2020年7月10日金曜日

偏愛メモ 『バテレンの世紀』第一六章 太平洋を越えて P266-278

第一六章 太平洋を越えて P266-278

P266 フィリピン臨時総督ロドリゴ・デ・ビベロは任を終えて、メキシコ(ヌエバ・エスパニア)へ帰るべくサン・フランシスコ号に乗り、僚船二隻とマニラを発ったが、悪天候に悩まされ、一六〇九年九月三〇日に、上総国岩和田付近で船は座礁して沈没し、乗員三五〇のうち三〇〇が救われた(『日米衝突の萌芽』P40)。

大多喜城主本多忠朝は彼らを厚遇し、ひと月以上扶養した。ロドリゴ・デ・ビベロは江戸へ赴いて将軍秀忠に謁し、一〇月二九日には駿府で大御所家康にまみえた。彼は遭難者として御礼を言上したのだから、それで事は終わったようなものだが、家康からの望むところがあれば何なりと申せと言われたものだから、俄かにスペインの外交使節のような気分になり、本多正純を通じて三カ条の要望を提出した。

第一条は日本在住の修道会員の厚遇を求め、第二条はスペイン・ポルトガル国王フェリペ三世との友好を願うもので、これは問題なく承認された。問題は第三条で、ロドリゴ・デ・ビベロは二ヵ月前にオランダ使節が駿府で家康から通商を許されたことを聞知したに違いなく、彼らはフェリペ三世への反逆者であり、かつ海賊であるから日本から追放してほしいと要望した。

家康は、オランダ人とはすでに約束したので、今年中に追放はむずかしい、しかし彼らについての忠告は参考になったと答えた。もとより彼はオランダと関係を絶つつもりなど、毛頭なかった。

ロドリゴ・デ・ビベロの野心 P267-269
長崎マカオ貿易の復活 P270
オランダ船の出撃基地・平戸 P271-272
フランシスコ会の「怪僧」ソテロ P272-276
P272 スペイン・ポルトガルの航海者の間には、日本の東方海上に金銀の溢れた島があるという噂が広まっていた。ヌエバ・エスパニア(メキシコ)では、この金銀島探索のために船を出そうという機運が高まり、探検家セバスティアン・ビスカイノが司令官に任命されたが、この際ロドリゴ・デ・ビベロ送還の件につき、日本政府に答礼する任にも当たらせることになった。

P273 ロドリゴ・デ・ビベロに伴って来た田中勝介以下の日本人商人を送り返す必要もあった。田中たちはアダムズにより日本で建造されたブエナ・ベントゥーラ号でやって来たのだから、送還にもその船を使えばよさそうなものなのに、メキシコ政府はそれを買い上げ、ビスカイノと田中たちのためには、サン・フランシスコ号という船を用意した。

おそらく日本船籍の船が太平洋横断に継続的に用いられることを危惧したのだろう。日本人に航海技術を学ばせたくないのだ。ビスカイノにはブエナ・ベントゥーラ号の買い上げ代金と、ロドリゴ・デ・ビベロが家康から借りた金をとどける任もあった。

サン・フランシスコ号は一六一一年三月出帆、六月に浦賀に入った。ビスカイノは早速将軍秀忠を訪問、ロドリゴ・デ・ビベロ同様江戸城の豪華に感銘を受けたが、謁見に当たってはひと揉めした。恒例の礼式を卑屈として拒んだのだ。

ロドリゴ・デ・ビベロは遭難から救助されたひけめがあったが、自分は大国イスパニアの大使だというわけだ。何とか折り合いがついたが、この頭の高さはこののち彼が嫌われるもとになったらしい。

次いで駿府に家康を訪ね、スペイン船寄港のために沿岸を測量すること、キコウノために船を一隻建造すること、滞在費を充てるため舶来した商品を自由に販売すること、以上三件を願い出て許された。だがビスカイノはここでも頑張った。

オランダ人は謀叛人かつ海賊だから追放してもらいたい。返事をもらうまでここから動かないとまで言い張った。秀忠が江戸滞在の費用を出してくれたのに、家康が一銭も出そうとしないのに腹を立て、報告書では家康をケチと罵った。

