第二二章 海賊から商人へ P350-360
平戸のイギリス商館には、一六一七年八月アドヴァイス号が入って以来、一隻も英船の来港を見なかったが、翌一八年八月アテンダンス号が、意外にもオランダの捕獲船となって入港した。従来、英船はまるで馬につくあぶのようにオランダ船のあとをついて廻ると評されており、オランダのあとを追って香料諸島に進出、一六一六年にパンダ諸島のひとつを占領するや英蘭間の緊張が高まり、両国の船は出合い次第放火を交えるようになった。一七年に対英強硬論者のクーンがバタヴィアの東インド総督となると、香料諸島に姿を現わす英船を捕獲し始めた。アテンダンスは一八年に捕獲された二隻のうちの一隻だった。
平戸のイギリス商館長コックスは激怒し、オランダの「海賊行為」を訴えるべく、急遽江戸へ上った。幕府への陳情はコックスの依頼を受けたアダムズが当たった。しかし幕閣はコックスの告訴状をまともに検討せず、
コックスの日記には一〇月ニニ日から、一一月一八日空しく江戸を発つまで、「アダムズがわれわれの事務処理をしてもらうため終日宮廷にいたが、何事も仕遂げなかった」という趣旨の記述が一四回繰り返されている。
後日コックスがイギリス東インド会社へ書いた手紙によれば、結局彼は日本の領外で起こった事件について将軍は介入するつもりがないと軽く突き放されたのである。
P351 翌一六一九年一〇年には、アテンダンスのほに捕獲した英船スワン号を含む七隻のオランダ船が入港した。
拿捕された英船から脱走した三人の水夫がイギリス商館に逃げこむと、オランダ商館長スペックス(二度目の就任、一六一四~二一)は返還を要求し、平戸街中での争闘事件の挙句、激昂した五、六〇〇人のオランダ水夫がイギリス商館を襲撃する騒ぎとなった。
コックスは日本人が味方してくれたので、この襲撃を防ぎ抜くことができたと言っている。この騒ぎは結局、松浦隆信が仲介にはいって、スペックスとコックスから証文を取ることで収まったが、収まらぬのはコックスの怒りである。
彼は前年の失敗にもこりず、当時京都滞在中の将軍秀忠にオランダ人の不法を訴え出た。幕閣は松浦隆信に一件の処置を委ねた。しかし結果は、コックスが日記に書いているようにうやむやに終わった。平戸候はこの騒ぎで英人は一人も殺されていない、殺されたのはわが家臣一人のみである。
それを自分が赦す以上、何を求めるところがあるのかと言い放ったとのことだ。アダムズは病床にあってコックスの京都行に同行できず、翌二〇年五月平戸で永眠した。
オランダはアジアの果てで、いつまでも英国といがみ合う訳には行かなかった。オランダがスペイン・ポルトガル両国と結んだ一二年間の休戦期間がようやく切れようとしていたのだ。両国に加えて英国まで敵に廻ってはかなわない。
かくして一六一九年、英蘭両国は防御同盟条約を結び、その知らせは翌二〇年七月イギリス平戸商館に届いた。同条約は東南アジア海域における両国東インド会社の協調、特に香辛諸島ににおける香料の買入について協定するもので、
これに対してオランダ東インド総督ヤン・ビーテルスゾン・クーン(在任一六一八~二三、二七~二九)は、折角イギリス勢力をインドネシア・香料諸島から追い出し、ジャカルタにバタヴィア城を築いて地盤を築きつつあるのに、頽勢に赴きつつあるイギリスをわざわざ呼びこむものと激怒し、ことごとに協定の実行を妨げたといわれる。
しかし日本に関していえば、この条約にもとづく防御会議が、両国同数の船を出し合って一○隻の防御艦隊を組織し、マカオから長崎へ向かうポルトガル船を拿捕し、併せてマニラへ往復する中国船を拿捕すべしと決議したことが重要であった。
前者は日本へ向かう、後者はメキシコ・アカプルコへ向かう中国産絹糸の道を絶とうというのだった。前章で述べた平山常陳(参照)の船が英船に拿捕されたのは、この防御艦隊の日本渡航中の出来事だった。防御艦隊は一六二一年一月、マニラ方面へ出勤し中国船六隻を捕えたが、両商館への分配はそれぞれ三万レアルにみたなかった。
一六ニ一年一一月から翌二二年七月にわたる第二回出動においては八隻を捕え、おのおの二○万レアルの分配金を得た。
台湾に築かれたオランダ生糸貿易の拠点 P352-353
