第一九章 家康、禁教に踏み切る P299-316
話が前後するが、幕府は一六一二年にキリスト教禁圧に踏み切った。これはグローヴ号が来朝し、イギリス平戸商館が設けられる前年である。禁圧のきっかけは有名な岡本大八事件にあった。大八は家康の寵臣本多正純の家臣であるが、有馬晴信に、マードレ・デ・デウス号焼き打ち(参照)の功によって、今は鍋島領となっている有馬の旧領が返還されるように斡旋しようともちかけ、多大の金品を受け取っていた。
約束が実現されぬのにじれた晴信は、一六一一年一一月、自ら駿府に上って、事の進み具合を確かめようとした。嗣子の直純とその妻国姫も同行したが、宣教師側の文献は、直純が父を隠居に追いこむために、この件で幕府に讒訴するつもりだったと伝えている。
国姫は家康の曾孫に当り、直純は一六一〇年に正室と離別して彼女を迎えていた。晴信と大八の揉め事は家康の法廷で審理され、大八は金品詐取のかどで、一六一二年四月に火刑に処せられたが、晴信の身も無事にはすまなかった。
マードレ・デ・デウス号事件の際叱責されたのを怨んで、長崎奉行長谷川左兵衛(の妹は家康側室お夏)を謀殺しようとしたと大八から告発されのに対して、晴信は申し開きができず、領国を召し上げられ、甲斐に流刑された挙句、同年六月五日斬首されたのである。
葵徳川三代26 岡本大八事件 セーリス(参照)
家康の警戒心を呼び起こした岡本大八事件 P300
晴信の身分からすれば当然切腹すべきであり、彼の屋敷を兵一五〇を率いて包囲した板倉重宗(京都所司代勝重の長男)が伝達したのも切腹の上意であった。しかし、自殺はカトリック教会の厳禁するところである。晴信は家臣の一人に自分を斬首するように命じ、併せて家臣たちに、上使の士卒と戦って斬り死にすることと殉死することを禁じた。
彼は野心多き人であったが、一生の最期に臨んではひたすら清澄な心境で、若き日に入信した異国の教えに従うことを望んだらしい。彼は家臣たちにこれまでの誤ちの許しを乞い、盃を交わしたのちに落ち着いて首を斬らせた。
ときに四六歳。夫人ジュスタは中山大納言の娘で篤信を以て聞こえたが、気丈に一部始終を見届けた。遺体はその日のうちに埋葬され、その際、斬首に当った家臣とジュスタは、神父たちの唱える祈祷の声をたしかに耳にしたと伝えられる。
家康はこの事件がもつ重大な含意に気づかずにはいなかった。大八がパウロという教名を持つキリシタンであり、おなじキリシタンのよしみで晴信と私交を深めていたことは、彼の警戒心を呼び起こした。ただちに駿府家臣団の取り調べが行われ、キリシタンと判明した者のうち棄教を肯んじなかった原主水以下一四名の家臣、三名の奥女中が追放された。
奥女中のジュリアは朝鮮人だった。家康はかねて庶民がキリスト教に入信するのは差し支えないが、主持ちの武士の入信は禁じて来た。自分の膝もとで棄教を拒む一四名の家臣が出たのはショックであったろう。彼は前年ビスカイノが沿岸測量を行ったとき、欧州ではかかる行為は侵略の前触れと解されると、アダムズから警告されていた。
そのことも当然念頭に浮かんだはずである。大八処刑の当日四月ニ一日に駿府・江戸・京都など天領における禁教を発令したのは、直臣のうちに不屈なキリシタンを見出した彼の怒りの大きさを物語っている。
緩かった一六一二年の禁教令 P301-302
P301 禁令は当然教会堂の破却を伴う。だが京都においては、許可なしに建てられたフランシスコ会の修道院とイエズス会の上京にあったレジデンシア(布教のための出張所)が取り払われたものの、イエズス会の下京のカーサ(宣教の中心地に置かれる布教本部)と教会は存続が認められた。
所司代板倉勝重はフランシスコ会には無許可を理由に退去を求めたものの、以前家康が滞在許可を与えていたイエズス会には、自由にとどまって集会を開いてもよろしいと伝えた。勝重はもともとキリシタンに寛容であったが、そもそもはこの年の禁令自体がそれほど徹底を期すものではなかったからこそ、彼も温和な処置にとどめることができたのだろう。
