第七章 パリ講和会議 P198-225
7.1 一等国日本の最初の晴れ舞台 P198-200P198 全権代表の西園寺公望、牧野伸顕以下、随員はのちに外務大臣となる人だけを拾っても、松岡洋右、有田八郎、重光葵、吉田茂などの錚々たる陣容であり、のちの総理大臣近衛文麿の名もあった。(略)日清、日露の戦争にやっと勝ったばかりの日本は、まだまだ世界の田舎者であって、外交の国際舞台で活躍する実力は備わっていなかった。(略)
事実、講和会議の一番大事な交渉では、同盟国英国の老練な外交の力を借りてやっと破局を避けたというのが実情であった。会議の概要は帰朝した西園寺が天皇に上奏した報告のとおりであるが、そのなかでP199西園寺は、三つの主要案件について、最善の努力は尽くしたが日本の希望をすべて貫徹するわけにはいかなかったのが遺憾だった、と述べている。
その三件とは、まず第一に、南洋諸島については単純明快に日本の領土とならずアメリカの強い主張により国際連盟の委任統治地域となったこと、第二に、人種差別撤廃の提案について英国植民地諸国の執拗な反対があって大勢いかんともし難かったこと、第三に、山東問題についてはシナの反対とアメリカ側の一部のシナに対する同情と相まって難航し、ようやく連合国の支持を得たが、シナ側は最後まで条約に調印しなかったことである、と述べている。(略)
7.2 アメリカ外交の建前と本音 P200-202
P200 南洋諸島の帰属については、結果としては、日本は思うとおりのものを手に入れている。問題はアメリカの主張する建前と本音をどう妥協させるかだけの問題だった。ウィルソン大統領は一九一八年一月、上下院両院合同会議における演説で、いわゆる十四ヶ条の綱領を提案した。これが、十九世紀末以来のアメリカの帝国主義外交に区切りをつけ、いまに至るまでウィルソン主義の名で知られているアメリカの理想主義外交の出発点である(tw)。
その第五項では、植民地処分に触れ、植民地処分は公平に行われるべきであるとしたうえで、同時に、植民地住民の利益をも尊重すべきことを提唱した。ついで二月の上下両院合同会議における演説で、ウィルソンは人民や国土は、物のように、あるいは将棋の駒のようにやりとりすべきものではないと述べ、
さらに七月四日の独立記念日の演説では、問題が主権であろうと、政治、経済問題であろうと、これを解決する基礎は民族自決によるべきであり、他国の国家民族が、P201自分の国威国勢を張るためにこれに容喙して実利実益を主張するのを許さないと述べて、こうした過程でアメリカの民族自決の原則は固まっていった。
それはたしかにアメリカの国民向けには格好のよい姿勢ではあった。しかしアメリカの参戦の前に、すでに日英間にアジア・太平洋の領土の戦後処理については密約があり、また旧トルコ領などの分割についても、ヨーロッパ諸国間で密約が成立していた。
委任統治制度というのは、こうした後進諸地域が、まだ民度が低く自立できない場合には自立できるまで国際連盟が面倒を見る建前をとり、ただし、その実際の施政はそれぞれの先進諸国が連盟の委任を受けて行うこととするという制度である。しかし、その実質においては、第二次世界大戦後これらの諸国が独立するまでは、それぞれの先進国の直轄の植民地となんら変わるところはなかった。
ここにもアメリカ政治のひとつの特徴がある。理想主義的な目標は掲げるが、それが現実とぶつかって実現不可能な場合はなんとか格好さえつけば、--もっと端的にいえば、議会と新聞の批判に対して何とか答えることさえできれば、それでよいというところがある。(略)
7.3 人種差別撤廃の提案 P202-205
P202 人種差別撤廃問題では、日本代表はつねにイニシアティブをとった。その背景には、日露戦争前後において、アメリカにおける移民問題も含めて執拗な黄禍論に悩まされた日本の経験があった。第一次世界大戦中の日本では、いまは白人国同士の戦いであるが、それが終わると今度は白人国が連合して黄色人種に向かってくるという危惧さえもたれていた。
