第二三章 タイオワン事件の顛末 P361-376
タイオワンに帰還したノイツはむろん怒りと怨恨にみちていた。翌一六ニ八年五月、末次平蔵(参照1、参照2)の船二隻が入港するに及び、彼の対応が意趣返しの念に満ちていたとしても不思議ではない。もっとも彼は事前に第五代平戸商館長ナイエンローデから、平蔵船が十分に武装しているのを警告されていた。ノイツはまず日本人の上陸を禁止し、交渉に来た船長浜田弥兵衛を抑留、日本船を点検して武器を取りあげたのみならず、この船で帰航した新港住民を投獄し、将軍からの下賜品も没収した。日本船は交易のために中国船と接触することを禁じられた上、中国に残っている例の生糸を取りに行きたいと願っても拒まれ、それなら帰国したいと主張しても出航を禁じられた。
しかもノイツは弥兵衛らと交渉する際、床に座っている日本人に対してひとり椅子に座り、しばしば足を組んでひじ掛けの上にあげることが多く、弥兵衛らは頭上で足を振り回されるのを、忍びがたい侮辱と感じた。
弥兵衛の人質になったノイツ P361-363
六月二九日、長期の抑留に我慢の切れた弥兵衛は十数名の部下を率いて、ノイツの私室を訪問、重ねて出航のの許可を求めた。P362ノイツが拒否すると、彼は突然跳びかかってノイツのあご髭をつかみ、短刀をのどに擬した。
ノイツはたちまち通訳のフランソワ・カロンとともに縛りあげられた。ノイツ邸に居合せた商館員ムイゼルらは窓や戸口から危く脱出し、日本人とオランダ兵の衝突が起こって、双方数人の死者が出た。ムイゼルは堡塁に兵を集め、日本人側に対して射撃を開始させた。
ヴェランダに登ってノイツの部屋をのぞきこむと、ノイツは「射撃をやめさせろ、じゃないと殺される」と絶叫する。ムイゼルは仕方なくその指示に従った。
やがてノイツ邸に集まって来た日本人は一五〇人に達し、原住民や中国人の力を借りて要塞を攻撃するという噂が立った。ムイゼルは評議会を招集し、長官の引き渡しを日本人に要求し、万一長官及び同時に捕らえられた長官の子息ラウレンスに危害が加えたなら、日本人を一人も生きて返さないと通告することに決った。
しかし、ノイツの許に派遣された使いは、「今のところ敵意を示さず明朝まで待て、必ずよい協定がむすばれるだろう」というノイツの返事をもたらした。あくる日三〇日になると、さらにノイツから評議会宛に手紙が届いた。
互いに人質を交換して、日本人の帰航を保証した上で、長官を釈放するというのである。
七月一日、日本側は中国に残した生糸二〇〇ピコを要求、さらに投獄された新港住民の釈放と下賜品の返還を求めた。評議会は彼らの意図を疑い、日本人全員を射殺して長官を救出する作戦を練り始めたが、それを知ってあわてたノイツは、早まったことをしてくれるなと懇願してきた。
二日になると、ノイツから日本人の要求書(カロンによる訳文)が届けられた。それによると、オランダ人人質五名を日本船に乗せ、同数の日本人人質をオランダ船に乗せて日本へ出航する。日本に着けば人質は解放されるとあり、また前日になされた生糸と新港住民についての要求も明記されていた。
この要求書は翌三日の評議会で承認された。オランダ側の最も同意しがたいのは、例の二〇〇ピコの生糸の引き渡しだったが、日本側はさらに以前初代長官ソンクにより徴収された一五ピコの関税まで返還を要求していた。
しかし平戸商館が東インド会社の第一級の商館であることを思えば、日本貿易を失うよりも、ここは忍耐のしどころだと、評議会は決断を下した。七月四日、協定が正式の双方の間で結ばれた。紛争発生後、六日目だった。約束の生糸は現物と、不足分は貨幣、それも二割の利子付きで支払われた。
日本人有利の人質交換協定 P363-365
七月一一日、日本人人質を乗せたオランダ船エラスムス号と、オランダ人人質を乗せた日本船三隻(当初来航した二隻と、オランダ側が貸与したジャンク船)が出港した。オランダ人人質はムイゼル、ハーヘ、ハルトマン、ムールクール、それにノイツの子息ラウレンス。
