、ただひたすら信仰にすがるしかなかっただろう。

軍師官兵衛48-49大友義統と如水  49家康、如水を警戒      49如水最後の勝負FULL


関ヶ原の戦いの直後、ロドリゲス・ツズは都にのぼって家康と面会した。家康は上機嫌で、都と大坂と長崎の三ヵ所にイエズス会の会宅を置くことを認めた。翌年にまたロドリゲスが上京すると、家康はロドリゲスを自分の通商代理人に指定した(ロドリゲス・ツズとは参照)。

家康はキリスト教への嫌悪を、貿易を促進したい一心で匿していたのである。ヘスースにフィリピンとの交易の仲介を依頼したのもその一心からだった。そして、この頃、彼の前に現われたのがウィリアム・アダムズである。

アダムズは英国ケント州の人である。船大工の修業を終えると、方々へ航海し、その間オランダ人とも親しくなった。オランダはスペインに対して独立戦争を戦いつつ、一五九五年に初めてアジア遠征船団を送ったが、九八年出航の第二回遠征隊にアダムスは加わった。

船団は五隻で出発したじたけれど、大西洋、マゼラン海峡を経て、ペルー沿岸から太平洋を横断するときには、他船は引き返したり喪われたりして、残るはアダムズの乗るリーフで号一隻になっていた。太平洋横断には六カ月かかった。

一六〇〇年四月二九日、現大分県臼杵市の佐志生に漂着したときは、生存者はニ四人、そのうちやっと立って動けるのは、アダムズをいれて七人にすぎなかった。臼杵城主太田一吉は親切で、生存者を収容し、病人を手当てしてくれたが、こののちさらに六人が死んだ。

P243 船は大坂に回漕され、アダムズが家康の前に引き出された。家康はアダムズから、オランダ人がスペインと戦争している事情も含め、根掘り葉掘り聞き出した。この間イエズス会士が彼らは海賊であると吹きこんだが、家康は中傷に左右されなかったとアダムズは言っている。

アダムズは家康に気に入られ、このあと関東に采地を与えられた。つまり側近の家臣となったのである。江戸の日本橋近くに屋敷も与えられた。彼は家康に数学を教えたというが、極東におけるヨーロッパ諸国の角逐についても、有益な情報を与えたことだろう。

彼は家康のために、二隻の西洋式帆船を作った。二隻目の一二〇トンの船はその後太平洋を横断している。

 →『日本1852』-ペリー遠征計画の基礎資料- (参照


スペイン人参入とオランダ・イギリス登場 P243-244
イエズス会のキリスト教伝道と、ポルトガル人による長崎貿易という、これまでの日欧接触の比較的単純な様相は、秀吉から家康へ天下人が交替するにつれて、一七世紀にはいると複雑で錯綜したものに変わった。

まず第一に、フィリピンに根拠を置くスペインとの交渉が深まり、それにつれて、フランシスコ会、ドミニコ会など、スペイン系修道会が、日本という宣教のマーケットに参入して、イエズス会の独占を打ち破った。

これは秀吉の晩年からすでに生じていた事態であるが、家康のスペインとの交易に意欲もあって、いくつかのドラマを生み出す。さらに重要なのは、オランダ・イギリスの登場である。

彼らはキリスト教伝道に関心はなく、もっぱら純粋な交易者として舞台に現れたが、ポルトガルの日本貿易独占を打破するばかりでなく、欧州におけるスペイン・ポルトガル(当時両国は共同王権を戴いている)との対立を日本へ持ちこみ、いわゆる鎖国に至る伏線を形づくることになる。

第三に、朱印船の形をとった日本人の海外進出が始まる。日本人は倭寇以来、南中国、フィリピンへ姿を現わしていたのであるが、朱印船という制度的保証を得ることによって、交易のため意欲的に南方へ派船するようになり、南洋日本人町の形成も進んだ(黄金の日日03人買い船黄金の日日44マニラ日本人町)。