秀忠が父の吝嗇ぶりを恥じていた、などと勝手な想像までしている。不思議なことに、ビスカイノはロドリゴ・デ・ビベロ同様秀忠に好感を持った。彼はキリシタンの保護者だとさえ思いこんだ。秀忠は父以上にキリシタンを嫌っていたというのに。

彼は日本で船を新造せよと指令されていたが、浦賀に帰ってみて、その見こみがないことがわかった。建造費が思ったより高いし、持参した織物が高級品で買い手がつかず、資金調達のメドが立たない。ところが秀忠から、自分が船を建造してやろうという申し出があった。

事情は不明だが、おそらくメキシコとの通商を強く欲してのことと解される。ビスカイノは沿岸測量のために仙台へ発った。藩主伊達政宗とはすでに交わりがあった。最初に江戸入りした際、浅草のフランシスコ会教会を訪れる途中、折しも帰国途上の政宗と出会い、交際が始まったのだ。

仙台には一一月八日に到着、厚遇されて沿岸測量を滞りなく行うことができた。仙台以北の沖合は、マニラから北上したガレオン船が、針路を東へ転じる地点で、沿岸に測量ずみの良港が得られれば何かと好都合なのだ。良港はいくつも見つかった。

一六一二年一月、浦賀へ帰るとイギリス人とオランダ人が家康にビスカイノの悪口を言ったと聞かされた。測量は侵略の前触れだ、欧州諸国ではそんなことは容易に許さないと吹きこんだばかりか、家康には内緒にしていた金銀島探索の目的まで暴露したという。

家康は侵略なんぞこわくない、金銀島を見つけるのはむずかしかろうと答えたとのことだ。オランダ人とは前年八月に家康に謁したスペックスで、イギリス人とはアダムズのことだろう。ビスカイノは関西方面へ向い、大阪方面の測量を担当した航海士と堺で会い、測量図を完成して、一部ずつ秀忠と家康に献呈した。

この図の完成には日本人絵師の協力があった。

江戸へ帰ると、メキシコ副王の国書に対する家康の返書を渡された。国交と通商をよろこぶとしながら、日本は神仏の国ゆえ、キリスト教の宣布は無用と釘を刺している。家康はすでに、岡本大八事件後述)に端を発する禁教令を幕府領に発しており、浅草のフランシスコ会教会もとりこわされていた。

秀忠が約束した船が建造地の伊東から浦賀に回送され、艤装中だったが、ビスカイノの見るところ船隊が大きすぎて、果して航海にたえるか疑わしい。彼はかなり傷んだサン・フランシスコ号で金銀島探索の使命を果たすしかないと決意し、九月一六日に浦賀を出た。

だが、航海は完全に失敗した。もともとありもしない島が見るかる道理がない。しかも嵐に翻弄され、船員は反乱を起こす一歩手前という有様、ほうほうの体で浦賀に帰港したのが一一月七日。

P275 秀忠が作らせた船が、浦賀港外で座礁したことをそのとき知った。ビスカイノはサン・セバスティアン豪と呼んでいるが、とにかくこの船は、商品を積んでメキシコに行くつもりだったのである。しかも、例の怪僧ソテロが乗りこんでいた。

ソテロがどういう経緯で幕府に取り入ったかのかわからない。ロドリゴの場合同様、ビスカイノをさておいて、自分を使節ないし通訳として売りこんだのだろう。秀忠もビスカイノを抛り出して、独力でメキシコへ派船しようとしたのだ。貿易への意欲は衰えていなかったのである。

サン・フランシスコ号はもはや航海にたえない。ビスカイノは修理のための金策に奔走したが、家康への嘆願も無視され、ついに病床に臥す身となった。そこに伊達政宗の救いの手が伸びた。政宗は一六一三年二月に出府した。

ビスカイノとソテロはすぐ政宗を訪ねたに違いない。政宗はすでに伊達藩で船を建造し、メキシコへ派遣する決断を下していた。彼がそのように決断したのは、幕府の対メキシコ通商の意欲を承知した上で、伊達藩に通商ルートを経由させ、交易の利に与ろうとしたからだろう。