P203 一九一八年(大正七)十二月、日本代表団の横浜出港の前日、代表団に手渡された訓令のなかの国際連盟に関する項目は次のようになっている。「国際間の人種偏見がいまだに除去されていない現状を顧みると、連盟の目的を達するための方法いかんによっては、日本のために事実上重大な不利を醸し出すおそれがないとはいえない。しかし、もし連盟ができてしまうのならば日本は連盟外に孤立するわけにはいかない。その場合は人種的偏見から生じるべき日本の不利を排除するために、事情の許すかぎり適当な保障の方法を論じるように務むべし」(略)
P204 当時日本が最も苦しんだのは、アメリカにおける日本人移民への人種差別であったが、それ以前の問題として豪州、ニュージーランド、カナダ、南アフリカなどの豊かな未開発の土地からは日本人の移民は実質上締め出されていた。この問題に一石を投じるのが日本の代表団の意図であった。(略)
ただし日本の議論は、国際連盟に加盟するほどの責任ある国については人種平等であるべきだということであり、すべての人種平等を主張したわけではなかった。ちなみに、反対する英植民地の首相たちの当初の反応は「日本の主張は理解でP205きるが、日本人だけに限らず、シナ人、インド人をも平等に扱わざるをえないのが問題だ」という態度であった。たしかに中国が連盟に加入してくるとなると、そういう問題も生じる。
7.4 激昂する日本の世論 P205-207
7.5 激動の中国大陸 P208-209
7.6 西原借款 P209-212
P211 何らかの効果があったとすれば、その間、段政権は日本とよく協力し、シベリア出兵の際の日華軍事協定などを受け容れていることぐらいであろう。
7.7 石井・ランシング協定の成立 P213-216
7.8 協定成立の背後 P216-219
7.9 再び同盟国英国に救われる P219-223
7.10 二十世紀の二つの新たな潮流 P223-225
第九章 平和と軍隊P259-292
9.1なぜ軍縮が成立したのか P260-2639.2幣原のよき理解者・加藤友三郎 P263-267
9.3山県有朋の死 P268-270
9.4原敬の現実主義 P270-274
9.5帝国国防方針 P274-278
9.6二個師団増設と八・八艦隊計画 P279-281
9.7理論的には正しかった宇垣軍縮 P281-284
9.8反軍思想が昂揚した時代 P284-288
P286 伊藤正徳によれば、当時は「電車に乗るのも軍服では気がひけて、人混みの場所にはなるべく平服で行くような時代であり、名のある女学校の卒業生が軍人のところにはお嫁に行かないというご時勢」であった(tw)。
(中略)
ピゴットの回想によると、「1922年から23年にかけて陸軍に対する国民の尊敬の念が低下したことは興味ある歴史的事実であり、当時日本人は『軍国主義』の意味を知らず、電車に乗ってくる将校も、公共の式典における軍の高官も、すべてこれ『軍国主義』の表示と考えて」いて、ことごとくこれに反発するような風潮だったようである。
9.9近代日本の一つの原点 P288-291
第十章 幣原外交の開花P294-322
10.1原内閣と高橋内閣 P294-29610.2政党政治に対する幻滅 P297-299
P297何がそんなに悪かったかといえば三年一か月続いた原政権の間にデモクラシーの醜い側面、すなわち国益より党利優先、政党員による猟官、利権漁り、汚職、
P298 政党間の足の引っ張り合いなどすべてが表面に出て、世人は政党政治に幻滅を感じたのである。
どれ一つを取っても、現代日本の政党政治ではしょっちゅう新聞紙上を賑わしていることであり、そんなことでいちいち幻滅していたのではとても民主政治などもたないという程度のことであったが、初めての政党政治に対する期待が大きかっただけに挫折感も大きかった。
たしかに、いまの日本の民主政治はよくも悪くも大正デモクラシーとよく似ている。それも当然であり、戦後の日本の政治制度は、大正デモクラシーを復活させるべきだというエドウィン・ライシャワーたちの進言が占領当局に受け容れられてできたものである。