スペインがフィリピン領有を確実にしたのはレガスピ艦隊の派遣によってである。レガスピは一五六五年にセブ島、七○年にルドン島のそれぞれ用地を征服し、七一年にはマニラを首都と定めて、フィリピン植民地の成立を内外に告知した。

従来、ヌエバ・エスパニア(メキシコ)からフィリピンへの航路は往路のみで、帰路は西廻りに世界一周するしかなかった。フィリピンから直接東航してメキシコへ帰ろうとしても、風向きが許さなかったのである。

この難問を解決したのはウルダネタである。彼は一五六五年、北緯四二度まで北上し、太平洋を横断してメキシコへ帰還する航路を発見した。北緯四二度といえば、北海道の襟裳岬にあたる。この「ウルダネタの道」の発見によって、アカプルコ・マニラ間のガレオン船航路が確立され、フィリピン植民地の存続は保証されたのである(『日米衝突の萌芽』P35参照)。



スペイン領マニラへの日本人来航 P244-248
フィリピンには倭寇の流れであろうか、一五四○年だいから日本人が渡航していたといわれる。確実な記録もよると、一五七○年、レガスピの部将がマニラに達したとき、そこには二十人ばかりの日本人が住んでおり、その一人はパブロと名乗るキリシタンだった。

また、一五六七年のレガスピの国王宛報告書には、ルソン島とミンドロ島に、中国人と日本人が毎年交易に来ると記されているし、七二年のマルドナドの報告にも、毎年日本船が両島に来て、銀と金を交換するとある。

的場節子の画期的な研究(『ジパングと日本』)によると、マルコ・ポーロが伝えた産金国としてのツィバング、アラビア地理書の記す黄金島ワクワク島は、けっして日本を指すものではなく、フィリピンのビサヤ諸島やルソン島のことであるという。

一六世紀に日本が金を産出した事実はないし、まして輸出した事実もない。P245琉球人がマラッカへもたらした金は、これまで考えられていたように日本産ではなくて、フィリピン産だというのだ。日本人は金や蘇方にひかれてフィリピンに渡航したことになるが、これが朱印船制度の成立以前のことであるのは注目に値する。

従来、日本人が積極的に海外交易に乗り出すのは、朱印船以後とされているけれども、見直しが必要だろう。前述したレガスピトマルドナドの二報告は、日本船が毎年渡来すると言っているのだ。

レガスピがマニラ市を定礎してわずか三年後の一五七四年、中国の海賊林鳳(リマホン)が、七○隻の船を率いてマニラを襲った。彼は中国官憲の追補を逃れて、防衛の手薄なマニラを乗っ取り、おのれの根拠地にしようと企んだのである。

スペイン人たちは力戦奮闘してやっと危機を逃れたが、このとき四○○人の手兵を率いてマニラ城を攻撃した林鳳の部将は、シオコと呼ばれる日本人だった。

ルソン島北端ののカガヤン河口に、一五八〇年から連年来航した日本人も、半ば商人半ば海賊という倭寇的な性格だったようである。彼らの求めるのはやはり金だったが、注目すべきなのは現地に砦を設けて定住の姿勢姿勢を示したことである。

フィリピン総督はむろん見過してはおけず、彼らが現地住民に危害を加えるというので、八ニ年には討伐の艦隊を送った。六隻からなるスペイン艦隊はカガヤン付近日本船一隻と中国船一隻に遭遇し、激戦の末に二隻を降服させた。

つまり日本人は倭寇の型通り中国人と組んでいたのである。こんときニ〇〇人の日本人が殺された。カガヤン河口にいたると、さらに六隻の日本船と砦が認められた。日本人首領の名はタイフサと伝えられる。スペイン艦隊は増援を得たうえで彼らを駆逐し、カガヤン地方を完全に支配するにいたった。

一五八四年、マカオ商人の船が平戸へ入港したが、この船にはフィリピンの托鉢修道会員が四人乗っていた。フランシスコ会、アウグスティノ会各二名で、これがスペイン系修道会士の初日本渡来だった。