日本人人質は末次平蔵の甥、弥兵衛の子息など同じく五人。ノイツ本人は釈放されてタイオワンに残った。
この人質交換協定は、のちにオランダ側で問題になったように、一方的に日本に有利だった。日本人側がオランダ人の人質を取ったのは、むろんノイツを釈放したあと、自分たちが安全に出港するためである。もし人質を取らねば、ノイツを釈放した途端、皆殺しになりかねない。その代り日本側も人質を出したというものの、これは日本に着けば自由の身だから、形だけの人質である。
一方、オランダ人は日本に着けば釈放すると約束はされたが、それが実行される保証はない。そこはオランダ側も考えていて、日本人人質を乗せたエラスムス号を途中離脱させて、平戸へ行かせるつもりだった。
オランダ人が釈放されるまで、平戸商館に日本人人質を抑留するつもりだったのだ。しかしエラスムス号は遂に離脱できず、日本船ともども七月二五日、長崎に入港した。結局、日本に着いたら釈放するという約束は反故にされ、ムイゼルら人質五人、それにエラスムス号の乗組員四○名余は長崎で厳重に監禁される羽目に陥ったのである。
ムイゼル以下、オランダの囚われびとたちは長崎代官末次平蔵のもとで、厳しい監禁生活を送ることになった。P364長崎奉行水野守信はこの件に関与せず、一切平蔵に任せきりである。平蔵はタイオワンのオランダ人が朱印状の権威を犯して日本人を抑留したこと、新港住民を投獄し、将軍の下賜品を取りあげたことを避難し、弁明があれば江戸の閣老に取り次ぐという。
自分たちは弥兵衛らの帰船の安全のためにやって来ただけで、そんなことを議論する任務は受けていないと言っても、一切無効である。長崎の町にはキリシタン迫害の嵐が吹き荒れていた。
監禁されて六日目、八月一日の日記にムイゼルは、信者は四日までに棄教を申し出よ、以降捕えられれた者はすべて火あぶりに処すという布告が出され、信者たちは「家・財産等すべてを捨てて逃げ、町には人影もなくなり、非常な荒廃を呈している」と記している。
ムイゼルらの宿舎は厳しい監視下にあったが、彼は番人を買収し、やっと平戸のナイエンローでと連絡がついた。彼の手紙では平戸商館も人の出入りが禁止され、一切の取り引きは停止、、入港したオランダ船も積み荷もおろせず抑留されているという。
やりとりが重ねられるうちに、ナイエンローではタイオワンでのノイツの対応を避難し、ムイゼルの援助要請にも一向応えず、ムイゼルはこれではかえって気が滅入るだけと、やがて交信を打ち切ってしまった。
実はナイエンローではこの頃精神も身体も病んでいたのである。松浦隆信とその家臣たちの、借金を含む様ざまな要求にうまく対応できず、彼らと深刻な不和に陥っていた。それに加えて彼自身、狭量で猜疑心の強い性格だった。
平蔵はタイオワンのゼーランディア城を日本に譲渡せよ、そうすればオランダ人にも平戸におけるのと同様、タイオワンでの自由な通商を許そうと条件をつり上げた。これは幕府の意向でもあるという。
ムイゼルはタイオワンはオランダの主権のもとにあり、そんな不法な要求を飲む権限も意志も自分にはないと抵抗した。九月八日には、二人の日本人宣教師を含む一二人のキリシタンが焼き殺された。その三日後には、エラスムス号の乗員の半数が大村へ送られ、次いで残り半分は島原に預けられた。
一〇月ニ一日になると、ムイゼル以下五人の人質と通訳カロンも大村送りとなった。P365平蔵が事件処理のために江戸へ上るから、いまの宿舎では不用心だというのである。ムイゼルは釈放の見こみもなく、結局は首をはねられる運命かも知れず鬱々たるものがあった。しかしプロテスタントとはいえ、さすがにキリスト教徒である。一切を神意にゆだねる覚悟はすでにあった。
不発だったヤンセン特使の日本巡遣 P365-366
