2020年7月4日土曜日

偏愛メモ 『バテレンの世紀』第一三章 サン・フェリーペ号事件 P228-238

第一三章 サン・フェリーペ号事件 P228-238

P228 一五九二年五月、かねて揚言していた通り、秀吉は朝鮮に出兵した。イエズス会にとって、キリシタン諸侯に軍役がふりかかってきたのも心痛の種だったが、秀吉の本陣が肥前の名護屋に構えられたのが何よりの脅威だった。

バテレンが匿れ棲む大村領、有馬領は、名護屋から至近距離にある。彼らは学院を天草に移し、鳴りをひそめたが、災難は思いもかけぬ方角から襲来した。

フィリピとの貿易に関わっている長崎商人原田喜右衛門なる人物が、豊臣直領伏見の代官、長谷川宗仁を介して秀吉に、フィリピンは防護手薄なので、威嚇すれば容易に服属させられると進言し、その結果、この年の五月末、喜右衛門の手代、原田孫七郎がマニラでフィリピン総督に、秀吉の威嚇的な国書を手交したのである。

黄金の日日41


困惑した総督はひとまずドミニコ会士のファン・コーボを派遣して、秀吉の真意を探らせることにした。コーボは同年八月名護屋で秀吉と会見したが、この時ソリスというスペイン人商人が、通訳として同伴していた。

黄金の日日43


彼はマカオでポルトガル人商人と紛争を起こし財産を差し押さえられていたので、秀吉に、ポルトガル人は他国民の日本渡航を妨げ、財産も没収している愁訴した。また、今回のインド副王使節はにせ者であり、イエズス会士はキリシタン領主に庇護されて日本に留まっていると、細かく実情をあげて訴えたともいわれる。

P229 コーボもこれを支持した。

激怒した秀吉は広沢広高を長崎に派遣して教会堂を破壊し、その材木を名護屋へ運ばせた。追放令後各地の教会・修院が破却されていくなかで、信徒の心を支えであり続けた長崎の聖堂と修院がついに破壊されたのは大打撃だった。

第二次巡察を終えてヴァリニャーノは一〇月七日、日本を去ってマカオへ向かった。コエリュの後任として、イエズス会日本準管区長に指名されたペドロ・ゴメスは寺沢との友好に努め、その甲斐あって寺沢とイエズス会の関係は次第に好転した。

彼はポルトガル船が来航しないことを怖れて、ゴメスとの関係を修復したといわれる。

同様の心配は秀吉にもあった。この頃の秀吉は感情の振幅が大きく、起こるかと思えばすぐに心が和んだ。彼はお気に入りのロドリゲスに、定航船は長崎へ戻ってくるかと質問し、ロドリゲスが戻ってくるでしょうと答えると、子供のようにはしゃいだ。

彼は一時の怒りに任せて長崎で強硬措置をとったことを後悔していたのだ。翌一五九三年、ガスパル・ピント・ダ・ロシャの定航船が長崎に入ると、寺沢は定航船の司令官と一人のバテレンが殿下を訪問したがっていますと秀吉に告げた。

秀吉は即座に許可し、ロシャ一行は名護屋で彼と会見した。同行したバテレンはフランシスコ・パシオである。秀吉はパシオに「来日したのは今回が初めてか」と声をかけた。司祭と承知しながら丁重にもてなしたのだ。

パシオは来日してすでに一○年たっていたが、日本語がわからぬふりをして答えなかった。このあと長崎の教会は秀吉許可を得て、速やかに再建された。

この一五九三年に生じた悲しむべき事件は、大友吉統(秀吉にあやかって義統を改名)が両国を召し上げられ、毛利輝元に預けられたことである。これはこの年の二月小西行長が、明の大軍をを支えきれずに平壌から撤退した際、吉統が援護もせずいち早く逃走したのを咎められたのだ。

都区、下区と並んで日本イエズス会の三管区の一つに数えられて栄えた豊後教会はこれで完全に崩壊した。

ポルトガル文化の流行と諸大名の入信 P230-231
P230 だが一般の情況を見ると、追放令下にもかかわらず、社会の雰囲気はむしろキリシタンに好意的だった。まず挙げねばならぬのは、ポルトガル風ないしキリシタン風のファッションの流行である。これはヴァリニャーノ一行の入京をきっかけとして始まったらしい。