この船はマニラからマカオへ赴く途中、逆風に遭ったとも、故意に針路を平戸へ向けたともいわれている。日本伝道はローマ教皇庁から認められてイエズス会の独占するところだったが、スペイン系修道会はこれに不満で、絶えず日本入国の機会を窺っていた。

平戸国王の松浦鎮信はマカオ貿易の利を大村氏に奪われて、憤懣やるかたないところだったから、マニラから来た四人の修道士を大歓迎し、翌年彼らが帰国する際には、フィリピン総督宛に書状、ならびに鎧などの進物を託した。

一五八五年には、日本人一一名が乗った船がマニラに着いた。そのうちの一人吉近バルタザルは松浦氏の家臣だった。船には小麦や牛馬が積まれていたというから、公益目的だったに違いないが、注目すべきは長崎居住のキリシタンが、イエズス会日本準管区長コエリュのマニラ在住イエズス会士への書簡を携えていたことである。

コエリュは異教徒から圧迫されているキリスト教徒の領主たちを救うため、マニラから兵士と大砲、弾薬を送ってほしいと請うている(参照1参照2)。むろんこの時点では、秀吉の九州平定は起こっていない。彼はまた、宣教師不足を解決するため、マニラの托鉢修道士の来日を要請している。

ヴァリニャーノは日本宣教に他の修道会を関与させれば、救いがたい混乱を招くというので、イエズス会の独占を断固守りぬくつもりだった。しかし彼のこの方針は、彼自身が任命した日本宣教の責任者によって裏切られつつあっのである。

ヴァリニャーノの要請によって、強硬グレゴリオ一三世は、一五八五年一月小勅書を発して、日本伝道をイエズス会の専管とし、スペイン系宣教師がマニラから日本へ入国することを破門をもって禁じた。この勅令は翌八六年になってマニラに着いた。

スペイン系修道会は不平満々ながら、しばらく鳴りをひそめるほかなかった。

八五年の一一名の日本人来航は、マニラ政庁側では平和的目的で来島した最初の日本人と記録されている。つまり倭寇的な侵攻とは異質な、フィリピン政庁を相手とする平和的な交易の途が開かれたのだった。

P247 こののち、金と銀の交換という交易の内容も一変して、日本人は米麦、牛馬など食糧をもたらし、金のみならず生糸、鹿皮などを持ち帰るようになった。生糸はむろん中国からもたらされる。日本人は中国への入国を禁じられていたから、マニラでそれを手に入れようとしたのだ。

一五八七年になると、八五年の渡航者吉近バルタザルらを含む四○名の集団を乗せた平戸船が、マニラに来航した。バルタザルは平戸国主の書簡を持参し、松浦鎮信・小西行長がスペイン国王の要請に応えて軍兵を派遣する意志があることを伝えた。

ところが、マニラ側の要請で軍兵を送るというこの申し出の裏では、スペインの統治に抵抗する原住民の反乱に加担する謀議が進行していた。この反乱計画は翌八八年に発覚し、その尋問の過程で全貌が明らかになったのだが、それによると、八七年に来航した日本船の船長ファン・ガヨが原住民の首領と親交を深め、彼に日本から持ち来った武器を供与して、ともに反乱を企んだというのだった。

計画はガヨがスペインとの友好の名目で兵士と武器を持ちこみ、ボルネオ・モルッカ・マレーのイスラム勢力にその武器を渡して、マニラのスペイン人を包囲殲滅するするという大がかりなものだった

そのガヨと吉近バルタザルの関係については議論のある所だが、同一人物である可能性が高い。

バルタザルがこの反乱計画の当事者であるとすれば、松浦鎮信の胸中にすでにフィリピン征服の野望があったことになる。反乱は計画のみにとどまらず、発覚寸前に、ルソンの住民首領が日本製の火縄銃をボルネオ王に送り届けていた。

叛乱成功の折には、日本人を支配者の一員として受け入れる合意までなされていたという。鎮信がどんな野望を抱いたにせよ、八七年には秀吉が九州を平定し、松浦国王がフィリピンに手を伸ばす余地はなくなった。