伏見・大坂・堺においても、教会施設はまったく安泰だった。大阪の教会はとくに豊臣秀頼に保護されていた。
幕府は九月一日に至って禁令五ヵ条を発し、禁制が大名領においても行われることを求めたが、肥後など従来から迫害が行われていたところを別にすれば、新たに迫害の嵐が吹き荒れたのは有馬領にとどまった。
博多にはイエズス会の司祭二名、修道士一名、伝道士三名がが住んでいたが、領主黒田長政は彼らを追放したり教会を破却したりするつもりはまったくなかった。ただ幕命に従うふりは一応せねばならず、形だけ家臣に棄教を求めるにとどめた。
彼は司祭に手紙で次のように伝えた。
予は領内で禁教を行うよう求められているが、父上はキリシタンとして亡くなったのであり、長政は教会に信者名簿を提出するよう求めたが、断られるとあえてそれ以上追及することはなかった。
霊魂をデウスに委ねるために教会を建てたのだから、領内でキリスト教を禁じたくないし、侍でない者には良心の自由を残しておく。
ただ将軍の命である以上、家臣には禁教を申し渡さないわけにはいかない。すでに一四名が従ったが、それ以外信者が多数いることは承知している
加賀・越中・能登の太守前田利長にも次のような話が残されている。幕府の禁教令が伝わると、利長は領内で封地を与えている高山右近に、せめて表向きだけでも信仰を否認してくれるよう、重臣横山長知をして説かせようとした。
だが横山は「右近は太閤の命にさえさからって所領を棄てた者である。今更そのようなことを承知するはずがない」と言って名を承けなかった。利長も横山の言に理を認めて、右近に転向を迫るのを断念した。
「聖遺物」獲得のため集まった二万の群衆 P302-304
宣教師国外追放令と大久保忠隣の迫害 P304-306
隠して家康の禁教令は、焦点の有馬領においてすら不徹底にとどまったのである。一六一三年の降誕祭を各地のキリシタンは無事に祝うことができた。イエズス会の『年報』はこの年の受洗者を四三五八名と記録している。
だが暗雲は近づいていた。日野江城前の刑場での信徒の振舞いは、やがて家康の耳に届き、嫌悪の念をそそり立てることになる。
P305 一六一三年一月ニ八日、家康は改めて全国を対象とする禁教令を発し、宣教師の国外追放を命じた。その四日後には金地院崇伝の書いた『伴天連追放文』が将軍秀忠の名のもとに布告された。イエズス会の年報によると、この指令は二月一一日に京都へ届いた。
すでに長谷川左兵衛と後藤庄三郎から、家康の怒りが報知され、前年一二月には京都信者の名簿提出が所司代板倉勝重から求められていたので、雲行きがおかしくなって来たのはわかっていたが、宣教師追放に至ろうとは。
しかし、これも秀吉の先例がある。京都にはイエズス会の司祭八名、修道士六名、同宿二○名がいた。会では司祭三名、修道士三名、同宿六名を申告し、残りは大坂や京都近くの村に潜伏させた。申告した司祭以下一六名が京都を発ったのは二月二二日である。
大坂では同地のみならず堺や金沢から追放された宣教師たち、さらには前々年の禁教令以来潜伏していたフランシスコ会士も加わって、七隻の船で長崎に向かうことになった。長崎に着いたのは三月一一日だった。
第一次の禁教令の際は、両国内の宣教師を庇っていた福島・黒田・前田らの親キリシタン大名も、今度ばかりは、江戸からの指令に頬被りをきめこむわけにはいかなかった。福島正則は広島の修院長に書簡を送り、「貴殿らの追放を悲しむ。将軍の命ゆえ致しかたないが、然るべき時にはパードレ方のことを想い出すであろう」と述べた。
前田利家も遂に高山右近を追放した。所司代板倉勝重この段になってもまだ信者に同情を持っており、イエズス会が実数七〇〇〇在京信者のうち四〇〇〇名の名簿を提出したのに対して、一六〇〇名を記載するにとどめた。
しかし、追放令の総奉行大久保忠隣が京都へ乗りこむと状況は一変した。
