第一八章 朱印船南へ P292-298
P292 一六〇一年に家康は初めて、海外に渡航する日本船に朱印状を与えるようになり、それを得た船は朱印船と呼ばれる。それから一六三五年に日本人の海外渡航が禁じられるまで、合計三五六通の朱印状が発給され、日本船の南海進出は全盛時代を迎えた。むろんそれ以前に日本船が渡航しなかったのではない。すでに述べたように(参照)、フィリピンには一五七○年代から渡航しており、一五九○年代には一〇〇〇人の日本人がマニラに居住していた。交趾シナには早くも一五七七年に日本船が現れた記録があるし、カンボジアにも一五九○年代に日本船の姿が見られる。シャムに現われたのもおなじく九〇年代のようである。
一五九七年六月、フィレンツェ出身のカルレッティ父子が、商売のため長崎に来たが、一〇ヵ月の滞在ののちマカオへ渡るのに利用したのは日本船だった。その年はマカオから定航船が来なかったので、マカオ行の和船に乗ったわけだが、船長はポルトガル人を父とする長崎在住の混血児、船員はむろん日本人。
彼らは航海中乗客のポルトガル商人たちと喧嘩になり、幸い同乗のイエズス会神父がなだめて事なきをえた。この船が遠洋航海に向かぬ構造で漸弱なものであることを、カルレッティは詳しく述べている。
秀吉、家康の朱印状発行と日本船の航海技術改良 P293-295
一六〇〇年一二月、ノールトの率いるオランダ艦隊は、フィリピン近海で一一〇トンばかりのジャンク型日本船を捕えたが、船底は平底で網代帆を装着していた。当時の日本の航洋船はこのような危なっかしいものだったらしい。
一五八四年一月、司祭ロレンソ・メシアは手紙に「一般に日本人はいずれの国へも通航せず。これ絶えざる台風のゆえなり」と書き、ヴァリニャーノも『日本諸事要録』(一五八三年)で「日本は他のキリスト教徒との交渉からまったく隔離された島であり、彼らは外国を見る為に自国を出ようとは思わぬ」と述べたが、一六世紀末から一七世紀初頭に至ると、日本ジャンク船は南洋のいたるところに姿を現わし始めたのである。
一六世紀の大倭寇の終息後、このように日本人が再び海を渡り始めた原因については、日本近世対外交渉史家、岩生成一の『新版朱印船貿易史の研究』が全国統一政権の出現による国内の安定と、それによる産業の発達や需要の拡大、とくに銀山の開発による銀貨幣の増加、朝鮮出兵による軍需増大、海外知識の普及、造船と航海術の進歩等々、網羅的に挙げているところであるが、
要するに、年々増加する生糸・絹織物への需要を満たす上で、その供給を外国船に仰ぐだけでなく、自ら船を出して獲得の途を拓こうとするのは自然の流れであったろう。
世界有数の銀産出国になっていたのだから、資金は潤沢に存在した。生糸貿易の莫大な利益を外国商人に独占させておく理由はないのだ。幸い明国が厳重な海禁策を緩め、一五六七年に南海への出航を許して以来、中国船は生糸・絹をはじめとする物産をフィリピン、インドネシアの各地にもたらすようになった。
日本への渡航は禁じられ、日本船もまた中国渡航は拒否されていたが、フィリピンや交趾シナへ行けば、生糸を積んだ中国船と出会い貿易ができる。一五九○年代から日本船が南洋へしきりと姿を現わしたのはそのためだった。
海外に渡航する日本船に、身元を保証する朱印状を初めて与えたのは秀吉である。彼は一五九六年加藤清正がフィリピンに船を派遣したとき渡航朱印状を発給している。これはそれまでの交渉の中でフィリピン側から、P294来航日本船が秀吉の印のある渡航許可状を所持すべきことを要望されたのを受けた措置だった。
つまり朱印状は、当該日本船が海賊でなく正規の商船であることを証明するものだったのだ。このような渡航証明書の発給を家康は関ヶ原合戦の翌年に制度化した。いわゆる朱印船が携えた朱印状は、その船が日本船籍の商船であり、幕府の承認を受けた平和な商行為に従事するものであることを証明し、併せて海上及び渡航先での安全を保障しようとするものであった。
むろん後者については、渡航先や海洋を支配する西洋船、特に海賊行為の常習者オランダ船が、これを通行証として承認することが必要である。
家康は一五九九年から一六〇七年にかけて、フィリピン、安南、カンボジア、パタニ(現マレー半島のタイ南部)、シャムなどの国王にニ四通の書簡を送り、朱印状を持った船だけを通商相手として承認してほしいと要望している。