タイオワン事件に対して、バタヴィアの東インド総督クーンが対策を講じたのは翌一六ニ九年になってからである。彼は対応のまずさを批判されたノイツのタイオワン長官職を剥奪し、代わりにプットマンを宛て、ついで事件の解決のため、バタヴィアからウィレム・ヤンセンを特使として日本へ派遣した。
ヤンセンは九月四日に平戸へ到着したが、平戸候の口添えにもかかわらず江戸行きを禁じられ、事態を打開する糸口さえつかめなかった。しかし、翌一六三○年二月になって平蔵側が動いた。
平蔵はタイオワンを日本の領有とすべく閣老たちに働きかけ、そのために莫大な贈賄を行なったといわれる。その結果、日本側の要求書をヤンセンに持たせて、バタヴィアに送り返すという方針が閣議で決まった。ヤンセンとムイゼルは長崎に呼び出され、平蔵の代理人からその旨を言い渡された。
彼らはタイオワンの主権放棄を求める文書、平蔵と平戸候のバタヴィア総督宛の手紙を伝達することに抵抗したが、閣老の命令とある以上従わざるをえなかった。ヤンセン、通訳カロン、それに人質の一人ハーヘを乗せたオランダ船は一六三○年三月一三日、平戸を出港した。
だが、この時彼らが携行した平蔵と平戸候の総督宛の手紙には、タイオワンは日本領だという主張は一行も書かれていなかった。両者とも、ゼーランディア城を破壊すること、すなわちオランダ人がタイオワンを立ち去ることのみ求めており、そのあとはオランダ船も日本船も自由に同地に来航して中国交易を行うものとしている。
P366 そもそも日本側の不満は、タイオワンで中国船から生糸などを購入しようとしても、ことごとくオランダ側から妨害され、中国船との直接取り引きが出来ぬことにあった。オランダ人が退去すれば、それが自由にできることになる。
平蔵はかねがねムイゼルに、兵を送ってタイオワンを占領するのは易々たるものだと豪語していた。だが閣老は平蔵のタイオワン占領策に、けっして同意を与えなかった。
ヤンセンたちがバタヴィアへ発つ直前、ナイエンローデは閣老の最有力者土井利勝が、タイオワンは自分のものだという平蔵の言に、不快感を示したと伝えている。
海外紛争を極力避けようとする将軍・閣僚の意向からして、これは当然のことである。ただ彼らはノイツによって、将軍の権威が侵されたことを重視していた。ゼーランディア城を取り壊せくらいの脅しは、かけておりて損はないと踏んだものか。
ヤンセンらがバタヴィアに着いたとき、ジャワ島植民地経営に大功のあったクーンはすでに死亡し、総督はスペックスに替わった。
初代・三代の平戸商館長を務めた日本通である。彼はヤンセンを再び日本へ送り出す際に、周到な指示を与えた。また閣老宛の返書においても、主張すべき点は断乎と主張しながら、
文末で「すべての機会に日本皇帝自身の封臣として全力を尽くして奉仕する」ことを誓った。
ヤンセンには、日本貿易の停止で蒙った損害をとり戻すためなら、「日本人は偉大で、オランダ人は卑小だ」とさせておけ、しかし、どうにも忍耐できぬ事態になれば平戸から撤退せよ、ただしその際にも、将来再び開く道はあけておくようにと指示した。
ヤンセンの日本再訪と末次平蔵の死 P366-369
ヤンセンは一六三○年一〇月、再び日本の地を踏んだ。ただちに江戸行きを許可されたが、大坂に六二日間とどめ置かれ、P367江戸へはいれたのは翌一六三一年三月になってからだった。ヤンセンが日本を留守にしていた間、彼らにとって重大な事件が起こっていた。
末次平蔵政直が一六三○年七月五日に死んだのである。この天敵ともいうべき人物の死について、オランダ側は天罰によって狂い死にしたと記録している。あるいは、不利な証拠を握られた幕閣の有力者によって暗殺されたとも書いている。
いずれにせよ、オランダ人を窮地に陥れてきた張本人はもういない。厚い雲に割れ目ができて、青空が見え始めた。