大久保忠隣は相州小田原の城主、将軍秀忠付きの筆頭年寄にして大久保一族の総帥である。京都における追放令施行の責任者としては大物すぎる観があるが、実はこの任命には裏があった。
忠隣は家康の信任する本多正信・正純父子と対立関係にあった。
忠隣の一族で、一時は家康側近として威権を張った佐渡奉行大久保長安はすでに前年、死没とともに私曲が暴かれて遺産は没収、子息たちは切腹させられていた。
徳川家康44 長安の死・周辺 独眼竜政宗40 長安の死・周辺 (→関連)
本多父子は忠隣の処分について家康の承認をとりつけ、彼を京都へ派遣したあと失脚せしめたのである。
葵徳川三代26 忠隣失脚
従って忠隣の京都駐在は短期間であったが、その間京都のイエズス会施設はすべて破壊され、名簿に登録された一六〇〇の信者は厳しい迫害にさらされた。それまで所司代板倉のもとでも、彼らは棄教を求められていた。
しかしそれは、親族や近所の者から、表面だけでも棄教せよと寄ってたかって説得され、承知しないと罵られるという程度にとどまっていた。親族が勝手にこのものは転びましたと所司代に届けて、名簿からその名を削除してもらい、あとで本人が私は転んでおりませぬと役所へ駆けこむという騒ぎもあった。
しかし忠隣は、棄教を肯んじぬ信者を俵に詰めて街中を曳き廻し、河原にさらすという非常な手段に訴えた。それでも転ぼうとせぬ七一名(京都四七、大坂ニ四)は津軽氏の所領奥州外ヶ浜へ追放された。彼らは津軽候から「慈愛をもって迎えられた」と『年報』は記している。
その他の信者はどうなったのだろうか。『当代記』には「伴天連の門派者ども、京大坂にこれ在る分、この間大方ころぶ」とある。流された七一名以外は表面上棄教したのだろうか。忠隣の迫害は彼自身が改易に処せられたので、一〇日ほどしか続かなかったという。
あとはまた穏和な板倉勝重のもとでうやむやにされたのかも知れない。それにしてもこの度の京方面の迫害は、京都七〇〇〇の信者のうち、名簿に登録された一六〇〇にしか関わらず、迫害の結果が一人も死者を出さなかったのは特筆すべきことである。
家康を激語させた長崎の聖行列 P306-308
教会分裂と「大追放」 P308-309
長崎教会堂破却と高来キリシタン迫害 P310-311
大坂方勝利を願うキリシタン P311-313
しかし、いずれにせよ、長崎キリシタンに手をつける時機ではなかった。大坂にたな曳いていた戦雲はついに動いた。家康が豊臣秀頼に戦端を開き、いわゆる大坂冬の陣が開始されたのである。追放されて行き場のなくなった多数のキリシタンが武士が秀頼方について籠城した。
代表例は宇喜多秀家の重臣であったジョアン明石掃部で、高山右近の家臣も多数加わっていたといわれる。城中には救世主や聖ヤコブを描いた旗六旒が飜っていた。
のみならず、城内にはイエズス会司祭二名、フランシスコ会司祭二名、アウグスティノ会司祭一名がいた。彼らはむろん信者たちに聖務を施すために城に籠もったのである。
戦闘は一時休戦ののち翌一六一五年五月再開され(いわゆる夏の陣)、六月三日落城の日を迎えた。イエズス会司祭バルタサル・デ・トルレスはこの時大坂の街中にある明石掃部宅にいた。徳川勢が市街に侵入し、掃部の母と息女が輿に乗って城内に移ったのち、トルレスは同宿ミゲルと信者ホアンとともに炎に包まれた邸を脱出した。
至る所に死骸が散乱し、抜身の刀や槍を引っ提げた兵士が溢れていた。やがて遭遇した兵士たちにミゲルは斬殺された。トルレスは衣服を奪われ、丸裸にされた。老人で外国人と見たゆえに助命されたのだろうと彼は考えた。
ホアンが襤褸に等しい着物を見つけて来てくれたので、それを着て逃げ道を探した。トルレスは「内府と子息が私の姿を見たと思われる」と書いている。だとすれば彼は家康の本陣の前を通ったのだ。家康はむろん彼を宣教師と認めただろう。
にもかかわらず、逮捕もさせなかったのである。寸断された屍や重傷者の間を二里も歩いた。「パードレ」と呼びかけ、「よくも逃げてこられたものだ」と感心する徳川方の侍もいた。頸に刀が触れ、胸元に槍をつきつけられるような目に何度も逢いながら、彼はホアンに導かれて、夜半やっと泉州和泉城下に着き、そこの信者宅に匿われた。