ポルトガル・スペイン側はこれを海賊行為として幕府へ出訴し、オランダ・イギリス側もこれに応じて弁明するところがあった。その結果一六二一年九月、幕府は平山常陳船事件を踏まえて五ヵ条の禁令を出した。
これによって外国船によって日本人を海外に送り出すこと、武器・軍需品を輸出することが禁じられた。しかし「海賊行為」については、日本近海での掠奪は禁じられたが、領海外での英蘭船の行為はこれまで通り、日本政府の関知するところにあらずとされたのである。
この禁令はオランダ平戸商館にとって重大な意味を持った。商館は設立以来対日貿易によって利益を得るよりも、東南アジアにおけるオランダ植民地防衛のための、戦闘員ないし物資調達場所、さらに掠奪によって得た中国産生糸・絹織物を本国へ送る中継基地としての意義のほうが大きかったのだ。
貿易に関しては、インドシナで入手した絹を輸入していたが、ポルトガルによるマカオからの絹輸入とは比較にもならなかった。
東インド会社全般の兵站基地としての機能が果たせないとなれば、オランダ平戸商館の生き残る道は中国の絹を入手するしかない。一六ニニ年六月、ライエルセン指揮のオランダ艦隊はマカオ占拠を企み、八〇〇の兵を上陸させたが、P353戦死者一三六、負傷者一二六にのぼって、空しく退却せざるをえなかった。
ライエルセンは指令通り澎湖島へしりぞき基地を設けようとしたが、中国側の激しい抗議を受けたので、後任のソンクは一六ニ四年、台湾へ移って、台南地方のタイオワン湾内の島に城を築き始め、やがてゼーランディアと称する城砦が竣工した。
ゼーランディアには対岸の福州から生糸・絹織物を積んだ中国船が来航し、遂に日本銀輸出の対価としての日本向け貨物を獲得する道が開けた。その結果、一六二五年度からオランダの対日輸出入は急増し、輸入では生糸が主要商品の地位を占めるに至った。
要するにオランダ人は「海賊」から商人に化けつつあったのだ。
もちろんポルトガルも手をこまねいてはいなかった。オランダ船はマカオを出航する長崎行のナウをつねにねらっていたので、マカオでは、速度の出ない一隻の大型ナウに大量の貨物を積載するのをやめて、もっと小型で速度の出る帆船ガレオタ(三〇〇トン前後の大きさ)を数隻就航させることにした。
「ポルトガル海上帝国」の著者ボクサーによればこれは一六一八年以後の変化だという。オランダ船のポルトガル船攻撃が激化したのは、その前年一六一七年からだった。
イギリス平戸商館の閉鎖 P353-354
二年前に組織された平戸を母港とする英蘭防御艦隊は一六ニニ年八月解散した。ライエルセンのマカオ攻撃など、バタヴィアのオランダ東インド会社は、イギリスを置き去りにして単独行動に踏み切っており、同盟の実は失われていた。
イギリス平戸商館は防御艦隊の獲物で束の間賑わったものの、本体であるべき貿易活動は相変わらず不振を極めた。イギリスが日本貿易に定着するには、日本の海外需要の中心をなす生糸・絹織物を中国から入手するしかない。
P354 生糸・絹織物はインドシナからも入手でき、平戸商館が同方面へ度々派船したのは前述した通りだが(参照)、結局日本の朱印船に対抗できなかった。
商館長コックスは平戸在住の中国人李旦に依頼して、中国へのルートを拓こうとした。しかし李旦は商人というものの実態は海賊であり、コックスは彼に六六〇〇余テール(両)の無駄金を注ぎこむ結果に終わった。
当時イギリス東インド会社の東南アジア方面の司令部は、英蘭同盟の結果、オランダの拠点ジャワ島のバタヴィア城内に置かれていたが、一六ニ三年五月、すでに一万ポンドの損失を計上していた平戸商館の引揚げを決議、コックスに通告した。
実はコックスは前年すでにバタヴィアへ召喚されており、この度は召喚に応じないのを厳責されたのである。
一六ニ三年一二月、コックス以下館員はブル号に乗り組んで平戸を去った。開設以来およそ一〇年の苦闘を経ての敗退だったが、コックスは再開の希望を失わず、将軍の貿易免許状と商館倉庫の保管を平戸候に依頼していた。
しかし、イギリス東インド会社が再び日本貿易を開こうと派船したのは五〇年後の一六七三年、幕府はむろん英船を追い返した。
