第二一章 禁教令下の諸相 P320-349
宣教師潜伏の地・大村領 P327-330禁教下の長崎 P330-333
村山等安に代わって末次平蔵が長崎代官に就任 P333-335
長崎において宣教師追補が激化したのは、末次平蔵政直(参照1、参照2)が代官に就任してからで、彼の提供した情報によって、長谷川権六はスピノラらを捕縛できたのだという。平蔵はイエズス会系のキリシタンで、朱印船貿易家として富を積んだ。
村山等安の姻戚だったのに、等安が平蔵の父興善から借りた銀一五貫目を返済しようとしないのを怒って、一六一六年江戸へ赴き数々の非行を挙げて等安を告発した。川島元次郎の『朱印船貿易史』によれば、等安の支配する長崎外町は「刻々人家櫛比の巷と変ぜしも、彼(等安)は之に対して地子銀を徴し、
P334 村々には年貢を出さしめ、己は運上銀僅に二十五貫目を上納するのみ、差益は皆彼の懐に入り、幾程もなく金銀山の如き身上とな」ったという。平蔵は等安を蹴落として、外町代官といううま味のある地位に就きたかったのだ。
平蔵が並べ立てた訴因は、等安が支配地からの収入の大半を私していること(自分が替わってその地位に就けば倍以上の運上金を納める)、宣教師たちをかくまったこと、女の問題で一五、六人を殺したこと等、多岐にわたったが、等安は各条みごとに申し開きをして、このままでは平蔵の敗訴に終わるかと思われた。
しかし、等安が教区司祭たる息子フランシスコに人員・武器弾薬を持たせて大坂城へ送り、フランシスコはそこで死んだという訴因については、有効な申し開きをすることができず、等安は一六一八年二月に代官を罷免され、翌一九年一一月斬首された。
子のフランシスコの一件は、等安に娘を殺されたうらみから、村山家の料理人が平蔵に密告に及んだという。
イエズス会側はスペイン系修道会の後援者等安が失脚し、イエズス会系の信者平蔵が代官の地位に就いたのを歓迎した。しかし代官平蔵は一六一八年一一月頃、長崎に着いたときすでに棄教していた。平蔵が長谷川権六とともに宣教師追補に乗り出し、スピノラ逮捕というお手柄を挙げると、長崎の空気は一変した。
権六がイエズス会系の内町町年寄高木作右衛門を棄教させたのもこの頃である。
トマス荒木は一六一五年に帰国した。教区司祭としてどのような活動を行ったか明らかでないが、村山等安の息子たちと交わりがあって、彼らに「キリストの法は真実であるとしても、これを日本で広めようとするパードレたちの意図は、日本を自分たちの王国に従わせようというものである」と、変わらぬ持論を述べたという。
だとすると彼は、イエズス会にもスペイン系修道会にも属さぬ独自な立場から伝道を行なったはずで、その具体的なありかたが記録されていないのは残念というほかあるまい。荒木は一六一九年八月に捕らえられ、いったんは脱走したものの、P335数日後ローマセミナリヨの服を身につけて奉行所へ出頭した。
このローマセミナリヨの服を着用したことについて、高瀬弘一郎は、在日修道会とは関りのない聖職者という自覚と、ローマ留学の誇りを示すものと解している。彼は大村の牢へ送られ、わずか二〇日ばかり居て棄教した。
イエズス会側文献は、子どもでさえ殉教したのに、拷問もされぬのに棄教したとして彼を嘲笑する。しかし、日本布教のありかたに根本的な疑念をもっていた以上、在日外国人宣教師を根絶しようとする長崎奉行所に協力するのは、彼にとって自然な成り行きだった。
大村の牢ではスピノラ以下外国人宣教師が頑張っていた。彼らに囲まれて、荒木は異邦人の思いを強めたのではないか。荒木は長崎奉行長谷川権六に重用され、貴重な知識・情報を提供し、宣教師摘発の先頭に立った。
背教者としての彼の悪名は確立した。しかし三○年後、一四人の信徒の処刑に立ち会った際、彼はにわかに激情にかられて、判決が不当であり、刑の執行者は永遠の罰を受けると叫び出した。彼は狂人とみなされ、獄中で死んだという。没年は一六四六年、あるいは四九年ともいわれる。
所司代板倉勝重と京都大殉教 P335-336
スペイン人宣教師が捕縛された平山船 P336-339(参照)
長崎では潜伏宣教師の追及が本格化するにつれて、一六二〇年一月に長谷川権六の命で、長崎郊外に残存していた教会と、ミゼリコルディア(慈悲組)付属の教会、さらには貧者の家や癩療院など、一切の教会諸施設が破壊された。