ヤンセンが江戸に来てみると、雰囲気はがらりと変わっていて、ゼーランディア城を破壊せよなどと言う者は誰もいなかった。閣老たちは平蔵から賄いされただけでなく、彼の船に投資して利を得ていたから、彼の主張に引きずられた形だったが、平蔵亡きいま、かつての彼との関わりを揉み消そうとしているようだった。
五月五日、ヤンセンは平戸候松浦隆信に招かれ、彼との間に固い信頼関係を築いた。隆信は事件はすでに片づいたも同然で、駿河大納言忠長(家光の弟)の乱心の一件があって、幕閣はオランダ人の処置どころではなく、回答がとどっこおっているだけだから、安心してよろしいと保証した。
ヤンセンはこのころ健康を害していて、この日もやっと出かけることができた程だったが、隆信のいたわりには真情がこもっていた。彼はヤンセンの人物がよほど気に入ったらしく、「二、三年は日本にとどめ置きたいと思うがどうか」と尋ねた。
隆信は「ナイエンローデは江戸を去るそうだが」とも訊いているので、つまりは、できればヤンセンに商館長を継いでほしかったのである。ちなみにヤンセンの病はその後も長引き、翌年四月熱海に湯治に出かけて、やっと快方に向かった。
五月二一日、ヤンセンは嶋田利正宅で開かれた閣老会議でに呼ばれた。彼の日記によれば、出席した閣老は当時の実力者土井利勝、酒井忠世、酒井忠勝を含む一一名で、他に平戸候隆信、長崎奉行竹中采女正もいた。
このころはまだ老中・若年寄の区別はできていない。嶋田は江戸南町奉行だが年寄、すなわちヤンセンのいう「閣老」の一人で、P368オランダ人の強力な支持者だった。土井は、ヤンセンが「既往を許して、抑留者を釈放してほしい」と求めると、「オランダ人を脅して驚かせてやろうとしたのだ」と答えた。
「脅しはすでにすんだ」という口調がうかがえる。松浦隆信は「オランダ人は将軍を尊敬する点では間違いを犯しておらず、タイオワンで起こったのは平蔵とノイツの個人的な争いだ」と弁護し、嶋田も「彼らを釈放すべきだ」と繰返して主張した。
しかしヤンセンによると、土井は「そこまでの決心はつかない様に見えた」。結局、「平蔵の息子が追っつけ江戸へ来るので、彼の話を聞いてから結論を出そう」という、土井の発言でこの日はお開きになった。爾後の経過をみれば明らかなように、問題解決の筋道はこの日つけられたのである。
二代目末次平蔵茂貞(二代目平蔵の名は従来茂房とされて来たが、二〇〇一刊の永積洋子『朱印船』茂貞と訂正された。茂房は三代目)は七月になって土井利勝に呼ばれ、タイオワン事件について問い糺された。
茂貞は父とオランダ人との争いについて自分はまったく知らない、従ってこの件について要求することはないと答えた。これでオランダ人釈放の障害は事実上すべて取り払われた。
八月にはバタヴィアから、自由市民の船ペルール号が平戸に着いた。総督スペックスは東インド会社に属さぬ船なら、日本側も受け入れるだろうと考えたのである。この策は当たった。大御所秀忠は病が篤かったので、土井利勝は将軍家光に相談した。
家光はこの船が会社に関係がないことをすぐ理解し、「この件を父に話す必要はない。取り引きさせ出航させよ」と命じた。これは朗報だった。だがオランダ人釈放の件は、最終的に秀忠の承認が必要なのに、それがなかなかおりない。
一二月になって平戸候から聞いたところでは、秀忠の病気のため滞っているのだが、ひとつには、以前平蔵にひきずられてオランダに厳しい対応をした閣老たちが、いまさら秀忠に寛大な処置を上申するのは、秀忠の心証を害しかねないとためらっているというのだという。
年が明けて一六三二年三月一四日、ヤンセンは秀忠が死んだという報を得た。だが、オランダ人の一件は将軍家光親政のもとでも、P369それ以上進展しなかった。土井は秀忠付き筆頭年寄として権勢を振るったが、家光からそれほど寵を得ておらず、かなり遠慮があって、一件を話し出せずにいるのだと、ヤンセンは平戸候から聞いた。
土井、酒井忠世と並ぶ実力者の酒井忠勝は、五月五日にカロンが陳情に行くと、「貴下たちはスペイン人か」と尋ね、ヤンセン一行が去年三月から江戸にいると聞いて驚き、自分は忘れてしまったので、もう一度事件について説明してくれと頼む始末だった。