しかし、日本の軍事的脅威は、一五九二年に原田孫七郎がフィリピン提督に、臣従を促す秀吉の書簡をもたらす以前から、フィリピンを覆っていたのだ。八九年にはマニラに渡来した三、四○名の日本人が、巡礼を装ってマニラ周辺を調査したと、マニラ政庁の記録は伝える。

あながち疑心暗鬼とはいえまい。P248明らかに日本人はマニラへ来たくてたまらなかったのである。それも主人として。秀吉の打上花火のような威嚇も、このようなフィリピンという利権にたかる日本人たちによって扇動されたものだった。その代表が原田喜右衛門と孫七郎である。



ポルトガル定航船を拿捕するオランダ船 P246-250
秀吉とマニラ政庁との間の交渉は、それに伴うスペイン系修道会員の渡来、サン・フェリーペ号事件、ニ六聖人の処刑を含め、すでに述べた通りである(参照)。天下人にならんとしていた家康がフランシスコ会士ヘスースを介して、スペイン船の浦賀寄港を求めたことも先に述べたが、この家康の思惑はすんなりとは実現しなかった。

ひとつはフィリピン側に依然として対日警戒心があり、また家康自身に宣教師の活動への嫌悪ないし警戒の念があったからである。

フィリピン総督ペドロ・デ・アクーニャは、家康の送った親書に答えた一六○二年六月の書簡で、関東に一船を派遣し交易実現に努めると伝えるとともに、宣教師の保護を要請した。

同年九月、フィリピンからメキシコへ向かったエスピリト・サント号が土佐国清水に漂着し、誤解と紛争の末、銃撃を躱しながら脱出するという事件が起こったが、家康はその際、上京した同船の代表に、外国船が防風を避けて日本の港に入港したとき、船荷は没収されることはなく、積荷の売買を強制されることもないと保証するとともに、外国人の日本居住は自由だが、キリスト教を持ちこむことは固く禁ずる旨の朱印状を与えた。

これはアクーニャの宣教師保護要請に対する回答であって、それを知った在日宣教師は大きな衝撃を受けた。家康のキリスト教伝道に対する原則的な態度は、早くもこの時点で明らかになったが、かといって彼はこの原則を現実に貫徹しようとした訳ではなかった。

貿易のためには、妥協あるいは見て見ないふりをする用意があった。彼はフィリピンとの交易だけに気をとられていたのではない。P249長崎のマカオ貿易にも注目していて、そのためにはイエズス会とも妥協するつもりだった

一六〇三年二月、家康は伏見城でロドリゲス・ツズと村山等安アントニオと会い、長崎奉行寺沢広高を罷免して、等安ら五人の長崎在住商人に同地の統治を委ねる旨を告げた。寺沢のもとで何かと円滑を欠いたマカオ貿易を、キリシタン商人の長崎自治によって促進しようとしたのである。

家康はロドリゲスにも長崎統治に関与するように求めた。これはイエズス会の地位を高からしめるものだったが、長崎の政治と貿易に深く関わることによって、こののちロドリゲスはさまざまな紛争に巻きこまれることになる。

ヴァリニャーノはロドリゲスが上京する直前、一六〇三年一月一五日に、第三次巡察の任を終えて日本を去ったが、イエズス会が政治と貿易に巻きこまれ、他修道会から非難攻撃される現状、さらにはイエズス会内部のスペイン人とポルトガル人の対立など、心痛の種は尽きなかった。

彼がマカオで栄光の生涯を終えたのは、一六〇六年一月二〇日のことである。

一六〇四年、ロドリゲスが家康のもとに正月の祝いに罷り出ると、家康はイエズス会に三五〇テール(一テール=銀一〇匁)を喜捨し、さらに銀五〇〇〇テールを貸与して、返済はいつでもよいと告げた。これは日本イエズス会の年間経費の半分に当たる。