また同月には長崎市中に、宣教師の所在を密告した者に銀三〇枚を与えると布告された。この報償制度はかなりの効果を発揮したという。このように述べると、権六はいかにも峻厳な迫害者の印象を与えるが、チースリクによると
「彼ができるだけ流血を避けようとし、公式の告発があった時だけキリシタンを厳しく扱ったことを認めねばならない。しばしば該当者にひそかに警告を漏らして、逃亡の機会を与えたことさえもあった」。
権六は潜伏中のアウグスティノ会司祭ペドロ・デ・ズニガが貴族の出であり人柄も優れているのに好意を抱き、秘かに呼び寄せて日本を立退くよう勧告した。ズニガはそれに従って一六一九年マニラへ去ったが、翌年心ならずも日本へ再入国することになる。平山常陳事件の種は蒔かれたのである。
P336 ズニガ神父が司牧していた日本のキリシタンは、神父宛にとり残された自分たちの窮状を訴え、宣教師の派遣を懇請した。フィリピンのアウグスティノ会は、ズニガを再入国させることを決めた。ズニガは長崎で知れ渡っている自分は、着いてもすぐ捕縛されるだろうと難色を示したが、信徒たちが安全を保証したので、やむなく日本行きを引き受け、ルイス・フローレス神父も同行することになった。
折しもマニラで交易に従事していた平山常陳が、店をたたんで帰国しようとしていた。常陳は堺生まれのキリシタンで、ズニガとフローレスは常陳が仕立てた船に乗り込むことができた。
一六二〇年七月、平山船は台湾海域で英船エリザベスに捕らえられた。英蘭両国は一六一九年防御同盟を結び、それぞれ五隻の船を出して平戸に根拠を置く一艦隊を組織し、マカオから来るポルトガル船、およびマニラ向かう中国船を捕獲することにした。
平山船はマニラ向けの中国船を監視する英船にひっかかったのである。平山船は日本人の船であるから、捕獲の対象にはならない。しかし、臨検した英人は船底の鹿皮の下に隠れていたズガニとフローレスを発見した。
宣教師であることは明らかである。エリザベス号は折柄出会ったオランダ船に平山船を託し、オランダ船に曳かれて平山船は八月四日平戸へ入港した。英蘭側の関心は、平山船の拿捕が正当と認められるか否かにあった。
正当ならば平山船とその貨物は英蘭側の拾得するところとなる。逆に不当となれば無駄働きをしたばかりか、海賊行為として咎められかねない。そして正当か否かは、船中にいた二人のスペイン人が宣教師か否かにかかっている。
英蘭側は別に幕府の宣教師取締りの熱心な手先たろうとしたわけではない。ただ平山船拿捕を正当化するには、二人が宣教師だと立証する必要があった。ズニガとフローレスは平戸のオランダ商館に監禁され、激しい拷問が加えられた。しかし、二人は宣教師であることを頑として否定し続けた。
翌二一年になって幕閣はこの事件を審議し、取調べを長谷川権六と松浦隆信に一任する決定を下した(七月一一日)。
P338しかし隆信が英蘭商館の後援者であるのに対して、権六は平山側の味方と目されていた。一一月六日には松浦隆信の面前に、長谷川権六、英蘭両商館長、ズニガとフローレス、平山常陳が呼び集められ審理が開始された。
英蘭側が用意した証人のポルトガル人ラヴェレスは、ズニガが長崎のアルバロ・ムノイスの家でミサを行っているのを見たと証言した。ズニガとフローレスはあくまで自分たちは商人だと言い張った。
興味深いのは英国商館長コックスがこの日の日記に、隆信と権六が何の判決も下さずに英蘭商館長に退出を命じ、もっと証人がほしいと望んだと記していることである。さらにその四日後には次のように記すに至った。
「権六殿は皇帝の宮廷に報告して、我々とオランダ人たちとは悪意からこれらのスペイン人がパードレであると告訴しているが、自分は彼らがさようなものではないことを知っており、自分の一命にかけても事情がその通りである旨を立証するつもりでいる、と述べたが、権六はズニガと面識があるどころか、彼にすすめて日本を出国させたのは権六本人だったのである。それなのに彼もズニガも、取調べの場で一面識もないように装わねばならなかった。むろん彼は、ズニガをかつての画した一件が露見するのをおそれたであろう。