この年一六二三年三月、モルッカ諸島の南にあるアンボイナ島で重大事件が発生していた。同島にはオランダの要塞が築かれており、その中に英国商館が設置されていたが、オランダ守備隊の一日本兵の挙動不審が発端となり、オランダ側は日本人一○名、イギリス商館長などの英人を拷問にかけ、彼らが結託して要塞占拠を企んだとの自白を引き出し、英人一○名、日本人九名を斬首した。
オランダ側はこの事件を秘密に付して来たものの、事実は次第に洩れ、イギリス国内では「アンボイナの虐殺」として喧伝されて、両国間の外交問題となるに至った。イギリスはその後ジャワ島のバンタムを根拠地として勢力を保とうとしたが、結局オランダに圧倒されて、一七世紀後半にはジャワ島から撤退し、インド経営に専念することになる。
オランダ、東シナ海交易での日本船閉め出しを図る P355-356
さて、タイオワンにゼーランディア城を構えたオランダにとって、頭が痛いのが来航する日本船であった。そもそも台湾には、オランダが進出する以前から、鹿皮などを求めて日本船が来航していたが、タイオワンに生糸・絹織物を積んだ中国船が集まるようになると、日本船もまた交易を求めてタイオワンに入港し始めた。
一六ニ四年には数隻の日本船が来航したが、この年中国商人がもたらした商品は少なく、日本船は鹿皮一万八〇〇〇枚を得たものの、肝心の生糸・絹織物はごくわずかしか入手できず、半分の船荷で日本へ帰った。
日本人側にはオランダ人に交易を妨害されたと感じる向きもあった。オランダ側とすれば、タイオワンは中国物産を入手するために開港したのである。それはオランダ東インド会社が、東シナ海における活動の本態を海上での掠奪から正規の交易に転換するために必須なプロセスだった。
それなのに、横合いから日本船が現われて、中国物産を持って行ったのではかなわない。何とか日本船を閉め出さねばならなかった。
一六二五年、長崎代官末次平蔵政直の持ち船二隻が、七万ドゥカードの資金を携えてタイオワンに入港し、この度は無事中国船との交易をとげた。タイオワン初代長官ソンク(在任一六ニ四~二五)は築港費用を名目として、末次船の積荷に一〇%の輸出税を課した。
末次線側は朱印状を得ていること、日本ではオランダ船に関税を課していないことをあげてこれを拒否した。日本でオランダ船が関税を免れているという点については、オランダ側では、平戸藩主・長崎奉行・幕府の閣僚・将軍への莫大な贈物を毎年行っており、それが関税に匹敵するという見解だったが、問題は理屈の当否ではない。
要するに日本船の来港を妨げるプレッシャーとしての関税だった。ソンクは有無を言わせず、関税相当分の一五ピコ(一ピコ=一〇〇斤)の生糸を没収した。
平蔵は怒ってこの件を閣老に訴えた。一六ニ六年、京都に滞在中の家光に恒例の参府を行なったオランダ商館員クラーメルの記録によると、二条城の謁見の間に、平戸藩主松浦隆信がオランダ人の献上品を運ばせると、
P356 松平正網、永井尚政、井上正就が来て、タイオワンにおける平蔵とソンクの紛争が解決するまで、謁見は差し止められているはずだとなじった。この三人は大御所秀忠付きの年寄で、実は末次船に投資していたのだ。
松浦隆信は家光付き筆頭年寄で、当時権勢並ぶ者のなかった土井利勝の諒承を受けていることを盾にとってこの場を切り抜けた。しかし、クラーメルが離京するに当たって、通辞が挨拶に登城すると、土井利勝と酒井忠世(秀忠付き筆頭年寄)から、
「オランダ人が日本に留まりたいのなら、不平を唱える者たちが自分に訴えることがないように、朱印状を持った日本人を厚遇せよとオランダ人に告げよ」と言い渡された。オランダ人に好意的な土井も、末次平蔵と結ぶ閣僚一派を考慮に入れねばならなかったのだ。
この一六ニ六年には、またタイオワンで新たな紛争の種が播かれていた。この年入港した末次船と京都商人平野藤次郎の船は、三○万ドゥカードという巨額の資金を携えていた。これはタイオワンに輸入される中国商品の全部を購入するに足る金額だと、『一七世紀日蘭交渉史』の著者ナホッドは言う。両船は一〇〇〇ピコ以上の生糸購入の契約を中国人と結んだ。