彼は前年、四○万ドゥカードを超える生糸を積んだポルトガル定航船が、マカオ沖でオランダ船に拿捕され、イエズス会と長崎が大打撃を蒙ったことを承知していたのだ。

スペイン・ハプスブルク家の支配のもとにあったネーデルランドでは、一五八八年以来、ホラント州を中心とする北部諸州が反スペイン闘争を続けていたが、一六世紀末には、軍事的才能に富むオラニエ家のマウリッツの指導のもとに、オランダ共和国としての独立を事実上達成していた。

そのオランダがアジア貿易に参入したのは、ポルトガルがフェリペ二世のもとにスペインと同君連合を形成し、オランダ船のリスボ入港が不可能となったからである。P250もともと商業によって立国するオランダにとって、南海物産の入手先を絶たれるのは致命的である。

一五九五年には乱立する会社を統合してオランダ連合東インド会社が設立された。イギリス東インド会社の設立に遅れること二年、しかし資本金はその一○倍だった。会社は軍隊を保有し、要塞を構え、条約を締結する権利も与えられた。

会社はたんに貿易のみを目指したのではない。アジアにおけるポルトガルの拠点を攻略することによって、敵手スペインに経済的な打撃を与えるのも、重要な目的の一つだった。こうしてオランダのアジア進出は、対スペイン・ポルトガルとの戦争の様相を帯びた。オランダ船は操船・火力において優越していたので、ポルトガル船はしばしば拿捕の憂き目に逢うことになった。



イエズス会準管区長パシオの駿府江戸訪問 P250-252
家康は一六〇六年に伏見城で、日本司教ルイス・セルケイラを引見した。これは寺沢の次の長崎奉行小笠原一庵の斡旋によるもので、一庵は一六〇四年長崎に下ってセルケイラと親交を結び、長崎のポルトガル商人、キリシタン住民に対する司教の権威を認識するところがあり、貿易の円滑化のためにも、司教を家康に紹介する必要を認めたのだという。

家康は快くセルケイラを引見した。セルケイラはそそのち、家康側近の筆頭本多正純と、京都所司代板倉勝重に会い、両社ともに教会の保護を約束したとイエズス会年俸は伝える。

翌一六〇七年には、イエズス会日本準管区長フランシスコ・パシオが駿府に家康を訪ねた。パシオの引見は、セルケイラの家康訪問の際に打診されたらしく、その後本多正純と後藤光次の尽力で実現の運びとなった。

後藤庄三郎光次は、家康側近の大商人である。パシオは、コエリュ、ペドロ・ゴメスにつぐ三代目の日本準管区長である。P251イエズス会会憲は一年に一回、管区長が管内を視察することを規定しているが、ヴァリニャーノは日本の事情を勘案して、三年に一回巡察すべしと定めていた。

しかし実行は困難で、コエリュは一五九○年に死亡するまで、畿内を巡察したのはただ一度、ゴメスに至っては秀吉の追放令下ということもあり、長崎に定住して、一五九五年に大村を訪問した以外、下地方の巡察すらほとんど行わなかった。

一六〇〇年年、ゴメスの死によって準管区長となったパシオにとって、駿府への旅は懸案の全国巡察の好機でもあったのである。

パシオは駿府で、相好をくずほど上機嫌の家康に迎えられた。家康はパシオとの対話を通じて、イエズス会の長崎貿易に対する影響力を、改めて認識するところがあったらしい。だがこの好結果の蔭には、本多正純の並々ならぬ尽力があった。

引見の当日、家康の子で越前国王の結城秀康(の死『葵徳川三代22』4分30秒過ぎ)の訃報が駿府に届いたが、正純は引見の延期を怖れて越前からの使者を抑え、引見が無事に終わったあと、家康にこのことを報じさせたのである。正純がこのようにパシオのために尽力したのは、彼自身長崎貿易に投資していたからではないかと五野井隆史は推測している。