おなじくイエズス会司祭ファン・バブティスタ・ポーロも大坂の街中に潜伏していたが、トルレスとおなじような目に遭って伊達政宗の前に引き出された。政宗はキリシタンは保護できぬと言って彼を抛り出した。
幸い蜂須賀家の武将が衣服と食物を恵んでくれ、ようやく広島の太守福島正則の重臣佃又右衛門の陣営に辿りついて保護されたのである。正則が一貫してキリシタンに好意的だったことは先に述べた。だがのちに彼も領内のキリシタン取り締まりを強化せざるを得ず、佃又右衛門を明石掃部の次子を匿ったかどで火刑に処すことになる。
P313 村山等安の三男フランシスコは大坂城に籠って戦死したと諸書に描かれて書かれている。だがパジェスの『日本切支丹宗門史』によると、彼は俗間司祭として大坂市内で働くうちに、「襲撃の際一刀の下に斬首せられ」たのであり、戦闘死したわけではなかった。
大坂の役は宣教師と信者たちに、束の間の息継ぎを与えた。彼らに対する監視と迫害が一時的に緩んだからである。彼らの多くは秀頼方の勝利を願い、また信じた。だが京都イエズス会の上長モレホンのように、秀頼は熱心な仏教信者で、彼が勝ったとしても格別いいことはあるまいと考える者もいた。
それよりも、津法令に従わずに日本に残留する宣教師が多数存在するという事実が、この度の戦争で暴露されてしまったことの方が彼には心配だった。
家康はなぜキリシタンを危険視したか P313-316
一六一四年の全国禁教令は、秀吉の不徹底な宣教師追放令と違って、結果的には日本キリスト教界を絶滅に導いたのであるから、その発令の動機と意図については、これまで様ざまに論議されてきた。
直接的な原因としてはまず、家康が信徒の狂信的な振舞いに嫌悪感を抱いたことがあげられる。一六一三年、有馬領で信者が火刑に処せられたとき、群衆が聖遺物として争って遺体を求めた一件が家康に報じられ、彼の激怒を買ったことは先に書いたが、同年には、京都で違法に銀を入手したキリシタンが処刑されたとき、刑場に多数の信者が集まって祈るという事件があり、幕閣に邪教という印象を与えた。
崇伝が起草した禁教令の文言に「刑人あるを見れば、すなわち欣びすなわち奔り、自ら拝し自ら礼し、是を以て宗の本懐となす。邪法に非ずして何ぞや。実に神敵仏敵也」とあって、信者の熱狂的な振舞いが家康と幕府要人に与えた衝撃のほどが察せられる。
また近く、豊臣秀頼の大坂方と開戦が予想され、大阪方にキリシタン武士が与力することを怖れた家康が、P314禁教令を発動して事前に手を打ったのだという説も広く唱えられている.だが煎じつめると、家康はキリスト教が日本の国柄に合わず、国家の秩序と安寧に害をなすと初めから信じていて、その信念が紆余曲折の末、一六一四年に至って確定したと見るのが妥当だろう。
家康は秀吉のバテレン追放令を踏襲し、治世の当初から日本お神仏の国として、キリスト教を拒否する姿勢を示していた。しかしその一方、通辞ロドリゲスを寵愛してイエズス会に金を貸与するのみならず、司教セルケイラ、イエズス会日本準管区長パシオを引見して、あたかも宣教師の活動を容認するかに見えた。
長崎の統治も外町は代官村山等安、内町は高木ら町年寄、いずれもキリシタンに任せた。このようなブレは彼の南蛮貿易への並々ならぬ執着によって説明されるのが普通である。つまり彼はポルトガル・スペインとの交易を維持するためには、宣教師の活動を一定限度で容認するしかなかった。
彼には海外情勢への正確な認識があり、太平洋を越えてスペイン領メキシコと通商する展望まで抱いていた。アダムズやロドリゲス・ツズに好意を寄せたのも、彼らが海外へ向かう知識の窓口だったからだ。西洋諸国が交易と布教を切り離してくれたら、少なくとも宣教を抑制してくれたら、ある程度のキリスト教界の存在を黙認する用意は彼にはあった。