しかし今では、我々の提出した証拠が事柄のありのままを示しており、否定され得ないことを知ったので、彼はどうしてよいか判らずに、彼のなし得る凡ゆる術策や計略を弄して時日の遅延を図り、彼のとり得る手段によってこれを無に帰せしめんとしているのだ、とのことである」
しかしこの長崎奉行が単なる幕閣の走狗ではなく、宣教師に対する独自の裁量を持ち、それを押し通そうとする図太さを持った人物だったこともまた、否定できぬ事実だった。コックスは一一月一七日の日記に「権六殿はキリスト教徒ではないがと疑われている由である」と記した。
だがズニガとフローレスは結局宣教師と認定され、訴訟は英蘭商館側の勝利に終わった。近世対外交渉史家の永積洋子はトマス荒木が権六を説得して、抵抗をやめさせたと推測している。一六ニニ年八月一九日、長崎において、ズニガ、フローレス、常陳の三人は火刑、平山船の一二名は斬首に処せられた。
元和の大殉教 P339-340
在日修道会間の抗争 P340-343
司祭ナバロに示された松倉重政の寛容 P343-346
家光親政で強化された禁教 P346-349
ナバロの刑死のあと、松倉領ではそれ以上の迫害もなく、キリシタンにとって平穏な日々が続いた。管区長パチェコは口之津に居住し、前管区長コーロスも復帰して深江を本拠として活動した。事態が急変したのは一六二五年になってからである。
この年参勤した折、将軍家光からキリシタン取締りの手ぬるさを厳しく叱責された重政は、一転して苛酷な迫害に乗り出したのである。一二月一九日、パチェコは口之津の潜伏先を急襲され、ゾーラも同月二二日に島原で捕らえられた。
このとき重政はなお参勤中で、逮捕を指揮したのは家老の多賀主水だった。翌二六年、一六一九年年以来長崎にとどまって活動していたイエズス会司祭バルタサル・デ・トルレスが逮捕された。パチェコ、ゾーラ、トルレスが火刑に処せられたのは一六ニ六年六月二〇日である。
コーロスは病後の不自由な体で再び日本管区長に就任した。長谷川権六は一六ニ六年長崎奉行の任を解かれた。彼はそのことをよろこんだと『日本切支丹宗門史』のレオン・パジェスは記す。後任の水野河内守守信は長崎住民に対して棄教令を出し、棄教を拒んだ町年寄のの町田宗加と後藤宗印は長崎から追放された。
松倉領での迫害は、一六ニ七年から三一年にかけてが最も激しかった。種々の拷問が用いられ、なかでも雲仙岳での熱湯責めの惨虐さはよく知られている通りだ。P347ナバロの告別の辞に言うべき言葉もなく涙を流した重政が、一転して非情な迫害者となったのは、優に一篇の精神的ドラマたりうるが、その実相は文献の語るところでない。
だが、雲仙での熱湯責めの愛用者は、一六ニ九年に水野のあとを継いで長崎奉行となった竹中采女正重義であった。彼は歴代の長崎奉行中最も残酷な迫害者だったといわれる。ただし、彼も含めて禁教令の実施者たちは、いたずらに惨虐を好んで宣教師や信者を拷問したのではない。
キリシタンを手っ取り早く根絶したいのなら、宣教師であれ信者であれ、見つけ次第殺せばよいのだ。殺さずに棄教させようとしたからこそ拷問という手段に訴え、相手の頑強さに比例して、拷問の残酷さもエスカレートしたのである。
役人たちは信者や宣教師を苦しませて楽しんだわけではない。何としてでも棄教させたかったのであって、ここに当時の「迫害」の特異性がある。殺さずに棄教させようとしたのは、住民の場合、彼らが貴重な労働者だったからだろう。
キリシタン故に住民を皆殺しにしたのでは、武士権力の存立の余地はない。宣教師の場合、殺して殉教の栄光を得させるよりも、棄教させた方が効果はずっと大きい。パードレすら教えを捨てたとあれば、信者の志気が沮喪するのは必定である。
棄教させるための拷問で、最も効果的だったのが穴吊りの刑である。穴を掘ってその上に柱を組み立て、体をさかさまに吊り下げる。血の逆流をおそくするために全身を縄で縛る。苦痛を長びかせようというのだ。穴を板で塞いで中を真っ暗にする。
この拷問法が採用されたのは一六三三年といわれる。
この年は大御所秀忠が死に、家光が親政を始めた翌年で、最初の鎖国令といわれる長崎奉行宛之奉書が出され、禁教も一段と強化された。宣教師二○名が逮捕され、一六名が殺されている。クリストファン・フェレイラもこのとき捕えられた一人である。