一〇〇〇ピコといえば一〇万斤である。当時日本国内の生糸需要は三○万斤ないし四○万斤というから、この数量の大きさが知られよう。ただし当時の取り引きの習慣として、代金は前渡しで、不足分の現物は中国から届くのを待つのである。
だが、当時海賊鄭芝龍がその海峡で猛威を振るっていたので、補充の貨物が届かない。末次船の船長浜田弥兵衛はタイオワン第二代デ・ウィット(在任一六二五~二七)に二隻のジャンクを借り受け、オランダ船の護衛つきで中国に残り荷を引き取りに行きたいと申し出た。
デ・ウィットはこれを拒否、やむなく二隻の日本船はタイオワンで越年した。
冷遇されたタイオワン長官ノイツの釈明使節団 P356-359
オランダ東インド会社のバタヴィア政庁では、タイオワンでの紛争が、日本におけるオランダの地位に悪影響を及ぼすのを憂慮して、P357日本に使節を派遣することにした。
任に当たったのはタイオワン第三代長官ピーテル・ノイツ(在任一六ニ七~二九)だが、デ・ウィット後任の彼はアジアに赴任してまだふた月余りにしかならず、日本については経験も知識も皆無だった。ノイツに与えられた任務は、タイオワンでの紛争について釈明するとともに、紛争の原因をとり除くために、台湾渡航朱印状の発給をせめて数年なりと取り止めるよう請願することだった。
ところがノイツ一行が一六ニ七年八月平戸に入港した数日後、末次船の船長浜田弥兵衛が台湾原住民を率いて長崎に到着したという、驚くべき知らせが彼らの耳に届いた。
ノイツはタイオワン出発前に、東インド総督の指令に従って、留守を預かるデ・ウィットに、中国に残されている日本船購入の商品をオランダ船で取り寄せ、越年した日本船にそれを積ませて無関税で出航させるよう指示しておいたのだが、デ・ウィットはそれを実行しなかった。
昨年からじらされ続けた浜田弥兵衛は、ついに中国の残り荷に見切りをつけ、その代わり報復措置として、タイオワン近郊の集落新港(現嘉義県)から、十数人の住民を甘言をもって連れ出して帰航したのである。
弥兵衛のうしろにはむろん末次平蔵(参照1、参照2)がいる。平戸では、平蔵が原住民を将軍に拝謁させて、オランダ人から蒙った虐待を訴えさせようとしているという噂がもっぱらだった。ノイツが参府の途上京都から、平戸商館長ナイエンローデ(第五代、在任一六二三~三二)へ送った手紙によると、ノイツは平蔵の意図が、原住民の口から将軍に台湾の宗主権を奉呈させることにあると、すでに見抜いていた。
ノイツ一行は一〇月一日に江戸へ入った。幕閣との仲介は恒例によって平戸候松浦隆信が当たる。ノイツは東インド総督から将軍への親書を伝達し、将軍に謁見して前記の釈明と請願を行うことを望んだが、意外にも幕閣は、このバタヴィア総督とはそもそも何者であるかをまず究明しようとした。
バタヴィアとか総督とか聞いたこともない、自分たちはこれまで、使節も献上品もオランダから来るものとばかり思っていたというのだ。
P358 総督は国王の血族なのか、それとも臣下にすぎないのか、しつこく問い質された。ノイツらは総督はオランダ国王と同等の権威を持ち、その権威はシナ、シャム、ジャワ、ムガルらの国王・皇帝も認めるところだと釈明したが、幕閣側は総督とは結局国王の使用人ではないかという、甚だもっともな疑念を捨てなかった。
幕閣からすれば、ノイツが将軍と対等の国王の使節なら受け容れるが、国王のたんなる臣下が将軍に親書を寄せること自体が無礼で、使節の謁見も許されぬという理屈なのである。ノイツ一行は結局四〇日ばかり滞在することになるのだが、その間この資格問題は、彼らがうんざりし絶望するほど何度も蒸し返された。
折柄幕閣は権威を確立するために、国内のみならず国際的にも儀礼の制度化を急いでいた時でもあり、資格問題はゆるがせにできなかったのだが、ノイツらは無意味ないやがらせと受けとり、その背後には末次平蔵の工作があると確信していた。
ノイツは最初の質疑の時から、台湾原住民連れ出しへの不満を述べ、最高権威による裁定を要求した。台湾の主権はオランダにあり、臣下たる彼らはわれわれの同意なしに国外にへ出られないというのだ。平戸候はもちろん閣僚たちも、たんなる親善大使と思っていたノイツが、親善の御礼以外にどんな問題も持ち出してはならぬと忠告し、その旨文書にして署名を求めた。