だが、このような家康の黙認は、一七世紀最初の一〇年間を、日本キリスト教界最大の隆盛期たらしめ、信者は三七万人に達した(tw)。
この勢力が大坂城の豊臣氏と結びつくなら、容易ならざる脅威となるのは明白である。
しかも家康には、そういう面の憂慮のほかに、もっと根本的なキリシタンへの疑念があり、交易に布教を絡ませるのを断念しないスペイン・ポルトガルへの焦立ちも加わって、ついに全国的禁教に踏み切るに至ったのだと考えることができる。
その疑念とは、キリスト教は日本の統治理念とはあまりに異質で、しかも強烈な侵略性を持つのではないかというものであったろう。崇伝起草の禁教令に「みだりに邪法を弘めて正宗を惑わし、もって城中の政号を改めて己が有となさんと欲す」というのがそれである。
P315 「政号」というのは政体、国柄といった意味だろう。「己が有となさんと欲す」と言っても、家康はカトリック諸国による直接的な侵略を怖れたのではない。日本は当時極東における軍事大国であって、そのことは家康の自負であるのみならず、軍事的征服による日本のキリスト教化をしばし夢みつつ、その不可能を嘆いた宣教師たちが認めた事実でもあった(参照)。
家康はポルトガル・スペインの侵略性も、宣教師たちの役割もよく承知していたが、現実の武力侵略はまったく怖れていなかった。彼が怖れたのはいわば文化的侵略であって、キリスト教が日本を乗っ取るのではないかと懸念したのだ。
なぜそれは怖るべきであるのか。宣教師たちがもたらそうとしていたキリスト教は、カウンター宗教改革によって一新されたカトリック信仰であって、人間が猿でも馬牛でもないゆえんはカトリック的信仰にあずかることにあり、それゆえその信仰に目ざめぬ人間は人間ですらないという強烈な世界普遍主義を特色としていた。
だからこそ宣教師たちは、迫害によって一命をおとしても、この心理を世界中の人々に伝えようとした。人間はカトリック信仰によってのみ人間たりうるのだから、人間以外の存在に堕ちている非キリスト教の諸民族を何としても救わねばならぬ。
しかも、カトリック信仰はローマ教皇を頂点とする階層組織であるから、それを世界に普及するのは世界をローマ教皇への忠誠によって一元化することを意味する。家康はこのような世界一元化のダイナミクスを、日本における宣教活動のうちに認めて、嫌悪しかつ怖れたのではなかったk。
もちろん、宣教師たちは彼ら自身がフェリペ三世の深化であったから、現世の国家権力、つまり君主への忠誠義務は尊重していた。彼らは日本の領主たちに、家臣はキリシタンになることによって最もよき家臣になると説いて、安心させようとした。
だが、ぎりぎりのところになると、キリシタンの究極的な忠誠は神とその代理人たる教皇に帰着する。つまり君主への服従という現世的価値は、神への服従という非現実的価値によって結局は否定されるのだ。P316家康はむろんこのことをよく承知して、許せないことと感じていたはずだ。
家康が日本は神仏の国というとき、もっと広い意味で、キリスト教という頑固な一神教との違い、コスモロジーから自然観・人間観に至る違いを意識していたことは想像に難くない。しかし、そのような推測に頼らずとも、国家の組織原則にとってキリシタン信仰が危険だという一点で、禁教令の根本動機は尽くされている。
宣教師たちも誤たずそのことを認めていた。ジョアン・ロドリゲス・ジラン(ロドリゲス・ツズとは別人)は一六一四年一二月二三日付のイエズス会総長宛の手紙で、禁教の理由を「レザン・デ・エスタード」すなわち国家理性の発動としている。
国家理性とはマキャヴェリ以来形成された観念で、主権国家がおのれの国益を至高のものとして追及する権利、つまりは国益本位の国家行動を指す。家康の禁教を国家理性の表れと解したイエズス会士はジラン以外にもいる。何が起こったのか、当人たちは承知していたのだ。
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