すなわち一件は土井の手中にあったのである。一方家光はのちにヤンセンの聞いたところでは、この一件についてよく承知していたが、閣老たちが彼らをどう扱うか見てやろうという気持ちで、口出ししなかったのだという。
家光はこの頃健康を害し、一時は危篤とさえ伝えられた。飲酒など不摂生がたたったのだ。一軒の処理が遅れたのは彼の病臥のせいもあった。
決め手になったノイツの日本送致 P369-370
事態は九月にはいって急展開した。一切の地位を剥奪されたノイツがバタヴィアから、自由市民船ワールモント号によって平戸へ送られって来たのである。実は「ノイツを差し出すわけにはいかぬか」という話は、勘定方年寄伊丹康勝や竹中采女正からヤンセンに持ちかけられていた。
だが総督スペックスはそんなことは知らず、事件解決の決め手として、自分の決断でノイツを日本に差し出したのだ。まことに見事な読み筋であった。
一〇月二日の閣老会議で、ノイツの到着を知った土井は「これはよい、よいけっていがくだされるだろう」と言った。しかしその時、土井の表情は悪魔のように苦々しかったとヤンセンは記録している。
一一月二日ヤンセンは閣老会議に呼ばれ、将軍がノイツの送致をオランダ人の「家臣としての誠意」の表われと認め、抑留されているオランダ人とオランダ船が日本から出発することを許すという命令を下したと告げられた。二〇〇余人のオランダ人は釈放され、四隻の船も抑留もとかれ、平戸商館は機能を回復した。
P370 使命を果たしたヤンセンは翌一六三三年一月、日本を去った。心身ともに正常でなかったナイエンローデはその月のうちに平戸で死んだ。また抑留者中死亡した者も少なからず、ほんの子どもだったというラウレンス・ノイツは一六三○年に、ムイゼルは一六三二年に死んだ。
永積洋子はヤンセンの成功の理由として、平戸候を信頼してよい関係を保ったことと、将軍の家臣として奉公の姿勢を示したことの二点を挙げている。ノイツが来日時失敗したのは、他の大官に頼ろうとして平戸候の怒りを買ったせいもあった。
奉公の姿勢については、ポルトガル人が締め出されて日本貿易を独占できる見通しを前にしては、それくらいの屈辱は忍に値しただろうと永積言う。まさにその通りであろう。
ノイツは平戸の民衆に監禁されたが、商館員の出入りは自由で、本人は家具や衣服を商館の勘定で買い放題、ついに商館側は贅沢禁止を彼に申し渡さねばならなかった。息子ラウレンスを死なせたというのに、向こう意気は衰えなかったのだ。
新商館長クーケバッケルが直面した課題 P370-373
ナイエンローデの死のあと、サンテンが一時代わりを務めたが(第六代、一六三三年の短期間)九月、ニコラス・クーケバッケルが新商館長として着任した。(第七代、一六三三~三八)まるまる四年以上停止していた対日貿易が再開されたというものの、平戸商館はまだ難しい問題をいくつも抱えていた。
クーケバッケルは日本通のカロンとともに困難と取り組むことになる。まず平戸候隆信との関係があった。抑留解除の功績を自負する隆信はその見返りを求めて、借金その他の要求を加重し、クーケバッケルはその対応に苦しんだ。
さらに「パンカド」適用とオランダ船出帆時期という、オランダ側が最も不満とするふたつの問題の解決に腐心せねばならなかった。
P371 「パンカド」とはポルトガル船に適用されて来た輸入生糸の一括購入制で、価格もその際きめられる。当初オランダ船のもたらす生糸はその適用を免れていた。というのは二○年代の前半は数千斤にすぎず、タイオワンで中国生糸入手の筋道のついた後半でも三万斤程度で、ポルトガル船が例年もたらす一〇万ないし二五万斤に対して、問題にならぬ量だったからである。