サン・セバスティアン号の失敗のあとでは、幕府も伊達藩だ船を作ってくれるとあれば、否応はなかったはずだ。この件については、政宗は駿府で家康と十分協議を遂げたことと推測される。政宗の派船計画が幕府と協議の上であったのは、四月に船奉行向井将監忠勝氏配下の船大工が仙台入りしたことで明らかだ。

ところが七月にソテロが逮捕された。浅草に新たに教会堂を設けたのを幕吏に知られたのだ。政宗は手を廻して、翌月ソテロを釈放してもらった。この時点で、ソテロはメキシコ派船に欠くべからざる人物として、自分を政宗にしっかり印象づけた。

政宗は当初、メキシコとの通商のために派船するつもりで、それ以上のことを考えていなかった。ところが造船が進んだ段階で、ソテロがスペイン国王とローマ教皇への使節を派遣すべきだと言い出した。そうしないなら自分は手を引くし、乗船しないというのだ。

彼は日本司教がイエズス会に独占されているのが不満で、伊達領内にフランシスコ会の地盤を築き、自分が日本司教になるつもりだった。そのためには、政宗の使節をローマまで導かねばならない。政宗は当惑したに違いないが、結局ソテロの強請を受け入れた。

その後駿府まで行っているから、この件について家康の諒承もとりつけたと思われる。前年の禁教令は幕府領に留まるものだったから、仙台に宣教師を置くことはできる。しかし、自領をフランシスコ会の地盤とさせるほど肩入れせねばならぬ義理は、政宗には毛頭なかった。

ただ、ソテロの要請を飲まねばメキシコ派船はうまく行かぬと信じたらしい。そこが怪僧ソテロの手腕である。

独眼竜政宗40 4分~ソテロ。7分~忠輝の夢。9分~交易か布教か。16分50秒~岡本大八事件。19分~秀忠、南蛮船建造許可。21分40秒~サン・セバスティアン号座礁。家康、伊達藩に大船造り許可。25分~大久保長安病死・陰謀発覚


空回りに終わった支倉常長のローマ派遣 P276-278
メキシコへの使節はすでに二人の家臣が選んであった。この二人はもともと浦賀港外で座礁したサン・セバスティアン号に乗ってメキシコへ行くはずだった。当然今回の新造船に使節として乗りこむわけだが、彼らはメキシコまで行くだけである。

ローマまで行く使節には別人を宛てねばならない。そこで政宗はスペイン国王並びにローマ教皇への使節に支倉常長を選んだ。常長は伊達藩家臣団では中級に属するが、若い頃から政宗に信任されて伝令や使者を務め、朝鮮にも従軍している。

しかし、その後父が何かの不始末で切腹を仰せつけられ、常長も所領を没収された。政宗がこういういわく付きの常長を復権させ登用したのには二説ある。松田毅一は使い棄てにしたのだと説き、五野井隆史は名誉回復の機会を与えたのだと説く。

もともと政宗はローマ遣使についてはソテロに任せきりで、スペイン国王・教皇などへの書簡も全部彼の好きなように書かせた。領民をすべてキリシタンにしたいので、フランシスコ会の「おうせるはんしや」のバテレン衆を送ってほしいとか、「大きなる司」すなわち司祭をきめてくれとかの文言は、ソテロが勝手に書いたのに違いない。

「おうせるはんしや」とはフランシスコ会の原始会別派のことで、松田毅一が言うように、政宗がそんな一派の存在を知っていたはずがない。

しかも冒頭、「パウロ(教皇パウロ五世)様の御足」を政宗P277「謹しみて吸い奉り申上候」とあるに至っては、日本キリシタンの教皇宛上申書の定型文言で、政宗自身の言葉であるはずもなかろう。

政宗はただメキシコ貿易の利に与りたかったのだが、それにしてもソテロの言いなりになったのは、ローマ教皇に遣使することが彼の虚栄心を唆ったからかもしれぬ。彼は「奥州の屋形」とソテロに称されている。