倭寇によって被害を受けた各地で、スムーズな取り引きが成立するための措置であった。海上での効力については、オランダ・イギリスともに尊重するところで、朱印状を所持する日本船の通行を妨げたり、捕獲したりすることはなかった。
オランダ艦隊が一六一八年マニラを封鎖したときも、朱印船は封鎖船を越えて堂々と入港することを得た。日本での通商を維持しようと望む限り、英蘭両国が朱印状を尊重せざるを得なかったのは当然である。
当時、朱印状に類する海上通行証は各地で発行されていた。インド洋でポルトガルが発行したカルタスについては先に述べたが(第二章)、明国は海禁緩和ののち、南洋へ渡航する中国船に文引と称する渡航証明書を支給している。そのような素地のもとで朱印状も国際的に承認されたのである。
初めは遠洋航海に不向きだった日本船もその後改良された。最盛期の朱印船はミスツィス造りの船と呼ばれた。『和船』などの著者がある海事史家、石井謙治によれば、「ミスツィス」とはポルトガル語の「メスティーソ」の訛音だという。「メスティーソ」とはポルトガル人とインディオの間に生まれた混血児の意である。
朱印船は中国ジャンクとポルトガルのガレオンの折衷様式なのでその名が生じた。石井によってその特徴を述べると、P295帆装はジャンク式の網代帆だが、船首にスプリット・セールを装着し、後檣に三角帆を張る点で、ガレオン系帆装をとり入れている。
船体は中国式ジャンクだが、船尾構造や舵にガレオンの技術を採用し、カラック型とおなじく船首に異様な大船首楼を設けている。
中国文献によると、もともと日本船は平底で「浪を砕くこと能はず」、順風でしか航行できなかったが、倭寇が福建沿海の「奸民」から船を買い、それを真似て船底を重ね貼りして尖らせるに至って、それまで一カ月もかかって中国に来ていたのが、数日で来るようになったという。
つまり日本人はまず中国ジャンク船に学び、さらにポルトガル船に学んだのだ。石井によると朱印船は大型は五〇〇トン前後、むろんずっと小さいのもあった。建造地は長崎・薩摩などと言われているが、シャムで造った例もある。シャム船はミスツィス造りによく似ていた。
南洋日本人町の形成 P295-297(地図)
慶長九(一六〇四)年から寛永一二(一六三五)年まで、三二年間に幕府が発給した朱印状は三五六通で、渡航先を見ると、今日のヴェトナムに当たる交趾・東京・安南・順化・占城が併せて一三〇通、それにシャム五六通、カンボジア四四通、インドシナ方面を漠然と示す西洋一八通を加えると、ニ四八通がインドシナ向けであることが注目される。
あとのまとまった渡航先はフィリピンと台湾で、前者が五四通、後者は三五通となる。朱印船は銀を豊富に携えていたので、各地で有利な取り引きを行うことができた。もちろん、生糸・鹿皮・蘇木等を輸入する一方、武具・工芸品等も輸出したが、輸出の主力はあくまで銀であって、これは当時日本が世界有数の銀産出国であったからこそである。
しかし、朱印船がインドシナにおいて優位を確保できたのは、各地に日本人町が形成されていて、現地の事情をよく知った日本人が市場を支配すべく務めたおかげだった。朱印船がインドシナへ集中したのは、そもそもは中国船との出会い貿易で生糸を入手しようとしたからだが、東京・交趾などは品質の優れた生糸の産地であり、その港町に住みついた日本人は、朱印船のために生糸の生産過程まで支配した。
たとえば交趾シナでは、現地在住の日本人が村々の養蚕農家を廻り、前貸金を渡して事前に生糸を買い占めていた。
オランダはのちに日本人の海外渡航が禁じられるまで、インドシナ沿岸の全域で劣勢を強いられた。一六三三年、バタヴィアの東インド政庁から交趾に派遣されたカロンは、日本人がすべてを買い尽くしてしまうので、オランダがここで競争しようとしても何も得られないだろうという話を聞かされたし、
一六二三年には、平戸のオランダ商館長カンプスは「交趾シナについて言えば、同地では会社にとって施すところはほとんどない。本年シナ船四隻来航し、一隻の日本船がシナ船のもたらした物をことごとく買い占めてしまった」とバタヴィアに報じた。
事情はシャムについてもおなじで、首都アユタヤでは鹿皮購入をめぐって、オランダ人は日本人と激しく争ったが、勝ち目は乏しかった。一六二四年、バタヴィアの東インド総督家ルペンティールが本社に報じたところによると、