10.3デモクラシー成熟の条件 P299-301
P300
10.4清浦内閣解散と護憲三派の結成 P301-303
10.5「憲政の常道」の時代 P304-306
10.6外務大臣・幣原喜重郎 P306-308
10.7歴史的な外交演説 P308-310
10.8中国内政不干渉主義を貫く P310-315
10.9原則を固く守って断じて妥協しない P315-317
10.10中国の関税自主権回復を支持 P317-320
10.11同情と同時に醒めた観察 P320-322
第十一章 潮の変わり目P324-354
11.1 幣原外交の基礎を侵蝕する国際情勢の変化 P324-32511.2 混乱状態の中国 P325-329
11.3 浸透するソ連共産主義 P329-331
11.4 一九二七年の南京事件 P332-335
11.5 心臓の複数性 P335-339
11.6 田中義一内閣の成立 P339-341
11.7 特級品ではないが超一級品の人物 P342-346
11.8 帝国主義の申し子・森恪 P346-350
11.9 コミンテルンか中国ナショナリズムか P350-354
第十二章 中国統一の気運に直面する田中外交 P356-386
12.1 第一次山東出兵 P356-35912.2 東方会議と田中の対中政策 P359-362
12.3 田中上奏文 P363-365
12.4 蒋介石の第二次北伐 P365-368
12.5 日中関係の転機となった済南事件 P368-372
12.6 張作霖の爆死 P372-377
12.7 ケロッグ=ブリアン条約 P377-380
12.8 田中内閣の退陣 P380-383
12.9 軍部の暴走の発端 P383-386
第十三章 幣原外交の最後の業績 P388-418
13.1 外務大臣に復帰 P388-39013.2 中国とソ連を説き伏せる P390-394
13.3 大正デモクラシーが残した最後の業績 P394-397
13.4 政友会の党略 P397-399
13.5 統帥権の法理的解釈 P399-403
13.6 最大の悲劇となったロンドン条約 P403-406
13.7 行き詰まる内外情勢 P406-409
P408
13.8 マクマリーの観察 P409-412(tw)
P409ここでもう一度虚心に、その時代の考え方に立ち戻って歴史をふり返ってみると、この間の日本外交を冷静な第三者の眼で観察していた一人のアメリカ人外交官がいた。
ジョン・マクマリーは、中国専門家であり、国務省の極東部長としてワシントン会議にも参加し、一九二五年から二九年まで北京の公使を努めた。彼が一九三五年に書いた国務省内部文書は最近、アメリカの学者ウォルドロン氏の著書『平和はいかに失われたか』(相互参照)によって紹介されている。
当時この文書を読んだ人は少なかったが、日米開戦時のアメリカ大使グルーに深い感銘を与え、また冷戦時のアメリカ外交を構築したジョージ・ケナンにとっては極東政策のバイブルとなった(tw)。
とくに、マクマリーの「このままでは日米戦争となり、アメリカは勝つだろうが、勝っても問題はソ連が日本にとって代わるだけであろう」という指摘は、戦後の東アジアの現実を的確の予言したものであり、一九五〇年代のアメリカの指導者にとっては、「そうだったのか」と想いなかばに過ぎるものがあった。
P410 懐妊されたマッカーサー元帥が、この前の戦争は日本の自衛戦争だったと証言したのもそのころである。マクマリーの観察によれば、日本は満州事変までの十年間、ワシントン会議の条文とその精神を守ることにきわめて忠実だった。
これは幣原外交については完全に正しい評価といえる。マクマリーにいわせれば、ワシントン体制(相互参照)が守れるかどうかは、「実際には、中国自身と英、米の手のなかにあった」。