ロザリオや十字架を首に吊るすのが流行となった。そんな恰好で街を歩くだけでなく、秀吉や秀次の前にも現れる。ロザリオや十字架は高値で取り引され、やがて京都で模造品が作られるようになった。ポルトガル風の服装もよろこばれた。

名護屋は長崎に近いせいもあって、この流行の中心であったようだ。このような流行は庶民ではなく、貴人の間に行われたのである。彼らの間には、主の祈りとか天使祝詞を暗誦するものさえあった。夫人ガラシャの入信を嫌った細川忠興も、印章をローマ字で彫らせている。

信仰ではなくファッションだったことは明かだが、たとえファッションであっても、それを媒ちとして信仰はひろまるのである。秀吉自身バテレンの肉食を咎めながらも、ワインや牛肉を嗜んだ。蒲生氏郷と細川忠興は、小田原城包囲中(一五九〇年)、折から前田利家に伴って参陣していた高山右近を訪ねて旧交を温めたが、右近は二人に牛肉を振舞ったという。

ポルトガルの服装や食品が庶民間にひろまったことは、その分野で日本語化したポルトガル語が多いことでわかる。

右近は前田利家に預けられた当座は冷遇されていたが、やがて利家は秀吉に右近に対する気持ちが和らいだことを知り、高禄を与えて好遇した。秀吉は名護屋に本陣を構えたあと、思い出したように右近を召し出し、優しい言葉をかけて茶席にはべらせた。

これで右近は勘気がとけ、もちろん再び用いられることはなかったものの、一応自由の身となったのである。

諸将間でキリシタンへの関心があい変らず強かったことも注目に値する。九二年八月末、秀吉が母親の死の床を見舞うべく名護屋を留守にすると、諸将はほっとして長崎に定航船見物に出かけたが、その中には会津で一二〇万石の大封を食む蒲生氏郷がいた。

入信して七年を経ていた彼は、この時期なお信仰を堅持していて、ヴァリニャーノと会って感激を新たにし、そのうち機を見て領民をキリシタン化するつもりだと語った。また伊賀国の領主筒井定次も、この時長崎を訪れ、巡察師と会ってついに入信するに至った。

ヴァリニャーノはこの時期に大身の領主の入信を受け入れるのをためらったが、定次は自分は関白殿のことなど気にしていないと言って、あえて受洗したという。京都でもおなじ動きが見られた。所司代前田玄以の息子は九四年に入信した。

細川忠興の弟興元、信長の孫秀信(三法師)、宇喜多秀家の従兄弟信澄がそれに続いた。

弾圧を誘発したフランシスコ会の布教 P231-234
オルガンティーノによれば、追放令以来、全国の入信者は四万人にのぼったという。この時期秀吉は、バテレンとその教えが邪悪だとは思わぬ、ただ日本に合わぬだけだと言うようになっていた。P232だが、このような情況の緩和が一挙に覆される日が到来した。

来朝したフランシスコ会の、都における傍若無人の布教ぶりが、サン・フェリーペ号事件とともに、急転直下迫害を招き寄せたのだ

フィリピン総督ダスマリニャスは秀吉に対する第二次使節として、一五九三年、フランシスコ会士のペドロ・バウチスタを日本へ送った。この時三人のフランシスコ会士を伴っていたところを見れば、バウチスタは渡航を好機として、日本で宣教を開始する魂胆だったのだ。

黄金の日日44.1


そもそもフランシスコ会、ドミニコ会などフィリピンに根拠を置くスペイン系修道会は、ポルトガル系のイエズス会が日本宣教を独占するのに不満だった。スペインとポルトガルは一五八○年に共通の王フェリペ二世を戴くことになったが、両国の国民感情はそのためにかえって対立したといわれる。

フェリペはトルデシーリャス条約による世界支配の分割に従って、日本をポルトガル支配圏と認めていたし、少年使節を接見した例の教皇グレゴリオ一三世は、一五八五年に勅書を出して、イエズス会以外の修道会が日本で宣教することを禁じた。

スペイン系修道会は納得しない。日本開教の功労者のザビエル、トルレス、フェルナンデスは、みんなスペイン人ではないか。一五八八年末にシスト五世、フランシスコ会にアジア・シナの各地で修道院を開く許可を与えた。これで解釈は曖昧になった。