ところが貿易再開後、オランダ船の舶載する生糸は急増し、一六三四年は六万四五三○斤、三五年は倍増して一三万二〇三九斤にのぼった。オランダ船舶載の生糸にもパンカドが適用されることになったのは一六三四年からである。
オランダ側は安値で生糸を一括して買上げられてしまうのに大不満だった。彼らは初代館長スペックスが家康から、日本国中どこでも取り引してよろしいという特許状を得ていたから、不満はなおさらである。
クーケバッケルは任期中、上府するたびにパンカド免除を出願したが、それが容れられることはなかった。それでも、『一七世紀日蘭交渉史』の著者ナホッドによると、一六三五年パンカドの下でもなお、商館はトータルの交易で一〇〇%の純益を計上していたのだ。
オランダの生糸輸入はその後連年一〇万斤台を維持し、一六四○年にはニ二万九〇〇〇斤余という、幕末に至る商館史上最高額を達成する。日本の年間生糸需要は当時、二〇万ないし四○万斤といわれるから、それをほぼ一手に引き受けうる供給能力である。
「オランダ船はポルトガル船が出帆してから二〇日後に出帆すべし」と、幕府から令達されたのは一六三三年である。オランダ側はこれにも不満で、何とか撤回してもらおうと努めた。なぜなら帰帆期の二〇日の遅れは航海の困難につながり、場合によってはバタヴィアまで行き着けず、タイオワンで越年せねばならなかったからだ。
一六三四年一一月、クーケバッケルはこの件について、二代目末次平蔵茂貞の助言を受けた。茂貞は父とうって変わって、オランダ人に好意的だった。非常に商才のある実力者で、落ち目のポルトガル人に替わるオランダ人の将来性をちゃんと見抜いていたのだ。
茂貞はオランダ人がマカオから来たガレオタ船を捕獲しないという誓約書を提出すれば、P372出帆時日の制限は解除されるだろうと言う。だがクーケバッケルは「それはできない」と断わった。翌日彼が長崎奉行を訪ねると、平蔵もそこにいて、おなじことをまた二人から勧められた。
ガレオタ船がマカオへ運ぶのは大部分が日本人の資本であり、オランダ人がそれを捕獲すれば日本人が非常な困難に陥り、それは結局、最後の一ペニングまでオランダ人が弁償させられるだろう、だから襲わぬと誓約せよというのだ。
クーケバッケルはそれは自分の権限外のことだし、また仮に誓ったとしても、オランダとポルトガルは交戦中であるから、ほかのオランダ船がガレオタ船と出会って捕獲することがありうると答えた。
日本人の外国船への投資には二つの形態があった。ひとつは「委託貿易」で、領主などの委託を受けて銀を預かり、マカオで生糸など指定の品を買付て来るもので、これはイエズス会がキリシタン領主の委託を受けたことに始まり、この頃は幕府の大官もこの形でポルトガル船に投資し、オランダ商館長も大官も銀を預かるよう、平戸候から勧められていた。
一六三五年、幕府は日本人の海外渡航と海外在住者の帰国を禁止した。その主たる目的は宣教師の潜入を防止することにあったが、従来の朱印船貿易家はそのためポルトガル船による委託貿易に向かった。
二代目平蔵はその代表的な例で、渡航禁止以前の一六三三年にも一万テール(両)、翌三四年には五千テールをポルトガル船に託送して生糸を購入している。
外国船への投資のもうひとつはの形は「レスポンデンシア」と呼ばれる高利の金銭貸借で、これは委託貿易とは違って金の運用は指定せず、マカオへ帰るポルトガル商人に貸与し、再来航時に元利を償還させる。船が海難にあった時は貸借関係は消滅するので、金利は二割五分から四割に及ぶ。
話はさかのぼるが、一六ニ六年長崎奉行は禁教の一策として、棄教しようとしない市民の海外投資を没収しようとしたことがあり、当時その対象は二三万クルザードにのぼった。むろんそのうちには日本船への投資も含まれてはいたが、大部分はポルトガル船への投資だったろうという。