パシオはこののち江戸へ下って、二年前に家康から将軍職を譲られていた秀忠に謁見した。秀忠は将軍職に就いた一六〇五年、江戸市中に禁教令を出したことがあり、イエズス会との接触もこれが初めてだったが、会見は極めて友好裡になされた。

これは本多正純の父正信のとりなしがものを言った。正信は家康から最も信任された謀臣であり、秀忠の後見役であった。パシオは正信をイエズス会の保護者とするべく熱心に説き、正信は日本では従来様々な宗派が信じられてきたのだから、キリシタンもまた受け入れられる余地があろうと答えたとのことだ。

正信は若いころ三河一揆に加わって家康に背いたこともある熱心な一向宗信者であるから、本気でイエズス会の保護に当る気があろうはずはない。しかし、ともかくイエズス会は、将軍とその側近に顔をつなぐことだけはできわけである。

パシオは帰途、京・大坂に四〇日余り滞在して、畿内のイエズス会施設を巡察し、信者を励ました。日本準管区長が家康・秀忠に厚遇されたという情報は、すでに全国を駆けめぐっていた。パシオは大坂で秀頼と会った。これまで淀君はキリシタンに好意を示さず、禁教令を高札に示したほどだったが、家康・秀忠の厚遇の噂は、淀君と秀頼の養育者片桐且元らにも影響を与え、パシオと秀頼の会見が実現した。高札はただちに撤去された。

パシオが次に立ち寄った広島では、従来イエズス会に好意を示してきた国王福島正則に会うことができなかった。以前、正則が長崎貿易に投資しようとしたのに、パシオが協力を拒んだことがあったのが不快だというのだ。

イエズス会への好意といっても、つまりは貿易次第だったのである。この点は実は家康・秀忠とても同様であるのをパシオは自覚していただろうか。小倉では城主細川忠興の大歓迎を受けた。ちょうど愛妻ガラシャの命日が来るところだったのだ。

当日はパシオも参列して盛儀が営まれた。次の博多でも黒田長政から厚遇された。よきキリシタンだった官兵衛孝高は一六〇四年に死んでいたが、長政は父と変わらぬ保護をパシオに約した。忠興も長政も明らかに、家康・秀忠がパシオを厚遇したことに感銘を受けていたのだ。

ついで秋月を訪うたのは、領主黒田直之が同地方のキリシタンの柱石と呼ばれる人物だったからである。柳川でも領主田中吉政の歓迎を受けた。かくしてパシオの五ヵ月にわたる家康・秀忠訪問行、ならびに各地のイエズス会巡察の旅は終わった。費用はざっと四〇〇〇ドゥカード。日本イエズス会の借金はまた膨らんだ。



イエズス会の「インディアン・サマー」 P252-255
家康が司教セルケイラ、ついでイエズス会準管区長パシオを公式に引見したことは、日本におけるイエズス会の活動を容認したことを意味する。ヴァリニャーノが一五九一年秀吉に謁見できたのは、あくまでインド副王の使節としてであった。

P253 八七年の追放令以降、イエズス会の巡察師であれ準管区長であれ、その資格で全国統一政権の首長と会見するのは不可能だった。秀吉の死後も追放令は撤回されていないのである。それがここに来て、明白な変化が生じた。

『イエズス会年俸』が「日本ではもとの状態を回復したものと見なされる」と言うのも、またマカオ在の会士が総長宛の書簡で「イエズス会は現在信長時代同様の状況にある」と述べたのも、その限りで軽信とはいえない。

家康・秀忠が一六〇五年、江戸におけるフランシスコ会の宣教活動を取り締まったのは、フィリピン政庁への度重なるスペイン船関東寄港の要請にもかかわらず、その年も紀伊国の港へ入ったことへの懲らしめであり、翌〇六年スペイン船が浦賀に入ると禁教も緩んだ。

家康・秀忠はキリスト教が日本の伝統的神仏からして受け入れがたいという信念を明白に抱いていた。ただこの時点において、家康の関心はポルトガル・スペインとの交易の促進にあった。そのためには、それに伴う宣教師の存在は受忍すべきもの、あるいは利用すべきものだった。