ヴァリニャーノはスペイン系修道会の日本渡来に絶対反対だった。醜い争いが予想されるからだ。しかし、日本イエズス会内部にも、日本の扉を広く他修道会にに開く方がよいとする意見があった。スペイン人の会士はフィリピンの同国人宣教師の渡来に同情的で、とくに準管区長のゴメスは彼らに資金援助を与えるほどだった。

バウチスタ一行は名護屋で秀吉に総督書簡を呈上したあと、交渉継続中、人質となるという奇妙な名目で、秀吉から日本居住の許可を得て都にのぼり、長谷川宗仁の邸に逗留するに至った。四人のフランシスコ会士が都に根城を構えることになったのである。

P233 そのうちバウチスタは、豊臣秀次に働きかけて土地を獲得し、翌九四年一〇月には彼らの教会堂が竣工して、公然たる布教が開始された。さらに九五年には五○床を有する病院が開設され、大坂にも会堂が設けられた。

九四年には、第三次使節の名を借りて、さらに三名のフランシスコ会士が来日した。

黄金の日日44.2


以上のなりゆきは奇怪といわざるをえない。追放令はまだ生きており、だからこそイエズス会士は、いないふりをして活動を続けたのである。バウチスタは秀吉から布教許可を得たと称していたが、そんなことがありえようはずはないし、ロドリゲスは、バウチスタが秀吉に謁見した際立ち会っていて、秀吉が布教はしてはならぬぞと言い渡すのを聞いていたのだ。

おそれいってくれればよかったからである。おそれいりもせず、堂々と都で布教するとなれば、話はまったく別である。バウチスタがこの事情を知らなかったはずがない。

彼がこのように公然と布教活動を行ったのは、逃げ匿れしているイエズス会に強い批判をもっていたからだ。フランシスコ会士は修道服を着用しており、名護屋で和服姿のロドリゲスに会ってショックを受けた。九六年に来日したマルチン・デ・ラ・アセンシオンは書いている。

イエズス会士は「着物をきてびくびくしながら歩いており、夜、鍵のかかった部屋だけで信者たちと会っている」。バウチスタはオルガンティーノに協力を求めるようにすすめられたとき、「彼は人前に姿を現わす勇気がなく、姿を隠すばかりなので、相談の相手にはならない」と答えた。

いつでも殉教の用意があった勇者オルガンティーノにしてみれば、これは誣告であるが、彼には正直そう見えたのだろう。フランシスコ会士はまた、イエズス会士が高利貸しにも罪の許しを与えていることや、信者と異教徒の結婚式を司っていることにも批判的だった。ヴァリニャーノの適応方針は彼らの理解の外にあったのである。

フランシスコ会士は公然たる活動が、いつかは秀吉の弾圧を招くことを悟らなかったのだろうか。彼らは通訳の不十分などで、秀吉の意思を理解しそこねていたのかもしれない。しかしまた、彼らは弾圧を覚悟の上だったとも考えられる。

殉教は信仰者最大の栄誉であって歓迎すべきものだからだ。ただ、おのれの満足とは別に、自分たちが誘発した弾圧によって、日本のキリスト教界がどうなるかという懸念は、彼らの念頭にはまったく存在しなかったようだ。

スペイン戦船員の不用意な発言が秀吉の疑念を抱かせたのか P234-237
一五九六年一〇月一九日、マニラからメキシコのアカプルコへ赴くはずのスペイン戦サン・フェリーペ号が、台風のために土佐国の浦戸に漂着した。悲劇の幕は切って落とされたのである。サン・フェリーペ号には価格一三〇万ペソにのぼる貨物が積まれていた。

日本側の記録にも、上々繻子五万反、唐木綿ニ六万反、生糸一六万斤等々とあって、これは大変な量である。秀吉は長曾我部元親からこのことを聞くと、積み荷を没収することに決め、現地に増田長盛を派遣した。

増田は積荷をすべて大坂へ廻漕せしめただけでなく、乗員二三三名の所持金二万五〇〇〇ペソも没収した。これだけでも災難であるのに、一二月八日に復命した増田は、秀吉に、浦戸で事情徴収した結果、スペインは宣教師を先兵として送りこんで侵略の足掛かりとすることで、今日のような広大な植民地獲得したことがわかったと告げた。