伊達藩は奥州の大藩であるが、奥州の支配者ではない。この僭称に彼は気分が悪くはなかったのではないか。

新造船サン・ファン・バウティスタ号は一六一三年一〇年二八年、牡鹿郡月ノ浦を出帆した。支倉常長以下伊達藩一二名、幕府船奉行向井将監家来一○名、サン・フランシスコ号の生き残り四○名、それに日本人商人らを併せ総勢一八〇名が乗船した。

ソテロが司令官で、ビスカイノは単なる乗客にされてしまった。アカプルコには一六一四年一月ニ八日に着いた。

独眼竜政宗41 20分~イスパニア派遣使節。28分40秒~政宗、支倉常長に秘密の指令


一四○人もの日本人に押しかけられて、メキシコ政府は当惑した。上陸した彼らは長航海の憂さ晴らしなのか、早速現地人と揉め事を起こす。日本人から刀剣を取りあげ、現地に日本人優待の指令を出して、やっと平静に復した。

持参した商品の販売も許した。バウティスタ号は同年四月に出帆するまで、三ヵ月アカプルコに留まることになる。帰国の際は大量の各種織物を日本にもたらした。

メキシコ政庁はソテロと支倉常長の扱いにも苦慮した。どういう資格の使節なのか、目的は何か、どうもはっきりしないのである。伊達領に宣教師を招きたいというが、バウティスタ号がアカプルコへ入った数日後に、家康が全国を対象とする本格的な禁教令を発布したことは、やがてメキシコにも伝わった。

不平満々のビスカイノも一行の内幕を暴露した。とにもかくにも、常長ら二○名ばかりの日本人をスペインに送ることにした。一六一五年一月になって、常長はやっとフェリペ三世に謁見することができた。その直後、フェリペ三世立会いのもとに受洗した。

謁見の際彼は「奥州の王は私にその分国と王冠を陛下に差し出し、友誼と奉仕を捧げることを命じられた」と述べたと記録されている。P278むろん通訳たるソテロの作りごとで、自分がこんな申し出をスペイン国王にしたことになったと知れば、政宗は仰天したことだろう。

フェリペ三世は先に家康の国書を預かったムニョス神父の養成を受けて、メキシコから日本への定航派船をいったんは認める気になったが、その後日本でキリシタン迫害が始めったのを知って、それを取り消した。

しかし、ムニョスのもたらした家康の国書には返事しなければならぬ。フェリペ三世はフランシスコ会の司祭ディエゴ・デ・サンタ・カタリーナを使節に任じ、差し障りのない返事と贈物を持たせた。カタリーナは日本へ帰るバウティスタ号に乗って、一六一五年八月日本へ着いたが、幕府から相手にされず、贈物も受理されぬまま監禁された。

常長はローマへ向かった。スペインのインディアス顧問会議は常長のローマ行に反対したが、フェリペ三世はわざわざきたのだからと、彼のローマ行を許した。ローマではそれなりの歓迎を受け、教皇パウロ五世に謁見した。

だがスペインに帰ると、もはや空気は冷たかった。常長が幕府の意向と逆の申し出をしていることは明らかだったし、政宗が近く日本の支配者になるというソテロの宣伝を信じる者はいなかった。結局、常長とソテロはメキシコに帰り、カタリーナを送り返して来たバウティスタ号に、一六一八年四月乗船した。

しかし、バウティスタ号の向かう先は日本ではなくマニラだった。常長はマニラを経て、一六二○年九月仙台へ帰り着いた。七年間の長旅で、その間情勢は変わっていた。政宗は常長帰国の直後、領内に禁教を布告した。

もっとも取り締まりはゆるやかだったという。政宗は常長が棄教した上でしか会おうとしなかった。イエズス会年報は彼が結局棄教したと伝えている。棄教しなかったという説もあるが、ともかく彼は翌々年死んだ。

いわゆる慶長使節の演出家ソテロは、一六二二年マニラから日本へ潜入し、ただちに捕まって一六ニ四年に処刑された。

独眼竜政宗48 柳生宗矩の和解策、振姫x忠宗の縁組をめぐって。27分30秒~婚儀1617元和3年12月3日。38分~支倉常長帰国(tw)

振姫x忠宗(tw,系図from「私の伊達政宗像を訪ねて(その4-⑦) - 歴史と文化の路を訪ねて(参照)」、tw)

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