だが同時に、彼らが宣教活動をほどほどに自制することも彼の期待のうちにあったといってよい。イエズス会を始めとする各修道会は、このバランスの微妙さを果たしてよく理解しただろうか。

イエズス会が九州に賢固な根拠を持ち、秀吉の禁教令以前は畿内の一部に地盤を築きえたのは、領主たちを信者としてとりこんだからである。イエズス会はザビエル以来一貫して、領主を教化してその領国をキリシタン化する手法をとり続けてきた。

庶民間の布教をおざなりにしたというのではない。豊後では長い間信者は貧民と農民であり、京では流れ者であった。しかしそれは結果であって、イエズス会の政略はあくまで支配層のトップを攻め落とすことにあった。

結局、それしか途はなかったのである。支配者を無視して民衆を教化したとしても、支配者から弾圧されれば、反乱を起こすしかない。結果は悲惨だろうし、それ以前にそれはイエズス会のとるところではなかった。

しかし、全国統一が完成されず、領主たちが割拠する戦国の情勢下にあっては、P254たまたまある小領国をキリシタン王国化することができたにせよ、全国統一政権が成立した今日、攻略すべきトップはただ一人しかいない。

すなわち家康、家康亡きあとは秀忠である。日本におけるキリシタンの未来は、かかってこの一人の意志にあった。宣教師たちはこの第一人者の意志という網の上を、みごと渡り切ってみせねばならなかったのだ。

かくて日本イエズス会には、「インディアン・サマー」のような順調な日々が束の間訪れたかに見えたが、その内実は様々な問題を抱えていた。まず、ロドリゲスが長崎の統治に関与したことから、意外ないざこざが持ち上がっていた。

長崎の町が拡張するにつれ、何かと不便が生じたので、大村喜前は自領の一部を長崎に貸し与えた。しかし、この大村領長崎村に長崎で罪を犯した者が逃げこむなど不都合が生じたので、奉行小笠原一庵は長崎町役人の陳情を受けて、長崎村を長崎町に併合し、大村氏には替地を与えるよう家康に進言し、家康はそれを裁可した。

激怒した喜前はこのことをロドリゲスの策謀によるものと誤信し、一六〇六年二月、イエズス会の宣教師を領内から全員追放する旨パシオに通告した。セルケイラの説得も、ロドリゲスのべ弁解も甲斐はなかった。

一六○二年、すでに喜前は日蓮宗に改宗し、家臣たちにも棄教をすすめていた。かの硫黄使節の一人千々岩ミゲルもこのとき棄教した。喜前の父純忠以来の大村キリシタン王国はかくして崩壊したのである。イエズス会にとって手痛い損失だったのはいうまでもない。

それでなくても、イエズス会は三つの問題を抱えていた。第一はあいも変わらぬ財政上の困難で、会はこのころ約九〇〇名の活動従事者を抱え、その経費は年間一万二〇〇〇ドゥカードを超えていたが、本国からの送金は当てにならず、長崎貿易への参与から得られる利潤も、オランダ船の脅威による定航船の欠航などのために不安定だった。

その上、パシオの全国巡察によって、さらに四〇〇〇ドゥカードの臨時支出が加わったのである。

第二は日本人会士の養成、日本人の司祭登用の問題であった。キリスト教が日本に根づくためには、日本人の会士・司祭を養成する必要があるのは明白で、ヴァリニャーノ自身、日本人にその適性があるかどうか疑うにいたった。

というのは、日本人修道士は表面的にはヨーロッパ人上長に従順であるかに見えても、内心はうかがい知れず、信仰の持続・深化の面でも信頼が置けなかったし、せっかく入会しながら脱会者が絶えなかったからである。

彼らに聖職者たる素質があるのだろうか。これはこののちさらに大きな問題になるが、さし当たっての第三の問題は、スペイン系托鉢修道会の参入であった。これはイエズス会によって統一的に行われてきた日本宣教を揺るがせる大問題だった。

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