激怒した秀吉は都と大坂の宣教師をことごとく逮捕せよと命じ、改めてバテレン追放令を再公布させた。

オルガンティーノは大坂にいたが、このことを知ると、周りの制止を振り切って翌九日都へ向かった。殉教を決意したのである。だが、宣教師逮捕の命を受けた石田三成は、イエズス会に同情を持っていた。一二日、彼が秀吉にすべてのパードレを逮捕するのかと念を押すと、秀吉は自分が腹を立てているのは、都で布教してP235この国を覆そうとしている新米のバテレンどもに対してである。

長崎のパードレたちは自分の命に従っており、何も咎めることはないと述べ、オルガンティーノが心配しているだろうから、知らせて安心させてやってくれとつけ加えた。かくしてイエズス会は弾圧の対象から除外された。

1 逮捕されたのはバウチスタ以下フランシスコ会士六名、イエズス会関係三名、日本人信者一五名、計ニ四名。長崎に送られる旅の途中、両修道会がつけた世話人各一名もまた、途中で捕縛されたので、計ニ六名が翌九七年二月五日、長崎で磔刑に処せられた。

三木パウロ修道士など三名のイエズス会関係者が処刑されたのは、名簿作成上の手違いによるものだった。

サン・フェリーペ号事件は、イエズス会とフランシスコ会の間に、消えることのない不破の種を播いた。フランシスコ会側では、在京のイエズス会士あるいはポルトガル人が、スペイン人は海賊で日本の国を奪おうとしていると、秀吉に吹きこんだと主張した。

というのは、この時期、日本司教区の司教として赴任したペドロ・マルティンス(イエズス会士)が、通訳ロドリゲスを伴って、伏見城に秀吉を訪うていたからである。会見は一五九六年一一月一六日に行われた。日本に司教が置かれたのは、司祭に叙任されるのに、いちいち司教のいるマカオへ渡らねばならぬ不便さを解消するためだった。

だが、フランシスコ会の主張は、曖昧な伝聞にもとづいているばかりでなく、増田が現地へ出発したのが、マルティンスらの到着以前であることからしても根拠が薄弱である。

モルガの『フィリピン諸島誌』(一九〇九年刊)には、サン・フェリーペ号の舵手フランシスコ・デ・サンダが増田に地図を見せて、ペルーやメキシコなどがスペイン領であることを示したところ、増田がどうやって手に入れたのかと問うので、
「まず修道士たちが入り、宗教を説き、そして軍隊が彼らに続いて入り、それらの王国を服従させた」
と、軽率な発言をしたことが、事件の原因になったのだと記されている。モルガは事件当時フィリピンで法官を務めていたスペイン人である。

フランシスコ会士ファン・ポブレの証言では、船長フランシスコ・デ・オランディア(モルガのいうサンダと同一人物であるのは疑いを容れない)は、「スペイン人はなぜ航海に司祭を伴なうのか」という増田の質問に、「スペイン人が上陸した土地の人びとをキリシタンにしたいと思えば、司祭の力で望みを遂げることができるからだ」と答えたことになっていて、モルガの記すほど露骨な発言をしたのではなさそうだ。

だが、これが誤解を招き易い発言であるからこそ、ポブレは「それ以来船長はずっと非難されどうしである」と付言したのである。

さらに、同船の舵手ファン・ロウレンソ・デ・シルバは、「スペイン人はどうやってこれらの領土を手に入れたのか」という増田の質問に、身元不明のあるスペイン人が、「植民地を征服する手始めとして、まず宣教師を派遣するのだ」と答えたと証言している。

併せ考えると、スペイン人の強大さを示そうとして、増田の疑惑を招く何らかの発言が、サン・フェリーペ号のスペイン人によってなされたことは確実であるようだ。もちろん、布教が侵略の先兵だというのは、事実認識として正しくない

ペルーであれメキシコであれフィリピンであれ、軍事的侵攻のあとに宣教が続いたのである。だが、軍事的征服と宣教つまり精神的征服が一体不可分の関係にあったことは歴々たる事実で、サン・フェリーペ号のスペイン人はその事実にもとづいて、その意図が何であるにせよ、何らかの発言を行ったのである。