平蔵と長崎奉行がクーケバッケルに、P373マカオ船を捕獲せぬよう忠告したのには、これだけの根拠があった。一六三五年、マカオ商人の対日負債は六○万クルザードに達していた。オランダ側は自由出航を何度となく繰り返し請願したが、一六三九年ポルトガル人が最終的に追放されるまで、聞き届けられることはなかった。
幕閣のポルトガル憎悪 P373-374
閣老や長崎奉行など幕府の大官は、必ずしもオランダびいきではなかったが、ポルトガル船への敵意という点ではオランダ人と一致するものがあった。彼らのポルトガル憎悪はひとえに、厳重な禁令にもかかわらず、執拗に宣教師を送りこんで来る点にあった。
実はスペイン・ポルトガル同君連合の側では、この点では自粛につとめ、マニラ政庁は宣教師の渡日を禁止していたのだったが、何しろ各修道会は日本で殉教するのを最高の名誉と心得ていたから、一片の法令で宣教師の渡日を禁じても効き目はなかった。
幕府の役人たちはキリシタンが憎くて焼き殺したのではない。棄教させることこそ眼目で、そのために拷問し、それでも駄目なら焚殺した。殺されても捨てぬ狂信を吹きこんだのは誰か。憎悪はひたすら元凶たる宣教師へ向かった。
一六三七年九月、琉球でつかまった四人のドミニコ会士が長崎に連行されて来た。ちょうど長崎にいたカロンによれば、奉行に訊問された彼らは「禁令を十分承知した上でやって来た、皇帝の意志より神の意志が上である、迫害が激しいほど、われわれの宣教の意欲hは燃え上がるのだ」等々と答え、立腹した奉行は絶句したという。
クーケバッケルは同様な話を、一六三七年一〇月のこととして伝えている。伊予に漂着したイタリア人宣教師は訊問に答えて、自分は万の身体を持ちたい、ひとつの身体を殺されても、残った生命で日本全国をキリスト教にせずにはおかぬと述べ、これまた役人は激怒のあまり絶句した。
宣教師たちの使命感は幕吏には理解を超えた執念、邪念とさえ感じられたのであろう。平戸候は一六三五年にクーケバッケルに対して、「皇帝や閣老はポルトガル人を憎んでいる、P374なぜなら宣教師を連れてくるのをやめないので、多数の罪のない人の血が流されるからだ」と語っている。
宣教師のために要らざる血を流さねばならぬという観念は、幕府大官の口からもしばしば聞かれることになる。一六三九年、当時キリシタン取締りの責任者となっていた旗本の井上政重は同年オランダ商館長となったカロンに対して、「多年の間彼等のために、罪もなしに死んだ多数の日本人と、同数のポルトガル人を十字架にかけてやりたい」と激語した。
「罪もなしに死んだ」といっても、殺したのは井上ら為政者なのだが、彼らとしては、キリスト教を信じるほかに何の犯罪も犯していない人びとを、殺さねばならなかったのは本意ではなく、その本意でもないことをやむなくさせたのは、あくまでスペイン・ポルトガルの強引な宣教活動のせいだと言いたいのだ。
マカオ・マニラ占領をオランダに促がす空気 P374-376
彼らが宣教師を送りこむ基地となっているマカオとマニラを、オランダ人が奪取することを望んだのに不思議はない。すでに一六三五年四月、クーケバッケルは松浦隆信や長崎奉行神尾元勝から、「オランダのマカオ占領計画はどの程度進行してるのか、マカオを奪取したのちオランダ人はカントンから生糸を順調に調達しうるのか」と尋ねられていた。
幕府年寄の一人牧野信成は平戸候宅でカロンに「この計画には土井利勝も期待をかけ、そうなればどんなによいことかと言っている」と告げた。しかし将軍家光は、牧野によればなお慎重とのことだった。家光はオランダ人がポルトガル人に替わるような生糸供給能力を持っているかどうか、疑っているというのだ。
八月一日の平戸候からの通信によると、家光は年寄りたちに「オランダ人にマカオの攻撃を許して、それが失敗した場合、私は自ら兵を出して彼らを援けねばならなくなる。そんな窮地に立ちたくない」と言い渡した。P375つまり彼は幕府がオランダ人のマカオ占領を認可し、あと押しすることをはっきり拒んだのである。