ノイツは散々渋ったが、そうせぬと謁見は成就しないというのでついに署名した。台湾原住民どころか、朱印船の来航阻止すら陳情の余地はなくなったのだ。ノイツは日本の習慣を知らぬ上に傲慢で、そのため交渉に失敗したと、のちにバタヴィアで非難されたが、彼は独断で行動したのではなく、この署名も含めて事あるごとに、副使ムイゼル、商館員カロンなど一行の幹部と協議して決議に従っている。
ノイツらは平戸候松浦隆信は幕閣に影響力を持たぬと考えて、年寄の中で最も地位の高い土井利勝と酒井忠世に接近しようと試みた。だが両人とも愛想は示しつつも、平戸候を頼って辛抱することだと言うだけだった。
P359 そのうちやっと、将軍との謁見が許されることになったと、平戸候を通じて知らされた。しかし、何だかだと口実としか思われぬ言い訳が続いて、謁見は実現せず、しかもその間資格問題がまたもや蒸し返される。
ノイツはここは一切理屈の通らぬ地獄だと思った。交渉を打ち切って帰国したかったが、そんな非礼は許されぬと滞在を強要された。
一一月五日、商館員カロンが土井利勝宅に呼ばれ、土井本人から、ノイツがオランダ国王の使節と信じられぬから帰国せよ、それもできるなら本日中に江戸から退去せよと申し渡された。ノイツは八日に江戸を発ち、残ったムイゼルらの一行も二日後にあとを追った。
ムイゼルらがニニ日京都に着くと、平蔵が新港の住民を連れてこの地に在り、住民は天然痘にかかって二人が死亡し、残りも病床に就いていることを知った。ムイゼルは二五日大坂へ向かったが、同日早朝平蔵一行も江戸へ発ったとのことだった。
このあと新港の住民は江戸城で将軍に謁見はしたものの、一人が縁に上がることを許されただけで、残りは庭にとどまった。賜物も与えられたが、将軍の保護の下にはいりたいという、平蔵の唆しによる申し出は一顧だにされなかった。
幕閣はオランダと事を構えて、台湾を領有するつもりはまったくなかった。住民たちは全員疱瘡の跡をとどめていて、こんな見苦しい者たちを二度と連れてくるなと閣僚から平蔵に申し渡されたという噂だった。
海外進出に消極的な江戸幕府 P359-360
台湾占領は平蔵のみならず松倉重政も企てたところである。だが幕閣は海外進出の企図などまったく持たなかった。かえって、海外で紛争を起こして幕府の権威が損なわれるのを怖れていた。将軍・閣僚の関心は国内における幕府の権威の樹立に集中していた。
幕府が朝鮮と琉球との間に「日本型華夷秩序」を構築したのも、東アジアの一角に威を張ろうとしたのではなく、あくまで国内向けに幕府の「御威光」を輝かそうとする装飾にすぎなかった。P360このように海外での紛争をできるだけ回避する徳川政権の姿勢は、いわゆる「奉書船」制度の創設にもはっきりと見てとれる。
奉書船制度とは、海外渡航船に対して、従来の朱印状のほかに、長崎奉行宛の老中奉書の受領を義務づけたものであるが、奉書を受けた長崎奉行は渡航者の朱印状を預かり、代わりに渡航許可書を支給する。眼目は渡航船に朱印状を携行させぬことにあった。
この制度は一六三一年に新設されたが、そのきっかけは、一六ニ八年、シャムのアユタヤで、長崎も町年寄高木作右衛門の朱印船が、スペイン艦隊によって撃沈させられたことがあった。これは四年前にアユタヤでスペイン船がシャム側から撃沈されたことへの報復で、高木船は巻き添えを喰らったのである。
幕府はポルトガルがスペインと同君連合の関係にあることを知っていたので、マカオとの貿易を一六三○年まで断絶し、恐慌をきたしたマカオは使節を送って嘆願し、やっと貿易再開を許された。
幕府がこの件で重視したのは朱印状の権威が侵されたことである。それはとりも直さず将軍の権威の侵害にほかならない。それに対する幕府の対応が奉書船制度の開設、すなわち渡航船に朱印状を携行させぬことだったのは、実に興味深い。
なるほど携行せねば、将軍の威光が傷つけられることもない訳だ。それにしても何と平和主義的な対応であることだろう。海外での武力を行使せねばならぬ事態は絶対避けたいのだ。
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