彼はイエズス会日本管区長代理を務めていた。パチェコが刑死したのち、コーロスが再び管区長になっていたが、病み衰えて任にたえず、一六三二年フェレイラが代理に就いた。彼は穴吊しにかけられ、数時間で転んだといわれる。その後名を沢野忠庵と改め、幕府の手先となった。
もちろん穴吊しにたえて殉教した者も少なくない。ジュリアン中浦は四日も責苦にたえて絶命した。かつての遣欧少年使節はこのとき六五歳になっていた。コーロスはこの年一〇月、波佐見て衰弱して死んだ。
禁教令下、束の間活況を呈した教域に、東北地方が挙げられることは先に述べた。この地方の布教は、フランシスコ会ルイス・ソテロが、伊達政宗に招かれて仙台に滞在したことに端を発している。彼は一八○○の信者を得たというが、その一人に仙台領見分(現奥州市水沢区福原)の領主後藤寿庵がいた。
その後政宗が幕府の方針を受けて禁教に転じても、寿庵は信仰を堅持していた。寿庵は政宗に従って大坂冬の陣に従軍し、戦いが終わったあとイエズス会士ジェロニモ・デ・アンジェリスと出会った。アンジェリスは伏見や駿府で布教に従事したのち、冬の陣当時は秀頼方の明石掃部の陣中にいた。
明石は言うまでもなく著名なキリシタン武将である。寿庵はアンジェリスとは旧知で、彼を自分の領地に連れて帰った。見分領は全村キリシタンだった。アンジェリスはそこを根拠として、東北一帯から北海道まで足を伸ばすことになる。
キリシタン史家チースリクは禁教令後「南日本・中国・近畿地方の多数の切支丹は、自分の意志から故郷を離れ、財産を捨てて、北日本へ逃れた。武士階級の中には、佐竹候や津軽候に仕えたものもあり、百姓になったもの、鉄鉱山、あるいは銀山へ入ったものもあった」と言う。
アンジェリスが見分に入ったのは一六一五年だったが、一六一七年には新たなディオゴ・カルヴァーリョが着任したので、翌一八年には念願の蝦夷地を訪れることができた。一六一九年には、アンジェリスは米沢から越後・佐渡・越前・能登へ赴き、カルヴァーリョは仙台・秋田・津軽を巡回している。
このうち特記すべきはむろん蝦夷地行である。
アンジェリスは一六一八年と一六二一年、二度蝦夷を訪れている。カルヴァーリョも一六二〇年と一六二二年、P349おなじく二回同地へ渡っている。アンジェリスの二回の旅については、それぞれ彼自身の書簡の形の報告記が現存し、カルヴァーリョの旅は第一回についてのみ、書簡が残されている。
いずれも蝦夷地について書かれた最も早い実見談であり、キリシタン史の枠を越えた価値を持っているが、いまは布教に関することのみに限ろう。アンジェリスの渡島はすぐに領主松前公広の知るところとなった。
公広は「パードレの松前へ見えることは大事もない。何故なら天下がパードレを日本から追放したけれども、松前は日本ではない」と語った。
アンジェリスは松前に一〇日間滞在し、信者の告解を受けたが、その数は一五人を超えなかった。アンジェリスはそれでも構わなかった。蝦夷地それ自体に地理的文化的な興味があったからだ。
アンジェリスは商人の振りをして渡島したけれど、正体は見破られていた。蝦夷地に禁令はまだ行われていなかったのだ。だが翌々年カルヴァーリョが渡ったときは、通行証の下付が厳しくなり、「鉱山採掘に行く金堀の名義で乗船」せねばならなかった。
当時蝦夷地はゴールドラッシュで、渡航者が数万にのぼっていた。カルヴァーリョは船中、誰にも外国人だと見破られなかったと言っている。松前に着くと、松前公広が住民がキリシタンになることを禁じたことを知った。
松前はやはり日本だったのである。彼は松前で一週間信者の告解を聴いたのち、内陸の方へ一日路程の金山へ赴き、新しく出来た藁屋ばかりの集落で一週間、告解を受け洗礼を授けた。金山の信者たちが入れ替わり立ち替わりやって来たと彼は言っている。
帰途は津軽に追放された京・大坂の信者たちを訪ねた。彼らが狂喜したことは言うまでもない。彼はまた加賀藩から追放された武士たちも訪ねている。
アンジェリスの第二回報告には旅自体の記述はない。彼はその後江戸へ派遣され、一六二三年、岡本大八事件後、旗本でありながら棄教を拒んで放逐された原主水らとともに捕らえられて火刑に処された。カルヴァーリョは翌ニ四年、青葉城下で水責めにされて死んだ。見分の信者団もこのとき壊滅した。
→『バテレンの世紀』(戻る)