幕吏の一部には、マカオどころかマニラ占領を、オランダ人に促がす空気もあった。商館員カロンが一六三七年九月、長崎で奉行に会ったとき、奉行は「オランダ人はなぜマニラを取らないのか。また、なぜ台湾島の基隆を取らないのか」となじった。
台湾北部にある基隆にはオランダに抵抗して、スペイン人が砦を構えていた。長崎奉行とオランダ人の関係は、パンカド適用などをめぐって円滑でなかったから、この詰問にはいやがらせの気味がいくらかあったかも知れない。
それにしても、潜入する宣教師の基地であるマニラをオランダ人が占拠してくれれば、もっけの幸いという訳だった。
オランダ人はむろん、ライヴァルのポルトガル人を蹴落とそうと終始策動した。だが日本側は、それに易々と乗せられていたのではない。一六三二年、イエズス会日本管区長代理の任にあったセバスティアン・ヴィエイラは、他の一○名の宣教師とともに、マニラから中国船に乗じて日本へ潜入したが、三三年大坂の手前の船中で逮捕され、三四年江戸で処刑された。
以前長崎で修道女と醜聞を取り沙汰されたこの六三歳の神父は、穴吊りにされてなお転ばず、遂に生きながら焼かれたのである。ヴィエイラの殉教を知ったマカオでは、一二日間祝祭がくりひろげられた。
この有様をゴアのインド副王へ報じたマカオ総督の書簡が、オランダ船によって捕獲されたポルトガル船中で発見され、バタヴィア総督ブローワー(一六一二年一〇月駿府で家康に謁し、一六一三年から一四年まで平戸の商館長を務めたあのブローワーである)
はこの書簡をポルトガル追い落としの材料とすべく、平戸商館に送った。
書簡は一六三六年九月、商館長クーケバッケルから平戸候に披露された。意見した松浦隆信は事もなげに言い捨てた。彼らが刑死者を賛美して祝うことはとっくに承知している。その遺骨が聖物として崇敬されるのもよく知っている。
「この文書は決して新しい報告ではないし、これによってポルトガルが今まで以上に憎まれるようには出来ない」。将軍はこのことをよくご存知なので、今更のように言上しても、オランダ人のためにはならぬだろう。「憎っくき奴め」と逆上すると思ったら、この冷静さである。ブローワーの思惑ははずれた。
日光の銅製大灯架とノイツ釈放 P376
一六三六年、ノイツの幽閉は五年目にはいっている。オランダ側は事あるごとにノイツの釈放を願い出たが、色よい返事はない。ただ閣老酒井忠勝は、その件について将軍に働きかけることを約束してくれた。閣老中の実力者土井利勝がノイツ釈放反対の音頭取りらしかった。
五月三日恒例の拝謁日に、カロンは銅製の大灯架を献上した。これはその前から平戸候の屋敷に展示され、評判になっていたものである。家光は大いに気に入り、これを日光の霊廟に飾るよう命じた。彼はこのあと日光に墓参し、墓所に掲げられた大灯架を見るやオランダ人のことを思い出して、近侍する酒井忠勝に彼らはどうしてるかと尋ねた。
「上様はすでに先月彼らの江戸出立を許可されました」と答えると、家光は「彼らに銀二〇〇枚を贈れ」と命じた。この時とばかりに忠勝はノイツの釈放について言上し、家光は直ちにこれを許可した。この知らせがオランダ平戸商館に着いたのは七月五日のことで、クーケバッケルはその日の日記に、家光の許可がおりたのは六月四日だったと記している。
釈放されたノイツがバタヴィアへ帰還したのは、一六三六年一二月である。彼は会社に与えた損害のかどですでに平戸に送られてきた翌年の三三年に起訴されており、帰還した彼を待っていたのは法廷だった。彼は一切の役職を剥奪され、巨額の負債をしょわされて母国へ帰った。
平戸候隆信は一六三七年七月に死んだ。オランダ人にとって心強い庇護者だったが、一方商館に一万両もの借金を残した。あとを嗣いだ松浦鎮信(鎮信(第一七章)と同名の曾孫)は、変わらぬ友誼をオランダ人に誓ってくれた。
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