とくに、アメリカは「機会をとらえて、中国の国際的無責任主義には同意できないと非公式に示唆すべきであった」のに対して、アメリカはむしろ中国の主張に同調する傾向であったため、「ワシントン会議の閉会後五年もたたないうちに極東における国際協調の思想はもろくも崩れてしまった」と嘆いている。
マクマリーのメモランダムは、満州事変が終わってしまってから、ふり返って、どうしてこういうことになったのだろうかと事変前の情勢を分析したものであるが、当時の日本の中正穏健な識者たちも同じような感想を漏らしている。
「満蒙問題が新満洲国の建設という結果を見るに至った原因の一つにシナの利権回復熱の緊急性をも挙げねばならない」(矢内原忠雄)
P411「たとえシナの民族統一の願望に同情があったとしても、ちゃんと礼儀を守り、懇願してくるのならよいが、とにかく南満洲の権利は当然シナに帰属すべきだといって既存の権利を取りにくるのでは、こちら側に超人的な善意がないかぎり、ああそうですか、といって承認しえないのは当然である。
まして南満洲の日本の権利はロシアから譲り受けたものであって、英国、フランスのように直接中国から奪取したものではない」(河合栄次郎)
たしかに、当時の国際通念からいって、日露戦争以来日本がかち得た満蒙利権をただで手放すというようなことは、まさに「超人的な」(つまり人間社会ではありえない)利他主義、自己犠牲の精神がなければできないことであり、たとえ何百万分の一かの例外的な個人がそう考えても、それが政治や政策に反映されることはありえない状況であった。
満洲国建国後、日本の世論のなかに満洲国に反対する声はほとんど消え、国際協調主義といえども、満洲国は既成事実としたうえでの国際協調を論じるようになったのは、日本の民意全体が右傾化。軍国化したとか、軍や右翼のテロが怖くて黙ってしまったのだとかいうよりも、むしろ、事変の直前には、これに代わるべき
P412現実性のある政策の選択肢がほとんど失われてしまっていたことを誰もが知っていたからなのであろう(相互参照)。
13.9 中国の革命外交 P412-415
13.10 反旗を翻した在満邦人 P415-418
最終章(第十四章)幣原外交の終焉 P420-454
14.1 満州事変の序曲 P420-423(P420-)
P420 一九三一年(昭和六)の夏に入ると、六月には中村震太郎大尉事件、七月には万宝山事件が起きた。万宝山事件は、長春の西北方に入植した朝鮮人農民が周辺の中国人と衝突し、日中双方の警察隊が出て発砲騒ぎも起こった事件である。また、朝鮮では、その報道---一部誤報---に激昂した朝鮮人が華僑街を襲撃し、平壌では百余名の中国人が殺害された事件である。
もとはといえば、朝鮮人農民が周辺の中国人の十分な了解を得ずに用水路をつくろうとしたのが発端であり、直接の原因が朝鮮人側にあるが、日本側は、これをたび重なる日本人、朝鮮人いじめの一つとして捉えた。
林久次郎奉天総領事に対する幣原喜重郎外相の六月十二日付の訓令は、それまで相ついで起こった日本人に対する暴行事件や日本人の作業妨害事件などを列挙し、中国側官憲が群集の暴挙を取り締まるどころか、それに加担していることを挙げ、「日本の世論は硬化しているので、このままでいくと、また山東出兵の
P421 ようなことになる恐れがある」と厳重に警告している。日本側にいわせれば一九〇九年(明治四十二)の条約で、日本人、朝鮮人は土地を借りて農業を営む権利があるのであるが、中国側は、そういう不平等条約は一方的に破棄したいという立場であった。
それは、日中双方が既存条約を尊重して、日本人、中国人、朝鮮人が等しく経済活動に参加できるような満州にしたいという幣原の考え方を基礎からつき崩すものであった。この事件については、中国側は日本の力を恐れて引き下がったが、幣原の質問の要点についてははっきりした返答もせず、将来の保障はまったくないまま事件は終わった。ここにも幣原外交の行き詰まりが見える事件だった。
14.2 面従腹背の陸軍 P423-424
(P424)
14.3 破局は時間の問題であった P424-426
(P426)
14.4 幣原外交の行き詰まり P427-429
(P428)