秀吉は増田の誇張された報告のせいで、ありもせぬ侵略の危険性を誤信したのであろうか。そうでないことは、処刑されたフランシスコ会士の一人マルチン・デ・ラ・アセンシオンが書いた手紙によって明らかだ。

彼はイエズス会士がス国王フェリペに忠節を尽くしていないことを批判して、次のように書いているのだ。
「長崎だけでも神父たちが所有している村々から三万人の信頼するに足るキリシタンを集め、マスケット銃で武装させればいいのです。彼らは神父たちの命令に叛くようなことは決してしませんから、スペイン人と同様信頼することができます。これらのスペイン人とキリシタンは、神の助けとスペインの工業力と軍事力によって日本全国を制圧するに違いありません」。
彼は秀吉に替えて、小西行長を全国の統治者にすることを夢見ていたのだった。

P237 宣教師の立場からすれば、秀吉の行為は暴君の気まぐれということになるけれども、一五九七年八月、事件に抗議するためにマニラから派遣されたサバレテ・ファルドに対する秀吉の返答には、スペイン側には反論しにくいロジックが含まれていた。

いわく
「彼らは約束を破って法を説き、国内の秩序を紊したるが故に、誅したまでのことである。もし貴国において日本人が、貴国の法に背き神道を説くものがあったならば、帰国はいかにこれを処置せんとするや」。
伴天連追放令の再公布と秀吉の死 P237-238
イエズス会は直接の弾圧は免れたものの、秀吉がバテレン追放令を再公布したため、対応を促された。マルティンス司教はこれ以上秀吉を刺激しないために日本を去ることになり、バウチスタらニ六名が処刑された翌月、マカオへ定航船で出航した。

この人は非常な癇癪もちで、ヴァリニャーノとも折り合いが悪く、かねてイエズス会内での処遇に不満を抱き、来日する折も日本が気に入らなければ、あるいは日本の教会が自分に服従しなければ、すぐインドへ帰ると公言していたし、日本イエズス会にも関心がなかった。

ところが長崎で日本人信者かの大歓迎を受けると、ころっと気持ちが変わった。この度の離日に当たっも、再び日本へ帰ってくると誓い、司教服を置いて行ったほどである。しかしこのあと、インドへ向かう途中病死し、再び日本の土を踏むことはなかった。

イエズス会は翌九八年三月、退去令に従う「ほんのお印に」一一名の会士をマカオへ送った。しかし、にほんにはまだ一一四名の会士が残っており、そのうち四三名が司祭だった。

この年の九月一八日、秀吉は伏見城で死んだ。死の直前にロドリゲスが合っている。「純絹の蒲団に横臥し、人間とは思えにばかりに全身痩せ衰えていた」彼は、ロドリゲスに近寄るように命じ、「予は貴師に接して少なからず心がなごむ。

P258余命幾ばくもなく、ふたたびまみえることもあるまい」と語り、ロドリゲスのこれまでの労苦をねぎらって様々な褒賞を与えたばかりでなく、まだ六歳の秀頼に引き合わせた。

だが、ロドリゲスが魂の救済について語ろうとすると、即座に話題を変えた。秀吉の死は宣教師たちにとって大いなる朗報だった。しかし、彼らはほっと安堵するとともに、何ものかを喪ったような感慨を禁じえなかったようだ。

フロイスは彼が日本に平和をもたらしたことを強調し、パシオは「先見の明があり聡明でもあった」と称えた。「日本王国記」の著者で長崎に住む俗人のスペイン人アビラ・ヒロンは言う。
「彼はわれわれのいわば父だったから、皆心から悲しんだ。パードレたちを迫害したのを除けば、彼はわれわれに何の害も加えず、それどころかかばってくれた」。
1)黄金の日日45 慶長伏見大地震 (18分30秒過ぎ)サン・フェリーペ号事件・日本二十六聖人~マニラの出来事
2)真田丸30 慶長伏見大地震 (4分30秒過ぎ)サン・フェリーペ号事件・日本二十六聖人 明との講和決裂~慶長の役
黄金の日日45          真田丸30


 →「二十六聖人殉教の背景について」参照
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