アユタヤの日本人はオランダ船の来航の先手を打って、鹿皮一六万枚と蘇木二〇万斤を非常な廉価で買い占め、ジャンク船で日本へ送ったので、オランダ船は不良皮を八〇〇〇枚足らず入手できただけだった。
鹿皮は傷みやすい商品で、加工にも輸送にも注意が必要だが、朱印船はアユタヤ在住の日本人に、鹿皮を剥いできれいに裁断し束ねるという作業を依頼していた。アユタヤのオランダ商館員ハウトマンによると「これは非常に骨の折れる仕事で、シャム人にはほとんどできない」。
鹿皮は一束でも濡れると、他の皮も全部駄目になる。そこで日本人は波がかからぬよう、細心の注意を払っているというのも、おなじハウトマンの観察である。
朱印船の他の主要渡航先についていうと、フィリピンのマニラは来航する中国船から生糸を得る出会い貿易の拠点として重要であった。フィリピンの産物としては鹿皮、蘇木、金が求められた。一方、朱印船の輸出品中で異彩を放つのは小麦粉と塩漬け肉である。
孤立した植民地マニラの食糧供給は朱印船に頼るところが少なくなかった。朱印船が台湾へ向かったのも、やはり中国船と生糸の取り引きをするためだった。だが、一六二四年にオランダが、台湾西岸のタイオワン(現台南市安平)港を占拠してからは、オランダ東インド会社と朱印船の間には、後述するように重大な紛争が生じることになる。
オランダのタイオワン港占拠はマカオ攻略失敗の副産物だった。一六ニニ年マカオを襲って撃退されたオランダ艦隊は澎湖島を占拠、中国当局から抗議されて台湾へ移ったのである。
アユタヤの日本人町と山田長政 P297-298
いわゆる南洋日本人町については、岩生成一の古典的な分析(『南洋日本人町の研究』)があって、それによると、江戸時代初期からいわゆる鎖国に至るまで、海外に出た日本人の延べ総人数は一〇万を下らず、うち七〇〇〇ないし一万人が南洋に定住したのではないかという。
そのうち日本人だけが特定の地域に集住した場合が、いわゆる南洋日本人町であり、フィリピンのマニラ市場南郊のディラオとサン・ミゲル、交趾のフェフォとツーラン、カンボジアのピニャールーとプノンペン、シャムのアユタヤの名が数えられる。
アユタヤに日本人町が形成されたのは一七世紀の初頭らしく、P298一六一一年には新王即位に当たって、禁衛隊に属する二、三〇〇名の日本人兵士が反乱を起こした記録がある。有名な山田長政(参照)が仕えたのはこの新王プラ・インタラツィヤ、通称ソンタムである。
長政はもともと沼津城主大久保忠佐に仕える駕籠かきだったといわれ、シャムに渡ってアユタヤ日本人町の頭人にまで出世した。ということは、朱印船と連携しながら日本・シャム貿易に従事する貿易家であったわけだが、同時に彼は日本人からなる五、六〇〇名の部隊を指揮して国王に仕える軍人であった。
当時日本人の勇武は周囲に鳴り響いており、ポルトガルやオランダの傭兵になる者も多かった一方、シャムやカンボジアでは、在住日本人がそのまま傭兵として王国に奉仕した。長政はソンタム王のもとで、最高の官位であるオーヤまで昇進した。
ソンタム王が一六ニ八年一二月に死ぬと、長政は王位継承の争いに巻きこまれた。当時シャムの王朝は汪が死ぬとその弟が王位を継ぐ習わしだったが、ソンタム王は長子に継がせたくて、その遺志をいとこのシー・ウォラウォンと長政に託した。
ウォラウォンは端倪すべからざる策謀家でソンタムの長子を即位させ、弟の親王を謀殺しようと計った。長政はことごとにウォラウォンの詭計に協力したばかりか、親王が兵を挙げると戦場でこれを謀りごとにかけ、敗れた親王は死刑に処せられた。
ウォラウォンは早々と親王と対立し、新王を殺してさらにその子を即位させた。彼の目的は自ら王位に就くことにあったが、そのためには長政を遠ざける必要があった。長政は父から子への継承の信奉者だったのだ。彼は属領リゴールの王として体よく追い払われ、ウォラウォンの王位簒奪の報を聞いた後毒殺された。一六三○年のことである。
アユタヤの日本人町は焼き払われたが、すぐに復興した。朱印船が健在な限り南洋日本人の生命力は失われなかった。一六〇四年から三九年までの輸入額を見ると、朱印船によるものは二九万八〇〇〇貫に達し、ポルトガル船、中国船、オランダ船による輸入額を抜いて、第一位を記録していたのだ。
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